Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

全てを破壊する「どっせい」の力!〜綿矢りさ『かわいそうだね?』

かわいそうだね?

かわいそうだね?

同情は美しい、それとも卑しい?美人の親友のこと、本当に好き?誰もが心に押しこめている本音がこぼれる瞬間をとらえた二篇を収録。デビューから10年、綿矢りさが繰り広げる愛しくて滑稽でブラックな“女子”の世界。

この本は、これまでで一番、装丁が好きかもしれない。表紙写真もいいけれど、エメラルドグリーンの表紙をめくると出てくる、水玉柄をバックにしたタイトルと、ピンクのしおり紐が素晴らしい。あと、著者近影の可愛らしさ(笑)

かわいそうだね?

困っている人はいても、かわいそうな人なんて一人もいない。

大江健三郎賞を最年少で受賞した表題作は、主人公の彼が元彼女と同棲中という、変わったシチュエーションから始まる三角関係の物語。今回は、主人公が樹理恵(じゅりえ)、彼が隆大(りゅうだい)、元彼女がアキヨ、ということで、いつもの綿矢小説と比べればそれほど「変な名前」ではない。しかし、主人公の圧倒的な独白力、というか妄想力はいつも通り。隆大から言われたひとことに泣きたい衝動にかられたとき、涙を止めるために、目についたパフェのメニューから2ページ以上の妄想を発動させていったん現実から逃げる(p14)様子に呆気にとられる。


さて、タイトルは「かわいそうだね?」と、最後に疑問符(?)がついている。これは何故か。
物語の最初で、主人公は「かわいそう」という言葉に肯定的である。小学生の頃、人権ポスターの標語に使おうとした「かわいそう」という言葉について、「見下している」「恩着せがましい」、と自分を責めたクラスメイト達に、心の中でこう反論するのだ。

困っている人を見かけたときに湧く、自然な同情の気持ちを“かわいそう”と呼ぶのは、間違っていないはず。この気持ちがあってこそ、次の段階の“助けたい”につながる。同情だろうが偽善だろうが、行動を起こすことで誰かが救われる。(p64)

よくネット上で見かける「やらない善よりやる偽善」という言葉には、直感的に賛成しているので、上のような理論は自分も納得しながら読んだ。
しかし、クライマックスの「どっせい」(後述)を機に、樹理恵は考え方を180度変える。

こんなに自由な気分になったのはひさしぶりだ。思う存分、好きなようにふるまったせいだろうか。怒りながらでも、わめきながらでも、損得の計算をせず本心をぶちまけることができて、ほっとしていた。かわいそうだから助けてあげる、と嘯いていたときの、うさんくさい自分より、いまの自分の方がよほど好きだ。(略)相手を憐れんでから発動する同情心は、やはりどこか醜い。みんなもっと深い慈愛を他人に求めているし、自分にも深い慈愛が芽生える可能性を信じている。
困っている人はいても、かわいそうな人なんて一人もいない。(p141)

とても納得できる内容なのだが、この部分だけでは、もともとの「かわいそう」に対する気持ちをどうして変えるに至ったかの部分が分からない…。
しかし直後の心情吐露を合わせて考えると、なぜ樹理恵が考えを変えたのかがよく分かると思う。

いまは一人。心細くないと言ったら嘘になる。でも「大変なときは、一体だれが私を助けてくれるのだろう」とやきもきしていたころに比べれば、なぜか心の負担が少ない。ちょうど正しくきっかりと、自分の命一つ分だけの重みが、手のひらに載っかっている。(p141)

つまり、「どっせい」前後の樹理恵の心境の比較から考えれば、「かわいそう」という気持ちが醜いのは、

  1. 自分が「ひとりで立つ」ことができていないときに
  2. 誰かの庇護を受けているという立場から
  3. その庇護を受けていない者を憐れむ

という構造で成り立っているからである。そして、この構造は、以下のような観点から、全く強固ではなく、いつでもひっくり返される危うい状況なのだ。

  1. 大人は誰もが「ひとりで立つ」ことをまずは目指すべき
  2. 「誰かの庇護」は、自分の思い込みかもしれない
  3. 相手が「庇護を受けていない」というのも思い込みかもしれない

これは男女関係の話だけでなく、作品中でも題材(阪神大震災)とされているような、自然災害の被災者に向けた気持ちについても全く同じことが言える。いつどこで同様のことが起きるかは誰にも分からないからだ。
つまり、「かわいそうな人」を助けるのではなく、「困っている人」を助けるのが筋だということだろう。


