Yondaful Days!

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オリジナル・ラブ『ラヴァーマン』の楽曲構成を考える(3)〜違和感の正体に迫る!

ラスト3曲にスポットを当てた第一回中盤4曲を扱った第二回を経て、3回シリーズもとうとう最終回です。
今回は最初に、こういった文章についての自分のスタンスを明確にしてから、『ラヴァーマン』の楽曲構成の問題点に迫り、最後に、その問題点を克服した「理想の『ラヴァーマン』」を示します。

聴き手の自由

絵本作家・五味太郎の『絵本を読んでみる』という本があります。この本は、絵本の(描き手ではなく)読み手としての五味太郎の素晴らしさが溢れる本ですが、『よあけ』という絵本を解説した中に、「描き手の意図とは無関係な読み方」を推奨する文章があります。

絵本というものは話の流れとかテーマとか、あるいはその展開とかいう構造や全体に興味を示さなきゃいけないんじゃないかと思ってるようなところが、絵本に携わっている人の中にはあるだろうし、描き手の側にもエゴとしてここを伝えたいんだ、っていう部分はあるんだろう。でも読み手の勝手からしてみれば、どうなるかわからないよ、ということだね。ある一部分が見たいがために一冊の絵本が存在するということも十分あり得るんだ。ぼくにとっては、この『よあけ』がまさにそういう本だ。たき火の一頁が核になって、『よあけ』という絵本がぼくの中で重要な本になる。

同じ一枚のCDでも色々な聴き方があり、ここで五味太郎が書くように、ある一曲があるために、そのCDが重要な一枚になる、という人も多いかもしれません。自分のように全体バランスが気になる聴き手というのは多分ごく少数でしょう。しかし、(許容範囲はあるでしょうが)聴き手の自由で、色々な楽しみ方ができることこそが、本や音楽の醍醐味だと思っています。
だから、自分がこういった文章を書くのは、自分自身の楽しみが第一で、他の人に押し付ける気持ちは全くありません。自分が伝えたいのは「自分はこういう風にして楽しんだよ」というところまでであって、次に続くのは、「異論は認めません」ではなく「それで、みんなはどう楽しんだ?」という部分です。そこのところを皆さんご承知ください。
(今回、ある一曲について少し執拗に書くので弱気になっています笑)

「サンシャイン日本海」の難しさ、「ラヴァーマン」の堅さ

このアルバムで、少し難しいのは「サンシャイン日本海」の扱いです。
セルフカバーという意味では、過去には、『東京飛行』(2006*1)の中の「夜とアドリブ」がありましたが、このときは10年以上前(1992年)にクレモンティーヌに提供した曲の日本語詞カバーで、クレモンティーヌ色は少なく、あくまで田島貴男の、オリジナル・ラブの歌になっていました。しかし、今回は、女性アイドルグループへの提供曲で、しかも提供したのはついこの前ということで、まだまだNegicco色に染まった曲を、歌詞もそのままに歌うというもの。
既にライヴでは何度も披露されて好評を博しているとはいえ、どのような位置に曲を置けばいいのかは難しいです。勿論1曲目やラスト、また(今回、A面B面という想定をしていないとしても)B面1曲目にカバー曲を持ってくることも普通はしないでしょう。
本編終了後にボーナストラックとして、この曲を持ってくる、という方法が、一番わかりやすい正解ですが、その位置には既に「ウイスキーがお好きでしょ」がいるために、この策は採れません。
ラスト3曲が不動のものとすれば、中盤4曲の後か先かということになりますが、この曲の余韻から入る曲としては、少し真面目に語るモードの「四季と歌」よりは「今夜はおやすみ」の方がお似合いだと思います。ということで、この曲は3曲目というのは最も収まりがいい位置なのではないでしょうか。


1曲目がアルバムタイトル(さらにはツアー名)になっている「ラヴァーマン」だというのは当然動かせません。現在のオリジナル・ラブを代表する曲として、ファンでない人に向けても、まずは最初に聴いてほしい曲なので、むしろこれを1曲目に持ってくることありきでアルバム制作に入ったのかもしれません。
勿論、聴く側としても全く違和感がありません。


つまり”違和感の正体”は、この2曲ではなかったのです。

「ビッグサンキュー」に共感できない理由

…と長々と外堀を埋めたところで、最後の一曲「ビッグサンキュー」の登場です。


この歌については、メロディー、歌唱、演奏については、むしろ好きです。
ホーン・セクションの泣きもカッコいいですし、歌唱についても、田島貴男の歌に対する思い入れの強さと表現の幅の広さがよく出ている曲だと思います。


