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レオナとチヒロ、そしてロビタ〜手塚治虫『火の鳥(5)復活編』

火の鳥 5・復活編

火の鳥 5・復活編

自動的に部屋をきれいにしてくれるだけでなく、その動く様が癒されるという人もいるなど、世界で人気のお掃除ロボット。そんなお掃除ロボットが“自殺した”として、いま、オーストリアで起きた1件の火災事故が大きな注目を集めている。

このニュースを読んで、自分はすぐに読んだばかりの『火の鳥 復活編』を思い出した。シリーズ「未来編」にも登場したロビタが集団自殺するシーンがあり、その誕生の秘密が描かれているという、ロビタファンにはたまらない内容だが、そうでなくても「復活編」は、「鳳凰編」の熱とは全く異なる部分が目立つ傑作だ。
構成、印象的なコマ、そして、テーマに着目して、その特徴から、復活編のどこが傑作かを探ってみたい。

構成

構成はレオナのパート(西暦2482--2484、2917)と、最後のロビタのパート(西暦3030、3009、3344)が交互に描かれる、という構成で、両者は全く繋がりを持たずに始まる。
2482年のある日、ひとりの少年(主人公レオナ)がエアカーから墜落死した…内臓が破裂し骨が砕け即死の状態から、ニールセン博士という天才的な医師によって復活するというのが全ての物語の始まり。
一方で3030年という時代に、大量生産されていたお手伝いロボットのロビタが、3万6千を超える集団で溶鉱炉に投身自殺をするというニュースを知り、月で働くロビタが思い悩むというのがもう一つの物語の始まり。
レオナのパートでは「レオナは何故命を狙われたのか。」という謎が、ロビタのパートでは「なぜロビタは集団自殺をしたのか。」という謎が、物語を駆動する。 そして、それらの謎は、次第に「ロボットと人間の恋愛がどのように成就するのか」「なぜロビタには人間的な心が宿っているのか」という謎につながって、ラストで収束点を迎え二つの世界が橋渡しされるという、美しい構成になっている。
これは、当初、手塚治虫が『火の鳥』全体でやりたかった構成*1のミニチュア的な構成となっている。

印象的なコマ

ミニマルというか、同じタイプの絵が組み合わされてパターン的に表現されたコマが多いのは「復活編」の特徴だ。
レオナパートでは、ニールセン博士の手術で2度、そして、最後のドク・ウィークエンドの手術で再度、レオナが漂うことになる死の世界のイメージがそうだし、2度の復活それぞれの後にレオナが見る、生命体を無機物の塊として捉えてしまう不思議な世界も印象が強烈だ。そして、だからこそ、土くれで賑わう街の中で、レオナの目を引いたチヒロの姿(ロボットだがレオナの目には美しい女性に見える)は、読者にとっても魅力的に映る。
ロビタパートでは、「人間の子どもを殺した」と問題になるロビタが働くアイソトープ農場のシーンがまずあるが、何より、集団自殺をするために、高熱炉に向かって道路を埋め尽くすロビタの見開き2ページが「復活編」を通して最も印象的だ。
このシーンを含む6ページは、前半部(p91-96)と後半部(P211-216)で全く同じページ(コピー)が二度使われるため、さらに印象が強くなっている。
自然の美しさを表現するようなシーンは抑え、パターン的に表現されたミニマルな世界だからこそ、人の生命が強調される仕掛けになっているのだと思う。(唯一、美しい自然として登場するのが、レオナとチヒロの溶鉱炉でのデートシーン(レオナの目には無機物の方が美しい自然に見える)であるというのが皮肉だ。)

テーマ

「復活編」は、序盤ほとんど“火の鳥”が登場しない。そして、“復活”という火の鳥に最もふさわしいタイトルに関わらず、火の鳥は、生き血を飲んだ者に不老不死の力を与えるという能力を発揮しない。むしろ、火の鳥に会ったレオナは、自らの死を願う。

フェニックスきいてくれ
ぼくは もうふつうの人間じゃないんだ
人工的につくられた つくりものの生命なんだ
これが復活なら ぼくはもう ごめんだっ!! (p161)


「復活編」のテーマをまとめると以下の通りだ。

  1. 人間の臓器はどこまで取り換え可能か?
  2. 人間の体を人工臓器に置き換えて行ったとき、どこまでが人間と言えるのか?
  3. ロボットは、どこまで人間の役割を担うことができるか?ロボットに「人間らしさ」は存在するか?
  4. 火の鳥のような神秘的な力を用いずとも寿命を延ばすことができるように技術が発達したときに、長くなった生命を人間はどのように生きるか?

このうち、1)については、レオナとチヒロを雪山で拾った密輸集団の珍の口から何度か語られる。いわく、臓器の密輸で現場を見ているが、移植は結局拒否反応によって成功せず、人間の生命は人間の力ではどうしようもないものだ、と。科学の力をあまり信用してはいけないと。
それに対して、レオナを復活させたニールセン博士や、最後にレオナを手術するドク・ウィークエンドは科学万能派。体の60%を人工頭脳、人造細胞、人工臓器で交換したニールセン博士の手術に対してレオナは「なぜいっそ、ぜんぶ、つくりものとかえてくれなかったんですっ!!」と詰め寄る。つまり2)の問題だ。
一方、3030年の荒廃した月で、ロビタと女性型アンドロイド・ファーニィと暮らす“ボス”は、ロボットが人間の代わりにはならないことを知りながらも、ファーニィを人間以上の存在として愛する。「人間らしさ」とは、まず人間に似ていること、という考え方のボスから虐待を受けながらも、ロビタは「自分は人間ではないか」という考えを止めることができない。
3009年、のちに事故で死んでしまう行夫君の世話をするロビタは、実質的には母親の代わりを務めていた。しかし、ここでも「母親の代わりには、母親とそっくりのロボットが必要」と考える行夫の父親によって、ロビタは冷遇される。
2)3)の問題は、普通に考えると離れているが、「復活編」の中では裏表の問題となっている。元とそっくりの姿に生まれ変わったとしても、そして機能としての人間が復活したとしても、それは本質ではない。それを感じる内側によって、人間は形成されるというのがレオナのパートの結論。そして姿かたちとは異なるところに「人間らしさ」が存在するというのがロビタのパートの結論。レオナとチヒロがロビタというキャラクターに生まれ変わることよって、二つの結論が物語上も結び付けられる。
そして、4)は、読者に向けて投げかけられている問題だ。この問題に対して、手塚治虫自身は61歳という若さで亡くなってしまったのは皮肉だ。

ぼくの 前の青春は もう消えてしまった
ぼくは このあたらしいからだで べつの青春を
探さなけりゃならない
どんなにからだが変わっても 青春はあるはずだ…
だが…いまのぼくは なにをしたらいい?
いまは どうやって生きたらいいんだ?
復活した人生を みたす方法はなんだ……? (p171)


ということで、ロビタファン必見の「復活編」は、構成・ビジュアル・テーマの全てにおいて、火の鳥の中でも1,2を争う傑作(スマートな傑作)になっていると思う。シリーズでは、おそらく「未来編」「鳳凰編」の印象が強い人が多いと思うが、そういう人には是非読んでほしい一作。
ところで、今回のレオナも、「鳳凰編」の我王も茜丸もそうだが、火の鳥のキャラクターは腕を失うことが多い。これは何故なのだろうか。手塚治虫自身が、漫画家の命でもある「腕」を失うことを恐れていたからなのか。気になるところ。

*1:火の鳥は、過去/未来の物語を交互に繰り返し、現在をラストに持ってくるという構想で始まった