Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

またトトロを観たくなる!~木原浩勝『ふたりのトトロ』

ふたりのトトロ -宮崎駿と『となりのトトロ』の時代-

ふたりのトトロ -宮崎駿と『となりのトトロ』の時代-

本を読んだきっかけ

最近TBSラジオのデイキャッチ!終了のニュースに驚いているが、podcastやラジオ(いPhoneアプリのラジオクラウド)はもはや生活の一部。
その中でも、やっぱりこの人は話が上手いなあ、よくここまでの情報量を詰め込んで話せるなあと思うのが、岡田斗司夫。(過去に騒動もあり、この人の悪い面も色々と見えましたが、話はやっぱり面白い)
中でも金曜ロードショーでの放送に合わせたジブリ作品の解説が異常に充実していて、それほどジブリを知らない自分も楽しく聴いている。


ただし、実際に、自分が見たことのあるジブリ作品はラピュタとトトロと千と千尋、そしてポニョくらい。 恥ずかしくて人前では言えないが 、ナウシカは見たかどうか微妙で、『火垂るの墓』を観ていない。
この前、小5の娘に聴いてみたら、ポニョ以外は観たことがないというので、近くにあるジブリ美術館に行く日はまだ遠いか…。

トトロ制作時の宮崎駿を一番近くで見た人による裏話

閑話休題
岡田斗司夫podcastの影響から、ジブリの蘊蓄本を読んでみたいと思った自分が手に取ったのは、トトロを扱ったこの本。
表紙にも書かれているよう、「元スタジオジブリ制作デスク」である木原浩勝さんによる制作裏話で、タイトルは、トトロという作品が宮崎駿の以下のような声掛けから始まったことが理由。

木原君、2人で『トトロ』を始めます

当時、まだ新人の範疇(26歳)だった木原さんが制作デスクに指名されて、そこから『トトロ』が始まったという。だから、宮崎駿のことを一番近くで見てきた人によるトトロということになるだろう。


細かい内容は割愛するが、意外だったのは、この本にほとんど文章だけで構成されていること。ポスターの構図や具体的なカットの説明も出ているのに、実際にその画面や絵コンテが登場しないのは、やはり著作権が理由なのだろう。
しかし、読み進めると、何回か見ている作品ということもあり、頭の中で補いながら読むのに慣れ、むしろそちらの方が、アニメ映画制作のドキュメンタリー映画を見せられているようで面白い。
特に、アニメ制作の場において、動画スタッフと原画スタッフの仕事の進め方がフロー図(p97)も付して説明されていた部分は、とても勉強になった。(トトロは原画スタッフによる動画チェックを頻繁に行った点が、過去作とは異なっていたとのこと。)

吉祥寺、秋川渓谷聖蹟桜ヶ丘

木原さんも最後に振り返っているように、現場は毎日笑いが絶えず、いい雰囲気の中でつくられた映画だということで、制作裏話といっても楽しい話の割合が多いと思う。
中でも制作が中盤に差し掛かり、スタッフ内に疲れが溜まっていた9月の時期に、宮崎駿が「強化キャンプ」と称して、秋川渓谷に日帰りでキャンプに行こうと持ち掛けた話が好きだ。そもそもスタジオは吉祥寺にあったこともあって東京の多摩地区(23区以外)の話が多く、そこが好きなところでもあるが、秋川渓谷の大岳キャンプ場は聖地巡礼的な意味でも行ってみたい。
また、トトロ制作の初期には、一部スタッフが聖蹟桜ヶ丘にロケハンに行ったことも触れられているが、これは桜ケ岡公園のことなのだろうか。最近よく行くマラソンコースなので、これも嬉しい。

トトロの解釈や高畑勲作品について

トトロについてほとんど触れなかったが、あとがきに、いわゆるトトロにまつわる都市伝説(物語後半でメイの影がなくなっているのは、既に命を落としたあとであることを示している等)について、製作側の意見が示されているのも興味深い。
また、当然、かなりの時間をかけて作られたシーンも今回分かったので、改めてトトロを見直してみたい。できれば家族みんなで観てみたい。


なお、この本の執筆中に高畑勲監督が亡くなったということで、それについてもあとがきで触れられている。『となりのトトロ』と同時上映だった『火垂るの墓』、そして『かぐや姫の物語』など、高畑勲監督の作品についてもちゃんと観ておきたい。
なお、木原さんの、この本の一つ前の作品となるこちらもすぐに読んでみようと思う。(なお、木原さんは怪談で有名な方だとか。そちらの方も気になります)

