Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

政治へのAI導入は真面目に考えるべき~岡田斗司夫『ユーチューバーが消滅する未来』

先日、職場のEU某国出身の方(日本語ペラペラの30代男性)とブレグジッドやトランプなど、各国の政治事情について話をする機会がありました。彼は、日本の政治も含めて世界事情に通じていたので、こちらからの質問に答えてもらう形で話を進めていたのですが、その中で、政治もAI(人工知能)に任せた方が良いという意見が出て、驚きました。が、話を聞いていると、この考え方はEUの国だからこその発想なのかもしれないと思ったのです。
日本では、最近、長期的視野に欠け、欠陥だらけの法律が、数の論理だけで通ってしまう状況があります。(例えば、厚生労働省の統計不正問題が明らかになっている中で無理矢理通してしまった働き方改革関連法案や、技能実習制度の問題は放置したままでの外国人労働者の受け入れ法案等。)
これは他の国でも同じ状況のようで、昔に比べて政治家に「大局観」がない、求められない時代なのかもしれません。その国では、数年前に、地元誘導の国会議員が、どさくさに紛れて地域産品についての保護主義的な法律を通してしまいました。ここまでは日本と変わりません。しかし、そのあとの顛末が日本では考えられないものでした。無理矢理通ってしまったこの法律に対して、広域経済圏を理想とするEU欧州議会?)が 少し遅れて ダメ出しをし、結果として法律自体が廃止に追い込まれたのだというのです。*1
このように、もはや信頼がおけない国内政治に対して、もう少し国際的視野や大局観を持ち、政治的理想を追求するEUのような組織が、おかしな法律にチェックをしてくれるというのであれば、それをEUではなく、AIに任せることが出来るのでは?さらに進んで、立法自体もAIに任せられるのでは?というのは自然な思考の流れかもしれません。


政治をAIに任せるという話は、まさにこの本で出てきた内容です。
この本の目次は以下の通り。

  • 序章 「未来格差」に備える
  • 第1章 未来予測の3大法則
  • 第2章 自分を「盛る」時代
  • 第3章 AIがユーチューバーを淘汰する
  • 第4章 アイドルは新時代の貴族になる
  • 第5章 アマゾンが不動産へ進出
  • 第6章 バーチャルとリアルの恋愛の境界が消える
  • 第7章 AIロボットが家族の代わりに
  • 第8章 人工知能が政治を変える
  • 終章 未来の幸福論

特に興味深かったのはまず2章。ここではNHKねほりんぱほりん」の「偽装キラキラ女子」の回も引き合いに出しながら、すでに日本は、現実よりも「盛った」ものが優先される時代になっているという話がされます。ここ最近の自分の絶望を裏付けるような内容です。

  • これだけ格差が開いた世界において、みんなが納得できる解なんてない。それぞれの人が見たい「現実」を見て、楽しく生きた方がずっといい。p61
  • (「自分の生活は全然キラキラしていない、なんて惨めなんだろう」等という)鬱屈を抱えて生きるより、自分の現実をそれぞれデコって生きる。「みんなが同じ現実に向き合う」のではなく、「それぞれが別々の現実を生きる」。これこそ、人類の悲願なのではないでしょうか?これから10年、20年、そうした消費者ニーズはもう止められないでしょう。p61
  • 極論すれば、もうすでに「ニュースが真実かどうかを判断する」ことはたいていの人にとって重要ではなくなっている。p50

また、第7章では、調理ロボットの作ってくれた料理を食べながら、「大喜利β」のような人工知能のキャラがボケやツッコミを担当して、大家族のような雰囲気を作ってくれる「楽しい」未来が描かれます。実際、2007年のiPhone登場で生活が一変したというのはまさにその通りで、AIスピーカーの普及と機械学習の進化のスピードを考えれば、あながちあり得ない未来ではない気がします。


そして、この延長上にあるのが政治でのAIの活用について書かれた8章です。

ここ100年くらい、多くの国が民主制を採用し、できるだけ有能で誠実な人を政治家に選ぼうとしてきましたが、そういうやり方にも限界が見えてきました。
現代社会の問題は、ものすごく膨大で複雑で広い範囲にわたっています。
「社会の不平等はどこまで認めるべき?」、「移民が押し寄せてきたけど、どうすれば自分たちの生活を守れるの?」、「人間は都市に集中した方がいいの?」(略)…。
1人の人間がすべての事柄についてきちんと情報を集めてじっくり考えるような余裕はないでしょうし、あらゆる人間の意見を一致させることなんてできません。p182


この状況に対して、理想的には、選挙で選ばれた議員たちが議論を重ねることによって最善の政策を選択していくのが理想です。しかし、その選挙で「主要な議題に対して十分な知識を持っているか」、「細かい議題に対しても情報収集し、有益な議論を出来そうか」、そういった観点で投票を行っている実感はありません。
この本の中でも、人間の社会は「ルール主義」(厳格な法律にしたがって国家を運営しようとする法治主義)と「キャラクター主義」(人徳のある為政者が人民を治めると口主義)の間で行ったり来たりを繰り返しているものの、現代は強いキャラクターが求められる時代になっているとしています。

ルールで大勢の人間をまとめて共同体を維持するのはもうできない。
ファクトではなくオピニオンしか存在しない世界では、「言った者勝ち」なのです。p187


その中で、政治に人工知能を積極的に導入していくべきだという考え方が出てきます。岡田斗司夫は、人工知能が万能だからそう言うのではなく、その精度が未成熟であっても導入すべきだと考えています。

「不完全なシステムに政治は任せられない」と反論する人もいるでしょう。でも現行は、どんな資質が必要かもわからない職業に対して、有能だとか正義感が強いだとかいい人そうとか言われる人を選挙で選んで任せることになっている。そんなシステムのデタラメさに比べたら、人工知能の解析を参考にして政治を行う方がよっぽどマシなのではないでしょうか。P195

完全に同意です。
ここからは、少し飛躍して自分の考えを述べます。
自分はこれまで「将棋」というゲームにそれほど興味がありませんでしたが、電王戦が始まって以降、AIvs人間は勿論、人間vs人間の将棋であっても、他スポーツと同様に興味を持って将棋観戦をすることが増えました。
それは何故かといえば、「評価値」が見えるからです。

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評価値
ニコニコ生放送などの将棋中継では、格闘ゲームのライフのように、画面上部に対戦する両者の「評価値」が表示されるのが普通になっています。これがあることで、将棋に詳しくなくても、また勝負を中盤から見始めても、どちらが優勢でどちらが劣勢か、また、どの手で盤面が逆転したのかがはっきりわかるようになりました。
また、一気に情勢が変わる悪手・良手に対しては、「何故これが評価値を下げる(上げる)のか」に対して、説明を求めるようになり、結果として将棋への理解を深めることに繋がりました。


翻って、政治の現状に目を戻せば、個別政策に対して論点が多くなればなるほど、国民の側としては理解が難しくなり興味を失うようになる傾向にあります。それに対して野党としては、「議論」というよりは「政争」を分かりやすくするために、論点を一点に絞って「一点突破」で政権打倒を目指します。
結果として、政権与党は、時間を稼ぎタイムアップで強行採決、というのが、最近のパターンです。そこには「政策」を議論した形跡はほとんど見られません。


結果として、以下のような点で、今の日本の政治は全く魅力的ではなく、国会議員への歳費が無駄に使われているのではないかと不満が溜まるばかりです。

  • 多過ぎる論点に対して、国民だけでなく、政治家も十分に理解していないまま採決に応じている
  • 国会で議論がなされない、だけでなく、国民への説明も不十分なまま重要法案が成立している
  • 選挙での投票では、上記問題に対して国民側は何の手も打てない。結果として、国民が政治に興味・関心を持てない


先ほどの将棋との対比で言えば、これへの解決策は明確です。政策に人工知能による評価値をつけるか、議員に人工知能による評価値をつけるかのどちらかです。
この人工知能は、政党別で異なる評価値が出るということでも構いませんが、経済や労働関連の指標予測などでコンテストをやって、ある程度好成績を収めるAIを使うという形がいいのかと思います。
評価値を明確にすれば、次のような利点が考えられます。
政策に点数をつける場合、 代案との比較が簡単になるため、野党側に法案のアラを見つけ、対案をつくるインセンティブが生まれます。それだけでなく、点数が見えることによって、国民がスポーツを観るのと同レベルで政策に関心を持つことが出来ます。与野党のAIで評価値が逆転することがほとんどの可能性もありますが、明らかに国民が得るものが少ない法案は、どこのAIも低い評価値をつけることが想定されます。
議員に点数をつける場合、毎回問題になる安倍首相の「適材適所」の大臣任命がどの程度「適材適所」なのかは、任命の時点である程度わかり、国民が組閣自体に興味関心を向けることができます。 桜田義孝さんのような人物が国務大臣に選ばれることはなくなるでしょう。


自分が、今の政治で納得が行かないのは、「民主党」もしくは「サヨク」アレルギーの人が多過ぎて、政策の内容よりも、野党憎し(もしくは「安倍さんは好きじゃないけど、他に誰かいる?」派の考え)で、与党の法案や閣僚人事の問題点がスルーされたままになってしまうことです。
かといって、上に文章を引用したように、国民どころか政治家も「すべての事柄についてきちんと情報を集めてじっくり考えるような余裕」はないように見えます。
政治にもう少し国民的関心のスポットが当たり、才能ある人材が政治の道に進むようになるためにも、人工知能を政治に導入するようなアイデアが採用されてしかるべきかと思います。『ユーチューバーが消滅する未来』の結びの文章は以下の通りです。まさにその通りで、このまま国会でヤジ合戦を続けながら泥船が沈んでいく未来は何とか避けたいと思ってしまいます。

