Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

日韓関係への希望と失望と~浅羽祐樹『したたかな韓国』


今年は、映画『主戦場』を観たこともあり、日韓関係に関しては、慰安婦問題を中心にこれまで以上に関心を持ってニュースに触れています。
自分のスタンスを簡単に説明すると、基本的には、今の現政権の要人に目立つ「色々と過去の歴史をなかったことにしたい人たち」に強く反発を感じ、ネット上でよく見られる、やたらと隣国を貶すような文言には常に嫌悪感を持っています。
しかし、一方で、2015年の日韓合意の破棄や徴用工問題、レーダー照射問題など、 文在寅が大統領になって以降の韓国側の姿勢には、「これはついていけない」と感じていました。
したがって、現在の最悪の日韓関係をもたらした 半導体素材に関する輸出管理の見直し や、ホワイト国除外などの措置は、大賛成とまでは行かないまでも、「いたしかたない」と思っていました。(ただし、これらは報復措置ではなく、「安全保障上の懸念」が理由である必要があると思います。)


ところが、 国民の9割以上が韓国のホワイト国からの除外に賛成 などという記事を見てしまうと、 自分の頭で考えて、この結論に至っているのだろうか。 『新聞記者』で見られるような、政府側の恣意的な報道介入によって、自分の考えは操作されているものなのではないか?という疑問が浮かんできてしまったのでした。


例えば、これも長い間、日韓関係の間で重要問題となっている「竹島」の話。
これについては、自分が学生時代にはほとんど知らないような話だったため、何となく、「日本固有の領土」に、韓国側が最近になって言いがかりをつけているのでは?と思い込んでいたのです。
慰安婦問題については、(以前に比べれば)経緯も含めて ある程度の段階までは 理解出来たと思っているので、今度は竹島の問題も少し勉強してみたいと思いました。そんなときに、友人に浅羽祐樹さんのこの本を薦めてもらったのです。


本を読んだあとで改めて確認すると、いつも聴いているラジオ番組「荻上チキのsession22」で日韓関係にコメントする専門家として、本を読む前に声で浅羽さんを知っていることが分かりました。
『知りたくなる韓国』という本を書いている方なので、「親韓」の人なのかと思ったら、session22では、現在の「最悪の日韓関係」については文在寅に対してかなり厳しいコメントをされており、やはり自分の感覚は、それほど間違ってはいなかったと少し安心しました。
ごく最近の浅羽さんの意見は文春オンラインにわかりやすいインタビュー記事があります。これについては最後に触れます。
bunshun.jp
bunshun.jp


功利主義的なアプローチ

今回、本を読んでみて浅羽さんの印象を一言で表すなら功利主義的という言い方になるでしょうか。学者というと真実を追求する人というイメージがありましたが、政治学者というのはまた別ということでしょう。
そのことは、この本の「はじめに」の部分に表れています。

竹島領有権紛争にせよ、慰安婦問題にせよ、日韓両国がどのようにアプローチするのか、国際社会が注目している。日韓関係はもはや、単なる二国間関係ではなく、いかに国際社会にアピールできるか、について双方があらかじめ意識して臨まなければならない。一言でいえば<ゲーム>の局面が変わったのだ。(略)
個別のゲームで勝敗を競うことよりも、そもそも、どのゲームを戦うのかというメタ・ゲームにおける選択が決定的に重要である。勝てるゲームで戦い、負けることがわかりきっているゲームでは戦わないことこそが、最大の必勝法だ。ジャッジ(審判や勝負の判定)の存在を意識することも欠かせない。ゲーム自体がとっくの昔に変わってしまっているのに、いつまでも前のままのやり方では勝てるはずもなく、笑い者になってしまう。


この本の出版は2013年。2013年に大統領に就任した朴槿恵への期待を込めて書かれているので、2019年現在からみると、情報が古いですが、session22での発言や、文春オンラインの記事を読むにつけ、上に書いたような浅羽さんのスタンスは変わらないと思います。
この本のメインの主張を、簡単に整理すると、以下のようになります。

  • 説得力のある論理をつくりあげ、相手だけではなく、国際社会にもアピールするためには「悪魔の代弁人」をたてて臨むことが必要である
  • すなわち、相手と交渉する前に、耳に聴こえの良い天使のささやきではなく、あえて疑問や反論、批判を提示し、論理を鍛え上げておくことをしなければ勝負事には勝てない
  • そういった準備を「したたかな韓国」は着々と進めている

竹島領有権紛争

本書では、「悪魔の代弁人」をたてて 自分の弱点にも目を向ける「したたかな韓国」の具体例として第3章で、竹島領有権紛争が俎上にのぼっています。
ここでは、韓国で2009年に出版された『独島イン・ザ・ハーグ』という法廷小説が取り上げられています。この小説の中では、「独島」の領有権をめぐって日韓が法廷論争を繰り広げ、その中で、両者の論点が整理されており、作者の若い裁判官は、独島法律諮問官という新しいポストに登用されたといいます。この作者の任官直前のインタビューでの言葉が印象的です。

必ず模擬裁判を準備してみる計画である。私が日本側弁護人を引き受け、模擬準備書面を作成してみるつもりだ。自分自身の論理を打ち破ることができれば成功ではないか。独島に建物を百棟建てるより、その方が重要だと思っている。p122

すなわち、竹島の問題については、韓国側は「悪魔の代弁人」を立てて着々と準備が整っているというのです。


備忘録替わりに、竹島問題の基本的な考え方を列挙します。

  • 韓国にとっての「独島」は日本にとっての尖閣諸島と同じ(有効に支配しており、領有権の問題がそもそも存在しない)
  • 韓国は1900年に大韓帝国勅令41号によって、それまで無人島だった「独島」を含む島々を「鬱陵島竹島、石島」として領有権を取得。このうち「石島」が「独島」にあたる
  • 【これに対する反論】しかし、それまで「独島」を実効支配していたと言いながら勅令41号に「独島」という名称が登場しないことから、これが「独島」を指していたかどうかは疑わしい
  • 日本は江戸時代の初期から竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばに領有権を確立していた。その後、1905年の閣議決定により竹島島根県編入し、領有の意思を再確認した。
  • 【これに対する反論】上記理論の「その後」の期間(17世紀半ば~1905年)には、1877年に「太政官指令」があり、これは日本が竹島を含む島々の領有権を手放したことを意味する。(ただし、このときの島も具体的な場所が定まっているものではない)
  • また、韓国側は、日本政府による 1905年の竹島島根県への編入措置は「日本による韓国侵略の最初の犠牲」と認識している。

ということで、竹島をめぐる争いは、1900年前後の史実をひもとく必要があり、かなり古い問題であることが分かりました。
すなわち、近年に急に出て来た問題という誤った認識は自分の不勉強が原因で、韓国人の独島(竹島)への思い入れは、とても強いと感じました。
さらに、歴史的事実として、どちらの領土と判断するのは難しい中で、自らが不利なシナリオを想定して論争への準備を進めている韓国に勝つのは相当に難しいのではないか、という感想を持ちました。

慰安婦問題について

慰安婦問題については、4章に取り上げられていますが、ここでは、左派、右派で論争になる「何が歴史的事実として正しいか」には、あまりこだわっていないのが特徴的です。
まず、総論からすれば、慰安婦問題については、「戦時における女性の普遍的な人権問題」として韓国の主張が国際社会でそのまま受け入れられていることから、日本は「ゲームの進め方」を考え直す必要がある、というのが浅羽さんの基本的なスタンスだと受け取りました。*1
しかし、最も興味深かったのは、日韓の埋められない考え方の差についての説明でした。
日本の基本的立場は「請求権の問題は日韓請求権協定(1965年の国交正常化の際に締結)ですでに解決済み」というものですが、韓国側は、1965年時点では慰安婦問題は想定されておらず適用の範囲外であり、さらには「法以前に、国民の情緒、感情の問題」としているというのです。
この 「法以前に、国民の情緒、感情の問題」というのは、2011年の日韓首脳会談(日本の首相は野田佳彦)後の李明博大統領の言葉で、これについては、さらに「国民情緒法」という概念(?)を使って説明が加えられています。

韓国には、憲法よりも上位にあるとみなされる<法ならぬ法>が存在する。それが「国民情緒法」である。(略)
(韓国で圧倒的なシェアを誇るNAVERの※括弧内追記)オンライン辞書では、「国民情緒法」について次のように説明している。

国民情緒にそぐわない行為を法に見立てている。実定法ではない不文律。世論に基づく感性の法で、メディアの影響を多く受ける。世論に依存し法規範無視の風潮を生むという問題もある。

