Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

この本でしか得られない視点がある~山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』

ブスの自信の持ち方

ブスの自信の持ち方


山崎ナオコーラさんの小説は、これまで何冊か読んでいます。
心の奥底に深く刺さるような作品を書くわけではなく、社会派テーマをぶち上げて世に問いかけるようなタイプではないですが、自分にはとてもピッタリくる、生活について、人について考えたくなる、そういった印象を持っていました。
そんなナオコーラさんが、小説ではなく、エッセイでどんなことを書くのか。荻上チキのSeesion22で何回かに分けて、この本の紹介で出演していたのを聞き、興味を持ちました。
読み終えて一番印象に残ったのは、番組で聴いたときと同じで、この本のメインの主張です。
曰く、

違う、と私は言いたい。「ブス」は個人に属する悩みではない、社会のゆがみだ。社会は変えられる。(あとがきより)

「ブスと言われた」という私の悩みは、決してコンプレックスではなく、社会へのうらみだ。劣等感に悩んでいるのではなく、社会がおかしいから悩んでいる。正直、自分が変わるよりも、社会を変えたい。p268

自分は完全に、コンプレックスの問題だと混同していたので、言われてみれば、そうなのか!と腑に落ちました。
また、誰もが美しくありたいと思っている「はず」というのも一種の思い込みで、そこに重きを置く人もいればそうでない人もいる、という当たり前のことに気づかされた思いです。


山崎ナオコーラさんが、このテーマを選んだ理由は、2004年のデビュー時に、Y新聞のインタビュー記事に載った写真に対して、「おぞましい中傷や卑猥なからかい文句」が躍り、本人が非常に悩んだ経験によります。*1
このY新聞の写真については、本の中で繰り返し取り上げられていますが、相当大変な思いをされたのかと思います。


この本のスタンスとしては、ナオコーラさんが女性の代表や「ブス」の代表として発言しているのではなく、あくまで、彼女自身の考え方を整理しているということです。
これにとどまらず、差別と区別、痴漢、強者と弱者、左と右などのテーマについて、書かれた文章は、どこかのテンプレ的な言葉ではなく、ナオコーラさんの考え方が非常に伝わってきます。
面白いのは、フェミニズムに関して、彼女が女性=弱者という考え方をかなり嫌がっているということです。
以下の文章には、まさに自分を言い当てられたような気になりました。

性別についての文章を発表していると、男性読者から「女性から怒られたい」という欲求を持っているのを感じることがよくある。「男性は駄目だ」「女性は素晴らしい」「女性は頑張っているので、男性に応援してもらいたい」「女性を理解し、男性に変わってもらいたい」といった叱咤激励の文章を男性読者から求められている雰囲気がある。おそらく、「男性対女性」という簡単な構図を描き、それが逆になるように頑張っていく、というストーリーだと、わかりやすいからだろう。
p246


ナオコーラさんは、女性が強者になっている(自らが差別する側になっている)場面も思い起こしながら、何が問題なのかを、広過ぎない範囲で考えていこうとします。
痴漢の問題も、基本的には、自らの経験をベースにして語っていることで、テンプレ感のない内容になっていると思います。
杉田水脈の『新潮45』での「生産性がない」という発言についても触れていますが、主語を大きくし過ぎません。
このあたりの距離感が、全体として文章を読みやすくしているのですが、かといって「社会を変えたい」というナオコーラさんの思いとも矛盾しないことに感動しました。



あとがきにも書いてありますが、彼女が「自分はブスだ」と書くのは、「ブスですが、文章がうまいです」という、(英語が喋れない、○○が不得意などと同様に)単なる不得意分野を示したものに過ぎず、むしろ「文章がうまいです」ということを主張したいのだと言います。
これに呼応するように、最後の著者紹介には次のように書いてあります。

目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」


『ブスの自信の持ち方』は、まさに、山崎ナオコーラさん独自の視点に溢れた、彼女にしか書けない内容だと思いました。
社会を変えることを、政治に期待し過ぎない。そこではないところからでも社会はきっと変わって行ける、そういう希望に満ちた文章でした。
エッセイもですが、山崎ナオコーラさんの小説も、もっと読んでみたくなりました。

*1:勿論、デビュー作の『人のセックスを笑うな』というタイトルが、小説を読まない人の興味を惹いたのでしょう。

全く他人事に思えない韓国映画~『国家が破産する日』


『国家が破産する日』予告編


観終えたあとは、溜息が出てしまいました。1997年の韓国の通貨危機を描いた映画ですが、終着点が12/3のIMFとの覚書締結で、ちょうど映画を観たのと同じ日付(11/20)の場面も登場するので、季節的にはまさに地続きです。それだけでなく、政府がひたすらに資料の開示を拒み、経済指標をいじってまで経済の好調をアピールし続ける現代日本*1では、とても他人事として見られない怖さがありました。映画が終わっても映画の世界から抜け出せない感じです。
「選挙を控えたこの時期に、国民に破産の可能性なんて言えない」等、作中の官僚側の人物の台詞は、霞ヶ関で何度も交わされているように思えました。


その後、改めて公式HPを観直してみると、ストーリーのあれこれよりも「キャラ立ち」が強い映画でした。HPから引用します。

韓国銀行の通貨政策チーム長ハン・シヒョンは、政府が楽観的な見通しを語る中、国家破産の危機を予測し、対策を考える人物だ。保守的な官僚社会で女性への偏見と闘いながら、強い信念と専門知識で危機に対応する彼女は、国民に現状を知らせるべきだと主張する。中小企業や庶民の側に立つ彼女の姿は、危機のとき本当に必要な人は誰なのかを考えさせる。
かたや、危機に乗じて経済構造改革を主張する財政局次官のパク・デヨンは、エリート主義的思考でハン・シヒョンと事ごとに対立。またIMF専務理事は、韓国政府に過酷な支援条件を提示して一切の譲歩を拒否し、圧倒的な緊張感をもたらす。
金融コンサルタントのユン・ジョンハクは、世間の危機を自分のチャンスと見る。勤務先に辞表を出し、顧客を集めてギャンブルのような投資に乗り出した彼は上昇気流に乗るが、自分の予想を一寸も外れない政府を苦々しくも思う。
そして政府の発表を素直に信じたばかりに苦境に陥るガプスは、当時の平凡な庶民を代表している。
映画『国家が破産する日』オフィシャルサイト

中でも財政局次官のパク・デヨン。
出た直後から「感じ悪い」オーラが漂う人物で、物言いも考え方も官僚的、説明に「保守的な官僚社会で女性への偏見と闘いながら」とあるように、彼からの主人公へのセクハラ含む言動には本当に苛々します。
映画のラストでは、20年後、つまり2017年の韓国が描かれますが、普通の映画なら落ちぶれているはずの悪役にあたる彼は銀行のCEOとになっており(彼の腰巾着と一緒に)成功者として描かれます。このあたりもリアルで本当に嫌な感じです。竹中平蔵的なポジションでしょうか。