もう僕たちは国家や政治の「あるべき論」をやめて、さまざまな実験をしていかなければいけないし、その動きは世界のあちこちですでに起こっていて、もう止められない。
どの国を選ぶのか、あるいは国を作るのか。決めるのは、あなたです。
だって、僕たちは今、戦国時代にいるんですから。

*1:一方で、こういう状況を知ると、英国がEUを抜けたい理由も理解できるのですが…。

ORIGINAL LOVE『bless You!』全曲感想(6)いつも手をふり

bless You! (完全生産限定盤)

bless You! (完全生産限定盤)

  • アーティスト:ORIGINAL LOVE
  • 発売日: 2019/02/13
  • メディア: CD


今回のアルバム「グッディガール」で共演しているPUNPEEは、自分のラジオ番組で『bless You!』について語る際に、アルバムの中心にある曲として「いつも手をふり」を取り上げていました。確かに、ギターとハーモニカの演奏のみの「いつも手をふり」は、そのシンプルさ故に、聴く人を惹きつける力があります。
実際、今回はインタビューのたびに田島自身が語っているように、 『bless You!』というアルバムの最後のピースとして「いつも手をふり」が重要な役割を果たし、そしてこの曲の背後には母との別れがあったようです。

自分の母親が亡くなって、それまでの人生賛歌のイメージがガラッと変わったんです。『風の歌の聴け』に入ってる「フィエスタ」も人生賛歌かもしれないけど、あの頃よりも理解が深まっているいし、このタイミングで自分なりのゴスペルソングを書かざるを得なかったというか。すべての命、すべての死を祝福したいという願いを込めましたね。
母親が亡くなって人生賛歌のイメージがガラッと変わった - Real Sound|リアルサウンド


インタビューでは続けて、何が「変わった」のか、どの部分で「理解が深まった」のか、アルバムタイトルの意味と重なる「すべての命、すべての死を祝福したい」という願いの裏にどのような経験があるのか、が語られています。

母が入院しているときもよく見舞いに行ってたんですが、病院で生活している方々を見て、思うところもありまして。力の強い人、偉大だとされている人こそが人間の歴史だという風潮に対して腹が立ってきたし、そんなのは嘘っぱちだと思ったんです。そうじゃない人がほとんどだし、すべての人が一緒なんだろうなと。昔のゴスペルソングには、そういう内容のものもあるんですよね。
母親が亡くなって人生賛歌のイメージがガラッと変わった - Real Sound|リアルサウンド

以前読んだときには気がつかなかったのですが、改めて読むと、「すべての命、すべての死を祝福したい」 と願うアルバムテーマを決定づけたのでは、母の死だけでなく、病院でのそのほかの方々の生活ということなのでしょう。


ただし、「いつも手をふり」について言えば、母への想いがストレートに表現されている歌詞になっています。「何か返そうとしたけど足りなかった/もらったものが多すぎて返せなかった」の部分などは、友人や恋人というより、親に対する感謝(親孝行)の気持ちそのままのように思えます。


しかし、こういう聴かれ方は、アーティスト自身は好まないのかもしれません。
少し話が飛びますが、テレビブロスのコラムで、漫画家の久保ミツロウが、「感情のレイヤーかけすぎ問題」について語っていました。例えば、 そのアーティストが好き、という気持ちが強すぎて、作品の評価は抜きにして応援を続ける 場合や、 アーティストの死後に、亡くなった悲壮感をもとにその人の作品を見返す場合は、作品を鑑賞する際に「感情のレイヤー」をかけすぎて正当な評価が出来ていないのではないか、という話です。

ボヘミアン・ラプソディ』はそこまで振り切ってるわけじゃないとは思うけど、それでも何かの病気でアーティストが死んで、その自伝を描こうというときに、その人の伝えたかったものがその病気越しにしか見えない感じになってしまうのが、なんだか嫌で。(略)感情のレイヤーを1回取ってみて、その人の本当にやりたいことは何だったのかをちゃんと意識しないと…と思ってるんです。
(TVBros.2019年6月号「久保みねヒャダこじらせブロス」)


アルバムに関するインタビュー記事を読んでしまうと、「いつも手をふり」を聴いて、田島の母親の姿を思い浮かべてしまいます。しかし、時が経てば、「感情のレイヤー」は徐々に薄れて、この曲をもっとシンプルに受けとめることが出来るようになると思います。


ちょうど、これに関して、とても良い記事がありました。小鉄昇一郎さんによる弾き語りツアーのレポート(music review site Mikiki)です。
この中では、特に印象に残った曲として「太陽を背に」が取り上げられています。

個人的に印象に残った曲が“太陽を背に”だった。田島はMCで、ブルースやラグタイムのリズム構造や楽器の変遷については語っても、その精神性やテーマについては語らなかった。しかし〈さあ太陽を背に働きに行こう/きっと記録に残らない者たちが働いて/いまここに町があるんだ〉と歌うこの曲は、どの時代、どこの国にもいるであろう、ただ日々を生きる労働者たちのことを歌う、まさにブルースの精神のど真ん中を行く清々しい佳作だ。そのスピリッツは敢えて言葉にせず、実際の作品に託す。そんな心意気を感じ取った。
労働者をテーマにした歌はオリジナル・ラブの過去のアルバムにもある。99年リリースの隠れた傑作『L』収録の“大車輪”だ。しかし〈日替わりランチ巡り 誰よりも急いで食べ/取り替えがきくような命に縛りつけられ〉と歌う“大車輪”に描かれるカリカチュアライズされた労働者像と“太陽を背に”のリリックには、根底にある眼差しに大きな変化が感じられるだろう(しかし“大車輪”は“大車輪”でまた名曲でもある。モーター音のサンプル・ループが6連符でビートをひねる、オリジナル・ラブ流のインダストリアル・ロックだ)。
何よりも、両足のパーカッション(フット・スタンプとタンバリン)、そしてギターと歌を身一つで汗をかきかき演じる田島貴男の姿は、アーティストやクリエイターと言うよりは正しく〈エンターテイナー〉。誤解を恐れずに言えば奉仕的な、ひとつの職業としての音楽家、その誇りとサービス精神に満ち溢れた〈働く男の姿〉そのものであった。
オリジナル・ラブ田島貴男が弾き語りツアーで見せた〈働く男〉としての姿 | Mikiki

超名文です。
ここで、「大車輪」を出すあたり、オリジナル・ラブが好きなことが何より伝わってくるし、「隠れた傑作」という控えめな言葉で大傑作『L』を褒めているのも嬉しい。そして、両者の間には「 根底にある眼差しに大きな変化が感じられる」というのも、まさにその通りです。
そして、その音楽が、 〈働く男〉としての田島貴男から発せられたものであったというまとめは、ちょっと出来過ぎな感じもしますが、ライブの感動をとてもうまく伝えています。
自分も最終日の東京公演を観に行きましたが、「太陽を背に」にはとても感動しました。これまでとは違った聴こえ方が、そこにはあったように感じたのです。


それは何故か。
ファンはよく御存知の通り、もともと「太陽を背に」は、2013年発売の『エレクトリックセクシー』の中の一曲で、田島自身も参加した震災後の復興活動(具体的にはスコップ団というボランティアチーム)にインスパイアされて作られた曲なので、どうしても、そのイメージが離れない曲でした。久保ミツロウ風に言えば「感情のレイヤー」が強い楽曲だったのです。
それからだいぶ日が経ったことによって「感情のレイヤー」を意識せずに楽曲を受け入れることが出来るようになった、というのが、「太陽を背に」がこれまでと違って聴こえた理由として考えられます。


そして、もう一点は、このライブにおいて「太陽を背に」が「いつも手をふり」の直後に歌われているということも大きかったのではないか。そんな気がしています。
この2つは、身近にいる人や、目の前で頑張っている「ふつうの人」に向けて歌った曲であることが共通しています。*1その「ふつうの人」は、家族であり、友人であり、そして、知人でも友人でも何でもない人(誰かにとって大切な人)達なのです。
自分以外の人の誰もが「かけがえのない」人生を生きていること、それを感じさせる楽曲が『bless You!』には詰まっているし、「太陽を背に」は、その延長上にあったとも言えます。
ということで、 『bless You!』は、過去楽曲まで影響する名盤だと思います。
そして、小鉄昇一郎さんのレポート、素晴らしいですね。アルバム評もコンパクトながら名文でした。小鉄さんの文章の締めの文をここでも引用させていただきます。

〈いつの日よりも 今の君が一番いとおしい〉とは、オリジナル・ラブの名曲“朝日の当たる道”の印象的な歌詞だが、常に変化と前進を続けてきたオリジナル・ラブの、そこかしこに過去の歩みを感じさせながらも、フレッシュさを失わない円熟の新作『bless You!』。これまでのファン、そして、これから過去のディスコグラフィに触れる楽しみがある幸運な若いファンに向けて、田島貴男が送るエール(bless You!)のような一枚だ。
オリジナル・ラブ 『bless You!』 最初から〈オトナ〉だった男の〈円熟〉 | Mikiki

