Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

日垣隆『すぐに稼げる文章術』が好きになれない理由

幻冬舎新書の周辺がにぎやかなようだ。
唐沢俊一の盗作疑惑が話題を呼んだと思えば、今度は日垣隆である。*1
日垣隆の盗作事件を検証する
盗作問題の類似点検証素材
そもそも、日垣隆『すぐに稼げる文章術』は、読後に「日垣隆にしては随分と質が落ちるなあ」と感じていた本で、内容の良し悪し以上に、この本を「好きになれない」という感覚が強かった。以前、自分のエントリの内容について、コメント欄で、この本との類似点を指摘され、むきになって反論したのも、そのせいである。

今回、盗作騒動が出てきたおかげで、腑に落ちた部分もあるが、これを機に、何故、自分がこの本を好きになれないのか、を、改めて探ってみることにした。
なお、この種の、いわゆる文章読本*2をしょっちゅう読んでいる自分としては、これまでに読んだ中で好きな3冊を比較の意味で何回か取り上げ、『すぐに稼げる文章術』も含めた4冊について、文章中では以下のように略記した。

以下、日垣隆『すぐに稼げる文章術』を自分が好きになれない理由について3つの点から書いてみた。

(1)想定としている読者はいったい誰なのか

以前も少し書いたが、日垣本の大きな問題点は、対象としている読者層がぼやけていることだと思う。
たとえば、冒頭から気になった以下の部分。

書評とは(1)本を買いに走りたくなる(2)エッセイ自体がおもしろい、そのどちらかの要素を満たさなくてはなりません。(P29:ただし、P10、P46でも繰り返し語られる)

「書評」という言葉の定義にもよるが、自分は、もっと敷居を下げて書評を書く(読む)ことを楽しんでいる、という点で違和感を覚えた。少なくとも、そこまでサービス精神溢れた文章を書く覚悟は自分にはない。
ということで、のっけから、自分は、日垣隆の考える対象読者から外れてしまったと感じたと同時に、この本が誰に向けられて書かれているのか疑問に思った。
タイトルどおり「文章で稼ぐつもりの人」に向けて書かれた文章なら、ブログやAmazonレビューは対象になりにくいと思うが、これらについても題材として取り上げられていることは、その疑問に拍車をかけた。
たとえば、第2章の冒頭で7頁にわたって、一般人のAmazonのレビューを「悪文」としてぶった切る*3のだが、Amazonレビューに求める文章レベルが高すぎるように見える。少しくらい文章の程度が低くても、自分の性に合わなければ無視すればいいだけで、読む側がスルーできるかどうかの問題だろう。
また、第3章冒頭では、「エッセイ・ブログ編」として、メルマガ読者の文章について添削指導が行われている。確かに、指導内容はそれなりに頷けるものだが、そもそも修正する必要性がどの程度あるのか疑問に思うものも多かった。
そして、6章のライター向けQ&Aである。これは完全にプロを志す人向けで、2章、3章と6章が同じ本に共存している気持ち悪さを感じる。
今回、全体を読み返して改めて思ったが、これらの一連の凸凹した文章群を自分のこととして受け止められるのは日垣隆しかいないのではないだろうか?ということは、この本は、日垣隆自身に向けて書かれた本なのではないか、と思ってしまった。
日垣隆であれば、Amazonやブログにだってハードルを高く設定して、悪文を書かないようにできるかもしれないが、自分は日垣隆じゃないしなあ・・・。と、他人事のように感じてしまったのが、この本に愛着のわかないひとつの理由だろう。(6章なんかは、自分には関係ないねと聞き流す感じだった)

