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いつの間にか自分自身について考えさせられる小説~角田光代『坂の途中の家』

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)

あらすじ

この小説に興味を持ったのは、裁判員制度に絡めた物語だったからだ。
もともと、裁判員制度自体には、否定的な意味で興味を持っていた*1が、守秘義務の問題があり、体験エッセイ漫画などでは裁判の過程を読むことができない。その意味では、フィクションで触れるのに適した題材と言える。
そして、読んだ冊数こそ少ないが絶大の信頼を寄せている角田光代
早く読まねば、と思っていたら、今年4月にはWOWOWのドラマ(柴咲コウ主演)*2にもなったので、期待高まるタイミングで、やっと読むことができた。


公式あらすじは以下の通り。

刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。

主人公・山咲里沙子には2歳10か月の娘がいて、夫と3人暮らし。 8か月の娘をお風呂に沈めて殺してしまった 事件の被告・安藤水穂も同様に、夫と3人暮らし。
物語は、裁判員裁判の公判1日目から8日目までの証人の発言を聞く里沙子の視点から語られるが、里沙子は、家族構成以外にもさまざまな共通点があることに気がつき、週刊誌では「ブランド狂いで母性なし」という悪評にまみれる水穂に同情していく。
その核には、時に、孤独で、逃げられない戦いを(伝統的家族観の中での)役割として負わされる 「育児」についての母親の悩みがある。

サスペンス

小説を読んで驚いたところは、新たに起こるイベントが非常に少ないこと。
基本的には数か月前に起きた乳児の虐待事件に関する証言のみで話が進む。
小説の記述は、娘の文香(あやか)を浦和の実家に預けて公判に出かけ、帰りに文香を連れて家に帰る里沙子の日々の出来事と考えの比率が圧倒的に多い。
物語が進行するおよそ10日間の間に新事実が何も出ないということは、同様に事件を題材にしたミステリとは大きく違う点である。


それでは何が物語を駆動するか(サスペンスの核になるか)といえば、里沙子の家族への思いが、公判の内容に影響を受けて大きく変化する、その心の動きである。
イベントが次々と起こるのではなく、脳内で色々な思いが錯綜する---その方が実人生に近く、ありていな言葉でいえばリアルであり、より読者自身に引き寄せて考えられる。
そもそも、この小説は、水穂という女性を、裁判というフィルタを通して見て、自分に引き寄せて考える里沙子という主人公がいた上で、里沙子を、小説というフィルタを通して、読者それぞれが自分に引き寄せて考えるという重層的な構造を取っている。
物語の進み方(新しいことがほとんど起きない)と、物語の構造(作中の人物が、見ず知らずの人物に感化されて、人生を振り返る)の、双方で、読者に「考える」ことを強いるような仕掛けがあるのだ。


読者が何を考えさせられるか?
それもまた人それぞれなのだと思う。
里沙子と同じ裁判員の一人・ 芳賀六実(はがむつみ)は、既婚だが子どもはいないアラフォー。彼女も証言を聞きながら、自分の人生の中での夫や家族との関係に目を向ける。その他の裁判員も、年代性別さまざまだが、それぞれの経験の中で、また時には周囲の意見も聞きながら事件について考える。読者も、同様だろう。


自分は、子どものいる既婚男性ということになるが、読んでいてかなり辛かった。
小説内の男性登場人物(里沙子の夫・陽一郎、水穂の夫・寿人)が、DVを振るうようなダメ人間であったら、どれだけ救われたか。ところが彼らはダメ人間ではない。夫として、(仕事重視でありながらも)それなりに育児に理解があることで、読者として「俺はこの夫たちとは違う/里沙子や水穂が苦しんでいるのは、夫のせいだ」と、自分と切り離して非難する逃げ道が塞がれてしまった。
したがって、里沙子や水穂の夫(や夫の両親)に対する不満の表出は、そのまま読者としての自分に刺さっていく。
子どもが生まれたばかりの頃、そして今、自分は、家族を苦しませる原因を作っていないか?
日々の言動が、その苦しみを内に貯め込んでしまうことに繋がっていないか?
等々…。


