Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

共感されない物語でいてほしい~図野象『おわりのそこみえ』


ポップな表紙デザインとは対照的に不吉なタイトル。
よく見ると、フォントまで不吉さを増幅している。
で、タイトルが『おわりのそこみえ』
そこみえ?
底が見えたのか?見えているのか?
いずれにしても、底まで行ってしまう話なんだろう。


実際読み始めてみると、語り手は、既に「底」にいるように見える。

コンビニに駆け込んでおろしたお金に、例えば消費者金融のマークが大きく書かれていたとしたら、ちょっとは借金のことを真剣に考えるのかもしれない。 
あら、この子借金したお金でコンビニのおにぎり買ってるわ、若いのに恥ずかしくないのかしら、しかも女の子、いやあねえ、なんてレジのおばちゃんに思われて。でもきっとそんな恥ずかしさにも慣れるんだろう。
昨日、ベッドに寝転がってスマホで借り入れの申し込みをするときもなんの感情もなかった。操作方法にも虚無感にも慣れ切っていた

さらに、読み進めると、ある種の「無敵」状態を、彼女・美帆の刹那的な考え方から何度も感じてしまう。こんな人が周りにいたらどう話をすればいいんだろう。

  • 去年もタクシーから同じような風景を見た気がする。今日と同じように借金をしてタクシーに乗ってバイトにいった。日当七千五百円のバイトに遅刻しそうだから二千円払ってタクシーに乗る。週のうち三日はタクシーに乗っているし、結局だいたい遅刻する。こんな生活を数年間続けているなんて正気じゃない。借金を返すための労働のはずなのに、借金をするために働いているみたい。バイトは辞めたいし今すぐ死にたいのに、借金があるから仕方なく生きているなんて笑っちゃう。(p5)
  • 「あのさ、その『死にたい』もファッションみたいなものでしょ?SNSとかではとりあえずそう言っておくの。死にたいな、って。わかる?そういう女子はそうやって生きてくの。死にたいって言いながら生きるの」 (p9)
  • 女はかわいければ人生楽勝イージーゲームみたいなこともよく聞くけど、そうではない人間もいる。私はそのイージーゲームに難解なステージをわざわざつくりだしてゲームオーバーをただ待っている。人生がコンティニューのない仕 様だったことは唯一の救いかもしれない。(p13)
  • 人生は配られたカードで勝負するしかないと聞くし、仕方のないことだけど、私はどうやって勝負すればよかったんだろう。外見がかわいいというカードを擦り切れるまでつかうくらいしか方法がなかった。でもかわいい一本で勝負した結果がバカで、後先考えられなくて、メンヘラくそビッチで、買い物依存症だなんてね。てへ。(p28)
  • 実際返済の目途は立たないし、先のことは考えたことがなかった。例えば風俗で働いてAVに出てたんまりお金を稼いだとしても、きっと今より借金は増えると思う。借金をする人間というのはそういうものなのだ。だから死ねばいいか、と思っていた。どん底まで落ちたら死ねばいい。悲しくも怖くもない。痛いのは嫌だけど、全部仕方のないことだと思う。(p59)


読み直してみると、「何も起きない純文学」ではなく、短い時間で色々なことが起きる飽きない展開だし、明るい要素もたくさんある。
そもそもこういった悲劇の主人公には「殺したいほど憎い親」がつきものだが、彼女の両親は、ダメで弱いが「悪」ではない。
物語を通じて「家族」を取り戻すシーンすらある。


それでも物語の最後には「そこみえ」が控えている。
マッチングアプリで出会った男とホテルに行き、トイレから戻ると財布から現金を奪われていたことに気がついたときに、突然、死が「見え」てしまう感覚が怖い。

でももう面倒だった。イッツマイライフだと思った。もう死ぬときがきたのだ。それを先延ばしにする理由はない。こんなにもわかりやすく死期が示されると思わなかった。目の前にはっきりと地獄への道が開かれた。(p127)

ナムちゃんのような「親友」や、宇津木のように、肉親以外で、明確に自分の味方になってくれる新しい「家族」を得ても、結局、美帆の気持ちは変わらない。冒頭の呟きに書かれているような思考を、毎日毎日繰り返しているうちに、そこから離れられなくなってしまった。
このような生き方・考え方の若者はそれなりにいるのかもしれない。
そもそも社会に期待していない。未来を信じていない。
そして自分に自信もないし、努力もしたくない。
そんな時に、たまたま「事故」を起こしてしまったら…。
そう考えると、美帆の「おわりのそこみえ」感覚は、特に若い世代には意外と多くの共感を得てしまうのだろうか?
日本の若者の多くが「こんな刹那的なこと」を考えていないよね。

かなり不安になってしまいながら、正体不明の著者図野象のインタビューを読んでみた。

web.kawade.co.jp


やはり男性だったか、ということ以上に1988年生まれの35歳で、それなりに年齢が行っていることに驚く。
作品内に充満する刹那的感覚は、20代のものかと思っていたが、30代の作家でしたか。
また、インタビュー記事を読んで、この本を作るきっかけが「買い物依存」の記事だと知り、納得した。この「ノーフューチャー」感覚は、世代由来のものではなく、買い物依存の人の感覚ということか。ここで改めて冒頭の文章を読み返して、最初からこの本は「買い物依存の主人公」の物語として読むべきでは無かったか、と恥じる。
ただ、学生時代からの唯一の友人だった「加代子」との関係を見ると、美帆の「ノーフューチャー」には、買い物依存と別に「親ガチャ」要素が垣間見える。彼女には「加代子を見返してやる」という感覚も嫉妬もなく、ひたすらに差を受け入れて諦めている。


そのように色々と書いていて、美帆のような人を救う救わない、というよりも、
こういう考えの人が多い社会は、とても「治安が悪い」に違いない、
だから治安をよくするために、美帆のような「ノーフューチャー」感覚の人たちを減らさなければ。
という利己的な考えが、自分の中に渦巻いてきた。(こんな読まれ方で良いのだろうか)


「親ガチャ」という言葉に代表される格差の問題や、「買い物依存」に政治や福祉はどうアプローチするのだろうか。
このあたりは、どんな問題があり、どんな対策が取られているのか関連書籍も読んでみたい。



関心を持たざるを得なくなるドキュメンタリー映画~『ビヨンド・ユートピア 脱北』

映画を観に行くシチュエーションというのは自分には2パターンあって、見る映画が完全に決まっている場合と、映画を観に行く日と時間だけ決まっている場合がある。
映画が決まっていない後者の場合でも、常に観たいストックはたくさん貯めているので、あまり迷うこともないのだが、今回は少し違った。

  • 公開日で前評判の高い「52ヘルツのクジラたち」は当然候補に入っていたし、こちらも公開3週目で継続して評価の高い「夜明けのすべて」。気分次第ではこれらを選んだが、邦画を見る気分になれない。さらに、元々、本屋大賞関連作には警戒感があり、避けることに。
  • 第一候補「ストップ・メイキング・センス」を観に行くなら時間的に渋谷のシネクイント。元々激賞されていたIMAXではないのは諦めるとして、「4Kレストア版」なのに「※当館では2K上映となります。」と書いてあるのが気になって、優先度が落ちる。
  • 先日のアトロクでの宇多丸評が高かった「梟」は、歴史も関連しているということでかなり最後まで迷ったが、良い時間のものが無く、泣く泣く選外。
  • マ・ドンソクが日本で暴れ、青木崇高も登場する「犯罪都市3」。これは良さそうだけど、1,2を観ていないので…。
  • さんざん悩んだ挙句辿り着いた結論が、1月公開で存在を忘れかけていた「ビヨンド・ユートピア脱北」。ただ、いつも座席を選ぶときに参考にしているサイト「東京映画番長」で、シネマート新宿のスクリーン2(7階の方)について、「スクリーンが小さく見づらいです。ホームシアターのレベルです。」「鑑賞自体おすすめできないスクリーンです。」と、激渋の評価がされていて不安になるが、もう自分にはこれしかないんだ!


