Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

失速する後半部が残念〜星野智幸『俺俺』

俺俺

俺俺

人のことを怒っている最中に、怒る相手が「自分」に似ている部分に気がつくことがある。よくある。息子を叱る時はしょっちゅう。先日は一回り年上の人を相手にしたときもそうだった。一方で、好きな相手や尊敬する人には「自分」を、見出せない。
逆に、自分の書いたブログを、時間が経ってから読んで、ものすごくツボに入る文章だと感じる時もある。これだけ趣味の合う人がいたら面白いなとか。(ところで、仲良い父子の関係は、はた目から見ると、父側が自分の分身づくりに一所懸命になっているだけのときがあると思う。これは気をつけたい。)
そんな風にして、自分は、他人の中にいる「俺」に苛立ち、自分勝手に「俺」の分身を、他人に求める。そんな「俺」が現実のものとしてどんどん増殖を続け、世界が混乱していくという、思考実験的小説が「俺俺」。

鰯のような「その他大勢」

作品の本質をついた素晴らしいカバーイラストが示すように、物語の大きなテーマは、「俺」という入れ替え可能な存在。この話では職場だけでなく、家族に対してもそれが言えるとし、実際に入れ替わっても家族は気がつかない状況が描かれる。これは現実の誇張でもあって、例えば、親からすれば、たとえ実の息子であっても、期待から外れた子は、どんどん目に映らなくなる。作中では「兄貴」が親に見放された存在として描かれるが、親は子の見たい一面にしか注目しない。

俺がうちに暮らしてるのは、おふくろや親父が俺を均だと思ってるからにすぎない。入れ替わったって、均だと思う人間がそこにいれば、日常は続くんだ。その程度でしかないんだ。仕事と同じ。異動があっても、担当が俺じゃなくて別の人間に代わっても、業務さえ回ってれば日常は続く。だからもしかしたら、俺は何代目かの均なのかもしれないって思うんだよね。俺はずっとこのうちで均だったと思いこんでるけど、本当はわりと最近のことで、何て言うか、長い一本道があったとして、実物の道はほんの数メートルで、あとは書き割りとかCG、みたいな。p58


主人公は「入れ替え可能性」に常に意識的である故に、自分に自信が持てないだけでなく、大事な相手にさえ「自分を誰かと取り違えられる」恐怖を感じる。つまり、自分がもはや誰でもない「その他大勢」に過ぎないという思いを常に抱えている。
そんな風にして、自分がオリジナルな存在ではないとした場合、自分の生きている意味が分からなくなる。そんな怖いイメージを比喩的に表した部分がある。

俺の頭に、鰯のイメージが浮かんでくる。自在に海を泳いでいるようでいて、じつは俺はまわりの鰯に合わせて体を動かしているだけなのだ。誰かリーダーの鰯が動きを決めているわけではない。すべての鰯がまわりに倣うだけで、全体としては雲のように膨らんだり縮んだり横へ流れたりひたすら遠くへ泳いでいったりする。そこには意思はない。外れたら食われる。だから俺は周囲の鰯に遅れないよう、きびきびと動く。前後左右上下、どこを見ても同じ鰯鰯鰯。そのうち、どの鰯が自分かわからなくなる。自分がそこにいるのかどうかも、わからなくなる。p150

こういった悩みがどれほど一般的なものかは分からないが、この本が第5回(2011年)大江健三郎賞を受賞していることを考えると、やはり現代社会的な、もしくは現代日本社会的な悩みであるのだろうと思う。

家族の話

また、この話の中の、どの「俺」も、まだ若いからなのか、親の話を繰り返し口にする。(そもそも物語の始まりも、母親へのオレオレ詐欺だった。)そして、親と子の双方が、他人に構わず自分勝手に物を見て迷走している。親に対する反感が強い主人公の「親への同情」が語られる場面がある。

でも、親も同じなのかもしれない。自分の子どもが、親を邪険にするような失敗作に育ってしまって、自分を責めているのかもしれない。そしてその後悔は、誰にも理解も共有もされないのだ。自分の責任だと、一人で抱え込んでいるのだ。p165

この決めつけは、一面では当たっているだろうが、やはり「俺」的な病に冒されているように思う。そもそも「自分が悪いせいことで悩む人がいる」というのは、自意識過剰な部分が無いと生まれない発想だ。そして、人を思いやることは、自分と同じ思考パターンに当てはめて相手の気持ちを推し量るのではない。むしろ、予断なしで、素直に相手の言い分を聞いてあげるのが一番いいのだろう。
上で引用したのは、子→親への思いやりの勘違いだが、親→子への思いやりも、同じ理由で誤っていることが多いかもしれない。人間関係の最小単位として、そしてスタート地点として、家族関係というものがやはり重要なのだし、自分でも気をつけたい部分だ。