「恋愛スピリッツ」こそが作品最大の魅力~『ダーリン・イン・ザ・フランキス』

人類は荒廃した大地に、移動要塞都市“プランテーション”を建設し文明を謳歌していた。その中に作られたパイロット居住施設“ミストルティン”、通称“鳥かご”。コドモたちは、そこで暮らしている。外の世界を知らず。自由な空を知らず。教えられた使命は、ただ、戦うことだけだった。敵は、すべてが謎に包まれた巨大生命体“叫竜”。まだ見ぬ敵に立ち向かうため、コドモたちは“フランクス”と呼ばれるロボットを駆る。それに乗ることが、自らの存在を証明するのだと信じて。かつて神童と呼ばれた少年がいた。コードナンバーは016。名をヒロ。けれど今は落ちこぼれ。必要とされない存在。フランクスに乗れなければ、居ないのと同じだというのに。そんなヒロの前に、ある日、ゼロツーと呼ばれる謎の少女が現れる。彼女の額からは、艶めかしい二本のツノが生えていた。「――見つけたよ、ボクのダーリン」

ダーリン・イン・ザ・フランキス、略して「ダリフラ」。
あっという間の全24話でした。
昨年放映時から気にはなっていたものの、昨年末くらいのタイミングで Amazon見放題に入ったのを機に観てみることに。


もう一つ偶々の流れがあって、ちょうど昨年の秋アニメとして全話観た『SSSSグリッドマン』。これが、円谷の実写作品をアニメ化した内容と聞いて想像するのとは違い、エヴァンゲリオンを彷彿とさせる好みの内容で何より絵が綺麗。
しかし、13話(1クール)では全く話が終わらずとても残念だったのです。
特に、自分の好きなタイプのキャラクターであるアンチ君(主人公の敵役だったはずなのに、対立関係を保ちながら主人公を助ける役回りとなる。例.ガイバーのアプトム)が今からもっと活躍を!というところで残り話数が僅かになってしまったのがとても心残りでした。


そんなときに観始めたダリフラ
グリッドマンと同じくトリガー製作ということもあるのか、これも、かなりエヴァンゲリオンの世界観のままの物語。
才能のある少年少女がロボットを操縦する、という基本事項だけでなく、使徒もいるし、NERVもゼーレもある、当然、人類補完計画もある(笑)。
でも、これを観て、やっぱり自分はエヴァが好きなのだなと思った。大歓迎です笑

男女2人乗りで操縦するロボット「フランクス」

色んなところがエヴァそっくりなダリフラですが、彼らが乗るロボット「フランクス」には、エヴァとは異なる大きな特徴があります。
それは、男女2人乗りで操縦するロボットであること。*1
勿論、パシフィック・リムと同じく2人の気持ちが一つにならなければ操縦できないというのは当然ですが、問題は、 初めて見たとき「ええええ!!」と思った コクピットの形状。(未見の方はググってください…)
ただし、全話を見終えてみると、この形状は、実際にはそれほど実用的な意味があるわけでなく、単なる視聴者へのほのめかし(笑)だったのでした。


つまり、主人公たちは10歳くらいで、14歳だったエヴァパイロットたちよりもかなり年下なのですが、4体のロボット(フランクス)に乗る8人の少年少女が、いわゆる思春期を過ごす中で、性的な部分に興味関心を持って行くというのが、ダリフラのひとつの大きな魅力でした。


自分が大好きなエピソードは11話のパートナー・シャッフル。
主人公ヒロとそれに思いを寄せるイチゴ。また、そのイチゴを好きであることを意識し始めたゴロー。10話までの物語が彼らにスポットライトを当てていたので、その部分をシャッフルすると思いきや、ミツルとイクノという8人の中ではあまり目立たない2人の心の内を見せます。
ここでのミツルの感じは、とてもよく分かります。ミツルがヒロとフランクスに乗りたい(男→男)と思っていたのは、ゲイだとかバイセクシャルだとかそういうことではなく、このくらいの年頃だったらあることのように思うのです。一方でフランクスに一緒に乗る相手としてイチゴを指名したイクノは「本気」(女→女)だったことが、この11話だけでなく後半の話でも分かります。あとでも触れますが、後半の物語上の失速は、この「嫉妬」要素が不足していたからだと思います。

嫉妬と諦め、そして「相手」への嫌悪が「恋愛スピリッツ」

さて、この物語は、終盤の展開に不満を抱いている人が多くいるのですが、その理由は、話自体が大きく不連続になるタイミングが2度あるからだと考えています。
まず、ダリフラを薦めてくれた方が、実質最終回と言っていた15話。
ダリフラの一つのポイントは、ヒロインであるゼロツーが暴力的で、そもそも人ではなく、過去にパートナーの少年を何人も(実質的に)殺してきたというところがあります。
それでも、彼女を好きになるヒロ。
そして、幼少時からヒロのことを想い続けるイチゴ。
さらに、イチゴへの気持ちに気がついたゴロー。
このドミノ倒し的片思い連鎖こそが、15話までのダリフラの魅力だったわけです。
自分の大好きな歌に、チャットモンチーの「恋愛スピリッツ」があります。

