Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

私たち(男性側)には何が必要か~『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない

  • 作者: イ・ミンギョン,すんみ,小山内園子
  • 出版社/メーカー: タバブックス
  • 発売日: 2018/12/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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あなたには、自分を守る義務がある。自分を守ることは、口をひらき、声を上げることからはじまる-
ソウル・江南駅女性刺殺事件をきっかけに、女性たちが立ち上がった。今盛り上がる韓国フェミニズムムーブメント。

いまから学んでも遅くはない。一日でも早く、あなたと、新しいことばで、話がしたい
イ・ラン(ミュージシャン、映像作家)

目次
I. セクシストに出会ったら 基礎編

0.あなたには答える義務がない ― 話すのを決めるのはあなた
1.心をしっかり持とう ― 性差別は存在している
2.「私のスタンス」からはっきりさせよう ― フェミニストか、セクシストか
3.「相手のスタンス」を理解しよう ― セクシストか、フェミニスト
4.断固たる態度は必要だ ― あなたを侵害するものにNOを
5.あなたのために用意した答え ― なにもかも「女性嫌悪」!
6.効果がいまひとつの言い返し ― セクシストに逆効果な対応とは

II. セクシストにダメ出しする 実践編

7.あなたには答える義務がない、再び ― きっぱり会話を終わらせる方法
8.それでも会話をつづけるのなら ― 誤解している相手との会話法
9.いよいよ対話をはじめるなら ― あなたを尊重しはじめた相手との会話法
10.話してこそ言葉は増える ― 練習コーナー
11.ここまでイヤイヤ読んできた人のためのFAQ


この本クラスの衝撃はしばらくないかもしれないという、「強い」一冊でした。
タイトルに「フェミニスト」と入っているように、韓国でも盛り上がっているフェミニズムに関する本で、『82年生まれ、キム・ジヨン』の絡みで手に取ってみましたが、「家に置いてある本を長男が先に読む」という最近のパターンにこの本もばっちりハマりました。
ところが、『キム・ジヨン』を読んだときは、神妙な顔をして男女差別の問題点に向き合っていた よう太(中3)は 、この本については、「自分はセクシスト(性差別主義者)でもいい!」と、苛々した様子を隠さなかったのです。それほどに強烈な内容です。


読んでみると、確かにその通りで、この本は基本的に男性に向けては書かれていません。
キム・ジヨン』は、自称フェミニストの男性も読める隙があった(そして最後に「お前もだよ!」と糾弾される…)のですが、この本では、最初から最後まで男性陣はずっと非難の対象となります。
そもそも、女性嫌悪が原因の江南(カンナム)駅殺人事件がきっかけとなって「声を上げ始めた」女性、そしてまだ「黙っている」女性を鼓舞するために書かれたこの本の立場として、男性にも理解者はいる、というスタンスを少しでも見せてはならないのだと理解しています。
つまり、男性側の、いかにも分かっている風の「説得」を受けて(不満を抱えたまま)黙り込んでしまうような女性に対して、女性であるあなたは、(相手の言うことは無視して)あなた自身が差別を受けたと感じている、その経験だけをもとに声を上げていいのだ、と伝えようとしているのです。「個人の経験」に勝つ男性側の意見や説得は、そもそもあり得ないのです。
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この本のスタンスを理解するには「はじめに」と11章(最終章)を読むといいと思います。

  • この本でたくさんの読者を得るつもりはこれぽっちもありません。これを書いていた頃、私は、話し相手から必死に共感を得ようとすることに、もううんざりしていました。なので本書には、不親切に感じられるところが多々あるかもしれません。しかし、韓国で女性を含むマイノリティとして生きてきた方なら、この本を読むのに必要なくらいの直観はすでにお持ちでしょう。性差別を受けて一度でもくやしい思いをしたことがある方なら、最後までつかえることなく読み進めることができるはずです。(p14)
  • この本は理論書ではありません。会話につまったとき使えるマニュアルだと思ってください。世間に山ほど出回っている「とっさの旅行会話ベスト100」みたいなものと思っていただければいいのです。本書では、「女性が経験する差別」をめぐる会話だけをご紹介します。(p16)


女性として生きている「あなた」は、すでに「直観」を持っているが「ことば」を持っていない、そこに必要なのは「勉強」ではなく「ことば」なのだ、というのがこの本のスタンスです。フェミニズムについて「勉強」したいと考えている男性(当然、女性としての「直観」を持ち合わせていない)は、読者として全く想定されていません。


したがって、この本の面白いところは、そもそも対話を開始することを前提としていない、ということです。女性が、性差別に対して男性を「説得」するのは「善意」であり、そこでの苦労を女性が強いられるのは筋違いなので、どの部分をとっても「答えない」「相手にしない」という選択肢が常に示されます。
そのうえで、実際に対話をした場合にも、「兵役を果たさないのに権利ばかり主張する」と文句を言うステレオタイプから、「俺は断じてセクシストではない」と言い切る理論派まで一刀両断にぶった切り、まさに「とっさの旅行会話ベスト100」の様相を呈しています。

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p165図
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p178表
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p196


11章の「ここまでイヤイヤ読んできた人のためのFAQ」がとても強烈で、この章だけを読んだ男性は皆イヤな想いをすると思いますが、どれもAmazonレビューなどで短い言葉での批評として書かれやすい内容なので、先回りをしているのでしょう。