また、どこまでがフィクションなのか分かりませんが、IMFとの覚書締結ギリギリになって、主人公のハン・シヒョンが、IMFの背後にアメリカが手を引いていることに気がつき、これを機会にアメリカが韓国市場に手を広げようとしていることを追及するシーンが印象的です。
ハンの前に立ちふさがる大ボス=IMF理事のヴァン・サン・カッセルが、また別の「嫌な感じ」を出していました。


物語は韓国政府とIMFとの協議の舞台裏以外に2つ、合計3つのストーリーラインで作られます。
まず、ピンチをチャンスに変えようと積極的に行動する金融コンサルタントのユン・ジョンハクの話。もう少し深みのある話に繋がることも期待しましたが、危機に乗じて儲ける人もいた、というエピソードにとどまっていた感じです。でもユン・ジョンハクを演じるユ・アインの笑顔が素敵だったので良しとします。
そして、町工場のガプスの話は、本当に辛かったです。結局「国に騙される」かたちになった彼は家族を置いて飛び降り自殺を考えるシーンもあり、本当にドキドキしました。しかし、20年後、彼が生き残って工場を続けていたのには救われたし、映画全体の前向きな印象を強めました。

そう、悪が裁かれずにのさばる結末という、勧善懲悪とはかけ離れた内容にもかかわらず、20年後の3人が、1997年と変わらない考え方で生きているのを見ることで、観て言いる側も「やってやろう」という気持ちになれる映画になっていたと思います。


事実を踏まえた全体のまとめについては、ニューズウィーク大場正明さんの映画評論が、非常にまとまっていてタメになりましたが、この記事の中では最後にハンとユンの言葉が引用されています。

ユン「政府はIMFを選ぶ。連中は市場原理主義者です。危機を脱する際も、大企業や財閥が何とか生き残れる方法を選ぶでしょう。金融支援を要請して、それを口実に大々的に構造調整を進める。危機を機会として利用し、富める者を生かす改革を試みるはずです」
ハン「貧しい者はさらに貧しく富める者はさらに富む。解雇が容易になり非正規雇用が増え、失業者が増える。それがIMFのつくる世の中です」
韓国通貨危機の裏側を赤裸々に暴く 『国家が破産する日』 | 大場正明 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

つまり、政府は大企業を守ろうとし、IMFも貧富の差を拡大する政策を取ろうとする中で、国民は、これらのプレーヤーの基本的な姿勢を念頭に置いて慎重に選択していくべきということでしょう。20年前の出来事とはいえ、韓国政府だけでなく、IMFも米国も敵に回す内容となっており、やっぱり韓国映画は凄いなと思わざるを得ませんでした。

ちょうど、国会では「桜を見る会」のゴタゴタの中で、日米貿易協定が衆議院を通過していますが、自動車関税についての交渉内容は不明で、韓国政府がIMFとの覚書締結について、ギリギリまで伏せていたのと重なります。韓国の歴史について学ぼうという気持ちで映画を観に行きましたが、改めて日本の問題点を意識せざるを得ない映画でした。日本映画も『新聞記者』の「その先」のレベルに行っているものが観たいです。



なお、関連作品する韓国映画として、今年観た『工作』と合わせてセットで語られることの多い以下の映画も早く観たいです。



また、これを含めた韓国の歴史については『知りたくなる韓国』が読みやすかったので復習しておきたいですが、併せて、大場正明さんの記事でも紹介されていたIMFのノンフィクションも読んでみたいですね。

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

IMF 上

IMF 上

IMF〈下〉―世界経済最高司令部20ヵ月の苦闘

IMF〈下〉―世界経済最高司令部20ヵ月の苦闘

下半期の映画ランキング

今年下半期(7月以降)に観たのは8本となりました。
ランキングを付けるとしたら以下の通り。(上3本は順位が付けがたい感じです)
あと2本くらい観られたら幸せだなあ。

  1. ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
  2. 工作 黒金星と呼ばれた男
  3. ボーダー二つの世界
  4. 国家が破産する日
  5. アス
  6. ジョーカー
  7. 天気の子
  8. 新聞記者

*1:明石順平さんの『国家の統計破壊』を少し前に読んだので怖いです

『ジョーカー』の見方が変わりました~マーティン・スコセッシ『キングオブコメディ』


『キング・オブ・コメディ』予告編



キングオブコメディ』は、強烈な映画でした。
あまりにも『ジョーカー』と似ているので、この映画のあとに『ジョーカー』を観ていたら、感想がかなり違っていたかもしれない。そう思わされました。
(『ジョーカー』の感想はこちら:乗り切れない!~映画『ジョーカー』 - Yondaful Days!
というのは、ストーリーや構成が似ていることで、『ジョーカー』自体の解釈で迷っていた部分がかなり解消されるのです。


主人公のルパート・パプキンは、いわゆる可哀想な人という感じには全く描かれません。
同じくコメディアンを目指す『ジョーカー』のアーサー・フレックは、色々とダメな部分はあれど、 パプキンと比べるととても感情移入がしやすい人間です。
ルパート・パプキンは、芸能人オタクで、ある有名番組司会者に心酔しているのですが、それが度を越しており、「誰も共感できないやり方」に走ることになります。
母親と二人暮らしなのはアーサーと共通していますが、部屋の中での彼の番組出演妄想は、妄想にとどまらず、深夜に大声で行うものだから、いつも母親に怒られており、誰の理解も得られていません。
そのくせ、無名の自分が売れるはずだという自信があまりに強いので、映画を観ている側としても、妄想出演の時点で「もしかしたら彼は実際にそこそこやれる人間なのでは?」と思わされてしまうところもあるほどです。
ルパート・パプキンの良いところは「前向きなところ」ではありますが、あまりに傍若無人なふるまいは観ている側を確実に苛々させます。
クライマックスのテレビ出演は、司会者誘拐というとんでもない犯罪で得た機会ですが、その後、すぐに逮捕されるということで「さもありなん」と、(主人公のこれからが暗いことに)観ていて胸がすく思いでした。


しかし、警察に連行される直前に、パプキンが言ったどん底で終わるより、一夜の王でありたい」 というひとことに自分は「おっ!」と思ったのです。
ここまで観ていて、何故捕まることが分かっているのにここまで自信満々に振る舞えるのか、と、感情移入度0%だったパプキンに対して大いに共感し、カッコいい!と思えたひとことでした。(でも、全部を通して見ると、パプキンにはやっぱり共感できないのですが…笑)


