Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

『ラ・ラ・ランド』×藤子・F・不二雄「分岐点」×小沢健二「流動体について」


まずは『ラ・ラ・ランド』の初見感想。(ネタバレありです。要注意)
元々、3月末の平日に時間を取れるチャンスがあり、韓国映画(『お嬢さん』『アシュラ』のどちらか)を観ようと決めていたのだが、結局上映時間の関係で、他の作品を観ることに。そのときに選んだのがアカデミー賞6部門受賞の『ラ・ラ・ランド』。事前情報として、ラストにちょっとした展開がある、ということは知っていたが、予告編の印象から、「夢をかなえる楽しい映画」と思っていた。
実際、オープニングの高速道路のシーンから駐車場でのミュージカルシーンまでの流れ、つまりは二人が惹かれ合って付き合う直前までは、とてもドキドキしたし、純粋に楽しんで見ることが出来た。
特に、ミア(エマ・ストーン)の表情の変化や身振り手振りが、「美人」っぽくなくて、好感を持てた。また、色違いのドレスを着た4人が路上を闊歩するシーンなど、鮮やかな映像が連続して、飽きることが無かった。
勿論、セブ(ライアン・ゴズリング)もカッコよかったし、特に、ピアノ演奏のシーンには惚れ惚れした。(本作のために猛特訓したとのこと)


ただ、付き合って以降は、ミアにどんどん共感しづらくなる。特に二つのシーン。
ひとつは、古いタイプのジャズに固執するのをやめてバンド活動で成功したセブのライブをミアが観に行くシーン。喝采を浴びるセブに対して、熱狂する観客の中でミアは一人だけ浮かない顔。まず、ここに共感できなかった。
ストーリー上の意味は分かる。「これがあなた(セブ)のやりたかったことなの?」ということだ。
しかし、夢を追い続けても方針を軌道修正することもあるし、音楽性が変化することもある、遠回りして元々の夢をかなえるというやり方もある。そもそもセブに出会うまでは全くジャズが分からなかった彼女が、逆に、古いタイプのジャズにこだわり続ける、というのは、とても柔軟性が無いように思ってしまった。他人を自分から見た「型」にはめて説教する、というのも嫌いなやり方だ。


もうひとつは、ひとり芝居の舞台の話。
あれほど準備を重ねてきたのに、実際に来た客は友達を入れて数名、という厳しい状況。
さらにセブが来られなかったことで、ミアは夢を一旦諦めることになる、というシーンだが、普通に考えれば、3割くらいは埋まるように、友人・知人を招待したり、事前にチケットを販売したりするものなのではないか?(狭い会場なので、事前の頑張りで半分は埋まっていてもおかしくないとさえ思った。)
そういった事前努力が見られず、当日になって初めて客の少なさに泣く、というのでは、「努力不足」「自信過剰」と言いたくなる。泣いている彼女を慰めてくれる友達もいないし、単に孤独な人という印象が強まった。
にもかかわらず、そのあと大スターになるまでがトントン拍子なのも、何だかな〜、と感じてしまった。


また、熱愛中のシーンでも、空飛んじゃったりするやつは、とても「ロマンティックだな」と思っては見られない。ミュージカルならでは、なのかもしれないが、ミアやセブの人間臭さが勝ってしまい、駐車場でのダンスシーンくらいまでが、自分の中で、ミュージカルとして「あり」の境界線なのかもしれない。


そんな中で訪れる「問題の」ラスト10分。
ここには本当に引き込まれた。
結局、ミアは成功したけど、二人は一緒にならなかったんだ…という溜息の出るような現実世界の「その後」を見せられたあとで、運命的な再会を果たすミアとセブ。そこで一転して、映画本編のストーリーをそのまま延長したような「if」の世界が描かれる。
そして最後に改めて「現実」に戻り、セブとは言葉を交わさず、しかし、それぞれの「現実」を肯定するように頷く。

「分岐点」

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (2)

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (2)