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p204

この本を読んで、最初は、ここまで対立を煽るのはどうか、とも思いましたが、そもそも「性差別」は「性対立」ではなく不平等です。その不平等を、格差を埋めていくために、女性には「ことばが必要だ」ということなのでしょう。
それでは男性には何が必要なのでしょうか。最初に書いたように、女性に備わっている(差別の体験などを踏まえた)「直観」は、男性は持っていません。
月並みではありますが、常にそのことに意識的になって、謙虚に相手の言うことに耳を傾ける。勿論、できるだけひとりでも勉強は続ける、そうしたことが必要なのかなと思いました。

あの映画と比べると不満が…~『名探偵ピカチュウ』

 


【公式】映画「名探偵ピカチュウ」WEB用プロモ映像②

 

とても残念だった『バースデー・ワンダーランド』を見た5/1の2日後に封切りとなったこの映画。
完全に色物扱いをしていたところ、意外にも知人も世間一般の評判も良く、何より、ピカチュウが可愛すぎるという声も大きいので気になりっぱなしでした。それでも、今から観たい映画も溜まってきているし、ここはスルーして次に向けて踏み出そうとしていたのですが、ちょうど、土曜日に立川で時間が取れることになり、これも運命かと立川シネマシティで字幕版を鑑賞してきました。

 


結果を言うと、×でした。
正直言って、地下での闇ポケモンバトルあたりまではとても良かったのです。
自分の知っているキャラクターも沢山登場し、特にバリヤードを「拷問」するシーンは爆笑しました。バトルシーンも良かったし、ギャラドスに進化するコイキングも良かったです。
出演していることを知らずに見たので、渡辺謙が登場するのも嬉しかったし、コクーンタワーや新宿、上野など日本の風景がそこかしこに見えるライムシティの描写も気に入りました。
でも、それ以降が…。
最もダメだったのは、それほどピカチュウが可愛くなかったところ。
これは映画が悪かったのではありません。5/3以降の2週間、観たいなあと思い続けた僕の頭の中のピカチュウは、可愛さ大爆発のもふもふモンスターになっていたのですが、映画で見るピカチュウはその妄想を超えることが出来なかったのです。
勿論、ピカチュウ以外のポケモンが概ね気持ち悪かったところもポイントです。先ほど爆笑したといったバリヤードや、ベロリンガコイキングなど、表情と質感が「可愛い」よりも「怖い」ベクトルに偏っているし、ひたすら挙動不審なコダックも準主役の相棒と思えないほどでした。


そして、他の人がどう思うか分かりませんが、個人的に評価を下げざるを得ないのは、今年観た映画ではNo1の『スパイダーマン:スパイダーバース』との類似点が多いこと。
-主人公が白人ではないこと。
-父と息子の物語が軸にあること。

-ビルの立ち並ぶ都市が主な舞台であること
-男性主人公が守るべき相手ではなく、共に戦う仲間としてヒロインが登場すること。
-序盤で、主人公が街なかで敵に追われるシーンがあること。
-敵の秘密を探りに山奥の秘密基地に潜入するシーンがあること。
-クライマックスがビル街の空中戦であること。

そう考えた時にスパイダーバースとの比較で感じざるを得ない不満点は以下の通り。
-主人公ティムの年齢がよく分からないこともあり、結果として彼の内面を想像できず共感しにくい。(スパイダーバースでは、モテたい・認められたい・強くなりたい=ヒーローになりたい、と中学生である主人公の悩みが明確)
-パレードに乗じて起こした騒ぎなど 黒幕ハワードの目的がよく分からない。(スパイダーバースではキングピンの求めているものが明確。かつ、悪人にも良心あり、と思えるポイント)
-そして、敵(ハワード)の圧倒的強さも見えないので勝利の爽快感がない。(スパイダーバースでは序盤でプラウラーがフィジカルでの圧倒的強さを見せ、終盤のドクター・オクトパスとキングピンも時空の歪みを操るほどに強い。)
-主人公の成長があまり見られない(主人公の成長が全編に渡って描かれていたスパイダーバースとは対照的)
-にもかかわらず、ルーシーとの恋愛が進展する。(スパイダーバースでは、マイルスがグウェンに恋心を抱いているような描写もあったが、結局、恋愛はとりあげず、とにかくマイルスの人間的成長に的を絞って描かれている)
これらがことごとく曖昧だったり、見せ方が悪かったりするため、ミュウツーが実は敵ではなく仲間だったり、息子のロジャーが黒幕と見せかけて父親のハワードが黒幕だったり、悪いロジャーはロジャーではなくメタモンだったり、ピカチュウには実は父親の精神が入っていたり等の物語上のツイストがことごとく不発だったという印象です。 (個人的な感覚です。メタモンの登場は嬉しかったですが…)


なお、帰ったら、映画を未見のよう太(中3)に、「ピカチュウはお父さんだった?」と聞かれました(笑)。確かに、モンゴルマンの正体がラーメンマンであるくらい、このことは自明で、でも、それを「やっぱりそうだったんだ!」と感動させるくらいの何かがなければいけなかったと思いますが、観た感想としては、「別にその設定、なくても良かったのでは?」と思うほど拍子抜けでした。
自分の理解力がないのかもしれませんが、ミュウツーが、ピカチュウの記憶を奪って、お父さんの精神をそちらに移した理由とかもよく分からず、すべてに渡って腑に落ちませんでした…。
ゲームと連動しているようなので、あまり自由に脚本を作れなかったのかもしれませんが、面白そうなところは多数あったので残念です。
『スパイダーバース』よりも前に観たらもう少し評価が高かったかもしれません。
『バースデー・ワンダーランド』と『名探偵ピカチュウ』、2作続いて不満の多い鑑賞になってしまい残念です。何か自分の精神状態に問題があるのかも。
次回は、もっと温かい目で鑑賞できる精神状態と作品選定を心がけます。