しかし、やはり問題は歌詞です。
もう少し詳しく言うと、この歌詞で扱われている主人公に共感できないのです。


突然ですが、小池龍之介さんは『考えない練習』の中で、「現代日本に蔓延する「ありがとう病」は心を歪ませる」とこのように書いています。

日本人はたいそう「ありがとう」を好みます。
常に心の中で「ありがとう」と唱えていれば幸せになれるとか、感謝の気持ちを持ちましょうと教える宗教や本にこと欠きません。
それを信じている方は、何があっても「ありがとう」を唱えようとします。怒っていても「ありがとう」、攻撃されても「ありがとう」。普通なら怒る場面でも「ありがとう」と言っているので、口で言っていることと表情が相反し、不気味な印象を与えてしまいます。何より、「ありがとう」と思ってもいないのに「ありがとう」と思うのは、嘘をついていますから、心が歪むだけです。(中略)
仏道において、人が幸せに生きていくために育てるべき感情としているのは「慈・悲・喜・捨」の4つだけです。(略)
この中に、感謝にあたるものはありません。なぜなら感謝の気持ちというのは、どんなにありがたく思おう、感謝しようと努力しても持てる感情ではないからでしょうか。
p67-69

このあと、小池さんは、「本当にありがたい、感謝したいと思った時に、それを素直にタイミング良く口に出せること」が一番大切と書いているように、感謝してはいけないと言っているわけではなく、自分の心を誤魔化す言葉の使い方を戒めています。


J-POPの歌詞にも、タイトルやサビに「ありがとう」「サンキュー」を入れたヒット曲も数多くありますが、自分はそれらを特に違和感なく受け取ってきましたし、このテーマが嫌いというわけではありません。
しかし、「ビッグサンキュー」の主人公は、「本当にありがたい、感謝したいと思った時」にこの言葉を口にしているでしょうか。


勿論、感謝の気持ちはあるでしょうが、この歌で感じるのは圧倒的に「未練」です。「未練」について正面から歌うのならばそれでいいのです。例えば、歌詞の並び方によっては、「ビッグサンキュー」というのは照れ隠しの強がりなのだ、と解釈できるでしょう。そうであれば、それはそれでサムライのようでカッコいい歌だと思っていたかもしれません。
しかし、「さよならの向こう側へ旅だったね きみはぼくからもう自由なのさ*2」という表現、ここに主人公の卑怯さを感じてしまいます。

  • 彼女に自由を与える、という上から目線な感じが否めない(魚を釣ってリリースする感じ)
  • 相手を思いやっているようで、実は、相手の気持ち(自由を求めていたという気持ち)を一方的に決めつけているだけ
  • むしろ今でも未練があるのは主人公のはずなのに、「さよならの向こう側」という飾ったフレーズを使うことで、別れを過度に美化し、彼女の方にフォーカスを当てて、自分の気持ちを誤魔化している

なお、「さよならの向こう側」という言葉は、山口百恵の有名曲があるのにもかかわらず、敢えてこれを使う、というほど優れたフレーズでもなく、意味がぼやける「ぼんやりワード」になっていると思います。また、このようなぼんやりワードが、かえって主人公の未練を際立たせてしまうように思うのです。


…というように、この歌詞の内容の大筋はそのままでも、「さよならの向こう側へ旅だったね きみはぼくからもう自由なのさ」という部分が、自分の心を誤魔化さない歌詞になっていたら、この曲をもっと好きになっていました。自分がこの歌詞の主人公を好きになれない理由についてはここまでです。

それでも「ビッグサンキュー」が『ラヴァーマン』に合わない2つの理由

しかし、そのような改変でこの曲に対するわだかまりが消えたとしても、この『ラヴァーマン』というアルバムに入ってしまうと、この曲だけが居心地の悪い感じになってしまうという状況は変わりません。
単純に、明るく勢いよくスタートしたアルバムの2曲目に思いっきり過去を振り返る歌が入るのも変ですが、「ビッグサンキュー」には、このアルバムに合わない根本的な問題が2つあるように思います。


一つ目の理由は、この曲がテーマにしている別れと未練が、「昭和歌謡」過ぎるからです。例えば、80年代頭の松本隆(と松田聖子)は、70年代を制した阿久悠のような、ストーリー性はあるがジメジメとした歌詞の多いザ・昭和歌謡の世界から、意味性から自由になり、カラッとした世界に歌謡曲のメインストリームを変えました。
90年代の渋谷系は、やはり物語性を嫌って、さらに音楽を解体したといえるでしょう。

