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真相と感想、不倫と不憫〜桐野夏生『柔らかな頬』

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 下 (文春文庫)

柔らかな頬 下 (文春文庫)

『柔らかな頬』は、桐野作品の凄みを、端的に示した、代表作である。幼児失踪という事件にたいして、行方の解明という明快なカタルシスを拒否して、そこから巻き起こる波紋の綾を克明に、容赦なく描いていく。結末にいたった読者は、たちつくすとともに、自らの胸の奥を、深く、深く、覗き込まずにはいられないだろう。

福田和也の巻末解説で書かれるように、この小説には明快なカタルシスがない。
上巻の出だしこそ、主人公の家出や不倫など登場人物同士の人間関係にも触れられ、何らかの「真相」解明の材料は揃っている。しかし、実際に5歳の娘がいなくなり、癌に侵された元刑事・内海が登場してから、物語の向かう方向がわからなくなる。
内海は、事件の真相を求めない。証拠や証言を捜査しない。関係者からひたすら「感想」を求めるのだ。
謎の失踪事件でぽっかりと空いた穴を、母親である主人公は勿論、関係者皆が「何らかの解釈」をして埋めようとする。それが「感想」なのだが、「ありえたかもしれない可能性」というより、それぞれが死ぬ間際に見る「走馬燈」に近い。
この小説の中では、下巻に入ってから、別荘のオーナーである和泉正義が有香を殺したパターン(p95〜)、 カスミの母親 が有香を誘拐したパターン(p188〜)、駐在所に勤める脇田が殺したパターン(p254〜)、そして、有香から見た事件(P278 〜)が語られる。
それらはどれも当事者自身の目から語られるため、真に迫り、まさに真実のように語られるが、実際の出来事と乖離があり、それぞれに嘘っぽさが散りばめられている。
幾つかのパターンの「感想」を見る中で、誰もが真相を求めているのではなく、「解釈」を探したがっていることを知る。それが最後まで続いて終わらないところに、この物語の救いのなさがある。


もう一つ繰り返し語られるキーワードは「捨てる」ということ。
主人公カスミは、高校生の時に故郷を捨てて東京に出てきたが、石山との不倫は、そのときと同様に「脱出」、つまり慣れ親しんだ世界を「捨てること」を意味していた。特に「子を捨てること」が大きな意味を持つ。

すでに破滅は見えていた。破滅から二人だけの新しい世界を作ることができるのだろうか。しかし、ほんの刹那でも、この湿った暗い部屋は確かに二人だけの新しい世界ではある。石山がカスミの中に入ってきた時、カスミは高い声を上げ、石山とこのまま生きていけるなら子供を捨ててもいいとまで思ったのだった。(上p103〜)

有香の失踪する前日の深夜の出来事であり、カスミは、ここで「子供を捨ててもいい」と思ったことを失踪と結びつけて考え、何度も繰り返して振り返ることになる。
一番辛い想像は、有香が、まさにこの逢瀬をドアの向こう側で知っていたというもので、小説のラストに描かれる。

お母さんと石山のおじちゃんがいる。
瞬時にして、有香は悟った。二人は今、絶対に見てはいけないことをしている。それもなぜかわかった。母親が今そこで思っていることがドアを隔てて有香に伝わってきた。
お母さんは今こう思っているのだ。石山のおじちゃんのために自分たち子供を捨ててもいい、と。(p284)

そして、さらに、カスミは「子捨て」を繰り返す。失踪から4年が過ぎて訪れた北海道で、もう東京に戻らず、有香を探して生きていけばいいのではないか、と思い立つのだ。
有香の妹である梨紗、彼女の立場を考えると不憫としかいいようがない。
姉妹でありながら、親からの愛情に明らかに差がある、だけでなく、母親がより愛情を注ぐ相手が、今はいなくなってしまった人であるということはとても辛い。

浅沼に「因果は巡る」と言われたことを思い出す。両親は浜の食堂でカツ丼やらラーメンやらを作りながら、家出した一人娘を今の自分のように探し回ったのだろうか。親を捨て、自分の裏切りがもとで子を見失い、更にもう一人の子供と夫を捨てようとする身勝手極まりない女。それが本来の姿だった。自分が自分であろうとすることは、このように周囲の人間を悲しませ続ける。(上p273)


あげくの果てのカノン』における「不倫」は「恋愛」とニアリーイコールだったが、『柔らかな頬』における「不倫」は、「脱出」であり「逃避」である。今いる場所から抜け出すこと、今いる家族を捨てることが「不倫」なのだ。
かのんも確かに両親と弟を悲しませるし、境先輩も初穂を悲しませるが、そこに子供がいるかどうかは大きい。
しかも有香は、カスミの生き写しで、いわば自身の分身のような存在。
失踪事件がなかったとしても「石山との生活のためなら、子を捨ててもいい」と思った事実は変わらない。それを罰するカスミの気持ち・後悔でこの物語は貫かれている。


最初に書いたように、この物語にはオチがない。
登場人物も、ある時期のカスミにとって非常に重要な人物だが、すぐに物語から姿を消してしまう占い師・緒方先生など、掴みどころがない。
一方で、カスミも石山も内海も、子細なところまで書き込まれていて、物語の力というより、登場人物たちの魅力・人間臭さ(ここまで特に書かなかったが、ヒモになることで自由を得る石山というキャラクターも相当に面白い)で最後まで読ませる小説となっている。
過去の日記をよんでみると、これまでに読んだ桐野夏生の小説にも共通するようだ。


ただし、これまで読んだものに含まれない要素として、舞台である北海道の持つ引力のようなものがあるように感じる。上手く言えないが、桜庭一樹直木賞『私の男』やBL漫画『コオリオニ』は、いずれも北海道の持つ暗い一面・不吉な雰囲気が強く出た物語になっており、『柔らかな頬』もそれに連なる作品と言える。
直木賞を受賞している理由も、単にストーリーや人物造形だけでなく、舞台も含めた全体的な雰囲気が評価されているのかもしれないと思った。

参考(過去日記)

芥川賞直木賞etc の中で読書感想を書いた本をリストアップ。受賞作一覧のページにある選評を読むと、118回で候補作となった前作「OUT」の方が良かったとの声も多い。