Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「善意」で世界は明るくできる~中脇初枝『きみはいい子』

([な]9-1)きみはいい子 (ポプラ文庫)

([な]9-1)きみはいい子 (ポプラ文庫)


(この文章はアニメ『バビロン』、映画『葛城事件』、小説『きみはいい子』をセットで語るシリーズ最終回です)
『葛城事件』の後味の悪さは、ストーリー展開よりも、映画を観ることが、自分の中や身の回りの「逃避」や「嫉妬」、「悪意」に気づかせていくことによるところが大きい。同様に、身の回りに溢れる「善意」に気がつくことは、心を癒す効果がある。
中脇初枝『きみはいい子』は5編から成る連作短編集で、それぞれの話の主人公は、学級崩壊を招いた小学校担任や、娘に手をあげてしまう母親など、ちょっとしたマイナスの部分を抱えている。それぞれの物語の中では、何かのトラブルや問題への「解決」は描かれず、「善意」が明るい方向を示して終わる。
そのうちの一編「こんにちは、さようなら」では、障害者として描かれるひろやくんが「しあわせ」について語るシーンがある。

「でもこの子、自分なりにはわかってるんです。ね、ひろや。しあわせってなんだっけ。しあわせは?」
ひもを結びおわったひろやくんは顔を上げ、一息に言った。
「しあわせは、晩ごはんを食べておふろに入ってふとんに入っておかあさんにおやすみを言ってもらうときの気持ちです。」
わたしと櫻井さんは顔を見合わせてわらった。


「しあわせ」という大き過ぎる命題に対するこの答えは、『バビロン』で生きる意味を語ったアメリカ大統領よりも、むしろ直感的で説得力のある言葉になっている。
ひろやくんは「一緒に晩ごはんを食べること」ではなく、「おやすみを言ってもらう」ときに「しあわせ」を感じる。「おやすみを言ってもらう」のは、自分が「愛されている」ことを実感するときなのだろう。
『きみはいい子』では、別の2編で虐待を扱っており、そういった別の家族の物語があるからこそ、「おやすみを言ってもらう」ことの大切さが倍増して感じられる。
そう考えてみると、『葛城事件』のように、敢えて言葉では説明しないのではなく、背景にある膨大な物語の氷山の一角として「言葉」が表れている物語が最もオーソドックスで、読み手としても受け入れやすいのかもしれない。(『バビロン』の終盤の展開は、すべてを「言葉」で乗り切ろうとしてしまっていたといえる)


最初に、「身の回りに溢れる「善意」に気がつくことは、心を癒す」と書いたが、『葛城事件』で次男・稔が無差別殺人を犯すような人間になってしまったのは、家庭内に充満する葛城・父の「悪意」を吸収してしまっていたからかもしれない。
愛のない『葛城事件』の食事シーンを思い出すと、ひろやくんの「しあわせは、晩ごはんを食べておふろに入ってふとんに入っておかあさんにおやすみを言ってもらうときの気持ちです。」が改めて胸に響いてくる。
自分も「善意」で周囲を照らすことができる人物になりたいと思った。


映画は、これは観なくちゃ!!

きみはいい子

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逆「家族を想うとき」~映画『葛城事件』

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(この文章はアニメ『バビロン』、映画『葛城事件』、小説『きみはいい子』をセットで語るシリーズ第2回です)
嫌な気持ちになる映画なんだろうと思って先延ばしにしていたが、好奇心が勝り、ついに『葛城事件』を観た。
父親を中心とした家族4人と、そのマイホーム(葛城家)を追いかけた物語だが、家族4人が辛い状況でもお互いが助け合う『家族を想うとき』の対極にあるような映画だった。
ラストで「え!ここで終わる!?」と感じたことも両作品は同じ。まさに、『葛城事件』は『逆・家族を想うとき』と言えるかもしれない。


家族が崩壊してしまう原因の大半は、理不尽な父親・三浦友和にあると言えるのだが、彼は反省しない。事件を起こしてしまう次男・稔も反省しない。*1
しかし、彼のような存在を、これまで生きてきて何回も見たことがあったし、自分の心の中の片隅に、葛城・父はいる。また、事なかれ主義が過ぎて、夫に好き放題させてしまった妻役の南果歩、彼女もいる。そして勿論、長男でサラリーマンの保は、立場だけでなく、大切なことを先延ばししてしまう悪い癖も含めて自分に似ているかもしれない。