 

 

 

名探偵ピカチュウ - 3DS

名探偵ピカチュウ - 3DS

 

 

気功、尾崎豊、フェミニズム~森岡正博『完全版-宗教なき時代を生きるために―オウム事件と「生きる意味」』

宗教なき時代を生きるために

宗教なき時代を生きるために

この本で、私が執拗に追い求めたのは「オウム真理教とは何であったか」という問いではなく「オウム真理教の時代を生きなければならない〈私〉とは何か」という問いである。なぜなら、オウム真理教事件が我々にほんとうに問いかけているのは「オウムとは何か」ということではなく「オウムを見てしまったあなたとは何者なのか、あなたはあしたからいったいどういうふうに生きていくのか」ということだからである

森岡正博については、『感じない男』を何度か読み返していますが、まさに、上に引用した「はじめに」に書かれているような問題意識を持った方です。
つまり、この人の語り口は、テレビ番組のコメンテーターのように、「いたましい事件が起きました」とか「こういう人は許せません」など、紋切り型で「他人事」のスタンスとは正反対で、すべて自分の責任の中で、自分の行動を振り返り、反省するように書かれます。
その「逃げない」姿勢は、読み手としてはスリリングで、途中は、森岡正博は、これからどうなるんだろう?と好奇心でページをめくり読み進めるのですが、最後に読者は自身に向き合わなくてはならなくなります。
当然、 著者からの読者へのメッセージとして 、自分の頭で考えることを求めているからです。


また、この人の正直なところは、自分の限界も常に認めていることで、これが「あとがき」に強く表れています。この態度は、受け取り方によっては、とてもドライです。

この本はこれで終わるわけだが、きっと読者の頭の中には、数えきれないくらい多くの疑問が渦巻いているにちがいない。
たとえば、自分の目と頭で最後まで考えていこうと言うが、世の中にはそういう重荷に耐えることができず、誰かに答えを出してもらったり、誰かにすがることで解決したいと思っている人もたくさんいる。そういう人たちは、じゃあ、どうすればいいんだ。そういう人たちに向かっても、自分の目と頭で最後まで考えろと言うのか。
まず、この疑問に対しては、次のように答えたい。
そういう選択肢を選びたい人たちに対して、私は、自分の目と頭で考えることを強制したりはしない。そういう人たちがどうすればいいのかについて、私は何の答えも持っていない。それがこの本の限界である。

このあたりまで含めて、他にはない特徴的なスタンスに自分は惹かれます。
そしてその人柄に憧れます。自分もこのくらい物事を深く考えたいといつも思っています。
以下、目次ごとに、印象に残った部分をまとめます。

第一章 宗教なき時代を生きるために

第一章では、科学と宗教について考えていく。私は自然科学によって真理を知ることができると考えていた。だが実際に大学で専門的な学習を始めるとそれが誤りであることが分かった、真理を求めていた私は宗教へと接近した。しかし私の前には「信仰」という大きな壁が立ちはだかった。私は科学からも宗教からも拒まれてしまったのだ。
(2018年版に書かれた冒頭文章。以下同じ)

森岡さんは1977年に東京大学の理科Ⅰ類に入学しました。これは入学年は30年以上離れていますが『彼女は頭が悪いから』の男性側主人公(であり蔑むべき人間)であるつばさと同じ学部になります。
この2冊の本では、それぞれ大学入学後の学生たちの様子が出てくるわけですが、自分の想像する理系大学生のイメージに近いのは、森岡さんの方です。オウム真理教の事件が起きた1994年当時は、ちょうど自分も理系大学生だったので、入学時は森岡正博と同様のオウム事件「以前」。オウム事件前後で大学と宗教の距離感は変わって行った可能性もあるかと思っています。
実際、類が友を呼んでいただけなのかもしれませんが、大学に入学した頃の自分の周囲には、『彼女は頭が悪いから』のつばさのようなタイプは見当たらず、イケてない(でも真面目な)人が多かったように思います。自分も含めて何かあれば宗教に傾きそうなタイプも多かったに違いなく、新勧時期は盛んに「原理研に注意」と警告を受けていたにもかかわらず、セミナーを聞きに行ってしまった人もいました。
その意味で、非常に共感しながら読みました。

第二章 神秘体験とは何か

第二章では、神秘体験について考える。神秘体験はオウム真理教にとって決定的に重要である。私が経験した「神秘体験」と「閉じた共同体の罠」についてこの章で詳しく述べる。「我々だけが正しい」という甘い蜜がいかに形成されるかを読者は知ることができるだろう。

この章は、この本の真骨頂かもしれないと思います。自分には「神秘体験」と言えるような経験はなく、オウムのそれは、インチキだとか、薬物による幻覚だと考えて、特に気にも留めていませんでした。
しかし、森岡正博は、神秘体験こそが重要と説きます。そして、自身が体験したヨーガの瞑想からの「神秘体験」と、一時期入っていた気功の共同体における活動についてが語られます。
この章は、オウムのような新新宗教に入信してしまった人の「目を覚ます」ことを目的として書かれている意味合いが強い内容です。自身の経験をもとに 「神秘体験」自体は、修行や信仰などと直接関係がなく、呼吸などの訓練で独力でも得ることが出来るものであり、教祖に分け与えてもらうものでもなければ、教祖を信じる根拠となり得るものでもない、ということが繰り返し説かれます。
この意図が分からないと、「気功」の話も含めて、本を読んでいる自分自身が何かの宗教の勧誘を受けているのでは?という気にさせてしまう、奇妙な、でも真に迫った章です。
「社会を変えれば世界が変わる」という学生運動が消滅した80年代日本では「私が変われば世界が変わる」というエコロジー運動が台頭した、という話はとても分かりやすかったですが、2000年代以降は、もしかしたら「何をしても世界は変わらない」という諦観に満ちているのかもしれないと思ってしまいました。

