Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

株式会社はてなの「作業工程管理システム」である、あしか。仕組みはよくわからないけれども、つまりは「ToDo」事項の管理だと認識している。
つい最近、「TODO」=「とど」だから「あしか」なのかも!とのひらめきがあったのだが、キーワードの説明を見ると、そんなことは全く無い模様。(はてな進行管理→略して「はしか」→もじって「あしか」)

自分は何故「リアル」という言葉に恥ずかしさを覚えるのか

桐野夏生『リアルワールド』の感想を書いた前エントリで、「リアル」という言葉についての自分の印象を語った。自分の持っている「リアル」という言葉へのイメージは、ある程度世間に共有されているものだという認識だったので、説明は曖昧に済ましたが、いただいたコメント等を見ると、そうでも無いようなので、少し掘り下げてみる。
 
はてなのキーワードでも「リアル」は登録されていて、最も一般的な「現実に近い、本物っぽい」という言い方で説明されている。単純に「海洋堂食玩はものすごくリアルだ」などというような使用については、僕はまったく違和感を感じないし、「気恥ずかしさ」も覚えない。

そのほかに

特に、ネット上で使われると、現実世界、
つまり、電話回線などで世界と繋がっていない状態などの事をよく指す。

という説明があるが、これは「ネット社会」←→「リアル社会」という対比で自分でもよく用いる言葉で、これも問題ない。

僕が、「リアル」という言葉を使うときに構えてしまうのは、背後に「生きていることへの実感」というイメージがある場合で、それは「本当の自分」という言葉の持つ雰囲気に近い。そんなことを30過ぎの男が言うのは気持ちが悪いのだ。したがって、前エントリで「リアル」のことを「流行り言葉」と書いたのは誤りで、「青臭い言葉」とすべきだった。
もう少し言えば、上に述べたような場面で「リアル」という言葉が使われるときは、大抵、今の現実社会に「リアル」を感じられない→本当の自分orリアルな世界を探しに行く、というようなシチュエーションで、KAT-TUNへのスガシカオの提供曲の歌詞も、おおまかにはそういうストーリーを辿る。
何度も言うが、自分も振り返れば、そんな思いを持っていた時期もあったし、それはそれでいい。しかし、ある程度年齢を重ねた大人なら、どうしようもない「現実世界」と折り合いをつけていくことが必要だし、現にそうやって生きている。それは「認める」という意味で「諦める」という意味ではない。
認めなくては先に進めない。
スガシカオの作品は、「ぼくたちの日々」にしても「黄金の月」にしても、そういう「世間との折り合いのつけ方」の描写がすごくうまい。だからこそ、やっぱり「Real Face」はわからないのだ。
結論としては、僕は、「リアル」かどうかなんていうことは、日々の生活の中では、それほど優先度の高くないことだと思うのです。だからこそ、さも大切なことであるかのように「リアル」をタイトルに持ってくる作品に身構えてしまうのです。

(補足)
上の文章を書き終えたあとで、過去の日記を検索してみると、ここら辺の話は、前にミスチルの『シフクノオト』の感想に絡めて、まったく同じことを書いていることに気づいた。(2年も前になるのか・・・。)

少し前のミスチルの曲は、「矛盾だらけの現実社会」は歌っていたのですが、それでもやはりサビが大袈裟だったり、曖昧だったりして、自分がその現実社会の中で生きていくという覚悟を決めた歌は少なかったような気がするのです。そういう意味で、今回のアルバムは聞き応えがあります。