Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

なぜ「少女は卒業しない」のか〜朝井リョウ『少女は卒業しない』

今日、わたしはさよならする。
図書室の先生と。退学してしまった幼馴染と。生徒会の先輩と。部内公認で付き合ってるアイツと。放課後の音楽室と。ただひと り心許せる友達と。そして、ずっと抱えてきたこの想いと―。
廃校が決まった地方の高校、最後の卒業式。少女たちが迎える、7つの別れと旅立ちの物語。恋 愛、友情、将来の夢、後悔、成長、希望―。青春のすべてを詰め込んだ、珠玉の連作短編集。

先日のビブリオバトルで紹介されて、ずっと読みたかった朝井リョウのとっかかりに読んでみた。
最初に書くと、自分は、これほどドラマチックに中学や高校の卒業式を迎えられなかった。いや、自分が忘れっぽい性格というか前向きなのか、新生活の方にばかり目が向いていたような気がする。
しかし、大人になり、40も過ぎると、あのときの卒業式が、彼に会った最後だったなということも増えてくるし、「別れ」にもっと真摯に向き合っておけば良かったような気がしてくる。
色々なことを考える7編の連作短編だった。


最初の「エンドロールが始まる」は、ピンと来なかった。
「作田さん、返却期限、また過ぎてますね。」
図書室でいつもやさしく語りかけてくれる先生に、思いを伝えられないままに来てしまった卒業式当日の朝の作田さん。
ふたりっきりの図書室での会話シーンは、自分はむしろ「先生」側に身を置いて本を読んでいるから、作田さんの回り道がもどかしく、一方で、作田さんの「清純な女子高生」ぶりが鼻についてしまった。
もしかして、この本は、朝井リョウの理想的な女性像をつらつらと並べた短編集?と否定的に捉えてしまったのだった。


その思い込みは、2編目の「屋上は青」でも払拭されない。
立ち入り禁止の東棟の屋上での幼馴染二人の会話で物語は進む。卒業式がそろそろ始まる。
作田さんに続き、この短編の主人公・孝子も、長編小説だと主人公にはならない真面目なタイプで、何だか、やっぱり朝井リョウの好みなのでは?という疑念(笑)が残る。
しかし、中盤以降、読み方が変わった。
高校を中退し、芸能活動の道を進み始めている幼馴染の尚輝。彼に対する優等生の孝子の心情を読む中で、登場人物たちが迷い、決断し、なお迷っていることが伝わってくる。卒業式というイベントを辿りながら、そこに参加する全ての生徒の心の揺れを丁寧に拾おうとした小説だということが分かってきた。

自分が高校を卒業してしまうとか、クラスのみんなとばらばらになってしまうとか、この校舎が取り壊されてしまうとか、そんなことどうでもよかった。ただ、これから高校生とは呼ばれない時間を生きていくことになる私たちの道のりは、きっともう本当に、二度と交わることはない。
私はこの春から、地元の国立大学に通う。英語教師が、自分の本当の夢なのかもわからないままに、進学する。だけどそれはきっと正しい。少なくとも、間違ってはいない。私にとって、それが一番幸せなことなんだ。p70

だけどそれはきっと正しい〜以降の自分自身に言い聞かせるような台詞がグッとくる。


小説全体の意図が何となくわかってきたところで、続く「在校生代表」からは集中して読めた。少なくとも、この「少女」は朝井リョウの好みなのでは?などという邪念は浮かばなかった。(笑)
この「在校生代表」は全編が送辞。
女子バスケット部の2年生のエースで生徒会にも属する亜弓が3年生に向けて檀上で読み上げた言葉、それがそのまま短編となっている。
特定の個人に向けて思いを伝える送辞というのが可能なのか、許されるのかどうかは別として、この送辞の中で、この高校での様々な行事と主要人物を知ることができ、その後の「卒業ライブ」の位置づけも分かるという意味で、7編の核となる短編。


次の「寺田の足の甲はキャベツ」は、卒業式終了後の話。
「在校生代表」の流れで素直に読める女子バスケ部3年が主人公で、男女ともにバスケ部のカップルの話。全編を通して、一番共感しにくいのだが、2人のいかにも高校生らしい悪ふざけ(男子高出身の自分には計り知れない悪ふざけ)に、高校生(共学に通う高校生)は一番共感するかもしれない。
全編を通してではあるが、この話での主人公の「女子高生ぶり」は見事で、その女子高生らしい情景描写と比喩は、綿矢りさか!と突っ込みたくなるほど。箸が転んでもおかしい、という言い方があるが、女子高生フィルタ、卒業式フィルタを通して見ると、桜もこう見えるのか、と納得の表現はこちら。