その後、パプキンは逮捕後にニュースで取り上げられ、アーサーもそうでしたが「TIME」誌の表紙にもなり、時の人、伝説のコメディアンとなります。
収監中に自伝を執筆しベストセラーに、そして、復帰後、出演後逮捕となった番組に「凱旋」して喋るのですが、そのシーンで「あれ?これはパプキンが部屋で練習していた風景にとても近いけど…」と思ったところで映画は終わります。
最後の終わり方で、誘拐事件の企てから番組出演、逮捕、伝説のコメディアンになる一連の流れが妄想であったらしいことが分かるという流れは、まさに『ジョーカー』と同じ作りです。ただし真相が明かされるわけではありません。


この映画を観て感じたのは、まずとにかくロバート・デニーロの演技の凄味。
そこには、「口だけは達者で自信満々だが実力の伴わない男」しかいません。
ロバート・デニーロという俳優をほとんど意識させず、そこにはルパート・パプキンしかいないのです。


そして、「一点突破」という、観ている側の作品への共感の仕方。
キングオブコメディの場合、自分にとっては「どん底で終わるより、一夜の王でありたい」という台詞があるとないとで大違いで、あのセリフがあったから、それ以外に何も共感できないルパート・パプキンに興味を持つことができました。
『ジョーカー』を観て、ストーリーに納得が行かない、と文句を言っていた自分は、最初の10分くらいを観ていないにもかかわらず、(ストーリーとしては完全に把握したから、ということで)理屈を重ねてそのストーリーを批判していましたが、おそらく最初から観ていれば、この「一点突破」がどこかにあったような気がします。
というより、ルパート・パプキンよりは遥かに共感しやすいアーサーのキャラクター、そして、「格差」という分かりやすいテーマを扱っていることも含めて、いくらでもこの映画を好きになる部分はあり、最初の10分間で、その「一点突破」度は大きく上がったと思います。
『君の名は』を観て、ストーリーの矛盾に文句を言う人たちに対して、どうしてそんなに細かいところを気にするのか?と思っていた自分でしたが、どうも今回は自分がそちらに回ってしまったようです。


『ジョーカー』との絡みで言えば、虚実ないまぜのストーリーも、どちらが真実なのか、という追求自体が無意味なのだとわかりました。
キングオブコメディ』も『ジョーカー』も明らかにそのように作ってあります。
そして、司会者役としてロバート・デニーロが出演していることも含めて、『キングオブコメディ』へのオマージュは、単なる目くばせにとどまらず、仕掛けとして非常に効果的で完成度が高いと思いました。アーサーもパプキンも「有名」になりたかったのですが、アーサーの願いは、自身の病気や社会への不満から来たより切実な思いから来たもので、『ジョーカー』の方が練られた設定となっています。
主演俳優の「役者」が演じていることを感じさせない実在感も、ホアキンデニーロに引けを取りませんでした。


ということで、『キングオブコメディ』は傑作だと思ったのですが、この作品を観ることで、自分の中の『ジョーカー』評は、かなりの部分で覆ったし、もう一度観てみたくなりました。いや、『タクシードライバー』『ダークナイト』も見返す必要がありますね…。

乗り切れない!~映画『ジョーカー』


映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開



大ヒット上映中の『ジョーカー』を遅ればせながら観てきました。
仕事帰りに、つくば方面から新宿の東宝シネマズ18:30放映開始の回に向かったのですが、色々と見通しが甘く、劇場に入ったのは18:50。
遅刻したことが悔やまれてなりませんが、爆睡した『ゴジラ』同様、これもひとつの個人的な映画鑑賞体験と捉えます。
遅刻したことが影響したのかどうか、いまいち作品には入り込めなかったのですが、そこは後回しにして、まず、良かった点から書いていきます。

演技、衣装、音楽、絵

映画としては、あっという間に過ぎてしまった122分(-遅刻の10分?)。
飽きが来なかった一番の理由は、ホアキン・フェニックスの演技にあります。
まずは、体そのものに惹きつけられました。やせ細った体からは、肩甲骨や肋骨など「骨格」を感じ、背中から見たときでも存在感が飛び抜けていました。
そして、その体が生み出す表情と動作には、色々なものが同居しています。「笑い」の中に見られる自虐と悲哀だけでなく、走る姿は、颯爽というより(まさに喜劇的な)滑稽さが現れながら、色々な場面で踊って見せる、しなやかな体の動きは息をのむような美しさが感じられます。
また、それがどんなに自然で上手く出来たとしても、テレビ出演を想定した自室での練習は、状況そのものが滑稽に映ります。
おそらく繰り返し鑑賞したとしても、見るたびに、アーサーの所作に何らかの発見があると思うし、実際にそうなのでしょう。


また、深い設定はわかりませんが、黄色を基調とした色使いも印象に残りました。
ダークヒーローなのだから、色は赤、黒、紫などがメインかと思いきや、ソフィーをストーキングする場面でアーサーが羽織るのは黄色いパーカー。
自分の中では黄色いパーカーはグレタさんのイメージなので、ダークヒーローに最も似合わない色です。「ジョーカー」としてのアーサーの衣装も赤いジャケットの内側は黄色いベストで、結果的に、この黄色が弱さや優しさ、そして狂気の入り混じるアーサーによく似合っていると感じたし、画面をスタイリッシュに見せました。


カッコ良さついでに言えば、音楽も良かったし、階段、雨、地下鉄など、絵的に印象に残る場面は多く、このあたりも含めて何度も観たくなる映画だと思いました。
ちなみに、アーサーが冷蔵庫に入る謎シーンでは、あのアルバムを思い出しました。*1

グレタ たったひとりのストライキ

グレタ たったひとりのストライキ

ELEVEN GRAFFITI

ELEVEN GRAFFITI


期待と期待外れ

さて、ここから少しずつ不満点を書いていきますが、自分は、そういった良質なアートを求めて映画館に足を運んだわけではないのです。
自分がこの映画に期待していたのは、まず第一に、母親思いの優しい青年がいかにしてダークサイドに落ちて行ったか、という、いわゆる「闇落ち」がどの程度説得力を持って描かれているかという部分です。
もともと人気のある有名キャラクターの誕生部分の核心が説得力を持って描かれているからこの映画は興行成績でもトップを走っているのだろうと思っていたのです。*2

そして、その一方で、より期待していたのは「社会の分断」というテーマを『ジョーカー』がどう描くのかという部分です。最近見た映画では『アス』も『ボーダー二つの世界』も、わざわざ世界を二つに分ける設定を持ち出してまで、社会的弱者(マイノリティ)とマジョリティの対立を描いて見せました。また、ここに関しては、現実社会への影響を危惧する意見を聞いたことがあったので、映画を見ることで、人生に改めて絶望し、「ジョーカー」化する人が出るほどの危険性を持った「ヤバイ」映画なのかと思っていたのです。