(略)
近年、世論に迎合的な政治はどの国でも強くなっているが、国民情緒に流されて実定法を明らかに無視したり、法の遡及適用を行ったりすることはまずありえない。(が、韓国では、国民情緒法が、それを可能にする ※括弧内追記 )
このように、世論に依存する法規範無視の風潮が生まれると、安定した社会的関係が成立しなくなってしまうのが、「国民情緒法」の一番の問題である。それは、国内でも、外国との関係においても、まったく同じである。p160


2013年に大統領に就任した朴槿恵は、韓国社会が抱える法規範無視という問題について正しく認識しており、法の支配を徹底するというアプローチで国政に臨みました。つまり、自らの弱点を知った上で、国際社会に訴えようという姿勢に、韓国の「したたかさ」を見たのが、この『したたかな韓国』のひとつの大きな柱だったのです。*2


浅羽さんが期待を持って迎えた朴槿恵政権は、慰安婦問題については、2015年の日韓合意で、あの安倍さんに 「心からおわびと反省の気持ちを表明」させるという、なかなかハードルの高いことをやってのけます。*3
しかし、結局、朴槿恵政権も自らの失態が招いたとはいえ、「国民情緒」によって辞任・逮捕に追い込まれることになります。
その後生まれた文在寅政権についての浅羽さんの認識は、先に紹介した文春オンラインの記事に以下のように書かれています。

文大統領は、2016年10月~17年3月に起きた、朴槿恵前大統領を弾劾・罷免した「ろうそく革命」の結果として誕生した大統領です。よって、17年の大統領就任当初から、保守派の政権下で積み重なった弊害を否定する「積弊清算」を歴史的使命と自任しています。

それは、朴槿恵政権が結んだ2015年の日韓「慰安婦」合意は誤りで、その父・朴正熙元大統領が行った日韓国交正常化も「誤った過去清算」だったという前提に基づいています。そのため、「日帝強占(日本帝国主義による強制占領)」をきちんと清算しなかった保守派こそが、文大統領からすれば最も断罪すべき存在です。

つまり、文大統領は植民地期に日本に協力した「親日派」を断罪した。それだけでなく、その「親日派」の清算に失敗した保守派は真っ当な政治勢力ではないと言うのです。つまり、進歩派の文大統領にとっての対日外交というのは、韓国国内の「保守派=親日派」叩きの延長線上なのです。


『したたかな韓国』の中では、2007年のハンナラ党内の予備選挙李明博に負けた朴槿恵が、与党内にいながら与党内野党として、セヌリ党への改名など様々な手続きを踏み、同じ与党の李明博大統領への不満も力に変えて大統領に就任したことが描かれていますが、2012年の大統領選で朴槿恵に負けたのが、文在寅であることが面白いです。
トランプ大統領は、オバマケアやイラン政策など、とにかくオバマと逆のことをやりたかがるのが目立ちますが、韓国では、それが5年周期で起き続けているというイメージでしょうか。


さらに、同じく文春オンラインの記事で、浅羽さんは、文政権との向き合い方で注意すべき点として、「正しい歴史」「間違った歴史」という概念を紹介しています。

では、特異な「歴史」観を有する韓国に、日本はどのように向き合えばよいのでしょうか。
留意すべきは、韓国の「正しい歴史」「間違った歴史」という概念です。

日本では、「事実として起こったこと」が実証主義的な歴史だと認識します。好むと好まざるとにかかわらず、史料に基づき、過去を再構成します。

それが韓国では「道徳的に正しい事」「本来あるべきこと」が「正しい歴史」とされるのです。その一方で、「道徳的に劣っている事」「歩むべきではなかった道」は「間違った歴史」となります。

例えば、1910年に日本の植民地になったことは厳然たる事実ですが、「間違った歴史」とされる。一方、他国には全く承認されていない、1919年に上海で建立が宣言された大韓民国臨時政府こそが「正しい歴史」。日本の植民地支配に屈してしまったのも「間違った歴史」ですし、それを「正す」ことができなかった65年の国交正常化も「そもそも無効」というわけです。

文在寅は「革命家」であると言いましたが、この部分に彼の特性が色濃く表れています。この価値観は進歩派の政権に多い傾向があります。特に文在寅政権は「正義に見合った国」を標榜し、「間違った歴史」は「正さなければならない」という姿勢で、国内政治だけでなく対外政策にも臨んでいます。

ちょっと、この考え方にはついていけないと思うのと同時に、日本国内でも 「本来あるべきこと」を「正しい歴史」とする人たちがたくさんいるのに思い当たります。
浅羽さんがこのことに触れずに話を進めているのは、(その後の文章の烈しさを見ても)、今の文政権に同調できるところの少なさを示していると思います。
文章の締めが「 まず、<友人>であることを諦めることから、新たな日韓関係が築けるのではないでしょうか」と「諦め」を前提としているところに、読者としても、かなりの不安を覚えるのも確かです。


ただ、一日本人としては、 「道徳的に劣っている事」「歩むべきではなかった道」についても、自国の歴史として認め、国際的にも正当性をアピールできる論理で外交を進めるべく、隣国の韓国についてももっと知っておく必要があるという気持ちを新たにしました。*4
ということで、こういうニュースが溢れる中で、関連する本を読むのはとても勉強になると感じた一冊でした。

次に読みたい本

次に読みたいのは、やはり浅羽さんも執筆している『知りたくなる韓国』(4人による共著)です。また、『韓国化する日本、日本化する日本』も読みたいですが、これも2015年の本で朴槿恵政権を語るには中途半端。『しなやかな韓国』を読んだからには、どこかで朴槿恵政権の総括について書かれた文章が読みたいですね。

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

韓国化する日本、日本化する韓国

韓国化する日本、日本化する韓国



そして、韓国を非難する文章を読んでそのままブーメランとして帰ってきた「過去の歴史をなかったことにしたい人たち」の本です。実は『九月、東京の路上で』を未読なので、こちらも今年中には読みたいです。

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

*1:いわゆる「河野談話」は、国際的な受け入れられ方を見るにつけ、ゲームの勝ち方としても正解だったと感じます。

*2:『したたかな韓国』の第4章では、国民情緒法の問題に加えて、国民によって選出されていないが、憲法に反する法律を無効にする違憲審査を行う「憲法裁判所」の力についても触れています。当初、「親日」だった李明博大統領が2011年に豹変した理由は、憲法裁判所の判決に理由があるというのです。が、ここでは、これについては省略しました

*3:色々と問題のある合意であることは認識しているつもりです。しかし、自分の安倍さん観では、毎年8/15の式辞でアジア列国に対する言葉を一切口にしない安倍さんが 「心からおわびと反省の気持ちを表明」 したのは、凄いことだと思います。

*4:例えば、憲法裁判所の元所長の発言として、「国民情緒法」の空気が生まれる、つまり法を軽視する土壌として、「法治が重要視されない儒教思想、35年間に及ぶ日本の植民地支配や解放以後も民主的とは必ずしもいえなかった政府によって、法が悪用される歴史があったため」ということが紹介されています。こういった歴史は、大きく日本が関わってきた歴史でもあり、日本人としてしっかり勉強しておく必要があるでしょう。

今年、読書感想文を書くならこの本!~ナディ『ふるさとって呼んでもいいですか:6歳で「移民」になった私の物語』

ふるさとって呼んでもいいですか: 6歳で「移民」になった私の物語

ふるさとって呼んでもいいですか: 6歳で「移民」になった私の物語

6歳で来日し、言葉や習慣、制度の壁など数々の逆境の下でも、
周囲の援助と家族の絆に支えられ生きてきたイラン人少女の奮闘と成長。
移民社会化する日本で、異文化ルーツの子どもたちが直面するリアルを
等身大で語った貴重な手記。


星野智幸さん(作家)絶賛!!

30年間、この本の登場を待っていました!
「デカセギ」で海外から日本にやってきた人たちの子どもが、自分の言葉で
その人生を語る日を、ずっと待ち望んできました。
その言葉の、なんと新鮮で血が通っていて胸に響くこと!
語ってよいのだ、自分の言葉で自分を語ることは自分がここにいることの
証明そのものなのだ、という思いにあふれていて、誇りを感じます。
私たちの社会は今、こんな豊かさを手にしているのです!