で、結論としては、さすが俺!と自分を褒めたくなった。
今不足していたのはドキュメンタリー成分だったということに気がついた。
先週最大限の期待を持って観た「落下の解剖学」が、その期待には見合わなかったので、今、フィクションを観ても面白い(と思える)ものに出会える自信が無かったというのもあり、そんな自分にピッタリの作品だった。

感想

脱北を試みる家族の死と隣り合わせの旅に密着したドキュメンタリー。

これまで1000人以上の脱北者を支援してきた韓国のキム・ソンウン牧師は、幼児2人と老婆を含む5人家族の脱北を手伝うことに。キム牧師による指揮の下、各地に身を潜める50人以上のブローカーが連携し、中国、ベトナムラオス、タイを経由して亡命先の韓国を目指す、移動距離1万2000キロメートルにもおよぶ決死の脱出作戦が展開される。

あらすじの補足について、パンフレットの森達也(映画監督、『福田村事件』等)評から抜粋する。

でもその日を待てない。 だから脱北する人たちは少なくない。過去に成功した女性。自分は成功したが息子が強制収容所に入れられた母親。そして現在進行形で脱北しようとしている5人の家族とこれを援助する韓国人牧師。本作はその4つの視点が交錯しながら展開する。
特に中国からベトナム、さらにラオス、タイと逃避行を続ける五人の家族については、まさしく今目の前で行動しているかのようにリアルだ。いやリアルで当たり前。ドキュメンタリーなのだ。でもなぜこれを撮れたのかと思いたくなるシーンが続き、まるで劇映画を見ているような気分になる。

「なぜこれを撮れたのか」、本当にその通りで、どうやって撮影したんだよ!と突っ込みたくなる映像の数々が挟まれ、編集も上手く、息を付けないようなスピード感がある。(パンフレットで、ブローカーたちに撮影を依頼したことが明かされている)
今回、特に巧みだと感じたのは、メインの家族の脱出行(ロさんの5人家族での脱北)が、別で進行中の脱北失敗事例(ソヨンさんの事例)と並行して描かれること。
ソヨンさんの事例では、北朝鮮に残してきた息子の脱北失敗の原因はブローカーの裏切り。ロ一家もあらゆる場面で複数のブローカーの協力を得ており条件は同じで、ブローカー達の気が変われば、作戦は失敗必至の状態だ。そのせいで、最後にメコン川を渡ってタイに入るまで全く気が抜けない。

しかし、彼らの脱北を直接指示するのは、我らがヒーロー、頼れるキム牧師。脱北者である妻とのなれそめの話を「妻の一目惚れ」(北朝鮮には太った男は金正日しかおらず、太ったキム牧師は金正日に見えた)と笑いながら言い切る姿は、自信とユーモアに溢れ、信頼できる人間に映る。

毎日何本もの相談の電話を受けながら、ロ一家の脱北には直接同行する、という、まさに体を張った支援には驚くばかり。過去の脱北支援の際に首の骨を折ったエピソードも笑いながら話していたが、ジャングルでの激しい疲労状況も含めて、よくもそんな無茶を…と観ながらとても心配になってしまうほどだった。
シンドラーのリスト』のシンドラーもこんなタイプの人だったのだろうか。

北朝鮮での生活と「脱北」

映画を観て、これまで北朝鮮がどういう国か理解どころか、あまり想像したことが無かったことに気がついた。
ロシアや中国など厳しい情報統制のある国のことは知っているから、北朝鮮も似た感じの状況かと思い込んでいた。例えば、スマホもある現代では、少なくとも都市に住む人たちは(北朝鮮の)外の情報についても、ある程度は把握しているのだろう、と高を括っていた。

しかし、映画を観ると、北朝鮮国民が、自分の国がユートピアだと信じているのは、国外の情報が完全に遮断されているからこそであることがわかる。


映画の中で描かれる北朝鮮の日常で驚いたことはとても多い。

  • おそらく郊外ということなのだろうが、上水道整備が行き渡っていないようだ。脱北者であるキム牧師の奥さんは(北朝鮮での生活を思いだすと)麺のゆで汁を「捨てられない」と言っていたし、ロ一家の父親も、水の確保がひと仕事だと説明していた。
  • そして下水道も同様で、水洗が普及していない。便は肥料として使えるよう、桶に貯め、定期的に袋などに詰めて学校や職場に持って行くのだという。隠し撮り映像で実際のトイレの様子も映っていた。
  • ロ一家は、親戚の脱北が原因で、マークされるような立場だったというから、元々厳しい生活を強いられていたのだろう。毎日、生活のために路上に物を売りに出かけていたのだという。なお、パンフレットにもあったが、配給制度が崩壊してからは、その日暮らしのような暮らしをする人たちが増えたようだ。
  • 罪の重い犯罪者に対して、見せしめのために公開処刑(銃殺刑等)を取ることが多いようだ。(その映像もあった)
  • 罪の軽い犯罪者に対しては、収容所施設(ソヨンの息子が連れていかれた場所)というのもあるようだが、それ以外の処罰の方法の話も強烈だった。何もない山の上で車を下ろされ毛布さえ取り上げられ置いて行かれるのだという。古い時代から使われている「流刑地」のような場所があるようだ。
  • また、家には金正恩金日成肖像画を飾り、抜き打ち検査でホコリがついていることが分かった場合は刑罰に処される。また、キム牧師の奥さんが、「金日成に似ているから」キム牧師を一目惚れしたように、彼らのことを美的にも優れていると洗脳させられるようだ。ロ一家の2人の娘にも洗脳の成果がよく表れていた。

そして、その洗脳ぶりに驚き、辛くなるのが、ロ一家のおばあちゃん(80代)の様々な発言だ。そもそも彼女は「国のことを信じているから脱北したくなかった。でも、毎日お金を要求され、暮らしていけず、出るしかなかった」と、北朝鮮に未練がある。
その上で、「なぜ金正恩将軍は、あれほど若くて賢いのに、日々の暮らしが良くならないのか。国民が怠けてしまうせいだ。」というようなことを脱北中にもカメラの前で繰り返していた。
最後の方で、やっと「こんなことだったら、もっとおしゃれがしたかった」というようなことも言っていて、やっと洗脳が晴れたのか、と少し安心した。彼女の場合は80年以上も洗脳され続けていたのだから、それを解くにも時間がかかるということだろう。
ロ一家の父親(50代?)も、脱北後の生活を幸せに感じながらも、「もう時間を取り返せない。やり直したくてもかなわない」と辛そうにしていたのが印象的だった。
彼らの話を聞いていると、「脱北」は、場所的な脱出、だけでなく、時間的な脱出=未来方向へのタイムスリップの意味がとても大きいように感じた。日本で言えば、1945年から現代に来たくらいのインパクトがあった。

コロナと脱北、ベトナムラオス

映画の最後では、キム牧師が、いつものように電話を受けながら、「今は難しい」と脱北の相談を断るシーンが映し出される。ロ一家の脱北直後にコロナ対策が厳しくなり、映画で描かれたような北朝鮮から中国国境を越えての脱北は相当難しくなってしまったのだという。
なお、今回の脱出行は、北朝鮮→中国→ベトナムラオス→タイ→韓国というルートを辿り、実質的なゴールはタイ入国だ。確かに、中国で捕まれば北朝鮮に強制送還されるというのは感覚的にわかる。しかし、ベトナムラオス北朝鮮寄りなのか、という、東アジアにおける、いわゆる地政学的な状況に改めて気づかされた。
最後にラオスからタイに入る際にメコン川を渡らなくてはいけないという地形と関連づけた地理的イメージも含めて、非常に勉強になる一作でもあった。

北朝鮮という国

本作の監督はアメリカ人のマドレーヌ・ギャヴィン。彼女のインタビュー記事は、なかなか示唆に富んで面白かったので、一部を引用する。
fansvoice.jp

(以下はマドレーヌ・ギャヴィン監督の言葉)

