Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

絶対に併せて読みたい相思相愛解説~河合香織『帰りたくない』×角田光代『坂の途中の家』

文庫本の楽しみは何といっても解説だと思うのです。
やっと本を読み終えた!誰か読んだことのある人と話をしたい!
…と思っても、そんな人が近くにいる、というシチュエーションに巡り合うことはまずありません。
そんなときでも読了直後から話につきあってくれる友達「文庫解説」があれば大丈夫です。
「答え合わせ」や「新たな視点」、関連作品まで教えてくれることのある文庫解説は、自分にとってはなくてはならないものです。


さて、ビブリオバトルは、言わずと知れた「読みたくなる本を紹介しあって勝ち負けを決めるゲーム」ですが、そこで「文庫解説がオススメの本」を紹介しました。
今日参加したのは、通常5分で1冊を紹介するところを、5分で2冊紹介するイレギュラーな形式で「ダブルバウト」と呼ばれる形式です。
新型コロナウイルスの影響を受けて、ビブリオバトルもzoomなどを用いたオンライン形式で行われることが増えました。が、今日はオンラインと対面のハイブリッドという相当レアなビブリオバトルで、しかも自分は少数派の「オンライン」での画面出演で、主催者に迷惑かけまくりだったのではないかという恐縮しきりの参加となりました。


ビブリオバトルはコミュニケーションゲームであるため、基本的に観客を観て話し、原稿を見ながら喋ることはありません。が、自分の場合は、5分という枠内に入るか確認しながらラフな原稿を作成して、プレゼン前に覚えるというパターンが多いです。
しかし、ダブルバウトの場合は、時間が足りないのがわかっているため、かなり完成度を上げた原稿を用意します。
そこで、今回は用意した原稿をアップするのと合わせて、そこで取り上げた2冊の解説について、さらに追加で気になったことを書いてみたいと思います。

ビブリオバトル5分間の発表内容

今日の2冊のテーマは文庫本の魅力と「考えさせる読書」です。
まず一冊目は河合香織さんの『帰りたくない』です。

副題にあるのは「少女沖縄連れ去り事件」。
関東地方在住の10歳の女の子が、47歳の男に誘拐され、8日後に遠く離れた沖縄で保護されます。
保護されたときに、彼女は「家には帰りたくない」と言うのですが、なぜ彼女はそんなことを言ったのかに迫るノンフィクションです。
シチュエーションは、今年の本屋大賞受賞作『流浪の月』と似ている部分もありますが、2冊目に持ってきている本は『流浪の月』ではありません。
『帰りたくない』は、中盤に明らかになる事実が衝撃的なのですが、『流浪の月』の読者には割り増しで響くように思います。


この魅力は、本編もさることながら、解説がすごい!ということです。
小説家・角田光代さんによる解説は、本のダイジェスト、分析がわかりやすいだけでなく、ノンフィクション論になっています。
そもそも、この本自体、河合さんと犯人男性との往復書簡がベースになっているなど、3年半の取材の成果が詰まった傑作です。
けれども、角田光代さんは、事件の核心にいかに迫るかということ以上に大切なものが、すぐれたノンフィクションにはある*1、と言います。
それは、どんなに取材を続けて事実を重ねても、どうしてもわからない、ブラックボックスの部分に対する姿勢です。


この「ブラックボックス」に対して、テレビのコメンテーターは「心の闇」だとか「虐待の連鎖」だとか、「わかったつもり」になるキーワードをつけて蓋をして、ブラックボックスなどないことにして安心させます。
しかし、すぐれたノンフィクションはそれとは逆だと角田さんは言うのです。
ブラックボックスがあることを意識させることによって、読者に考えさせ続ける。事件を起こした人たちが単に特殊な人たちとで、自分たちとは違う世界の出来事だと勘違いさせない。
すぐれたノンフィクションとはそういうものだと言います。


さて、そんな角田光代さんの書いた『坂の途中の家』が、今日の二冊目になります。

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)

  • 作者:角田光代
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: 文庫


この本に興味を持ったのは「裁判員制度」について扱った本だからです。
いつか突然自分に回ってくるかもしれない裁判員という役割について知っておきたいという気持ちでこの本を手に取りました。
主人公は、もうすぐ3歳になる娘を抱える主婦の里沙子。
旦那さんも忙しいながらも育児に協力的な3人家族。
そんな里沙子が担当する事件は、テレビでも話題になった8か月の乳幼児虐待死事件で被告人は母親です。
裁判員*2としての10日間、事件について里沙子はどのように考えたかを辿る小説になっています。


 最初は、同じ幼い子どもを持つ母親として、被告人を軽蔑していましたが、10日間の中でいろいろな証人の発言を聞くうちに、被告人を同情する気持ちは、むしろ、自分はどうだろうかというところに向かいます。
帯に「娘を殺した母親は私かもしれない」とありますが、被告人が背負った辛さと同じような理不尽を、里沙子自身も、夫から、親から受けてきたのにやり過ごしてきてしまっただけなのでは?と不安になるのです。


さて、もう一度、この本の構造を振り返ってみましょう。
裁判員裁判の事件を掘り進めていくことで、自分の人生について考える主人公・里沙子。
同じように、本で、彼女の気持ちの変化を辿っていく読者は、必然的に考え続けることになります。


ここで驚きの事実を述べますと、この文庫本の解説は、1冊目に紹介した『帰りたくない』の作者の河合香織さんです。
こういった虐待事件を扱うことは、むしろノンフィクションの方が多いわけですが、河合さんは、それと比較したときの小説の強みについて書いています。
河合さんは、角田光代さんの小説には、いつも「私」(つまり読者自身)が書かれている、と言います。
先ほど言った「ブラックボックス」という言葉を使って言えば、ノンフィクションでは最後に残す「ブラックボックス」の部分。
そこに、普遍的な人間の気持ちを入れ込むことによって、やはり、読んだ人が誰でも「これは自分のことだ」と考えさせるような仕組みが内蔵されている。と解釈しました。


優れた文庫解説は、読んだ本について改めて振り返り、そして考える機会を与えてくれます。
相思相愛の解説が読めるこの2冊を是非セットでお読みください。
(発表終わり)

補足的内容

この2冊の感想は過去にそれぞれ以下でまとめています。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

ここでも書いている通り、『坂の途中の家』の解説が河合香織さんだと知ったときは単純に驚いただけなのですが、今回改めて読んでみると、この2冊の文庫解説は呼応しすぎているのではないか、という気になってきました。
特に顕著な部分として、それぞれの解説の終わりの部分を長めに引用します。(どちらも名文です)


