Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

読者の共感を拒む踏み絵的小説~村田沙耶香『地球星人』

地球星人

地球星人

私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか。地球では、若い女は恋愛をしてセックスをするべきで、恋ができない人間は、恋に近い行為をやらされるシステムになっている。地球星人が、繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろう―。常識を破壊する衝撃のラスト。村田沙耶香ワールド炸裂!

とても共感しにくい、ここまでに読んだことのないタイプの小説でした。
目をそむけたくなるような悲惨な事件や、はらわたの煮えくり返るような理不尽を描いた小説はそれなりに読んできた気がします。
どんなに辛い出来事でも、そこには、常にどちらかがあり、それがあることで、主人公や作者に共感を抱くことが出来たように思います。

  • (一人称の場合)登場人物の、加害者や社会、家族に対する怒りや悲しみ
  • (三人称の場合)登場人物をめぐる出来事に対する作者の怒りや悲しみ


『地球星人』が変わっているのは、そういった読者の共感を拒むことです。
読者はひたすら置いてけぼりにされるのです。(自分はそう感じました。)
確かに、これまでに読んだ村田沙耶香の小説には、どれにもそういう要素がありました。
主人公の女性は皆、世の中の「普通」に違和感を抱き、その違和感を持ち続けたまま大人になります。今回、主人公の奈月が、自分が魔法少女と信じている設定は、以前も出てきているし、その延長上にある彼女が対峙する相手としての「人間工場」という説明も、いわば「村田沙耶香的」な感覚として、とてもよく分かります。

私は、人間を作る工場の中で暮らしている。
私が住む街には、ぎっしりと人間の巣が並んでいる。
(略)
ここは、肉体で繋がった人間工場だ。私たち子供はいつかこの工場をでて、出荷されていく。
出荷された人間は、オスもメスも、まずはエサを自分の巣に持って帰れるように訓練される。世界の道具になって、他の人間から貨幣をもらい、エサを買う。
やがて、その若い人間たちもつがいになり、巣に籠って子作りをする。p37

そんな人間工場の中で 身を潜めるようにして生きていく奈月は次のように言います。

私は悲鳴をこらえながら呟いた。
「いつまで生き延びればいいの?いつになったら、生き延びなくても生きていられるようになるの?」p91

このあたりまでは、「いつもの村田沙耶香」作品だと思って読んでいました。
しかし、最初に「これは、ちょっとついていけないぞ」と感じたのは、塾の伊賀埼先生から「ごっくんこ」を強要されるシーンです。
この、酷い性暴力に対しても、奈月は世界に違和感を抱いたまま、いわば、ぽかーんとしています。村田沙耶香作品では、作者=主人公という面が強いので、作者も、ぽかーんとしており、本を読んでいても、誰も怒らず、誰も悲しんでいないので、読者である自分だけが、やるせない気持ちを抱えることになります。
まず、そこに「ついていけない」と思ったのです。


次に、「ついていけない」と感じたのは、34歳の奈月が、23年前に、伊賀埼先生の家で「魔女」を殺したことを振り返るシーンです。
奈月は、伊賀埼先生を殺した自覚はなく、あくまで、殺したのは「魔女」なのです。

私は、そのまま魔法使いではなくなり、宇宙船をなくしたただのポハピピンポボピア星人として余生を生きている。母星に帰れない今、 ポハピピンポボピア星人として生きていくのは孤独だった。地球星人が私を上手に洗脳してくれることを願うばかりだった。p150

こんな風に自らの殺人の告白を締める主人公に共感するのは相当に難しいのです。
しかし、それでも、奈月は「地球星人に洗脳される」=普通の人間として生きる選択肢を残しているので、まだ話をしたりは出来そうなのですが、全くついていけないのは奈月の結婚相手の智臣です。


まず、智臣は、地球星人の目から見たら、「仕事ができないことを他人のせいにしているダメ人間」と評価されるタイプの人です。
最終的に同居して暮らすことになる3人ですが、当初は、由宇(奈月のいとこ)<奈月<智臣の順で病が深く、智臣が最も急進的です。これに対して奈月は、由宇に説得されて、考え方を「地球星人」側にシフトするよう智臣と話してみようと決心します。
これに対する、智臣の朝食でのひとことは本当に衝撃的です。

話があるからあとで時間が欲しい、と翌日の朝食のときに夫に切り出すと、僕もだ、と夫がうれしそうに、私と由宇に告げた。
「僕は、祖父とセックスしてみようと思うんだ」p163

この発言の真意は省略しますが、寝たきりの祖父についてのこの発言に共感できる読者は相当レアでしょう。
しかし、このとき、食べていた味噌汁を吹き出してしまった由宇でさえ、「宇宙人の目」を獲得し、 どんどん智臣と同様の考え方になっていきます。
最終的に3人の考え方は、生き延びるためなら、窃盗、殺人、さらには人肉食までOKとする極端にも程があるものになっていきます。
そして、この物語は、 ポハピピンポボピア星人と地球星人の考え方が全く相容れないままに終わります。
この終わり方も衝撃的でした。
読者の共感しやすい終わり方は、 酷い終わり方ですが、ポハピピンポボピア星人が、地球星人(工場)側の酷い仕打ちにより絶滅してしまう、地球星人を一方的に悪者にして世界を閉じる終わり方です。そうでなければ、 ここまで極悪非道なポハピピンポボピア星人にシンパシーを、同情心を抱けません。


…と、そこまで考えたとき、自分は、マイノリティーの意見に耳を傾けながらも、あくまでマジョリティの立場に立って、その優越を離さない、そういうタイプの人なのではないかと、ふと疑問が湧きました。
マイノリティ( ポハピピンポボピア星人 )が、微かながらも、マジョリティ(地球星人)に対抗できる力を得て終わるこのラストは、自分にとって都合が悪いのかもしれません。そして、クレイジー沙耶香と呼ばれる村田沙耶香が、世間に向かって「お前らこそがクレイジーだ!」と絶叫するような『地球星人』に面食らってしまったのは確かです。
この作品は、村田沙耶香が仕掛けたリトマス試験紙であり踏み絵であるのでしょう。
これまで、興味深く村田沙耶香作品を読んできた自分のような読者は、作者本人からは「したり顔で頷きながら、最後は敵に回る奴」*1と蔑まれているのではないか、と怖くもなりましたが、やはり、自分の中では上手く結論付けられない本となりました。
他の方の感想等を読んでまた考え、読み直してみたいです。

*1:キム・ジヨン』に出てくるあの人