苦手な人でも読書感想文に書きやすい本として、今年、小学高学年~中学生に、自分がオススメするとすれば、この本です。
読書というと「物語」を思い浮かべる人が多いようですが、物語文は、特に普段本を読まない人にとってはハードルが高いと言えます。
登場人物に感情移入をしたり、その人の立場になって考えてみる、ということは、読書に慣れていない人にはとても難しいことのように思えるからです。
その点、学校を題材にしたものやカルチャーギャップを題材にしたものは、感情移入しなくても「新しい発見」や、書かれていることとは異なる「自分の意見」が書きやすいのでオススメです。
また、最後にも書きますが、この本は、全編にわたって、全ての感じにふりがなが振られているため、漢字が苦手な人にも読みやすいです。

イランから見た日本

この本の場合、以下の目次のうち、3章までは、イランから来たナディの苦労話がメインです。
小学3〜4年生が読んでも、自分たちの生活が他の国からどう見えるのか、という新たな視点を得て、色んな感想を書き進めることができると思います。

  • はじめに
  • 1章 外国に行くってどういうこと?
  • 2章 想定外!な日本の暮らし
  • 3章 うれしい、楽しい、でも困った学校生活
  • 4章 日本で胸をはって暮らしたい!
  • 5章 私はイラン人? 日本人?
  • 6章 私はここにいます
  • あとがき
  • 解説 山口元一

ペルシャで見た日本の番組(おしん水戸黄門)では、皆がペルシャ語で喋っていたので、日本に行っても大丈夫と思っていたという話、乾燥地帯のイランから見ると緑の山々がジャングルに見えるという話、ちびまる子ちゃんを見て、男女が同じクラスで勉強していることに驚く話、どれもこれも、イランから来たナディさんの目を通してしか知り得なかった話でしょう。


こういった文化的なギャップの話は、(漫画になってしまいますが)『アフリカ少年が日本で育った結果』を読んでも同様に楽しんで読むことが出来ますが、この本の場合、それに加えて、4章から6章にかけて、もう少しシリアスな内容に踏み込みます。あとがきを読むと、ナディさんは、高校三年生のときに本の執筆を依頼されたあと、本にするまでに15年かかっているというので、その間に考えたことが4章から6章には詰まっていると思います。
この本を勧めた小6の娘も、「面白くて途中までは読んだ」と言っていたので、6章あたりは小学生だと読むのが難しいかもしれません。その場合は、読まなくてもいいと思います。全部読み終えないと、読書感想文を書いてはいけない、ということは全くなく、途中までで終えても、全部読んだ気になって「一番印象に残った部分は~の部分です」と書けばいいのです。

在留特別許可の話

さて、4章では高校入試の話、5章では大学生活の話も書かれますが、後半でメインに描かれるのは、在留特別許可など日本における法制度の話と、アイデンティティの話です。
もともとナディさんの一家は「ビザのない外国人」として来日し、いつ強制送還されるかという不安とともに学校生活を過ごしていたのです。そんな中、ナディさんが中学生の時に、入国管理局に名乗り出て審査を受けることで「在留特別許可」を認めてもらい「不法滞在」状態から抜け出すという方法があることを知り、それにチャレンジすることになったのです。これは一種の賭けであり、名乗り出ることで「ビザのない」状態がばれてしまうので、審査に通らなければ即刻強制送還となります。
ともに出頭したにもかかわらず強制送還になる家族も多数出る中、結果が出るまでに1年半以上も待たされた(勿論許可がおりました)という苦労話は、この物語の中だからこそ実感を持って知ることができました。現在は、審査期間中は「仮放免中」という扱いで仕事につくことができないというルールがありますが、申請を諦めさせるために、審査期間を長くしているのではないかと言う話が出ていて、考えさせられました。
また、3章まででも書かれていますが、「不法滞在」の期間は、健康保険証がないため、医療費負担が大きく、病院に行くことを避けていたそうです。
脚の痛みを放置して靭帯を損傷した経験から、在留特別許可を得ることで「長いこと夢見た健康保険」にはじめて加入できたことに大喜びしたという話も、物語を通じてでないと、実感を持って知ることが出来なかったことだと思います。

アイデンティティの話

ナディさんの一家は、在留特別許可を得たのをきっかけに、11年ぶりにイランへの里帰りを果たすことになります。 これまでは、日本を出たが最後、再入国できる保証がないために、出来なかったのです。
ここで、イランが「ふるさと」ではないと知り、落ち込むナディさんの話も印象的です。11年も日本にいたナディさんのふるまいは、既に「日本人」化していたのです。

日本では、心ないことを言われていやな気持になったとき、
(だって私はイラン人なんだもん!しかたないじゃん)
と、イラン人であることを心の支えにしていました。でも、そんな私にとって、このイランでの滞在は、思い描いていた「祖国に帰る」ということとは全然ちがったのでした。
イランに帰れば、街なかで人の視線を感じることなんてないはずと思っていたのに、イランのどこにいても人の視線を感じました。祖国に帰ったはずなのに、外国からの旅行者のような気持になりました。私が思い描いていた「祖国」とは、「イラン人」とは、いったいなんだったのでしょう。
p170

その後、大学入試での「外国人枠」は自身には当てはまらないことガッカリし、大学入学後のアルバイト探しで「外国人お断り」の洗礼を受けたりする中、イラン人でも日本人でもないという、アイデンティティの迷路に嵌り込んだ生活が続きます。
自分が「日本人」なのか「イラン人」なのかという悩みから抜け出すことが出来たのは、「ほかの視点」に出会えたからでした。
日系ブラジル人や日系アルゼンチン人の友人(顔だちは日本人)が、見た目と中身のギャップを気にしていないどころか、「自分」というひとりの人が、いくつもの要素を含んでいることを前向きに認めていることを知り、考えを改めたのです。


この本の一番最後「おわりに」で書かれたメッセージは、とても普遍的な内容なので、大幅に引用します。

何かを必要とする人が近くにいたとき、その人が「なに人であるか」と考えるよりも、「何が必要なのか」を考えるほうが、ずっとたいせつだと私は思います。生まれや育ちにとらわれず、性別、年齢、見た目、国籍など、お互いの環境をいかに多角的に想像しあえるかが、とても重要なことだと思います。困っている人がいれば、助けあえばいいのです。来日したての私たちに、日本のご近所さんたちがしてくれたように。
(略)
法律や社会のありかたは、時間をかけてだんだんと人に寄り添うかたちに変化していくものです。しかし、その変化の過程で取り残されてしまう人がいることを忘れてはいけないと強く思います。
これは、日本で育った日本人にも無関係ではありません。(略)
一度踏み外したらリカバリーのきかない社会が変われば、多くの人が生きやすくなると思います。「多様性を認める」とは、そのような社会をめざすということではないでしょうか。
「日本人らしい日本人」や「外国人らしい外国人」だけの時代はもう終わろうとしています。私たちは、見た目や国籍を超えて、同じ社会でともに生きています。

私のふるさとも、ここ日本です。

ここまでの文章を書けるナディさんですが、お母さんは漢字混じりの読み書きができません。国籍にかかわらず、様々なルーツや背景をもつ子どもたちを想定して、すべての漢字にふりがなを振った、と「はじめに」では説明がありますが、ナディさんの両親など、日本での就学経験のないナディさんの親世代への配慮もあるのでしょう。
そして、このような小さな配慮こそが、同じ社会でともに生きる、さまざまな人のバリアを外してくれる大きな支えになっていると感じます。


読書感想文を書くために、小学生がこの本を読ませたとして、一番最初は、文化のギャップに興味を持つでしょう。しかし、最後には、こういった多様な人が生活しやすい社会、というのはどういうことかに目を向けてほしいと思います。
ただ、途中にも書いたように、読書は途中までで終えても別にいいし、比較的難しい6章は読まずに読書感想文を書いても全然OKだと思います。
読書の良さというのは、(ナディさんが日系ブラジル人の人の考え方を知ることで、自己のアイデンティティの問題をクリアしたように)多様な視点を得ることにあると思います。
そこにフォーカスして読めば、どんな人でも、それぞれに違った読書感想文が書ける、そんな本なのではないでしょうか。

参考

今年の読書感想文の課題図書。小学生高学年は、この4冊だそうです。物語文、絵本、歴史、環境系ドキュメンタリーと多種多様ですね。歴史が苦手な自分は、この中なら屋久島を選ぶかな。絵本は読みやすいですが、感想文を書くのは難しそうです。

ぼくとニケ

ぼくとニケ

かべのむこうになにがある?