まず、角田光代さんによる河合香織『帰りたくない』の解説。

先に、心に残る事件ノンフィクションは、ブラックボックスを抱えている、と書いた。それはなぜかといえば、考えさせるからだ。(略)
本書もまた、心に残るノンフィクション作品になるだろう。彼女の体当たりの取材によって、私たちは深く考えさせられることになるのだから。あとがきにもあるように、加害者はだれで、被害者はだれなのか。少なくとも、発端のところではだれも何も間違っていない。生きるために闘い、生きるために逃げた。その途上で出会った二人の、奇妙な逃避行について、私たちは考え続ける。考えることで、この不可思議な事件に私たちもまた立ち会い、立ち会うことによって忘れるということがない。人間というもののある在りようについて、おそらくずっと、考え続けることになる。(2010年4月)


次に、河合香織さんによる角田光代『坂の途中の家』の解説。

誰にでも人生を変える書物というものがあるだろう。(略)
本書も多くの人の人生を変える書物になるだろう。もしも出会うことがなかったら、私は何も知らずに生きていったに違いない。善意に隠された悪意も、相手を貶めることでしか表せない愛し方も、考えることを放棄することの悲しさも、そして虐待とはどういうことかも。
これからも私は何かから逃げ出したい時に、必ずこの本を開くことになるだろう。
考えることは、自分の人生に責任を持つことは、苦しいかもしれない。けれども、七転八倒しながらも考え抜いた答えは、他人から押し付けられて選ばされた人生とは大違いだ。見たくもなかった自分の姿も、恥じるものではなく、きっと誇らしくさえ思うだろう。
生を信じることをやめることはできない、そんな人間の剛健さを作者は描き出した。だから、性別や年代に関わらず、角田光代の小説に多くの人が心を動かされ、なぜ作家は「私」のことを知っているのだろうと思うのだ。


「考えること」「考え続けること」の大切さを強調する全体の論旨はもちろん、太字で示した部分は、ほとんど同じ表現を使って互いの本を褒めています。
おそらくは、『坂の途中の家』の文庫解説を書くことになった河合香織さんが、『帰りたくない』で角田さんに書いてもらった文庫解説を読み直して意識したのだろうと推測されるので、アンサーソングならぬ「アンサー解説」なのかもしれません。
しかし、内容としては角田さんの解説に引っ張られずに、しっかりと『坂の途中の家』の核にあるものが抽出されており、ノンフィクション作家の考える「小説論」としても読みごたえがあります。
文庫解説の名手として(自分が)絶対的な信頼感を置いている角田光代さんに負けない河合香織さんも、ものすごく優秀な読み手なのでしょう。


実は、河合香織さんは『絶望に効くブックカフェ』という書評本を書かれており、これが、「最近出版された本」と「古典と呼ばれるもの」を二冊併せ読むという手法で書かれた書評で、ダブルバウトそのものです。
まさに、この本こそ、二冊併せ読みが大好きな自分にとっての必読本なのですが、ここで取り上げられた本を読んでから手をつけようと思って、自分はほとんどこの本を読めていません…。

絶望に効くブックカフェ (小学館文庫)

絶望に効くブックカフェ (小学館文庫)


なお、河合香織さんの『帰りたくない』は絶版でなかなか手に入れにくいのですが、入手できなかった場合は、近作『選べなかった命〜出生前診断の誤診で生まれた子』が全国民必読の名著なので、まずはこちらを読んでいただければと思います。(文庫化されたときには、その解説がやはり気になる一冊です)


2冊を読見直し、改めて「考えること」「考え続けること」の大切さを意識し直しました。
もっと色々な本を読んで、たくさん考えていきたいです。

*1:あとに引用した文章にもありますが、正確には角田さんは「すぐれた」という言い方を使うのは不正確だとして、「心に残るノンフィクション」という言い方をしています。

*2:実際には「補充裁判員」です。この制度も本を読むまで知りませんでした。

映画の中で見える「強さ」~『キングダム』×『散歩する侵略者』

最近見た映画の感想を二つ合わせて。

キングダム

キングダム(映画)

キングダム(映画)

  • 発売日: 2019/10/09
  • メディア: Prime Video

キングダムは、昨年、映画館で予告編のみは何度も見ていたが、結局、テレビ放送のタイミングで鑑賞。とても流行っている原作は未読。
感想はお金を払っていないと緩くなるけれども、「二人」を見ただけで満足できた。その「二人」とは、天下の大将軍・王騎を演じた大沢たかおと、この映画本編のラスボスともいえる王弟派の元将軍・左慈を演じた坂口拓
この二人は、他の出演者と比べると、「強さ」が圧倒的に映る。逆に、この映画の最大の問題は、信(山崎賢人)、エイ政(吉沢亮)率いる、王派が強く思えないこと。
信の言動が、あまりに平成(令和)のヤンキーっぽいのは気になるも、主人公2人がカッコよかった(特に吉沢亮)のは良かった。しかし、結局、彼らが戦に勝ち進める理由が「なぜならそれは主人公だから」としか言いようのないものであることが残念だった。(ライムスター宇多丸による映画評でよく言うところの「ロジックがない」)
特に、え?これで勝っちゃうの?と思ったのは、3つのシーン。

  • 序盤、2人が出会う場面での刺客(映画アバターっぽい顔の)朱凶と信の対決。(序盤なので、一回負けとくんだろうと思って観ていた…)
  • 終盤、王と山の民の軍が、形勢的に圧倒的不利の中で王弟軍を打ち破る場面。(城郭から矢が降り注ぐ中で勝てる理屈がわからない)

そして、ラストの信×左慈は、作用・反作用の法則を無視するような、佐慈をぶっ飛ばす蹴りなど、戦いがフェアでなさ過ぎて、勝った感じが全くしない。
ラストで圧倒的な強さを見せる王騎がいなければ、全く締まらなかっただろうと思う。ちなみに、 王騎は表情や発声が独特で、全体的にロバート秋山に見えてしまったが、それほど、大沢たかおに何かが憑りついていたともいえる。

