- アーティスト: 曽我部恵一
- 出版社/メーカー: ROSE RECORDS
- 発売日: 2006/10/06
- メディア: CD
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
最近まで、こんな素晴らしいCDが出ていることを知らなかったのだ。
ジャケットいっぱいに広がる満開の桜と、向かって左上にデザインされた「東京」の文字──
1996年にリリースされたサニーデイ・サービスのセカンド・アルバム『東京』は、ファースト・アルバム『若者たち』で注目を集めはじめていた彼らへの評価を決定的にした作品として知られている。サニーデイ・サービスというバンドの代表作であり、リリースから10年が経ったいまも、フェイバリットに挙げる音楽ファンは多い。
10月6日にリリースされる曽我部恵一の『東京コンサート』は、その『東京』の全曲を、歌とアコースティック・ギターだけで再演したライヴ・アルバムだ。それは、“10年目の『東京』”であり、“新しい『東京』”であり、“たったいまの『東京』”でもある。『東京』を聴いたことがなくても、曽我部恵一の新作として楽しめる作品である一方、『東京』を愛してやまないという人、特にリアル・タイムで聴いていた人にとっては、さまざまな感情が、めくるめく光景が、まるで波のように押し寄せてくるであろう作品だ。
いやあ、『東京』というアルバムを自分が好きなのはわかっていたが、ここまで好きだとは思わなかった。ここまで傑作だとは思わなかった。
曽我部恵一の住んでいた明大前も、コンサートが行われた下高井戸も、自分が知っている街だからということはあるかもしれない。
「街」には、そこに住むひとがいて、皆がいろいろなことを考えながら生活している。
『東京コンサート』を聴きながら、そういう人たちのイメージが零れてくるようだった。
(ここから急にオリジナル・ラヴの話)
はっきり言えば、オリジナル・ラヴのアルバムには薄い「生活感」*1が、曽我部恵一の音楽には満ち溢れている。
そして、その生活感を(自分に不足するものだと気づいて)手に入れようとした田島貴男が、「生活感テーマパーク」を作ってしまったのが、『街男 街女』なのではないか。上の田島自身の言葉をもう一度引用すれば「今日においてある意味で非現実的な・日本(異国っぽさ)・を意識した方」に何故か向かってしまったのだ。ここでhiroharuさんのところから引用。
そうだ、先日「ラテン」って書いたけど、この男洋楽オリエンテッドなミュージシャンで、渋谷陽一との対談(誰かDVD化して欲しい、ホントに)でもあったように、アリスを知らない、渋谷の言うところのポップ・スターにパッと行けないジレンマを根深く持っている。これは私の解釈だが、つまりは、「島唄」とか美空ひばりとかいう、日本古来の「おかし」や「粋」をうまく表現できない人なのだ。日本的な情緒や湿り具合というより、もっとクールでドライな面持ちが絶対に似合う。これはもう絶対と断言できる。
まさに、その通り。
田島貴男は外国人なのだ。もう一つ、サンボマスター山口隆の田島評をemiさんのところから引用。
(以下『QuickJapan vol.58』より)
田島さんは"大陸の人"って感じがした。そこが自分とは決定的に違う。僕は純日本の小市民ですから。でもとにかくオリジナル・ラヴは、九〇年代の日本ではいちばんすごいと思ったグループですね。
その通り。
今回『街男 街女』を久しぶりに聴き直して何度も思ったのは、「この人の見ている風景は自分のと違う」ということ。逆に、「純日本の小市民」的な視点を、田島貴男が手にしようとするから、外国人が見たニッポンみたいになってしまう。
ミュージシャンには得手不得手があり、田島貴男が「YEN」を歌って「生活感」を得ようとしたのは、その取り組み自体が間違っていたといわざるを得ないのではないだろうか。
そこら辺が、渋谷陽一の言いたかったことに繋がってくるのではないか、と今は思っている。
(つづく)
補足:田島貴男=外国人説を裏付ける証言
「田島貴男=外国人」説を裏付ける証言が、田島本人から飛び出ました。
あまりにタイムリーだったので引用。
番長は、根がほんとうは、
もしかしたら西洋オバケのような人で‥‥「キャハハハ、西洋オバケはないだろう!
でも今日は一日通して
自分を思い知る感が漂っているからな。
なにか、この急須が
象徴的にオレを示しているのかな?
じつはヨーロッパの血があんのかな?
オレに」
相変わらず「俺のニュース」は面白い。
というか、あのスケッチの急須を本当につくってしまうのだから、やはり常人ではない。
*1:いい意味でも悪い意味でも