一方、無差別殺人を起こした次男・稔は、葛城・父以上に、「絶対に関わりたくないタイプ」の人間で、さらに、死刑廃止の立場から稔と結婚した田中麗奈は、メインキャラクターの中では「話ができそうなタイプ」でありながら、やはり共感できそうにない。

誰が画面に映っても、緊張感が持続する、この『葛城事件』は、確かに後味が悪いが、「見て損した」という感想を持つような映画ではない。
これは、「考えさせる映画」になっていたからではないかと思う。これは、アニメ『バビロン』と大きく違うところだと感じた。


アニメ『バビロン』が「自殺法」をテーマとしたように、『葛城事件』はメインテーマではないものの「死刑」を題材として取り上げている。
しかし、『バビロン』は「考えさせない」作品で、『葛城事件』は「考えさせる」作品になっていたと思う。
観る側に「考えさせる」ためには、『バビロン』の大統領のように、信頼を置けそうな人物が登場してはならない。視聴者は、大統領の言葉に耳を傾けることに必死で、自分の頭で考えなくなる。もちろん、言葉で結論めいたことを言ってはならない。「言葉」は思考を停止させる。


『葛城事件』の良かった点は、共感できない人間、しかしどこにでもいそうなタイプの人間が、死刑という大きな問題について語ることで、視聴者の「思考」が自然と促されるところだろう。
少なくとも「死刑囚」という言葉を聞いて、葛城稔の顔と言葉を思い出す。(同様に、『イノセント・デイズ』も思い出すが…。)
無関係と思っていても、裁判員に選ばれれば死刑について考える必要に迫られるかもしれない。「死刑」や「死刑囚」という概念だけでなく、ニュースや物語を通じてたくさんのケースを知っていることは、そういったときも思考の僅かな助けになるのではないだろうか。
『きみはいい子』の感想に続く)

*1:この映画の三浦友和は、嫌いになれる要素200%

観る側が「回答」を欲しくなるアニメ~『バビロン』最終回

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(この文章はアニメ『バビロン』、映画『葛城事件』、小説『きみはいい子』をセットで語るシリーズ第1回です)
炎上気味に盛り上がっていたアニメ『バビロン』の最終回を見た。
覚悟していたが、まさかの悪が勝つ展開。
ただ、主人公やその仲間が成功しないからと言って「救いのない物語」と否定しない、というのが、先日『イノセント・デイズ』を読んで考えたことなので、まあ、悪が勝っても良しとする。
しかし、そうだとしても、やはり、この『バビロン』の最終回はダメ過ぎると思う。ゲームのトゥルーエンディングは伏せられてバッドエンドだけ見せられている感じがする。
観る側を嫌な気持ちにさせることが作り手の狙い通りなのだとしたら仕方がないが、『バビロン』の何がダメだったのかを少し考えてみる。

「生きることは善いこと」 その常識が覆される時代が訪れたら、あなたはどうする。 読む劇薬・野﨑まどが綴る衝撃作が、遂に禁断の映像化! 「その啓示は、静かにそっと訪れる-」 東京地検特捜部検事・正崎善は、製薬会社の不正事件を追ううちに、一枚の奇妙な書面を発見する。そこに残されていたのは、毛や皮膚のまじった異様な血痕と、紙一面を埋め尽くすアルファベットの『F』の文字。捜査線上に浮かんだ参考人のもとを訪ねる正崎だが、そこには信じがたい光景が広がっていた。時を同じくして、東京都西部には『新域』と呼ばれる新たな独立自治体が誕生しようとしていた。正崎が事件の謎を追い求めるうちに、次第に巨大な陰謀が見え始め--?

このアニメは中盤以降に登場するアメリカ大統領アレックスが特徴的で、彼が最善策を考える過程を見せながら、この作品は視聴者側に問いかけをしている。
「生きるって何?」
そもそも自殺を許容する「自殺法」という法律が作品全体の重要設定であることもあり、自殺したくなるほどの世界で、大統領が、そして作品自体が、どう「生きる意味」を説くのかを期待させる展開が最終回まで続いた。

「続く」ことが善いこと?

