Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

勇者ヨシヒコに言いたいこと

ドラマ『勇者ヨシヒコ』の第3シーズン(公式ページ⇒勇者ヨシヒコと導かれし七人)が始まった。
ドラクエのお約束(他人の家に入り込んで壺を割る、死んだら棺桶になる、全滅したら教会に行く等)を、主役の山田孝之らが真面目に演じ、段ボールで作った感が伝わるスライムなどのモンスターが跋扈する世界で「それっぽい冒険」が進む深夜ドラマで、第1シーズンは2011年、第2シーズンは2012年で、今回4年ぶりということになる。
自分は、知人の薦めもあり、Amazonプライムを使って、後追いで第1シーズンを見終え、現在、第2シーズンを見ているところ。
毎回出る豪華キャストも、下らないネタも、大好きなキャラクター「仏」の喋りも、そのほとんどを楽しく見ている。

勇者ヨシヒコと魔王の城 DVD-BOX(5枚組)

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勇者ヨシヒコと悪霊の鍵 DVD BOX

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しかし、こういった馬鹿馬鹿しさが売りのドラマでは、ありがちのことかもしれないが、「面白いでしょ」として提示された素材が、全く笑えずに、製作側のセンスを疑ってしまう回もある。
今回はその話を書きたい。
具体的には、『魔王の城』(第1シーズン)の第2話「マーニャ野村」と、『悪霊の鍵』(第2シーズン)の第2話「ガンザの村」の回だ。

ヨシヒコ達はマーニャの村へとやって来た。
この村では毎年村の娘を山神に生け贄として差し出していた。
以前、村が魔物に襲われた時に山神が魔物を鎮めたことがあり、それ以来続いている儀式だという。
それを知ったヨシヒコ達は、生け贄をとるのを止めさせる為、村の娘・オシナと共に山神のもとを目指すが…。
『勇者ヨシヒコと魔王の城』第2話あらすじ

ヨシヒコたちは仏のお告げに従い、悪霊の鍵があるというガンザの村へとやって来た。村では庄屋の若旦那のもとにカバナの村から姫が嫁入りしてくるところで、若旦那が持っている“鍵”は、その姫への贈り物にするので渡せないという。そこへ、姫が盗賊にさらわれたとの知らせが舞い込んできた。ヨシヒコたちは、鍵を交換条件に姫を助けに向かう…。
『勇者ヨシヒコと悪霊の鍵』第2話あらすじ


どちらも、容姿的には「美人」とは言いにくい女性が登場する。
笑いどころは、主人公ヨシヒコが、常に正義を求めるその真面目でまっすぐな気持ちはそのままに、「たとえブスでも…」とか「ブスだって…」とか、彼女たちを傷つける言葉を熱弁する部分ということになる。
どう笑わせようとしているのかは理解できる。しかも、両方ともに、「ブス」扱いされるのは女性芸人で、テレビの世界では、慣用的に、彼女たちへの「ブスいじり」が許容されている。自分も、こういうネタに対して、常に怒っているわけではない。


しかし、どちらの回も共通するのは、「ブス」ネタがメインテーマで、かつ、彼女たちの容姿を悪しざまに言うことに対して、全くフォローがないこと。ヨシヒコもだが、仲間の紅一点ムラサキでさえ、美醜に対して容赦ない。
このドラマ全体を覆う小学的感性は、漫画『稲中卓球部』と似ている部分があるが、『稲中卓球部』でやはり笑えなかったのは「ブス」がテーマの回だったことを思い出す。(ただ、、彼らがブサイクである、ということで、少しバランスを取ろうとしていた気がする。)*1


特に、上に挙げた二つの回のうち、『悪霊の鍵』の「ガンザの村」の回は、本当に笑えなくて、脚本・監督の福田雄一人間性を疑うほどだった。そこまで不愉快に思ったのは、全く共感できない価値観で人を傷つけていると感じたからだ。
『魔王の城』の「マーニャの村」では、繰り返される「ブス」という言葉に、作中の人物に思いを重ねて、「そんな言い方は酷い」と思っていただけだったが、『悪霊の鍵』の「ガンザの村」は、それを上回る。
ストーリーはこんな感じ。