  • もちろん、飢饉やミサイル発射、生活苦といった一般的なニュースは見聞きしていましたが、あの国に2,600万人の人が住んでいることや、実際に彼らの生活がどれほど大変なのかという、その“質感”のようなものは全く分かっていませんでした。
  • 例えばロ一家の祖母は、キム政権の発信する情報を全身全霊で信じていました。アメリカや日本が敵だということを心底信じていたわけですが、私たちとして知り合うことで、我々は同じ人間であることを肌で理解しました。

つまり、プロパガンダは勿論、ニュースでの情報では、実際の“質感”は伝わらない。もっと言えば、身の回りにいる人のことは、かなり精度の高い“質感”を持って捉えることが出来るが、知らない異国の地に住む人や生活については、何かの機会がなければ伝わらないし、「おばあちゃん」がアメリカ人を毛嫌いしていたように、何らかの偏見に染まりやすい。
そこを打開するのがドキュメンタリーの役割ということだろうし、自分がドキュメンタリーに期待することを、マドレーヌ・ギャヴィン監督が言葉にしてくれた気がする。


その一方、アメリカ人監督が危機感を持って知りたい、伝えたいと感じた北朝鮮の状況について、「隣国」日本に住む自分が、これまで無関心に過ごしていたことを恥ずかしく思った。(あれだけ、横田めぐみさん等拉致被害者の報道を目にしているのにもかかわらず)

映画で描かれるような生活を北朝鮮国民の多くが続けているのであれば、もうこの国は持たない。遅かれ早かれ大きな問題が生じてもおかしくない。そのときに日本にどのような影響があるのか、どう対処すればよいのか。
地震津波、洪水などの自然災害と同様に、北朝鮮の崩壊や、突然の武力行使なども、(政治レベルでは論じられているのだろうが)一般市民として、もっと関心を持っておくべき話題であると感じた。

これから読む本、見る映画

まず、映画の(当初の)原作本であり、映画にも登場するイ・ヒョンソの著作。

また、同時期に出版された脱北者による著作。(よく比較もされているようだ)

さらに、『かぞくのくに』をはじめとするヤンヨンヒの映画と著作。


もう一つ、北朝鮮の収容所を扱ったアニメ映画。

トゥルーノース [DVD]

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  • ジョエル・サットン
Amazon


非常に大量の「あとで読む」候補が出てしまい、嬉しいですが困惑もしていますが、とにかく興味を持つことが重要ですね。


ミステリ要素の配合が巧い短編集~古矢永塔子『ずっとそこにいるつもり?』


5編から成る短編集で、共通するのは、作中で伏せられていたことが、○○だと思っていたら実は××だった、という一種の叙述トリック
ただ、どれも日常生活の中での人間関係を扱っており、事件要素、謎解き要素はゼロで、ミステリを読んでいる感じがしないまま、最後に種が明かされる。
先日読んだばかりの古谷田奈月『フィールダー』(傑作!)に続いて「こや」繋がりの著者は、『七度笑えば、恋の味』(文庫化の際に『初恋食堂』に改題)で小学館主催の第1回「日本おいしい小説大賞」受賞というミステリとは関係のない経歴をお持ちで、やっぱりミステリ畑の人ではないからなのか、日常とミステリ要素のバランスが絶妙だと感じた。


冒頭に挙げたように、「○○だと思っていたら実は××だった」という作品集なのだが、「○○だと思っていたら」とい部分に、いずれも、ある種のステレオタイプが利用されており、そこが上手い。
中でも1編目「あなたのママじゃない」と5編目の「まだあの場所にいる」は秀逸なだけでなく、大好きな話だった。
「あなたのママじゃない」は、最後まで読むと、仲良し夫婦の話かと思っていたら、共に夢を追いながら結婚した夫婦のうち、片方だけが軌道に乗り、もう片方は生活のために夢を諦めるかどうかという決断に迫られる話であることがわかる。
そこにさらに従来の男女の役割の逆転(つまり妻が稼いで夫が家事をこなす)が加わると、男性側が辛くなってしまうというのは、よくわかる。ちょうど先日観たフランス製作の映画でほぼ同じテーマ(かつ同じシチュエーション)を扱っており、「理想の男性像(有害な男らしさ)に苦しめられる男性」というのは世界共通の話だ。
ただ、見かけとしては、嫁姑問題がテーマだとミスリーディングさせて話が展開し、最終的には嫁姑問題も上手い着地を見せる。前向きに終わるので読後感もよく、あの映画より全然完成度が高いじゃないかと感じた。(ネタバレになるので映画名は伏せます)


5編目「まだあの場所にいる」は、女子校での教員生活15年目の女性高校教師が主人公。
問題児のいるクラスに入ってきた転入生をめぐる一悶着の話なのだが、これもルッキズムというメインテーマがありながら、語り手の教師の母娘関係や、高校生時代の辛い思い出話が挟まれて、最終的には、まだとどまっていたあの場所から、自分を解放するという前向きな終わり方で、締め方もすがすがしい。

彼女のダンスが終わったら、迎えに行かなくてはいけない。もう取り壊された旧校舎の、薄暗いトイレでうずくまっている自分を。この手でドアをこじ開けて、外に連れ出してやらなければいけない。
観客がどよめく。倉橋美月が、信じられないほどの軽やかさで跳躍する。ははっ、と西条が笑う。こんな場所で、若くはない女ふたりが並んで涙ぐんでいる姿は、きっと滑稽だろう。それでも杏子は、もう恥ずかしいとは思いたくなかった。


一番緻密に作られているのは、かつてコンビを組んでいた漫画家の相棒が8年ぶりに戻ってきて…という3編目「デイドリームビリーバー」。これは読後に最初に戻って読み返したくなる話で、意図されているミスリードの通りに読まされて、意図通りに驚かされた。これもお気に入り。

なお、短編集だが、表題作はなく、5編に共通するテーマとして出会いや別れ、変化を『ずっとそこにいるつもり?』に込めているのだろう。もちろん5編目の「まだあの場所にいる」とも呼応している。*1

これから読む本

せっかくこの本に出会ったので、次は、これまで興味が無かった「日本おいしい小説大賞」の本も読んでみたい。基本的に新人発掘の場ということで、これまで3回の受賞者とも経歴が面白い。第2回受賞作『私のカレーを食べてください』、第3回『百年厨房』、ともに、ガイドやレシピ本としての実用性もあるようで、興味が湧いてきました。


*1:ということで巧いタイトルなのだが、どうしても岡村靖幸『どんなことをして欲しいの僕に』の語りの部分を思い出してしまう。(最終的にパンツの中でバタフライをしたくなっちゃう曲)

「誰か」とは誰か?~宮部みゆき『誰か Somebody』

菜穂子と結婚する条件として、義父であり財界の要人である今多コンツェルン会長の今多嘉親の命で、コンツェルンの広報室に勤めることになった杉村三郎。その義父の運転手だった梶田信夫が、暴走する自転車に撥ねられて死亡した。葬儀が終わってしばらくしてから、三郎は梶田の娘たちの相談を受ける。亡き父についての本を書きたいという姉妹の思いにほだされ、一見普通な梶田の人生をたどり始めた彼の前に、意外な情景が広がり始める――。稀代のストーリーテラーが丁寧に紡ぎだした、心揺るがすミステリー。


先日ビブリオバトルで、自分が川上未映子『黄色い家』を紹介した同じ日に、他の方が「残酷な現実に打ちひしがれる小説」と紹介していて興味を持った宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』。
これがシリーズもの(杉村三郎シリーズ)で、その一作目がこの作品、ということで読んでみた。


宮部みゆき自体は『火車』『龍は眠る』『レベル7』『魔術はささやく』など初期作品は読んだが、そのあと全く読まず。ブログ内では、『本所深川ふしぎ草紙』の感想が(2度!*1)あるが、それ以外は本当に読んでいないので、現代を舞台にした小説は四半世紀ぶりくらいだ。