田島:きっと渋谷系の人たちは、その反動で楽曲主義の人が多くて、アーティストの気合いとか物語性とかよりも、曲の構造をこだわって作る人が多かった。やっぱり今の状況と似てる気がするんですよね。今の若い人たちも曲の構造をこだわって、がんばっていい曲を作っていて、すごくいいなと思います。


今回のオリジナル・ラブのアルバム『ラヴァーマン』は、例えば、前々回の文章の中で「四季と歌」の歌詞の読み解きをやったように深読みできる部分もありますが、基本的には、どの曲も物語性は最小限で、歌詞の解釈は聴き手の自由に委ねられているように思います。
例えば「サンシャイン日本海」ですら、40代男性が聴いても“夏を前にしたわくわく感”という(性差・年齢差を越えた)イメージに消化して、無理なくこの曲を受け入れることができます。
しかし、「ビッグサンキュー」は、もう少し聴き手の自由度を減らし、想像力を縛ります。
自分が、「ビッグサンキュー」に感じるザ・昭和歌謡な感じはその部分で、だからこそ、このアルバムには合わないと考えるのです。多分、昭和歌謡を志向した『街男 街女』あたりに入っていればもっと自然に受け取ることができていたはずです。*3


そしてもう一つも、このアルバムに特有の問題です。
「ビッグサンキュー」の歌詞の内容が、アルバムのクライマックスである「四季と歌」とバッティングしてしまうということが、『ラヴァーマン』の中でのこの曲の異物感を高めているように思います。

  • あの日々がずっと続くものと思っていた
  • 悪い予感はどこにも入る隙がなかった

このように先行きを不安にさせるようなフレーズは、「いつもいっしょに/きみとずっと」と、少し先の明るい光を歌う名曲「四季と歌」の歌詞世界に浸る邪魔をします。2人で過ごした過去を振り返る気持ち自体は勿論あっていいですが、このアルバムの中では隠しておいて欲しかったように思います。
田島がこのアルバムの曲の並びで最も悩んだのは間違いなく「ビッグサンキュー」だと思います。この曲調なのに、B面ラストは勿論、A面ラストすら避けたのは、ひたすら「四季と歌」との距離を空けたかったからだと考えています。

これが理想の『ラヴァーマン』だ!!

ということで、ここでやっと最初に戻ります。曲順に対する自分の違和感は、「ビッグサンキュー」から来るものと判明しました。さらに、もともと、違和感を解消するための理想的な曲順を考えようと考える過程で、ラスト3曲の堅さ、そこに至るまでの4曲のつながりの良さを考えると、後半7曲の曲順はほとんど動かせないことが分かりました。さらに、「ビッグサンキュー」を入れている限り、正解には辿り着かないことも分かってきました。
これらを踏まえた上での代替案を考えるのは無理だと思っていましたが、考えに考え抜いた結果、これこそが最高のラヴァーマンだ!という曲順を見つけました。


それはこんな感じです。

1. ラヴァーマン
2. The Best Day of My Life
3. サンシャイン日本海
4. 今夜はおやすみ
5. フランケンシュタイン
6. クレイジアバウチュ
7. きりきり舞いのジャズ
8. 四季と歌
9.99 粒の涙
10. 希望のバネ


このアイデアを思い付いたときは、風呂から飛び出して「エウレカエウレカ!」と叫びだしたいくらいでした。(笑)






ここで「The Best Day of My Life」を入れたのは色々な理由がありますが、勿論、本当に過去曲を入れてくれという話ではありません。あくまでイメージ的な問題ですが、2曲目にこれくらい幸福感の溢れる曲が来ていたら、アルバム全体の勢いはさらに増していたように思ったのでこの曲を選んでみました。
繰り返しますが、「ビッグサンキュー」自体はそこまで嫌いな曲ではありません。それだけに、無理してこのアルバムに入れる曲だったのかなあという疑問は残ります。


まとめですが、最初に書いたように、毎回、自分は一つのアルバムに対して、どれだけ深く掘って遊べるかを自分に課して、過去の自分とも競っています(笑)今回はかなり熱を入れて書くことができ、『白熱』のときのレベルに達したのではないかと自分でも満足しています。
定額聴き放題の音楽サービスが次々に始まり、音楽の聴き方が変わっていくのかもしれません。でも自分としては、このような形でアルバム単位で音楽を楽しむ遊びを続けていくし、今後、アルバム単位で音楽を聴くことが減っていく中で、多くの人に、この「楽しんでいる」感を伝えていければなあ、と何となく思っています。