(2)基本的なコンセプト(日垣メソッド)がない

次に問題なのは、この文章術には、核となるコンセプトが全くないことだ。1章で、いくつかポイントが挙げられているが、この場限りのもので、2章(悪文解説)、3章(文章添削)に応用されているようには見えない。
たとえば、久恒本なら「図解」、樋口本なら「型にはめる」、そういう久恒メソッド、樋口メソッド的なものがあるが、日垣本には、日垣メソッドがないままに文章が進むので読んでいる側はかなり不安だ。結果として、2章、3章の方向性がまとまりに欠け、「やっつけ」感が漂うことになる。
「はじめに」で、「稼げる文章とはこれだ」というものが基本コンセプトとして明示されれば、最も落ち着きがいいのだが、「はじめに」すらなく、1章でいきなり「どう書くか」の話が始まるのもおかしい。冒頭に、全体構成について何らかのストーリー付けがされていれば、自分は、ここまでの不信感を覚えなかったろう。
当然だが、この本に「これまでに無かった画期的な文章術」なるものは望んでいない。この種の本は、これまでに星の数ほど出ているから内容が似通ってしまうのもわかる。だからこそ、細かな文章技術を貫くコンセプトが無ければ、これまでの同種本の、ただの寄せ集めになってしまう。そして、それらは「伝わらない」。
たとえば、第2章の中の「トラブルの温床としてのメール」という部分。

どんな内容のトラブルであっても、「失礼しました」「不快な思いをさせました」などという程度の謝罪で問題が収まることはほとんどありません。むしろそんな謝罪の仕方では、トラブルが拡大するケースが多いでしょう。
謝罪をするときには、(1)謝罪の言葉、(2)その理由(反省)、(3)償い(穴埋め)の3つができているかどうかを念頭に置いて対処していかなければなりません。(P62-63)

ここでは、謝罪の仕方についてのポイントが挙げられているが、以下の点でやや首をひねってしまう。

  • 「稼げる文章」としての「謝罪文」の位置づけが曖昧である(つまり基本コンセプトがない)
  • 小項目のタイトルとは異なり、特にメールに限定された内容ではない
  • 具体的な文章例がないので、実際に文章を書くときに使いにくい

結果として、エッセンスの部分の有効性(使える感)があまり伝わってこない。
実は、これと同じ内容が、山田本にもある。

反省、謝罪、償い
私が考えるお詫びの要件はこの3つだ。

  • 反省、つまり悪かったと心から罪を認めること。
  • 次に、相手に謝ること。
  • そして、相手が受けたダメージを償うこと。

この3つの要件を満たしていなければ、大人として対外的にちゃんと詫びることにはならない。謝れば済むという人は「反省」と「償い」がないわけだし、すぐ金で解決という方向に走る人は「反省」と「謝罪」をとばしている。(P171-172)

山田本では、この前後で、お詫びの文章例(好例・悪例)と「お詫び状テンプレート」なるものが紹介されており、誰かにお詫びしたいときは、絶対にこの本を読み返そうという気になるほど、実用的な内容である。また、山田本は、抑えるべき「文章の7つの要件」について1章、2章で説明し、それを踏まえて、3章で、説得、お願い、議事録、お詫び、メールなどシチュエーションに合わせた実践例を紹介する構成になっている。日垣本と比べると断然に読みやすく、説得力には雲泥の差がある。
なお、日垣本はP131で山田本を引用しており、7章でも必読書として紹介しているから、これを持って「盗用」と指摘するつもりはないが、「後出し」にもかかわらずクオリティが落ちる点は全くいただけない。*4

補足的になるが、これまでに数多く生み出された「文章読本」の扱いについて触れておきたいのが久恒本だ。この本では、第一章「文章読本は何を語ってきたか」で、文章読本の名著の歴史を辿っている。この中で、谷崎潤一郎清水幾太郎、木下是雄、本多勝一野口悠紀雄文章読本5冊について、要点を10ページの文章と、基本コンセプトである「図解」を用いてわかりやすく説明されている。
はっきり言って、一冊で5冊+久恒本の6冊分の文章読本を読んだ気になれるという、非常にお得な本である。5冊の要点整理に、「図解」が使われていることも、うまい商売だなあ、と感心してしまう。
一方の日垣本は、基本コンセプトがはっきりしない分、他の多くの文章読本からの引用も、ツギハギ的なイメージを色濃くさせるだけで、読後に何も残らない。さすがに、こういう本を「いい本」だと人に薦めることはできない。