しかし、「続く」ことが善いこと、「終わる」ことが悪いこと、という大統領の「発見」は、まさに今自殺しようとしている人間にとって何の救いも意味もない言葉で、とても落胆した。
この世界が「続く」のが嫌で嫌で仕方がないから自殺を選ぼうとしている人が、到底納得できる理屈ではない。
終わり方が「救いがない」からではなく、「問いかけ」に対する大統領の考えが陳腐だったことが、『バビロン』を応援できない理由だ。この作品には「何かあるのでは?」と思って見てきた人を裏切った。特に、むしろ日々が辛い人に響くテーマだったからこそ、この裏切りの影響は大きい。


反対に、『自殺法』を推進する側の新域域長・齋開化の狙いも結局明かされなかった。もし、齋開化と“最悪の女”曲世愛の狙いが納得できる形で示されていれば、むしろ、大統領の陳腐な回答では二人に勝てないということが明確になり、同じ終わり方でも捉え方が違ったかもしれない。
『バビロン』は、観る側が、作品内で「回答」を欲しくなってしまう作品だった。(野崎まどの『正解するカド』も同じだったような気がする)
しかし、今回のテーマに対しては、「回答」が物語の中で示されるようなクローズエンディングはあり得ないのだから、大統領アレックスはもっと「考え続けること」の重要性を強調するべきだったように思う。
映画『葛城事件』の感想に続く)


それにしても、PVを見るにつけ、前半と後半で全く違う物語になっていたことに驚く。そして、「バディもの」になると見せかけて相棒が死に…という展開が繰り返すことも含めて、やはり作り手の「悪意」を強く感じる物語でした。原作も読んでみたい。

アニメ【バビロン】第一弾PV


バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

バビロン 2 ―死― (講談社タイガ)

バビロン 2 ―死― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

『24時間戦争』vs『フォードvsフェラーリ』

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24時間戦争

24時間戦争

  • メディア: Prime Video

『フォードvsフェラーリ』があまりに面白かったので、Amazonプライムで観られるドキュメンタリー作品『24時間戦争』を観た。
よく言われるように 、『フォードvsフェラーリ』は、フェラーリの影が薄く、タイトルに偽りあり、なのだが、『24時間戦争』は、双方のオーナー、メカニックやドライバーなど関係者の言葉が、同程度に扱われており、「対決」感は映画よりも強い。特に、1968年のル・マンでは、両者が新開発のエンジンで競い合うというムネアツの展開で、F1ブームのときに楽しんでレースを観ていたときのことを思い出した。
また、『24時間戦争』を見ると、クライマックスの1967年のル・マンでの印象的なエピソードが実際に起きていたことが分かる。

  • スタート時に、ケン・マイルズの車はドアが閉まらないというトラブルに見舞われた。
  • ゴールは、独走していたケン・マイルズが嫌々ながらも、for the teamの精神で、フォードの「1-2-3フィニッシュ」を受け入れた。
  • しかし、スタート位置の関係から、最初にゴールしたケン・マイルズは2着となった。

また、1967年のル・マン後のケン・マイルズの死についても取り上げられており、『フォードvsフェラーリ』の答え合わせとして、とても興味深く観ることができた。


しかし、『24時間戦争』は退屈だった。


やはり『フォードvsフェラーリ』は、クリスチャン・ベイルの映画だったということを改めて実感した。
先にも書いた通り、フェラーリとの対決ではなく、フォード内の実務vs上層部を描いた映画だが、1-2-3フィニッシュをはじめとする上層部からの馬鹿げた提案に対して、ケン・マイルズは決して激怒したりしない。むしろ口角を上げて冷笑する。あの表情!!
常に「あの感じ」だからこそ、たまに息子に見せる情熱や、キャロル・シェルビーとの喧嘩のシーン、奥さんとへの愛情が伝わる場面が強く印象に残る。


そして何と言ってもレースシーン。映画を観終えて3時間近く(映画は152分)経っていることに気がつき驚いたが、それは、念入りに描かれていたレースシーンを短く感じていたからなのかもしれない。あれほど手に汗握ってレースを見ることができたのは、ケン・マイルズというキャラクターの魅力あってこそだろうと思うと、改めてクリスチャン・ベイルの演技の良さが思い出される。
何度も書くが、自分が映画を観るのは、好奇心を「煽る」ため。モータースポーツや自動車メーカー、そして俳優としてのクリスチャン・ベイルに興味を持てたこと自体が、狙い通りで本当に良かった。

その「救い」は誰のため?~早見和真『イノセント・デイズ』

イノセント・デイズ (新潮文庫)

イノセント・デイズ (新潮文庫)

  • 作者:早見 和真
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 文庫



(文章中にネタバレを含むので未読の方は注意してください)

正義は一つじゃないかもしれないけど、真実は一つしかないはずです

放火殺人で死刑を宣告された田中幸乃。彼女が抱え続けた、あまりにも哀しい真実――極限の孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。