第三章 癒しと救済の罠

第三章ではオウム真理教と同時代に活躍して夭折した歌手、尾崎豊について考える。尾崎は一貫して「生きる意味」を追い求めた歌手だった。しかし彼はやがて観客たちの期待を一身に担い、彼らの殺意までをも抱え込むことになった。この救済の罠は、カルト宗教においても見られる。

ここでも森岡さんは、社会現象としての尾崎豊ではなく、一人のファンとしての目線から尾崎豊を語ります。実際のアルバムや曲名、具体的な歌詞の解釈があり、尾崎の曲は数曲しか知らない自分にとっても、とても読み応えのある内容でした。
「ロックコンサートに行ったことのない人がこれを聴くと、たぶん、新新宗教か何かの集会の様子ではないかと感じてしまうかもしれない」と語られる、尾崎の死の数か月前に行われたライブステージの様子を収録したアルバム『約束の日』は、折角なので聴いてみたいです。

第四章 私が私であるための勇気

第四章では、オウム真理教の信者だけではなく、私たちのほとんどが絡め取られているところの、見たくないものを見なくてすむようにする巧妙な仕組みについて考える。この「目隠し構造」は社会のあちこちに、そして私たちの心の隅々に仕掛けられている。そこから抜け出すために何が必要なのか、その道筋を追い求めていく。

「目隠し構造」というのは、かつての出家僧が、酒のことを「般若湯」と言い換えたり、オウム真理教で言えば殺人をポワと言い換えたりすることで、法や道徳を違反している現実を見なくて済むようになってている仕組みのことを指します。
さらに、オウム真理教側の目隠し構造だけではなく、「こちら側」の目隠し構造についても書かれています。特にフェミニズムを例に説明された部分が印象に残ったので、かなり長いですが引用します。

フェミニズムというものに最初に接した男性は、フェミニズムの主張を次のように理解するだろう。すなわち、「いままでは男性が女性を支配することによって社会が運営されていた。しかし、これからは、男性と女性が真に対等で平等な関係を保出るような社会に、変わらなければならない。そういう社会を求めて行動しているのがフェミニズムである」。
たしかに、この「 」のなかの主張それ自体は、フェミニズムが言ってきたことである。それは、大枠では間違ってはいない。だから、男性がフェミニズムの主張をそういったものとして理解するのは正当である。しかし大事なのは、この「 」のなかの主張が、フェミニズムの主張のすべてではないということだ。この「 」のなかの言明では、フェミニズムの主張の半分しか表現されていない。
なぜならフェミニズムの主張と言うのは、「 」のなかの言明という形では、言いたいことが半分しか伝わらないという、そういう種類の主張だからである。
では、この言明の裏に隠されている、フェミニズムの残り半分の主張とはいったい何か。それは、「 」のなかのことを理解したそのあなた自身が、いまこの瞬間から、自分の身のまわりの女たちに対して、どのように関わっていくつもりなのかということなのである。そしてこの点が、男性たちにもっとも伝わりにくいのだ。なぜかと言うと、それこそが、男性たちがもっとも<直面したくない>メッセージだからである。だから男に伝わりにくいのだ。

それに直面したくない男性知識人や学者たちの一部は、むしろ積極的にフェミニズムという思想に理解を示し、それを学習し、それについて議論をしようとする。そうすることによって、フェミニズムからの問いかけが、あたかもさきほどの「 」のなかの命題だけにあるのだというふうにみんなで錯覚できるのではないかと期待する。それに直面したくない男性ほど、フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする。
p210

この感じはとても分かります。まさに自分が“ フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする”人間だからです。そして、『82年生まれ、キム・ジヨン』のラストがそうであるように、フェミニズムに理解を示すタイプの男の典型的な行動なのかとも思います。これが怖いのは、「理解を示す姿勢」そのものが「目隠し構造」になっていることです。おそらくこれはフェミニズム以外の事項にも当てはまるのでしょう。


森岡正博は、「目隠し構造」と絡めて、自らが目指す「ほんとうの自分」について以下のように述べます。

「ほんとうの自分」とは、目を閉じて自分を真っ白にしていくことによって獲得されるのではない。「ほんとうの自分」とは、目を見開いて、見たくないものをどこまでも見てゆくプロセスのなかで、そのつど立ち現れてくるものなのである。(略)
だが、自分がはまっている目隠し構造を、自分ひとりだけの力で発見し、取り除くのは至難の業である。(略)
だから、自分がはまっている目隠し構造に出会うのは、私が他者とはげしく深いやり取りを行なう、その道筋においてである。あるときは他者のほうから暴力的に私はそれを突きつけられ、またあるときは、私が他者へと介入してゆくその過程において私自身によって発見されるだろう。

こうした目隠し構造に気がついて、自分を変容させることのできる「勇気」が必要である、ということが、4章最後に、ということは、この本のまとめとして書かれています。
さらに、そういう「勇気」を、ひとりで保ち続けることはできないので、「勇気」を持つことを励まし合ってゆける人々の節度ある距離のネットワークが必要だとしています。
このあたりは、最初に引用した「あとがき」に書かれているよう、すべての読者に考え方を強制するものではない、としている部分になります。
ということで、強制されてはいないわけですが、考え方(理想論)としては分かりますが、なかなか難しいというのが実感です。
第一に、思索をめぐらす時間がない、という至極現実的な部分があります。
第二に、勇気も持てそうにない、という部分があります。
そして、最後に「ほんとうの自分」にこだわる必要がないのではないかという部分があります。
「ほんとうの自分」について、少し説明を加えます。
4章の最初にオウム真理教を題材にした本として宮台真司『終わりなき日常を生きろ』と橋本治『宗教なんかこわくない!』を取り上げ、このうち宮台真司が主張する「終わりのない日常をまったりと適応して生きてみよう」というメッセージにダメ出しをします。