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マザンナの風にのせて (文研じゅべにーる)

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中学生の課題図書は以下の3冊。伊能忠敬を扱った『星の旅人』が読みやすそうで書きやすそう。原爆を題材にした『ある晴れた日に』は、戦争と言えば読書感想の定番だけれど導かれるように「戦争反対」が結論になってしまう自分に嫌気がさすので避けたいです。

星の旅人: 伊能忠敬と伝説の怪魚

星の旅人: 伊能忠敬と伝説の怪魚

ある晴れた夏の朝

ある晴れた夏の朝

サイド・トラック: 走るのニガテなぼくのランニング日記

サイド・トラック: 走るのニガテなぼくのランニング日記

  • 作者: ダイアナ・ハーモンアシャー,Diana Harmon Asher,武富博子
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 2018/10/10
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高校生も課題図書があるのか!どれも面白そうですが、映画化されている『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』が気になります。

この川のむこうに君がいる

この川のむこうに君がいる

ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ (海外文学コレクション)

ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ (海外文学コレクション)


ファミリー編は、まだ読んでいませんが、『アフリカ少年が日本で育った結果』は、星野ルネさんの関西人気質が前面に出た、楽しい話満載の漫画です。

まんが アフリカ少年が日本で育った結果

まんが アフリカ少年が日本で育った結果

まんが アフリカ少年が日本で育った結果 ファミリー編

まんが アフリカ少年が日本で育った結果 ファミリー編

参考(過去日記)

以前も、課題図書の面白さに気がついて、感想を書いていますが、結局、読書感想文の課題図書に選ばれている本というのは、やはり読む価値のある面白い本、ということでしょうか。
このジャンルは、もっと読んだ方がいいですね。
pocari.hatenablog.com

最高のホラー小説、来た~澤村伊智『ぼぎわんが、来る』

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

今回、順序的に、中島哲也監督の映画『来る』を今年の正月に観に行ったあと、原作小説として、この本を読んだ。
映画を観ていたので、筋はある程度知っていながらも、終盤になればなるほど、映画と離れていくストーリーに手に汗握り、全体を通した普遍的なテーマに頷き、驚いた。
原作が先か、小説が先か、ということはよく考えるが、この作品についてはどうだろうか。自分としては、小説と映画で終盤が全く違う中で、よりダイナミックな演出で物語を楽しめる映画のあとに、より精緻に物語を味わえる小説を読んだのは正解だったと思う。キャストも松たか子の琴子役がプロレス(やり過ぎ)的な感じはするが、それ以外はイメージ通りだ。

映画の凄さ

小説を読んで、映画『来る』はとても面白い映画だったのではないか、と改めて思い直した。実際、小説に合わせて映画も3部構成になっているが、秀樹(妻夫木)視点の第一部、香奈(黒木華)視点の第二部までは、視点転換によるどんでん返しもあり、小説の面白さを映画でもうまく再現出来ていた。
つまり、最初に主人公だった「イクメンパパ」秀樹の表と裏がよく分かる心理サスペンスになっていた。*1
しかし、映画の見せ場は第三部。ここで一気にキングオブモンスターズみたいなイメージの映画になるため、第二部までのよく出来た心理ドラマは吹き飛んでしまっていた。
映画を観て数日後のメモを見るとこう書いてあった。

2019年の最初に観た映画。
妻夫木聡のクズ役が話題になる映画だが、青木崇高*2のダメ感も凄い。ただ、この2人のダメ感を引き立てる黒木華が女優として優れているのかも。
この人も、この人も、死んじゃうのか…と主要登場人物の退場に驚いていると、後半は、ホラー映画というよりは災害映画になり、日本最強の霊媒師・松たか子の役回りが重要になる。男を蹴飛ばすシーンなど終始カッコいい彼女だが、お祓いのシーンでの発声が圧倒的だったら、この映画は断固支持だった。

とはいえ、後半の、日本はもう終わりかもしれない、という感じはとても良かった。
少なくとも小説は続編もあるので、映画の原作『ぼぎわんが、来る』から読んでいきたい。なお、キャバ嬢霊媒師・真琴が小松菜奈であることには全く気が付かなかったし、今もピンと来ない。
何よりピンと来なかったのは「オムライスの国」かな…笑

「オムライスの国」…!!!(笑)
そうでした。
何だよこれ!というオムライスの映像もとても印象的だった。
(今でも、思い出しながら、何だよそれ!と突っ込みを入れています)

岡田准一×黒木華×小松菜奈!映画「来る」ロングトレーラー


原作小説の凄さ

さて、原作小説の素晴らしさについては、千街晶之さんの解説が上手くまとまっていて、ほぼ何も付け加えることがないので、ここから引用する。

物語の骨格自体は、目新しさを売りにしているわけではなく、むしろ古典的でさえある。例えば、怪異から呼びかけられても答えてはいけない…という設定は、この種の会談ではお約束と言っていいが、それをこんなにもモダンな印象のホラーに仕上げてみせた匙加減は絶賛に値する。
怖さの演出効果において秀逸なのが、「ぼぎわん」という、見ただけでは意味が全く分からない不気味なネーミングだ。(略)著者は得たいの知れない単語で恐怖や不安を醸成するのが得意であり、これは独自の強みと言える。
本書の特色は、構成の妙味にもある。すでに触れたように本書は三つの章で視点人物が異なるのだが、どの人物も(そして他の登場人物たちも)他の章では全く異なる印象で描かれており、主観と客観の落差が読者に大きな衝撃を与えるのだ。
(略)そして、この主観と客観の際を利用したどんでん返しによって、古来の伝承と、現代的かつ普遍的な問題とが結びつき、ひいては「ぼぎわん」の正体が解ける仕組みとなっているのだから、つくづく巧いと感嘆するしかない。本書に限った話ではなく、著者の小説では、恐ろしいのは怪異そのものに限らない。怪異を生み、あるいは招き入れる人間の心もまたおぞましさに満ちている。そうした怨念や自己正当化や劣等感など…言ってみればひとの心に生まれる隙間の描き方でも、著者は部類の切れ味を見せるのである。

ネタバレをしてしまうと、結局、『ぼぎわんが、来る』でメインテーマとなる「現代的かつ普遍的な問題」というのは、DVなのだが、それに絡んだ関係者の心理、社会的な要因が、色々な側面から描写される。それによって、傷ついた人の心理、身内にDV加害者がいた家族の受け取り方など、読者は、様々な視点を得て、DVという問題を深く考えることになる。


印象に残ったシーンは、香奈視点の第二章で、部屋の中のお守り類が切り刻まれる事件が起きた日の描写。
急に早く帰って来ることになったパパと過ごすために、れみちゃん家族との食事の約束がなくなってしまった知紗が「パパきらい」と香奈に告白し、続けて「パパ…こわい。こわいにおいがする」というシーン。
実際に起きることではなく、「起きる予感」が最も怖い、という、恐怖の本質が、この言葉に表れているし、より本能的な「におい」に訴えることによって、読者のイメージを掻き立て、DVという作品全体のテーマを補強している。


この台詞のあと、知紗が泣き止んでから香奈が、秀樹の机の上にあった「イクメン名刺」を発見して、キレてお守りを切り刻む。ここは、秀樹視点の第一章で「ぼぎわん」の仕業だったとされていた事件の犯人が、実は香奈だったというどんでん返しになっている。小説も映画もこの部分は基本的には同じである。


しかし、知紗が頭を怪我した日のことについての小説での扱いは映画とはかなり異なり、物語で一番印象に残った。
すなわち、第1章では、救急車で病院に行った話が、「イクメンBlog」で秀樹の活躍を示すエピソードとして語られ、第2章では、全く頼りにならなかった秀樹の本当の様子が、香奈視点で描写される。全体的に、第2章は、妻の香奈が、秀樹にどれだけ苛々させられていたか、を示す裏話的な内容になっているので、この章で、大体の部分は取りこぼしなく「事実」が語られる。映画も同様である。
2章では、この事件について次のように香奈は書いている。

後で知紗から聞いた話によると、怪我の原因は「走っていてテーブルにぶつかった」という、ごくありふれたものだった。最悪のケース…秀樹が知紗を小突いたか、突き飛ばしたかして怪我をさせた…を想定してさえいたわたしにとっては、ひとつの救いであった。p193

しかし、3章では、秀樹の母親が、姉(秀樹の伯母)が亡くなった事故について「お、お母ちゃんは、事故や言うてたわ。どんな酷い人でも、父親が娘を殺すわけない言うて。走って転んで、つ、机に頭ぶつけただけやって」と琴子に言うのを知り、驚愕する。
2章で、すべて明らかになっていたと思われた知紗の事件にも裏があった可能性が高いことに読者が初めて気がつく仕組みになっているのだ。


このようにミステリ的な仕掛けを用いて、人間の怖さを描いてみせた『ぼぎわんが、来る』は、エンタメでありながら、前回読んだ『誰かが見ている』以上に、社会的なテーマを多角的な視点から掘り下げた意欲作だと言える。
極端に言えば、ひとことの教訓で示すことのできるテーマやメッセージを、いかに多角的視点から、手を変え品を変えて言葉にし、読者の心の奥底にまで入り込むことが出来るか、が、小説の良さを説明する最も大きなポイントであると気がついた。読者側からすれば、たくさんの視点を「持ち帰る」ことが読書の意味であると言える。
ありきたりの教訓や物語では「持ち帰る」ものは少ないのです。


ホラー小説としても、はじめて鈴木光司『リング』や貴志祐介『黒い家』を読んだときのことが思い起こされ、伝統のブランド・角川ホラー文庫の作品をもっと読みたくなりました。
次は、識者のオススメにより『キリカ』を読みますが、勿論、比嘉姉妹シリーズは続けて読んでいきたいです。

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ししりばの家

ししりばの家

などらきの首 (角川ホラー文庫)

などらきの首 (角川ホラー文庫)

*1:実際には、3部以外に、妻である香奈の位置づけも映画と小説では大きく異なる。映画では、香奈は不倫関係にあり、第2部ラストで死んでしまい、秀樹との比較の中で「どっちもどっち」という印象を残す。原作小説では、男性社会批判の要素が強いのを薄めた可能性があるのは少し残念。

*2:優香の旦那さんなんですね!