田中幸乃、30歳。元恋人の家に放火して妻と1歳の双子を殺めた罪により、彼女は死刑を宣告された。凶行の背景に何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人など彼女の人生に関わった人々の追想から浮かび上がるマスコミ報道の虚妄、そしてあまりにも哀しい真実。幼なじみの弁護士は再審を求めて奔走するが、彼女は……筆舌に尽くせぬ孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。


あらすじにもある通り、この本の構成は見事で、章ごとに語り手が変わり、過去にあった同じ出来事も視点を変えて語り直される。その順序も絶妙だ。

  • 1章 丹下健生(産科医、6章の翔の父親)
  • 2章 倉田陽子(義姉)
  • 3章 小曽根理子(中学時代の親友)
  • 4章 八田聡(元恋人の友人、ブログ執筆者)
  • 5章 田中幸乃本人
  • 6章 丹下翔(幼なじみの弁護士)
  • 7章 佐々木慎一(もう一人の幼なじみ)

全7章をプロローグとエピローグで挟み、一番最初に田中幸乃の語りが入る。
この構成で面白いのは、誰が田中幸乃に手を差し伸べる人なのかがわからないまま読み進めるところ。言ってみれば3章までは前菜で、4章を読むと、八田聡こそが彼女を助けてくれるように感じられる。しかし、八田はそこまではいかず、5章で田中幸乃本人による文章を挟んだ6章で、真打として、2章で語られた小学校時代の幼なじみである丹下翔が登場する。しかし、彼女を救うのは彼の役目でもないのであった。


単行本の帯にあったという「ひとりの男だけが、味方であり続ける。」の言葉通り、7章で登場する佐々木慎一こそが、「ひとりの男」であり、ここで初めてタイトルの「イノセント」が「無垢」ではなく「無実」という意味で使われていることが分かる。つまり、彼女は死刑になるような罪を犯していない…。
にもかかわらず、エピローグでは、実際に死刑が執行されてしまう。


何と救いのない話なのだろうか。
そう思わざるを得なかった。


しかし、このような、この小説を「暗い」「救いがない」と表現する声に対して、解説で、辻村深月は、この小説を「救いがない」とは読まなかった、と説く。

私は見届けなければならないのだ。彼女が死ぬために生きようとする姿を、この目に焼きつけなければならなかった。(444ページ)


この一文を見た時に、胸の真ん中を強く掴まれ、揺さぶられた。少し読み進めて息を吸い、この場面のために著者は彼女の物語をここまで書き紡いだのだと圧倒された。
読者の心は、おそらく、彼女を見守ってきた女性刑務官と近い。彼女を救いたいと願う人がいるにもかかわらず、自ら死を選ぼうとする田中幸之は傲慢に見えるかもしれない。しかし、彼女に「生きていてほしい」と望む気持ちもまた傲慢でないとどうして言えるだろう。

ずっと自分を消し、幽霊のように実体のなかった彼女が唯一意志を見せ、抗おうとしたその瞬間が、たとえ自分の死を望むものだったからといって、それを間違っているなんて誰にも言わせたくない。


読み始めたとき、プロローグの語り手が女性刑務官であることに面食らったが、辻村深月の書く通り、各章の語り手とは違い、第三者的視点で田中幸乃のことを見守り続けた彼女こそが読者に最も近い。
だから、エピローグにおいて、願い虚しく刑が執行されてしまったあとで、彼女の次のようなセリフを通して、読者のやり場のない気持ちを、どこに向けるべきかを伝えようとする。

心の傷と、解放感。その二つとともに私の中に取り残されたのは、やはり一貫して感じていた怒りだった。

でも、その感情の正体がどうしてもつかめない。私はいったい何に、誰に対してこんなに憤っているのだろう。真犯人か、警察か、裁判のシステムか、死刑制度そのものか。結局救うことのできなかった彼女の友人たちに対してか、それとも幸乃自信に対してか。

すべて当てはまる気がする一方で、すべて的外れだという思いも拭えない。ただ一つたしかなのは、どの方向に怒りの刃を投げつけてみても、結局はブーメランのように自分のもとに戻ってくるということだ。私自身、一度は幸乃を凶悪犯罪者と決めつけていたのだから。p454

