Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

男は読んで考えるべき~姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

私は東大生の将来をダメにした勘違い女なの?
深夜のマンションで起こった東大生5人による強制わいせつ事件。非難されたのはなぜか被害者の女子大生だった。
現実に起こった事件に着想を得た衝撃の書き下ろし「非さわやか100%青春小説」!

実際に起きた事件を題材にしていることもあり、読後に、事件の内容を確認し、再読し、感想を書き、また読み直し、としている間に、この小説を意識したと感じられる東大卒業式の式辞、および、この小説に直接言及した東大入学式の祝辞などを読み、書き終えるまでにかなり時間がかかってしまいました。
が、感想を書き終えて改めて思うのは、この本は多くの男性に読んでほしい小説であるということです。
特に東大生男子には絶対に読んでほしい小説です。

この本のポイント

姫野カオルコさんは、執筆動機について、実際の事件後に起こった被害者バッシングへの違和感を挙げています。
この本を手に取る動機は人それぞれだと思いますが、何となく被害者女性に少しは非があると感じていた人も、この本を読むことで、被害者側を責めるのはおかしいと気がつくことでしょう。その意味では、バッシングに疑問を投げかける目的は確実に果たされる本だとは思います。
ただ、読む前から、どころか、裁判上においても、悪いのは(被害者女性ではなく)加害者たちであることは分かっています。また、第三者的立場の「バッシングする人」が被害者女性を過剰に貶めているのはいわずもがなで、当然ながら、この本のポイントは、「誰が悪いか」「悪くないか」にはありません。


そうではなく、加害者大学生が、動機として「彼女は頭が悪いから(何をやっても良い)」という論理を持ち出すに至った背景を丁寧に描いたのがこの小説の意義です。また、そこを加害者・被害者の内面にまで(想像のレベルで)踏み込んで書いていることで、後述するように小説そのものが批判される原因になっています。


まとめると、読者は「誰が悪いのか」ではなく「どうしてその考え方になったのか」(加害者側だけでなく、被害者女性がなぜ家についていったのか、も含む)に焦点を当てて読むべきだと思います。そして、その要因に「東大生だから」という理由も部分的にはありますが、もっと大きなものが横たわっている。だから、この本は「考えさせられる本」となっているのです。

非さわやか100%青春小説

横浜市郊外のごくふつうの家庭で育ち女子大に進学した神立美咲。
渋谷区広尾の申し分のない環境で育ち、東京大学理科1類に進学した竹内つばさ。
ふたりが出会い、ひと目で恋に落ちたはずだった。
渦巻く人々の妬み、劣等感、格差意識。そして事件は起こった…。これは彼女と彼らの、そして私たちの物語である。(背表紙帯)

読み始めてすぐ、予想外のことに面食らいましたが、小説は、事件当時者の美咲(被害者女性)とつばさ(5人いる加害者男性のうち1名)の中学生時代から始まります。
のちに起きる事件を知った上で、美咲パートを読んでいると胸が痛くなりますが、最初に書いた通り、美咲パートもつばさパートも、それぞれが 「どうしてその考え方になったのか」を知るための10年弱と言えるでしょう。
したがって、事件が起きる直前までは、美咲にとっては間違いなく「青春小説」であり、つばさにとっても「歪んだところのある青春小説」という括りで読める内容になっています。帯に書かれた「非さわやか100%青春小説」とい言う惹き文句も納得です。

つばさの恋愛観

加害者東大生5人のうち、つばさは、その内面を丁寧に描写され、たった一人だけ、人間性を持った人物として(作者の肩入れを受けて)描かれます。一筋の「救い」を求めるように。
中学生時代のつばさは、大学生になって以降もつきあいの続く同級生の山岸遥が気になります。また、オクトーバーフェストで出会った美咲をかわいいと思います。そこには確かに恋愛感情があったはずなのです。