あの人をかぶせないで
あの人を着せないで
あの人を見ないで私を見てね
あの人がそばに来たら
あなたのそばにもし来たら
私を捨ててあの人捕まえるの?
あの人がそばにいない
あの人のそばに今いない
だからあなたはわたしを手放せない

この感じです。
仲が悪いわけではない。相手からの好意がゼロではない。でも一番じゃない。
特に、実質的に第2の主人公であるイチゴの「恋愛スピリッツ」(嫉妬と諦め。そして「あの人」への嫌悪)が溢れていたからこそのダーリンインザフランキスでした。


それが16話以降はなくなります。
ゼロツ―が「いい子」になってしまったため、ドミノが止まって、イチゴの気持ちが落ち着いてしまったのです。
16話以降で「恋愛スピリッツ」を出したのは、18話のイクノくらいで、15話以前とはかなりトーンの違う作品になってしまいました。

ナインズの活躍がもっと描かれることを期待した20話以降

ということで、15話までと16話以降では物語が断絶しているのですが、それ以降で物語の断絶があるのは、やはり20話「新しい世界」です。ここでは、19話まで伏せられていた物語の核心部分が突如明らかにされます。
16話以降、18話のミツルとココロの結婚式や、その後のココロの妊娠など、自分はドキドキしながら見ていました。(ミツルの髪型変更も良かったです)
一方で、2人の記憶を奪ったAPE(エヴァでいうゼーレ)に対する憎しみを深め、さらに、APEからの指示にひたすら従うナインズの優等生たちも憎々しく思っていました。
本当ならば、最終回に入る前に、ナインズ達と13部隊の対決がきちんと描かれるべきだったと思います。
しかし、20話で、人類の本当の敵は叫竜ではなく、別にいた(VIRM)ことが分かると、ナインズ達は、急速に後退してしまいます。これは本当に残念です。
最終話を改めて振り返ると、ゼロツ―の正体や、APEの目的など、伏線回収はかなりしっかりやりつつ、「戦い」が終わったあとの、登場人物の生活にも目を向けたラストになっていて、ある意味では行き届いた作品になっていたのでした。
その一方で、15話まで見ていて高まった期待にも、19話まで見ていて高まった期待にも応えず、さらに新しい方向に向かってしまったのが、20話以降のように思います。あと、フランクス博士は「ただのマッドサイエンティスト」ではなく、もう少し感情移入できて「可哀想な博士」と思わせてくれた方が良かったように思います(笑)。


ただ、(グリッドマンもそうですが)技術的なところはよく分かりませんが、絵の綺麗さはピカイチでした。重要な場面で現れる桜もそうですが、ゼロツ―の髪の色は本当に画面に映えていて、美しいピンク色が印象的な作品でした。
グリッドマンを見て13話では足りない、と思った自分ですが、ダーリンインザフランキスを見ると、24話やってある程度の伏線回収まで済ませたとしても、まだモヤモヤとした気持ちは残ってしまうのだなあ、と思いました。ダリフラは物語の断絶部分があるから、そこで置いていかれると(気持ちが前の物語に引きずられると)不満は特に大きくなります。
ただ、そこらあたりの不満は分かった上で、ストーリーも一部変更しながら漫画版が進行しているというので、ちょっと漫画版にも期待したいです。そして次に観るアニメは、このダリフラエヴァとスタッフが重なるというグレンラガンかな…。

ダーリン・イン・ザ・フランキス 1 (ジャンプコミックス)

ダーリン・イン・ザ・フランキス 1 (ジャンプコミックス)

*1:男女2人と聞くと、ウルトラマンエースを思い出す人もいるようですが、自分の中では、ダントツに桂正和の『超機動員ヴァンダー』です。コミックスは2巻で終わってしまったけど、もっと続いてほしかった…

新年の一冊〜デヴィッド・フォスター・ウォレス『これは水です』

これは水です

これは水です

卒業式スピーチとしては、2005年にスティーブ・ジョブズスタンフォード大学で行なったもの(「ハングリーであれ、愚直であれ」)が有名だが、同じ年にケニオン大学で負けず劣らぬ名スピーチをしたデヴィッド・フォスター・ウォレスという作家がいた。
本書はそのスピーチ「これは水です」の完訳版である。
「考える方法を学ぶ」ことが人生にとってどれほど重要かを、平明かつしなやかな言葉で語った本スピーチは、時代を超えて読む者の心に深く残る。(Amazonあらすじより抜粋)