一方で、読者に「考える」ことを強いる小説内の登場人物として、考えに考えを重ねた里沙子は、終盤で、家族に対する大きな確信を得るに至るのだが、それについては後述する。

タイトルの意味

公判序盤で、証拠画像として示された水穂の家は、坂に沿って並んだ新築建て売り住宅のうちの一軒(坂の途中の家)だったが、里沙子には既視感があった。里沙子は、今のマンションにしばらく住んだあと、一戸建てを買おうと物色したときに、現地の物件を見て回ったときのことを思い出したのだ。

見て回ったそれらの家に水穂の住まいは似ていたのである。どこのどの一軒、というのではない。住むことを思い浮かべた家のどれか、あるいはそのぜんぶを足したような住宅だった。そして無意識に思い浮かべたリースや正月飾りや石段の鉢植えは、そこに住んだら飾ろうと里沙子が実際に思っていたのだった。p77


つまり、里沙子が持っていた新築の戸建てに対する憧れが、「坂の途中の家」を初めて見たときに頭の中によぎった。
もっと言えば、この小説がテーマのひとつにしているのは、カッコつきの「理想の家族像」であるのだが、そのイメージを、乳児虐待の起きた家に重ねようとしているところが皮肉でもある。

公判の間の証人や裁判員たち、そして里沙子の夫である陽一郎や義母の発言は、ある種、それぞれの人の頭にある「理想の家族像」を念頭にしたものであった。弁護側の証人(水穂の母親や友人)も、本来の主旨であるはずの、被告を守るということ以上に、自分がそこ(理想像)から外れていないことに重きを置いていたと里沙子には感じられる。


しかし、里沙子は、自分の頭で考えることで、そこから逃れることが出来た。
特に考えることもせずに受け入れている価値観が、いかに脆弱なものなのかということがこの小説の言いたかったことだろう。

ラスト(大きくネタバレあり)

この本のラスト、変な言い方をすれば、里沙子の考え方の「転向」は、小説の流れからすると自然かもしれないが、全ての読者が受け入れられるものではないだろう。
そもそも、公判の十日間で、里沙子が見た人々は、皆、自分がそう見られたいように証言を述べていた。だから発言者が異なると「事実」が変わって見えてくるということは里沙子自身が分かっていたことである。つまり、里沙子が最終的に得た「気づき」も、決して「事実」ではない。
したがって、ここで示されているものは、「事実」ではなく里沙子の一面的な見方に過ぎない、という解釈が成り立つとはいえ、それまで白と言っていたものを黒と断言するような里沙子の考え方の「転向」の度合いは大きく、読者としてはギョッとする。


公判五日目の段階では、里沙子は、自身の能力不足も 夫婦のわだかまりの一因だと考えていた。ましてや、四日目は、くたくたに疲れた公判の帰り道、「抱っこして」と路上でぐずり始めた文香を懲らしめようと、少しの間、道路に置き去りにしたところを、帰宅中の陽一郎に見つかり、信頼を失うという失態を犯している。五日目とその後の週末は、里沙子の気持ちが最も落ち込んでいる時期だ。
里沙子が考えを大きく変えるきっかけとなったのは六日目に証言した水穂の高校時代の友人・有美枝の発言だった。有美枝は、あんなに前向きで自信家だった水穂が、変わってしまった理由を、夫のおだやかな暴言で、水穂の自信がことごとく奪われたのではないかと考えたのだ。(p283)
これを受け、公判八日目以降の、里沙子の思考はダイナミックに変わっていく。

あの人たちは(略)理解するはずがない。ただ相手を痛めつけるためだけに、平気で、理由もなく意味のないことのできる人間がいると、わかろうはずがない。
相手といったって、恨みのある相手でもなければ、何かの敵でもない。ごく身近な、憎んでもいない、触れ合う距離に眠るだれかを、自分よりそもそも弱いとわかっているだれかを、痛めつけおとしめずにはいられない、そういう人がいるなんてこと。
p420