ハードボイルド小説としての『誰か』

読んでみると、驚いたことに、読中の印象が『黄色い家』と似ている。
すなわち、なかなか話が展開しない。
あらすじにも謳っている通り「ミステリ」を読んでいるはずなのに何故?と思いながらページをめくるが、やっぱり物語がなかなか始まらない。
458ページで終わる小説の380ページ目に、杉村三郎が4歳の娘に読み聞かせている『スプーンおばさん』の一節が引用されているが、まさに、ネコの言う通り、これ以降で、やっと「意外な真相」+「予想外の展開」がスタートする。

「『ああ、やっと時期がきた』と、ネコがいいました。『あたしはなん日ものあいだ、 まって、まちつづけていたけど、やっときょう、その日がきたんです。あたしのせなかにおのりなさい。そうして、すぐにでかけましょう』
おばさんがせなかにとびのると、ネコは、雪をけたてて、かけだしました」  
p380

『黄色い家』の感想では、このように「何も起こらない」代わりに何が物語を埋めているのかと言えば「予感」だ、と結論付けたが、今回、もちろん「予感」はありながら、淡々と杉村三郎による調査が進む。
ところが、圧倒的に「獲れ高」が少ないのがこの小説の特徴だ。
梶田信夫の死亡事故をもっと探ろうと警察を訪れてたらい回しにされた挙句、手ぶらで帰ることになった杉村三郎自身のぼやきが面白い。

受付なんかを通していては駄目だということがわかった。
テレビのサスペンスドラマに出てくる探偵役の男女は、もっと効率よく動いている。彼ら彼女らには、たいていの場合、懇意にしている警察官がいて、また上手い具合にその警察官が事件捜査の中核を担っていたりする。
p95

小説を読み始めて一番驚いたのは、まさにこの設定で、「杉村三郎シリーズ」なのに、杉村三郎が探偵でも刑事でもなく、義父が束ねるコンツェルンの広報室の平社員であること。
この設定では、今回の小説は書けても、2冊目、3冊目は書けないだろう。しかもビブリオバトルで紹介された本は短編集だったはず。
一体どうやって、広報室の職員が、数々の「事件」に携わっていくのか。この本を読み終えた今でもそのからくりがわからなくて、早く続編が読みたいという気持ちを強くしている。


解説では杉江松恋が、そんな杉村三郎の役回りについて以下のように論じる。

「この事件は~である」という結論を出した瞬間に事件は風化を始める。それを避けるためには、ぎりぎりの臨界点まで、ただ「見守る」しかないのである。
言い換えればこういうことです。作家がもし「起こったこと」の全体像を描きたいと欲したならば、中途で解釈者になることの誘惑に負けず、傍観者であることの辛さに耐え、厳しい現実を見届ける任務を誰かに背負わせなければならない。その視点が神の高みに達することは決して許されない。あくまで地面を這う虫の位置にあるべきで、起こることを起こる順番で目撃する、平凡人の目に徹していかなければならないのである。逆説的な物言いになるが、そうした凡人の視点以外から「全体」を見通すことは本来できない。ましてや、描かれた物語が一読者の心に浸透するほどの切迫感を持つことも不可能なのであります。
(略)
『誰か』は、宮部がそうした態度を作品の形で初めて表明した、記念すべき作品である。 作者に成り代わり、そして読者の代弁者として、事件の一部始終を見届ける杉村三郎こそは、宮部みゆきが初めて書いたハードボイルド・ミステリーの主人公なのだといえます。
ハードボイルドという小説のスタイルには様々な定義があり、残念ながら完全な統一見解というものはない。便宜的にあえて定義するならば「複雑かつ多様で見渡すことの難しい社会の全体を、個人の視点で可能な限り原形をとどめて切り取ろうとする」文学上の試みというべきか。

そうか。
ハードボイルド小説はあまり通ってこなかったが、何となく、無口な探偵が主人公の小説、という程度の印象を持っていた。しかし、そうではなく、主人公が「起こった出来事を、人生の辛い側面を、受け止める」ことの方が、ハードボイルド小説の核にあったのだ、ということに気づかされた。

成長する謎

同じ解説で、杉江は宮部作品の「展開」について次のように語る。

宮部作品では強烈な「引き」を持つ謎が冒頭に呈示されることが多い。不思議なことに、その謎は成長するのだ。これは話が逆でしょう。通常のミステリーの場合、謎は解明されるにしたがって小さくなっていくものである。どんな魅力を誇っていた謎も、要素に分解され、構造を分析されれば謎とは呼べないものに変わる。最後に残るのは、きわめて即物的な個人の事情です。しかし宮部作品は違う。いつまで経っても謎の魅力が褪せないのである。なぜならば、物語が進行するにつれて、謎に未知の側面があることがわかり、ますますその神秘性が深まっていくからだ。

確かにその通り。
杉村三郎の調査は、「梶田さんを轢いたのは誰か」「なぜ梶田さんは事故が起きたマンションを訪れていたのか」「30年前、聡美(梶田姉妹の姉)が4歳のときに誘拐されたという記憶は正しいのか」「梶田さんが”誘拐”と同じタイミングでトモタ玩具をやめたのは何故か」など複数の謎の解明を目的としている。しかし、本人が自嘲するように調査は「非効率」で、なかなか話が核心に向かわない。
ただ、その分、読者の想像を促す。


このあたりについて、この小説は、読者に「他人の靴を履く」訓練を受けさせるようで、非常に「教育的」な読み物になっていると思う。
例えば梶田姉妹の姉・聡美が4歳のときに誘拐された話の真偽について、杉村の妻・菜穂子は、自分たちの娘に置き換えて想像することを促し、相当に怖いことがあったことは確かなはずだと述べる。
また、別の場面では、事故目撃者を募るビラを撒いた後でかかってきた非通知の無言電話の主がおそらく梶田さんを自転車で轢いてしまった中学生であることについて、杉村が同僚のシーナちゃんから、やはり想像を促される。(2つのシーンとも、杉村三郎に質問させて話を止め、繰り返し話させているのも読者の思考をコントロールするかのようだ)

「梶田さんの遺族が自分のことどう思っているか、知りたいのかもしれないですね」
「うん?どういう意味かな」
「その子の気持ちを想像してみてるんです。遺族はどのくらい怒ってるのかな。自分のこと許してくれるだろうか。怖いなぁって。それを知りたいけど知りたくない。だって怒ってるのは当たり前だし、そう簡単には許してもらえやしないってこともわかってる。中学一年生ならね」
p364

このようにして、出来事を色々な人の視点から眺めていると、杉江氏の言う通り、「謎が成長する」。事実は増えないのに、見方が多面的になっていき厚みが増す。
こういった宮部作品の巧さについては、『理由』(1998)~『模倣犯』(2001)~『誰か』(2003)の流れと合わせて杉江氏が詳しく解説していて、それも大変面白い。

誰か

その詳し過ぎる解説には、書かれていなかったのだが、タイトルの「誰か」(who is itではなくsomebody)については、すぐには分かりにくいものの、作品テーマがそのまま込められていると感じた。
この小説で一番印象的な文章は、「誰か」という言葉が含まれる以下の部分だ。(後半を読み返したが、やはりここが一番熱がこもっている)

野瀬祐子はまた泣いた。だが自分を責め、自分を苦しめて泣いている。さっきまでの涙とは違っていたと思う。
彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

p402

(ここは完全ネタバレ部分*2ですが)野瀬祐子が電話で杉村に語った「真実」は以下の通り。

  • 28年前、野瀬は、日ごろから暴力を振るわれていた父親を意図せず殺してしまった
  • 職場で信頼していた梶田に打ち明け、梶田夫妻が遺体を秩父山中に埋めることを引き受ける
  • 梶田夫妻不在の約一日間、野瀬が、当時4歳の聡美を預かる(これを聡美が誘拐の記憶と勘違い)
  • 野瀬はトモタ玩具を辞め、同じタイミングで梶田一家も辞めて寮を出て、音信不通に。
  • 28年ぶりに梶田が野瀬のもとを訪れ、聡美の結婚を報告し、披露宴にも誘う。運悪くその日の帰りに事故に遭って亡くなる

