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映画「主戦場」に右派が「騙された」理由がわかった~『海を渡る「慰安婦」問題』

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

「歴史戦」と「主戦場」

上半期、非常に刺激を受けた映画『主戦場』ですが、内容については良かったのですが、タイトルの意味がピンと来ないというところがありました。
慰安婦」問題の舞台が米国に移ったことを指して、米国のことを「主戦場」と言っているのだろう、というぼんやりした理解がまずあり、また、パンフレットや一部レビューにあったように、「本当の主戦場は、観た人の心の中にある」みたいな、さらにぼんやりした推測がありながらも、「でも何でこの言葉を?」という疑問は拭えませんでした。


しかし、この本を読んでタイトルの意味が明確になりました。
だけでなく、映画公開後に、出演者らが「騙された」と抗議した背景も理解できました。
ひとことで言えば、「主戦場」とは、彼ら出演者(右派)が好んで使う言葉だったのです。
デザキ監督は、それを分かっていて敢えて「主戦場」というタイトルを付け、出演者側も、このタイトルであれば安心、とチェックを怠ったのでしょう。そういう意味では「騙した」面があるのかもしれません。
www.newsweekjapan.jp




この本の「はじめに」には、「歴史戦」「主戦場」の説明があります。

「歴史戦」という言葉を広めたのは、2014年4月に開始され、現在も続く『産経新聞』の連載「歴史戦」だろう。この連載をまとめた書籍において…(略)
同署の帯には「朝日新聞、中国・韓国と日本はどう戦うか」と記されていることから、「歴史戦」の敵は『朝日新聞』と中国、韓国であるという想定が見える。
また、同書の日英対訳版の帯に掲載された推薦文、「これはまさに「戦争」なのだ。主敵は中国、戦場はアメリカである」(櫻井よしこ)、「慰安婦問題は日韓米の運動体と中国・北朝鮮の共闘に対し、日本は主戦場の米本土で防戦しながら反撃の機を待っているのが現状だ」(秦郁彦)を見ると、「歴史戦」の「主戦場」がアメリカと考えられていることもわかる。

本のタイトルでも括弧がついた「歴史戦」が使われ、同様に「主戦場」にも括弧がついているのは、通常の意味ではなく、右派が好んで使用する、やや特別な意味を込めた言葉として使われているからです。
このような出自を持つ言葉は、慰安婦問題を自国の問題として取り上げようとする団体側は、 積極的に は使わないでしょう。
つまり、「歴史戦」や「主戦場」という言葉がタイトルに使われた時点で、「右派」系の映画だろう、と、「右派」側はピンとくるわけです。そうでない人達には、何故この言葉が使われるのか全くピンとこないのと対照的に。


それでは、慰安婦問題は日本の問題なのに、何故「主戦場」が米国なのでしょうか。
それは、慰安婦像の設置などの問題が生じてきたことが理由のひとつではありますが、それ以上に、彼らが日本国内では勝利を収めたと確信しているからなのです。
そして、その確信がさらなる問題を産んでいます。

すでに触れたとおり、このような勝利の強い確信こそが彼らにとってはいらだちの原因となる。「南京」も「慰安婦」も「捏造」であることは彼らにとって自明であるがゆえに、日本に対する非難や抗議が止まないのは日本政府が自分たちの主張を国際社会に伝えないからだ、と彼らは考えることになる。実際には彼らの主張それ自体が拒否されており、新たな非難を呼び起こしているにもかかわらず。日本政府が右派論壇の期待に応えて「毅然として声を上げ」ればあげるほど、国際社会の反応は彼らの予想を裏切るものとなる。すると彼らは「まだ歴史戦の努力が足りない」と考えるのである。
p32

結局、右派が米国を指して「主戦場」という言葉を使う裏には、日本国内では既に勝利を収めているという事実認識があり、その象徴的な出来事が2014年の朝日新聞による過去の慰安婦報道の検証特集掲載と一部記事の撤回があるということのようです。
実際には、2012年ニュージャージー州慰安婦碑、2013年カリフォルニア州グレンデール慰安婦少女像の設置が、米国で「歴史戦」を行うきっかけになっているようですが、経緯を考えると、やはり「主戦場」(=米国)は右派が好んで使う言葉だということがよく分かります。


なお、1章最後には「歴史戦」言説の特徴と問題点がコンパクトに整理されているので、メモ代わりにポイントをまとめます。

  1. 【圧倒的な物量作戦】:『正論』などの右派メディアが日本軍「慰安婦」問題を取り上げる頻度は他のメディアを圧倒している。アカデミズムや通常のジャーナリズムは「新規性」という価値に拘束されているが、右派メディアは同じことの繰り返しをためらわず行い、結果として量的な非対称性が生じてしまう。
  2. 【被害者意識】:右派によれば、「歴史戦」は、 韓国、中国や『朝日新聞』 から仕掛けられているものである。その被害者意識ゆえ、日本政府の責任を追及し、また解決のための努力を促す運動は必然的に邪悪な意図、何者かの「謀略」に発するものと解釈されてしまうことになる。
  3. 【字義通りの「戦争」】:「自虐史観」は、彼らにとっては日本を精神的にも軍事的にも“武装解除”するための罠なのである。「歴史戦」は竹島尖閣諸島の領有権をめぐる紛争と字義通りにリンクしている。
  4. 本質主義的民族観】:いわゆる「歴史認識問題」において問われているのは第一に旧日本軍と大日本帝国の責任であり、第二には過去の侵略戦争、植民地支配、戦争犯罪、国家犯罪に対する現在の日本政府の姿勢なのだが、「歴史戦」が守ろうとしているのは民族の名誉である。
  5. 【勝利の確信が生み出すいらだち】:前述のとおり。