結局、自分がこの映画に感じた一番の不満は、作品に対するこれら2つの期待が期待外れに終わった、というところになると思います。
短く言えば、アーサーの気持ちは分かるし、同情もするが、行動は短絡的で、「ジョーカー」というカリスマ的なダークヒーローとなるような魅力を感じられなかったし、社会の分断が深まった末に、ジョーカーというダークヒーローが誕生したというストーリー展開も凡庸に感じられてしまい、物語に入り込めなかったのです。

いくらでも深読みできる妄想展開

ただし、エヴァンゲリオン的に、物語に仕組まれた「謎」を楽しむという意味では、楽しめる映画だとは思います。
いわゆる「信頼できない語り手」としてのアーサーの物語は、真実なのか妄想なのかの線引きがないまま進んでいきます。(とはいえ、真に「解釈次第」とされるのは、一番最後だけで、それ以外はある程度明確だとは思います。)

まず、デニーロ演じるマレー・フランクリンの番組で、観客席にいたアーサーが呼ばれ、憧れの司会者から優しい言葉をかけられるシーンは、すぐに妄想とわかるようになっていて、観客に向けて、序盤の段階で「この映画はどこまでが妄想かわからない」ことを告げます。


一番効果的だったのは、恋人関係にあったソフィーのくだりです。もともと、映画を観ながら不満を感じたのは、アーサーは自分の不幸を嘆いているけど、母親の看病に夜通し付き添ってくれる恋人がいるじゃないか。それはとても幸せなことではないか、ということでした。しかし、長い時間を経たあとで、その「事実」が覆されます。
確かに、エレベータでアーサーに対するふるまいは優し過ぎるし、自分のことをストーキングした相手とわかって、わざわざ忠告に行くソフィーって何なの?等、違和感を覚える部分はありました。しかし、デートのシーンも含め延々と二人の関係を描いたあとで、アーサーの妄想でした、と明かされるシーンはショッキングで、最もアーサーに同情した場面で、自分の中での映画の一番のクライマックスだったかもしれません。


そして、アーサーだけではなく、母親のペニー・フレックの妄想が、ジョーカー誕生の要素としては大きなものでした。
アーサーが、トーマス・ウェインとの間にできた子どもだ、というペニーの思い込みは、過去の入院履歴から、事実ではなかった(ペニーの実の子どもですらなかった)ことが判明します。だけでなく、アーサー自身が幼児期に虐待を受けて脳に損傷を負っていることがわかります。*3つまり最も信頼していた母親こそが、自分を苦しめていた元凶である可能性を知ったのです。この絶望は計り知れないほど大きく、アーサーが「闇落ち」するには十分説得力があり、思い返してみると、ソフィーとの話と合わせて、ジョーカー誕生の物語としては、この段階で十分に成立していると思います。(ここまでは映画としてほとんど不満がありません)


しかし、こういった「何が真実か分からない」という作品構造自体が、自分を物語に入り込むことを妨げました。
つまり、殺人者がヒーローに祀り上げられるこのあとの展開こそが、それまでの物語の中でも、最も妄想的で説得力がないと感じ、終盤に行くほどに冷めて行ったのです。
アーサーが怒りに駆られて3人を殺してしまう部分を手に汗握って見ていた自分も、その後、あそこまで突発的な事件で証拠も多いはずなのにアーサーが捕まらないのはおかしいし、アーサーの正体が不明なまま、「証券マンが殺された」という事実だけで、格差社会の象徴のように、事件や犯人が神格化していく流れは非現実的だと思いました。
一方、アーサーの舞台上での大失敗がテレビ番組で取り上げられるというのも腑に落ちません。(事実だとしたら、あまりに番組が低俗的に過ぎる)
さらには、アーサーをゲストとして招きたいという番組からの突然の電話。
序盤のマレーとの抱擁シーンからの連想で、 これらはすべてアーサーの妄想として見るのが正解だろうと思いました。実際、アーサーを訪ねた元同僚ピエロ2人も、アーサーの語る番組出演を全く信じようとしません。
映画を見ていて、自分は、これは、アーサー逮捕のための警察の罠なのかと思っていました。


しかし、実際にアーサーはテレビに出演してしまい、衝撃的なシーンから暴動への流れになります。テレビ出演部分におけるアーサーの演説もあまり説得力がないままに話は進み、最終的に暴徒がアーサーを称えるクライマックスを、自分は冷めた目で眺めることになるのでした。

ラストの解釈

さて、場面が変わって精神病院でカウンセラーとの面談を受けるアーサー。
ここで、どこまで遡って事実だったのかがわからない、というのは、エヴァンゲリオン的な深掘り映画と捉えれば、この映画の魅力ではあります。
しかし、回想シーンから考えると、これまでの流れは事実で、ここでアーサーが「ジョークを思いついた」というのは、暴動の中で生き残ったブルース・ウェインバットマンとしてジョーカーと対決するという流れを指すと解釈にした方が、ジョーカーの誕生譚としてはわかりやすいものとなります。

一方、マレー・フランクリンの番組出演から暴動までの流れそのものがアーサーの妄想で「ジョーク」であるという解釈があることを、ネット上の感想を見て知りました。これであれば、映画を観ていたときの自分の感覚には合致しています。しかし、この解釈では、ジョーカーは誕生しないし、アーサーにはカリスマ性を全く感じません。それどころか、「社会の分断」をテーマに描く映画としては不誠実だと感じました。虐げられた者の怒りは、単に観客を騙すためだけのまがい物ということになってしまいますし、監督が観客に何を感じてほしいのか全く分かりません。

なお、遅刻して見逃した冒頭にラストと同様の面談シーンが入るとのことで、それを合わせて観ると、また解釈が変わって来るのかもしれませんが、ネットでの評価を見ると、解釈の仕方を観客に委ねた映画となっているようです。ただ、そのように「謎」が主体になること自体、「社会の分断」というテーマの掘り下げを期待して観に行った自分としては、大きく不満の残る部分です。作品のクライマックスである、マレー・フランクリンの番組出演から暴動までの流れは、多くの観客にとって、「社会の分断」を感じさせるものだったのでしょうか。ジョーカーのカリスマ性を感じさせるものだったのでしょうか。川崎市登戸通り魔事件や、京都アニメーション放火事件は、どちらも大量の犠牲者を出した2019年の事件ですが、それらを起こした人を、失うものが何もない「無敵の人」と称することがあります。映画『ジョーカー』について「無敵の人」と結びつけて論じる文章も見ます。しかし、アーサーの地下鉄での殺人は、半ば不可抗力で「無敵の人」だから起きたことではないと思うし、テレビ出演以降は現実の事件と結びつけるには、あまりに非現実的だと感じてしまいました。実際、自分自身でこのテーマについて考えてみるいい機会になるのでは?と思っていただけに残念です。
ということで、自分としては作品テーマの扱いとしても、キャラクターの魅力としても、いまいち乗り切れない作品となりました。


ただ、関連作品として、チェックしておかなければならない映画が出て来たので、これらも観てみようと思います。『タクシードライバー』『ダークナイト』は内容は忘れました(笑)が既に観たので、まずは『キングオブコメディ』でしょうか。(Amazonプライム見放題に入っています!)