「百田尚樹現象」に刺激を受けて読んだ2冊~百田尚樹『モンスター』『幸福な生活』

ノンフィクションライター石戸諭によるニューズウィークの特集「百田尚樹現象」が面白かったので、まずは一冊読んでみようということになり、長編と短編集の2冊を読んでみた。*1

『モンスター』

モンスター (幻冬舎文庫)

モンスター (幻冬舎文庫)

田舎町で瀟洒なレストランを経営する絶世の美女・未帆。彼女の顔はかつて畸形的なまでに醜かった。周囲からバケモノ扱いされる悲惨な日々。思い悩んだ末にある事件を起こし、町を追われた 未帆は、整形手術に目覚め、莫大な金額をかけ完璧な美人に変身を遂げる。そのとき亡霊のように甦ってきたのは、ひとりの男への、狂おしいまでの情念だった——。

かなり読みやすく、最後まであっという間だった。
主人公が整形を繰り返して美女になるまでの描写は、成り上がりものとして面白いのと合わせて、どの程度の期間、どの程度の費用で手術するのか、「美形」にするには、何に工夫すれば良いのか、というあたりの、整形豆知識が、非常に勉強になる。
特に、究極を求める和子(未帆)が、一旦、平均的でシンメトリーな美女に到達したあと、最終的に、左右のバランスを調整し、笑顔の演技も練習して「美」を手に入れるくだりは、執念を感じる。
しかし、整形手術という、賛否が分かれることもあるテーマを題材にしながらも、百田尚樹自身のメッセージがよく分からなかった。
例えば、ひとつ前に感想を書いた『誰かが見ている』について言えば、作者の家族観
子育てについての考えは、柚希という登場人物が語っている内容に表れていると思う。
テーマを持った物語を書く以上、どうしても作者が顔を出してしまう。その部分を探りながら読むのが自分は好きなのだと、改めてわかった。
この、「作者の顔が見えない」というのは、百田尚樹という作家の強みである、ということは、もう一冊の『幸福な生活』を読んで判明した。

『幸福な生活』

幸福な生活 (祥伝社文庫)

幸福な生活 (祥伝社文庫)

永遠の0』『海賊とよばれた男
国民的ベストセラー作家が魅せる超技巧!
衝撃のラスト1行!
そのページをめくる勇気はありますか?

宮藤官九郎さん「嫉妬する面白さ――」

単行本未掲載「賭けられた女」を新たに収録

「ご主人の欠点は浮気性」帰宅すると不倫相手が妻と談笑していた。こんな夜遅くに、なぜ彼女が俺の家に? 二人の関係はバレたのか? 動揺する俺に彼女の行動はエスカレートする。妻の目を盗みキスを迫る。そしてボディタッチ。彼女の目的は何か? 平穏な結婚生活を脅かす危機。俺は切り抜ける手だてを必死に考えるが……(「夜の訪問者」より)。愛する人の“秘密"を描く傑作集!

『モンスター』とは打って変わって、19編が収録された短編集(ショートショート)。
この短編集の特徴は、ぺーじをめくったあとの最後の1行の台詞で落とす形式が統一されていること。
驚いたのは、通常、この種の短編集は、玉石混交で、面白いものとつまらないものが混在するのが普通だが、どれも、まさに「粒ぞろい」で、凸凹がない。
それも、想定の範囲内と、範囲外、のギリギリのラインで落とす。勿論、めくる前にネタがわかるものが多いが、それでも、最後にストーンと落ちるのは読んでいて気持ちが良い。
一編が短いこともあり、軽い気持ちで読み始めてすぐに読み終えられる、お手軽な一冊だ。
ただし、文庫本で初収録された 「賭けられた女」はいただけない。
ほとんどの読者が騙される理由は、叙述トリックが巧みだから、ではなく、叙述が下手だから、である。優秀な叙述トリックの本を読んだことのある人ほど、この短編には納得がいかないと思う。


この『幸福な生活』の文庫巻末解説は宮藤官九郎
ここで、百田尚樹の強みを次のように説明する。

改めて百田尚樹さんは「作風」を持たない作家さんだなと思いました。著者名を隠して幾つか読み比べたら、同じ作家が書いたと気がつくだろうか。それくらいエピソードによって作風が変わります。(略)
誰が書いたか分からない。そういう場で経験を積んだ作家は強い。個性で勝負できないぶん、純粋に面白いもの、娯楽性の高い作品を書くしかない。読者を(視聴者を)楽しませることを第一に考えたら、文体なんか気にしてられない。個性はむしろ邪魔になる。だから作風を持たない。

宮藤官九郎が書くように、これは、バラエティ番組*2構成作家という匿名性の高い仕事を長年続けていたことに起因するのだろう。
このあたりは、最近、何冊かの小説を続けて読みながら、エンタメ小説って何だろう?と考えているあたりとも通じるが、自分は、やっぱり作者の「作風」や「メッセージ」を読み解いていくことが小説の面白さの大きな部分を担っていると思うので、『モンスター』や『幸福な生活』のように、読者を安全地帯に囲って、ひたすら楽しませるという小説は、若干、苦手な部分がある。
ということで、もう少し、百田尚樹の顔が出ている本を読んだ方がいいかなあ…。

カエルの楽園 (新潮文庫)

カエルの楽園 (新潮文庫)

日本国紀

日本国紀

*1:本当は『永遠の0』を読もうと思ったのですが、ベストセラー過ぎて避けてしまいました…。でも読んだ2冊は、どちらも百万部売れているようです。凄すぎる…。

*2:百田尚樹は『探偵ナイトスクープ』の構成作家

韓国の歴史をもっと知りたくなる映画~『工作 黒金星と呼ばれた男』


ファン・ジョンミン主演、映画「工作 黒金星(ルビ・ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男」7月19日(金)に日本公開決定!日本オリジナルポスター解禁

歴史的事実といっても、90年代という、つい最近の歴史を扱った映画。
自分は1974年生まれなので、1996年の総選挙、1997年末の大統領選挙の頃には完全に成人しているし、平成で言えば、平成8年、9年の頃のことなので、本当につい最近の出来事のように思える。
日本にいると、途中、社会党の党首が首相となったり、民主党が政権を取っていた時代があったりもしたけれど、自然災害以外で、平成の30年間で国が大きく変わるような歴史的事件は無かったように思う。
韓国の1990年代は、少し調べても、中国との国交樹立が1992年、IMFによる韓国救済が1997年に起きている等、日本と比べて歴史が濃密。
そして、「北風」*1が吹いて与党が勝利した1996年の総選挙。「北風」が空振りし与党が敗北、金大中が勝利した1997年末の大統領選挙。この時期の対北朝鮮工作が、『工作』の舞台となる。


登場人物は、黒金星(ブラック・ヴィーナス)こと主人公のパク・ソギョン。
その上司であり、最終的に、与党勝利を何よりも優先するチェ・ハクソン。
北朝鮮側にいて、全く感情を表に出さない、リ所長。
観客をもイライラさせる北朝鮮の「課長同志」、チョン・ムテク。
基本的に、この4人をメインキャラクターとして話が進んでいく。
最初は、輸入品を「メイドイン北朝鮮」にする話*2など、敵か味方か正義か悪か、よく理解しきれないままに話が進むが、黒金星とリ所長のふたりの関係については、予備知識なくても十分に追っていくことが可能で、エンドロールでは、図らずも涙していた。というか、あのラストで泣かない人はいないのではないか。


途中で挟まる、北朝鮮の一般市民の極度に貧しい生活、そして、ポメラニアンを連れて登場する金正日の存在感など、何となく知っていた情報も、映像で見ると、胸に刻み込まれるような思いがする。
映画(もちろんテレビ番組でもいいが)を、多くの面から楽しむには、歴史的背景、出演する俳優の演技や、撮影技術的なことも知っておいた方がいいだろう。ちょうど、この日は、『天気の子』も見たが、監督の前作や、その作風・評価も知っており、声優や主題歌についてもわかって観る映画と比べて、『工作』は、色んなことを知らないで観たため、その世界を十分に堪能できたかと言えば疑問ではある。
しかし、そうした作品世界や歴史背景を知るためのレセプター(受容体)を増やすという意味では、この映画は、自分にとって大きかった。
本や映画の良さを「世界を広げる」という言葉で表現することがあるが、実際には、知識を広げるのは、本が適しているように思う。知識は、個人個人のペースややり方でないと身につかないからだ。
映画や映像作品は、知識を受け入れるためのレセプター(受容体)を与えてくれる。それは好奇心という言葉で置き換えられるだろう。だから、本当に作品世界を楽しめるのは、少し時間が遅れてからかもしれない。しかし、世界を広げるためには重要な「種」なのだと思う。
今回は、金大中大統領が誕生する頃の話だったが、金大中は、1971年の大統領選で敗北後、1972年にKCIAによって日本で誘拐されて殺されかけ、さらに1980年の逮捕後に死刑判決を受け、1987年に再び大統領選で敗北、そして1997年についに大統領に就任し、2000年にはノーベル平和賞を受賞…という怒涛の人生。
この間に、韓国は、光州事件民主化などの大きな変化があり、それを題材にした有名な映画もある。もっと韓国の歴史を知りたいと思わせる一作でした。


