Yondaful Days!

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最新アルバム『ラヴァーマン』から探る最新型のオリジナル・ラブど真ん中

ラヴァーマン

ラヴァーマン

発売前は「小松・佐野の二人がそろって18年ぶりに参加」ということが話題になった今回のアルバム。先行シングルとなる「ラヴァーマン」のときから、もうひとつのキーワードとして「オリジナル・ラブど真ん中」という言葉が本人の口から何回も出てきていました。
ど真ん中ってどこだよ?笑と長くファンをやっている誰もが思う中、実際に発売されてみると、オリコン順位だけで比較すると17年ぶりの好順位(20位以内)という嬉しい知らせも届いています。


このエントリでは、このアルバムの良さを説明するのに、太宰治お伽草子』収録の「浦島さん」からまず引用し、各種インタビュー記事を参考にしつつ、途中、サッカー日本代表本田圭佑の「リトル本田」と同様、田島貴男の中に棲む「リトル田島」について言及しながら、最新型のオリジナル・ラブど真ん中とは何かについて掘り下げてみたいと思います。

普遍的なポップスとオリジナル・ラブ

太宰の書く浦島太郎ですが、亀が自分の背中に乗るように浦島太郎を促してからの議論の盛り上がりが非常に楽しいです。

「お前は、まあ、何を言ひ出すのです。私はそんな野蛮な事はきらひです。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言つてよからう。決して風流の仕草ではない。」
「どうだつていいぢやないか、そんな事は。こつちは、先日のお礼として、これから竜宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。さあ早く私の甲羅に乗つて下さい。」
「何、竜宮?」と言つて噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飲んで酔つてゐるのだらう。とんでもない事を言ひ出す。竜宮といふのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚として伝へられてゐますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、古来、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言つてもいいでせう。」上品すぎて、少しきざな口調になつた。
 こんどは亀のはうで噴き出して、
「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆつくり伺ひますから、まあ、私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乗つて下さい。あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。」


風流人の美しい夢、あこがれ…と「竜宮」のことを称えながらも、その存在を信じない浦島太郎。
常に「普遍的なポップス」と言い続ける田島貴男に対して、半信半疑でついてきた(もしくは一旦離脱した)という意味では、大半のオリジナル・ラブファンは、この話の中では浦島太郎に喩えられるのかもしれません。


実際、自分も『踊る太陽』〜『街男 街女』のあたりで、よくわからなくなっていました。(当時の)現在進行形のオリジナル・ラブがやっている音楽には魅力があるのはわかるけれど、それが、田島が追い求める「普遍的なポップス」とどこまで重なっているのかよくわからなくなっていたのです。
コンピ盤『Light Mellow』の金澤寿和さんがポニーキャニオン末期を称して、「従来ファンにとって、奔放過ぎて捉えにくかった時期」と言っていますが、まさにその通りで、この頃のオリジナル・ラブは、少なくともアルバム単位で見た場合は「普遍的なポップス」からも遠く、「オリジナル・ラブど真ん中」を大きく外していました。
だから、田島貴男が「普遍的なポップス」を追い求めているという発言を繰り返しても、「単に、その時その時に興味があるジャンルに引っ張られ過ぎているだけでは?」と邪推してしまっていた部分が自分にはありました。


さて、「竜宮城」の存在を信じない浦島太郎は亀に「あなたはどうも冒険の味を知らない」と言われて、「冒険などというものは下品で、邪道で、軽蔑すべきものだ」と反論します。
ここから始まる亀の「冒険」談義がとても面白い。

いや、冒険なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲芸かと思つて、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。
しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違つてゐるのです。藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしてゐるなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。
信じてゐるのです。花のある事を信じ切つてゐるのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでゐるだけです。あなたに冒険心が無いといふのは、あなたには信じる能力が無いといふ事です。

つまり、「オリジナル・ラブど真ん中」から遠く離れて右往左往しているように見えた田島貴男は、「普遍的なポップス」という花が、もしくは竜宮が、そこにあることを信じ続けていたのです。
そして、新アルバム『ラヴァーマン』は、まさに田島貴男の追い求めていた花が、オリジナル・ラブファンだけでなく、いわゆる「大衆」にも見えるようになったという意味で、ポニーキャニオン以降のオリジナル・ラブ史上に残る画期的な名作であるように思います。