あとはソフィー役のザジー・ビーツが出ているということで『デットプール2』も気になります。本ではアラン・ムーアの『キリングジョーク』も当然チェックしたいです。

バットマン:キリングジョーク 完全版 (ShoPro books)

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→その後、『キングオブコメディ』を観て、『ジョーカー』自体の感想もアップデートしました。:『ジョーカー』の見方が変わりました~マーティン・スコセッシ『キングオブコメディ』 - Yondaful Days!

*1:ホアキン・フェニックスロジャー・フェデラーに似ている。田島貴男ロジャー・フェデラーに似ている。『イレブン・グラフィティ』には「ペテン師のうた」という楽曲も入っているし、「ジョーカー」と合わせて聴くべきアルバムでは?笑

*2:ただ、自分自身は、スターウォーズをしっかり通っていないため、ダースベイダーがどのように闇落ちしたのかは知りません。自分の中の「闇落ち」イメージは、北斗の拳サウザーやトキ(アミバ)です…

*3:母親の古い写真の裏にトーマスからのメッセージを見つけるシーンがありますが、これはトーマスが嘘をついていたということではなく、母親の言葉すべてが妄想ではなかったことを示すものと理解しました。

圧倒的!今年一番の映画体験でした~『ボーダー二つの世界』


映画『ボーダー 二つの世界』予告編|10/11(金)公開


この映画を観ようと思ったきっかけが思い出せません。
9月頃に、何かの煽り文句を読んで、「これは観に行かなくてはいけない映画だ!」と確信し、『ジョーカー』か『ボーダー』か…という気持ちで公開を待っていたように思います。
観るタイミングに恵まれず、もうあきらめていたのですが、たまたま時間の取れた平日夜に映画を探したときに、ちょうど良い上映開始時間という理由で観ることを決めたのでした。
昼にネットでチケットを取り、ギリギリまで仕事をやってから、席に座りました。もちろん、半ば意図的であったとはいえ、ここまで内容について知らずに映画を観るのは初めて。知っているのはスウェーデン映画で、デルトロや小島秀夫が絶賛しているフィクションということくらい。
しかし、上映開始直後から、あまりに印象的すぎる映像に、どんどん惹きつけられていったのでした。

率直な感想

ここから感想に入りますが、鑑賞直後に、ここまでパンフレットを読みたくなった作品は初めてです。
ほとんど息もつかないままに2時間画面にくぎ付けになった後、作り手はどのような意図でこの映画を撮ったのか、賛辞の声は、具体的にこの映画のどの点を評価しているのか、不安になるくらい「言葉」を欲しくなりました。そういう意味では、何も「言葉」を持たずにこの映画を観たのは良かったし、観終えたあとも、関連情報についてほとんど触れずにこの感想を書き始めているのも、とてもスリリングです。


この映画の、最大のポイントは間違いなく「顔」です。
ここまで顔が意味を持ってくる作品は無いかもしれません。何度も大写しにされる主人公ティーナの顔。最初から最後までそこに惹きつけられます。
人の顔から受ける印象は、受け手の人それぞれなのでしょうが、一般的な美醜の感覚で言えば圧倒的に「醜」だと思います。
もちろん、太った体全体もマイナス要素なのですが、性別が不詳で、特徴的すぎる鼻筋とゴツゴツした顔のつくりは、何度見ても慣れません。
最終的にはその表情の中に、自分も彼女の優しさを見出すようになったのですが、初めは、怖さを感じてしまいました。


そしてティーナとかなり似た顔だちで、しかもその表情にどうしても邪悪さを感じてしまうヴォーレ。
ティーナも通常の人間からかけ離れた外見ではありますが、同居人ローランドとの暮らしや、友人との付き合いを見て、「人間らしさ」を感じ、映画が進むにつれて、彼女に親しみを覚えていきました。
しかし、ヴォーレは、顔のつくりだけでなく、表情や喋り方が「悪」を感じさせます。
さらには、食べ物(彼は採集した虫を食べる)。何をどのように食べるかということは、顔の印象に大きく影響することを思い知らされました。顔と口は当然不可分なので当然といえば当然ですが。
また、ヴォーレは、手の爪の汚さも、虫を食べる様を思い出させ、「人を外見で判断してはいけない」という心の中のポリコレ基準から大きく外れて、ヴォーレの外見から漂ってくる全てがおぞましい存在のように思えてきます。


ローランドは、ティーナが家に連れて来たヴォーレを見て「連続殺人犯か?」と茶化しますが、的確な表現だと思いました。
観ている自分もローランドと同じ気持ちだったからこそ、中盤、2人が仲良くなり、一種、「幸せ」な生活が描かれる中盤の展開には、本当に混乱していまいました。


序盤にティーナがひとりで森の中の湖に裸で入る場面があります。彼女が女神のような外見であれば、幻想的な光景が映し出される場面となるシーンです。
確かに大自然の森の中の湖の景色は美しい。しかし、そこにいるのはティーナです。
通常の映画であり得ない、まず観たことのない絵ですが、それでもティーナそのものも大自然の一部として捉えることで、何とか「美しい映像」として受け入れます。(もちろん、ここでも、自分が「顔や造形が優れていること」を美しさに求めているのだという「気づき」に戸惑っています)


しかし、これにヴォーレが入ってしまうと駄目です。やはりヴォーレは怖い。
ティーナだけであれば、人間として愛することのできた感覚が、ヴォーレが画面に入ることで相当に実を結びにくくなります。
ある意味、クライマックスと言える、湖の中での二人の戯れからセックスシーンに至る流れは、ふたりの男女の役割が逆ということも相俟って、そして一番の「衝撃映像」もあり、映画の中でも最も混乱する映像でした。
ヴォーレの口から、二人が「何」であるかを知らされ、彼らが虐げられてきた歴史が語られる場面ですら、やはりヴォーレへの嫌悪感は拭えなかったのでした。


だから、終盤でヴォーレが「邪悪な存在」であることに、物語上のお墨付きが与えられる流れには、とても安心しました。
それは、彼のことを外見以外で「嫌う理由」が出来たからです。
その意味では、児童ポルノ被害者の供給元の謎が解明される後半は、ある意味では普通の物語に戻っていくので、安心して観ることが出来ます。
ティーナが、「ボーダー」の先、つまりトロルの世界に行くのではなく、人間の世界に生きることを決めたのに合わせて、物語自体も通常のものに戻っていくのです。