補足(ビッグサンキューの解釈について)

ちょうど、この文章をアップして直後に、「さよならの向こう側へ旅だったね きみはぼくからもう自由なのさ」という部分について、こう理解するのが自然だという解釈を知ったので、補足として付け加えます。


つまり、ここで歌われるのが通常の「さよなら」ではなく、相手が亡くなってしまったことによる別れ、とする考え方です。
恥ずかしながら、この可能性には全く気が付かなかったのですが、「さよならの向こう側へ旅だったね きみはぼくからもう自由なのさ」の部分は、「さよならの向こう側」も「旅立った」も死地に向けて逝ってしまったと考えると納得できるし「きみはぼくからもう自由なのさ」も、亡くなった相手への言葉と思えば自然に受け取ることができます。
ただし、以下の部分は若干疑問が残るのも確かです。

少しでも振り返れば
舞い戻ってしまうだろう
このまま行くよ
しばらくは会えない
泣き顔隠したふたり

この部分を一連で見ると、相手が死んでしまうとは考えづらいことも確かですが、個々に見れば、「しばらくは会えない」は、「向こう側」での再会を意図した会話だとも考えられるし、「泣き顔隠したふたり」は、相手が死ぬ直前に、無理に作り笑いをして強がるふたりをイメージすると変ではありません。「舞い戻ってしまう」先も、相手のところではなく、二人で過ごした思い出に舞い戻ると考えられます。


全体を通じてずっと感じる“不吉な感じのする幸せな風景”=「死亡フラグ」を考えると、これ以外の解釈はあり得ないというほどフィットしていると思います。
ちょっとおかしい感じのする「泣き顔隠したふたり」の部分は無視しましょう。(笑)

補足2(ビッグサンキューの解釈について)

一方、もうひとつのレアな可能性として、「さよならの向こう側」を、律儀に山口百恵の曲を指したものとして捉える解釈があります。まず、山口百恵の「さよならの向こう側」の基礎知識はこちらです。

  • 「さよならの向う側」(さよならのむこうがわ)は、1980年8月にリリースされた山口百恵の31枚目のシングルである。10月15日のホリプロ20周年記念式典を最後に山口百恵は芸能界から引退した。
  • 三浦友和との結婚式の当日である11月19日には「一恵」がリリースされているが、この曲が事実上のラストソングであり、百恵からファンへのメッセージソングとなっている。
  • 10月5日に日本武道館で行われたファイナル・コンサートでは最後に歌われ、涙を流しながらの歌唱となった。その後百恵は、マイクをステージに置いたまま舞台裏へと去っていった。>


歌詞の中で「さよならのかわり」として、ファンに向けられた言葉は、まさに「Thank you」であり、「ビッグサンキュー」の内容と呼応します。

Thank you for your kindness
Thank you for your tenderness
Thank you for your smile
Thank you for your love
Thank you for your everything
さよならのかわりに


それ以外にも、呼応する部分はいくつかあります。

  • 今度はいつとは言えません ⇔ しばらくは会えない
  • 涙をかくし お別れです ⇔ 泣き顔隠したふたり
  • あなたのやさしさ あなたのすべてをきっと 私 忘れません ⇔ 優しくしてくれていつも許してくれて思い出だらけさ  たくさんのありがとう

これらから考えると、主人公が「公園の芝生に 青いシートをひいて 一日中ふたりで 寝ころんで」レコードと話し続けることのできるくらい熱烈な山口百恵ファンで、引退に際して、山口百恵に向けてつくった返歌として考えることもできるような気がしています。(笑)
(学校でディベート大会があって、故人へのはなむけ派/百恵ファン派に分かれて議論しなさいと言われたら圧倒的に前者を選ぶと思います…)

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*1:え!東京飛行ってもう10年前の作品なの??

*2:どう考えてもこの部分は「旅だったね」ではなく「旅立ったね」ですよね。歌詞カードの表記ミスのように思います。

*3:「生来の昭和歌謡曲的な日本人独特の感性による情緒感がエッセンスとして滲み出て」おり、「歌謡曲とソウルとの親和性を日本人らしいオリジナリティに昇華」していることこそが田島貴男の強みだ、と説く方もいます。→オトトイ岡本貴之さんのレビュー記事http://ototoy.jp/feature/20150610001