「俺俺」の世界からどう抜け出すのか

そもそも、『俺俺』が示す、「俺」たちの典型的な考え方は以下のようなものだ。

電源がオンになれば、プログラムで型どおりにしか動かず生身の俺など理解しない親という連中に関わらなければならないし、同僚と同僚らしくつきあわなければならないし、自分のキャラを立てる努力をしなきゃならないし、自分を説明しなきゃならない。俺は絶えず俺でいなければならないのだ。生きている間じゅうずっとそんなことをしていたら気が狂うので、スイッチをオフにする必要がある。それで俺は一人の時間を大切にする。俺が俺をやめる時間に安らぐ。p62

とにかく他人との人づきあいが面倒くさい。だから、最初はギョッとした自分以外の「俺」に対して、説明なしに心が伝わることが分かってからは、アパートの一室「俺山」に集まり呑みかわすことが楽しくて仕方ない。
しかし、結局は他人同士で職業も年齢も違うから、「俺」同士の蜜月はすぐに終わりを迎える。

(お互いを貶め、排除するようになった)理由はわかっている。俺らは生まれてこの方、そんな生き方しかしてこなかったからだ。いつだって自分はクズだと思い込んで、クズを脱したいという日々の焦りと不安から、自分よりクズなやつを作ることに全力を傾け、自分は違うと証明しようとする。そんな下へ下へ螺旋状に降りていくような生き方しか知らないから、俺山の絆という現実を信じきれず、均はそれまでの生き方に逃げたのだ。p178

その後、主人公の抱えた問題はクリアされないまま、「俺」は増殖を続け、そして互いに殺し合い、集団から抜け出そうとする…という後半は、非常に退屈だ。この本を評価する人でも多くは、後半に入ってからのしつこい展開は褒めていない。
ラストも、分かるようで分からない曖昧なものになっており、これほど前半部で盛り上げた面白いテーマを処理しきれていないように思えてならない。(自分が人の役に立っている、人に必要とされているという感覚によって自分を救うことが大切というのが一つの結論。こういった考え方の転換によって、「俺俺」の世界から脱出する。)

これについては、茂木健一郎が毎朝続けているツイッターコラムに、このテーマにピッタリのものがあった。

  • (1)若いやつらと話していると、とにかく、自分が何とかなりたい、というやつが多い。自分が勉強ができるようになりたい、仕事がほしい、彼女が欲しい、彼氏が欲しい、幸せになりたい。自分の幸せを、そのようにして考えるのは当然の本能だが、短絡的になってはいけない。
  • (2)「自分のため」というのは、一つの罠である。世界に、自分は一人しかない。だから、「自分のため」ということを考えていても、結局、一人分のエネルギーしか出ない。それに、自分が幸せになりたい、という主張は、世間から見れば、どうぞ御勝手に、ということに過ぎない。
  • (3)発想を変えて、他人のために何ができるか、ということを考えてみる。自分の学ぶこと、やること、考えることが、以下に多くの他人に利益をもたらすか、福音を呼び込むかということを考える。そのように頭を切り換えると、この世の中は随分と面白い場所になってくる。
  • (4)自分は一人しかいないけれども、他人はたくさんいる。最初は周囲のひとたち。それが、十人、百人、千人。多くの人たちに役に立つことをしようと思うだけで、無限のエネルギーがわいてくる。どれだけがんばっても、終わりということはないからである。

「自分のため」ではなく、「他人のため」だから、自分の世界を広げることができる。そして自分のいる場所を、より深く感じることができる。「俺俺」は、その領域を非常に小さく浅いものに押し込めた世界が描かれており、そこでは個人個人が堂々巡りの思考を繰り返し、前に全く進まない。「他人のため」という一言は、そこを抜け出すための、小さな一歩であり、大きな一歩でもある。自分は「俺俺」タイプなので、常に「他人のため」を意識して生活するべきだと感じた。
なお、前半部だけでも十分面白い本であることは確かだが、『俺俺』の結論部分が、茂木健一郎の文章のように、分かりやすい形で示してあれば、もっと強い傑作になったように思う。

(補足)男と女

星野智幸はサッカー好きで知られ、サンスポに「考える脚」というコラムを持っている。3/10のコラムには、「なでしこ型の復興を」というタイトルで、女子代表チームの魅力について語られている。

私が女友だちによく言われる言葉に「男は自分を生きるけれど、女は関係性を生きる」というのがある。男は自分に価値を置こうとするが、女は他人との関係に価値を置こうとするのである。
例えば、どうしてよいかわからない困難に直面したとき、男は自分に閉じこもりがちだが、女は手近な人に力を貸してくれるよう求める、という。男はプライドが邪魔をして自力にこだわるが、女は互いに助け合うことにためらいがない。(略)
なでしこのサッカーがここまで人の胸を打つのは、たんに諦めない姿を貫いているからではない。人と人とが本気で信頼し合うことがどのようなものであるかを、身をもって示しているからだ。それは常に言葉を掛け合い、目的のために話しあうことでしか実現できない。

これを読むと、星野智幸としては『俺俺』の問題は、非常に男性的なものであると捉えていることが分かる。だからこそ、タイトルは必然的に「俺俺」なのだろう。という風に考えると、男性/女性的な視点で、それこそ、ここでいう「なでしこ型」の生き方に辿り着くような終わり方も読み易かったような気がしてくる。