ラ・ラ・ランド』の関連作品として、この短編集に収録されている「分岐点」を挙げる人がいたので、読んでみた。
藤子・F・不二雄大全集の「SF・異色短編」は1970〜80年代に「ビッグコミック系」「SFマガジン」「別冊問題小説」「漫画アクション」など大人向けの雑誌に連載されていた短編を集めたもので、大判で全4巻。「分岐点」が収録されているのは2巻になる。
面白いのは「分岐点」だけでなく、「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」という2作品も、人生を左右する過去の重大な選択について振り返り、もう一度やり直せるチャンスを得たらどうするのか?という共通したテーマを持っていること。「分岐点」だけでなく、『ラ・ラ・ランド』に似た展開となる作品が3つもあることになる。
また、未来から現代に来て、ふしぎなカメラを売り歩く「ヨドバ氏」が登場する一連のシリーズも含めて、F先生の「少し不思議」視点の法則が垣間見られるセレクションになっている。
つまり、この短編集で描かれる「少し不思議」は、「視点を変えることで初めて見えてくる価値」にフォーカスすることで生まれてくる。
例えば、自分にとってのその人の重みを数値で表示する「値ぶみカメラ」、体が入れ替わることで、父と子がそれぞれの抱える悩みやお互いの信頼感に気が付く「親子とりかえばや」、街をカメラに写してミニチュアを製造する中で、風景となっていたその家に暮らす人の悩みに気が付く「ミニチュア製造カメラ」など。
勿論、「分岐点」「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」の3作品も、それぞれ別の形で、道半ばまで生きてきたこれまでの人生を肯定するような話となっている。

ラ・ラ・ランド』×「分岐点」

という風に、ここまで考えてくると、設定の似ている「分岐点」と『ラ・ラ・ランド』は、実は似ていない、ということ気が付く。
「分岐点」は、結婚相手が違う相手だったら今の生活はどうなっていたか?というシミュレーションをした上で、現実と仮想が入れ替わってしまう不思議な余韻を残す話だが、やはり、底にあるのは「視点を変えて考えてみる」という部分だろう。基本的にSFは仮想世界でのシミュレーションなのだ。
ラ・ラ・ランド』のラスト10分は、シミュレーションではない。
ほんの一瞬で「思い出してしまう」、そこに、あのクライマックスでの感情の盛り上がりがあるのだと思う。
そう、シミュレーションではなく、「思い出している」のだと思う。二人でいた頃に夢見た生活を。それこそ走馬燈のように。
そして、そこに「音楽」があるから、あの一瞬の盛り上がりが、観客にとっても、とても納得のいくものになっている。
「音楽」は、生活を、人生を、真空パックする力を持つ。
前半部の何だかしっくりこない部分もチャラにしてしまうほどの破壊力をラスト10分が持っているのは、『ラ・ラ・ランド』という映画の軸にある「音楽」の力を遺憾なく発揮できているからだと思う。
かくいう自分も、映画を観た後の「何だかな〜」という気持ちは、予告編映像を見直して、さまざまな楽曲を聴いていたら雲散霧消した。今は、すぐにでも見直したい気持ちだ。

ラ・ラ・ランド』×「分岐点」×「流動体について」

流動体について

流動体について

さて、3月に発売された小沢健二の楽曲「流動体について」にはこのような歌詞がある。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕は
どこらへんで暮らしているのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の毎日
子供たちも違う子たちか?
ほの甘いカルピスの味が現状を問いかける


「子供たちも違う子たちか?」の部分などは、まさに「分岐点」の内容で、地下鉄の地図を広げて眺める様子は、まさに、仮想の生活を「シミュレーション」するものだ。
一方で、楽曲を聴くときの歌詞は、実際には、音楽よりも後ろにあると思う。つまりメロディーやアレンジに比べれば歌詞は二の次。
「流動体について」を聴くと、そのストリングスアレンジから「僕らが旅に出る理由」(同じ服部隆之が担当)を、そして「僕らが旅に出る理由」を聴いていた頃のことを思い出してしまうんじゃないかと思う。
…とすると、ストーリーに入り込む以前の段階で、聴く側に20年以上も前のことを走馬燈のように思い起こさせる「流動体について」は、『ラ・ラ・ランド』的でもあると思う。


ラ・ラ・ランド』、「分岐点」、「流動体について」は、アプローチは異なるが、共通するテーマがある。
特に『ラ・ラ・ランド』は6部門でアカデミー賞を取るような作品だから、勿論、誰が見ても面白い映画だけど、その良さを存分に味わうには、ある程度の年齢が必要だと思う。それは、年齢を重ねているという以上に、未来のことを思ったり、過去を振り返ったり、そして現在を楽しく生きる、その頻度と強度によるのだろう。
つまり漫然と日々を過ごしてしまうのではなく、音楽や映画の力を借りながら、タラレバを繰り返し、何度もためらい線の下書きを描きながらも、今を楽しく生きる。
それこそが人生じゃないか!
…ということが『ラ・ラ・ランド』全体のメッセージなんじゃないかと思った。
また観に行きたいです。