6章までは、ほとんどの読者も、まさか彼女が無実とは思わず、凶悪犯罪者として読むだろうから、読者も同罪と指摘しているのだろう。

物語の中で、佐々木慎一も田中幸乃も、一人の人間を、人間性を無視した「凶悪犯罪者」や「死刑囚」という言葉で扱う/扱われることに非常に抵抗を示している。

確かに、事件に関わらない人が、マスコミの断片的な情報から、被害者や加害者をそれぞれが一人の人間として扱うことは不可能だ。しかし、だからこそ、安易にマスコミの「わかりやすい」表現をなぞるのではなく、そこに疑いの目を向ける必要がある。*1
先日読んだ、マスコミ批判色の強いルポルタージュ『モンスターマザー』は、一人の人間を「モンスター」に仕立てているという意味では、マスコミと同じ轍を踏んでいるような気がする。一読者としては、キャッチフレーズや分かりやすいエピソードに流されないで、少しでも自分の頭で考える時間を増やすしかないだろう。


辻本深月の解説は、『イノセント・デイズ』の根幹について次のように語る。

“感動”や“失望”、“暗い”や“明るい”、“”幸せ”や”不幸”といった言葉だけでは片づけられない、名付けられない感情や事柄を時に描くのが小説であり、物語であるとするなら、早見さんが描こうとしたものはおそらく、それらを超越した”何か”が起こる瞬間そのものなのだ。それは、わかりやすい“救い”の瞬間すら凌駕する。

(略)

“暗い”や“明るい”、“”幸せ”や”不幸”という一語だけの概念を超越した場所で彼女を救おうと格闘し、味方であり続けたひとりの作家の誠実さの熱。それこそが『イノセント・デイズ』という作品を支える根幹だと、私は思う。

その熱は、辻村深月の解説からも伝わってくる。


「救い」がない、と作品を評した場合、それは、誰にとって「救い」がないのか。
単に、ここまで読み進めた読者に対して「御褒美」をくれない、ことを指して、言っている言葉ではないのか。
読者も、本を読み、作中の登場人物とつき合うことに、どれだけ誠実であることが出来るか、その姿勢が問われている。

ということで、小説の読み方を改めて教えられるような熱い物語と名解説でした。

*1:ただ、最近の自分は、基本的には、こういうニュースに対しては「無関心」で接するようにしている。誰かが傷つく可能性のある噂話(の真偽の判断)に、限りある時間を費やすのは勿体ないからだ。

国家と国民と新型コロナウイルス~『一人っ子の国』



One Child Nation - Official Trailer | Amazon Studios

自分にとって映画を観る一つの大きな目的は「きっかけ」づくりだ。
特に外国のドキュメンタリー映画や史実を扱った映画は、その傾向が強く、『家族を想うとき』は、イギリスという国に興味を持つきっかけになったし、『国家が破産する日』や『工作』、そして『パラサイト』など一連の韓国映画は、韓国の歴史や現状について知りたいと思わせてくれた。
今回観た『一人っ子の国』も同様の目的で観た。
だが、その衝撃度は凄まじく、これまで、アメリカを抜く勢いの中国を、日本とそこまで変わらないのでは?と考えていた自分の浅はかさを思い知った。


そもそも、この作品は、TBSラジオたまむすびで、町山智浩さんが紹介していたのを聞いて知った。
ラジオの書き起こしページがあるので、冒頭から、作品の概要部分を引用する。

町山智浩)これ、監督は中国田舎で生まれてアメリカの大学を出てドキュメンタリー映画を作っている1985年生まれのワン・ナンフー(Wang Nanfu)さんっていう人がたった1人で中国に行って。自分でカメラを持ってたった1人で撮影をした映画なんですよ。
赤江珠緒)ええー。うん。
町山智浩)これね、たった1人じゃないとできない状態っていうのは見ていてわかるんですけども。彼女、子供が生まれたんですね。だからその2ヶ月かなんかの赤ちゃんを連れて、中国の田舎の親戚に見せに行くんですよ。で、自分が生まれた頃の話を聞いて回るんですけども、そのワン監督が生まれた頃っていうのはちょうど中国では一人っ子政策をずっと続けていたんですね。で、彼女自身が一人っ子政策というものはどうやって実施していたのか?っていうことがわからないから、それを聞いて回るっていう話なんですよ。自分のお母さんとかおじさんとかに聞いて回るっていう話で。
miyearnzzlabo.com

今読み返してみると、この紹介は、映画の内容をほぼ完全になぞっており、いわゆるネタバレ全開ではあるが、復習にはちょうど良いまとめとなっている。
上の引用の中でも書かれているように、自分も当然「一人っ子政策」という言葉自体は知っていたけれども、具体的に何が行われていたのかは想像したことが無かった。