散歩する侵略者

散歩する侵略者

散歩する侵略者

  • 発売日: 2018/03/07
  • メディア: Prime Video

正直言って意味が分からない、でも雰囲気のある映画だった。
前半は良い。地球人になりすまして宇宙から来た「侵略者」が「概念」を奪っていくという設定は、シュールかつ怖さもある。しかし、ラストに近づくほど謎が増えていくストーリーで、そこをどうとるかで感想は分かれると思う。

『キングダム』で「山の民」の王を美しく強く演じた長澤まさみだが、こちらは「迷い戸惑う」長澤まさみで、何を考えているのかわからない松田龍平(侵略者)との組合せにも、ラストで「愛」を感じることができたのは良かった。

そんなことよりも『キングダム』との比較で言いたいのは、長谷川博己高杉真宙チームにいて、やや出番の少ない恒松祐里の「強さ」。彼女も侵略者(宇宙人)で寡黙なキャラクターながら、アクションシーンでは大勢を相手に圧倒的な「強さ」を見せる。
『キングダム』の山崎賢人のような変なCG(ワイヤーアクション)がないからというのもあるが、殺陣が本当に見事過ぎて驚いた。『殺さない彼と死なない彼女』では「地味子」というキャラクター名通り、そこまで目立たないキャラクターだったので、ここまで「強そう」な側面があるなんて思わなかった。彼女が出演する映画も追いかけたい。『凪待ち』にも出ているのか!

凪待ち

凪待ち

  • 発売日: 2020/02/20
  • メディア: Prime Video


そういえば、『キングダム』で味方の武将・壁を演じる満島真之介は、こちらでは引きこもりの青年の役でした。顔が似ている勝村正信のイメージからなのか、ハンサムだけどとても憎めない感じ。

映画と旅と~『37セカンズ』『百万円と苦虫女』

『37セカンズ』


『37セカンズ』本予告

生まれた時にたった37秒間呼吸が止まっていたことが原因で、手足が自由に動かない身体になった主人公・貴田ユマ(佳山明)。親友の漫画家のゴーストライターとして働いて自分の作品として出せないことへの寂しさや⻭がゆさ、そしてシングルマザーでユマに対して過保護になってしまう母・恭子(神野三鈴)との生活に息苦しさも感じていた。自分にハンディ・キャップがあることをつきつけられる日々だか、それでも23歳の女性として望んでいいことだってあるはず。そんな思いの狭間で揺れる日々。そんな時、ある出来事をきっかけに、ユマの人生は大きく変わり、自らの力で『新しい世界』を切り開いていくことになる・・・。

3月の終わりころだったか、たまたま、タイ公共放送とNHKの合作ドラマ『盲亀浮木〜人生に起こる小さな奇跡〜』(原作:志賀直哉)を見た。*1
若い頃の奥田瑛二みたいな顔のタイ人作家が、海辺の家で過ごすだけの環境映画的な作品にもかかわらず、とても心に残った。
これを観て、ちょうど直前に見た映画『37セカンズ』を思い出した。脳性麻痺の主人公の成長を描くこの作品では、後半、舞台を東京からタイの自然豊かな場所に移す展開がある。密度の詰まった前半に比べて冗長と評価する人もいるようだが、自分にとってはむしろ後半のゆっくりした流れが心地よかった。
これは、過去にタイに旅行で行ったことがあるからだと思う。*2実際の撮影現場でなくても、そこに似た場所に行ったことがあるという体験は、作品鑑賞にプラスに働くと思う。


たまたま連続して「そういう映画」を見ているというだけなのかもしれないが、松本清張砂の器』(1974年、出演:丹波哲郎森田健作加藤剛)も、通常話題に上る後半の音楽演出(と作品テーマ)よりも、前半の、秋田→島根→三重→大阪を電車で行き来する「バーチャル旅行」的な展開が印象に残った。
先日、追悼の意味も含めて初鑑賞となった大林宣彦時をかける少女』(1983)を見ても、当然、尾道に行きたくなる。
特に、日本国内であれば、移動手段も含めて、旅行体験ライブラリから、似た風景を導き出しやすいので、それだけ鑑賞映画を豊かに味わえる。つまり、旅行体験が多ければ多いほど、これらの映画を見るだけで旅行した気分に浸ることができる。


さらに、舞台が東京近辺の場合は、個別のロケ地が気になるようになった。
以前も少しは気になっていたが、『3月のライオン』の聖地巡礼(これは漫画のロケ地だが)がきっかけなのかもしれない。映画やドラマはもちろん、アニメ作品でも、作品舞台を身近に感じるようになった。
先日観た『パパはわるものチャンピオン』(2018)は『3月のライオン』と同じく、家の近くの小さい橋+職場の近くの大きい橋という2つの橋が何度も登場する作品で、そのうちの前者、仲里依紗(編集者) が寺田心くんに「パパ」のサインを頼み込んだ門前仲町八幡橋(調べて知りましたが)は是非とも行ってみたいロケ地ポイントだ。

百万円と苦虫女


百万円と苦虫女


そんな中で見た『百万円と苦虫女』は、ひょんなことから「前科者」となった蒼井優演じる鈴子が「働いて百万円貯ったらその土地を離れて次の土地へ」を繰り返す話。メインのストーリーは、森山未來との恋愛模様にスポットが当たる後半にあるのだが、物語の舞台が、海の家(日立市)→山の中の桃農家(福島県飯坂町)→地方都市(上尾市らしい)に移る、その流れ、場所が移り変わっていくこと、そのものが楽しい。
森山未來に、土地を転々とする生き方を問われて答えるシーンが印象的だ。

「自分探し、みたいなことですか?」
「いや、むしろ探したくないんです。どうやったって、自分の行動で自分は生きていかなくちゃいけないですから。探さなくたって、嫌でもここにいますから」

この映画の特徴は、それぞれの土地での人との交流が描かれながらも、仲間が増えないこと。
「人は別れるために出会う」のではなく「出会うために別れる」と鈴子が悟る通りに、最後まで別れてばかり。いつ犯罪行為が飛び出るのかびくびくしたが、結局純朴な青年に終わった桃農家のピエール瀧が良い例だが、鈴子は今後、この人たちと会うことはないだろう。それは恋人だった森山未來も同じで、清々しいほどに別れっぱなしだ。


それなのに、鈴子は逃げていない。離れ離れになった弟のことを心配する様子を見ていると、鈴子が、手紙の中で弟に向けて書くようにして、自身にも問いかけて続けていることが分かる。