しかし、繰り返し書かれるように、加害者東大生5人にとっては、恋愛は「不合理」で「無駄」なことなのです。
つばさも、無駄なことを避けるように、自分の気持ちに向き合わず、最短距離を進もうとします。
つばさの恋愛観、人間観は、作中で、「ぴかぴか」という言葉とともに何度も登場します。姫野カオルコさんは、この事件の裁判の傍聴に何度も足を運んだということを考えると、「ぴかぴか」には、彼女の怒り・呆れが悪意を持って込められているのでしょう。

つばさには、遥のことを気にしている自覚はない。一位でも二位でもない女子を自分が気にするのは業腹であり、自分の裡の、得にならない感情を見ない技術を、彼はわりに幼いころから体得していた。さすがは東大に合格するだけのことはある器用さだ。p59

「それじゃ、私はもう板倉に行くね。竹内くん、元気でね」
遥は行った。
「……」
とり残された。そんな気が、なぜかした。
自分の裡の、そんなかんしょくの正体に近寄ろうとは、つばさはぜったいしない。メリットがないからだ。無駄だ。p108

家族に限らない。つばさは概して人の情感の機微について考える性質ではない。彼はまっすぐで健やかな秀才なのだ。健やかな人間は内省を要しない。p125

ではつばさにとって美咲は?
そんなことに思考を充てる無駄は、この勉強のできる青年はしない。(略)
おれにとってかの人は何なのだろうかと考えるような行動は、東大に入りながら本郷に行くころには二次方程式の解の公式すら使えなくなる文Ⅲのやつらがやっているごくつぶしのような行動であり、難病や飢饉や地雷に困っている世界の人々を救えないアホな行動なのだから、そんな行動を、優秀なつばさはしたことがないし、これからもしないようにしている。(略)
だから、頭脳優秀なつばさは、早く美咲に会いたい、美咲の膣に挿入して射精したいと欲した。p293

星座研究会のメンバーはサラブレッドだ。幼少のころからブリンカー(競走馬用目隠し)をつけて、ゴール(=東大)に向かってい真っ直ぐにインしたので、心はすべすべできらきらだ。p337

最後のブリンカーの喩えが分かりやすいですが、彼らは世間的に言う「悪いこと」に対する誘惑を断ち切るだけでなく、少しでも無駄だと思えば「考えることをやめる」ことすら厭わないのです。
結果として、「すべすべできらきら」な心の持ち主に育ちます。
作品内で多用される「すべすべできらきら」に対して、小説内では、彼らが絶対に感じない感情として「引け目」が使われています。特に、偏差値に対する「引け目」*1について、繰り返し書かれていますが、趣味や友人関係すべてについて同様のことが言えるでしょう。
例えば、「すべすべできらきら」な心の持ち主は、メジャースポーツは適度に嗜むとしても、世間でオタク的とされる趣味に時間を注いで、世の中や友人に「引け目」を感じるようなことをしません。ガチャガチャを買うか漫画を買うかなど不毛なことで悩んだりはしないだろうし、自分の発言が人を傷つけないか、間違って伝わらないか不安になって、逡巡したりもしません。
しかし、とても優秀で、大学のみならず社会に出ても求められたものをそつなくこなしていきます。


…というような、通常の小説ではあまり見ない、作者の悪意のこもった描写~すべすべな東大生を揶揄する言葉があまりにしつこいのは確かです。そのため、現役東大生の怒りを買い、姫野カオルコさんを招いての東大新聞主催のブックトーク企画は、作品を批判する声ばかりが目立つ結果となったようです。
ただ、この小説を東大生が非難するのは気持ち悪さを感じます。
まず第一に、この小説で描かれる異常な事件は、実際に起きてしまった事件なのです。
また、この中の東大生描写は、おそらく姫野さんが裁判を傍聴して感じた、加害者東大生たちの(持論を信じて疑わない)揺るぎなさの異常性を表現しようとした成果であるわけです。
であれば、むしろ、この異常な部分がないか、自分たちや仲間を顧みて反省する方向に向かってこそ、「頭のいい」東大生だと言えるでしょう。


最初に書いたように、この事件は「東大生だから」起きた事件というわけではありません。読んだ人が感じる居心地の悪さは、もっと普遍的なテーマを含んでいるからだと思います。