*1:また、「いつも手をふり」「太陽を背に」はどちらも9曲目であることが共通しています。

もっと勉強しなくては!~ミキ・デザキ『主戦場』


映画『主戦場』予告編

感想

GWにどの映画を観ようかと悩んでいた。もともと候補となっていたのは『ブラック・クランズマン』や『バイス』などの史実を題材にした映画。
そんなときに知ったのが『主戦場』。 
自分は杉田水脈ケント・ギルバートの主張に同意できない一方で、何故ここまで彼らが支持されるのか気になっていた。また、従軍慰安婦の問題について何が論点になっているのか等、基本的な部分を知らないので、これらをまとめて扱った『主戦場』は、まさに自分にはうってつけの映画のように見えた。
しかし、ネトウヨの揚げ足を取って嘲笑する左翼プロパガンダ的な映画だったら嫌だという不安もあった。特に今回は中3の長男と一緒に行くことになったので尚更だ。
(『バースデーワンダーランド』と『バイス』と『主戦場』からGWに観たい映画を選ばせたところ、彼は『主戦場』を選んだ。)


ところがそれは杞憂に終わった。
ひとことで言えば、とても勉強になる、そして勉強がしたくなる映画だった。
勿論、映画の後半になればなるほど監督の主張が出てくるため、中立の映画とは言えないが、膨大な情報量の交通整理が上手に出来ていて、まさに議論のスタートたり得る映画だと思う。
ただ、日本の現状が怖くなる映画だとも思った。
「特殊」に思える思想を主張する団体が政府の中枢を握っているということは、何度も言われていることではあるが、改めて指摘されると背筋が凍るようだ。
杉田水脈のインタビューでの(矛盾に満ちた)発言に、客席から笑い声も聞かれたが、自分には笑えなかった。

論点整理

杉田水脈が「騙された」と語ったと噂される通り、映画の中で歴史修正主義者として括られる人たち(杉田水脈、テキサス親父、ケント・ギルバート櫻井よしこら)は、多くを語りながらも「その主張の信頼性は低いのではないか」という取り上げられ方をする。
しかし、それは、慰安婦問題の論点整理をして、その一つ一つを検証した結果として出た結論であり、納得感が強い。最初から結論ありきの映画であれば自分は不快に感じていただろう。
この、 論点整理のおかげで 、対立陣営双方の異なる意見を整理して検証できる点が、この映画の一番の特徴であり、それが故に信頼感が増す理由となっていると思う。
例えば、慰安婦問題については、「20万人」「強制性」「性奴隷」という3つの論点で両陣営の意見を並べていく。(これは右派陣営として登場した山本優美子が重視していた3点だ。)このうち、20万人については、修正主義者たちの反論のいい加減さを指摘しながらも、いくつかある可能性の中の、最も多い数字を選んで語られている数字ではないか、と韓国( 挺対協)側を否定するような結論で終わる。


また、日韓問題についての米国の関与についても取り上げていることも重要だ。
すなわち、「その問題は解決済み」という根拠にされることの多い1965年の日韓基本条約、そして2015年の慰安婦問題日韓合意、そのいずれもが自国の利益のために米国が圧力をかけていたという見方も紹介している。デザキ監督はアメリカ人だが、日韓問題なので米国とは無関係だと片づけられない、というスタンスなのだ。


そして、韓国側の問題についても取り上げている。
インタビューで登場する修正主義者の人たちの次に否定的な取り上げられ方をするのは、韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャンだろう。韓国側で慰安婦問題を引っ張るリーダーと言える。
彼女は、韓国内から慰安婦問題についての韓国のナショナリズム( 「20万人」という「盛った」数字で日本の責任のみを追及する運動のあり方) を批判したパク・ユハ『帝国の慰安婦』という本については、「吐き気がして、途中で読むのをやめた」という。
あとでも述べるが、「対立陣営の意見に耳を傾けない人は信頼がおけない」というのは、この映画の一貫したスタンスであるように思う。(これを教えることが出来ただけでも、長男と一緒に映画を観ることは彼にとってプラスだった。)
パンフレットを読むと、アソシエイト・プロデューサーのカン・ミョンソクさんは、それでも「映画が韓国のナショナリズムを控え目に論じている」と不満気であり、デザキ監督とはかなり論争したという。
なお、強制連行については、日本政府の「強制」以外に、『82年生まれ、キム・ジヨン』でも見られたような、韓国内での家父長制の問題も絡んでいたと語られていたのも印象的だった。同じく、慰安婦の方たちが戦後40年以上口をつぐんできた理由も言わずもがなだ。そんな「真実」は家族にとっては「恥」以外の何物でもないのだろう。

クライマックスに登場する「人物」(ネタバレ)

さて、映画が取り上げるのは、慰安婦問題の事実関係だけでなく、教科書問題、南京虐殺岸信介靖国神社日本会議フェミニズム-セクシズムなど幅が広く、情報量は膨大で、好奇心を途切れさせない工夫がされているとはいえ、後半になると飽きが出て「これ最後どうなるんだ?」という気持ちが湧いてくる。
そこで出てくるのが「謎の人物」である。
画面上には人物相関図が描かれ、これまでに登場した修正主義者たちをすべて繋げ、オノ・ヨーコのいとこでもあるという、相関図の真ん中に位置する人物…
一気にクライマックス感が出て、スクリーンに釘付けになったところで登場するのが、さまざまな団体の代表を務め、日本会議の代表委員でもある加瀬英明だという。


とにかく、加瀬英明のインタビューには度肝を抜かれる。
慰安婦問題を研究する歴史学者として、保守系から批判されることの多い吉見義明(映画では何度もインタビュー映像で登場)について問われれば「そんな人は知らない」と答え、保守系歴史学者である秦郁彦についても「秦君とは友達だけど本は読んだことない」「人の書いたものを読まないもので」とうそぶく。一方で、慰安婦問題について正しい歴史観を持っている歴史学者について問われると「それは自分だ」と答える。調べてみると、“「慰安婦の真実」国民運動”の代表を務めている。
ここまで両陣営の主張について論点を整理しながら慎重に検証を進めてきた映画のスタンスからすると、あり得ない態度だし、全く信頼ができない人物であることだけが伝わる。
フィクサーのような扱いで、この人を出してくるのは、もしかしたら事実に反していてそれこそ偏向なのかもしれないが、ここまで空っぽの人が多くの人に影響を与えている今の状況はかなり怖い。
また、さらに怖い(そして悲しい)のは、慰安婦像の目の前でインタビューを受けた日本人の学生旅行者、渋谷スクランブル交差点でインタビューを受けた学生らが、いずれも慰安婦問題を「知らない」と答えたこと。教科書運動が実を結んだ結果と言えるのかもしれない…。 (現在の中学歴史教科書には慰安婦の言葉はないという)

まとめ

パンフレットには、これら議論の論点以外に、ドキュメンタリー映画としての評価や、先ほども述べた、アソシエイトプロデューサーから見た不満点など、これまた多くの情報があり、執筆者も森達也、武田砂鉄らの名前が並ぶ。
森達也の寄稿の中で、「日韓の歴史認識の違いを研究したい」というゼミの韓国人留学生の要望を受けたときのことを書いている。森は「閔妃暗殺事件」の学校での取り上げられ方について、日韓双方の学生に問うのだが、当然、日本人の学生は知らない。それを見て韓国人留学生は呆然とする、という話だ。
自分も全く知らなかったが、「閔妃暗殺事件」は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃で、1895年に暗殺された事件を指しており、犯人は日本人であるという説もあるらしい(森達也は日本公使の三浦梧楼と言い切っているが…)。慰安婦問題を知らない日本人学生を見て頭を抱えた自分が恥ずかしくなる。これについては、当時の日朝の関係について勉強しておきたい。
ということで、非常に勉強になり、刺激を受け、さらに勉強を続ける必要性を痛感する作品だった。*1
パンフレットの中から大矢英代さんの言葉を引用してこの文章を締めたい。

本作品を「歴史修正主義者たちの糾弾映画」と位置付けるのはおそらく間違いだろう。問われているのは、私たち自身だ。
私にも、あなたにも、信じている「ファクト」がある。だからこそ、今一度問わねばならない。私たちが信じて疑わないこの「ファクト」は本物だろうか。それはどこまで真実を反映しているのだろうか。それを問うことは、葛藤であり、自分の中の常識との全面対決である。
『主戦場』は、私たち一人一人の中に存在する。この船上から離脱するのも、残るのも、私たちの自由だ。だが、戦うのを止めた時、代償を払うのもまた、私たち自身なのだということも忘れずに。

読みたい本

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

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日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784)

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これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史

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朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

*1:一点だけ不満なのは、後半で多数登場するネトウヨから転向した女性がどのような人物なのかがパンフレットから読み取れないこと。名前もわからないので調べられない…

読書会に行ってきました!~チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)


10連休初日は『82年生まれ、キム・ジヨン』の読書会に参加してきました。
Session-22でもアトロク *1 でも特集が組まれて気になっていたところ、最後に背中を押してくれたのは、この読書会だったので、主催の友人には大感謝です。
読書会についての感想ですが、2時間超の時間を、この本と関連の話題や本について色んな意見を聞くことが出来て理解も深まり、記憶にも残り、とても良かったと思います。6人というのもちょうど良いくらいの人数で、7人以上だったらこの時間ではきつかっただろうし、4人、3人と少なくなればなるほど、色んな人の意見を聞くという目的が達成できなかったでしょう。


さて、感想ですが、この本は構成(精神科医による手記)も変わっていますが、何より物語本体が変わっています。
通常、物語のフックとなるような事件やイベントは極力抑えられ、主人公であるジヨンの半生を描くことに徹した内容になっているのです。また、小説内には、OECD加盟国内での男女の賃金格差の数値(p118)など、統計数値が頻繁に登場しますが、韓国で女性が置かれた状況について、このような数値が示されるだけだったら、これほど多くの人に届くものにはなっていなかったでしょう。
これに加えて、あとがきで、主人公ジヨンの名前は1982年生まれの女性に最も多いものが選ばれたということを知り、この小説自体が、以前知ったペルソナという手法に似ていると思いました。
ペルソナはマーケティングの手法で、従来用いられていたターゲットマーケティングとは異なる手法です。

ターゲットマーケティングは、今でもMBAで教えられている基本的なマーケティング・プロセスである「STP-4P」の前提となるマーケティンの考え方です。市場全体を狙うのではなく、自社のマーケティングを効率的に展開しやすいターゲットを選び費用対効果を高めるという点がポイントです。

それに対してペルソナマーケティングとは、そのターゲットの中でも特に買ってほしい顧客イメージを極力具体的に記述し、彼/彼女に訴求するようにマーケティングを考えるものです。

有名な例ではカルビーの「ジャガビー」開発の際のペルソナ設定があります。このケースでは、カルビーはそれまでありがちだった「20~30代の独身女性」といったぼんやりしたターゲティングではなく、「27歳、独身で、東京の文京区に住んでいる女性。いまヨガと水泳に凝っている」というペルソナを設定し、

・彼女ならどんな商品を欲しがるだろうか?
・どんな雑誌を読んでいるだろうか?
・どんなタレントが好きだろうか?
・いつもどういう買い物の仕方をしているだろうか?