(3)書くモチベーションが上がらない

さて、文章読本の類には、必ず以下の3項目が必要であるように思う。

  1. なぜ書くか(読むと、書くモチベーションが上がる)
  2. 何を書くか(読むと、文章を書けるような気がしてくる)
  3. どう書くか(読むと、上手に文章が書けそうな気になる)

これらは順序にも意味があり、1⇒の段階で躓いている人には、、2、3のアドバイスは役に立たないし、1⇒2⇒の段階で躓いている人には、3のアドバイスは役に立たない。したがって、3だけで組み立てられた文章術の本は、地に足がつかず、「小手先」感が出てしまう。
そして、日垣本は、大部分が3についての内容で、1,2は、ほとんど出てこない。
たとえば、日垣本の3章の文章添削「エッセイ・ブログ編」が空虚な感じがしてしまうのは、通常、エッセイ、ブログで力を入れるのは、2「何を書くか」の段階であり、それに比べて、3「どう書くか」は、優先度が落ちるからではないだろうか?
これら、1、2の部分について、樋口本、久恒本、山田本ではどう触れているかを簡単にまとめる。

  • 樋口本では、「なぜ書くか」について、最終章で「文章は現代を救う」と、自己表現の手段として文章の重要性を主張する。
  • 久恒本でも、最終章を割いて文章を書く意味を説明する。特に、久恒本が優れているのは、「何を書くか」と「どう書くか」を完全に分離して扱っている点だ。そのうち「何を書くか」に重きを置いた構成は、一般読者の文章作成に対する悩みをうまく捉えているように思う。

文章読本を書いてきた人々は、いわば資本家でありかつ経営者であったような高い能力を持っていた人たちでした。小説家、学者、新聞記者という職業の人たちでした。彼らは書くべき中身を持っており、書き方も身につけていました。だから、彼らの関心は中身よりも、文体論に集中したのも無理はありません。
(しかし)文章を書くのが苦手という私たちの苦しみは、書くべき内容が固まっていない、あるいは書くべきことがない、ということから発しています。(P243)

  • 山田本は、最終章だけでなく、プロローグ、エピローグ、そして、文章中でも、繰り返し、文章を書くということは価値があると言い続ける。これを読むと、よーし、もっと文章を上手く書けるように頑張ろう、という気になる。

同じ事実を前にしても、考え方は人によってずいぶん違う。育ってきた環境や体験、思想、世界観は一人ひとり違い、自分とまったく同じ考え方をする人はいない。だからこそ、自分が考え、意見を表明する価値がある。(P125)

これまで何度も書いたが、こういうハウツー本的な新書は、結局は読者のモチベーション向上に繋がるかどうかの部分が一番重要なのではないだろうか?(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20070525/twoweeks
日垣隆は、新書を手に取るような一般人の、文章に対する悩み(コンプレックス)をあまり理解していないように思える。ほとんどの人にとっては「どう書くか」という悩みは、枝葉末節のことなのであって、「さー書くぞ」と思わせてほしいから「文章術」と題された本を読むのではないか。
日垣本は、そう思わせてくれないだけでなく、2章の(Amazonレビューに対する)執拗な個人攻撃ぶりを見ると、むしろ、文章なんて書かない方がいいのかも、書いても公開しない方がいいのかも、と読者をげんなりさせてしまう。
僕は、文章の巧拙に関係なく、何かを書こうという気にさせてくれる、山田ズーニーのこの言葉に何度も支えられてきた。