美咲の「あきらめ」

つばさとの恋に落ちる直前に、美咲は変わりました。端的に言うと「もてる」ようになったのです。
そして、その変化こそが、彼女が事件に遭った遠因にもなっており、それをもたらしたのは「あきらめ」でした。

まじめでなくなったわけではない。礼儀正しくなくなったわけでもない。変わらないといえば、なんら変わらない。
ただ、少しだけ。
少しだけ、力が抜けた。
(略)
こうした変化を美咲にもたらしたものは、ひとしずくのあきらめ、である。
『エンゼル』に冒険で入ってみたクリスマス・イブの夜に、だれとも知らぬ客が、胸元を褒めてくれた。
(なら、そうしておこう)
なんとなく襟ぐりの大きい服、胸のラインがなんとなく出るような服。そんな服を着るようになった。(略)
(こんなふうなのがいいんなら、こんなのにしておこう)
どこかあきらめて、美咲はそう思った。p202

勿論、胸のラインが出る服を着るのが悪いということでは全くなく、美咲がもてるために戦略的にその服を選んだのであれば、問題はありません。
しかし、ここで、わざわざ「あきらめ」という言葉が使われているのは、美咲が自己の意志よりも、男性視点の価値観に身を委ねることを選んだ、ということを意味します。
事件が起きた当日の飲み会でのやり取りも、やはり美咲の行動選択は「あきらめ」がベースとなっています。

重たい大ジョッキを持ち上げ、残っていた生ビールを一気に飲んだ。ぬるくなっていた。
「そうそう。やっぱ、美咲ちゃんはそうこなくっちゃ」
美咲ちゃん。つばさの声が発する自分の名前。笑みがようやく浮かぶ。
(私の役は…)
察知する。
(今日、私が呼ばれたのは、飲み会を盛り上げること)
笑っていよう。胸を出していよう。それがいいよと、前にも何人かが言ってくれたから。
p352

2つのルール

この小説の中を支配するのは「学歴偏重」「男性優位」という2つの価値観=加害者東大生の大好きなゲームのルールです。これらは加害者、被害者、バッシングをした人にそれぞれ影響している大きな要因で、小説のメインのテーマとなっています。
美咲は「ごくふつうの女の子」(p134)であり、それらの価値観にそれほど囚われているわけではないように見えます。
しかし、それでも、男性視点の価値観に屈服しなければならず、それらの価値観に翻弄されることになりました。


一方で、東大生とつき合うことにブランド的な価値をおく女性も登場します。加害者東大生のうち2人と順番につきあった那珂いずみがまさにそれです。
高校時代に美咲と淡いつきあいのあった須田秀の彼女もそうです。
彼女達は、小説内でも嫌われているのですが、もしかしたら、美咲のように「あきらめ」を感じ、自分の立場から「ルール」を巧みに利用して生きようとしていただけなのかもしれません。


彼女たち…どころか女性全般について、つばさをはじめとする加害者東大生は「下心」という言葉を使って評します。この「下心」という言葉も、裁判の傍聴で実際に聴いた言葉のようです。

「そ。下心があるのは女のほうなんだよ。東大男子をみるときはね。」
國枝が言う。「下心」という國枝のひとことに、つばさは頷く。
「『このワタクシに釣り合う』ってのが偏差値の高い大学の女子。『これをゲットしなくちゃ』ってのが偏差値の低い大学の女子。差はこれだけ。
どっちも下心で東大男子に接近してくる。結婚というものがそもそも下心による結びつきじゃん。だったら、はじめからツヴァイやゼクシィで下心を合理的にマッチングさせればいいんだよ」


慣習的に残っていることがむしろ問題である「学歴偏重」「男性優位」という誤ったルールに乗っかって、さんざん女性を蔑むつばさ達。
それらの価値観を分かった上で、何とか楽しく生きようとする那珂いずみ。
それらの価値観に気がつくのが遅く翻弄されてしまう美咲。