などと肉付けをし、彼女が望む商品開発、売り方を考案し、ヒットにつなげました。
ペルソナマーケティングとは?ターゲットマーケティングとの違いは? | GLOBIS 知見録

つまり、通常の小説のツボである、イベントや物語の展開、伏線回収などには力を入れず、どこまで実在の女性に迫って物語を語れるか、に全力を注いで勝負している作品であると感じたのです。
実際、韓国での大ヒットの要因は、読者の「共感」を呼ぶ内容だったことが要因なのは間違いありません。なお、韓国のフェミニズム文学が欧米のそれよりも読みやすいことについては、韓国が日本と同じ「家父長制」の国だからだという話を、Session-22(アトロク?)で訳者の斎藤真理子さんが話されていました。


日常に徹していることは、(物語を楽しむ場合に重視する)「驚き」が不足することに繋がり、自分にとっては不満もありました。実際、女性の生きづらさを扱った作品に意識的に触れてきたここ数年の自分からすると、小説内で提示された男女差別は、ジヨンの母親世代に「大っぴらに行われた」女児の堕胎*2の件以外には、日本に似ている部分が多く、あまり「驚き」を感じなかったのです。むしろ、韓国が男女別姓であるという部分に、むしろ日本よりも先進的なのでは?と思ったくらいです。*3
ただし、まさにそんな自分に釘を刺すように、この小説のラストは、フェミニスト気取りの男性の足元をすくうような毒に満ちていて、そこには恥ずかしさを感じました。
口では判ったようなことを言いながら、行動が伴わない。いや、伴わないのではなく、むしろフェミニズムに逆行するような発言をしてしまう。そういう部分は自分にもきっとあるだろうと思います。
作中での登場人物の呼称に、ひとつの仕掛けがあることが、解説内で明かされますが、ラストだけでなく、静かに淡々と語られる物語の後ろには、作者の強い思いが流れていることが 解説(伊東順子さん)を読むと分かります。


なお、最近の韓国でのフェミニズム運動の概観がわかるこの解説で、伊東順子さんは、東京医大での入試差別事件について触れ、「韓国なら即座に二万人の集会が開かれているだろう」と語っていますが、日韓での政治活動へのコミットの仕方の違いを痛感しました。
また、これも解説にしか書かれていませんが、韓国における女性嫌悪の要因として、男性だけに兵役が課されているということの大きさは、きっと大きいのだろうと思います。そこから日本を眺めてみれば、日本でのフェミニズム運動は、韓国よりもよほどスムーズに進むはずなのに…とも思ってしまいます。


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読書会では、各個人の体験にまつわる話がやはり一番心に残りましたが、それ以外では「信頼できない語り手」の話からカウンセリングの手法についての話を面白く聞きました。
この本の冒頭では、キム・ジヨンに、最近起きている「異常な症状」として解離性同一性(多重人格)障害の症状(のようなもの)が描かれます。そこで現れた人格の一つに、夫のデヒョン氏の昔の彼女がいて、彼女が喋る内容は、デヒョンしか知り得ないものでした。一種オカルト的なそのエピソードがラストまで回収されないことに、ほとんどの人が気になるようで、自分も、夫婦二人の話を精神科医がまとめたことから生じたのだろうなと思っていました。
このあと、話は「黒子のバスケ脅迫事件」などにも広がったのですが、『82年生まれ、キム・ジヨン』が、そういった曖昧な部分を残していることも、この小説の魅力の一つだということで意見が一致しました。


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上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞の件で、日本での女性嫌悪というよりは「フェミニズム嫌悪」を目の当たりにして、改めて政治的な「分断」の状況に嫌気がさしていました。少し前の自分は、意見が対立していても議論を重ねることによって相互理解を深めることが出来ると思っていたのですが、最近は「相互理解」は、 お互いにエネルギーが500%くらい無いと成り立たない相当に高いハードルであるという思いを強め、むしろ、これからも分断が進んでいくような気すらしています。
ただ、そんな中でも、小説なら、この分断を少し和らげることが出来るのではないか、という気にさせてくれた本でした。
また、自分にとっては初めて読んだ韓国文学ということもあり、お隣の国を知るために、もっと多くの韓国文学に触れてみたいので、そのきっかけとしても良い本でした。
改めて読書会の機会を作ってくださった友人に感謝です。

参考

読書会で 関連図書として挙げた本について。

pocari.hatenablog.com

益田ミリの「すーちゃん」シリーズは、男女問わず、生きづらさにポイントを置いた漫画ですが、やはり女性の側の視点であることに惹かれました。上の文章中で、ここ数年は「 女性の生きづらさを扱った作品に意識的に触れてきた」と書きましたが、自分の中にそういった流れが出来たのは、この辺からなのかもしれません。


pocari.hatenablog.com

自分が村田沙耶香を好きなのは、感性が独特で、男の自分には思いもつかない発想や表現が多く登場するからです。
特に性を扱った作品にそれが顕著で、『しろいろの街の、その骨の体温の』や『消滅世界』は、読後に、書きたいことが多過ぎて、結局感想を書かないままに終わっています。
村田沙耶香の小説が好きな人は、上野千鶴子の東大入学式祝辞を「クソフェミ」の一言で片づけたりはしないと思います。


pocari.hatenablog.com
田房永子のエッセイ漫画は、とにかく最初は入りづらかったです。
最近は、ろくでなし子ですら大丈夫になってきましたが、こういった本を読むにつれ、自分が女性に対して自分の理想の「女性らしさ」を押しつけていたことを思い知らされました。
上に挙げた本は、最近『他人のセックスを見ながら考えた』というタイトルでちくま文庫で文庫化されましたが、「何でこのタイトル?」と思いつつも、密着型理髪店、パンチラ喫茶、おっぱいパブなど、さまざまな形態の風俗店のレポートとなっているこの本は男が読んで「気づかされる」ことの多い内容だと思います。

これから読む本・見る映画

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

あなたの人生の科学(上)誕生・成長・出会い (ハヤカワ文庫NF)

あなたの人生の科学(上)誕生・成長・出会い (ハヤカワ文庫NF)

お嬢さん 通常版 [DVD]

お嬢さん 通常版 [DVD]

お嬢さん 通常版 [Blu-ray]

お嬢さん 通常版 [Blu-ray]

*1: Session-22は荻上チキ、アトロクはafter 6 junctionというライムスター宇多丸のラジオ番組です。週末の長時間ランのお供は大体この2つの番組です。

*2:90年代の初めには性比のアンバランスが頂点に達しており、3番目以降の子どもの出生比率は、男児が女児の2倍以上だったとのこと

*3:調べると、それは誤解で、儒教的な理由から夫婦別姓とのこと。子の名字が父方の姓になるのがほとんどであることを考えると、むしろ問題もある

男は読んで考えるべき~姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

私は東大生の将来をダメにした勘違い女なの?
深夜のマンションで起こった東大生5人による強制わいせつ事件。非難されたのはなぜか被害者の女子大生だった。
現実に起こった事件に着想を得た衝撃の書き下ろし「非さわやか100%青春小説」!

