Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

『夕凪の街桜の国』の背後に流れるもの

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

やはり重い作品。
読み直して印象に残ったのは、全編に流れるテーマとしての「後ろめたさ」。
作者があとがきで「平和を享受する後ろめたさ」という書き方をしているのは、その感情が、現在も被爆体験とは無関係なものとして存在することを示している。

夕凪の街

生き残って申し訳ないと思うのはとても辛いことだろう。
『夕凪の街』の主人公・皆実は死なずに生き残った理由をついつい考えてしまう。

あれから十年
しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべて失った日に引きずり戻される
おまえの住む世界はここではないと 誰かの声がする

そんな彼女も「ひどいなあ てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに」と思いながら28歳という若さで逝ってしまう。

桜の国

『桜の国』では、フジミ(皆実と旭の母、つまり、主人公・七波の祖母)がそういった「後ろめたさ」の象徴として描かれる。
しかし、旭は、それに抗った。七波はそれを「桜の国」の記憶とともに消し去ろうとした。
以下、フジミの台詞。

(病床で朦朧としながら七波に)
ごめんねえ、翠はまだ戻って来んのよ
・・・ほいで?あんたあどこへ居りんさったん?
なんであんたァ助かったん?

(京子との結婚を決めた旭に)
・・・あんた被爆者と結婚する気ね?
(中略)
なんでうちは死ねんのかね
うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ・・・・・・

ラストで、七波は、自分の人生を、自分が生まれてきた街を、両親が辿ってきた歴史を受け入れる。つまり「後ろめたさ」を乗り越える。それは、見たくないことから目を背けずに、生きることを前向きに捉えていこうとする、こうの史代の意志であり、作品のメッセージでもある。

そして、自分は・・・

ただ、自分には、こういった「後ろめたさ」という感覚は希薄だ。
作品の主旨を頭では理解できて、それに少なからず感動したとしても、前提となっている「後ろめたさ」の部分が共有できていたとはいえない。
それは、日本の歴史という、時系列の広がり、世界の惨状についての空間的な広がりについて、想像力が不足している、もしくは、それを受けとめる感受性が不足している自分自身の問題なのかもしれない。
勿論、その感情を、戦争というテーマに押し込めるつもりもないし、絶対にそれを感じる必要があると決め付けるわけではないが、もっともっと見たり聞いたり想ったりしなくちゃならないなあ、と素直に思った。
つまり、この作品を絶賛するレベルには、自分自身が達していないなあ、と自分の至らなさを実感するという意味でも、重い作品なのでした。

補足1:『フラワー・オブ・ライフ』との関連

以前のエントリで、よしながふみフラワー・オブ・ライフ』1巻を読んで思い出された作品、と書いたのは、この本のことだった。
全く焦点が当たらない部分だが、主人公・春太郎の祖父母は長崎で被爆している。さらには、『桜の国〜』では、ポジティブなテーマとして存在する「親から子への繋がり」さえ、否定される運命を春太郎は担っている。「作れるのに作らないのと最初から作れないのは全然違うんだよ・・・!!」という春太郎パパの叫びは、実は、この作品の中でも最大級に重い台詞かもしれない。

にもかかわらず、作品全体の印象が重くならないのが、この漫画の凄いところだ。
『桜の国〜』が描く「長い歴史の中の一時点としての今」、『フラワー・オブ・ライフ』が描く「生きる瞬間の連続としての今」、そのどちらもが自分には大切なことのように思う。

補足2:映画

最後にミーハーな話。
映画を全くと言っていいほど見ないのに、かなりの頻度でチェックしている「★前田有一の超映画批評★」で、フェロモンでまくりと評された中越典子(自分にはNHK朝ドラのイメージしかない)が東子(七波の同級生で弟の恋人)を演じ、「唖然呆然。あいた口がふさがらない」「この妙なダンスを見られただけで十分満足」と『ゲゲゲの鬼太郎猫娘役の怪演を絶賛された田中麗奈が七波を演じるというだけで、見に行きたくなる映画ではある。暗い「夕凪の街」(こちらは麻生久美子が主人公)に比べて、上の二人に焦点が当たる「桜の国」は、コミカルなエピソードも多いだけに、「フラワー・オブ・ライフ」的な視点で楽しんでみたい作品だ。