  • ヨシヒコたちは、村の庄屋の若旦那から、(まだ出会ったことのない)許嫁の「姫」が盗賊にさらわれてしまったので助けてほしいと依頼を受ける。
  • しかし、盗賊の屋敷に行くものの、檻に囚われていた姫を、その容姿のせいで、ヨシヒコ達が気がつかずにスルー。
  • 檻を再訪し、姫を助けるが、そのときに、姫は呪いをかけられて「このような顔」になっていたことを知り、呪いを解くための鏡を探す。
  • 盗賊を倒し、鏡を手に入れたが、呪いが解かれた姫も「不美人」であることが分かり、ヨシヒコらや若旦那が微妙な表情になる(チャン、チャン)


「ブス」といわれる登場人物が不憫だ、というのは「マーニャの村」と変わらない。しかし、このストーリーでは、登場人物よりも役者の気持ちを考えて胸が痛くなってしまう。
姫は呪いをかけられて「このような顔」になっているという設定。でも演じている役者から考えると、自身の顔を「呪われている」と言われているのと同じ。役の上とはいえ、顔のことを完全否定されるのは辛いし、そんなことが許されていいわけがない。そして勿論、顔で人間の価値が決まるわけではない。*2
さらに、呪いを解いたあとの扱いも同じで、単に、自身の顔を否定される「犠牲者」が二人に増えているだけのドラマで、やはり湧き上がってくるのは「笑い」よりも「不愉快」という感情の他はない。


マーニャの村」の回での「ブス」役を演じた渡辺直美は現在、ワールドツアー中だというが、彼女について次のような記事があった。

近藤と同じく女性芸人の渡辺直美は、2014年に3カ月のニューヨーク留学を経験している。彼女はビヨンセのダンスを堂々と披露する口パク芸でブレイクしたが、アメリカではその芸が「笑われる」ものではなかったという。表現力やダンスを賞賛されることはあっても、「デブのアジア人なのに、ビヨンセを気取っている」ことをバカにして笑うようなノリが、現在のアメリカでは薄れているそうだ。人の容姿を笑う、その笑いの中に嘲りが含まれているものは、もはや許容されない。不細工も肥満も薄毛も出っ歯も、それを笑うことは差別的な行為だという認識が急速に浸透しているからだ。
女芸人のブスネタが通用するのは国内限定。アリアナ・グランデ「近藤春菜はすごくかわいい」 - 楽天WOMAN


実際には、共和党大統領候補(トランプ)が、女性差別、容姿差別の発言をしているように、アメリカ人の意識が高いというわけではなく、要は、ポリティカリー・コレクトの意識が進んだ米国と比べると、日本では、それがほとんど意識されない、ということかと思う。
ただ、こういう世界的な流れと比較すると、やはり「マーニャの村」「ガンザの村」の回は、恥ずかしい。


一方で、そういう風に考えていくと、自分の感じ方も結構いい加減ではある。テレビにありがちな無邪気な「ゲイ」ネタを扱った『悪霊の鍵』の第3話(ミッツ・マングローブ登場回)は、違和感はあったけど「不愉快」までは行かなかったし、口癖のようにメレブ(ムロツヨシ)がムラサキ(木南晴夏)に言う「平ら胸」という言葉などは、ほとんど気にならなかった。どこまでが許容されるのか、自分で自分を検証する必要がある気がしてくる。
ただ、明確に「不愉快」を感じたのは、やはり冒頭に挙げた2つの話。
どちらも、それぞれのシーズンの第2話に当たることから、『勇者ヨシヒコと導かれし7人』については、来週の第2話、そして、それ以降も、色々な意味で、期待し注目して見て行きたい。

*1:ただ、容姿の評価に関しては男女差が大きく、稲中のフォローはフォローになっていなかったように思うが

*2:ちなみに、変身前の姫は、バービー(フォーリンラブ)、変身後の姫は伊藤麻実子。どちらも知りませんでした…