書評などを見て「これはいいかも」と思ったタイミングと、実際に本を読み始めるタイミングには、かなりのタイムラグがあることが多々あり、その場合、なぜ「これはいい」と思ったのかが分からないまま最初のページをめくることになります。
この本はまさにそれで、普段、自己啓発書の類に全く興味のない自分が、卒業式スピーチの本をなぜ選んだのか、頭を捻りながら読み進めた本です。
魚にとっての「水」のような、ありふれているが一番大切な現実というものは、口で語るのが難しい、という話から始まるこのスピーチ。
ふむふむ、リベラル・アーツは重要だねと思いながら終わりまで読み進めたあとで、巻末の訳者解説で(普通は読む前に知っておくべき)驚きの事実を知りました。


このスピーチを行った デヴィッド・フォスター・ウォレスは、このスピーチの3年後(2008年)に46歳で自ら命を絶っているのです。


しかし、まさにそのスピーチの中では、自殺について次のように語られています。

銃で自殺する大人のほとんどが撃ち抜くのは、頭部なのですが、少しもこれは偶然ではない。
こうして自殺する人の大半は、じつは引き金を引く前から、とうに死んでいるのです。
あなたがたの受けたリベラル・アーツの教育に、リアルでのっぴきならぬ価値が
あるはずだとすれば、ここだと思います。

確かに、このスピーチは変わっていて、卒業生に対して「可能性は開かれている」「人生は希望に満ちている」という話をしません。
スピーチの中では、アメリカの社会人の暮らしの大部分をなすもの(そして、それは卒業式のスピーチで誰も言おうとはしないもの)として「日常」について繰り返し書かれています。

  • 卒業していくみなさんがその意味を知らない「来る日も来る日も」
  • そこにあるのは、退屈、決まりきった日常、ささいな苛立ち
  • 無意味としか思えない日常
  • あくる日も、あくる週も、あくる月も、あくる年も、延々とつづく日常

ここで説明されるのは、そうした「日々のタコツボ」の中で、考え方の初期設定(デフォルト)を、継続的に調整していくことの重要さについてです。
無意識のままに嵌り込んでしまう考え方や価値観(典型的には、自己中心主義)は、絶えずせきたてられ、不安に駆られるような感覚をもたらし、そこから自由にならなければ、「銃で自分の頭を撃ち抜きたいと思うようになる」とさえ、ウォレスは、スピーチの中で説明しています。
正直に言えば、このスピーチ自体は、自分に直接響く言葉は無かったし、多くの人の熱狂を生むような強度の強いフレーズは無いように思います。
しかし、46歳でこの世を去ったウォレスが43歳のときに行ったスピーチであることを考えると、そして、それが「退屈な日常との向き合い方」という、自分にとっても逃れられないテーマであることを考えると、おざなりには扱えないように感じられてくるのです。
ちょうど、この本を読んだのが2019年の始まりということもあり、 少しでも視野を広げ、自己をブラッシュアップしていけるよう、日々、触れる情報や、自分の行動選択に対して意識的であるようにしたいと思いました。

ほんとうに大切な自由というものは、よく目を光らせ、しっかり自意識を保ち
規律をまもり、努力を怠らず、真に他人を思いやることができて
そのために一身を投げうち、飽かず積み重ね
無数のとるにたりない、ささやかな行いを
色気とはほど遠いところで
毎日つづけることです。p129

北方領土問題からウナギまで〜鈴木智彦『サカナとヤクザ』

何とか読み終えたが、内容が多岐に渡る。第一印象として、それほど字が詰まっていないので、すぐに読み終える軽い本だろうと思った自分を恥じたい。取材期間丸5年というのもよく分かる。


以下、1章ごとに備忘録替わりに簡単なメモを。(今後読み返す自分自身に向けて)

第1章 岩手・宮城 三陸アワビ密漁団VS海保の頂上作戦

「黒いあまちゃんがいるかも」という冗談から始まった取材は、いわば導入部。
三陸の密漁の現場を追ううちに、密漁が「市場ぐるみ」で行われていることが分かり、2章に続く。

第2章 東京 築地市場の潜入労働4ヶ月

作者が潜入したのは「荷受け」と呼ばれる卸会社。
中沢新一『アースダイバー東京の聖地』では築地市場で働く仲卸に焦点が当たったが、「荷受け」(卸会社)はその一つ前工程で、 密漁のアワビを買い受ける市場の窓口ということになる。
密漁云々よりも、前職も年齢も関係なく、色んな出自の労働者を受け入れる大らかさを持っているのが築地市場である(あった)という話が印象に残る。

第3章 北海道 “黒いダイヤ”ナマコ密漁バブル

黒いダイヤモンドと呼ばれるナマコは、特に中国では高級食材として珍重されるという。

  • 黒ナマコの密漁はチームで行い、それを暴力団が仕切っていること
  • 浅い海ではナマコは枯渇してしまったので、死亡事故が多発するような深い場所での密漁が増えていること
  • 発電所付近には漁業権が設定されていないため密漁しても違法にはならないこと