校門が見えた。高校生の終わりをぎりぎりまで引っ張るように、あたしはチャリをこぐ。こぐ、こぐ。肩甲骨の浮いた寺田の背中を見ながら、自分の背中にくっついている三月をぐん、ぐん、ぐんと引っ張る。同じ春でも、三月と四月は色が違う。着ている服が違う、聴いてる曲が違う、髪の色が違う。三月の春は、まだ少し薄いピンク。空気がなんだかそんな感じだ。四月は知らない。まだわからない。三月と四月をかき混ぜたい。春は春。ひとつの春。だけど今年は違う。三月と四月。p115


「四拍子をもう一度」は、「在校生代表」で予告されていた卒業ライブの話。
卒業式のあとに体育館で行われる卒業ライブは伝統ある恒例行事だ。今年のトリは校内で一番人気のビジュアル系バンド。その衣装やメイク道具が出番直前になって紛失してしまった。誰が道具を隠したのか?というミステリ的な短篇になっている。
ギャグ的要素もあり、笑えるところも多い短編ながら、最後はなかなか読ませる話に収斂していく。構成がうまい。


「ふたりの背景」は、卒業ライブの行なわれている体育館に行かずに美術室に来た美術部の二人の話。
主人公のあすかは、父の転勤で卒業後はアメリカへ。正道くんは、地元のパン屋に就職が決まっている。
この短編の特徴は、正道くんが、いわゆる特別支援級の生徒であるという点。人によってはあざといと言われかねない設定だが、あすかが1年生の途中から編入してきた帰国子女であることも含めて、同じ高校三年生といっても、さまざまな高校三年間があったということを浮き彫りにしているという意味で、「在校生代表」と同様、短編集の骨格を作る一編だと思う。
体育館から流れてくるビートルズの"The long and winding road”を聴きながら、絶対に会いに来る!と言い切るあすかの言葉が美しい。


ラストの「夜明けの中心」は、卒業式を終え、明日から取り壊しが始まる校舎に忍び込んだ男女2人の話。2人はつきあっていないどころか、忍び込むことを示し合わせてもいない。2人に行動を起こさせたのは、ここにいない3人目の存在だった。
今日、卒業する皆は持っていて、その「3人目」には無いもの、それは未来。
卒業式を待たずに突然起きる別れもある。後悔ばかりが募る別れがある。しかし、明けない夜はない、という言葉の通り、2人のいるその場所から夜が明けていく。


全編を読み終え、改めて『少女は卒業しない』というタイトルの意味を考える。
孝子が言う通り、「これから高校生とは呼ばれない時間を生きていくことになる私たちの道のりは、きっともう本当に、二度と交わることはない。」
卒業式当日は、作中で描かれている通り、校内に様々な別れが集中する特別な日だ。
その日、少女は卒業する。
それは紛れもない事実だ。
しかし、高校3年間は、その後交わることがほとんどない友だちとの日々は、自分の中にずっと残る。
月日が経てば見かけも変わり、人はどんどん大人になっていくだろう。でも、それほど変わらない部分が、心の中には沢山ある。勿論、個人個人の思い出も残って行く。卒業式の日に、7人の少女たちが経験したことも、大人になっても心に残っていくだろう。
大学デビューや、社会人デビューなどという言葉があるが、卒業というイベントがあったからと言って人はそれほど変わらない。今までの経験と、そこで培った知恵や情熱や後悔を糧にして、新たな場所でやっていくしかない。別に卒業するからと言って、変わらなくてはいけないわけではない。環境は変わっても、人間自身は変わらない。*1
卒業直後の4月の春をまだ知らないかもしれない。でも一年前の4月の春は、3月の春とほとんど変わらなかったことを、本当は知っている。
少女は少女を卒業しない、少年は少年を卒業しない。中身は変わらないけれども、今まで頑張った自分に自信を持って新しい場所でやっていけばいい。
そういう前向きなメッセージだと受け取った。


大人が読んでも楽しめるが、中高生、そして大学生が読むと、もっと色々と考えられるので、特に若い人にオススメの小説です。

蛇足

自分はこの本を単行本で読んだんだけど、文庫版とはほとんど構図が同じで違う女の子が表紙に上がっているように見える。何でだろう。
何はともあれ、作品世界にマッチした素晴らしい表紙です。
少女は卒業しない (集英社文庫)少女は卒業しない

参考(過去日記)

上に書いた「寺田の足の甲はキャベツ」の感想中で書いた「綿矢りさか!」というツッコミは、自分の中では最上級の褒め言葉です。
多分、「寺田の足の甲はキャベツ」は綿矢りさオマージュだと思います。多分。

桐島、部活やめるってよ』は、まだ読んでいないのですが、映画を見たので、そこで扱われているテーマについて、新書の感想と合わせて書いています。
自分の書いた文章の中では、結構上位に入る好きな文章です。

*1:「一生、30代、いらない」コーナーに突っ込んだスターはまだ今 実際まだ10代 そうじゃん ギターなんてモウレツさ…と歌った岡村靖幸は、今年50になったけど、まだ10代です。ファンはみんな知ってる。