相手という個性に、自分として向き合ったとき、自分の中に湧き起こってくるものがある。その相手だからこそ言いたいこと。自分にしか言えないこと。そういうものに、私たちはもっと忠実になっていいと思う。
多くの場合、それは自分と相手のギャップによって生じるメッセージだから、ときに相手に歓迎されず、違和感やざらつきを与えるかもしれない。
それでも違和感という形で、ときに反発という形で、相手の潜在力を揺り動かすことができれば、相手を生かし、自分を相手の中に生かしたことに他ならない。
自分にしか書けないもので、互いの潜在力が生かされるとき、相手とあなたが出会ったことは意味を持つ。あなたが書くものは、相手にとってかけがえのない意味を持つのである。

あなたには書く力がある。

(P236)

表現が稚拙でも、自分と同じ人間はいないのだから、書くことには意味がある。『伝わる・揺さぶる!文章を書く』は、明確に「読者」を想定して書かれており、読者への愛情が溢れている。
そういう優しさは、日垣本にはほとんど感じられない。
全編を通して、読者への愛がないこと。
そこが、自分が『すぐに稼げる文章術』が好きになれない一番の理由かもしれない。
(だからこそ、この本は日垣隆自身に対して書かれていると思ってしまうのだが)

(補足)今回の盗作問題について

で、冒頭に戻るが、上に挙げたような問題点は、日垣隆が一人で書いた本ではない、ということが背景にあれば、ある程度納得ができるものだ。

相次いで同じ版元で同じシリーズということになると、版元に問題があったと考える方が自然か。本人がほとんど書いてなくて、ゴーストライターがネタ集めしているとか。

これだけ大御所が盗作なんかするか? と思うよね。普通。

gotanda6さんの仰ることには非常に共感できる。
実際、前述の大石英司さん*5の検証ページでも書かれているように、『すぐに稼げる文章術』では、あとがきで、わざわざ、手伝ってもらったライターと編集者の名前を挙げているのもそれを示唆しているのだと思う。
こういった新書が出来上がるまでに、何人のスタッフがどのようなかたちで関わるものなのかは分からないが、幻冬舎関連の二つの盗作問題を見ていると、あるある大事典の事件と同様の背景を想像してしまう。粗製濫造と揶揄される新書群にも、世に出すまでには、相当の苦労があるのだろう。
勿論、だからと言って、盗作が許される理由にはならないわけで、日垣隆は、何らかのメディアを通して、早めにこの件に関するアナウンスをすべきだと思う。

逆リンク

大石英司さんのブログで取り上げていただきました。
いつも見ているブログで取り上げられると嬉しいですね。
(本来は、あちらのブログでコメントをすべきかもしれないが、緊張するので、こちらで感謝。)

逆リンク2

久恒先生のブログで取り上げていただきました。大感激です。
作者本人からコメントをいただいたのは『子どもが減って何が悪いか』の赤川学さん以来のこととなります。
ブログという意思伝達手段があって本当によかったと思う瞬間です。

*1:上では作家・大石英司さんのサイトへのリンクを張ったが、元はといえば、小石川雑記という個人ブログ(keisaburiさん)が発端だ。

*2:日垣隆本人のあとがきによれば、この本は、いわゆる文章読本の類ではない、とされているが「文章術」と書いてあるのだから、分けて考えないのが普通だろう。

*3:この部分に代表されるよう、完全に「個人攻撃」になっている部分が散見されることも、この本が好きになれない理由の一つだ。

*4:なお、日垣本では、メールについて「メールはシーソーゲームのようなもの」(P59)という比喩が使われているが、あまりいい比喩とは思えない。山田本でも、同様に「メールはシーソーだ」(P177)と、異なる意味づけで、シーソーが比喩に使われているが、こちらの方が断然に分かりやすい。

*5:大石英司さんは作家ということで、このブログでは通常は「さん」づけしないのだが、トラバを送ったこともあり、本人が読む可能性を思ってそうした。他のはてなユーザーのIDに「さん」付けするのと意識としては同じである。