…というような説教くさい内容が表立ってあらわれないところが、この小説のいいところ。
とにかく、クライマックスが素晴らしい。大爆笑というのとも少し違う、気が晴れてスッキリしながら笑える名シーンとなっている。

頭のなかで、なにかがつながる音がした。
普通、人は急激に頭に血がのぼったとき“キレた”や“ぶちギレた”などの言葉を使う。でも私はつながった。いままで故意につなげずにおいた線が、遂につながって電流が行き渡り、充電完了。
どっせい、と言う言葉が遠くから聞こえてきて耳をすませた。おっさんが怒鳴り散らしているような声だったけれど、よく聞けば自分の声で、だんだん近づいてくる。
どっせい、どっせい、
どないせっちゅうねん。
「どないせっちゅうねん!」
(p128)

が、ついに今日、解き放たれてしまった。でも意外なことに口からほとばしり出る大阪弁は、かつて自分が地元にいたときに使っていた言葉ではなく、吉本新喜劇のちんぴら役の男性が使う大阪弁で、こんな言語が自分にあらかじめ搭載されていたことを、私はいままでずっと知らなかった。(p131)

とにかく、全てを解き放つ「どっせい」前後での樹理恵の変化が楽しい本。綿矢りさの小説がいつもそうであるように、主人公は、「勝手に作ったフィルターを通してでしか」(p107)、相手のことを理解出来ない。その中で、やはり勝手に構築した「かわいそう」という構造自体をすべて破壊するクライマックス。
綿矢りさ史上最も痛快なクライマックスだと思う、「どっせい」は。


好きな文章をコレクション。

  • このいらっしゃいませがくせ者で、言いすぎると変なイントネーションがついてしまい、どれが正しいいらっしゃいませか分からなくなる。さらに言い過ぎると、“いらっしゃいませって、そもそもなんだっけ?”としゃべり言葉のゲシュタルト崩壊が起こる。p29
  • 正月と同じくらいの巨大な行事に成長したクリスマスは、その年の通信簿を兼ねている。p95
  • 露天風呂に入っている客は私だけで、少しの間だけ独り占め。うつぶせになって手を風呂の床につき、脚をのばして身体を湯に浮かせ、手で歩いてみる。風呂の底は岩で、さわると案外ざらざらしている。外から響いてくる川の音もあって、川に棲む謎の両生類になった気分。p103
  • 二つ折りの機器をふるえる手でひらくと、骨が鳴るときに似た、パキという音が響き、もうそれだけでどきどきする。休日になると必ず代々木公園に出没する人が奏でる、原始的などんどこした太鼓のリズムが耳元で鳴っている。p109 (隆大の携帯を盗み見るシーン)

亜美ちゃんは美人

タイトル通り美人の亜美ちゃんの親友でありながら、引き立て役であり、マネージャー役であり続けたさかきちゃん。さかきちゃんが亜美ちゃんに対して抱く思いとその変化を10年以上辿った物語。


…というと、ストーリー部分は美しいが、この小説で最もインパクトがあるのは、後半になって登場する「亜美ちゃんの彼」。

「へえー どんな種類の音楽なさってるんですか。ロック?パンク?」
「ジャンルにはこだわらない。バンド名は『五次元』。バンドの目標は、音のクオリティを極限まで追求して、光の次元に移行することだ」
(p193)

もう、すべてがこの調子。
最高過ぎるぶっ飛んだキャラクターに驚いた。
綿矢りさの持つ、言葉選びの才能を、マイナス方向に発揮すると、ここまで完璧なアレな人が出来るのかと衝撃を受ける。
でも、そんな彼にも良いところがあって、そこも含めて救われるストーリーでした。


この短編でも、好きなフレーズはいくつもある。一つ挙げるなら、大学時代に一人で「亜美研究会」なるサークルを作った小池君という人物が出てきて、この人もなかなかの好人物なのだが、社会人になったさかきちゃんが久しぶりにあった小池君に対してかける言葉が好きだ。

  • 「小池くん、変わったね。やや精悍な秋元康って感じよ」p208


2編とも破壊力に満ちた作品で、先日読んだ『ひらいて』とは、全く違う方向性ながら、こちらも傑作でした!