重要なのは、そうした問いかけが、頭の中で完結するものではないということだ。新たな人と出会い、ともに仕事をする中で、時にトラブルに見舞われる中で、鈴子は自身を固めていく。成長というよりは、自分に合ったスタイルを身につけていくというイメージだろうか。自分で生計を立てていくには、「探さなくたって、嫌でもここにいる」自分と向き合うことになるのだから。


この点は、『37セカンズ』とも似ている感じがした。例えば『ラプンツェル』は、無理やり親元から抜け出して「外の世界」を知っていくという意味で『37セカンズ』と似た構造を持っているが、旅そのものが「冒険(エンターテインメント)」になっている点が大きく異なる。*3百万円と苦虫女』や『37セカンズ』は、「外の世界」よりも新たな場所で生活していく中で「自分に向き合う」ことに重きが置かれる。そこでは、王子様や彼氏が、「本当の自分」を見つけてくれるのではなく、自分が自分と折り合いをつけていく。


百万円と苦虫女』の紹介記事を見ている中で、「ロードムービー」という言葉を見て、そういえば、そんな言葉があったと気づかされた。
昔、『トゥルーロマンス』を見たときには、「これがロードムービーなんだ、へー」くらいの感想しか持てなかった。だだっ広い荒野みたいな場所を車で移動するということに全く実感が持てなかったからだ。
しかし、見知った場所が登場する邦画をいくつか観る中で、自分の関心がスクリーンの向こう側にまで届くようになった。
映し出される土地の生活や風景に興味を持ち、過去・未来にかかわらず、自分がそこを訪れたときのことまで思いを巡らせるのは最高に楽しい。そうすると、今度は逆に、街歩きでリアルな生活風景を見て、そこに住んでいる人たちの物語を想像していくことに繋がり、さらに映画を観るのが倍々で楽しくなっていく。
そもそもロードムービーという括りに入るかわからないが、思考が内側に向かう『百万円と苦虫女』『37セカンズ』は、異色なロードムービーと言えるかもしれない。しかし、ストーリーというよりは、生活風景や主人公の思考によりスポットがあたる、こういった作品は自分に合っているような気がする。
これからも、こんな映画を楽しみたいが、そのためには、いろんな場所を実際に訪れる体験を少しでも貯めておく必要がある。世の中(東京都)は「ステイホーム週間」ということになっており、昨日5月4日には、緊急事態宣言の5月末までの延長が決まったばかりだが、とにかく早く旅行に行きたいなあ。

百万円と苦虫女

百万円と苦虫女

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
砂の器 デジタルリマスター版

砂の器 デジタルリマスター版

  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: Prime Video
時をかける少女

時をかける少女

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

*1:2020年4月4日 - 日本×タイ ドラマ「盲亀浮木〜人生に起こる小さな奇跡〜」 - NHK

*2:学生時代にサムイ島&バンコクに、社会人になってからプーケットに行きました。また行きたいなあ。

*3:ディズニー作品だから当然なのだが、ミュージカルの音楽も含めて、『ラプンツェル』の冒険は、まさにディズニーランドに行った気持ちになれる作品だ

新型コロナ禍での生活(1月下旬~3月中旬)

ほんの2~3か月には全く予想しないほど大きく生活が変わってしまいました。
最近では(もう元には戻らないという意味で)「コロナ後」「ニューノーマル」なんて言葉が使われるのも見かけますが、「元の生活」がどこまで取り戻せるのか、心配でたまりません。
生活が変わるのと合わせて「考え方」も変わってきます。例えば、数か月前なら気にも留めなかった行動に怒りを覚えたりもするのです。

3月末に、関西の大学の学生が3/2~13に卒業旅行で欧州を訪れて、その後のクラスター発生の原因となったことがわかり、強い非難を浴びました。
また、つい最近のことですが4/15のニュースでは、ファーストレディである安倍昭恵夫人が3/15に約50人の団体ツアーと共に大分県宇佐市宇佐神宮を参拝していたことが分かり大きな問題になりました。
確かに、4/26現在、そのような旅行に行く人がいれば、自分も間違いなく強い言葉で非難するでしょう。
しかし、状況は日々変化し、それに伴って自分の心情も変わっていきます。
さらに、個人的な話ですが、3月末~4月上旬のタイミングでの家族旅行を昨年から計画していた(結局キャンセルした)ので、場合によっては、自分が非難される立場にあったかもしれないのです。

そこで、過去の自らのtweetを辿りながら、自分が新型コロナウイルスとどうつき合ってきたかを確認してみました。

1月下旬


ツイートで最初に新型コロナウイルスについて触れたのは1/26で、Amazonで観たドキュメンタリー映画『一人っ子の国』の感想を挙げています。この時点では、コロナの件はリスクは自覚しながらも完全に他人事でした。なお、1/23に中国政府が武漢封鎖を決定していますが、2/3にダイヤモンドプリンセス号が横浜に寄港するに至ってもなお、それほど危機感はありませんでした。
この時期は、4月頭に予定していた家族旅行の行き先として「台湾に行きたかったけど、台湾はちょっと無理っぽいぞ」と、行き先を近場に変更せざるを得ないとは考えてましたが、「日本なら安全だろう…」という甘い考えでした。
なお、1/28に「募ってはいたが募集はしていない」の国会珍答弁があり、ニュースでも「桜を見る会」の話がまだ盛り上がっていました。

  • 1/25は行けなかったけどLOVE JAM田島貴男プレゼンツのライブイベント)。
  • /26 鬼滅の刃のアニメ第一回を見る。-1/31 KIRINJIが現メンバー構成としてはツアーまでということを発表。

2月上旬


あれ?コロナ関連のツイートが少ない…。仕事が一番忙しい時期だったからなのかもしれません。このときはまだ「3密」を意識しない外出形態ですね。

2月中旬

この頃、韓国では新型コロナ対策についての報道が賑わっていました。
tweetを見返すと、この頃も桜を見る会の前日の夕食会の話題をRTしており、コロナの話題は少ないのかと思いきや、小泉進次郎の名言「 反省しているんです。ただ、これは私の問題だと思うが、反省をしていると言いながら、反省をしている色が見えない、というご指摘は、私自身の問題だと反省をしている」は2月16日の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合を欠席して地元で後援会の新年会に出席していたことに対するものでした。
思い返すと、DP号からの下船が始まる2/20の直前の2/18に岩田健太郎氏による船内レポートの動画が上がっているので、日本政府のコロナ対策に世間的にも批判の声が上がり始めた時期は2月中旬という感じでしょうか。
船内に入った厚労省職員が無検査で通常業務に戻ったりしているのは、当時も批判されていますが、今考えるとちょっとありえなさ過ぎて驚きます。
ちょうどこの頃、タクシードライバーの感染が話題になっていたのにもかかわらず、乗ったタクシーで「うちは特に厳しく言われませんね」とマスクしていない運転手に言われて殺意を覚えたので、個人的にも少しピリピリし始めた頃です。