リトル田島と「良いアルバム」「変なアルバム」

それでは、これまでオリジナル・ラブの音楽を「ど真ん中」から遠ざけてきたものは何でしょうか?
それは田島自身、いや、田島の心の中に棲むリトル田島なのです。
ファン、そしてファンでない人も含めた「大衆」の目が曇っていたことによって「ど真ん中を外しているように見えた」などというわけがありません。

――「いわゆる一般的なORIGINAL LOVEらしいサウンド」を求められることに反感はなかったですか?

田島:30歳の頃だと感じていたかもしれません(笑)。でも、「風の歌〜」から20年も経って、最近はなんとも思わなくなりましたね。

2年ぐらい前にスタッフから「また『風の歌を聴け』みたいな音楽を新曲として聴きたいという人も多いんですよ」って言われて……少し前まではさ、ミュージシャンとしてのセコいプライドみたいなものが残っていて「そういうのはちょっと」と思ってたんだけど、今はもうどうでもいいというか(笑)。

インタビューではこんな風に大人の対応をしながらも、田島貴男の中には今も「俺は渋谷系じゃねー」と世間の期待に反発し続ける暴走列車・リトル田島が棲んでいると思います。
例えば、2つ前のアルバム『白熱』は、今回の『ラヴァーマン』に直接つながる部分が沢山ありますが、『ラヴァーマン』から比べるとやや優等生過ぎてしまったような気がします。(このアルバムのときのリトル田島は、アルバムのレコーディング作業に忙しすぎて表に出てくる暇がなかったのでしょう。)
この反動で、『エレクトリックセクシー』では、リトル田島が本領を発揮し、またしても、「普遍的なポップス」から離れてしまうことになりました。


このように、オリジナル・ラブの音楽は、「普遍的なポップス」に近づいては離れ、むしろ「ど真ん中」を避けながら螺旋を描くように作を重ねて来ました。そのことが、『ラヴァーマン』の視点から振り返るとよく分かります。
例えば、アルバム中盤で重要な位置を占める「今夜はおやすみ」や「フランケンシュタイン」、「きりきり舞いのジャズ」が、過去の作品の中でも、むしろ「ど真ん中」ではない楽曲の遺伝子を受け継いでいるように見えるのも、結局、「奔放過ぎた時期」から今現在までのオリジナル・ラブが繋がっていることを意味しています。
(なお、楽曲単位で、オリジナル・ラブの本質部分を繋いだコンピが『Light Mellow』と言えます)
このことは、インタビュー記事を見ても明らかで、 CINRA.NETのインタビューのラストで、わざわざ「いいアルバム」であるだけでなく「変なアルバム」と言っているのは、こういう「変な度合」自慢みたいな部分が、実は、田島貴男の自信を持っている部分であり、オリジナル・ラブの「裏ど真ん中」(リトル田島のど真ん中)だからではないかと思います。

Negiccoと仕事をする前はもうちょっとマイペースに考えてたんですけど、今の若い人たちの音楽の聴き 方を知って、影響を受けました。ただ、何度も言ってるように自分のアルバムを説明するのは難しい。特に今回はいいアルバムであり、変なアルバムでもあって ね(笑)。どう説明していいかわからなくて困ってるんですよ(笑)。

↑引用先の記事の写真を見ても、満面の笑みです。(リトル田島も満面の笑みのはず)


つまり、過去はどうあれ、最新型のオリジナル・ラブ「ど真ん中」とは、少なくとも、普遍的なポップスを求める田島貴男と、破壊王・リトル田島のバランスが取れている、もしくは上手く融合できている状態で生まれると言えそうです。
通常、このバランスを取るのがプロデューサーということになるのだと思いますが、今現在も外部のプロデューサーをつけないという気持ちは変わらないようです。

――難しいなかで、外部のプロデューサーを付けることは考えなかったのでしょうか?

