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好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

我王と速魚/茜丸とブチ〜手塚治虫『火の鳥(4)鳳凰編』

火の鳥 4・鳳凰編

火の鳥 4・鳳凰編

自分が『火の鳥』で一番最初にイメージするのが、この「鳳凰編」の我王。
というのも、我王が主人公のファミコンのゲーム「火の鳥」をかなり真面目にプレーした思い出があるから。

Youtubeの動画を見ると、体に染みこんだBGMが蘇ってくる。我王が鬼瓦を作るという基本動作を除けば、ゲームの内容は本編とは全く関係が無かったにもかかわらず、『グーニーズ』なんかと同じで、原作とは全く別種の楽しさがあった。それがあったためか、「鳳凰編」は他と比べても多くの回数を読んだ。


しかし、我が子、よう太に聞くと、(1)〜(5)までを読んだ中で、一番好きなのは「宇宙編」だという。
確かに、冒頭に掲げられた謎に対して、星新一ショートショート*1を読むような、ワンアイデアの明快な落ちもあるからなのだろう。*2
逆に言えば、鳳凰編は、難解とまでは行かなくとも、明快ではない。明ではないし、快ではない。


そもそも主人公の我王は、何人も周囲の人間を殺して生き延びることに疑問を抱かないくらいの悪人。そこから、どんな病気も治す霊力を持つと噂されるような鬼瓦をつくる僧(のような存在)になる。
一方、我王に腕を切られた茜丸は、悩んだ末に夢の中で見た火の鳥をモデルにした鳳凰を完成させてからは堕落し、直接対決後の、いわば「倍返し」エピソードでは、善人に見えた茜丸のダークサイドが爆発する。2人の主人公は、悪→善、善→悪へと、その役回りを変える。
二人の立場を入れ替えたのは名誉欲。我王やブチが、干ばつに苦しみ、大仏建立のために奴隷のように働かされる人たちのことを常に見ているのに対して、茜丸には、そこが見えない。

おれは後世にのこるりっぱな芸術品をのこしたい!
大和の茜丸の名を永久にのこしたいんだ
大仏はその記念碑だ
全国から参拝にくるぞ
そして おれの名を口々にたたえるだろう…
芸術家の最高の名誉なんだぞ… p284


茜丸の辿る道筋は人を救うことから発した仏教が、政治の中に絡め取られていく8世紀の日本をよく表している。それだけでなく、手塚治虫自身にも漫画家としての名誉欲が当然あったであろうことを考えれば、「こんなもんつくったって日照りはおわりゃしないんだよ!」と、大仏の掌に糞をするブチの文句は、茜丸だけでなく、手塚治虫の自己に対する問いかけでもあったのだろう。


手塚治虫は、作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、自ら「冬の時代」であったと回想している*3そうだから、鳳凰編連載時の1969-1970年というのは、まさにその真っ只中にいたことになる。
それほど上手くまとまっているとは言えない「鳳凰編」が胸を打つのは、「未来編」のように上から目線ではなく、我王にも茜丸にも手塚治虫の生きざまが詰まっているからなのではないか。ラスト近くでの我王のセリフは手塚治虫の漫画に対する姿勢を宣言したものにも聞こえる。

おれは何年かぶりでみやこへでてよくわかった
あの貴族どもの目
藤原仲麻呂にせよ橘諸兄にせよ
目が死んだ魚のようにうつろだった!
しかも茜丸の印象的な目の光までが死んでいた
良弁さま あなたがなぜこの世からにげてしまわれたのか わかります
だが おれは死にませんぞ(略)
おれは生きるだけ生きて…
世の中の人間どもを生き返らせてみたい気もするのです


ということで、思い入れが強い鳳凰編。今回久しぶりに改めて読んでみても、その傑作ぶりに驚きました。強い意志を感じる作品です。

*1:小学生用の編集版が何冊も出ており、よう太は好んで読んでいる

*2:なお、よう太は、どうも歴史物を苦手としているらしい。こういう部分は自分に似たのかもしれないが、正しい道に導いてあげたい(笑)

*3:Wikipediaより。出典は夏目房之介手塚治虫はどこにいる』か