実際に起きた事件を題材にしていることもあり、読後に、事件の内容を確認し、再読し、感想を書き、また読み直し、としている間に、この小説を意識したと感じられる東大卒業式の式辞、および、この小説に直接言及した東大入学式の祝辞などを読み、書き終えるまでにかなり時間がかかってしまいました。
が、感想を書き終えて改めて思うのは、この本は多くの男性に読んでほしい小説であるということです。
特に東大生男子には絶対に読んでほしい小説です。

この本のポイント

姫野カオルコさんは、執筆動機について、実際の事件後に起こった被害者バッシングへの違和感を挙げています。
この本を手に取る動機は人それぞれだと思いますが、何となく被害者女性に少しは非があると感じていた人も、この本を読むことで、被害者側を責めるのはおかしいと気がつくことでしょう。その意味では、バッシングに疑問を投げかける目的は確実に果たされる本だとは思います。
ただ、読む前から、どころか、裁判上においても、悪いのは(被害者女性ではなく)加害者たちであることは分かっています。また、第三者的立場の「バッシングする人」が被害者女性を過剰に貶めているのはいわずもがなで、当然ながら、この本のポイントは、「誰が悪いか」「悪くないか」にはありません。


そうではなく、加害者大学生が、動機として「彼女は頭が悪いから(何をやっても良い)」という論理を持ち出すに至った背景を丁寧に描いたのがこの小説の意義です。また、そこを加害者・被害者の内面にまで(想像のレベルで)踏み込んで書いていることで、後述するように小説そのものが批判される原因になっています。


まとめると、読者は「誰が悪いのか」ではなく「どうしてその考え方になったのか」(加害者側だけでなく、被害者女性がなぜ家についていったのか、も含む)に焦点を当てて読むべきだと思います。そして、その要因に「東大生だから」という理由も部分的にはありますが、もっと大きなものが横たわっている。だから、この本は「考えさせられる本」となっているのです。

非さわやか100%青春小説

横浜市郊外のごくふつうの家庭で育ち女子大に進学した神立美咲。
渋谷区広尾の申し分のない環境で育ち、東京大学理科1類に進学した竹内つばさ。
ふたりが出会い、ひと目で恋に落ちたはずだった。
渦巻く人々の妬み、劣等感、格差意識。そして事件は起こった…。これは彼女と彼らの、そして私たちの物語である。(背表紙帯)

読み始めてすぐ、予想外のことに面食らいましたが、小説は、事件当時者の美咲(被害者女性)とつばさ(5人いる加害者男性のうち1名)の中学生時代から始まります。
のちに起きる事件を知った上で、美咲パートを読んでいると胸が痛くなりますが、最初に書いた通り、美咲パートもつばさパートも、それぞれが 「どうしてその考え方になったのか」を知るための10年弱と言えるでしょう。
したがって、事件が起きる直前までは、美咲にとっては間違いなく「青春小説」であり、つばさにとっても「歪んだところのある青春小説」という括りで読める内容になっています。帯に書かれた「非さわやか100%青春小説」とい言う惹き文句も納得です。

つばさの恋愛観

加害者東大生5人のうち、つばさは、その内面を丁寧に描写され、たった一人だけ、人間性を持った人物として(作者の肩入れを受けて)描かれます。一筋の「救い」を求めるように。
中学生時代のつばさは、大学生になって以降もつきあいの続く同級生の山岸遥が気になります。また、オクトーバーフェストで出会った美咲をかわいいと思います。そこには確かに恋愛感情があったはずなのです。


しかし、繰り返し書かれるように、加害者東大生5人にとっては、恋愛は「不合理」で「無駄」なことなのです。
つばさも、無駄なことを避けるように、自分の気持ちに向き合わず、最短距離を進もうとします。
つばさの恋愛観、人間観は、作中で、「ぴかぴか」という言葉とともに何度も登場します。姫野カオルコさんは、この事件の裁判の傍聴に何度も足を運んだということを考えると、「ぴかぴか」には、彼女の怒り・呆れが悪意を持って込められているのでしょう。

つばさには、遥のことを気にしている自覚はない。一位でも二位でもない女子を自分が気にするのは業腹であり、自分の裡の、得にならない感情を見ない技術を、彼はわりに幼いころから体得していた。さすがは東大に合格するだけのことはある器用さだ。p59

「それじゃ、私はもう板倉に行くね。竹内くん、元気でね」
遥は行った。
「……」
とり残された。そんな気が、なぜかした。
自分の裡の、そんなかんしょくの正体に近寄ろうとは、つばさはぜったいしない。メリットがないからだ。無駄だ。p108

家族に限らない。つばさは概して人の情感の機微について考える性質ではない。彼はまっすぐで健やかな秀才なのだ。健やかな人間は内省を要しない。p125

ではつばさにとって美咲は?
そんなことに思考を充てる無駄は、この勉強のできる青年はしない。(略)
おれにとってかの人は何なのだろうかと考えるような行動は、東大に入りながら本郷に行くころには二次方程式の解の公式すら使えなくなる文Ⅲのやつらがやっているごくつぶしのような行動であり、難病や飢饉や地雷に困っている世界の人々を救えないアホな行動なのだから、そんな行動を、優秀なつばさはしたことがないし、これからもしないようにしている。(略)
だから、頭脳優秀なつばさは、早く美咲に会いたい、美咲の膣に挿入して射精したいと欲した。p293

星座研究会のメンバーはサラブレッドだ。幼少のころからブリンカー(競走馬用目隠し)をつけて、ゴール(=東大)に向かってい真っ直ぐにインしたので、心はすべすべできらきらだ。p337

最後のブリンカーの喩えが分かりやすいですが、彼らは世間的に言う「悪いこと」に対する誘惑を断ち切るだけでなく、少しでも無駄だと思えば「考えることをやめる」ことすら厭わないのです。
結果として、「すべすべできらきら」な心の持ち主に育ちます。
作品内で多用される「すべすべできらきら」に対して、小説内では、彼らが絶対に感じない感情として「引け目」が使われています。特に、偏差値に対する「引け目」*1について、繰り返し書かれていますが、趣味や友人関係すべてについて同様のことが言えるでしょう。
例えば、「すべすべできらきら」な心の持ち主は、メジャースポーツは適度に嗜むとしても、世間でオタク的とされる趣味に時間を注いで、世の中や友人に「引け目」を感じるようなことをしません。ガチャガチャを買うか漫画を買うかなど不毛なことで悩んだりはしないだろうし、自分の発言が人を傷つけないか、間違って伝わらないか不安になって、逡巡したりもしません。
しかし、とても優秀で、大学のみならず社会に出ても求められたものをそつなくこなしていきます。


…というような、通常の小説ではあまり見ない、作者の悪意のこもった描写~すべすべな東大生を揶揄する言葉があまりにしつこいのは確かです。そのため、現役東大生の怒りを買い、姫野カオルコさんを招いての東大新聞主催のブックトーク企画は、作品を批判する声ばかりが目立つ結果となったようです。
ただ、この小説を東大生が非難するのは気持ち悪さを感じます。
まず第一に、この小説で描かれる異常な事件は、実際に起きてしまった事件なのです。
また、この中の東大生描写は、おそらく姫野さんが裁判を傍聴して感じた、加害者東大生たちの(持論を信じて疑わない)揺るぎなさの異常性を表現しようとした成果であるわけです。
であれば、むしろ、この異常な部分がないか、自分たちや仲間を顧みて反省する方向に向かってこそ、「頭のいい」東大生だと言えるでしょう。


最初に書いたように、この事件は「東大生だから」起きた事件というわけではありません。読んだ人が感じる居心地の悪さは、もっと普遍的なテーマを含んでいるからだと思います。

美咲の「あきらめ」

つばさとの恋に落ちる直前に、美咲は変わりました。端的に言うと「もてる」ようになったのです。
そして、その変化こそが、彼女が事件に遭った遠因にもなっており、それをもたらしたのは「あきらめ」でした。

まじめでなくなったわけではない。礼儀正しくなくなったわけでもない。変わらないといえば、なんら変わらない。
ただ、少しだけ。
少しだけ、力が抜けた。
(略)
こうした変化を美咲にもたらしたものは、ひとしずくのあきらめ、である。
『エンゼル』に冒険で入ってみたクリスマス・イブの夜に、だれとも知らぬ客が、胸元を褒めてくれた。
(なら、そうしておこう)
なんとなく襟ぐりの大きい服、胸のラインがなんとなく出るような服。そんな服を着るようになった。(略)
(こんなふうなのがいいんなら、こんなのにしておこう)
どこかあきらめて、美咲はそう思った。p202

勿論、胸のラインが出る服を着るのが悪いということでは全くなく、美咲がもてるために戦略的にその服を選んだのであれば、問題はありません。
しかし、ここで、わざわざ「あきらめ」という言葉が使われているのは、美咲が自己の意志よりも、男性視点の価値観に身を委ねることを選んだ、ということを意味します。
事件が起きた当日の飲み会でのやり取りも、やはり美咲の行動選択は「あきらめ」がベースとなっています。

重たい大ジョッキを持ち上げ、残っていた生ビールを一気に飲んだ。ぬるくなっていた。
「そうそう。やっぱ、美咲ちゃんはそうこなくっちゃ」
美咲ちゃん。つばさの声が発する自分の名前。笑みがようやく浮かぶ。
(私の役は…)
察知する。
(今日、私が呼ばれたのは、飲み会を盛り上げること)
笑っていよう。胸を出していよう。それがいいよと、前にも何人かが言ってくれたから。
p352

2つのルール

この小説の中を支配するのは「学歴偏重」「男性優位」という2つの価値観=加害者東大生の大好きなゲームのルールです。これらは加害者、被害者、バッシングをした人にそれぞれ影響している大きな要因で、小説のメインのテーマとなっています。
美咲は「ごくふつうの女の子」(p134)であり、それらの価値観にそれほど囚われているわけではないように見えます。
しかし、それでも、男性視点の価値観に屈服しなければならず、それらの価値観に翻弄されることになりました。


一方で、東大生とつき合うことにブランド的な価値をおく女性も登場します。加害者東大生のうち2人と順番につきあった那珂いずみがまさにそれです。
高校時代に美咲と淡いつきあいのあった須田秀の彼女もそうです。
彼女達は、小説内でも嫌われているのですが、もしかしたら、美咲のように「あきらめ」を感じ、自分の立場から「ルール」を巧みに利用して生きようとしていただけなのかもしれません。


彼女たち…どころか女性全般について、つばさをはじめとする加害者東大生は「下心」という言葉を使って評します。この「下心」という言葉も、裁判の傍聴で実際に聴いた言葉のようです。