など、直接の取材による生々しい証言が多い。

第4章 千葉 暴力の港銚子の支配者、高寅

この章は、高橋寅松という実在のヤクザの評伝のような内容になっている。
かつての銚子は暴力団と漁業が強く結びついていたという話だが、今現在の人物への取材が出てこないので、他の章に比べて異質で読みにくい。

第5章 再び北海道 東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史

この章がとても面白かった。
根室という街の特殊性を知ることができる内容で、北方領土の問題を学ぶ上で、漁業との関わりは避けて通れない道だということがよく分かった。

  • 昭和20年代:船で1,2分もすれば超えてしまうソ連領海(少し前までは日本領海)での漁で拿捕される漁船が続出。
  • 昭和50年ころまで:ソ連が秘密裏に許可した「レポ船(赤い御朱印船)」がソ連領海内を自由に航海。レポ船は、ソ連に機密情報を渡していた。
  • 昭和50年以降:レポ船は消え、ソ連との中間ラインを猛スピードで越境し、巡視船を強引に振り切る「特攻船」が誕生し、大規模密漁を繰り返すようになる。勿論ヤクザがそれを仕切った。
  • 平成以降:ソ連の体制変化により、日ソが共同して取り組み特攻船は壊滅。その後、ロシアからのカニ密輸(ロシア人漁師による密漁)⇒日本領海での第三国による密漁など抜け穴を探しながら密漁は続いている。

この章では過去のルポルタージュなど他の本からの引用も多い。北方領土の話はしっかり勉強しておきたい。(沢木耕太郎は『人の砂漠』野中の一編「ロシアを望む岬」で北方領土問題について書いている)

北方領土・竹島・尖閣、これが解決策 (朝日新書)

北方領土・竹島・尖閣、これが解決策 (朝日新書)

人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

第6章 九州・台湾・香港 追跡!ウナギ国際密輸シンジケート

ウナギについては一通り勉強してきたが、ウナギが減っているということに科学的根拠がないとする説の紹介など、これまでにあまり触れてこなかった話もあった。
が、それ以上に養鰻業者の話が目白押しで興味深い。

  • 露地池で育てる古いやり方は減り、加温ハウス養鰻がスタンダード化し、大規模業者によるユニクロ・ウナギも増えている
  • 大手の養鰻業者が稚魚のシラスウナギ仕入れ先は闇業者が跋扈している
  • 県だけの取り組みで言えば、流通の透明化を最も進めたのは宮崎県。県の協議会が「公定価格」を決めるが、それをもとに「裏価格」が決まるのが現実。
  • 正規・密漁を合わせても養鰻業者の求めるシラスの量には足りないくらいで、密漁シラスを買う業者は必ずいる。
  • 輸入されているニホンウナギのシラスは台湾、香港を経由して日本に来る(合法のものもある)
  • ニホンウナギよりも絶滅の可能性が高いとされるヨーロッパウナギも中国の業者が加工品にして日本に売っている

ウナギについては、改めて勉強したい。昔、Wedgeでウナギ特集をやっていたが、そのときの特集記事を鈴木智彦さんが担当していたらしく、そのときの記事がまとめられているので、こちらも読んでみたい。(この本と重ならない内容もあるようだ)

ウナギ密漁 業界に根を張る「闇の世界」とは Wedgeセレクション

ウナギ密漁 業界に根を張る「闇の世界」とは Wedgeセレクション

まとめ

「おわりに」には東京海洋大学の勝川俊雄准教授の言葉も出てくるが、かなり広い範囲の識者の意見を聞き、文献を参考にしながら書かれている本のようで、本当に読み応えがあった。北方領土をはじめ、いろいろな本を読むきっかけにしたい。日本の漁業については、やっぱりこれか。

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

なお、BL漫画『コオリオニ』や桐野夏生『柔らかな頬』で描かれた北海道警の悪い面が自分の中で強化された読書となった。関連してこのあたりも見てみたい。

恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白 (講談社文庫)

恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白 (講談社文庫)

参考(過去日記)

巧妙な構成から伝わる重さ〜貫井徳郎『愚行録』

愚行録 (創元推理文庫)

愚行録 (創元推理文庫)

ここ最近、買ったり図書館で借りたりした本を、中2の長男(読むのが速い)に先に読まれるパターンが増えた。その結果、同時に数冊持ち帰った本の中から、長男セレクションで読む優先度を決めることになり、これも激推しされて読んだ本。
結論から言うと、かなり自分の好みに合う内容だった。