この現実社会に適応しようと、いろいろ試行錯誤したのだが、やっぱり「まったり」と生きることを選択できず、生きる意味と絶対の真理を求めてこの社会を後にしたのが、オウム出家信者なのであり、その予備群なのである。つまり、宮台のこの処方箋は、生きる意味と絶対の真理を求めてオウムに入ろうとしている人々の耳には届かないのだ。
(略)
もっとはっきり言おう。
宮台の「終わらない日常をまったりと生きろ」という主張は、この私のこころを、まったく動かさないのである。p191

ここも、森岡正博宮台真司の差が大きく出ていて面白いですが、自分の気持ちは、理想論を推し進めすぎるよりも、実利的な宮台真司の意見の方に傾きます。
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』でも「ほんとうの自分」を探す無意味について語られていましたが、そこに入り込む必要を感じません。
さらに、「ほんとうの自分」を探して悩む姿を見るにつけ、むしろ、森岡正博が最初に捨てた「信仰」という「不自由」が、むしろ実利的なのではないかと思ったりします。生き方の教科書としてのコーランがあるイスラム教は、不自由だからこそ「楽」(考える必要がない)という思いもあるのです。
しかし、自分を覆う「目隠し構造」に常に意識的になり、他者から指摘にはよく耳を傾けなければならないという指摘は、ほとんどの人に当てはまる重要な内容だと思います。そして、「目隠し構造」に目を向け、正していく「勇気」はやはり必要でしょうこの本が最初に出版された1995年から四半世紀が経ち、その間にインターネットが普及したことで、「考える」機会はどんどん減っている気がします。そんな中で、森岡正博さんの書く「考える」で満ちている文章を読み、改めて、自分を見つめ直すいい機会になりました。
少し経ったタイミングで、今度は『無痛文明論』も読んでみたいです。

無痛文明論

無痛文明論

約束の日 Vol.1

約束の日 Vol.1

約束の日 Vol.2

約束の日 Vol.2


参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

キレない人も知っておきたい~田房永子『キレる私をやめたい』

『母がしんどい』の田房永子が今まで誰にも言えなかった深刻な悩み――それは“キレる"こと。
あなたも家族や彼氏にこんなことしてませんか?

・頭に血がのぼってヒステリーをおこす
・後先考えずに物を投げたり、破壊したりしてしまう
・泣き叫んでわめき散らしてしまう
・つかみかかったり、ビンタや肩パンチをしてしまう
・思わず子供を叩いてしまう
・イライラして暴言を吐いてしまう
・怒りが抑えきれず、裸足で外に飛び出したことがある

理性を取り戻したあとに毎回、自己嫌悪。
私って、本当にダメな人間なんだ…。
いいえ、違うんです。
あなたは傷つきすぎているから、キレてしまうのです。
キレることに苦しんでいた私が、穏やか生活を手に入れるまで――。

この本を読んで改めて思うのですが、田房永子さんは、漫画表現以上に文章が上手いと思います。
巻末で「おわりに」として2ページに渡って、この本を描くに至った経緯が書かれていますが、これがとても分かりやすいし、田房さんらしい視点に満ちていると思います。特に、子を産んで、我が子を殴るようになるのは絶対イヤと思っているのに、子どもへの暴力に対する世間のまなざしに違和感を覚える部分。

しかし実際、子育てを始めてみると、「母親が子どもに暴力を振るう」ことは、ゆるやかに許されているということを肌で実感するようになりました。(略)ある時は、著名な教育者の後援会に行くと「子どもに手を上げてしまうことで悩み過ぎないで。何をされても子どもはお母さんが大好きだから、大丈夫」とトンチのような言い回しで会場の母親たちを励ましていました。母親たちは目に涙を溜めてウンウン、とうなずいていました。
そうやって、具体的な対処法ではなく「そのくらい大丈夫」「子どもだってわかってくれる」という曖昧なフレーズで母親による子どもへの暴力を見逃すというのは、いまの育児の現実の一つであると断言していいと思います。

勿論、だから母親が悪いというわけではなく、父親の責任や公的扶助の仕組みが見逃されており、そういった歪みを子どもが被るようになっている社会が変なわけですが。
田房さんは、子どもに暴力は絶対に振るいたくないし、勿論夫への暴力も、すぐにキレることもやめたい。それなのに、誰もそれを「間違っているよ」と言ってくれない、対処法の本がない、という問題意識からこの本を出しています。実際、Amazon評では、その部分(誰も言ってくれる人がいなかった)に共感している人が多いようです。


