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好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

自分のオススメは、漫画→映画→漫画の順〜こうの史代『この世界の片隅に』

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

今回、各所からの絶賛評を知り、気になり過ぎて仕事も手につかないので、封切から一週間経つ前に見に行きました。
しかし、今年観た『ズートピア』『シン・ゴジラ』『君の名は。』とは異なり、この映画の感想は「大絶賛!」ではありませんでした。
そこの微妙なニュアンスについて書きたいと思います。

漫画の感想

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

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そもそも原作漫画が以前から気になっていたことから、事前に漫画も読んでおきました。
kindleで1巻だけは購入済みだったので、kindleで揃えました)
読後の感想は以下のようなものです。

確かに戦時中の生活を描いた作品として、説教臭くないし、主人公のすずも可愛らしい。
笑えるシーンも多数あり、心が苦しくなるようなシーンもある。
ただ、この漫画がどうして傑作と絶賛されるアニメ映画になるのだろう。
見せ方を大きく変えたりしているのかな。

ドラマチックな展開や躍動感あふれる登場人物、意外なラストなどの、エンタメ的な要素は少なく、流行するにしては地味ではないか、という程度の、やや体温低めの感想を、このときは持ったのでした。

映画の感想

そして、11/16、水曜日のサービスデーということもあり、立ち見が多数出る中、テアトル新宿で映画を観てきました。
映画を観た直後の感想は、次の通りです。

ストーリーは原作漫画のまま。演出も大きく改変しているところはない。
漫画よりも格段にわかりやすくなっているところもあり、呉という街に行ってみたくなった。そして勿論広島にも。
でも、そこまで絶賛する映画なんだろうか。
君の名は。』のような、見終わったあと、誰かと喋りたくて仕方ない、という感じが全くしない…。

むしろ事前の絶賛評が悪さして、「なぜ?の嵐」が渦巻いていました。
周囲を見渡すと、同様にポカンとしている人が多かったように思います。
シン・ゴジラ』『君の名は。』のように、「絶賛評を聞いて観に行ったらやっぱり良かった」という人が多数出るタイプの映画ではないと感じました。

漫画の感想2

しかし、そのあと改めて原作漫画を見直すと、自分の感想は全く違ったものになりました。

この映画が傑作だという評価はとても理解できる!。
ただし、映画単体としてではなく、原作漫画と相互に補完し合うものとして。

ということで、漫画を再読することで、映画・漫画双方の評価が大きく上がるものとなりました。
以下、何故自分がそう感じたかについて考えていきます。

読んでから観るか、観てから読むか

「映画と漫画で相互に補完し合う」、というのは、つまり、アニメ、漫画、それぞれに得意な表現ジャンルがあって、同じ舞台設定、同じ登場人物、同じストーリーでも、それぞれ受け手の心への響き方が異なるという当たり前のことを意味します。
実際には受け手の能力や感受性が大きく影響するため、原作漫画で最初から9割がたを受け取れる人もいれば、原作漫画1回目では20%だったけど、10回読んで80%という人もいるでしょうし、原作漫画は読まずともアニメ3回で80%など、人それぞれだと思います。
自分の場合は、原作漫画1回目で40%、原作漫画+アニメで60%、原作漫画+アニメ+原作漫画で80%という感じです。


こういう作品は、読んでから観るか、観てから読むかという話題がよく出ますが、このような自分の体験と、以下に示すような映画・漫画の特性から考えて、原作漫画を読んでから映画を観ること、その後さらに原作漫画を読み直すことをオススメします。


以下ネタバレ


映画の良かったところ(1)空間表現

『バッテリー』の小説とアニメの比較からも感じだことですが、アニメが(漫画や小説と比べて)得意にしていることで、自分が一番強く感じるのは、空間表現です。
君の名は。』でも『ポニョ』でも、自分は、眺めの良い風景や坂道に惹かれていましたが、『この世界の片隅に』もそうでした。特に今回は、オープニングからしばらく続く、広島の街を俯瞰から映すシーンで、ブラタモリを思い出しました。
ブラタモリという番組は、段差や坂道など常に地図要素の3次元的な広がりに注目しますが、広島市を取り上げた回の前半では、原爆ドームの以前の姿や、船着き場の多い広島中心部について、河川舟運という低い視点から扱っていました。映画を観ながら、この場所は…などと思い出していましたが、アニメーション映画は特に、そういった「ブラタモリ的視点」を大切にして「絵」を作っているんじゃないかと想像します。


さて、映画は、視点の連続的移動があるから、観ている側の空間認識が容易なのだと思います。それによって、呉や広島の空間的イメージが印象に強く残りましたが、それ以外にも、空間表現がストーリーの分かりやすさに直結している部分がありました。具体的には、晴美ちゃんを連れたすずが、「時限爆弾」に巻き込まれてしまうシーン。
漫画では、この爆発シーンが少しわかりにくかったのですが、映画では、爆弾自体は見せずに、二人が歩く道から一段下がったところの窪みを見せることで、爆発前に「これはやばい」感がしっかり伝わるような作りになっています。
(原作漫画は、良くも悪くも最小限の表現にとどめてあるので、一度目は状況を把握しづらいことが多いと思います。)