2月下旬


2/21に『37セカンズ』見ました。(『パラサイト』超えの映画でした。)
この映画を見に行ったときは、密閉空間はまずい、という認識はあり、少しおっかなびっくりで見に行った記憶があります。ちなみに世間的には『ミッドサマー』が猛威を振るっていた時期です。
2/25に初の専門家会議開催というのは「遅い」と感じた覚えがあり、やはり2月中旬あたりからだんだん意識が変わってきたのでしょう。
それにしても2/26段階での日本での死者数は1人(クルーズ船除く)、韓国は11人という少なさにも衝撃を覚えます。
すでにPCR検査の検査数が韓国と日本では大きな差がありましたが、それに対して「検査数を増やすのはよくない」論がこの時期は優勢でした。

さて、2/24の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」で「この1~2週間の動向が、国内で急速に感染が拡大するかどうかの瀬戸際である」という話が出ますが、完全に風向きが大きく変わったのが2/20でした。

「イベント開催の必要性、検討を」 新型肺炎厚労省20日

 新型コロナウイルスの感染拡大にともない、国内でイベントの中止などが相次いでいることを受け、厚生労働省20日、「開催の必要性を改めて検討するようお願いする」などとする声明を出した。一律に自粛を要請することは見送ったが、感染の広がりなどによって今後見直すとしている。
「イベント開催の必要性、検討を」 新型肺炎で厚労省 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

その後、スポーツイベントや美術館の休館など、事態が急速に動きます。
さらに、2/26には、安倍首相が、全国的なスポーツ・文化イベントなどについて2週間の自粛を要請することを表明、さらに、2/27に安倍首相による全国小中高の一斉休校要請が出ます。そして2/29に記者会見と、26日→27日→28日の日ごとのドタバタ感がすごいです。
安倍さん本人は自画自賛のようですが、休校要請については決定過程が不透明で、かつ「専門家会議の意見を聞いていない」ことが禍根を残したと考えます。つまり、専門家会議の意見も聞いて3/19に休校要請を一旦解除することになりますが、専門家会議の意見としては、そもそも一斉休校が不要と考えていたから解除を求めたわけです。
実際に継続していたら学校でクラスターが出たかもしれないというのはその通りなのですが、プロセスが不透明で科学的ではないことに加え、「木曜発表で次週から休校」という急すぎるスケジュール、また、文部科学省など内部の調整もできていないことまで露呈し、政府への不信感が増す大きな出来事だったと思います。


なお、個人的には、休校期間と合わせて2週間はテレワークがメインに。「今現在の生活」に大きくシフトし始めた時期です。

  • 2/23 これ以降、土日のランニングは花粉症対策としてマスク着用
  • 2/24 ビブリオバトルのチーム対抗戦の話題が、参加していない飲み会で盛り上がりジェラシーを感じる
  • 2/28 休校要請を受けて、勤務先も「出社(極力)禁止令」が出る

3月上旬

→まだこの頃は、マスク不要論も多かったです。

→自分の、「感染者数」に対する不信感はこの頃からあったのですね。


→ずっと変わらない意見

この時期、クラスター発生源として、スポーツジムやライブハウスが連日話題に挙がり、ライブイベントには逆風になります。さらに、3/9の専門家会議 では「スポーツ・文化イベントの自粛要請を19日ごろまで延長する意向」が出され、ますます辛い状況になっていきます。

なお、2/24の専門家会議で「これから1、2週間が瀬戸際」と言われて以降、阿部さんが「これから1~2週間」を連発したので、いつになったらその日が来るのかと心配しましたが、3/9の専門家会議で、そのレビューをした形になります。
また、3/5に中国と韓国からの入国を大幅制限することを突如発表しましたが、明らかに判断が遅すぎた上に、習近平国賓来日延期のニュースと重なり、なぜ遅れたかの理由もそこに求めざるを得ない状況。さらに、入国制限に踏み切った背後に百田尚樹・有本香両氏との会食(2/28)があったとの憶測も流れて、安倍政権の「国民の命を守る」ための政策判断に「科学」が一切無関係であることが知れ渡り、不信感というよりは、怒りと呆れが強くなりました。
繰り返しになりますが、判断基準や決定過程が明確で科学的であるということが絶対的に重要です。当然、後年にその判断を検証できるよう「議事録」も重要になってきます。


この時期に発覚した加計学園の韓国留学生の面接試験に関する報道もあやふやにしたくないニュースですね。

3月中旬

→これはいい文章でした。安倍さんには「言葉への信頼や経緯」がない。これは確かだと思います。

→五輪については、今は、安倍さんが「2021年開催」を、専門家の意見を聞かずに決めたことに怒りを覚えています。


プロ野球Jリーグの開幕延期に引き続き、遂に3/11に夏の高校野球の中止が発表になり、いよいよ東京五輪の開催をどうするかという話になっていきます。
ところが、3月に入ってからコロナ感染者の世界分布状況が大きく変わっており、むしろ欧米が深刻な状況に陥り、3/11にWHOがパンデミックと認めます。よく比較されるカリフォルニアとニューヨークは、カリフォルニア州は3月4日に、ニューヨークは3月12日に非常事態宣言を出し、外出禁止令もそれぞれ3/19(サンフランシスコは3/16)、3/20に出されます。
おそらく、日本とIOCが綱引きをしていた時期なのかもしれませんが、3/14の改正新型インフルエンザ等対策特別措置法の施行に伴う安倍首相記者会見でも五輪の延期については触れられませんでした。
さて、繰り返しになりますが、4月半ばになってから非難される、いわゆる3連休の「気の緩み」の引き金を引いたのは、満開の桜もありますが、3/20に出た休校要請の解除だったと思います。変な時期に休校要請を出してしまったので、これを解除するときに「状況が改善している」という情報を発してしまうことになります。
また、3/19にアテネパナシナイコスタジアムで開催された聖火引継式もその流れを助長しました。
3月中旬の時期に引き締めのために休校要請が出され、五輪延期が発表
されていたら、「気の緩み」はかなり少なかったのではないでしょうか。
(なお「気の緩み」という言葉を政府側が使うことは、責任逃れにも見え、いやな気持がします。)
さて、新型コロナ以外では、3/11のタイミングに、森法務大臣の「311では検事が最初に逃げた」発言など検事長の定年延長問題が盛り上がりますが、安倍政権は人材が豊富過ぎて笑ってしまいます。(森法務大臣公職選挙法違反疑惑で辞任した河合克行議員に代わって就任)