一方で、この本の問題点は、対処法として挙げられているのが、ひとつの手法(ゲシュタルトセラピー)に限定されていることでしょう。巻末解説では、日本ゲシュタルト療法学会前副理事長の岡田法悦さんが対談形式で説明していますが、宣伝めいているので、これを嫌がる人が多いのは分かります。
ただ、類書が無い中で、田房さんが個人で探ってこの方法に辿り着いたという点や、カウンセリングを受けること自体を勧めているのではなく、「キレる私をやめたい」人向けに、どのような考え方をすればいいか、についてヒントが書いてあるのはいいと思いました。
特にセラピーの基本的な考え方として、人には「状況」と「心」があり、普段、人は「状況」同士で話をしているが、セラピーでは、相手の「心」に注目する、と言う話は、相談を受ける側としても使えるテクニックと言えるし、田房さん自身がそうしているように子育てでも有効な手段です。(基本のキなのかもしれませんが)
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また、基本的には夫が常識的で優しい人として描かれており、田房さん自身の非常識度合いが際立つので、田房さんにイライラしてしまう部分もあります。
特に、自分が夫に暴力を振るっているのに、キレて、「夫に暴力を受けた」と警察に電話してしまうエピソードなどは、本だから読めるようなものの、知人からそういう相談を受けたらドン引きです。
ただ、『ママだって人間』のとき(夫は怪しい雰囲気)と異なり、『母がしんどい』のときの絵柄に寄せているのは、「夫に共感を、田房さん自身には反感を」という計算ずくでの描き方なのだと思います。
Amazonレビューで「ヒステリー女は子供を産むな」と書いている女性がいるなど拒否感を抱く人も多いのでしょうが、ここまでダメなところをさらけ出すことで、「自分だけじゃない」「自分はここまでじゃない」と救われる人がいる。それだけでもこの本の存在意義は大きいと思います。


最も重要なことは、田房さん夫婦がまさにそうですが、夫婦で協力して解決すべき問題だということです。その意味では、ひとつ前に読んだ『うつ病九段』など、他の病気にも共通して言えることです。田房さん×ゲシュタルトセラピーの組合せだから改善したのではなく、田房さん×田房さん夫だから改善したのかもしれません。

参考(田房永子さんの著書感想)

pocari.hatenablog.com
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結局は当人が取り組まなくてはならない問題ではあったとしても、周りが傍観者を気取らず、適切な距離で支えていく必要がある。と思えば、「キレる」問題は「キレない」人も知っておくべきテーマだと思いました。

うつは心の病気ではない~先崎学『うつ病九段』

10連休のGWもいよいよ最終盤を迎え、出社するのが嫌になる、だけでなく、休みが明けてから自分はちゃんと普通の生活に戻れるのかと不安になる。
うつ病は、そんな気持ちの延長上にあるんだろう、と何となく思っていたが、この本を読むと全く違うようだ。そもそも、うつ病で休んでいる人は周りで見てきているが、その時の話を聞いたことがない。また、うつ病についての本を読んだこともない。自分はこれまで何となくのイメージで「うつ病」を捉え、それで理解していた気になっていたのかもしれない。うつ病は心の病気ではなく脳の病気ということすら知らなかった。


この本は、2017年から2018年にかけて、棋士先崎学九段が将棋を休んでいたおよそ1年の記録であり、うつ病当事者が、回復過程を細かく書いている点で、実は珍しい本だという。(また、本人が書いているように、「治りかけ」の時点から書き出しているので、本書の前半では、接続詞が多用されるなど、やや文章が拙いとのこと)
この期間は将棋界で以下のように色々なことが起きたが、いずれも自分は興味を持って追いかけて来たので、とても身近に感じながら読み進めることが出来た。

  • 「不正ソフト使用疑惑事件」を受けた将棋連盟会長および一部理事の辞任
  • 藤井聡太4段(当時)の快進撃
  • 3月のライオン』の実写映画化


何より、先崎学九段は、自分にとっては、何より漫画『3月のライオン』の監修を務め、コミックスではコラムを執筆されている方で、その点でも親しみを持っていた。その流れで『聖の青春』の村山聖と対戦したこともある羽生世代の棋士であることも知っていた。コラムを読む限りは、将棋一本というよりは、おそらく多様な視点を持てている人で、その時点で「うつ病」にはならなさそうなタイプの人だと思っていた。


ところが、まさに『3月のライオン』実写映画のためのプロモーションで駆け回り、 「不正ソフト使用疑惑事件」への対応で毎日議論を重ねていた2017年6月に突如「うつ」がやって来た。

  • うつっぽいのとうつとは違う。前者は表面的に暗いだけだが、後者は無反応。あらゆる感受性が消えてしまう。(p156)
  • なかなか本や活字が読めない。意味を追えなくなる。(p31)
  • ひどい不眠に苦しめられる(p49)
  • 死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低く、すぐに自殺を選ぼうとする。(p13)

周りから見ても症状はまず「表情」に表れるらしい。先崎九段の兄が精神科医だったこともあり、この兄と奥さんの協力により、先崎九段はすぐに入院することになる。
この本は、「うつ」状態からの回復過程が書かれているので、それを読むことで「うつ」がどういう状態だったのかも推し量ることができる。
例えば、入院後2週間で久しぶりに物を食べて「美味しい」と感じ、同じタイミングで「エロ動画が観たい」と思う場面が典型的だが、生きるための、楽しんで生きるためのエネルギーがゼロの状態が「うつ」ということだろうか。本書の中では繰り返されるが、ある程度回復が進むまで「退屈を感じない」のだという。脳がリラックスできない状態が継続している(p126)のだろう。
ちなみに、先崎九段が慶応大学病院入院中に一番多く行った外食はカレー屋の「メーヤウ」だという。(まだ行けてない…)


途中で、兄からのアドバイスにも出てくるが、うつに効くのは「散歩」だという。

医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ!(p66:精神科医の兄の言葉)

自分が週末、遠出して主に公園や神社を巡りながら走っているのは、実感していたが、体力的な部分というよりはメンタル的な部分に効いているんだろうというランニングの効能を裏付けられた思いだ。