未だに、梶田氏が後悔しているのではないかと繰り返す野瀬に、そんなことがあるわけがないと諭す杉村の言葉に野瀬は涙を流す。そんなシーンだ。


この部分もそうだが、この小説は「そう簡単に割り切ることはできない」人間の核の部分を丁寧に説明する。パターン化されたミステリであれば、「殺意があり、手段があったから殺した」程度の因果関係をもとに、パズル的にロジックを組み立てる。
それとは異なるタイプの『誰か』という小説は、野瀬祐子の告白で、メインストリームの謎が落ち着いたあと、一見ロジカルに見えない流れで、突然、梶田姉妹の確執に焦点が当たる。

ラストに配置されるのが、10歳下の妹(梨子)が結婚式を控えた姉(聡美)の結婚相手を奪うという下種な話で、事実だけを見ると、直前に明かされた死体遺棄の話と比べて軽い話に見えてしまう。
しかも、不倫の事実は、最後まで辿り着かずとも、早い段階で「え?でも何で?」と読者が気がつくように話が作られている。
それでも、最後に、不倫の事実が発覚し、それが「死体遺棄」の事実と密接に関わっていることを理解すると、ぐむむむむ…と、残酷な現実と話の巧さに唸ってしまう。


不倫の事実に気づいた杉村三郎は、梶田妹・梨子、その不倫相手で姉・聡美の婚約者・浜田、そして聡美、という当事者3人のそれぞれと話をする場面がある。ここで、聡美に対して、「真相」を知っている杉村はこう考える。

私はいろいろ考えた。たくさんのことを言おうと思った。あなたと梨子さんはご両親の愛を争って育った。あなたは梨子さんが”いちばん星”であることを羨み、梨子さんはあなたがご両親の戦友であることを妬んだ。
あなたは怖がりだが、梨子さんは闘士だ。あなたを打ち負かすために、あなたの持っているものを横取りすることで、あなたより自分の方が強いということを証明する。それが梨子さんの生き方だ。それをわかっていて、負けも認めないし勝とうともしない。それがあなたの生き方だ。
よそう。こんな分析が何になる?
私は沈黙を守っていた。
p452

忘れたい記憶と強く結びついた(そして共に乗り越えてきた)聡美と、新しい生活が落ち着いてから生まれた梨子では、どうしても育て方に差が出てしまう。
そこから生まれた姉妹の確執は、真相を知らない当事者たちには、その理由がわからないまま、今後も続いてしまうのだろう。
真実を知っても、それを伝えられない。そして背負っていかなければならない杉村はそれだけでも辛いが、梨子、浜田だけでなく聡美からも、「杉村のように恵まれた人には私たちの気持ちは分からない」と無碍にされるのがさらに辛い。


ただ、聡美は混乱しているが、自分ではわかっていたはずなのだ。
結婚したとしても、浜田とはうまく行かないし、姉妹間の争いは悪化することが。
だから、野瀬祐子の部分で出てきた文章は、そのまま聡美に当てはまる。

彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

「自分が一番わかっている」はずのことも、最後に「誰か」の一押しが無ければ行動に移せない。だからこそ、他の人の人生に介入するような言葉がけも、僕らはしていく必要がある。
つまり、杉村三郎が野瀬祐子や梶田聡美にとっての「誰か」となったのと同じように、他の人の「誰か」になる可能性は誰にでもあるのだ(感謝されないどころか非難されもするけれど)、と作品メッセージを理解した。


皆がそれぞれ自身の人生を生きているから、他人への安易な口出しは「余計なお世話」だ。一方で、誰もが強いわけではないし、後ろ暗い面もあるだろう。そういった人間の弱い部分に出来るだけフォーカスして、話をつむぐのが宮部流なのかもしれない。
改めて、宮部みゆきは優しい作家だと感じた一冊でした。

このあと読む本

杉村三郎シリーズは、このあと『名もなき毒』『ペテロの葬列』『希望荘』『昨日がなければ明日もない』と続くが、解説で名前の出た『理由』『模倣犯』は読まないといけない。(『理由』は読んだ可能性がある)

*1:感想を書き進めても、その本を読むのが(感想を書くのも)2度目であることを忘れていたという衝撃の一冊でした。

*2:ブログで意図して真相を隠したりしていると、読み返して全く思い出せない自分に対して過度なストレスを与えるので、できるだけ書くことにしました。

2つのパープルと苦手意識~映画『カラーパープル』×大河ドラマ『光る君へ』

カラーパープル』は公開初日に観たのだが、鑑賞前に、映画.comでの感想を流し見して「誰にも共感できなかった」と書いている人がいるのを目にした。黒人差別という、構造的にはわかりやすいはずの問題を扱っていて「共感できない」ということがあるのだろうか、と、そのときは思った。

大河ドラマ『光る君へ』

この前の土曜日に、NHKの土曜昼の番組「土スタ」を見た。
大河ドラマ『光る君へ』で紫式部を演じる吉高由里子がゲスト。番組進行役の近藤春奈とは十年来の親友ということで、とてもリラックスした雰囲気でいつも以上に楽しい回だった。ちなみに吉高由里子紫式部につけたニックネームが「パープルちゃん」ということで、『カラーパープル』と『光る君へ』は繋がっている。


数年前からドラマは毎シーズン1つか2つくらいは見ていて、吉高由里子主演ドラマだと、最近の『最愛』(2021年)も『星降る夜に』(2023年)は、ちょうど見ていた。
ドラマを見るたびに思うのだが、自分にとって吉高の一番のチャームポイントは声と喋り方だ。
声質がべたっとしていることもあり、少しずれると、「ものすごく下手」「あざとい」となりかねないが、絶妙なバランスで、幼さと落ち着きの両方を兼ね備えていて、聴き入ってしまう。
これに加えて、いたずら好きそうな仕草・笑い方も、確かな魅力だと思う。


今回、紫式部の思い人という立ち位置の藤原道長役の柄本佑も、誠実性が前面に出た演技が魅力で『光る君へ』は、主演2人を見るためにも見続けるだろうと思う。
なお、柄本佑を見ると、どうしても弟の柄本時生と比べてしまうが、今回も柄本時生だったら、全く違った道長になるだろうし、そもそも道長役には向いていない…等と思いを巡らせる。


このように、邦画作品は、ドラマや映画を見れば見るほど情報量が蓄積して楽しみが増していく。さらに、出演作品や交友関係など、言葉で表現される情報ではなく、その表情などから読み取れる情報についても、海外ドラマ・映画に比べて段違いに多い。

  • どういうタイプ(顔、声)が世間的に人気があるかを知りつつも、自分は、そこからズレる、こういうタイプが好きだ
  • 普通は、この役には、こんなタイプ(顔や演技)が選ばれるから、この配役は失敗している

など、初見の俳優であっても解像度の高い受け取りと消化が可能だ。(もちろん反対に、自分の決めた枠の中で、常に作品を見てしまう、という弊害もあるかもしれないが。)

カラーパープル』序盤の印象

さて、話を戻すと、映画『カラーパープル』に出演しているのは、日本人ではない。
それどころか、出演はほとんどが(自分としてはあまり見慣れない)黒人*1俳優。
そうすると何が起こるかと言えば、『光る君へ』を見ていたときにあれほど高解像度だった脳内カメラの精度は一気に落ちて、年齢どころか、人の区別がつかなくなる。表情から思考を辿ることができなくなる。そもそも、髪型もカッコいいかどうか判断がつかない。
字幕を追っているだけで、すでに物語を一歩引いたところから見ているのに、さらに2歩3歩と後ろに下がってしまう。
この状態では、『光る君へ』を見ている時のような、キャラクターを多角的に楽しみ方はできなくなる。
そうか。
今気がついたが、こういうキャスティングの映画に、自分は苦手意識を持っているのかもしれない。