実際の事件の被害者が、美咲のようなタイプだったのか、那珂いずみのようなタイプだったのかは不明ですが、たとえ東大生というブランドに「下心」から近づいた後者のようなタイプであったとしても、バッシングを受けるのは誤っています。
というより、バッシングするタイプの人(おそらく 「男性視点」を過剰に獲得してしまった 女性もいるのでしょうが)こそ、 「学歴偏重」「男性優位」の2つの価値観に囚われていると言えます。
そして、まさにその点について、読者である私たちが問われる小説なのです。

東大卒業式と東大入学式の言葉

小説の中では、これらの価値観から自由になっている人が何人か登場します。
中学生時代のつばさの同級生である山岸遥。東大法学部から司法試験に挑戦するも、途中で進路を変更し、北海道で学校教師になった、つばさの兄。そして、加害者大学生の中心的人物・譲治の高校時代の上級生で、美咲が大学生時代に出会った「グレーパーカ」です。
彼らの話を聞いたときの、つばさや譲治の反応は、「キモい」の一言です。(p129、p176、p305)
結局、彼らは「学歴偏重」「男性優位」のルールから外れた人の意見には全く興味がないのです。
実際、今の日本社会では、そこから外れることで、生き方に「非効率」が生まれることもあるのですが、その「非効率」を彼らは理解できず、また、頂点にいる自分たちが無視されるのが許せないのでしょう。
その「他人への無関心」こそが問題です。
この小説を読んだあとで、東大の卒業式と入学式での言葉が話題になりましたが、まさに、東大関係者がエリート東大生の「無関心」を心配する内容となっていました。


平成30年度東京大学卒業式で、 五神真・東大総長は見田宗介の『まなざしの地獄』という論考 を引用し、そこから2つの大切なこと~「個人の内なる多様性に目を向ける」ことと「極端な事例から全体を知る」ことを学ぶことができると語っています。

その一つは、私たち自身誰もが、異質性によって排除される他者の立場になり得るということであり、逆に異質に見える他者の誰もが、じつは互いに共通する側面をもっていて、同じ社会の一員になり得るのだということです。(略)「内なる多様性」に目を向けることこそが、自己と他者との深い相互理解を可能にし、多様性を尊重するということなのです。

もう一つの大切な点は、個別的で例外的な事例であっても、注意深く目を凝らせば、そこにも全体を語る力があるということです。現代社会はグローバルな広がりを持ち、関わりのあるすべての人の意見や態度を直接見聞きすることなど到底できません。しかし、諦めてはいけないのです。むしろそこで、身近な少数の人の考えをとことん聴き、共感し議論を交わすべきなのです。それを通じても、より広い社会の人々の動向を理解するための重要なヒントを得ることができるからです。
平成30年度東京大学卒業式 総長告辞 | 東京大学

この2つこそ、つばさや加害者東大生達が無駄だとスルーしてきた行動と言えるでしょう。
(東大の中での割合は少ないかもしれませんが)本来はマイノリティでも何でもなく、最も関心を持ちやすい「他者」である「女性」すら、深く理解しようとせず、一方的な価値観の型を押しつける人間が、日本のこれからを作っていくとすれば、これからの日本に期待を持てません。
いや、そのような人たちが、今現在の日本の政財官に巣食っているのからこそ、同じようなタイプの人間が幅を利かせるのかもしれません。
五神総長の言葉は、やや遠回しではありますが、東大生集団暴行事件や『彼女は頭が悪いから』を念頭に置いた、東大生に対する警鐘なのだ、と自分は感じました。


この問題をさらに厳しい言葉で、直接的に指摘したのが、こちらも話題になった平成31年東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞です。

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学


この祝辞に対する(式に出席している東大生の)リアルタイムツイートが『平成31年度東京大学学部入学式 上野千鶴子さんの祝辞で会場が大荒れ #東大入学式2019』にまとめられているのですが、この中の「 やべーやつの臭いがする 」「 祝辞の意味知らんのかなきもい」というツイートがあまりにも『彼女は頭が悪いから』に地続きで、自分は、小説の中に入ってしまったのかと思いました。
あと、とりあえず「クソフェミ」と言っておけば良しとする人の語彙の少なさには唖然とします。