「そ。下心があるのは女のほうなんだよ。東大男子をみるときはね。」
國枝が言う。「下心」という國枝のひとことに、つばさは頷く。
「『このワタクシに釣り合う』ってのが偏差値の高い大学の女子。『これをゲットしなくちゃ』ってのが偏差値の低い大学の女子。差はこれだけ。
どっちも下心で東大男子に接近してくる。結婚というものがそもそも下心による結びつきじゃん。だったら、はじめからツヴァイやゼクシィで下心を合理的にマッチングさせればいいんだよ」


慣習的に残っていることがむしろ問題である「学歴偏重」「男性優位」という誤ったルールに乗っかって、さんざん女性を蔑むつばさ達。
それらの価値観を分かった上で、何とか楽しく生きようとする那珂いずみ。
それらの価値観に気がつくのが遅く翻弄されてしまう美咲。


実際の事件の被害者が、美咲のようなタイプだったのか、那珂いずみのようなタイプだったのかは不明ですが、たとえ東大生というブランドに「下心」から近づいた後者のようなタイプであったとしても、バッシングを受けるのは誤っています。
というより、バッシングするタイプの人(おそらく 「男性視点」を過剰に獲得してしまった 女性もいるのでしょうが)こそ、 「学歴偏重」「男性優位」の2つの価値観に囚われていると言えます。
そして、まさにその点について、読者である私たちが問われる小説なのです。

東大卒業式と東大入学式の言葉

小説の中では、これらの価値観から自由になっている人が何人か登場します。
中学生時代のつばさの同級生である山岸遥。東大法学部から司法試験に挑戦するも、途中で進路を変更し、北海道で学校教師になった、つばさの兄。そして、加害者大学生の中心的人物・譲治の高校時代の上級生で、美咲が大学生時代に出会った「グレーパーカ」です。
彼らの話を聞いたときの、つばさや譲治の反応は、「キモい」の一言です。(p129、p176、p305)
結局、彼らは「学歴偏重」「男性優位」のルールから外れた人の意見には全く興味がないのです。
実際、今の日本社会では、そこから外れることで、生き方に「非効率」が生まれることもあるのですが、その「非効率」を彼らは理解できず、また、頂点にいる自分たちが無視されるのが許せないのでしょう。
その「他人への無関心」こそが問題です。
この小説を読んだあとで、東大の卒業式と入学式での言葉が話題になりましたが、まさに、東大関係者がエリート東大生の「無関心」を心配する内容となっていました。


平成30年度東京大学卒業式で、 五神真・東大総長は見田宗介の『まなざしの地獄』という論考 を引用し、そこから2つの大切なこと~「個人の内なる多様性に目を向ける」ことと「極端な事例から全体を知る」ことを学ぶことができると語っています。

その一つは、私たち自身誰もが、異質性によって排除される他者の立場になり得るということであり、逆に異質に見える他者の誰もが、じつは互いに共通する側面をもっていて、同じ社会の一員になり得るのだということです。(略)「内なる多様性」に目を向けることこそが、自己と他者との深い相互理解を可能にし、多様性を尊重するということなのです。

もう一つの大切な点は、個別的で例外的な事例であっても、注意深く目を凝らせば、そこにも全体を語る力があるということです。現代社会はグローバルな広がりを持ち、関わりのあるすべての人の意見や態度を直接見聞きすることなど到底できません。しかし、諦めてはいけないのです。むしろそこで、身近な少数の人の考えをとことん聴き、共感し議論を交わすべきなのです。それを通じても、より広い社会の人々の動向を理解するための重要なヒントを得ることができるからです。
平成30年度東京大学卒業式 総長告辞 | 東京大学

この2つこそ、つばさや加害者東大生達が無駄だとスルーしてきた行動と言えるでしょう。
(東大の中での割合は少ないかもしれませんが)本来はマイノリティでも何でもなく、最も関心を持ちやすい「他者」である「女性」すら、深く理解しようとせず、一方的な価値観の型を押しつける人間が、日本のこれからを作っていくとすれば、これからの日本に期待を持てません。
いや、そのような人たちが、今現在の日本の政財官に巣食っているのからこそ、同じようなタイプの人間が幅を利かせるのかもしれません。
五神総長の言葉は、やや遠回しではありますが、東大生集団暴行事件や『彼女は頭が悪いから』を念頭に置いた、東大生に対する警鐘なのだ、と自分は感じました。


この問題をさらに厳しい言葉で、直接的に指摘したのが、こちらも話題になった平成31年東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞です。

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学


この祝辞に対する(式に出席している東大生の)リアルタイムツイートが『平成31年度東京大学学部入学式 上野千鶴子さんの祝辞で会場が大荒れ #東大入学式2019』にまとめられているのですが、この中の「 やべーやつの臭いがする 」「 祝辞の意味知らんのかなきもい」というツイートがあまりにも『彼女は頭が悪いから』に地続きで、自分は、小説の中に入ってしまったのかと思いました。
あと、とりあえず「クソフェミ」と言っておけば良しとする人の語彙の少なさには唖然とします。


上に引用した祝辞のまさにその後で、上野千鶴子さんは『彼女は頭が悪いから』に言及するのですが、NAVERまとめを読むにつけ、やはり、 「すべすべできらきら」な心の持ち主は小説の中だけでなく実在するのだと打ちのめされた思いです。
ということで、最初に書いた通り、この小説は、すべての男性が読み、「自分事」として考えるきっかけとしてほしい本だと思います。
そして、読後に改めて、五神総長の式辞を読めば、小説を読む前と比べて受け取るものが倍増するのでオススメです。

合わせて読むべき本

と書いて、終わりにしようかと思ったのですが、男女差別について具体的な事例*2を挙げて追及するような小説ではないので、これだけ姫野カオルコさんの怒りが込められた文章にもかかわらず、届かない人には届かないのかなあとも思ってしまいます。
そういう人は、下品に赤裸々に男女差別について追及する田房永子さんの著作をオススメします。
日本で長い間生きてきた男性は、ちょっとやそっとの指摘では、この社会のおかしさに気がつかなくなっているので、ここまで下品に指摘されないと分からなくなっていると思うのです。(以下、いずれも『他人のセックスを見ながら考えた』からの引用)

(女性用のおっぱいパブ「イケメン乳首パブ」があったとしても、最初は罪悪感を感じてしまうが…)
それが男の場合は歴史が長いため、すでに完成されている。「この女の子も仕事でやってるから」という割り切りの感覚を、男は小さい頃から大人の男たちから感じ取り学んでいる。男は「娼婦」的女性と「自分の妻・娘」的女性を、別のものと分けて考える傾向が強い。本人はそんなつもりはなく、気づいていない場合も多いが、「娼婦」と「普通の女」を分けて考えるのは、そうしないと自分に罪悪感が溜まってしまうからだと私は考える。

"健康な”男たちはいつでも、自分を軸にものごとを考える。ヤリマンの話をすれば「俺もやりたい」と口に出したり、「ヤリマン=当然俺ともセックスする女」と思って行動するし、男の同性愛者の話をすれば「俺、狙われる。怖い」と露骨に怯えたりする。そこに、「他者の気持ち」「他者側の選ぶ権利」が存在することをすっ飛ばして、まず「俺」を登場させる。そのとてつもない屈託のなさに、いつも閉口させられる。理由は「だってヤリマンじゃん」「だってゲイじゃん」のみ。
自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。それは彼らが小さい頃から全面的に「彼らの欲望」を肯定されてきた証しとも言えるのではないだろうか。

(新幹線でくつろぎまくる男たちに対して)
彼らに、私の緊張感なんて、絶対分からないんだろうと思った。もし私がここで立ち上がり、「おい、おめーら!女の私がどんだけ緊張してるか分かってんのか!小学生のころから痴漢に遭って、公共の場で見知らぬ男たちから性的いやがらせを受け続けたトラウマ、そして35になって子持ちになった今も、もし何かあったらという恐怖感、自分の身は自分で守るしかないという立場、おめーらがリラックスしまくってる横で、こうやって緊張してる女がいるんだ、分かるか男ども!」と社内で叫んだとしても、「はあ?」と言われるだけだ。だからしないけど、心の中は叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

男子の性欲は本当に「微笑ましい」のだろうか。「微笑ましい」としていることに、なんの弊害もないのだろうか。そしてそれは一体なんのために「微笑ましい」とされているんだろう、10代の時から、男子の性欲ばかりを認めさせられてきて、35歳になっても電車の中吊りで高齢男性の性欲の黙認を静かに要求されることに、私は心底うんざりしている。

*1:特に女子大格差について書かれたP337あたりに顕著です。ここでは、「引け目」と合わせて「挫折」という言葉も用いられています。

*2:女子マネージャーの問題について少し語られる程度である気がします。

ORIGINAL LOVE『bless You!』全曲感想(5)空気-抵抗

今回は、アルバム7曲目(B面2曲目)の「空気-抵抗」についてです。
はっきり言って、この歌は相当面白いです。
今回のアルバムで聴くべき曲として3本の指に入ります。
渡辺香津美さんが参加しているギターも、素人に分かりやすい聴きどころで、楽曲的にも魅力はあるのですが、何と言っても変なタイトル、変な歌詞。(褒めてます)
「逆行」とセットで語られることの多い曲だと思いますが、この「空気-抵抗」が他と異なるのは、怒っていること。ここまで真面目に怒っている曲も珍しいのではないでしょうか?一番のサビはこんな感じです。

Peer Pressure 同調圧力
屈しないで抵抗しろ
Peer Pressure 脅されてもひとり
本当のことまっすぐ言え
Peer Pressure 同調圧力
盾ついて行け

田島は何に対して怒っているのか。
「クラス中笑っても俺ひとり」なんて、小中学生時代を想定させるような歌詞もありますが、内容は、ネット社会を意識しているのは明らかで、インタビューでも本人がそう答えています。

──そこに乗ってる歌詞がまた異様で(笑)。

この曲に関しては、どういう歌詞を書いたらいいのかわかんなくなっちゃって。それでずっと悩んでたんだけど、ある種のいら立ちみたいなものをテーマに歌詞を書いていったらハマったんですね。日本人にありがちな、ロックなら“ロック村”とか、政治好きなら“政治好き村”とか、まあ、なんの村でもいいんですけど、1つの方向で急に熱くなって盛り上がってる中で、そこに対して違うことを言うと、めっちゃ叩かれたりするでしょ?