映画の良かったところ(2)色

次に、「色」の表現も、原作漫画と比べて、今回の映画の良かったところです。
原作漫画は、最後の最後で、「色」を用いた鮮やかな演出がありますが、基本的には白黒です。
やはりそのことでわかりにくいシーンがありましたが、映画で見ると一目瞭然です。
まずは、すずが周平の勤め先まで帳面を届けに行くシーン。
ここは、すずが滅多にしない化粧で顔を真っ白にして行くという場面になりますが、原作漫画では(白黒漫画では化粧をしているしていないの区別がないため)その面白さが伝わりにくいのです。
そして、8月6日の「ピカッ!」のシーンも、やはり、漫画では何が起きたのかが全く分かりません(それが作者の意図通りなのは理解しますが)が、アニメでは非常に分かりやすくなっていました。
勿論、それ以外の、空襲のシーンで、すずが空をキャンパスに絵を描いてしまうシーンなど、独特の戦争表現、でありながら、すずの感性にマッチしたシーンも、映画でとても成功していた部分だと思います。

映画の良かったところ(3)蘊蓄が話を止めない

また、原作漫画は、戦時中の生活蘊蓄漫画としての側面がありますが、ここはストーリーをたどりにくくしている弊害もあると思います。結論を言えば、この漫画は、何度も読み直す、というのが正しい読み方なので、一度目は読み飛ばせばいいのですが…。
映画の中で、楠木正成が作ったと言われる「楠公飯」という節「米」料理のシーンは、テンポも良く、ストーリーの邪魔をしないだけでなく、わかりやすくてオチも楽しく、大好きなシーンとなりました。(原作漫画でもほとんど同じ説明が入っているのですが、スルーしてました。)
それ以外も、蘊蓄を最小限にしたことによって、話にスムーズに入っていきやすくなっていました。

映画の良かったところ(4)時間経過

時間経過問題については、『君の名は。』でも書きましたが、映画では、演出が良いと非常に効果的に時間経過を示すことができます。
そもそも、原作漫画でも、時間が飛ぶたびに「19年3月」だとか「20年1月」だとか、年と月が示されます。観ている側には「20年8月」が、広島にとって、日本にとってどういう月なのかが分かっているので、それに近づくことで、心を揺さぶられる工夫が凝らされており、映画でもそれに倣っています。
映画で良かったのは、昭和20年に入ってから呉で毎日のように続く空爆について、繰り返されるサイレンと、警報発令を示す帳面が映し出されることで表現していたことです。
これによって、繰り返されるサイレンの音や、防空壕への避難行動が、そこに住む人たちの気力を削いでいったことが分かりました。それによって、すずが呉から広島に帰る決心をする心情も伝わってきました。

映画の良かったところ(5)声

本当は一番最初に挙げるべき内容ですが、やはり「声」は大きいと感じました。
すずは、漫画でも十分魅力的で実在感のある主人公ですが、のん(能年玲奈)が声を当てることで、その魅力、その実在感がアップしていました。
勿論、方言という要因もあるのかもしれませんが、あれだけ「ありゃー」が魅力的に言える人はそうはいないと思います。
そして、怒るシーンもとても上手で、さすが!と驚きました。


映画で残念だったところ=ストーリーの省略

3冊ではありますが、非常に密度の濃い原作漫画を、よくも130分しかない映画に上手くまとめることができたな、と思います。
しかし、それでも、映画で省略してしまったいくつかの原作漫画エピソードは、漫画を読まずに映画を観に来た観客には、やや不親切だったのではないかと感じました。


この作品で、すずという主人公が魅力的に思えるのは、その笑顔だけが理由ではありません。
すずの嫉妬・迷い・怒りがとても人間的だからで、それこそ初恋相手の水原の言うとおりです。

あーあー普通じゃのう
当たり前の事で怒って
当たり前の事で謝りよる
すず お前は ほんまに普通の人じゃ
(中:p87)


そういったすずの嫉妬と憧れの対象だったのが、物語の大きな柱のひとつであるリンさん(白木リン)なのですが、映画では、遊郭での出会いのシーンこそ描いていますが、最も重要なシーンを丸々省いています。
すずがリンさんに二度目に会うのは、妊娠かもしれないと勘違いしたリンが婦人科に行った直後のシーンです。映画では、ここでのやり取りがなく、婦人科からしょんぼり帰ってくるすずだけを見せて、妊娠していなかったことを表現していますが、そもそも、このシーンは少し分かりにくかったかと思います。
そして、映画で省略したやり取りの中で、物語の核となるような台詞が出てきます。
子どもを産むということについて、「出来の良いアトトリを残すのがヨメのギム」と主張するすずに対して、リンさんはこう諭します。