映画の中でその実態が次々と明らかになる中、やはり一番驚いたのは、赤ん坊の写真。

それで、また写真家が1人、出てくるんですよ。その人はジャーナリスティックなアート写真を撮っていて。中国ではその当時、ゴミがそこら中に捨てられていて。産業廃棄物とかの不法投棄がひどかったんですね。で、その実態を撮ろうとしてゴミ捨て場の写真を撮っていたら、そこに人形みたいなものがあることに気がついて……よく見たら普通に出生した赤ん坊の死体なんですね。

映される写真も衝撃的だが、「当時は道端に赤ん坊が捨てられていた」と思い出話を語る人たちの淡々とした語り口も恐ろしい。生まれた子が女の子だったら捨ててしまうということは数多く行われていたとのことで、映画の中での語りによれば少なくとも2000年代初めまではその状況があったようだ。(さすがに一人っ子政策の終わった2015年ギリギリまでそういう状況だったということはないだろうと信じたい。)


後半では、そのような赤ん坊が外国に養子として「売りに出される」話が出てくる。
中国計画出産協会?に奪われて養子に出された双子の姉がアメリカに住んでいることが分かり、SNSで繋がることができたという事例も出てくるが、アメリカの姉には、経緯を知らせることは出来ないため、再会を素直に喜べず、これも辛い。


そして、全体を通して、国の関与、プロパガンダは、もっと怖れなくてはならないものだと感じた。
強制中絶や強制不妊手術の話も出てくるが、それらに携わった医師や産婆が国家に表彰された話に加え、歌や寸劇による一人っ子推奨の広報など、映し出される映像は、どこか昔の話のようにも感じる。
しかし、2015年以降に掌を返して始まった「二人っ子政策」においても同様に、歌や寸劇による広報が行われている状況を知ると、今現在でもこの調子で通じてしまっている中国という国を遠くに感じてしまう。
第一、今となっては「間違い」と分かる「一人っ子政策」について誰も怒らないのだ。

町山智浩)でも、どこでもそうですけども、一度始めるとそれがたとえ間違っていたとしても突き進むんですよ。一旦やり始めるとどんなに間違っていても突き進んじゃうんですよ。で、いま中国はもうギリギリになって2人っ子政策を始めているんですけども、遅すぎるでしょうね。かなり。で、その間に殺された子たちっていうのは一体何だったのか?っていうことですよね。それでも、お母さんとかやった人たちに聞くと「私たちは間違っていない。政府に言われた通りにやっていたんだ。他にどうしようもなかった。それが正しいことだと思わされていたし、思っていた」って答えるんですよ。

インタビューに出てくる人たちは、皆が口をそろえて「仕方がなかった」と語る。もちろん、都会と田舎では人の考え方も大きく違うのかもしれないが、ここまでネットが発達した世の中でも、徹底した情報統制によって「政府のいいなり」を作ることが可能なのであることにとても驚いたし、誰もが「正しく疑い、正しく判断する」ことが出来るわけではないことを改めて知る。


ちょうど、ここ数日で状況が大きく変化しているが、3日ほど前のテレビでは、中国政府を信頼しきって、新型コロナウイルスの被害が大きく広がることはないのでは、と語る中国の街頭インタビューの様子も映されていた。春節を控えて戦々恐々としている日本と対照的で驚いたが、マスコミだけでなくSNSも政府のPRが強く広がるように調整を受けているのかもしれない。
とはいっても、原発問題以降の日本は、政府発表のほとんどに疑ってかかるタイプと、「過度に疑うのは馬鹿」だとばかり、考えなしに政府を信頼してしまうタイプに、大きく二分されてしまったように思う。*1結局、 「正しく疑い、正しく判断する」ことが出来ていないのは日本も変わらないところがある。


こういったドキュメンタリー映画を観て歴史を知ることで、国家と国民の関係について考え、国民の側として、どのような判断を、そして行動をしていく必要があるのかを学んでいきたい。今後、映画や本を選んで行く中で、軸となるテーマをひとつ与えられた一本となった。

*1:ただ、現政権は、隠すだけでなく、統計を偽装したり、文書の改変もするということがどんどん明るみに出てきているので、政府不信になる方が自然だとは思うが

裕太君は自らの不運を呪うしかないのか~福田ますみ『モンスターマザー』

報道による「加害者」と「被害者」の逆転の怖さを描いた本ではあるが、いくつかの面で、これは少し面白いバランスで書かれたルポルタージュだと感じた。
まず、あらすじは以下の通り。