安倍昭恵夫人の大分旅行について

さて、最初に話題にした安倍昭恵さんの宇佐八幡参拝について話を戻します。
当時の感覚に戻しても、「コロナで予定が全部なくなっちゃったので、どこかへ行こうと思っていたんです」という思いつきから大分に行ってしまうのは感覚としてはついていけません。さらに3/14は安倍首相記者会見、さらにどこまで把握していたのか不明ですが、3/18の週刊文春では森友問題が再燃します。
こういった問題意識のもとに尋ねられた質問に対する安倍首相の答弁(4/17)は以下でした。

  1. 神社の参拝は密閉ではない。3密が重なったらダメだと申し上げている
  2. 小池百合子東京都知事による週末の外出自粛要請(3月25日)や自身による不要不急の外出自粛要請(同28日)より前だった
  3. その後は昭恵氏による都外への移動はなかったと

ずれすぎです。
まず「3密が重なったらダメ」というのは、その後、菅官房長官が指摘しているように誤りですが、「自粛要請」が公式に出る前なら何をしてもいいと考えているようにしか思えない答弁で、しかも3点目の「都外への移動はなかった」は、すでに3月下旬の都内レストランでの花見会食が問題になっているための苦し過ぎる言い訳。
素直に認めて謝った方が印象が良いのに、どうしても「謝ったら死んじゃう病」が抜けないのでしょうか。
また、森友問題は、昭恵さんも深く関係しており、安倍さんの答弁のために官僚が自殺していることが明らかになっているのに開き直りの発言ができるというところは理解できません。
3/15のツイートで引用した通り、「安倍首相の発言には、言葉を尽くせば意見の異なる相手の心でも動かすことができるという、言葉への信頼や敬意が感じられません」ということを、また実感した答弁でした。


(3月下旬以降は、アベノマスク、非常事態宣言、相次いで報じられる芸能人の死など、さらに世の中が変わったのでいったん終わります)

僕がビブリオバトルを好きな理由~熊谷晋一郎『小児科の先生が車椅子だったら』

熊谷晋一朗さんは、東京大学先端科学技術研究センター准教授で小児科医、新生児仮死の後遺症から脳性麻痺になった方で、1977年生まれということで同世代の方だ。
この本は、定期刊行物〈ち・お〉のNo123号ということになり、前半部の熊谷さんによる文章は以下のように3章からなる。

  • 第Ⅰ章私の体を見てください─「ふつう」とちがうところはどこでしょう?
    • 障害って、どこにあるんだろう?
    • みんなは、見えにくい障害もってる?
    • 体のなかにあるのか、外にあるのか
  • 第Ⅱ章こどものころのはなし─祈りながら母は幼い私を組み伏せた
    • 私が家出をできたのは
    • 医学が敗北を宣言したとき
    • 「効果がない」というエビデンス
    • 「社会モデル」という考え方
    • 語れない人たちの「コ・プロダクション」
  • 第Ⅲ章障害と競争と依存の関係─アスリート・パラリンピアンと依存症当事者研究より
    • 依存症は依存できない病
    • 「自立・自律」の優等生
    • 私たちは競争に巻きこまれすぎている
    • 重度障害者とアスリートに通じること
    • 競争からの脱却


中でも、小学生への講演をまとめた第1章で学生時代のエピソードとして語られる「医学モデル」と「社会モデル」の話が簡潔でわかりやすい。

あるとき、「お前は障害はどこにあると思う?」と先輩に問われました。私は思わず、「脚ですかね?頭ですかね?」と答えました。自分の体の内側、皮膚の内側を指してそう答えたのです。
ところが、先輩は即座に「ちがう」といいました。
そして、「障害は皮膚の内側にあるんじゃない。エレベーターがついていないあの建物のなかにある」。つまり、皮膚の外側に障害はあるんだ。「直すべきは社会の側なんだ。おれたちは治らなくてかまわない」。そういってくれたのです。 p84

この言葉は、努力すれば必ず「治る」と言われ続けて、辛いリハビリに疲れ果てた熊谷さんにとっては、一種の救いともなった言葉だった。


研究者となった熊谷さんは、これを、サービスを使う側の立場のユーザーが、かなり最初の段階からサービスのデザインに携わる「コ・プロダクション」という考え方に広げ、知的障害を持つ方とのコミュニケーションの問題について「コ・プロダクション」を進める。

うまく語れないということが語る側の責任のように思われがちです。
たとえば、「重度の知的の障害があるから語れない」という言い方に、どうしてもなりがち。けれども、よくよく考えてみるとコミュニケーションは語る側と受けとる側がいる。そもそも、受けとる側もうまく受けとれないという部分があると思うんです。
そういう意味で善意であっても、語れない本人の問題にしすぎてしまうようなことを、なんとか乗り越えなくてはいけないと思うのです。p90

この問題に対して、熊谷さんは、一人の語り手に対して100人の聞き手がいれば、一人一人が1%ずつを拾えるかもしれないという考えから「数で勝負するコミュニケーション支援」ということを考える。
障害者の介助を、親にしか頼れない、もしくは職人のような方にしか頼れないと、どうしても行き詰ってしまうという経験上の課題から、依存先をできるだけ多く増やしたいということが「数で勝負する」ことの当初の意図としてあった。 
しかし、実践してみると、それ以上に発見がある。

「数で勝負」をやってみていちばん手応えを感じたのは、ご本人が表現しようとしていることが、よりたくさん拾われるということ。それはもちろんなんです。けれど、もっと大事だったなと思うのは、そのワークをする、そういうとりくみをするなかで、みんなが知的障害をもっているご本人に注意を向け続ける空間が発生したことでした。
私はそれがなにより重要だったなと思いました。
なぜかというと、相手と意思疎通がなかなかとれないと、なんとなく人は気まずくなってしまいませんか。それで、ご本人ぬきでまわりの人と話をしたりしてしまいやすい。
でも、ワークのなかで「さあ100人で、みんなで読み解くぞ」と始めると状況は変わります。