さて、この本は「棋士」がどうやって「うつ」から回復するかという話なので、ある意味で回復過程がわかりやすい。
そもそも手を全く読めず、前に指した手を覚えていられないので、将棋を本格的に指すのは難しい状態の10月(退院後2か月)に、詰将棋の問題集(9手詰から13手詰)に取り組んだときのエピソードが印象深い。以前は30分で100問全問を解いていたレベルのものに対して、はじめの1問が解けずにギブアップし、7手詰でもダメだったのだ。この話を知るだけでも、うつは心の病気ではなく、脳の病気であることがよく分かる。
その後、回復が進むと、詰将棋が解け、将棋も勝てるようになってくる。当時、羽生さんから王座を奪った中村太地七段*1とのエピソード(王座就位パーティには必ず行くという約束など)も面白い。
しかし、弱肉強食の世界にまた帰らなくてはならない隔靴掻痒の感じも出ていて、とても読ませる文章だった。


この本を書くことになったきっかけは、精神科医の兄からのススメによると言う。
先崎兄は語る。

人間というのは、自分の理性でわからない物事に直面すると、自然と遠ざかるようになっているんだ。うつ病というのはまさにそれだ。何が苦しいのか、まわりはまったくわからない。いくら病気についての知識が普及したところで、どこまでいっても当事者以外には理解できない病気なんだよ。(略)
うつ病患者というのは、本当に簡単に死んでしまうんだ。(略)
うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから、絶対に自殺だけはいけない。死んでしまったらすべて終わりなんだ。だいたい残された家族がどんなに辛い思いをするか。(略)
究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ。
p173

先崎学九段は 17歳からプロ棋士として活躍されていることもあり、かなり人生の先輩のように感じるが、1970年生まれ(羽生さんと同い年)で、自分とは4つしか違わない。プロ棋士という厳しい世界で生き残っているだけでなく、全国の障害者施設、老人ホーム、刑務所などへの慰問で各地を飛び回っているというので、自分のようなサラリーマンとは全く違った感覚で日々を過ごされているのかもしれないが、そんな中でも「うつ」が来るのだ。
これを知ると、どんな働き方をしていても「うつ病」になることは避けられないのだろう。これまで、あまり関連書を読んでいなかったが、(類書は少ないとのことだが)もう少し他の本も読んでみたい。

*1:中村太地七段は、NHKで夜にやっていた NEWS WEBというニュース番組で水曜の司会をしていたことがあり勝手に親しみを感じている。先崎九段にとっては米長邦雄棋聖の弟弟子にあたる。

満足度200%のドイツミステリー~セバスチャン・フィツェック『乗客ナンバー23の消失』

乗客ナンバー23の消失

乗客ナンバー23の消失

事件解決のためなら手段を選ばぬ囮捜査官マルティンのもとに、5年前に豪華客船「海のサルタン号」船上から忽然と姿を消した妻子にまつわる秘密を明かすという連絡が届いた。相手がマルティンを呼びだしたのは、因縁の客船。そこでは2か月に船から姿を消した少女が忽然として出現。さらなる事件が次々に起きていた。

ニューヨークへ向かう客船の中で走り出す複数のプロット――。船の奥底に監禁された女と、彼女を詰問する謎の人物。娘の忌まわしい秘密を知って恐慌を来たす女性客。何者かとともに不穏な計画を進める娘。船室のメイドを拷問する船員と、それを目撃した泥棒。船の売却を進める船主と、船の買い手である中米の男も乗船しており、マルティンを呼びだした富豪の老女は「この船には恐ろしい秘密が隠されているのよ……」とささやく。

この客船の中で何が起きているのか? からみあう嘘と裏切りと策謀――真相はめくらましの向こうにある! そしてあなたが「一件落着?」と思ってから、ドイツ・ミステリー界最大のベストセラー作家が腕によりをかけて仕掛けた意外な真相のつるべ打ちが開始される!

面白い。
内容紹介の言葉通り、最終盤の「意外な真相のつるべ打ち」がたまらないミステリー。


物語は、いくつかの話を軸に展開する ので、最初は掴みにくかったが、そこに乗っかることが出来さえすれば、あとはノンストップ。
ブレーキの利かないトロッコ列車に乗せられたように、次々とイベントが生じて、最後まで進んでしまう。
そして、惹き文句の通り 「一件落着?」と思ってから、さらに展開するのが、よくできたエンタメ小説になっている。
特に良かったのが、「悪い奴」が「余らない」こと。先日の劇場版名探偵コナン(紺青の拳)の不満点は、黒幕は捕えたけど、一番悪い奴が報いを受けていない…と感じられたことだったが、この小説では、「悪い奴」数名が、すべて罰を受けることになり、エンタメ小説として満点だと思う。
以下ネタバレ。

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小6の娘は楽しんでいたけど…~原恵一監督『バースデーワンダーランド』


映画『バースデー・ワンダーランド』90秒予告【HD】2019年4月26日(金)公開


最初にまず結論を書くが、今回の映画は楽しめなかった。
あまり予備知識を仕入れないまま見に行き、全体像が掴みづらかった。直前に15キロランニングをして、おにぎり1つを食べつつ劇場に滑り込んだ、等、さまざまな要因が考えられるが、前半では少しウトウトしてしまったことが大きい。
楽しめなかった理由を、そこではなく、映画の見せ方の部分に無理矢理、見出してみよう、というズルい考えが今回の文章となる。
したがって、映画を面白く感じた人は読まない方が良いと思う。
なお、小6の娘は大変楽しんで見てくれたようで良かった。