田島:プロデューサーをつけたいなと思っていた時期もありましたけど、この歳まで一人でやってきたので「どっちでもいいや」と。セルフ・プロデュースはすごく大変ですね。でも「プロデューサーを付けるのが似合わない」と言われて、このスタイルになりました(笑)。Negiccoの現場では、いいプロデューサーが何人もいて羨ましいと思いました。僕はひとりで格闘していて、「自分がもうひとりいたら楽かな」とよく思います。でも、その分個性が強い作品にはなっているのかなと。


これまでと同じセルフ・プロデュースでも、ここまでバランスが取れたアルバムにできたのは、本人も公言しているように、Negiccoプロデュースや、CMソングとしての「ウイスキーがお好きでしょ」のヒットなど、外部から刺激を受けることが多かったことが大きく影響しているのでしょう。
実際、過去2作のインタビューでは、『エレクトリックセクシー』は、80'sリバイバルに影響を受けて作ったアルバム、『白熱』は、50〜60年代の音楽に影響を受けた「新しいオールディーズ」と、インタビューでその音楽的背景を前面に説明していました。
しかし、今回はそれに当たるものがなく、「オリコン1位の曲として聴けるサウンド」を目指したということが第一のようです。これは大きな方針転換で、音楽的背景へのこだわりをなくした結果として、「すごく外向きな、よりポピュラリティの高い」アルバムになりました。
この部分は、音楽制作の方法論としても、うまいバランスの付け方が見つかったということで、今後も期待できそうです。

──それも非常に濃い面白味があったんですけど、「ラヴァーマン」はすごく外向きな、よりポピュラリティの高い楽曲が多いと感じました。

ええ。今回はリズム隊とギターのベーシックな部分をほとんど生演奏にして、ほかの楽器のプログラミングは自分でやるというやり方にしたんですけど、それで十分なクオリティのものができるというのは、Negiccoのときに同じやり方で作って確信を得たんですよ。Negiccoの「サンシャイン日本海」(参照:Negicco「サンシャイン日本海」リリース記念特集 Negicco×田島貴男対談)と「光のシュプール」はこのアルバムの制作と同じ時期に作ったもので、そこで感触がつかめたというか。


ということで、まとめると、『ラヴァーマン』から見える、最新型のオリジナル・ラブど真ん中の条件は

  1. 楽曲クオリティーの面でメジャー感がある (プログラミングに頼り過ぎた『白熱』の弱かった部分)
  2. 田島貴男の目指す「理想のポップス」が目に見えて安心 (キャニオン末期は見えにくかった)
  3. にもかかわらず、「変な曲」が自然なかたちで共存している (「変な曲」が前面に出過ぎない)

という風に言えそうです。オリジナル・ラブアルバムアーティストと思っていますから、シングル「ラヴァーマン」1曲を持って、「オリジナル・ラブど真ん中」というのは、自分には少し抵抗があります。
今回、全体を通して何度も聴きたくなるアルバムになっていると思うし、もっと聴き続けながら、その音楽を楽しんでいきたいです。

この間「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」という映画を観たんだけどさ、共感するところがあったんですよ。今はTwitterFacebookが浸透したSNSの時代で、情報が錯綜した中で即効的に「いいね!」ボタンが押されるものがもてはやされるようになっていて。アートが持つ底の深さが切り捨てられる時代性に対するあがきを「バードマン」という作品に感じたんだよね。音楽はシングルが中心で、1本の映画を楽しむようにアルバムが聴かれる機会は少なくなってしまって、そこに込められた人間味みたいなものが単純化されていってる。「君こんな奴だよね、はい次」みたいなことでは本当はなくて、その下にある事情や経験で得た生の感情、人間の本性のようなものまでがひそかに表現されているのがポップスだと思うんですよ。スタンダード曲はそこをすくい取ってくれる音楽だからこそ長く愛されるし、わかりやすいようでわかりにくいのがスタンダードポップスなんです。

さて、いよいよ今週から始まる「ラヴァーマン・ツアー」ですが、最新型のオリジナル・ラブを堪能できる素晴らしいライブを期待しています。しかも、今回は、3月の弾き語りツアーのときから出し惜しみしているツアーメンバーが、ツアー開始直前まで判明しておらず、サプライズ好きな悪戯王子・リトル田島の本領発揮となりそうですが、その部分でも楽しみが多いです。