この考え方を知って、ビブリオバトルの楽しさがまさにこれなのではないかと感じた。
つまり、ビブリオバトルは、本を知ること以上に、「コミュニケーションが成立する」「コミュニケーション成立のために聞き手が努力する」というところに快感ポイントがあるのではないかということだ。熊谷晋一朗さんが「一人の語り手に対して100人の聞き手がいれば、一人一人が1%ずつを拾えるかもしれない」と考えた通り、語り手がむしろ「下手」な方が、聞き手が全員で「言いたかったことを探り出す」空気が生まれる。「みんなが、ご本人に注意を向け続ける空間が発生」するのだ。
実際、聞き手が皆で「思いを引き出した」本ほどあとで思い返すと印象に残っており、ビブリオバトルが、話が上手い人が勝つゲームではない理由もそこにある。
また、そうやって、「コミュニケーションを成立させる」ための仕組みがルールの中に含まれているところがポイントなのだろう。
特に、学校などでビブリオバトルが扱われる場合、「発表」の練習という位置づけとなることが多いのかもしれないが、聞き手が主体的に参加できる「コミュニケーション」の練習としての位置づけられるべきだと改めて感じた。


そのほか、3章で触れられている依存症の本質(身近な人に依存できないこと、過去を振り返らないこと)についての説明や、競争(ゲーム)が変わると障害者の範囲も変わり、近年、コミュニケーションが重視されるようになって、発達障害という考えが広まってきたという分析も面白かった。
「障害」について考えてみるつもりで読み始めたが、読んでみると、もっと広く普遍的な「コミュニケーション」についての発見がある本だった。
熊谷さんの考え方については、引き続き、もう少しまとまった文章を読んでみたいので、次はこれかな。

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

ORIGINAL LOVE『bless You!』全曲感想(7)ゼロセット

bless You! (完全生産限定盤)

bless You! (完全生産限定盤)

  • アーティスト:ORIGINAL LOVE
  • 発売日: 2019/02/13
  • メディア: CD


東京FMのラジオ番組「KIRIN BEER “Good Luck” LIVE」 での田島貴男のゲストライブを聴いた。
今回、毎年冬から春に行っている弾き語りツアーが新型コロナウイルスの関連で途中から延期になってしまい、さらに、この週末は外出自粛要請の出る中で、ラジオから聴こえてくる演奏、歌声にいつも以上に胸が熱くなった。セットリストは以下。

  1. フィエス
  2. ZIGZAG
  3. 海が見える丘
  4. 神々のチェス
  5. ゼロセット
  6. 接吻
  7. bless You!

特に、『L』 をフェイバリットアルバムとして挙げる自分としては、初めて聴く弾き語りバージョンの「神々のチェス」はまさに神々しい選曲で涙。
同様にレア曲でいうと、前半に「ZIGZAG」が入っていたのが珍しい。自分にとってこの曲は因縁の曲というか、アルバム『東京 飛行』発売時にさんざん腐した曲なので思い出深い。
それだけでなく、自分が最近まで「ゼロセット」を好きになれなかったのも「ZIGZAG」と同じ理由だとはっきりと分かった。
pocari.hatenablog.com


「ゼロセット」が好きになれなかった理由

自分は「メッセージソング」はたとえ内容が青臭くても好きで、アルバム『bless You!』もメッセージ性のある曲が多いことがお気に入りの理由だ。
しかし、このアルバムの中でも最もメッセージが高く、そのメッセージにも感動できる「ゼロセット」がダメなのは、やはり歌詞が破綻しているから。
「ZIGZAG」は、含まれる2つのメッセージがバラバラだと感じたが、「ゼロセット」も同じ。
「ゼロセット」がいわんとしているメッセージは基本的に「人生を終えるその最後まで何度でもチャレンジを続けよう」ということだろう。たとえば「一度きり人生を」や「ゴールテープを切ろう」という歌詞はメッセージの内容を補強する。「ZIGZAG」の歌詞内容とも符合する「何万回十字路を曲がった?」「何度も突き当たって途方に暮れ迷って引き返してやり直した」の部分も、毎回聴いて胸が熱くなる部分だ。


しかし「一度きりチャンスは今」という歌詞は、同じ「一度きり」でもその意味が180度変わってくる。チャンスが一度ということは、何度も挑戦できないことを意味するからだ。
そして、メインメッセージとテイストが異なる「一度きりチャンスは今」の方が、最後のリフレイン部分=曲タイトルと親和性が高い。

チャンスはRight Now!
チャンスはRight Now!
カウンターをセットゼロにリセット

このように見ていくと、曲を聴いて沸き上がる感動とあまり関係ない部分が、初耳の言葉としてタイトルとなっているのが一番の違和感だ。
「ゼロセット」というタイトルは「人生を終える最後まで何度でもチャレンジを続けよう」という曲の肝となるメッセージとほとんど関係がないし、一度聴いても意味がわからない。むしろ歌詞の内容が刺さる自分のような中高年はたくさん「ゼロにリセット」できないものを抱えているから、「今までのことをなかったことにして」とも聞こえる「ゼロセット」というタイトルには、むしろ反発を感じてしまった。


付け加えるなら、「スタンドを熱狂させる きみはきっと明日のスーパースター」も、比喩だとしてもよくわからない。世の中の“普通の人々”は「スタンドの熱狂」なんてことを望まないし、オリジナルラブの過去曲「スーパースター」では、「スーパースター」という言葉は、「裸の王様」という悪い意味で揶揄的に使われている。


ここで考え方を変えて、この曲の歌詞が、デビュー25周年シングル「ゴールデンタイム」と同様に田島貴男自身のことを歌っているのであれば、「一度きりチャンスは今」、「スーパースター」は、語義通りの意味と捉えることができる。
しかし、そうすると、メッセージソングとしての曲の強度は薄れてしまう。