次は、当然このあたりを見たいです。本なら『知りたくなる韓国』でしょうか。

【映画 予告編】 タクシー運転手 〜約束は海を越えて~(特報)

キム・ユンソク×ハ・ジョンウ共演「1987、ある闘いの真実」9月より日本公開決定!特報解禁 20180419

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知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

*1:軍事的緊張を恣意的に起こすことで与党を勝たせやすくする、そうしたことは、現代の日韓を見ていると、今も使われる手法といえ、全くひとごとではありません…

*2:パンフレットによれば、当時の韓国では、北朝鮮産の物品の輸入には関税がかからなかったため、関税逃れで、メイドイン北朝鮮としていたようです。

ぽくないメフィスト賞受賞作~宮西真冬『誰かが見ている』

誰かが見ている

誰かが見ている

第52回メフィスト賞受賞!
4人の女には、それぞれ表の顔と裏の顔がある。ブログで賞賛されたいがために、虚偽の「幸せな育児生活」を書くことが止められない千夏子。年下の夫とのセックスレスに悩む結子。職場のストレスで過食に走り、恋人との結婚だけに救いを求める保育士の春花。優しい夫と娘に恵まれ円満な家庭を築いているように見える柚季。
4人それぞれの視点で展開する心理サスペンス!
彼女たちの夫も、恋人もまた裏の顔を持っている。
もつれ、ねじれる感情の果てに待ち受ける衝撃!
「この先、いったいどうなるのか?」
ラストまで一気読み必至!!


メフィスト賞』と聞いて、自分がイメージする言葉は「バカミス」「エクストリーム」「パズラー」「トリッキー」で、毒にも薬にもならず、エンタメに特化したミステリの極北のための賞だと思っている。
実際、宮西真冬『誰かが見ている』(2016年、第52回)の前の受賞作が以下の2作で、他の類似作品がないような馬鹿過ぎるトリックだったり、構成が巧妙だったり、というメフィスト賞のイメージ通りの作品だった。

  • 第50回 早坂吝 『○○○○○○○○殺人事件』
  • 第51回 井上真偽 『恋と禁忌の述語論理』

この2作に続いてメフィスト賞を受賞した『誰かが見ている』。
読み終えてみると、あまりにもメフィスト賞らしさが無くて驚いた。
メイン主人公の千夏子とサブ主人公の柚希が中盤まである事実を隠していることや、張られた伏線が最後に回収されるところなど、ミステリとして、それなりにちゃんとしているため、かえって「エクストリーム」なところが無いのが目立ってしまう。
題材としたテーマも含めて、嫌いな作品ではないが、メフィスト賞としては物足りなさを感じる内容だった。

『坂の途中の家』との比較

今回、たまたま直前に読んだためか、角田光代『坂の途中の家』と共通する点が複数あると感じた。むしろ、『坂の途中の家』にインスパイアされた作者が、「自分なら同じ題材をこう料理してミステリにする!」と奮起した作品のようにも読めてくる。
類似するのは例えばこんな点。

  • 育児、夫婦関係への悩みを抱える複数の女性の視点で物語が展開する
  • ブログに事実とは異なる「幸せな親子」の日記を書く母親が登場する
  • 夫の浮気を気にして、携帯電話を盗み見る場面がある
  • 家族のあり方が作品のメインテーマとなっている

前回『坂の途中の家』の感想では、世の中の小説には、「毒にも薬にもならないエンタメ作品」と「読者に考えることを強いるような、苦い良薬作品」があり、大きく性質が異なる、というようなことを書いたが、前者の作品としては、メフィスト賞受賞作をイメージしていた。
しかし、メフィスト賞受賞作である『誰かが見ている』は、もうちょっと考えさせる作品になっている。そうすると、以下の3段階に分ける方がいいかもしれない。*1

  1. テーマ性が希薄で、エンタメに特化
  2. テーマを読者に投げかけるが、読者は安全地帯
  3. テーマを読者に投げかけ、かつ、読者自身に考えることを強いる

そうすると、普通の小説は「2」に入って、むしろ「1」や「3」が少ない。
例えば、桐野夏生は、作品ごとに明確なテーマがあり、1には当てはまらない。テーマが一般的かどうかによって、2と3の間ということが言える。
繰り返すが、メフィスト賞は、あくまで1のカテゴリーに入るものと思っていたが、この作品が受賞しているところを見ると、エンタメではなく、テーマ性で評価されているのかもしれない。
ところが、自分は、この作品を、エンタメ、社会的テーマのどちらの観点からも好きになれなかったのでした。(以下、かなりネタバレ)




何が自分にとって不満だったのか

まず、エンタメの観点から言えば、伏線回収後に、メインの登場人物である4人の女性すべてが前向きな形でラストを迎える終わり方が、あまりにご都合主義で、現実味がない。以前、書いた言葉を使えば、一気に登場人物たちの「実在感」が乏しくなり、共感できなくなる。特に、夫婦の不仲は誤解がもとに生じているということはあるだろうが、それゆえに長引くのであって、一気に誤解が解けるということは無いように思う。
結局「他人の考えていることは分からない」、というニュアンスで終わる(というより終わらない)『坂の途中の家』のオープンエンドと比較すると、『誰かが見ている』は「おじいさんとおばあさんは幸せに暮らしました」タイプの安易な終わり方と言え、あまり胸に残らない物語となった。


テーマの観点から言えば、家族や子育てについての物語であるのは好みのタイプの作品と言える。
ミステリとしても、千夏子が、不妊治療の末に授かった我が子をひとめ見て、なぜ「私の子供じゃない」と思ったのか、という部分と、幸せいっぱいに見える柚希も我が子に秘密を抱えているという部分は謎の核としてうまく機能している。終盤に、柚希が実は不妊治療を諦め、特別養子縁組で杏を養子に迎えた、ということが明かされ、彼女が、(子育てに悩み「娘なんて産むんじゃなかった」と口走った)夕香に対して、怒りを覚えるという流れもすんなり理解できる。*2
結局、この作品での作者の主張は、柚希の幾つかの独白に表れていると思う。

子供を育てるとは、どういうことなのか。
子供の幸せとは何なのか。
障害があっても、愛しぬくと誓えるか。
もし万が一、自分たちに子供ができたとしても、同じように愛情を注ぐことができるか。
お互いの意見を交わし、納得し、そして、……養親になることを決めた。
p243

夫と膝を突き合わせて話をしてきた中で、何度も確認しあったのは、もし、自分の思うように子供が育たなくても、「養親にならなければ良かった」と、投げ出したりしない覚悟があるかということだった。着せ替え人形をもらうわけではない。一人の、感情がある、立派な人間とつき合っていくのだ。実子だろうと、養子だろうと、それは何ひとつ変わらないと、夫との意見はまとまっていた。父親も母親も、そして子供も、別の人格でいろんな考えがある。そんな人同士で、仲良く暮らしていくのが、家族という形なんじゃないか、と。
だからこそ、夕香が言った言葉が許せなかった。
p246

柚希の考え方にはとても共感できる。
しかし、その後、夕香を許せなかった自身の考え方を反省し改めるところまで含めて、柚希との語る言葉は、とても説教くさく聞こえ、これもまた実在感に乏しい。しかも、終盤の展開は、柚希の考え方が伝播して多くの人が改心するような流れで進むので、登場人物が自ら考えた結果ではなく、店内に「蛍の光」が流れて、そろそろ店じまい、みたいな雰囲気を感じてしまう。


タイトルは、千夏子が「神様」として扱われていたブログでの「嘘」を「誰かが見ていた」というストレートな意味がまずある。それ以外に、結子が最後に結婚式で誓いの言葉を述べたあとで、「神様」に「見てなさいよ」と宣戦布告する台詞があるが、「誰かが見てくれている」というポジティブな意味でつけているのだろう。
これもものすごく巧いタイトルというわけでもない。話は面白くないわけではないが、やはり、この作品がメフィスト賞受賞作と言われると、不思議な本でした。
宮西真冬さんは、そもそも『首の鎖』『友達未遂』に興味を持って知った作家さんなので、そちらも読もうと思います。
あと、メフィスト賞受賞作といえば、話題のこの本も早く読みたいです。