不登校の男子高校生が久々の登校を目前にして自殺する事件が発生した。かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親は、校長を殺人罪刑事告訴する。弁護士、県会議員、マスコミも加わっての執拗な攻勢を前に、崩壊寸前まで追い込まれる高校側。だが教師たちは真実を求め、反撃に転じる。そして裁判で次々明らかになる驚愕の事実。恐怖の隣人を描いた戦慄のノンフィクション。

3章までの違和感

ノンフィクションと言えども、構成としては、最初に「謎」が提示されて、読み解くことによってそれが明らかになっていく形を取ることが多いと思う。
しかし、『モンスターマザー』には謎がない。
平凡な少女が、複雑な家庭環境の中で「モンスター」に育ってしまった、というような裏話も、裁判を通して、自らの行為を反省するようになった、という後日談も全くない。
最初から最後まで、モンスターマザーが「モンスター」のままで終わる本なのだ。


長野県立丸子実業で起きた自殺事件の鍵となる「かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親」に焦点が当たる内容で、タイトルが『モンスターマザー』。
しかも、全10章構成の1章目から、モンスターマザーのモンスターぶりは全開だ。

  • はじめに
  • 第一章 家出
  • 第二章 不登校
  • 第三章 悲報
  • 第四章 最後通牒
  • 第五章 対決
  • 第六章 反撃
  • 第七章 悪魔の証明
  • 第八章 判決
  • 第九章 懲戒
  • 終章 加害者は誰だったのか

少し丁寧に書くと、犠牲になった高山裕太君は、入学した2005年4月以降、家出や不登校などの問題を抱え、これについて、母親(父親は離婚で不在)が学校側に物申すことが何度もあったが、2005年12月に自殺してしまった。ここまでが3章となる。
裕太君の死後の裁判の様子を追ったのが、4章以降となるが、読者は、3章までに「真実」を見せつけられるような構成になっているので、あらすじで書かれる「裁判で次々明らかになる驚愕の事実」として何が残っているのか、首を捻りながら読み進めることになる。


一方、問題の「モンスターマザー」は、服役している人ではないのに「実名」で、「途轍もなく悪い奴」として描かれているので、読んでいる側としては居心地が悪かった。
今もそうなのか知らないが、数年前、夕方のワイドショー的ニュース番組では、近所の迷惑おじさん、迷惑おばさんを紹介するようなコーナーが立て続けに放映されているのを見て驚いた覚えがある。
悪を叩きたい視聴者におもねるようにして、全国から「悪い奴」を募集して取材するようなコーナーに感じたのと同種の嫌悪感を、3章までの『モンスターマザー』には感じてしまったのだ。

4章以降の展開

ところが、4章以降、それらの懸念は払拭され、次第に読みやすくなっていく。
それは、モンスターマザー以外の「悪」が意外なところから現れるからだ。しかも、これも実名で。


一人目は、社会正義の実現と弱者救済に心血を注ぐ人権弁護士の高見澤昭治。
彼はいじめ被害者に対する学校側の態度が許せない。読者としては3章までの顛末を見ていて、これは誰も「モンスターマザー」の味方にはつかないのでは?と思っていたが、彼女は高見澤弁護士をはじめ、「支援する会」を味方につけ、一大勢力となって、学校側を攻撃する。*1高見澤弁護士は、本当だったら「自分も騙された側の人間」と途中から方向転換してもいいはずだが、裁判の過程でモンスターマザーの正体がわかっても持論を曲げない。


そして二人目は、著名なルポライター鎌田慧で、「週刊金曜日」には、バレー部でのいじめや暴力が真実であるかのような記事が載り話題になる。
彼は高見澤弁護士ほど、のちのちまで事件には関わらないが、『自動車絶望工場』など、徹底的な取材にもとづいた文章を書く人でさえも、「真実」を見抜けないのか、と驚いた。


なお、鎌田慧の記事や、(モンスターマザーが実質的に運営している)「高山裕太を支援する会」のHPは、検索すればネット上でしっかり確認でき、4章以降は、この本以外の情報も合わせて立体的にこの事件を検証することができる。ネット情報が多く残っている時代に起きた事件であるため、それだけでも非常にスリリングだ。

6章以降

あらすじで書かれる「裁判で次々明らかになる驚愕の事実」は6章以降に判明する。
「モンスターマザー」は、2番目の夫と離婚係争中であり、3年前にも周囲の人間を非難し攻撃する等の問題を起こしていたのだ。
この2番目の夫との訴訟記録や、インタビュー取材からわかる彼女の暴言・暴力・虚言壁はまさに「モンスター」で、裕太君に関する彼女の証言の信ぴょう性が低いことが納得できる根拠となっている。
そして8章で地裁勝訴となり、9章では、高見澤弁護士の懲戒についても提訴し、これが認められる。裁判にかけた時間や、マスコミに貶められた高校やバレー部の名声は戻るものではないが、両裁判に勝つことで、溜飲が下がる展開となった。