毎年、生まれる自分

そんなときに、予想外の人から歌詞の意味を考えるヒントがもたらされた。
3/7(土)の朝日新聞のインタビュー記事から引用する。

毎年、自分が生まれている感覚があるという。
「毎年違うことがあるし、『滝沢カレン』て名前は同じなんだけど、中身は毎年違う人間。そういう感じがする」

前後を読むと、毎年、新しいことに興味を持って勉強しようとする気持ちを「毎年生まれている」と表現しているようだが、自分もこうありたい*1し、この感覚こそ「ゼロセット」の歌詞で言わんとしていたことだろう。
勿論、もともとの歌詞は、ランナーを比喩に使っているから、タイマーをゼロにリセットしてスタートを切ろう=「毎日」新たな気持ちで挑もう、という意味にも取れるが、歌詞全体の内容と実践のしやすさから考えると、「毎年」くらいのスパンで「ゼロにリセット」しようと考えるのがいいかもしれない。


 「何度も挑もう」とするためには、毎年、違う自分が生まれてきているような感覚を意識して持つ、そういう気の持ち方こそが大切なのではないか。  
そう、年度の境に思いました。


最後に、以前書いた文章から「ゼロセット」に通じる内容を含む桑田真澄インタビューを引用します。
2020年3月末は、かつてないほど先が見えないからこそ響いてくる言葉だと思いました。

みなさん年齢のことを言いますが、ぼくはあまり考えない。自分の人生じゃないですか。他人と比較することもないし、自分のペースで、自分らしく、自分のやりたいことをやるのが、自分の人生。若いからできるかと言ったら、できない人もいっぱいいる。統計をとっても例外はあるわけだから。可能性を信じて頑張るのも人間の素晴らしいところだと思う。
――嫌な経験も含めて楽しみにしていると。
ぼくはいつも言うんですけど、明日何時に誰とどこで会って、ダイヤモンドをプレゼントされるよと分かっていたら、実際にもらっても感動しますか。不安だけど、先のことが分からないから、人と会った時だとか、勝った時だとか、負けて悔しかった時だとか、感動がある。それが一番大切なことだと思う。

*1:最近はあまりテレビを見ないせいか、滝沢カレンさんという人は、あまり知らなかったが一気に関心を持った。

藤井太洋『ワンモア・ヌーク』と2020年おすすめ散策ルート

新型コロナウイルス騒動で、様々なイベントの延期や中止の話が騒がれる3月15日に、子ども二人を連れて新国立競技場に行ってきました!

もともとは、2月末 にできたばかりの漫画『3月のライオン』デザインのマンホールが目当てでしたが、その近くには2020年を象徴する施設があると思えば行くしかありません。
そして、この新国立競技場は読み終えたばかりのこの小説のクライマックスの舞台(原爆テロの標的とされた地点)でもあるのです。

ワン・モア・ヌーク (新潮文庫)

ワン・モア・ヌーク (新潮文庫)

「核の穴は、あなた方をもう一度、特別な存在にしてくれる」。原爆テロを予告する一本の動画が日本を大混乱に陥れた。爆発は 3 月11日午前零時。福島第一原発事故への繫がりを示唆するメッセージの、その真意を政府は見抜けない。だが科学者と刑事の執念は、互いを欺きながら“正義の瞬間”に向けて疾走するテロリスト二人の歪んだ理想を捉えていた──。戒厳令の東京、110時間のサスペンス。

藤井太洋さんは、2015年5月に紀伊国屋で行われたトークショーで拝見したことがあります。その時の印象は、端正な顔立ちとあわせて、元エンジニアの肩書通り、語り口からも知性が溢れてくるようで、自分は逆に警戒していたのです。
実際、恥ずかしながら連作短編集『ハロー・ワールド』も、多数使われる通信関連の用語や東南アジア情勢など不得意分野を突かれ、表題作しか読み切れなかったのでした。(読めば面白いのはわかっていても、ストレスを避けて読み終えないというパターン)


ということで、同じ轍を踏みそうなこの本でしたが、期限を決めて読み進めようという原動力となったのは、物語で描かれるのが2020年3月6日から11日午前零時までの5日間という、読書のタイミングと作品内時間軸が重なる特殊な設定で、自分はこれを友人のTwitterで知り、すぐに購入したのでした。
目次もこんな感じで、曜日まであるのもリアルタイム感を増して良かったです。結果として、3月8日に読み始め、(残念なことに3月11日は無理だったのですが)エピローグで描かれた3月14日より前に読み終えることができました。

プロローグ
二〇二〇年 三月六日(金曜日)
二〇二〇年 三月七日(土曜日)
二〇二〇年 三月八日(日曜日)
二〇二〇年 三月九日(月曜日)
二〇二〇年 三月十日(火曜日)
エピローグ

今回、読み始めこそ、イスラム国やシリアなどの中東情勢や、通信関連の専門用語に、ストレスを感じつつも、  あっという間に読み終えられたのは、筋が非常にシンプルであることに加えて、ストーリーの「誠実さ」に惹きつけられたからです。
あらすじに書かれている通り小説には「互いを欺きながら“正義の瞬間”に向けて疾走する」日本人と元イスラム国の二人のテロリストが出てきます。読み進めると、彼らがテロを起こす動機は別々で、それぞれの「正義」も切実なだけでなく、「2020年3月11日」という日付や「新国立競技場」という場所にこそ大きな意味があることがわかってきます。
特に、2人のうち日本人の但馬樹という女性が漫画のようなキャラクターで、中盤以降は、劇場版名探偵コナンを見るような気持ちで話を読み進めることができました。
また、原発事故後の国の対応だけでなく、改正技能実習制度や新国立競技場のデザイン選考過程についても厳しい意見が述べられる等、2020年の日本が抱える問題についての言及も多く、その点でも読み応えがありました。
2020年3月11日は過ぎてしまいましたが、この時期に読むべき本として色々な人にオススメしたい一冊です。

都内散策のすすめ

なお、今日は、マンホール、鳩森神社将棋会館という『3月のライオン』関連スポットを巡り、新国立競技場のあとは、そのまま原宿まで歩き、都内最古といわれる木造駅舎(2020年解体予定)を見て、2020年3月14日にオープンしたばかりの高輪ゲートウェイ駅も見てきました。






新国立競技場の撮影スポットは、オリンピックミュージアムですが、オリンピックミュージアム将棋会館もお休みでした。
早くコロナ騒動が収束して、これらの施設の中にも入れるようになってほしいです。

何かと屋内施設からは足が遠ざかる昨今ですが、『3月のライオン』と『ワンモア・ヌーク』片手に、都内を散策してみるのはどうでしょうか。