物語のラストに登場する赤ちゃんは、ティーナではなくヴォーレ側の存在、つまり、「二つの世界」のうちトロル側の世界の存在を象徴するものです。
ティーナは人間に踏みとどまりましたが、これからも「二つの世界」の中で生きていくことになります。
とはいえ、ティーナがそうだったように、あの赤ん坊が過酷な子ども時代を送ることになることが確実なわけで、「ハッピーエンド」ではなく「何となくハッピーに見えるオープンエンド」として映画は終わります。

…と、何となくラストは「腑に落ちる」風に書くことも出来るのですが、安心を得るためには、これが映画の中の世界の話であることを改めて確認しておく必要があります。
それは、北欧にトロルが棲んでいるかどうかということではなく、彼女の「顔」が本物かどうか、ということです。
というのは、自分の心がザワザワしたのは、ティーナがトロルだったからではなく、ティーナの外見の圧倒的な「醜」を、そしてそこから来る怖さを感じたからなのです。
もし、「そういう外見」の女優さんを選んでティーナを演じてもらったのなら、心の中のザワザワは残ったままでしょう。
パンフレットが欲しかった理由の一つはそこにありました。
(さて、ここからはネットで調べた結果です)

特殊メイクでした…(映画.comの記事)

さて、ネットで調べてみると、やはり特殊メイクだったということで安心しました。

生まれつきの醜い容姿に悩まされる主人公のティーナと、彼女と似た容姿を持ちティーナを惹きつける旅行者ヴォーレを演じたのは、フィンランドの実力派エバ・メランデルとエーロ・ミロノフ。ふたりには分厚い特殊メイクが施され、それぞれ役作りのために20キロずつ増量。カンヌ映画祭での2ショットとは似ても似つかない姿で熱演した。
デル・トロ監督が絶賛の「ボーダー」 驚異の特殊メイク、ビフォーアフター画像公開! : 映画ニュース - 映画.com

あれほどアップの映像が頻出し、表情の変化や、肌の表面の様子に全く違和感が無かったので、もしかしたら本物なのかも…と思っていたので、謎が解けて安心しました。
何より、リンク先のメイク前の2人が美形で、そこにほっとしたのですが、そうすると、容貌の美醜が自分の気持ちに与える影響について改めて考えさせられます。

小説と比べたときの映画の強さ(I-Dの記事)

『ボーダー二つの世界』を撮ったのはイラン出身のアリ・アッバシ監督。
I-dのインタビューで、アッバシ監督は、小説と比べたときの映画の強さ、映像の持つ力について語っています。

一方で、こうした「読者にゆだねられているもの━━見えざるものに、形を与えることが、映画という媒体の持つ強さでもあると思うんだ」と監督は語る。それを、アッバシ監督は、「あからさまな明示性」と呼ぶ。
そう思うようになったのには、生まれ育ったイランの環境が影響している、とアッバシ監督は言う。あらゆることが検閲の対象になる(「そう、キスすら!」)イランのカルチャーシーンにうんざりしていた監督は、「すべてを見せる」ことで生まれる力に惹かれるようになる。
(略)
『ボーダー 二つの世界』には、「ショッキングすぎる」と話題になったシーンがあるが(日本ではノーカット完全版で上映される)、ふたりの性愛を描く“あからさまな”シーンについても、「見るのと、読むのとでは、感じるものに違いがある」とアッバシ監督は言う。
小説では想像するしかなかったものまですべてを映像化し、観客に「見せる」。ここで、観客に突き付けられるのは、究極の他者性だ。小説を読むときと違って、観客は、ぼかしたり、勝手に美化したり、自分の馴染んだものにひきよせて好きに思い描いたりすることは許されない。映画は、どうだ、見てみろ、受け容れられるか、本当に受け容れられるのか、他者というのは、「多様性」というのは、こういうことだぞ、と迫ってくる。
『ボーダー 二つの世界』アリ・アッバシ監督が語る、映画/文学にできること・できないこと - i-D

これはまさにその通りでしょう。
自分が小説で読んだ場合、児童虐待事件の真相と、彼らの出生の秘密というストーリー上の核となる部分に一番目が行くことになったと思います。
しかし、映画で観た『ボーダー』の印象は、圧倒的に彼らの「顔」でした。
小説では、上の文で述べられるような「他者性」は得られず、自分の経験の中から手持ちの材料でイメージを拵えることになるのでしょう。
手持ちの材料を増やすために映画を観たり、実際の経験を積んだりすることも大切で、ということは、つまり小説を深く味わうためには、実経験、もしくは(映画のような)疑似経験は出来るだけ多い方がいいのかもしれません。

映画の中でのヴォーレの位置づけ(LEEの記事)

LEEの記事は、かなり深くまで入り込んでネタバレしている記事で、その点はどうかと思いますが、ヴォーレについての監督の説明が興味深いものでした。

――一瞬たりとも目が離せない不思議な物語でした。中盤でヴォーレが人間を敵対視する衝撃の展開がありますが、どうしてもヴォーレを憎めず、ヒドいことをしても嫌いになれませんでした。アリ監督「実は、僕が個人的に最も共感できるのがヴォーレなんだ。思い入れが強いキャラクターで、彼がどんなことをしようとも、愛して欲しいと思っていたから、その反応は嬉しいな。ヴォーレには、ティーナが彼の側か別の側かを選び難いような行動をさせたい、という意図もありました。人から酷い扱いを受け、それが積み重なっていけば、相手を傷つけるという行動や芽生える憎しみの感情は、ごく自然なことですよね」
神秘的な性愛シーンに魅入られる!北欧ミステリー×ダークファンタジー 『ボーダー 二つの世界』の監督にインタビュー | LEE

「個人的に最も共感できる」キャラクターとして描かれている存在とは全く想像できませんでした。
確かにヴォーレが持つ憎しみの感情は、至極当然で、単純に「悪」として排除してしまうのは危険なものなのかもしれません。おそらく、小説で読んでいれば、自分もヴォーレに共感していたかもしれません。
しかし、映画での彼をすぐに応援できる気持ちにはなれませんでした。この点は、今後、原作小説を読むことがあったら、一番気になるポイントです。

――ティーナは初対面でヴォーレに“何か”を嗅ぎ取り、興味を持ちます。そこから惹かれていくわけですが、“同族”としての“生理的・本能的”な共感や親しみが強かったのでしょうか。それとも純粋に男女が劇的な恋に落ちる激情が走ったのでしょうか。
「脚本の段階で、それについても話し合いました。確かにティーナは同族である匂いを感じ取ったには違いない。でも同時に、互いが未知の存在であり、それゆえ怖いという感覚も覚えたハズ。誰かに惹かれるとき、その感情の組み合わせは、これ以上ないほどのものだよね!? 気になるが怖い、という。でも黒人と白人と黄色人種が惹かれ合うことに何ら不思議がないのと一緒で、同族か否かはそれ以上、大きな意味はないと思います」「この物語におけるヴォーレの役割は、ティーナに“初めて愛される経験を与える”存在、且つ真実までの道のりへと導く存在でもある、ということなのです」
神秘的な性愛シーンに魅入られる!北欧ミステリー×ダークファンタジー 『ボーダー 二つの世界』の監督にインタビュー | LEE