終章では「加害者は誰だったのか」というタイトルになっているが、全体を通して裕太君の自殺の直接の原因が母親であることは明確で、むしろこの本が書かれた理由を考えると、終章で言いたかったことは、「被害者は誰だったのか」ということなのかもしれない。
ここでは、バレー部の2年生部員のある父親が法廷に提出した陳情書の締めくくりの言葉が引用されている。

現在、世間の多くの人はマスコミの報道のせいでバレー部でいじめがあったものと思い込んでおり、高山さんが被害者、バレー部が加害者と思い込んでいます。しかし、真実はバレー部の子どもこそ本当の被害者であり、高山さんが加害者なのです。

ここでも「バレー部の子どもこそ本当の被害者」と書かれているが、本の中では、彼女が過剰に糾弾した担任やバレー部の先輩など、多くの被害者について多くのページが割かれている。
最初に、3章までの「モンスターマザー」こそが「悪」という一方的な書きぶりに居心地の悪さを感じたと書いたが、むしろ当時のマスコミの論調が、数多くの「被害者」を出してしまったことへの怒りがそうさせているのだろう。また、6章以降の「驚愕の真実」を知ると、むしろ、3章までの描写は、抑制して書かれているのかもしれない。

もうひとつ欲しかった視点

文庫版あとがきでは、著者の福田ますみさんが、前作『でっちあげ』と合わせて、マスコミの責任を追及する。

この2つの事件で、マスコミは見事に二人の母親に騙された。
メディアがが基本的に、弱者の側に立とうとする姿勢はもちろん正しいと思う。問題は、権力VS弱者などという図式に固執して、あいかわらずのステレオタイプな弱者像にとらわれていることだ。
(略)
真実は思いのほか地味であったりする。メディアの役割とは、虚心坦懐に対象を見つめ、一歩一歩地道に着実に真実に迫ろうと努めること、これに尽きると思う。とんでもない冤罪を生まないためにも。

この本は、その目的に対して誠実に、あくまで真実を検証しようとする本ではある。
終章では、現在(2014年)のモンスターマザーに対するインタビューにも成功しているが、彼女は今も反省するわけでなく、当時の主張を繰り返すばかりだ。


しかし、ここまで来てしまうと、彼女がモンスター過ぎて不憫に思えてきてしまう。
ストーカー事件の加害者は、憎むべき存在でありながら、「治療」の対象として扱われることも多いことを考えると、彼女のような存在に対しても何らかの「治療」的アプローチが必要なのではないか。裕太君のような被害者を増やさないためにも。
これについては、解説で東えりかさんが、次のようにコメントしている。

(彼女は人格障害(パーソナリティ障害)ではあるが、治療対象となるところまでは行かないようだ)確かに病気でない以上、プライバシー保護の問題で表沙汰にはなりにくかったかもしれない。しかし情報が伝わっていないことで、子供が犠牲になるニュースは絶えないのだ。
精神障害者移送サービス業の押川剛の本『子供の死を祈る親たち』では「家族の問題」に公的機関や医療機関の介入が難しいとしている。子供の虐待や育児放棄についても、本来尊重されるべき「子供の意思」や尊厳は守られず「親の意思」が第一優先されるのだ。
(略)
貧困、教育現場の荒廃、いじめや虐待などなど、子供を守るための法整備が必要だということは、多くの人が主張している。なかなか実現に至らないのは忸怩たる思いがする。少子化問題が喫緊の問題である以上、この問題は多くの人に考えてもらいたい。本書はそのための必読書であると言える。

自殺してしまった高山裕太君の立場からすると、自らの不運を呪うしかないのだろうか。やはり犠牲者を増やさないために何が必要なのかは、色んなもので勉強していきたい。


子供の死を祈る親たち(新潮文庫)

子供の死を祈る親たち(新潮文庫)

  • 作者:押川剛
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/08/09
  • メディア: Kindle
「子供を殺してください」という親たち(新潮文庫)

「子供を殺してください」という親たち(新潮文庫)

  • 作者:押川 剛
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/12/25
  • メディア: Kindle

*1:彼女が、人を惹きつける魅力があることは、裁判中に3人目の夫と結婚していることからも分かる。