実際、出だしは少し混乱したこともあり、冒頭に挙げた「誰にも共感できなかった」という誰かの感想は、(当人がどういう意味でそう書いたのか不明だが)十分に起こりうることだと感じた。実は、TOHOシネマズ新宿で観た『カラーパープル』は初日でガラガラだったのは、同じように苦手意識を持つ人が多いからなのかもしれない。
自分事ながら少し面白いと感じてしまったのは、同じ黒人俳優でもスクイーク(メリー・アグネス)を演じたガブリエラ・ウィルソン(“H.E.R.")は、とても日本人的な顔立ちなので、少し安心感があるということ。
それと対照的なのがハリー・ベイリー。彼女の顔立ちは独特過ぎるので、人を惹きつけるが不安にさせる。『リトル・マーメイド』を酷評する人がいることも、今回実感として分かってしまった気がする。


つまり、人は見慣れた顔に安心感と好感情を抱き、
反対に、見慣れない顔には、不安と嫌悪を抱き、いつしかそれが苦手意識につながるのだろう。

しかし、今回、映画を観終えてみると、ポスターに出ている主演3人の表情はある程度読み取れるようになったし、一番の悪役であるダメ夫「ミスター」の心の動きも掴めてきた。
こういう風にして、映画一作品見通すだけでも、自分の中で作品の受け取り方に大きな差が出るのは面白い。
カラーパープル』を2度目に見るときは、今回感じた序盤のつまずきは確実に感じないだろうし、もっと共感しながら物語を楽しめるはずだ。
とすれば、映画に限らず色んなタイプの作品に触れることが、人生の楽しみを増やしてくれるのかもしれない。(もちろんリアルに色んな人と会い、話をすることがさらに重要なのだろう)

良かったところ

良かったところは圧倒的に歌。
今もサントラを聞きながらこれを書いている。
ちょうど、映画を観た日の朝に藤田和日郎が「ミュージカルは何でセリフを歌うんだろう?」という長年の疑問に、劇団四季の「ゴースト&レディ」の演出家スコット・シュワルツが答えてくれたというツイートを読んでいたので、「言葉にできないから歌う」を観に行って、まさにそれを実感した感じだ。


特にソフィア(ダニエル・ブルックス:ポスター真ん中)が、怒りを歌にするシーン(曲はHell No!)が良い。それまでも感情をむき出しにしていたが、歌にすることで、さらにギアがトップに入る。彼女が、理不尽に夫に怒鳴り家を出るところは感情移入しにくいし、収監されて意気消沈するところは、下げ度合いが強過ぎて、そこも含めて最も「共感しにくい」キャラクターという面はあるが、歌の巧さは、皆うまい役者陣の中でもトップではないか。(なお、ちょっとハナコ岡部に見えるときがある)

またディーバ役であるシュグ。最初に見たときは、あまり華のない見た目と感じていたが、歌い出すと一気に魅力が全開になるし、主役セリ―を演じるファンテイジア・バリーノもシュグと歌うシーン(What About Love?)や、お店を開いてからのシーン(Miss Celie's Pants)は、やっぱり歌が上手くて驚くし、歌でなければ表現できないと感じた。

パンフレット

カラーパープル』は、アリス・ウォーカーが1982年に発表した小説をもとにして1985年にスピルバーグが一度映画化している。その後、2005年にスコット・サンダースがブロードウェイ・ミュージカルにし、2015年にリバイバル公演。セリーやソフィアなど、舞台版の役者も引き連れた形で、新鋭ブリッツ・バザウーレの手によって2度目の映画化がなされた。
このあたりの情報がパンフレットに記載されているが、そのパンフレットの俳優インタビューで、それぞれが物語について深い解釈を持って演じていることがわかり驚く。(もちろん翻訳・編集の間でかなり手が入っている可能性もあるが。)
例えば、シュグ役のタラジ・P・ヘンソン

  • シュグとミスターの関係性をどう思いますか?
  • シュグとセリーについては?

など登場人物の関係性についての質問に、理路整然と自らの解釈を語っていく。
他の俳優も同じタイプの質問について同様に答えているが、セリーの回答の的確さもなかなかのものがある。

セリーの「姉妹たち」の存在について教えてください。


シュグ・エイブリー(タラジ・P・ヘンソン)、ソフィア (ダニエル・ブルックス)、そして最後にはスクイーク(ガブリエラ・ウィルソン “H.E.R.")も、全員が何かに気づきます。自分たちの強さに気づき、自分たちが何か偉大なことを成し遂げるために、この地球上に生まれたのだということに気づいたんです。
当時は、女性たちにとって今よりもはるかに大変な時代でした。だから、シュグが町にやってきた時、セリーたちは、「彼女は誰? 彼女が物事を進めている。彼女がボスで、誰にも指図されていない。彼女は誰の世話もしていない」って思うんです。
シュグは新風を吹き込んだ存在です。とくにセリーが自分の足で立ち、ステップアップするために必要としていた、あと一押しが彼女だったのではないかと私は思います。
それまでのセリーには自分の意見がありませんでした。セリーが自分たち女性にはものすごいパワーがあるんだということを理解するために必要としていたのは、シュグとの出会いだけでした。シュグとソフィアが自分のために立ち上がっているのを見て、セリーも最終的にミスターに立ち向かうことができるんです。


また、(スピルバーグ版ではソフィアを演じた)オプラ・ウィンフリーの言葉も素晴らしい。

製作のオプラ・ウィンフリーは固く信じている。
「この物語が長年生きながらえている理由は、辛い経験をしたり、透明人間になってしまった気がしたり、誰の目にも映っていないし大切にもされていないと感じたりしたことのあるすべての女性や男性にとって、これこそ、自分という人間になれる物語、自分自身になれる物語、他者の姿から反映される形での自己発見という素晴らしい体験を味わえる物語だからです。
セリーにとっての他者は、別の道があるということを教えてくれたシュグ・エイブリーでした。他の生き方があると。私たちが世界に向けて再びリリースすることで、この物語は引き続き生き残っていきます。」

テーマから何からオプラ・ウィンフリーの言葉に全部書いてある!
と、何度も噛み締めるように読む。


こうやって、俳優陣や製作陣の声を拾っていくだけでも作品のことが好きになるし、人間として親しみが湧いて来る。また、映画とは異なり、そもそもこの映画の核となる「音楽」は見た目と無関係に好きになることが圧倒的に多いアートだ。
そうすると、見た目で苦手意識を持っていた自分は勿体ないなあ、と改めて思った。
繰り返しになるが、映画は手軽に色々な文化、人種、民族に触れることができるメディアでもあるので、自分の知らない世界を扱った作品にこそもっと触れていきたい。

*1:あれ?「黒人」という呼称はOKなのか?と思って少し調べたが、厳密なルールがあるわけではないようだ。今回はパンフレットの表記が「黒人」で統一されていたので、それに倣った部分もある。こういった「呼称問題」はもっと勉強しておきたい→「アフリカ系アメリカ人」「黒人」、どちらが正しい呼び方?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト日本人は「黒人」の定義をおそらく誤解している 安易にレッテル貼ることの影響を考えているか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン

ノンフィクション、エンタメ、文学の境界~齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』×川上未映子『黄色い家』

齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』、川上未映子『黄色い家』という全くジャンルの異なる2冊の本を短い期間に連続して読んだ。
異なる、と書いたが、共通点もある。
『母という~』はタイトル通り、母が娘を拘束して、そこから逃げ出せないような「監禁」状態で過ごした二十数年間が描かれ、『黄色い家』は、冒頭で主要登場人物が若い女性の「監禁」で捕まる話が出てくる。
それもあって、順番的にあとに読んだ『黄色い家』は、『母という~』に似たような展開の可能性も予感しながら読み進めた。
結果的には、似たところは全くない二冊だったが、それらを読む中で、ノンフィクション、エンタメ、(純)文学というジャンル毎に自分が何を求めているのか、が見えてきた気がする。
今回は、そこにも触れるようにしながら感想を書いた。

齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』

深夜3時42分。母を殺した娘は、ツイッターに、
「モンスターを倒した。これで一安心だ。」
と投稿した。18文字の投稿は、その意味するところを誰にも悟られないまま、放置されていた。
(省略)

母と娘――20代中盤まで、風呂にも一緒に入るほど濃密な関係だった二人の間に、何があったのか。
公判を取材しつづけた記者が、拘置所のあかりと面会を重ね、刑務所移送後も膨大な量の往復書簡を交わすことによって紡ぎだす真実の物語。
獄中であかりは、多くの「母」や同囚との対話を重ね、接見した父のひと言に心を奪われた。そのことが、あかりに多くの気づきをもたらした。
一審で無表情のまま尋問を受けたあかりは、二審の被告人尋問で、こらえきれず大粒の涙をこぼした――。
殺人事件の背景にある母娘の相克に迫った第一級のノンフィクション。

ページ数もちょうどよく字も大きい。
ここまでリーダビリティに優れる本も少ないだろう。
正に「一気読み」のノンフィクション。
あらすじを短く説明すると、扱われているのは、31歳の娘が同居する58歳の母親を殺害して河川敷に放置したという2018年の事件。医学部に合格せよという母親の要請にしたがって、9年間(!)の浪人を経て看護学校に合格した娘が、それ以降のさらなる束縛に耐え切れず犯行に及んだという。
母親とのLINEのやり取りや手紙がそのままの文章で挟まれるのも臨場感を生み、まさにページをめくる手が止まらない。いうなれば「本当にあったイヤミス」。


母親は、娘が小学校の頃から成績優秀であることを強要し、テストの点数が悪いと怒り、暴力を振るう。それが包丁で切りつけたり、熱湯を太ももに浴びせたりするというものなので度を越している。
娘の側も、悪かったテストの点数を改ざんするなど点数不足を嘘で補うなど対応するが、特に小中学生の頃はすぐに母に嘘を見抜かれる。バレるたびに表面的には母に従順を装いつつ、胸に澱が貯まっていく、というのも、そうだろうよと納得だ。


一方、母親は倹約家としても度を越しており、節水のために娘が20歳を過ぎても母娘二人で風呂に入る生活を続けていたという。(そんな彼女と気質が合わなかった父親は、日々の嫌味や罵声にも疲弊し、娘が小6のときに別居に至る)


忘れられないエピソードはいくつもあるが、一番衝撃だったのは、最初の受験で京大看護学科不合格が判明した直後のこと。(目標である医学部よりもレベルを下げた母の妥協点としての「京大看護学科」)
娘には、中高6年間の学費を補助してくれていたアメリカ在住の祖母(母の母)がいたのだが、母親は、祖母に向けて「京大に合格したことにする」と言い出すのだ。
電話での直接の合格報告に加え、わざわざ京大で母娘写真を撮影し、買った土産も送ってダメ押しをする。
母親の計画では、京大で仮面浪人をして医学部合格を目指す予定だったので、確かに、1年後に医学部に合格してしまえば、京大合格の嘘は小さいものと言えるのかもしれない。アメリカ在住ということでバレることは無いと言え、そこまで体面にこだわるのか。

この後、9年後に医学部を諦めて看護学科に志望変更をするタイミング(既に京大合格の嘘はバレている状態)でも、母は娘に、祖母に向けて嘘の手紙を書かせる。本文中での、この手紙の入り方が絶妙過ぎて、急に娘が心変わりして母親に協力的になったのか?と思わせ、一種の叙述トリックのように機能しているのもゾッとする。


なお、娘の側も高校時代から定期的に家出を繰り返し、隙あれば住み込みバイトに逃げ込もうとするが、母親側は探偵を雇って家出先を突き止め連れ戻してしまう。
タイトルにある通り、まさに「牢獄」で、30歳のときに母親殺害に至るが、よくそこまで我慢した、と思ってしまうほどの内容だった。


さて、事件は2018年1月に犯行、3月に遺体発見、直後に娘にも捜査の手が及び、6月に逮捕に至るが、当初、彼女は「死体損壊・遺棄」のみを認め、「母親は自殺した」と主張していた。滋賀県警や検事の取り調べに否認・黙秘を継続できたのも、20年以上もの母親との毎日のやり取りの中で、本心を偽ることを鍛えられてきたからだというのも皮肉な話だ。
その後、裁判の過程で、父親を含む多くの人の優しさに触れる中で、自らの殺人についても認め、後悔の気持ちも示すようになる、というのが、この本で数少ない感動ポイントだろう。


と、本の内容を振り返ってきたが、やはり元々のエピソードの豊富さにも助けられ、一冊の本としての読みやすさは一級だったように思う。
とはいえ、以下の点が非常に残念だ。

  • 娘と同じ立場にある人が、どこに助けの声を上げれば良いか、について参考となる情報がない。
  • (裏返しになるが)このような問題を「殺人」(もしくは「自殺」)という事態に発展させないための公の対策について言及がない。
  • 母親はそもそも取材が出来ない相手ではあるが、彼女自身にも、何か治療的なアプローチが必要ではなかったのか、ということについても触れない。これが無いと、単に母親という「モンスター」から逃れられて良かったね、という話になってしまい、議論が「モンスター」を生み出さない方向に向かわない。

これらの補足説明を付け加えれば、この本の一番の売りである「読みやすさ」は損なわれるだろう。しかし、これが無ければ、「ノンフィクション」というより「エンタメ」、まさに「本当にあったイヤミス」として消費される本ということで終わってしまう。
以前読んだ『モンスターマザー』は、「モンスター」の母親に追い込まれた男子高校生が自殺した事件を扱いながら、母親をトコトン追及することに拘りすぎていて、共通した問題点を感じてしまった。
読書は常に「何かためになること」を求めてなされるべき、とは思わないが、実在の事件を扱ったノンフィクションについては、ましてや、それで死人が出ている事件については、何らかの教訓を求めてしまう。それが亡くなった方の弔いになると思う。
pocari.hatenablog.com


川上未映子『黄色い家』

2020年春、惣菜店に勤める花は、ニュース記事に黄美子の名前を見つける。
60歳になった彼女は、若い女性の監禁・傷害の罪に問われていた。
長らく忘却していた20年前の記憶――黄美子と、少女たち2人と疑似家族のように暮らした日々。
(省略)善と悪の境界に肉薄する、今世紀最大の問題作!

川上未映子は、つい先日、映画『PERFECT DAYS』のパンフレットその人柄に触れはしたものの*1、著作はこれまで未読。
芥川賞をはじめとする受賞歴の数々から「文学」の人だと思っていた。
ただ、『黄色い家』は、先々週に読んだときは「王様のブランチBOOK大賞2023」のみ受賞(その後、読売文学賞受賞、本屋大賞ノミネート)しており、「エンタメ」なのかも、と不思議に思った。

ということもあり、今回、『黄色い家』は「文学」なのか「エンタメ」なのか、それを分ける者は何なのかを考えながら読んだ。
結論としては、

  • 『黄色い家』は「文学」
  • 「文学」は「予感」

連続で読んだこともあって比較すれば、『母という呪縛 娘という牢獄』が280ページながら非常に濃いエピソードが目白押しだったのと比べれば、600ページ越えの『黄色い家』は、主だった出来事が少なくスカスカとすら言える。その分を何が埋めているのかと言えば「予感」が埋めているわけです。

  • 17、8歳で社会で生きていくために共同生活を始めた主人公たちは、数年後どころか数か月後の暮らしの保証がない中で、過去を振り返り、将来への期待・不安で頭を悩ませながら、すなわち「予感」に右往左往しながら生きている。
  • 読者は、彼女たちに感情移入しつつも、物語の構造上の観点からメタ視点で、そろそろトラブルが起きる、そろそろ人が死ぬ、など勝手な想像をしながら、「予感」と並走しながら登場人物たちを眺める。

つまり、文学作品でよく言われる「何も起こらない」という特徴は、そのまま「(何も起こらない分だけ)予感に満ちている」と言いかえることが出来る。
これに加えて、この物語の最大の特徴は、「起きそうで起きない」こと。

  • 共同生活する4人(黄美子さん、花=主人公、蘭、桃子)の仲が悪くなり、協力関係が破綻したら…
  • 4人以外でもこの登場人物が裏切ると大変なことに…
  • 謎の多い登場人物が抱えていた事情が明らかになり物語が展開する流れなのか?