私も、今まで気づかなかった。里沙子は窓の外を眺める。国道沿いの数軒の店、ずっと続く田畑。見慣れた景色なのに、はじめて訪れた町のように見える。たぶんこの審理にかかわらなければ、ずっと気づかなかったろう。私だって意味がわからない。
無料カウンセリングがある、だから安心したという話が、裁判終了後、精神科にかかるという話になって義母に本気で心配される。里沙子はこの流れに、心配や思いやりなど微塵も感じない。感じるのはただ、意味不明な悪意だけである。あまりに意味が不明すぎて、今までだったら、気づかなかった。それが悪意だと。
p422

けれど今、ようやくわかりはじめている。陽一郎は、引き出物がへんだと言いたかったのでもないし、残業や飲み会を知らせている男なんかいないと言っていたのでもない。きみはおかしい、間違っていると、ただそれだけをずっと言い続けていた。おかしいところをなおせ、でもない、間違っていることをただせ、でもない。陽一郎は、ただ単に私に劣等感を植えつけたかっただけだと里沙子は今になって、まるで他人ごとのように理解する。
けれど、理解して、ますますわからなくなることがある。なぜそんなことをする必要があったのか。p432

暴力など一度もふるったことがない。(略)
けれど実際は、青空のような陽一郎は、静かな、おだやかな、こちらを気遣うようなもの言いで、ずっと、私をおとしめ、傷つけてきた。私にすら、わからない方法で。里沙子はそのことだけは、今やはっきり理解している。しかし依然としてその理由も目的もわからない。憎んでいるからだと思うしかないが、なぜ、また、いつから憎まれているのか、里沙子には想像すらつかない。p463

しかし、その夜、「きみには無理だ」と言われるのを覚悟しながら「また働こうかな」と陽一郎に聞いてみると「それもいいんじゃない」と肯定され、逆に自分の方が被害妄想にとらわれてしまったのではないか、と不安になる。
読者としては、夫婦がお互いの誤解を解いて仲直りするという穏当な方向でエンディングを迎えるのかと思いきや、そうはならない。


里沙子は、一度は被害妄想かもと不安になったにもかかわらず、その後もスタンスは変わらないのだ。解釈は若干変わったが、陽一郎が、もしくは自身の母親が、相手をおとしめようとして、発言・行動してきたということは、事実として、里沙子の頭に定着している。
以下に、ラストまでの里沙子の思考をシンプルに辿ったが、最終数ページの段階では離婚についても考えており、正直言って、この終盤の里沙子の一点突破式の思考にはついていけない部分がある。

憎しみではない。愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。それがあの母親の、娘の愛しかただった。
それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ…。
そう考えると、この数日のうちにわき上がった疑問のつじつまが合って行く。陽一郎は不安だったのだろう。自分の知らない世界に妻が出ていって、自分にはない知識を得て、自分の知らない言葉を話しはじめ、そして、一家のあるじが今まで思っていたほどには立派でもなく頼れるわけでもないと気づいてしまうことが、不安だったのだろう。
p480

きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない。私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。
そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。
p481

そもそも離婚を望んでいるのかどうかも、里沙子にはわからなくなる。ただ、おそろしいだけだ。陽一郎が彼の愛しかたで、妻である自分ばかりか、文香まで愛するのを。
p488


この、スッキリしない終わり方については、ノンフィクション作家の河合香織さんの解説が素晴らし過ぎる。
解説では、まず、「もしかして狂っているのはこの女ではないか」という可能性にも言及しつつ、ノンフィクションと比較したときの小説の特徴について次のように書いている。

普遍性を見出そうとする営みという点において、具体的な事件を追うノンフィクションと、虐待を題材に小説を書くことに大きな違いはあるのだろうか。むしろ、小説には事実の影に覆い隠されて見えなくなっている本当の人間の姿を引きずり出す力があるように思える。
だからこそ、角田光代の小説ほど心を揺さぶられるものはない。そこに描かれるのはいつだって「私」だったから。