──確かにそうですね。

僕はそういう風潮がすごく嫌で。例えば、学者の人たちは自分が追求してきた学問に対して、世の中の人たちが違うことを言っていたとしても、それが自分の結論ならば意見を貫き通さなければいけない。それはプラトンの時代から同じで。自分の意見を貫き通したことで殺されたりしたことがあったかもしれない。現代社会でも、そういう部分は変わってなくて、それがSNSという非常に見えやすい形で存在していて。「みんなが右を向いてる中で、自分が左を向いていたとすれば、それを堂々と表明できるのか?」っていう。そういう自問自答と、周りに対する違和感みたいなものを表現したのがこの曲で。つまり「空気」に「抵抗」するということですよね。こういう気持ちって、みんな本当は持ってるはずなんです。でも「言ったら叩かれる」とか、そういう空気が今は昔より強まってるから、なかなか言い出せないんですよね。生きてくうえでは、ある程度、そういう空気を受け入れなきゃいけないのかもしれないけど、本当は違うんじゃないかなっていう。
ORIGINAL LOVE「bless You!」インタビュー|逆行し続ける男がたどり着いた新境地 (3/5) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

──そんな“bless You!”と“いつも手をふり”の後に、パンキッシュな曲調で<この流れに逆らえ>と歌う“逆行”でアルバムを締め括ってるのも田島さんらしいなと思いました。
ある意味さっき言ったこととは正反対というか、みんな一緒くたに何かを信じるのってやっぱりちょっと不気味だし、嫌だから、「全部逆を行け!」って言ってて、そうしたら、友達が一人もいなくなっちゃったっていう(笑)。そういう生き方もあるというか、そういうモノの見方もどこかしら心の隅に置いておいた方がいいと思うんですよ。僕は昔からそうで、クラスのみんながワッとなってると、一人だけ別のことをイメージするタイプ。今SNS見ても村社会っぽくて、何かひとつの考えにまとまり過ぎて、そうじゃないとめちゃくちゃ叩くでしょ?あれがすごく嫌で、“空気-抵抗”は「空気を読むな」っていう曲。「これ言ったら叩かれるんじゃないか」って、自分の考えを言わないでおくのはやっぱりおかしいんじゃないのか、ひとりひとり本当の自分の考えを言うことができるのか。そういう覚悟を問うた曲っていうかね。
──今の時代感だからこそ、「空気を読まないこと」や「流れに逆らうこと」の大事さっていうのは非常によくわかります。
どっちかっていうと、仲間外れの方が好きなのかも(笑)。でも、僕はポップスをやっていて、普遍的な、誰もが普通に感じることはとても大事だと思ってる。だからこそ、大衆心理の負の部分、危ないところも感じるわけですけど、その両方の感覚を持っていたいですね。
オリジナル・ラブ、4年ぶりの新作『bless You!』をリリース!“一発録り”で「音楽のアンサンブルの良さ」を込めたライブ感溢れる作品を田島貴男が熱く語る!|DI:GA ONLINE|ライブ・コンサートチケット先行 DISK GARAGE(ディスクガレージ)

少し長めに引用しました。特に後者では「逆行」のことを聞かれているのに、「空気-抵抗」のことまで答えているこの流れ。実際、歌詞も「逆行」で不足していることを「空気-抵抗」で過剰に補っている感じのバランスになっています。
「逆行」だけだと、ものすごく天邪鬼な人の(変わった)歌のようにきこえてしまいますが、「空気-抵抗」があることで、田島の本気度合いが分かります。
おそらく、ツイッターなんかでの盛り上がりや、ネタ的な消費のされ方に田島は敏感で、歌詞で「歩き方話し方キャラクタが変わっているとクラス中笑っても」と歌っているのは、田島本人が、自分自身のこと(外見など)を言われるのが嫌だという表明なのかなと思います。
例えば、先日、最近のインタビューでよく身につけているベレー帽の本人写真と、同じくベレー帽をかぶった藤岡弘、写真を並べたツイートが回ってきました。自分は不用意にRTしてしまった*1のですが、多分ああいうのに対する意見表明が、怒りのこめられた「空気-抵抗」の歌詞なのかな、という気もしています。


さて、「逆行」と「空気-抵抗」の一番のメッセージは何かについてよく考えてみると、タイトル通りの、流れに逆らえ、抵抗しろ!ということではなく、歌詞で歌われる次の部分だと思います。

  • 空気-抵抗:本当のことまっすぐ言え
  • 逆行:自分で考えさせず巻き込んで使うそんなものに逆らえ

つまり、自分で考えて、その考えを大事にしろ、ということなのでしょう。上のインタビューからその部分を抜粋します。

「これ言ったら叩かれるんじゃないか」って、自分の考えを言わないでおくのはやっぱりおかしいんじゃないのか、ひとりひとり本当の自分の考えを言うことができるのか。そういう覚悟を問うた曲っていうかね。

これは言うのは簡単ですが、実行するのはなかなか難しいことです。
日々思うことですが、一番自分の頭を使って考えていたのは、ブログを始めた頃です。
2010年頃からTwitterを始めましたが、Twitterは、本当に考えるのに向いていません。触れる情報の量が増えれば増えるほど、人は考えなくなると思うのです。
そして、Twitterが得意にしているのは「暇つぶしからかいつっこみ」で、それを嬉々として行っている大量のカオナシが、自分のような人間というわけです。


少し話を変えますが、つい先日、イチロープロ野球の一線から退くこと、つまり引退を表明しました。
突如報じられた引退のその日(翌日)に行われた会見は生中継されて、深夜にもかかわらず多くの人が、その様子を見ていたと言います。
自分は生中継では見ませんでしたが、その後、会見の一部をテレビで見て全文を記事で読みました。
引用しだすと全文引用してしまいそうなので控えますが、「生き様」について聞かれた際の回答がグッときます。

生き様というのは、僕にはよくわからないですけど。うーん、まあ生き方というふうに考えれば…。

先程もお話しましたけれど、人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。あくまでも、秤(はかり)は自分のなかにある。それで自分なりに秤を使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていくということを繰り返していく。

そうすると、いつの日か「こんな自分になっているんだ」という状態になって。だから、少しずつの積み重ねが、それでしか自分を超えていけないというふうに思うんですよね。

一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それが続けられないと僕は考えているので。地道に進むしかない。進むだけではないですね。後退もしながら、ある時は後退しかしない時期もあると思うので。

でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。でもそれは正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど。でもそうやって遠回りすることでしか、本当の自分に出会えないというか。そんな気がしているので。

ここでも、「生き様」を、わざわざ「生き方」という言葉に直して答えていますが、何故多くの人が、イチローの「言葉」を待って深夜に会見の中継を見ていたかと言えば、イチローが「自分の考え」を「自分の言葉」で語れる人だからだと思うのです。
それは、言い換えると「空気を読まない」ことだとも言えます。会見の流れは明らかにイチローが握っていて、むしろ記者の方が、イチローの空気を読むことに必死になる、そんな会見だったのではないでしょうか。


ただ、イチロー会見についての能町みね子さんのTweetについても、自分は痛いところを衝かれたという感想を持ちました。。
星空の能町みね子 on Twitter: "イチローの会見、みんな、イチローが何言ったかより記者会見のダメな質問を批判する、ってことが楽しくなっちゃってんのね。ツイッターではみんな神の立場になれるからよいことですね。"
星空の能町みね子 on Twitter: "そりゃまーダメな質問もありましたけど、ダメかどうかの基準をイチローとまったく同じ部分においてツイッターで叩くだけで、どこの馬の骨ともわからんもんがイチロー様と同格の気分になれますよね、さぞ気持ちよかろ"

これは、普通の人がTwitterで陥る一番よくあることで、実際、自分でもやってしまいがちです。
世の中の空気に、独りで抵抗するイチローを絶賛するあまり、「爆笑とヴァイオレンスチラつかせて迫る気まぐれと正義ヅラ見物客」になってしまうパターンです。
だからこそ田島は「逆へ行け その逆へ 逆の逆のその逆へ」と歌うのでしょう。
繰り返しますが、そのこころは「逆に行く」ことではなく「自分で考える」ということです。このメッセージは、実はかなりハードルの高いことを聴く人に求めているという難点はありますが、同意できます。イチローが語るように、僕らも少しずつの積み重ねで自分を越えていく必要があるのです。


ただ、だからこそ「空気-抵抗」の最後の歌詞は「本当のことを言うんだ」と書いてほしくなかったと思います。
ネットで「本当のこと」に目覚めて極端な健康、環境、政治への思想にハマる人がいかに多いことか。*2そういう人たちは皆、自分は「同調圧力に屈しないで抵抗している」と思い込んでいることを考えると、「本当のこと」にこだわる「空気-抵抗」の歌詞は、少し気持ちが悪いのです。