ええ、はい。あの事件のことでしょ?―幸せを絵に描いたような家族に、突如として訪れた悲劇。深夜、家に忍び込んだ何者かによって、一家四人が惨殺された。隣人、友人らが語る数多のエピソードを通して浮かび上がる、「事件」と「被害者」。理想の家族に見えた彼らは、一体なぜ殺されたのか。確かな筆致と構成で描かれた傑作。『慟哭』『プリズム』に続く、貫井徳郎第三の衝撃。 (裏表紙あらすじ)

この本に関しては、ネタバレはかなり大きな要素となり、それを伏せたままでは、ストーリーの素晴らしさを表すことが出来ない。
しかし、文庫解説の大矢博子さんは、ネタバレ部分を上手く避けながら、小説の特徴を上手く説明している。

ひとつの事件についてのインタビューや会話、あるいはモノローグだけで構成される小説というのは決して珍しい趣向ではない。(略)物語の中核にある事件もしくはモチーフをより掘り下げるために、このような形式は実に効果的なのである。
が、しかし。
本書の場合は、少し違う。いや、かなり違う。
(略)ここで語られているのは被害者である田向夫妻のことだ。それこそがメインであり、そしてそれだけのはずだ。なのに田向夫妻よりも、それを証言しているインタビュイーたちの印象が強く残るのはなぜだろう。
それこそが『愚行録』の真のテーマである。

つまり、他人を評価し他人を語ることは、自分を評価し、自分を語ることに他ならない。インタビューの中から明らかになるのは、田向夫妻に関する事実だけでなく、むしろ、インタビュイーたちの考え方や人間性なのだ。
このことから、この作品に限らず、書評自体が、自分を晒してしまうという危険性を孕んでいることを挙げ、特にそれをテーマとしている『愚行録』は解説を書きにくい本だと説明している。
また、この解説には「愚かなのは誰?」とタイトルがつけられ、『愚行録』という書名の意味についてまとめられている、小説の序盤では、被害者夫婦の若き日の行動が「愚行」なのだろうと思わせておいて、「自分が見透かされていることに気づかず滔々と他者を評価してみせる証言者たち」こそが「愚か」なのだとし、言葉の選択についてこう指摘している。

愚か、という言葉に注意したい。善悪ではなく、是非でもなく、ただ愚かなのだ。悪なら断罪できる。非なら糾弾できる。しかし愚かであるということは……ただただ哀しい、と感じるのは私だけだろうか。

この指摘は、まさにその通りで、作品の重要なテーマになっている。


というように、解説では、作品のもう一つのテーマであり、構成上の重要な因子(つまりネタバレ要素)である「各章ごとに挿入されるある女性のモノローグ」については、その内容に触れずに、書名の意味と作品のテーマについて丁寧に説明されている。
こういったネタバレ要素が大きい小説の解説を書くのは難しいだろうなと改めて思いながら、さすがプロの書評家は違うな、と思わされた文章だった。


さて、以降は、解説で触れられなかった部分について書くので、完全にネタバレしている。


この物語の犯人は誰なのか、つまり夫婦と子ども二人を殺害した人物は誰なのかといえば、妻の大学時代の友人(田中光子)で、動機は、自らと比べて段違いに幸せな生活をしている田向夫人を怨んでの犯行、ということになる。
こう書いてしまうと、シンプルで、「陳腐」にすら思えてくる。
日々のニュースに触れる中で、こういった格差を怨んでの犯行というのは、ある程度の数があるように思う。例えば、年末に竹下通りで車を暴走させ8人に重軽傷を負わせた犯人についても、竹下通りで幸せに過ごしている人たちに対する「リア充爆発しろ」的感性が爆発してしまったのだろう、と推測してしまう。
しかし、もはやそこには「人間」は存在しない。視聴者が事件について「納得」するために、犯罪と、犯行の動機が、方程式的に結ばれているだけだ。


『愚行録』では、その「犯人」「犯行の動機」について「人間」を中心に描く。そして、人間を丹念に描くと、かえって論理的ではなくなる。

ふふふ、それなのにどうして殺したのか、って?ただ殺すだけじゃなく、なんで家族まで皆殺しにしたのかって?うん、なんかねぇ、切れちゃったのよ。あたしの中で張り詰めていたものが、ぷつんと切れちゃったの。だってあたし、もっと幸せな人生を歩みたかったんだよ。そのためにいつも一所懸命努力して、後悔しないようにその都度ベストを尽くして、それなのに何もかもうまくいかなくてさ、ずっと悲しかったんだ。あたしは悪くないでしょ。p289