ここで、監督は「誰かに惹かれるとき、その感情の組み合わせは、これ以上ないほどのものだよね!? 気になるが怖い、という。」と説明しますが、これは言われるまで気づかなかった部分でした。
自分自身の恋愛感情を考えてみたときに「怖い」という気持ちは入る余地が無かったからです。しかし、映画の中でティーナがヴォーレに惹かれていった理由のひとつにそれは確実にあるし、その微妙な感情の動きが、ティーナの魅力を引き出していたように思います。
もしかしたら、自分にもそういう気持ちがあるのかも…。折に触れ、自分の中の「怖い」を検証してみようと思いました。


知らない世界から自分の考えや感情を体験すること(web diceの記事)

web diceの記事は、インタビューというより監督の語り下ろしという感じの、なかなか読み応えのある内容です。

私が興味を持っているのはパラレルワールドのレンズを通して社会を見ることで、ジャンル映画製作はそのための完璧な手段である。そのことで、映画がより私を刺激するものとなった。自分の問題の個人的なドラマの中ではなく、自分以外の体、そして知らない世界から自分の考えや感情を体験することに私は魅力を感じる。芸術を完全に創造する上で、自己とのつながりを切ることで面白い発見があると思う。
ジャンル映画を超える!衝撃の傑作北欧ミステリー『ボーダー 二つの世界』|『ぼくのエリ 200歳の少女』原作者×新鋭アリ・アッバシ監督作品 - 骰子の眼 - webDICE

I-Dのインタビューで書かれたのと同様「自己とのつながりを切ること」の重要性が説かれているのが面白いです。
芸術作品の創造についても鑑賞についても、自己を切り離して、一旦「他者性」を回り道することで、思索が深まっていくということだと思います。
この夏、日本を騒がせ続けた「あいちトリエンナーレ」の騒動は、多くの人が回り道をせずに解釈のショートカットをすることで生まれたと思っているので、ちょうどタイムリーな指摘となりました。

総括

圧倒的な映像体験だったので、多くの人に観てもらいたい映画となりました。
今年観た映画では『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『スパイダーマン:スパイダーバース』が1位2位と思っていましたが、それを超えていると思います。もしくは別次元枠です。
映画『ぼくのエリ 200歳の少女』、および、『ボーダー二つの世界』の原作小説は何とか年内に観て・読んでみたいと思います。
最近読んだ本もスウェーデンのものだったし、スウェーデンづいているので、この国についても少し勉強してみたいですね。

モールス (字幕版)

モールス (字幕版)

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

MORSE〈下〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

MORSE〈下〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

人を見捨てない国、スウェーデン (岩波ジュニア新書)

人を見捨てない国、スウェーデン (岩波ジュニア新書)

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか

読みやすいワンシチュエーションミステリー短編集~青崎有吾『早朝始発の殺風景』

早朝始発の殺風景

早朝始発の殺風景

青春は気まずさでできた密室だ——。
今、最注目の若手ミステリー作家が贈る珠玉の短編集。
始発の電車で、放課後のファミレスで、観覧車のゴンドラの中で。不器用な高校生たちの関係が、小さな謎と会話を通じて、少しずつ変わってゆく——。
ワンシチュエーション(場面転換なし)&リアルタイム進行でまっすぐあなたにお届けする、五つの“青春密室劇”。書き下ろしエピローグ付き。


最近ミステリづいている。
青崎有吾にどのような流れで辿り着いたのか忘れてしまったが、決め手は、講談社タイガで書いている作家だということかもしれない。
とにかく自分は「読みやすいミステリ」を求めていた。

そうだった。
思い出した。
昨年流行った映画『カメラを止めるな!』の関連で、ワンシチュエーションものの映画や小説の特集がラジオか何かであって、その際に紹介された本だったはず。
短編集ということもあり、自分が読みたかった「読みやすいミステリ」そのままの作品だ。


ワンシチュエーションというと、聞きなれないが、要は「その時その場」で事件が解決する。
この短編集で言えば、基本的には「会話劇」の形式を取り、2~3人で話をしている間にふと湧いた疑問が、その会話が終わるまでに解決するような、ベリーショートの「日常の謎」作品集になっている。
舞台となるのは、早朝列車、ファミレス、観覧車、自然公園のレエストハウス、友人宅…。つまりすべては「密室劇」でもある。

「早朝始発の殺風景」
早朝始発の列車でなぜか出会った同級生(あまり仲はよくない)の思惑はどこにある——?
男女の高校生がガラガラの車内で探り合いの会話を交わす。

「メロンソーダ・ファクトリー」
女子高生三人はいつものファミレスにいた。いつもの放課後、いつものメロンソーダ
ただひとつだけいつも通りでないのは、詩子が珍しく真田の意見に反対したこと。

「夢の国には観覧車がない」
高校生活の集大成、引退記念でやってきた幕張ソレイユランド。気になる後輩もいっしょだ。なのに、なぜ、男二人で観覧車に乗っているんだろう——。

捨て猫と兄妹喧嘩」
半年ぶりに会ったというのに、兄貴の挨拶は軽かった。いかにも社交辞令って感じのやりとり。でも、違う。相談したいのは、こんなことじゃないんだ。

「三月四日、午後二時半の密室」
煤木戸さんは、よりによって今日という日に学校を欠席した。
そうでもなければ、いくらクラス委員だとしても家にまでお邪魔しなかっただろう。
密室の中のなれない会話は思わぬ方にころがっていき——。

「エピローグ」
登場人物総出演。読んでのお楽しみ。
早朝始発の殺風景|青崎有吾|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー


この中でも一番面白かったのは、恋愛ものの「夢の国には観覧車がない」。
ディズニーランドが見える観覧車ということで、ソレイユランドは葛西臨海公園をモチーフにしているのだけど、なぜ高校のフォークランド部の追い出し企画でディズニーランドではなく、その隣を選んだのか、についての恋愛絡みのエピソードが高校生っぽくて良い。
なお、男二人で観覧車ということで、BL的な盛り上がりを期待する人もいるかもしれないが、それはお楽しみ。


正直に言えば、この本で一番驚いたのは、(冒頭3ページ目で明かされる)表題作「早朝始発の殺風景」の「殺風景」がヒロインの名字だったこと(!)。
そして、そんな殺風景が心の中では、登場人物たちの中で最も昏い炎を燃やしていること。
とはいえ、全体を通して青春青春していて良かった。


