Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

後輩の結婚式に出席@横浜

本日、後輩の結婚式のために横浜へ。みなとみらい線に初乗車。実は、行ったことがあるのは中華街くらいで、山下公園や赤レンガ倉庫などは初めてだった。(遠くから見ただけですが)。ちょっと歩いただけでも、とてもいい雰囲気だったので、今度は観光で来たい。
人前式の結婚式のあと、楽な雰囲気の披露宴。新郎新婦の興味関心の対象が、かなりの一致を見せており(二人とも研究者)、出会うべくして出会ったという二人に列席者も驚いていた。あまり近いと、逆に大変なこともあるかもしれないけど、二人なら大丈夫だと思う。お幸せに。

夏目漱石『それから』★★*1

今年は古典を頑張って読もうと思っていること、田島貴男が、インタビューで、『街男街女』の中の「赤い街の入り口」のヒントになったと語っていたことから、手に取った本。漱石は読みやすいのではないかという予想のもと読み始めたが、随分と読みにくく、えらく時間がかかった。読み始めてから2週間ほど経った、東京に向かう行きの新幹線で、ようやく読み終えることが出来た。
あらすじはこんな感じ。

  • 主人公の長井代助は、かつて互いに恋い慕い、今では友人の妻となった三千代への想いが日を追うごとに増すばかり。一大決心をして代助はついに行動に出る。

これだけ読むと、読めそうな話。しかし、この物語の最大の特徴は、長井代助の持つ、全く共感出来ないキャラクターだ。
相当な資産を持つ実業家の次男で、30歳であるが、職には就かず、月に一度は父と事業を継ぐ兄夫婦の住む実家に行き、受け取った金で生活する。しかし困窮するわけでなく、気軽に車(人力車、今の感覚でいうとタクシー?)を利用し、都内の家には手伝いと書生を住まわせる。(このような人間を「高等遊民」といったらしい)
僕もちょうど30歳だが、知り合いにこんな奴*1がいたら、殴ってやりたい。どんなにすごい哲学を持っていても、自分で財を築いたわけでないくせに悠々自適な生活をし、やたらと弁は立ち、「食うための職業は、誠実にゃ出来にくい」(P90)などと屁理屈を言って働こうとしない、そんな人に大恋愛を説かれても、彼の理論を聞くよりも先に「まず働け」と言ってしまうだろう。
そう、この本が読みにくいのは、「好感を持てない」主人公の独白的描写が延々と続くからだ。花村萬月の作品には、ナルシシズムのきつい独白的な描写が多いが、主人公に共感出来る部分が多いだけに、苦にならない。『それから』の長井代助は、本当に嫌いなタイプだ。しかし、芥川龍之介の言によれば「人々の中には、(長井代助の性格に)惚れ込んだどころか、自ら代助を気取った人も、少なくなかったと思う」(解説P298)ということらしい。性格に惚れ込む云々以前に「まず働けよ」と言いたくなるので、全くそんな気になれない。
漱石の作品の中でも上位に位置する作品のようだが、僕にとっては、主人公長井代助への苛立ちばかりが残る最悪の印象しか残らない。これを手始めに古典を読み進めようと思っていた一冊目だったので、足下をすくわれた気分。
ちなみに、オリジナル・ラヴ「赤い街の入り口」の歌詞の内容は、ラスト近くになって初めて主体的な行動を取り始める代助の姿勢と重なるのだが、代助が嫌いなだけに、全くこの曲の価値を高めることにはつながらなかった。

*1:例えば、三千代が、夫の失職のために生活資金に困るのを見るに見かねて、「三千代に渡すための」金を実家にもらいにいくが、「何だそれ?」だ。顔を洗って出直せ。

あさのあつこ『バッテリー1』★★★★☆

バッテリー (角川文庫)
披露宴後に中華街によってさらに食事をしたあと、仙台へ帰った。帰りの新幹線で読む本を、東京駅構内の書店で物色。他にも候補はあったが、酔ってもいたので、読みやすそうな、この本にした。会話主体の文章なので1冊だけで大丈夫?と不安にも思ったが、さすがに仙台まで持つだろうと思い、1巻だけにしておいた。が、結構簡単に読み終わってしまった。読みやすい。面白い。ああ、『それから』は何だったんだ。何というか、下手な説明をせず「まあ読んどけ。」と一言書いて終わりにしたい名作。読書習慣のない人にこそ読んでほしい本。
amazonからの引用だが、あらすじは、

中学入学を目前に控えた春休み、父の転勤で岡山の県境の街に引っ越してきた巧。ピッチャーとしての自分の才能を信じ、ストイックなまでにセルフトレーニングに励む巧の前に同級生の豪が現れ、バッテリーを組むが…。

主人公の巧は、プライドが高くていけ好かない野郎なのだが、そんな彼も、引っ越し先で出会った永倉豪の優しさに触れ、病弱な3つ年下の弟・青波(せいは)の成長に気づき、変わっていく。連続物だが、1巻単体で見ても、いわば「日向小次郎」的だった巧が、「大空翼」的なものに変化していく過程は十分見ることができるし、完結物ととらえても違和感はない。
巧を支える家族、友人たちが生き生きとしているのが、最大の魅力だが、特に、兄と違って素直な青波のかわいさにメロメロ。巧自身が、青波への嫉妬心に気づくシーンなど、兄弟間の微妙な感情もよく書けている。会話主体で、ここまで登場人物のキャラクターが立っているのは本当に凄いと思う。
先日読んだ重松清『ナイフ』やオーソン・スコット・カード『消えた少年たち』のように、「親子」を描いた小説でもあり、『十五少年漂流記』のように子ども同士で何かを成し遂げようとする中で、お互いがぶつかり合って成長していく話。でも、それだけじゃない。
「あとがきにかえて」では、作者あさのあつこの並々ならぬ決意を伺うことができる。彼女は、少年事件の犯罪報道のたびに繰り返される、少年たちの類型的なとらえ方に嫌気がさしていた。類型化の枠に収まらない「生の身体と精神を有するたった一人の少年」を生み出したかった。

他人の物語の中で人は生きられない。生きようとすれば、自らを抑え込むしかないのだ。定型に合わせて、自らを切り落とさなくてはならない。自らの口を閉じ、自らの耳を塞ぐ。自らの言葉を失い、自らの思考を停滞させる。この国に溢れているそんな大人のわたしも一人だ。自分の身体を賭けて、言葉を発したこともなく、発した言葉に全力で責任を負おうとしたこともなかった。賢しらな、毒にも薬にもならない、つまり誰も傷つけない代わりに自分も傷つかない萎えた言葉をまき散らして生きてきた。
それでも、この一冊を書き上げたとき、わたしはマウンドに立っていた。異議申し立てをするために、自分を信じ引き受けるために、定型に押し込められないために、予定調和の物語を食い破るために、わたしはわたしのマウンドに立っていたのだ。

そして、まだ12歳の巧も、そういう気持ちでマウンドに立っている。僕には、彼らからまだ学ぶことがたくさんありそうだ。