こういった全く論理的でないモノローグが説得力を持ってくるのは、ここに至るまで、この女性(田中光子)の語りをずっと聴いてきたからだ。彼女が、どれほど辛い家庭で、でも健気に育ってきたのか、を知っているからだ。
しかし、それだけではない。
少なくとも本の前半では、この女性が誰なのかは分からないし、犯人が男性か女性かも分からない。自分は、最初、この不幸な生い立ちの女性(および、その兄)が、夫婦の2人の子どもなのかと思いながら読み、次に、夏原さん(田向妻)自身なのかと思いながら読んだ。
このように、「犯人=惨めな境遇」というレッテルを貼らずに読み進めることで、田向夫妻のようなエリート家族が、恵まれない環境に生まれ育っているかもしれない、という事実とは異なる部分まで想像を巡らせた。
これは、正体を伏せたままで話を続けることで、先入観抜きに、よりフラットに状況を捉えさせることができる、そうした効果を狙った手法であるように思う。例えば、ジョン・グリシャム原作の法廷映画『評決のとき』で、マシュー・マコノヒ―の演説シーン、また、スガシカオの名曲「はじめての気持ち」でも、同様の手法が取られている。
⇒参考:スガシカオの方程式(2)〜関係性〜(2006年10月の日記)


それにしても、田中光子の独白を読んでいると、まさに暗澹たる気持ちになる。
特に、何度も繰り返される「男を捉まえる」という言葉が耳に残る。ここから、彼女にとって男性は「捉まえる」対象で、お金があるかないかだけにしか興味がないことがビシビシと伝わってきて辛い。彼女がこれまで父親や、母親が連れてきた男性からされてきた仕打ちを考えれば当然の感覚なのかもしれないが。
だからこそ、「人はみな愚か」と書く、この小説の最後の言葉が重さを持って心に響いてくる。自分にとっては、久しぶりに胸を衝く重い小説だった。

人生って、どうしてこんなにうまくいかないんだろうね。人間はバカだから、男も女もみんな馬鹿だから、愚かなことばっかりして生きていくものなのかな。あたしも愚かだったってこと?精一杯生きてきたけど、それも全部愚かなことなのかな。ねえお兄ちゃん、どう思う?答えてよ。ねえ、お兄ちゃん。

補足

この構成なしには、この小説はあり得ない。だからこそ、映像化は難しいのでは?と思っていたが、映画版は、あらすじを読むと、小説版とその構成が大きく異なるようだ。

エリートサラリーマンの夫、美人で完璧な妻、そして可愛い一人娘の田向(たこう)一家。
絵に描いたように幸せな家族を襲った一家惨殺事件は迷宮入りしたまま一年が過ぎた。
週刊誌の記者である田中は、改めて事件の真相に迫ろうと取材を開始する。
殺害された夫・田向浩樹の会社同僚の渡辺正人。 妻・友希恵の大学同期であった宮村淳子。 その淳子の恋人であった尾形孝之。
そして、大学時代の浩樹と付き合っていた稲村恵美。
ところが、関係者たちの証言から浮かび上がってきたのは、理想的と思われた夫婦の見た目からはかけ離れた実像、
そして、証言者たち自らの思いもよらない姿であった。
その一方で、田中も問題を抱えている。妹の光子が育児放棄の疑いで逮捕されていたのだ――

愚行録 [DVD]

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確かに、光子が育児放棄で逮捕されているのは、小説版でも冒頭1頁目に新聞記事の形で明らかになっているので、モノローグではなく、最初から本人が登場するという改変はあり得るだろう(というか映画にする以上、それ以外の方法は難しい)。しかし、まさか(小説では登場しない)「お兄ちゃん」が主人公的扱いで、週刊誌の記者として事件を追う、とは思わなかった。だが、これはかなり巧い改変のように思う。映画も是非見てみたい。

『おっさんずラブ』映画版に期待すること

おっさんずラブ DVD-BOX

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普段はドラマを全く見ない自分は、本放送は気にはなっていたものの見逃してしまっていた。しかし、Amazonプライム見放題に入ったのを機に観てみると、第1話から一気に引き込まれ、全7回を繰り返し見るほど好きな作品となった。
そこで、この大好きなドラマの何処に自分は惹かれ、映画版に何を期待するかをまとめてみた。

このドラマのキモ

このドラマの面白さのキモがどこにあるかと聞かれたとき、「おっさん同士のピュアな恋愛」を描いていることをまずは誰もが挙げるだろう。
しかし、自分がこのドラマを好きな理由は、ストーリーよりもひとえに黒澤部長(吉田鋼太郎)の表情の変化(声の表情を含む)にある。
黒澤部長が苦しみ悶え、そしてとびきりキュートに振る舞う。そこに引き込まれ、観ている側としても全力で応援したくなってしまう。ストーリーは、その顔芸のお膳立てのためにあるのだとさえ思う。
主人公・春田も、表情の変化が豊かで、おどけたり怒ったり、迷ったり自分勝手に振る舞ったり、いろいろな側面を見せるが、台詞以外に、頻繁にモノローグが挟まりその内面を説明する。しかし、黒澤部長は、表情と声色だけで、心の浮き沈みが強く伝わってくる。(厳密に言うと、黒澤部長のときだけは、街明かりがハートマークになったりする特殊効果がある気はする)
ここは明らかに人間が演じる映像作品の強みで、小説は勿論、漫画でも難しいと思う。
例えば、春田に別れを切り出されるシーン、妻の蝶子にばれたシーン、そして、フラッシュモブからのプロポーズのシーン、すべてのシーンの黒澤部長が愛おしくなる、『おっさんずラブ』はそんなドラマだったと思う。