子供でも売られてもそれなりに生きとる
誰でも何かが足らんくらいで
この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ
すずさん
(中:p41)

この物語は、「居場所」について、すずが悩む物語と言えるし、タイトルも居場所としての「世界の片隅」を意識したものでしょう。(直接的には、下巻p140ですずが周作に喋るセリフに現れるが。)
その意味で、ここでのリンさんの言葉は、すずの心の深い部分に届いた大きなもの*1であるだけでなく、作者が読者に向けたメッセージだと思います。
こういったリンさんの言葉があったからこそ、終戦後の焼け野原で、すずは、リンさんに似た人を探すことになるのですが、映画では、リンさんを探すシーンだけ残しているので、初めて観る人にとっては「リンさんって誰だっけ?」「何か重要なことがあったっけ?」と迷う要因になると思います。


病院の前でのリンさんとの会話シーンに戻りますが、ここで、読み書きの不得意なリンさんが「ええお客さんが書いてくれんさった」と差し出した、自分の住所・名前の入ったメモ書きのエピソードも重要です。あとになって、これが実は周作の帳面を破ったものだと分かり、そこで、すずにとって、リンさんは「憧れ」だけでなく「嫉妬」の対象にもなるのです。
映画は、このエピソードを丸ごとカットしていますが、周作に帳面を届けるシーンで、「破り跡」を見せつけるような作りになっているのも不思議です。
すずがリンさんを探すシーンと合わせて、観ている人が原作漫画を読んでいることを前提としているように見えます。
エンディング映像でも、すずさんがフィーチャーされていますが、これも漫画を読んでいない人にとってはチンプンカンプンでしょう。
自分が、映画より漫画を先に、と考えるのはそういう理由からです。


また、原作漫画は、遊郭で働くリンさんが比較的頻繁に登場することもあり、「性」の要素が映画よりも多めです。また、「子供ができる/できない」ということについても。
映画でもありましたが、幼なじみの水原が、「北條」姓となったすずのもとを訪れるシーンは、とても印象的なシーンでした。
ここで、すずは水原が好きだったという本心を話し、でも水原を拒否する。すずのことをとても人間っぽいと感じるという意味で、ベストのシーンかもしれません。
さて、この件について、あとで、周作と口喧嘩をすることになるのですが、そこで、すずはこう言います。

でも周作さん
夫婦いうてこんなもんですか?
…うちに子供が出来んけえ
ええとでも思うたんですか?
(中:p106)

映画では「うちに子供が出来んけえ ええとでも思うたんですか?」は言っておらず、そのことで少しニュアンスが変わってきます。
原作漫画では、子供が出来る、出来ないという話は、代用食について取り上げられた回でも出てきます。

周作:すずさん もしかして子供が出来んのを気にしとんか?
すず:…そんなんじゃないです 代用品のこと考えすぎて疲れただけ
(中:p66)

少し前に、周作がリンさんの客だったことを知ったすずは、自分が、リンさんの「代用品」なのではないか、と考えてしまうのです。
このように見てみると、「性」を意識させるリンさんの登場場面を減らし、「子供が出来る/出来ない」の話を省略した映画の意図は、時間的制約、という以上に、小学生くらいにも安心して見てもらえる映画にしたかったということなのでしょう。
ただ、そのことで、原作漫画が持つ、昏い感じが削ぎ落されてしまったように思います。


リンさんの台詞で、もう一つ好きなのは桜の樹の上で二人が話すシーンにあります。

ねえすずさん
人が死んだら記憶も消えて無うなる
秘密は無かったことになる
それはそれでゼイタクな事かも知れんよ
自分専用のお茶碗と同じくらいにね
(中:p136)

リンさんは、死ぬまで秘密を抱えるというのもゼイタクなのだから、秘密を抱えたからって悩むな、と言いたかったのだと思います。
結局、すずは、リンさんのことを周作に話してしまうことになるのですが、それも、すずさんらしくていいと思います。
つまり、リンさんがいることで、すずの人間的魅力がまた際立って映るのです。

最後に

映画にも当然出てくるシーンですが、晴美ちゃんを亡くして以降の、懐疑的なすず、そして玉音放送を聞いたときの、怒りを爆発させるすずが、ある意味では作品のクライマックスだと思います。
特に玉音放送については、捉え方が家族でもさまざまで、戦争や終戦というのは、歴史的事実でありながら、結局は、個人の体験の集積なのだな、ということを改めて知りました。
自分は、今まで、戦争を題材にした作品は避けてきましたが、人々の暮らしに着目しながら読んだり観たりすることで、今まで気が付かなかったことが分かるようになるんじゃないかと思いました。

他の方の『この世界の片隅に』評

→「生きることは食べること」「物語の力」という二点に絞って映画の魅力を伝えるさすがの文章です。戦時中の工夫に加え、いつもみんなで食べるところが、この映画の登場人物が幸せに見える理由なんだろうと思いました。

*1:晴美ちゃんを亡くしたあと、すずは、リンさんの言葉に疑問を呈して見せます。下:p42