ほぼ同意だ。
ちょうど、自分は、『坂の途中の家』を読む前に、別のベストセラー作家の作品を読んでいたのだが、その作品は、読者を、物語から完全に切り離した安全地帯に置いて、そのことで、登場人物が繰り広げるドラマの悲喜こもごもを楽しませることに徹した内容で、面白かったが、いわゆる「毒にも薬にもならない」話だった。
だからこそ「私」が書かれている、読むことで、確実に「私」と向き合うことになる『坂の途中の家』を読んで、これこそが「小説」だという気持ちを強くした。
結局、この小説は、読者自身それぞれの「私」の小説になってしまっているので、モヤモヤしたラストでの里沙子の結論は、それほど作品の本質には影響しないのだ。
それでは、この小説のもっとも重要なポイントはどこにあるのかといえば、「自分で考えること」であると、河合香織さんは説く。

本書には、人は自分で選んでいるつもりでも、選ばされているのではないかというテーマが根底にある。親から受け継いだ価値の呪縛から逃げたいと思っても、なかなか逃れられない。里沙子も水穂も、その価値の呪縛に苦しんでいた。親の価値観を憎み、そんな親に育てられた自分は非常識で異常だと思い込み、自身を失っていた。黙っていれば誰からも謗られることが無いし、選択しなければ責任を取る必要もない。仕事をやめることも、子どもをもつことも、自分の価値観に照らして、自分で選びとってきたと言えないかもしれない。
そうやって選ぶことも放棄してきた里沙子は、裁判を通じて試行錯誤していく過程で、最後に考えることを取り戻そうと一歩を踏み出す。その姿に、作者の人間への深い信頼を感じる。
(略)
考えることは、自分の人生に責任を持つことは、苦しいかもしれない。けれども、七転八倒しながらも考え抜いた答えは、他人から押し付けられて選ばされた人生とは大違いだ。見たくもなかった自分の姿も、恥じるものではなく、きっと誇らしくさえ思うだろう。
生を信じることをやめることはできない、そんな人間の剛健さを作者は描き出した。だから、性別や年代に関わらず、角田光代の小説に多くの人が心を動かされ、なぜ作家は「私」のことを知っているのだろうかと思うのだ。

自分は、既婚男性としてこの小説を読み、『82年生まれ、キム・ジヨン』のように、男性が糾弾される内容だという風にも感じたし、毒親問題に関心がある人は、そのテーマに共感する部分があったかもしれないが、ポイントはそこではない。
里沙子は、考えることを放棄しなかったことで、自ら選ぶ人生を見出した、そこが最も作家が主張したかった部分ということだ。里沙子の結論は正しく見えないかもしれないが、正しいかどうかではなく、考えたかどうかの方が重要なのだ。
ときに、小説の力を借りながらも、自分の頭で考えることをやめない。
そんな風にして人生を選んで生きていきたい、と思わせる小説でした。

参考(過去日記)

角田光代というと、やはり『対岸の彼女』の印象が強いです。『坂の途中の家』もそうですが、角田光代は、夫婦であっても親友であっても、結局は「他人」だという見方を持っている気がします。ドライに考えるからこそ、愛が深いのかもしれません。
pocari.hatenablog.com
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河合香織さんは、昨年読んで最も面白かった、というか考えさせられたノンフィクション小説『選べなかった命』の人ですね。『セックスボランティア』も興味あります。
以下の『帰りたくない』は河合香織さんの本の解説を角田光代さんが書いている、という、『坂の途中の家』と反対となるコンビですが、驚くべきことに、最終的に主張する内容が一致している、ということで、相思相愛の関係なのかもしれません。それにしても角田光代解説の巧さよ…。
pocari.hatenablog.com

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)



結論をいえば、『坂の途中の家』を、フェミニズムをテーマにした小説と捉えるのは誤読という感じもするのですが、男が読むと、とても痛いという意味では似ていると思います。
pocari.hatenablog.com


裁判員制度開始前(2007年)に書いた文章がこちらです。ここでは書いていませんが、自分は「裁判員が量刑まで判断する必要がある?」という点にも強く疑問を抱いています。
pocari.hatenablog.com

*1:開始前から、いろいろと気になっていたが、裁判員制度は今年令和元年で制度ができてから10年が経つ…。

*2:小説を読んでから配役を知ると、里沙子=柴咲コウも、水穂=水野美紀も、歳を取り過ぎているような気がする。陽一郎も田辺誠一だと、歳を取り過ぎ。もう少し若い配役にできなかったのだろうか。