異世界に入り込んで問題を解決して戻って来る話という、ざっくりとした括りでは、劇場版ドラえもんに似た設定と言える。
しかし、ドラえもんと比較するとどうしても粗が目立ってしまう。劇場版ドラえもんの話の展開パターンを5段階に分けて考えてみる。

  1. 異世界への迷入、仲間との出会い
  2. 異世界での問題確認(不安、恐怖)
  3. 異世界での問題解決
  4. 異世界からの脱出、仲間との別れ


1.の段階は導入部となる。バースデーワンダーランドは、原題の通り、地下室の扉が異世界の入り口となっているが、この時点では、ドラえもんと大きな違いはない。しかし、冒頭のシーンで、アカネが小学生なのにiPhoneのメッセージ機能(LINE?)を使って、友だちと連絡を取り合っているのは、自分にとってはちょっと嫌だった。また、それなりに背もあるので、パジャマ姿の彼女が小学生に見えず、混乱した。(ランドセルを背負った姿は、高校生のアカネが昔を思い出しているのか、と勘違いした)


2.の段階は、解決すべき課題、倒すべき相手が明確になる部分。ここで主人公が感じる「不安」や「恐怖」にどの程度感情移入できるから重要となる。ドラえもん映画では、しばしば、この段階で、のび太が元の世界に引き返すことが出来るようになっている。それでも、のび太は、異世界に住む人々を見捨てることは出来ず「覚悟」を決めて、異世界に飛び込んでいく。この世界を救うのはのび太にしかできないのだから…。
ここが、バースデーワンダーランドに圧倒的に欠けている部分だと思う。第一、アカネが何故「緑の風の女神」として選ばれたのか、アカネにしか出来ないことが何なのか?がよくわからない。主人公の「覚悟」も見えないから感情移入もしにくい。どこにフォーカスを当てて、何を楽しみに待って映画を観ればいいのかが分からない。


3.の段階は、バースデーワンダーランドが美しく精彩に富んだ映像で、観客を楽しませたかった部分で、自分も好きなシーンは多いが、2が弱かったため、全体的にぼんやりしてしまった気がする。ドラえもん映画であれば、このときに異世界の住人との触れ合いのエピソードが多々あるが、それが少なかったことも、映像とは逆に、物語が精彩を欠いた理由かもしれない。


4.の段階は、通常、劇中で最もカタルシスを得られる部分だが、これまたバースデーワンダーランドが失敗している部分と言える。ここで解決した問題はいくつかあるが、そのどこにもカタルシスを得られない。

  • 行方不明だった王子が見つかる。
  • 「しずく切り」という儀式が成功する。
  • これらの過程で主人公が重要な役割を果たす。

なぜカタルシスが得られないのかと言えば、2の「恐怖」や「不安」が不明確なため、それらの解決もまた不明確だからである。
特に、今回、前半で悪の象徴だったザン・グとドロポが悪さをする理由がよくわからなかったので、彼らの正体が王子と魔法使いだったことが分かっても「へー、そうなのか」くらいにしか心が動かなかった。
そんな風にして突如登場した王子が、魅力的に感じられるはずもなく、初対面のアカネと共同作業で「しずく切り」をする展開も感情に入れ具合が分からない。(そもそも、ザン・グの時点で、顔の醜さを嘆いていた王子が、本来の美しさを取り戻して正気に戻るのは、「結局見た目かよ」という反感しか生まない)
さらに、「しずく切り」自体が、どうなれば失敗でどうなれば成功なのかもわからないまま見ているので、どちらの結果が出ても、どう反応すればいいのか分からない。
アカネは、「前のめりのイカリ」というアイテムを渡すことで、王子に手助けするが、これを渡すのがアカネでなければいけない理由もよく分からなかった。
というように、様々なことが積み重なり、「クライマックスで絶対に泣く」という松岡茉優がのお墨付きとは裏腹に、何処で泣けばいいのかが分からないまま、すべてが過ぎていった。


最後に5.の段階。自分がドラえもん映画で一番好きな場面かもしれない。しかし、バースデーワンダーランドでは、この「別れ」の部分はかなりあっさりしていて、ここも涙の出番なし。
だけでなく、向こうの世界での1日はこちらの世界で1時間、前回「緑の風の女神」が来たのは600年前(こちらの世界で25年前)という重要なことが最後にヒポクラテスから明かされる。ということは、アカネの母が、いわば「先代」だったことが判明するのだが、ここにもあまりフォーカスされない。冒頭で感じた、アカネの母への違和感(この家だけあまりにカラフルな花が咲き誇っていることや、突然ブランコを漕ぎだす母親の少女趣味っぽい感じ)は、彼女が、一度向こうの世界に行っていることが理由なのだが「あ!そうだったのか!!」という気づきによる喜びは全くない。


ということで、金魚に乗って池の中を進むシーンや、ラストのサカサトンガリの街の風景は大好きなのだが、物語として惹かれるものが少なかった。
やはり2の部分でかなり寝てしまっていたのかもしれないのでちょっと反省。
松岡茉優と杏の声優起用について問題に感じている人も多いようだが、そこが映画の面白さに影響しているのかどうかは自分にはわからなかった。
映画鑑賞の際に、「どこにフォーカスを当てればいいか」ということは、実はかなり重要なポイントで、映画のせいなのか自分のせいなのかにかかわらず、それが曖昧であれば、映画を楽しめないということを痛感した映画体験になった。


なお、川沿いの景色は多摩川左岸の二子玉川付近だろうか。
川沿いにあるイタリアンレストランも久しぶりに行ってみたい。


原作はこちら↓

新装版 地下室からのふしぎな旅 (講談社青い鳥文庫)

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