Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

代替エネルギーよりも「知足」〜小出裕章『原発のウソ』

原発のウソ (扶桑社新書)

原発のウソ (扶桑社新書)

原子力安全委員会の班目春樹委員長という人がいます。
以前、福島第一原発1号機への海水注入が3月12日に一時中断された問題に関して、菅首相らに行ったアドバイスについて、「『再臨界の可能性はゼロではない』と言ったのは、事実上ゼロという意味だ」と発言し、注目を浴びた人です。
このときの「海水注入中断は誰の責任か」問題は、傍目に見ても、ただの責任のなすり付け合いでした。そんな中での斑目委員長のゼロ発言は変だと思いながらも、非常時でもあり、真相は分からないので気にしませんでした。
その後、海水注入は、所長判断で継続されていたという驚きの展開を迎えるのですが、このときも「私はいったい何だったのか・・何がどうなっているのか教えてください」との発言を、その姿とともに初めてテレビで見て、やはり少し変わった人だなとは思っていたのですが・・・。


先週のNHKスペシャル原発危機 第1回「事故はなぜ深刻化したのか」”で、その斑目原子力安全委員会委員長が、以下のようなことを発言していました。

もしできるなら、3月11日以降の事を全て無しにしたい

そのとき、初めて、この人はダメだ、と思いました。
何故ダメなのかを考えてみると、

  • 言葉が相手にどう伝わるかを考えていない(思考が無い)
  • 自分がどういう立場での発言を求められているのか、弁えていない(自覚が無い)

言いかえれば、公の任務を負っているという責任感・緊張感が全く感じられず、社会の行く末について全く考えていない点が斑目委員長の問題点です。
今も原発で作業に当たっている方々に失礼だし、3/11より前に戻して、原発のダメな部分を改めて覆い隠したいということでしょうか。勿論NHKの編集の仕方によるところもあるのかもしれませんが、過去1ヶ月の間に新聞の見出しになるような迷言を二度も吐いているのに慎重にならないのは、人間的に問題があるということでしょう。


〜〜〜
小出先生は、今回の原発事故で初めて知りましたが、とても信頼している学者の一人です。
結局、今回の原発問題については、信頼できるかどうかの判断は、起きていることに対して分からないことが多過ぎるため、どちらが真実に近いか、では計ることができません。
事実の捉え方に飛躍がないか、論理の展開方法に無理がないか、などプロセスの部分と、発言から垣間見える責任感、他人を思いやる気持ちの部分でしか、判断できないのです。
そんな風にして、この人は信頼するに足る、と考えた小池先生の『原発のウソ』の序文の一行目は以下の通りです。

起きてしまった過去は変えられないが、未来は変えられる

斑目委員長の発言と比べて、あまりにも対照的で驚きますが、事実は事実として認識したうえで、技術を持って少しでも社会を明るい方向に持って行こうとする姿勢に、真の科学者・技術者像を見ます。


本書の内容については、くどくどと書き始めたら終わらないですが、福島第一原発のことが中心の話題で、非常にタイムリーなものとなっています。逆に言えば、小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ のHPを見ていれば、追いかけることのできる内容ですが、やはり、本というかたちでまとめて読めるのはメリットです。リアルタイムで進行する原発事故に対して、その時点では部分的にしか把握することの出来ない事実をもとに、(希望的観測を含まず)自らの知識を駆使して読み解いていく、そういう誠実な姿勢は、ネット上で日々更新される情報を知らなくても、この本を読むことで十二分に感じ取ることができます。


そして、やはり小出先生の基本的なメッセージは、以前読んだ『原子力と共存できるか』(1997)のときと変わらないのでした。
代替エネルギーではなく、「知足」こそが重要だというのが、そのメッセージです。

もし安全な地球環境を子どもや孫に引き渡したいのであれば、その道はただ一つ。「知足」*1しかありません。代替エネルギーを開発することも大事ですが、まずはエネルギー消費の抑制にこそ目を向けなければなりません。
一度手に入れてしまった贅沢な生活を棄てるには、苦痛が伴う場合もあるでしょう。これまで当然とされてきた浪費社会の価値観を変えるには長い時間がかかります。しかし、世界全体が持続的に平和に暮らす道がそれしかないとすれば、私たちが人類としての新たな叡智を手に入れる以外にありません。


福島第一原発の問題は、これほどの決断を迫られるところまで来ているのかもしれません。

*1:"ち‐そく【知足】 の意味とは - Yahoo!辞書" 《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足すること。