首の鎖

首の鎖

友達未遂

友達未遂

線は、僕を描く

線は、僕を描く

過去日記

pocari.hatenablog.com
→こういう、何故このベストセラーを自分は好きになれないか式の文章は、個人的すぎて人に読ませるものでないのですが、自分の趣味を探る上ではとても重要で、本を選ぶ際の指針になっているような気がします。この続きの文章と合わせて、「実在感」の重要性について書いています。


以下、メフィスト賞受賞作関連の感想。

*1:2軸を考えて4つに分類することも考えたが、テーマ性が希薄で考えることを強いるような小説は無い気がする… →と思ったが、いわゆる「純文学」は、テーマに拠らないで、読者に考えさせるタイプの作品かもしれない

*2:実際には、トリックみたいな形で「特別養子縁組制度」が出てくる流れに最初は戸惑いましたが、柚希の性格が真っ当だったので、その面での不満はなくなりました。でも、もう少し柚希の「黒い面」が出ていたらとても面白い本になっていたように思います。

いつの間にか自分自身について考えさせられる小説~角田光代『坂の途中の家』

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)

あらすじ

この小説に興味を持ったのは、裁判員制度に絡めた物語だったからだ。
もともと、裁判員制度自体には、否定的な意味で興味を持っていた*1が、守秘義務の問題があり、体験エッセイ漫画などでは裁判の過程を読むことができない。その意味では、フィクションで触れるのに適した題材と言える。
そして、読んだ冊数こそ少ないが絶大の信頼を寄せている角田光代
早く読まねば、と思っていたら、今年4月にはWOWOWのドラマ(柴咲コウ主演)*2にもなったので、期待高まるタイミングで、やっと読むことができた。


公式あらすじは以下の通り。

刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。

主人公・山咲里沙子には2歳10か月の娘がいて、夫と3人暮らし。 8か月の娘をお風呂に沈めて殺してしまった 事件の被告・安藤水穂も同様に、夫と3人暮らし。
物語は、裁判員裁判の公判1日目から8日目までの証人の発言を聞く里沙子の視点から語られるが、里沙子は、家族構成以外にもさまざまな共通点があることに気がつき、週刊誌では「ブランド狂いで母性なし」という悪評にまみれる水穂に同情していく。
その核には、時に、孤独で、逃げられない戦いを(伝統的家族観の中での)役割として負わされる 「育児」についての母親の悩みがある。

サスペンス

小説を読んで驚いたところは、新たに起こるイベントが非常に少ないこと。
基本的には数か月前に起きた乳児の虐待事件に関する証言のみで話が進む。
小説の記述は、娘の文香(あやか)を浦和の実家に預けて公判に出かけ、帰りに文香を連れて家に帰る里沙子の日々の出来事と考えの比率が圧倒的に多い。
物語が進行するおよそ10日間の間に新事実が何も出ないということは、同様に事件を題材にしたミステリとは大きく違う点である。


それでは何が物語を駆動するか(サスペンスの核になるか)といえば、里沙子の家族への思いが、公判の内容に影響を受けて大きく変化する、その心の動きである。
イベントが次々と起こるのではなく、脳内で色々な思いが錯綜する---その方が実人生に近く、ありていな言葉でいえばリアルであり、より読者自身に引き寄せて考えられる。
そもそも、この小説は、水穂という女性を、裁判というフィルタを通して見て、自分に引き寄せて考える里沙子という主人公がいた上で、里沙子を、小説というフィルタを通して、読者それぞれが自分に引き寄せて考えるという重層的な構造を取っている。
物語の進み方(新しいことがほとんど起きない)と、物語の構造(作中の人物が、見ず知らずの人物に感化されて、人生を振り返る)の、双方で、読者に「考える」ことを強いるような仕掛けがあるのだ。


読者が何を考えさせられるか?
それもまた人それぞれなのだと思う。
里沙子と同じ裁判員の一人・ 芳賀六実(はがむつみ)は、既婚だが子どもはいないアラフォー。彼女も証言を聞きながら、自分の人生の中での夫や家族との関係に目を向ける。その他の裁判員も、年代性別さまざまだが、それぞれの経験の中で、また時には周囲の意見も聞きながら事件について考える。読者も、同様だろう。


自分は、子どものいる既婚男性ということになるが、読んでいてかなり辛かった。
小説内の男性登場人物(里沙子の夫・陽一郎、水穂の夫・寿人)が、DVを振るうようなダメ人間であったら、どれだけ救われたか。ところが彼らはダメ人間ではない。夫として、(仕事重視でありながらも)それなりに育児に理解があることで、読者として「俺はこの夫たちとは違う/里沙子や水穂が苦しんでいるのは、夫のせいだ」と、自分と切り離して非難する逃げ道が塞がれてしまった。
したがって、里沙子や水穂の夫(や夫の両親)に対する不満の表出は、そのまま読者としての自分に刺さっていく。
子どもが生まれたばかりの頃、そして今、自分は、家族を苦しませる原因を作っていないか?
日々の言動が、その苦しみを内に貯め込んでしまうことに繋がっていないか?
等々…。


一方で、読者に「考える」ことを強いる小説内の登場人物として、考えに考えを重ねた里沙子は、終盤で、家族に対する大きな確信を得るに至るのだが、それについては後述する。

タイトルの意味

公判序盤で、証拠画像として示された水穂の家は、坂に沿って並んだ新築建て売り住宅のうちの一軒(坂の途中の家)だったが、里沙子には既視感があった。里沙子は、今のマンションにしばらく住んだあと、一戸建てを買おうと物色したときに、現地の物件を見て回ったときのことを思い出したのだ。

見て回ったそれらの家に水穂の住まいは似ていたのである。どこのどの一軒、というのではない。住むことを思い浮かべた家のどれか、あるいはそのぜんぶを足したような住宅だった。そして無意識に思い浮かべたリースや正月飾りや石段の鉢植えは、そこに住んだら飾ろうと里沙子が実際に思っていたのだった。p77


つまり、里沙子が持っていた新築の戸建てに対する憧れが、「坂の途中の家」を初めて見たときに頭の中によぎった。
もっと言えば、この小説がテーマのひとつにしているのは、カッコつきの「理想の家族像」であるのだが、そのイメージを、乳児虐待の起きた家に重ねようとしているところが皮肉でもある。

公判の間の証人や裁判員たち、そして里沙子の夫である陽一郎や義母の発言は、ある種、それぞれの人の頭にある「理想の家族像」を念頭にしたものであった。弁護側の証人(水穂の母親や友人)も、本来の主旨であるはずの、被告を守るということ以上に、自分がそこ(理想像)から外れていないことに重きを置いていたと里沙子には感じられる。


しかし、里沙子は、自分の頭で考えることで、そこから逃れることが出来た。
特に考えることもせずに受け入れている価値観が、いかに脆弱なものなのかということがこの小説の言いたかったことだろう。

ラスト(大きくネタバレあり)

この本のラスト、変な言い方をすれば、里沙子の考え方の「転向」は、小説の流れからすると自然かもしれないが、全ての読者が受け入れられるものではないだろう。
そもそも、公判の十日間で、里沙子が見た人々は、皆、自分がそう見られたいように証言を述べていた。だから発言者が異なると「事実」が変わって見えてくるということは里沙子自身が分かっていたことである。つまり、里沙子が最終的に得た「気づき」も、決して「事実」ではない。
したがって、ここで示されているものは、「事実」ではなく里沙子の一面的な見方に過ぎない、という解釈が成り立つとはいえ、それまで色と言っていたものを黒と断言するような里沙子の考え方の「転向」の度合いは大きく、読者としてはギョッとする。


公判五日目の段階では、里沙子は、自身の能力不足も 夫婦のわだかまりの一因だと考えていた。ましてや、四日目は、くたくたに疲れた公判の帰り道、「抱っこして」と路上でぐずり始めた文香を懲らしめようと、少しの間、道路に置き去りにしたところを、帰宅中の陽一郎に見つかり、信頼を失うという失態を犯している。五日目とその後の週末は、里沙子の気持ちが最も落ち込んでいる時期だ。
里沙子が考えを大きく変えるきっかけとなったのは六日目に証言した水穂の高校時代の友人・有美枝の発言だった。有美枝は、あんなに前向きで自信家だった水穂が、変わってしまった理由を、夫のおだやかな暴言で、水穂の自信がことごとく奪われたのではないかと考えたのだ。(p283)
これを受け、公判八日目以降の、里沙子の思考はダイナミックに変わっていく。