読みながら色々な「予感」が頭をよぎるが、大半は起きない。しかし、どんどん状況は悪くなる。

物語の中心にいる黄美子さん、つまり冒頭で2020年に若い女性の監禁・傷害の罪で捕まった黄美子さんのキャラクターが全くつかみどころがないのも大きい
彼女は、共同生活をしていた残りの3人(当時18~20歳)よりも20ほど年上だが、その年齢差を感じさせないキャラクター。スナックでも花に先輩風を吹かせるわけでもなく、ただ飄々と、いや飄々と、というより何も考えていないかのように暮らしている。
そんな彼女がなぜ逮捕されたのか?という謎を考えながら読み進めるフックがかなり効いており、小説内で起きなかった、もしくは起きたが描かれなかったトラブルの「予感」も含めて、読者は物語を味わうことになる。


そして結末も、誰も信じられない、という後味の悪いものではなく、皆が善人という能天気なものでもない。胸がすくような伏線回収もない。
結果として、2000年頃に三軒茶屋付近で共同生活を営んだ「黄色い場所」という、時間と場所、そしてそこで必死に生きていた人たちの人生そのものと、少しの希望が残る。
結末近くで4人が本音をぶつけ合う場面があるが、その部分の明け透けすぎる物言いも良い。人は勢いでそんな酷いことを言える。


ともすると、物語は、ストーリーを形づくるプロットとキャラクターが重視されがちだが、物語を味わう読者の「予感」をコントロールするように設計された小説の方が「文学」として優れているのではないか、というようなことを考えた。



最後に付け加えれば、この本は装丁が良い。
六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「もじ イメージ Graphic 展」でも、名久井直子さんのデザイン本ということで並べられていたうちの1冊で、そこでも、『黄色い家』は目立っていたように思う。*2


表紙カバーをめくれば、真っ黄色な表紙には「SISTERS IN YELLOW」の文字。
そして表紙カバーは青が入り黄色が映える。
さらに帯の赤色も非常に綺麗。コメントを寄せたのは王谷晶、ブレイディみかこ、凪良ゆう、高橋源一郎、東畑開人、亀山郁夫河合香織、花田奈々子。
中でも河合香織のコメント「この小説は安易な要約を拒む、生の複雑を読者に突きつけていく」が、「予感」に満ちたこの本のポイントをついていると感じた。
Amazonのあらすじは、書き過ぎだったので、上に引用するとき、一部を省略しておいた。

次に読む本

齊藤彩さんは、これが初の著作ということで次作に期待。
川上未映子さんについては、有識者に聞いたところ、「っぽい」作品として、芥川賞受賞作『乳と卵』をオススメされた。『黄色い家』や『夏物語』は、本流とは少し異なるらしい。よく目にする『ヘヴン』も読んでみたい。そして勿論『夏物語』も。

*1:https://pocari.hatenablog.com/entry/20231231/perfect

*2:改めて見ても名久井直子さんのデザインの本は読みたくなるようなものが多く、どれを読もうか、と思ってしまう。→ www.bird-graphics.com

社会派ミステリで描く安楽死問題~中山七里『ドクター・デスの遺産』

先日久しぶりに会った2歳下の弟が、最近よく読んでいるということで中山七里を薦めてくれて、興味のある安楽死問題を扱った小説があるということで手に取った。


近年読んだ社会派ミステリとしては、相場英雄『アンダークラス』(外国人技能実習生問題)という傑作があり、脳内では常にこの本と闘わせながら読んだ。
新書『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んだからこの小説に興味を持ったため仕方がないのだが、安楽死についてのリテラシーがかなり高い状態で臨んだことが災いして、その点では心に響かない内容だった。
しかし、日本での「安楽死」についての通常の問題意識は、『安楽死が合法の~』とは逆だということに気づかされた。


何が「逆」なのか。
ドクター・デスが約束する「安らかで苦痛のない死」は、「終末期医療に見放された患者と家族」にとって非常に魅力的だ、という台詞が出てくる。
ここで言う「終末期医療に見放された」というのは「医者が延命治療を停止するという決断をしてくれない」ということを指す。

「終末期医療のガイドラインというのは手続きに限定した内容で、どんな病気のどんな症状が終末期に該当するかが規定されていません。その判断はあくまでも医療チームによるものと明文化されているんです。終末期というのは一般に余命数週間から六カ月以内という意味らしいのですが、現実の医療現場でお医者さんがそんなことを定義してくれるでしょうか」
実際には無理な話だろうと犬養は推測する。医療現場に何度か立ち会った経験からすると、臨床医師は患者の救命と延命が至上命令であり、己が持てる医療技術の全てを延命治療に注いでいる。それこそが医療の大義という意見がある一方、終末期を定義するとなればガイドライン自体に規定がない以上、延命治療を停止する行為は法的責任を問われる。医師が終末期医療を回避したがるのは人情というものだ
これは穿った見方だが終末期の延命治療はどうしても高額医療になる。患者本人には特定医療費などの保険制度で負担は軽くなるが、病院側にすれば最新の延命治療をすればするほど医療収入が上がることになる。病院経営者が徒に延命治療を止めようとしない図式も容易に推察できる。

p58

確かに、日本で「安楽死」が話題にのぼるときは、常に「延命治療」への批判が含まれている気がする。
安楽死が合法の~』で扱われている海外事例から「医師は安楽死させたがる」という前提で問題を眺めていたが、少なくとも日本ではその状態にない。そう考えると、この小説ももう少し「延命治療」を悪いものとして描く書き方になっていると面白かったのだが、扱われる事件は、やや淡泊なものが多かったのが残念だ。


さて、この小説のミステリとしてのオチ(メモとしてネタバレを文章末に→*1)は、ステレオタイプへの偏見に頼ったもので、これに引っかかってしまった自分はまだまだ修行不足だった。ここは、驚けたことを単純に喜ぶことにしよう。


なお、主人公の犬養刑事には、難病で入院中の娘がいて、彼女がドクターデスの標的になるかも…という部分も物語を盛り上げる。今回は、この親子関係には深入りしなかったが、シリーズ物としては第四弾ということで、これ以外の作品についても読んでみたい。
一作目(切り裂きジャック)はテーマがわからないが、三作目(ハーメルン)は子宮頸がんワクチン問題、五作目(カイン)は違法な臓器売買と貧困問題ということで、こちらにも興味がある。ドクター・デスは映画もあるようなので、こちらも余裕があれば。
お、今気づいたけど中山七里の最新作はAI裁判なのか!これは読みたい。


参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:塩化カリウム製剤の注射を持って訪れるドクターデスは常に禿げ頭の小男で、看護師を連れて現れた。というミスリードは、看護師=女性、医師=男性というジェンダーバイアスそのもの。河川敷で路上生活をしていた禿げ頭の小男の「ドクターデス」を捕まえてみたら、彼は「看護師」(ドクターデス本人)に雇われていただけだった、という事実を知らされるまで全く気がつかなかった…