とはいえ、田島貴男の言いたいことは、インタビューなどを読んで伝わってきたし、その超攻撃的な歌詞を単純に楽しんでいます。
ただ、田島貴男のメッセージに一番素直にしたがうとすれば、まず、世の中の流れに抗ってまで通したい「自分の考え」を持つところから少しずつでも進めていきたいです。


*1:自分なんかは、あくまで「田島愛」の表明のつもりなのですが、数パーセントは「からかい」の気持ち(愛情の裏返し)もやっぱり入っています。とすれば、その絶妙なバランスが全ての人に伝わらないSNSでの拡散はダメだろうなと思うわけです。でも時々そこを踏み越えてしまうからブロックという憂き目に遭うわけで…笑。なお、藤岡弘、の件はブロック後です。また、言うまでもないことですが、先日も仮面ライダー関連の本を読んで、いかに藤岡弘、がすごい人なのか改めて思い知りました。

*2:具体的な事例については、例えばこの記事が参考になります→ 「ネットde真実」 ズレた正義に目覚めて無駄な行動力を発揮|NEWSポストセブン

ヤッターアンコウがいるからこそ物語は楽しい~『スパイダーマン: スパイダーバース』感想

今年は月一本のペースで映画を観ている。
1月は『来る』、2月は『ギルティ』と来て、3月に観たのは、この『スパイダーバース』だ。
『来る』のタイミングで一番観たかったのは『へレディタリー/継承』だったのだが、そろそろ終わる頃で劇場が限られていたことと、一緒に観に行くよう太に選ばせたら、第二候補だった本作を選んだので、こちらにした。(気持ち悪さとエンタメのバランスが絶妙な映画でした。)
『ギルティ』は、アトロクで何度か紹介されていて、特殊なシチュエーションのミステリということを知り、ネタバレは嫌だなという気持ちで、公開週の週末に観に行った。(想像力を掻き立てられる見事なワンシチュエーション映画でした。)
『スパイダーバース』は、そもそもはあまり興味がなく、またMARVELの作品が映画されているのかという程度。しかもスパイダーマンは、確かこの前リブートしたばかりじゃ…とむしろ敬遠していた。しかし、アカデミー賞発表前に、細田守未来のミライ』がノミネートされた長編アニメーション部門は、どうも『スパイダーバース』でぶっちぎりで獲るらしいという話を(これもおそらくアトロク経由で)知った。そこで初めてこの作品がアニメ作品であり、過去作をあまり気にせずに見ることができそうだ、と興味を持てた。


さて、観る映画は決まったが、1月、2月と一緒に映画を観たよう太を誘うと、どうしても立川まんがパークで漫画を読みたいということだったので、立川まで一緒に行き、初めて立川で映画を観ることとなった。今思うと、これが素晴らしい選択だった。



映画『スパイダーマン:スパイダーバース』予告


デザイン・表現

事前に自分が知っていたのは、通常のスパイダーマン以外に小柄な黒いスパイダーマンと白いスパイダーマンが登場すること。 観るきっかけとして、この白黒2体のスパイダーマンのデザインのカッコ良さに惹かれた部分は確実にある。
カッコ良さといえば、映画が始まっても、序盤どころか、最初のソニーのロゴアニメーションから引き込まれっぱなしだった。その後の、ピーター・パーカー(本家)が、スパイダーマンについて紹介する場面、マイルス・モラレス(主人公)がノリノリで音楽を聴いているところに、親からの早く急いで、の声が重なる朝のシーン。アニメーションがリズムを持っている、絵そのものがビートを刻んでいる感じで心地良い。
マイルスが「黒い」スパイダーマンになる前の追いかけっこのシーンもニューヨークの地下鉄、トラックなどをよける動きそのものが見ていて全く飽きない。美術館で絵画を眺めるように、映画の場面ひとつひとつを隅まで追いたくなると共に、感覚的には、美術館にいるというよりはゲームをしている感覚に近い。これはもしかしたら、直前に、PS4のゲーム『スパイダーマン』を少し遊んだことが影響したのかもしれない。。


さて、物語は、マイルスが蜘蛛に噛まれて、直後に会話を交わしたピーター・パーカーが亡くなり、これでとうとう(期待していた)黒いスパイダーマン登場か!と思うと、まずマイルスが手に入れたのは、雑貨屋で買ったパーティグッズのようなスパイダースーツ。しかもサイズが合っていない。目の部分に完全に穴が開いているデザインもカッコ悪く、黒いスパイダーマンはまだなのか、とがっかり。
白いスパイダーマン(スパイダー・グウェン)が登場し、さらに3体のスパイダーマン(スパイダーハム、スパイダーマンノワール、ペニー・パーカー)が登場し、行動を共にするようになっても、マイルスは黒いスパイダーマンにならない。
このように溜めて溜めて終盤まで姿を見せないからこそ、黒いスパイダースーツがどのようにして誕生したのかが描かれる場面は、それだけで涙が溢れるほど感動した。グラフィティの才能のあるマイルスだからこそ、あのスーツなのだ!という意味付けも含めて最高だ。


デザインという点では、当初、登場を想定していなかった3体のデザインが素晴らしいことも自分にとってはツボだ。『パシフィックリム』が楽しいのは、悪と戦うロボットが、一体だけでなく、複数あるということ。結局は敵を倒す役割は主人公だったとしても観る側としてはオプションがあることで想像の幅が広がりやすく、楽しみが2倍にも3倍にもなる。
(ほとんど出番がなかったように思うヤッターアンコウが、自分にとってどれだけヤッターマンを観る楽しみを増やしていたことか…)
なお、追加3人のスパイダーマンは 、それぞれ全く他と似ておらず 、どのキャラクターも魅力的だが、やっぱりペニー・パーカーは、日本の萌えキャラとは少しズレがある点も含めて目が離せない存在だった。
デザインとは関係ないが、ピーター(B)パーカーの人間臭い感じ、もっと言うとカッコ悪い感じは、そのあとスパイダースーツを着たときとのギャップがそのカッコ良さを5割増ししていた。宮野真守がその声を当てるのもとても合っているように思うが、途中、勢い余ってゾンビランドサガになりかけていた場面が特に良かった。


その他、動きや絵について語ろうとするといくらあっても足りない。
敵キャラで言うと、キングピンの特殊な体型。あれは実写表現では無理で、アニメだからこそのデザインであるのだろう。
スパイダーマン同士が感じる「ニュータイプ」の表現や、アクションシーンで時々登場するコマ割り表現、吹き出し表現、書き文字表現はなど、独自の表現が多く、エンディング後にも続編があることも示唆されていたので、引き続き、続編にも、こういった新しい表現を期待したい。(ここら辺も、従来のアニメというよりゲームの世界に近い表現のような気がする)

極上爆音上映

今回、忘れ得ない映画体験となったのは、作品自体の(デザイン、ストーリーの)素晴らしさは勿論あるが、それと同等レベルで、立川シネマシティの極上爆音 上映が良かったということが言える。
振り返ると、2月に観に行った『ギルティ』は、劇場がフラットでスクリーンが低く、それだけでも字幕が見にくい上に、前席にとても座高の高い人が座り、作品の内容以前の問題として、視聴環境が最悪だった。(新宿武蔵野館でした…)
最悪の体験と比較するのもどうかと思うが、映画の内容に集中できて、アクションシーンで、音に、音の響きに驚いたり、本気で手に汗握ることが出来ることの幸せを、今回、しばらくぶりに感じたように思う。少なくとも、アクション重視の作品は、音響が良いところでないと観られない、そう感じるほどに衝撃的な体験だった。

ストーリー(疑問点)

最後に少しストーリーについて。
ストーリーは、マイルスの成長がしっかり描かれるシンプルストーリーで言うことなし。父子のシチュエーションが多めで、そこが特に涙腺を刺激した。(逆に、よう太と見に行っていたら恥ずかしくなっていたかもしれない。)スパイダー・グウェンという同世代の女性スパイダーマンがいながら安易な恋愛が描かれなかったのも良く、とにかくマイルスの人間的成長を中心に描かれていたように思う。


ひとつ疑問なのは、何故マイルスは最初に転校しなければならなかったのかということ。
物語の中では、父から成績の良さが評価されて補欠合格となった、というような説明を受けるが、同じタイミングでグウェンが同じ高校に転校してくるというのは出来過ぎ。
学校長が全てを仕組んでいて、能力者を一つの学校に集めたというのがよくあるパターンだが…。
今書いていて気がついたが、つまり、グウェンとモラレスの関係は、ピーター・パーカーとピーター・B・パーカーのように表裏一体で、パラレルワールドで同じ高校に通う存在ということなのか。
あ、物語上の必要性についても少し想像がついてきた。転校したモラレスは、週末だけ実家に戻る寮生活に入るので、つまり最初に「家族との別れ」が描かれているのか。だからこそ、学校の前でのパトカーからの「愛してる」の冒頭の名場面も出てくる。
ということで、何度も同じゲームを楽しむ感覚で、何度も楽しみたい映像体験でした。続編も望ましいけど、(キャラクター含めかなり異なるようですが)アメコミ原作も気になります…。

スパイダーバース【限定生産・普及版】

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エッジ・オブ・スパイダーバース (MARVEL)

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ワールド・オブ・スパイダーバース (MARVEL)

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  • 作者: ダン・スロット,スコッティ・ヤングほか,ウンベルト・ラモス,ジェイク・パーカーほか,秋友克也
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なお、次に観る映画は、アカデミー賞関連映画として『ローマ』『グリーンブック』や『女王陛下のお気に入り』、大人気の『翔んで埼玉』、そして、『コードギアス 復活のルルーシュ』のいずれかになりそうです。