先日読んだ『ジェリーフィッシュは凍らない』は、鮎川哲也賞受賞作だったが、青崎有吾も『体育館の殺人』で鮎川賞を受賞してデビューということで、本格ミステリーも書ける人、芸達者な人なのだろう。*1
本格っぽいのとライトノベルっぽいのと本格ミステリと両方読んでみたい。

体育館の殺人 (創元推理文庫)

体育館の殺人 (創元推理文庫)

*1:ちなみに、ジェリーフィッシュの市川憂人は東大の文芸サークル「新月お茶の会」出身。青崎有吾は明大ミステリ研出身。やはりミステリはミステリ研強し…という印象

久しぶりに宮部みゆき読んだと思ったら2年前に同じ本を…~宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』

本所深川ふしぎ草紙 (新潮文庫)

本所深川ふしぎ草紙 (新潮文庫)


つい先日、クリストファー・ノーラン監督『メメント』という、主人公の記憶が10分間しか持たないという特殊な映画を観た直後に、映画の内容を思い出せない、という悪夢的な出来事があり、改めて自分の記憶力に自信を失っていたのですが、今回もやらかしてしまいました。
未読と思っていた『本所深川ふしぎ草紙』ですが、2年前にバッチリ読んでました。

pocari.hatenablog.com


今回、七不思議に合わせて収録されている7話を読みながら、既視感を覚えることも多く、怪しいと思いながら読了したのですが、まさか感想まで書いているとは…。
ただ、感想を読むと、人情に特化した時代物ミステリという読み慣れないジャンルのため、2年前にも、読んだ直後(2週間後)でも内容を忘れていたようで、そう考えれば2年あれば忘れるだろうと開き直っている次第です。(笑)


ということで、今回は2年前に触れていなかった文庫解説について書くことにします。
この本の出版は平成3年発表のものですが、文庫解説は、平成7年に、池上冬樹によって書かれています。
宮部みゆきは、今では、日本で最も読まれている小説家数人の中に確実に入るであろう著名作家ですが、発表当時はそこまでではなく、文庫解説が書かれる平成7年頃には、ある程度、その地位が確立してきた時期であろうことが、解説を読むとわかります。


自分自身、最近こそ宮部みゆきをほとんど読んでいませんが、解説の書かれた平成7年頃はよく読んでいたことを思い出しました。『魔術はささやく』『パーフェクト・ブルー』『レベル7』『火車』『龍は眠る』など、初期作はほとんど読んでいます。(例によって全く内容を憶えていませんが)


池上冬樹は、宮部みゆきの魅力について、本人の弁も引用して次のように書いています。

作者はキングの長所として、“映画的な描写力”と”ものすごいイメージの喚起力のある文章”をあげているが、これはそのまま宮部みゆきの魅力といえる。イメージの換気力、またはひとつの場面に集約させてしまうシンボライズの巧みさが宮部作品にあるからである。

確かに、映画的な描写力、イメージの喚起力というのは分かる気がします。
時代小説が苦手な自分でも、本所深川の江戸の街をイメージしながら最後まで読み進めることが出来たからです。


また、そのあとのところで、池上は次のようにも述べています。

考えてみれば、宮部みゆきの小説が多くの読者をつかんでいるのは、もちろん物語の面白さもあるだろうが、いちばんの要因は、読者の胸にストレートに届く、この人物たちの思いではないのか。人物たちの真摯な思い。悪いこと、うまくいかないことがあっても、真面目に生きていけばきっと望みが叶うのだという思い。分かりあえないかもしれないが、でもいつかは気持ちの通じ合うことがあるのではないかという熱い思い。そんなさまざまな思いが小説の核心にある。

勿論、常にその思いが、望みが叶うわけではなく、今回の7編の中にも、暗い終わり方をする作品もあります。
しかし、それでも真っ直ぐな心を持っている登場人物たちに、読者が鼓舞されるのでしょう。
ここら辺は、あくまでリアリティを追求したり、社会への問題提起を試みるような作品とは大きく異なり、散りばめる噓も多くなっていくのかもしれません。


なお、解説では、この本の裏話として次のようなことが明かされています。

この小説のモチーフは、作者が贔屓にしている錦糸町駅前の人形焼きの店「山田屋」の包み紙にある。

包み紙に描かれた七不思議の絵に触発されて、七つの短編を書き上げたのだと聞くと、これは錦糸町「山田屋」に行かねば、という気持ちになってきます。

yamada8.com


ところで、第一話「片葉の芦」に出てくるヒロインお美津の父親である藤兵衛の話が、まさに現代日本コンビニエンスストアやファミレスの食品ロスの問題を地で行っていて面白く読みました。つい先日、読んだばかりの『大量廃棄社会』が思い出されます。

「おやじさんも、昔、近江屋が今のように名を売るきっかけになった出来事を覚えていなさるでしょう?そら、大川に、毎晩飯を捨てていたことです。」
(略)近江屋が江戸一の店として名を高めたのは、主の藤兵衛が始めたこの習慣のためなのだった。
近江屋の藤兵衛寿司は、宵越しの飯は使わない。それが証拠に、毎夜店をしまう時刻には、大川に、その日残った酢飯を全部しててしまう。

この習慣をお美津が嫌っていたことから父娘の確執が生まれたという話になるのですが、(実話なのかどうかは分かりませんが)「もったいない」とは遠い日本の文化もあったのでしょう。


印象に残ったのは、最終話にもかかわらず「消えずの行灯」を、優しい物語ではなく、怖い夫婦関係の物語として描いたことで、こういうところは小説として上手いなあと思わされました。時代物ということもあるのかもしれませんが、全体的に、ちょっと馬鹿だけど憎めない登場人物が多く、落語を思い起こさせました。
解説では、宮部みゆきは20歳まで本を読まなかったが、子どもの頃、寝る前に父親に落語を聞かせてもらったという話がありましたが、納得です。


ちなみに、つい先日、ライムスター宇多丸のラジオ番組『マイゲーム・マイライフ』に宮部みゆきが登場して、ゲームを30過ぎから始めてどんどん嵌って行ったという話をされていましたが、こちらも面白かったです。
プレイしないゲームの攻略本を読むのも好きという話の流れで紹介されたベニー松山さんの本は、何かしら読んでみたいと思います。

風よ。龍に届いているか (幻想迷宮ノベル)

風よ。龍に届いているか (幻想迷宮ノベル)

隣り合わせの灰と青春 (幻想迷宮ノベル)

隣り合わせの灰と青春 (幻想迷宮ノベル)


ということで、『本所深川ふしぎ草紙』の話はあまり書きませんでしたが、次こそは(何度かチャレンジして他の本に押されて読み終えることのできなかった)『ぼんくら』にトライしたいと思います。

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)