あの人たちは(略)理解するはずがない。ただ相手を痛めつけるためだけに、平気で、理由もなく意味のないことのできる人間がいると、わかろうはずがない。
相手といったって、恨みのある相手でもなければ、何かの敵でもない。ごく身近な、憎んでもいない、触れ合う距離に眠るだれかを、自分よりそもそも弱いとわかっているだれかを、痛めつけおとしめずにはいられない、そういう人がいるなんてこと。
p420

私も、今まで気づかなかった。里沙子は窓の外を眺める。国道沿いの数軒の店、ずっと続く田畑。見慣れた景色なのに、はじめて訪れた町のように見える。たぶんこの審理にかかわらなければ、ずっと気づかなかったろう。私だって意味がわからない。
無料カウンセリングがある、だから安心したという話が、裁判終了後、精神科にかかるという話になって義母に本気で心配される。里沙子はこの流れに、心配や思いやりなど微塵も感じない。感じるのはただ、意味不明な悪意だけである。あまりに意味が不明すぎて、今までだったら、気づかなかった。それが悪意だと。
p422

けれど今、ようやくわかりはじめている。陽一郎は、引き出物がへんだと言いたかったのでもないし、残業や飲み会を知らせている男なんかいないと言っていたのでもない。きみはおかしい、間違っていると、ただそれだけをずっと言い続けていた。おかしいところをなおせ、でもない、間違っていることをただせ、でもない。陽一郎は、ただ単に私に劣等感を植えつけたかっただけだと里沙子は今になって、まるで他人ごとのように理解する。
けれど、理解して、ますますわからなくなることがある。なぜそんなことをする必要があったのか。p432

暴力など一度もふるったことがない。(略)
けれど実際は、青空のような陽一郎は、静かな、おだやかな、こちらを気遣うようなもの言いで、ずっと、私をおとしめ、傷つけてきた。私にすら、わからない方法で。里沙子はそのことだけは、今やはっきり理解している。しかし依然としてその理由も目的もわからない。憎んでいるからだと思うしかないが、なぜ、また、いつから憎まれているのか、里沙子には想像すらつかない。p463

しかし、その夜、「きみには無理だ」と言われるのを覚悟しながら「また働こうかな」と陽一郎に聞いてみると「それもいいんじゃない」と肯定され、逆に自分の方が被害妄想にとらわれてしまったのではないか、と不安になる。
読者としては、夫婦がお互いの誤解を解いて仲直りするという穏当な方向でエンディングを迎えるのかと思いきや、そうはならない。


里沙子は、一度は被害妄想かもと不安になったにもかかわらず、その後もスタンスは変わらないのだ。解釈は若干変わったが、陽一郎が、もしくは自身の母親が、相手をおとしめようとして、発言・行動してきたということは、事実として、里沙子の頭に定着している。
以下に、ラストまでの里沙子の思考をシンプルに辿ったが、最終数ページの段階では離婚についても考えており、正直言って、この終盤の里沙子の一点突破式の思考にはついていけない部分がある。

憎しみではない。愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。それがあの母親の、娘の愛しかただった。
それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ…。
そう考えると、この数日のうちにわき上がった疑問のつじつまが合って行く。陽一郎は不安だったのだろう。自分の知らない世界に妻が出ていって、自分にはない知識を得て、自分の知らない言葉を話しはじめ、そして、一家のあるじが今まで思っていたほどには立派でもなく頼れるわけでもないと気づいてしまうことが、不安だったのだろう。
p480

きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない。私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。
そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。
p481

そもそも離婚を望んでいるのかどうかも、里沙子にはわからなくなる。ただ、おそろしいだけだ。陽一郎が彼の愛しかたで、妻である自分ばかりか、文香まで愛するのを。
p488


この、スッキリしない終わり方については、ノンフィクション作家の河合香織さんの解説が素晴らし過ぎる。
解説では、まず、「もしかして狂っているのはこの女ではないか」という可能性にも言及しつつ、ノンフィクションと比較したときの小説の特徴について次のように書いている。

普遍性を見出そうとする営みという点において、具体的な事件を追うノンフィクションと、虐待を題材に小説を書くことに大きな違いはあるのだろうか。むしろ、小説には事実の影に覆い隠されて見えなくなっている本当の人間の姿を引きずり出す力があるように思える。
だからこそ、角田光代の小説ほど心を揺さぶられるものはない。そこに描かれるのはいつだって「私」だったから。

ほぼ同意だ。
ちょうど、自分は、『坂の途中の家』を読む前に、別のベストセラー作家の作品を読んでいたのだが、その作品は、読者を、物語から完全に切り離した安全地帯に置いて、そのことで、登場人物が繰り広げるドラマの悲喜こもごもを楽しませることに徹した内容で、面白かったが、いわゆる「毒にも薬にもならない」話だった。
だからこそ「私」が書かれている、読むことで、確実に「私」と向き合うことになる『坂の途中の家』を読んで、これこそが「小説」だという気持ちを強くした。
結局、この小説は、読者自身それぞれの「私」の小説になってしまっているので、モヤモヤしたラストでの里沙子の結論は、それほど作品の本質には影響しないのだ。
それでは、この小説のもっとも重要なポイントはどこにあるのかといえば、「自分で考えること」であると、河合香織さんは説く。

本書には、人は自分で選んでいるつもりでも、選ばされているのではないかというテーマが根底にある。親から受け継いだ価値の呪縛から逃げたいと思っても、なかなか逃れられない。里沙子も水穂も、その価値の呪縛に苦しんでいた。親の価値観を憎み、そんな親に育てられた自分は非常識で異常だと思い込み、自身を失っていた。黙っていれば誰からも謗られることが無いし、選択しなければ責任を取る必要もない。仕事をやめることも、子どもをもつことも、自分の価値観に照らして、自分で選びとってきたと言えないかもしれない。
そうやって選ぶことも放棄してきた里沙子は、裁判を通じて試行錯誤していく過程で、最後に考えることを取り戻そうと一歩を踏み出す。その姿に、作者の人間への深い信頼を感じる。
(略)
考えることは、自分の人生に責任を持つことは、苦しいかもしれない。けれども、七転八倒しながらも考え抜いた答えは、他人から押し付けられて選ばされた人生とは大違いだ。見たくもなかった自分の姿も、恥じるものではなく、きっと誇らしくさえ思うだろう。
生を信じることをやめることはできない、そんな人間の剛健さを作者は描き出した。だから、性別や年代に関わらず、角田光代の小説に多くの人が心を動かされ、なぜ作家は「私」のことを知っているのだろうかと思うのだ。

自分は、既婚男性としてこの小説を読み、『82年生まれ、キム・ジヨン』のように、男性が糾弾される内容だという風にも感じたし、毒親問題に関心がある人は、そのテーマに共感する部分があったかもしれないが、ポイントはそこではない。
里沙子は、考えることを放棄しなかったことで、自ら選ぶ人生を見出した、そこが最も作家が主張したかった部分ということだ。里沙子の結論は正しく見えないかもしれないが、正しいかどうかではなく、考えたかどうかの方が重要なのだ。
ときに、小説の力を借りながらも、自分の頭で考えることをやめない。
そんな風にして人生を選んで生きていきたい、と思わせる小説でした。

参考(過去日記)

角田光代というと、やはり『対岸の彼女』の印象が強いです。『坂の途中の家』もそうですが、角田光代は、夫婦であっても親友であっても、結局は「他人」だという見方を持っている気がします。ドライに考えるからこそ、愛が深いのかもしれません。
pocari.hatenablog.com
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河合香織さんは、昨年読んで最も面白かった、というか考えさせられたノンフィクション小説『選べなかった命』の人ですね。『セックスボランティア』も興味あります。
以下の『帰りたくない』は河合香織さんの本の解説を角田光代さんが書いている、という、『坂の途中の家』と反対となるコンビですが、驚くべきことに、最終的に主張する内容が一致している、ということで、相思相愛の関係なのかもしれません。それにしても角田光代解説の巧さよ…。
pocari.hatenablog.com

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)



結論をいえば、『坂の途中の家』を、フェミニズムをテーマにした小説と捉えるのは誤読という感じもするのですが、男が読むと、とても痛いという意味では似ていると思います。
pocari.hatenablog.com


裁判員制度開始前(2007年)に書いた文章がこちらです。ここでは書いていませんが、自分は「裁判員が量刑まで判断する必要がある?」という点にも強く疑問を抱いています。
pocari.hatenablog.com

*1:開始前から、いろいろと気になっていたが、裁判員制度は今年令和元年で制度ができてから10年が経つ…。

*2:小説を読んでから配役を知ると、里沙子=柴咲コウも、水穂=水野美紀も、歳を取り過ぎているような気がする。陽一郎も田辺誠一だと、歳を取り過ぎ。もう少し若い配役にできなかったのだろうか。