上に引用した祝辞のまさにその後で、上野千鶴子さんは『彼女は頭が悪いから』に言及するのですが、NAVERまとめを読むにつけ、やはり、 「すべすべできらきら」な心の持ち主は小説の中だけでなく実在するのだと打ちのめされた思いです。
ということで、最初に書いた通り、この小説は、すべての男性が読み、「自分事」として考えるきっかけとしてほしい本だと思います。
そして、読後に改めて、五神総長の式辞を読めば、小説を読む前と比べて受け取るものが倍増するのでオススメです。

合わせて読むべき本

と書いて、終わりにしようかと思ったのですが、男女差別について具体的な事例*2を挙げて追及するような小説ではないので、これだけ姫野カオルコさんの怒りが込められた文章にもかかわらず、届かない人には届かないのかなあとも思ってしまいます。
そういう人は、下品に赤裸々に男女差別について追及する田房永子さんの著作をオススメします。
日本で長い間生きてきた男性は、ちょっとやそっとの指摘では、この社会のおかしさに気がつかなくなっているので、ここまで下品に指摘されないと分からなくなっていると思うのです。(以下、いずれも『他人のセックスを見ながら考えた』からの引用)

(女性用のおっぱいパブ「イケメン乳首パブ」があったとしても、最初は罪悪感を感じてしまうが…)
それが男の場合は歴史が長いため、すでに完成されている。「この女の子も仕事でやってるから」という割り切りの感覚を、男は小さい頃から大人の男たちから感じ取り学んでいる。男は「娼婦」的女性と「自分の妻・娘」的女性を、別のものと分けて考える傾向が強い。本人はそんなつもりはなく、気づいていない場合も多いが、「娼婦」と「普通の女」を分けて考えるのは、そうしないと自分に罪悪感が溜まってしまうからだと私は考える。

"健康な”男たちはいつでも、自分を軸にものごとを考える。ヤリマンの話をすれば「俺もやりたい」と口に出したり、「ヤリマン=当然俺ともセックスする女」と思って行動するし、男の同性愛者の話をすれば「俺、狙われる。怖い」と露骨に怯えたりする。そこに、「他者の気持ち」「他者側の選ぶ権利」が存在することをすっ飛ばして、まず「俺」を登場させる。そのとてつもない屈託のなさに、いつも閉口させられる。理由は「だってヤリマンじゃん」「だってゲイじゃん」のみ。
自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。それは彼らが小さい頃から全面的に「彼らの欲望」を肯定されてきた証しとも言えるのではないだろうか。

(新幹線でくつろぎまくる男たちに対して)
彼らに、私の緊張感なんて、絶対分からないんだろうと思った。もし私がここで立ち上がり、「おい、おめーら!女の私がどんだけ緊張してるか分かってんのか!小学生のころから痴漢に遭って、公共の場で見知らぬ男たちから性的いやがらせを受け続けたトラウマ、そして35になって子持ちになった今も、もし何かあったらという恐怖感、自分の身は自分で守るしかないという立場、おめーらがリラックスしまくってる横で、こうやって緊張してる女がいるんだ、分かるか男ども!」と社内で叫んだとしても、「はあ?」と言われるだけだ。だからしないけど、心の中は叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

男子の性欲は本当に「微笑ましい」のだろうか。「微笑ましい」としていることに、なんの弊害もないのだろうか。そしてそれは一体なんのために「微笑ましい」とされているんだろう、10代の時から、男子の性欲ばかりを認めさせられてきて、35歳になっても電車の中吊りで高齢男性の性欲の黙認を静かに要求されることに、私は心底うんざりしている。

*1:特に女子大格差について書かれたP337あたりに顕著です。ここでは、「引け目」と合わせて「挫折」という言葉も用いられています。

*2:女子マネージャーの問題について少し語られる程度である気がします。