登場人物全てが好きになれる作品

2018年を代表する映画『カメラを止めるな!』が良かったのは、よく出来たストーリーと構成にあることは間違いない。しかし、何度も見たくなる理由は、登場人物全員を好きになれる映画だからだと思う。『おっさんずラブ』にも同じことが言える。
序盤からずっと好きだった登場人物は、最初に挙げたように黒澤部長だが、ちず(内田理央)は、中盤以降、大好きになり、とにかく肩入れして観て、告白シーンには泣いた。
ただし、ちずに対する想いはやや複雑だ。物語としては、ちずの気持ちは片思いで終わるべきだからだ。幼馴染の男女である春田とちずが付き合うのは流れとして自然だが、観ている側も含めて傷つく人が多過ぎる。でも、ちずの想いが成就して欲しい。
そう思わせるのは、内田理央という女優の上手さなのかもしれない。ラストで、とりあえずの幸せを掴んだように見えるちず。好きなキャラクターだけに、あの終わらせ方は少しぞんざいな感じもしてしまったのだが…。


ちずだけではない。 最初は、「その他の登場人物」だった 武川主任に対しても、鉄平兄に対してもの、回が進むにつれて好意を抱くようになる。中でも面倒くさい後輩だったマロと蝶子(黒澤部長の妻)は、最終話では大好きなキャラクターになった。

春田フラフラ問題

ただ、観たほとんどの人が感じると思うが、登場人物の中で唯一、春田に対しての評価は、終盤に大きく下がることになる。
「分からなかった自分の気持ちに気づいていく」というタイプの話は自分は好きだ。(特にBL)しかし、春田については度が過ぎる。相手が男でも女でも、結婚式当日に、結婚を約束した相手以外への想いに気が付く、というのは酷いとしか言いようがない。
春田が牧と結ばれるラストは、物語的にはもっとも納得のいく着地点だが、もっと黒澤部長やちずのことを傷つけずにそこに辿りつくラストは無かったのかと思ってしまう。


なお、ここまで書かなかったが、牧(林遣都)は、その気持ちが一貫していて、むしろ、こちらを主人公として観たいくらいだ。自分の中では「応援したい度」は、黒澤部長とちずの次になってしまうが、だからこそ、ドラマのラストはとても良かった。

映画版に期待したい展開

公式HPには映画について次のように書かれている。

キャストはドラマ版と同じメンバーが全員続投!田中圭吉田鋼太郎林遣都の3人やお馴染みのレギュラー陣に加え、超豪華ゲスト俳優の出演も予定!?ドラマ版のその後のストーリーを描きます。
HappyHappyWeddingを迎えたはずの男たちに恋の嵐がまたもや吹き荒れる!?そこに新たなおっさんも参戦なのか・・・・!?“平成最後の純愛ドラマ”が、スクリーンでも熱い恋の火花を散らします!

さて、普通に考えれば本編と同様に春田を中心とした恋模様が描かれることになるが、ここまで書いてきたドラマの面白いところと問題点、そして最終回からすると、春田がまたフラフラして牧と別れてしまうような展開は、さらに春田に対する視聴者の嫌悪感が増してしまうだろう。
それは作中の登場人物にとっても同じで、春田が同じことを繰り返してしまうと、「また、春田か…」と呆れてしまい、その恋の行方を真面目に案じてくれる人は出てこないだろう。

と考えると、映画版で描かれるのは、黒澤部長の恋愛が中心になる。
黒澤部長が新キャラクターに対して恋をする。それであれば、蝶子や武川など、サブキャラクターも部長の恋愛を応援するし、観ている側も応援できる。
そこに、春田−牧のカップルのイチャイチャ&いざこざを絡めて描かれる映画であれば、もう誰も傷つかずに安心して物語を楽しく観ていられる。
つまり、本編の面白さとは完全に別の楽しさを持った作品を、映画版は志向すべきと思う。
などと書きつつ、映画版には大いに期待しています。
是非笑って楽しく見られる、そして登場人物みんあが幸せになれる映画を!


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10年後も20年後もウナギが食べられる世の中だといいなあ、と思っていますが、本を読めば読むほど不安は募ります。