河野談話、70年談話、日韓合意

また、『主戦場』では説明の少なかった70年談話や2015年末の日韓合意などについても触れられていました。(3章「謝罪は誰に向かって、何のために行うのか?」)
70年談話とは戦後70年の節目にあたる2015年8月14日に安倍晋三首相が発表した「戦後70年談話」のことです。これに限らず安倍さんのスピーチは、言質を取られないよう、回りくどい発言が多く、結局長いだけで何を言っているのかわかりにくいスピーチである、という程度にしか考えていませんでしたが、テッサ・モーリス・スズキさんによれば、これは日本の近現代史にかかわる基本的な部分について誤った解釈に基づいて作成されたものだったとのこと。
それだけでなく、70年談話で最も注目を集め、日本人の多くも共感(朝日新聞世論調査では「共感する」63%、「共感しない」21%)を呼んだとされる以下の部分についても、反論しています。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません。

ここで、テッサさんは、オーストラリア先住民のアボリジニに対して過去におこなわれた収奪と虐殺などの罪と重ねて、以下のように考えます。

過去におこなわれた悪行に直接自分が関与しなかったからといって、「まるで関係ない」とは主張できないのである。わたしたちがいま、それを撤去し壊滅させる努力を怠れば、過去の憎悪と暴力、歴史的な噓に塗り固められた差別と排除は、現在も社会の中で生き残り、再生産されていくのだから。p75

この部分は、そう言われればその通りという気もするし、また、70年談話で言っていることにも、若干の違和感を抱くようになったものの、それを非難できるほど理解が十分ではなく、もっと勉強が必要な部分だと思いました。


一方、テッサさんは「河野談話」については、3倍もの分量があるわりに曖昧な表現の多い70年談話と比べると、はるかに簡潔で要領を得たものとして評価し、特に以下の部分を強調して引用しています。

河野談話」は、日本が国家としての責任を負うことを認め、そして被害者たちに明確に謝罪した点において、世界的に高く評価された。しかし以下の箇所こそ、現在を生きる者たちが決して忘却せず、実践していかなければならない部分である、とわたしは考える。

われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。


「歴史戦」をめぐる右派の主張が、膨大に存在する史料をほとんど無視し、自説に都合のよい部分だけを組み合わせて構築されているのは歴史研究の否定であり、歴史への冒涜である、と書かれているが、まさにその通りで、歴史研究を尊重する河野談話は、それとは対極にあることがわかります。


また、2015年末の「日韓合意」についても取り上げられています。
この日韓合意をめぐる韓国政府(文在寅政権)の態度 は、現在の日韓関係の悪化の原因のひとつになっているという認識です。今の自分の気持ちとしては、こうなることが分かっていたのなら、何故あそこで「合意」をしたのか?と、日本政府よりもむしろ韓国政府への不満が募りますが、単純に、あそこで期待をもってしまったのは「ぬか喜び」という以上に、不勉強なのかもしれません。
テッサさんの見解は以下の通りです。

日本政府、および一部の日本国民は、韓国側が「蒸し返さな」ければ、「日本軍慰安婦問題」はなくなる、と考えているようだが、それはあまりにも21世紀の世界の潮流を無視した考え方であると同時に、間違った考えでもある。
(略)
歴史とは、負の遺産を抹殺し、正の遺産だけを相続できる種類のものではないのである。正の遺産を「日本人の誇り」とするのであれば、当然ながら負の部分も受け入れなければならない。
繰り返すが、「河野談話」は歴史的責任を認め、「 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と続けた。
この「 歴史研究、歴史教育を通じ」何度も何度もこの問題を「胸に刻む」ことこそ、「同じ過ちを決して繰り返さない」道に通ずる、と私は信じる。

この3章を読むと、「70年談話」および日本政府の態度と、「河野談話」の違いは明らかであり、2015年末のいわゆる「日韓合意」も、「河野談話」とは相容れないものなのだろう、という気持ちになります。「日韓合意」自体は、右派からの反対も多く、右派が割れる原因にもなったようですが、韓国側がどういう意図で合意に応じたのかも含めて、もう少し知っておきたいです。

最後に

この本でも、『主戦場』のラスボスである人物(伏せますが)の名前は何度も登場しますが、「黒幕」感は全くありません。
それ以上に登場するのは、当然のことながら安倍晋三首相です。当時は「歴史戦」という言葉がありませんでしたが、第一次安倍内閣のときから、これらの情報戦が盛り上がり、現在、膨大な国費(広報費)が使われている*1状況にあることを考えると、もっと別のことに使ってほしいと思うばかりです。
「歴史研究」や「統計」などのこれまでの積み重ねを尊重する態度があれば、もう少し現政権を好きになれるのに、と思います。
歴史戦については、今年5月にも本が出ているので読んでみたいです。(この本は2016年6月なので、3年前と情報がやや古い)

歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方 (集英社新書)

歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方 (集英社新書)

*1:7/21に行われる参議院議員選挙公約にも「 歴史認識等を巡るいわれなき非難への断固たる反論をはじめ、わが国の名誉と国益を守るための戦略的対外発信を強化するなど、韓国・中国等の近隣諸国との課題に適切に対処します。 」と書かれています。「 戦略的対外発信を強化 」ということはこれまで以上にお金をかけるということでしょう。