Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ぽくないメフィスト賞受賞作~宮西真冬『誰かが見ている』

誰かが見ている

誰かが見ている

第52回メフィスト賞受賞!
4人の女には、それぞれ表の顔と裏の顔がある。ブログで賞賛されたいがために、虚偽の「幸せな育児生活」を書くことが止められない千夏子。年下の夫とのセックスレスに悩む結子。職場のストレスで過食に走り、恋人との結婚だけに救いを求める保育士の春花。優しい夫と娘に恵まれ円満な家庭を築いているように見える柚季。
4人それぞれの視点で展開する心理サスペンス!
彼女たちの夫も、恋人もまた裏の顔を持っている。
もつれ、ねじれる感情の果てに待ち受ける衝撃!
「この先、いったいどうなるのか?」
ラストまで一気読み必至!!


メフィスト賞』と聞いて、自分がイメージする言葉は「バカミス」「エクストリーム」「パズラー」「トリッキー」で、毒にも薬にもならず、エンタメに特化したミステリの極北のための賞だと思っている。
実際、宮西真冬『誰かが見ている』(2016年、第52回)の前の受賞作が以下の2作で、他の類似作品がないような馬鹿過ぎるトリックだったり、構成が巧妙だったり、というメフィスト賞のイメージ通りの作品だった。

  • 第50回 早坂吝 『○○○○○○○○殺人事件』
  • 第51回 井上真偽 『恋と禁忌の述語論理』

この2作に続いてメフィスト賞を受賞した『誰かが見ている』。
読み終えてみると、あまりにもメフィスト賞らしさが無くて驚いた。
メイン主人公の千夏子とサブ主人公の柚希が中盤まである事実を隠していることや、張られた伏線が最後に回収されるところなど、ミステリとして、それなりにちゃんとしているため、かえって「エクストリーム」なところが無いのが目立ってしまう。
題材としたテーマも含めて、嫌いな作品ではないが、メフィスト賞としては物足りなさを感じる内容だった。

『坂の途中の家』との比較

今回、たまたま直前に読んだためか、角田光代『坂の途中の家』と共通する点が複数あると感じた。むしろ、『坂の途中の家』にインスパイアされた作者が、「自分なら同じ題材をこう料理してミステリにする!」と奮起した作品のようにも読めてくる。
類似するのは例えばこんな点。

  • 育児、夫婦関係への悩みを抱える複数の女性の視点で物語が展開する
  • ブログに事実とは異なる「幸せな親子」の日記を書く母親が登場する
  • 夫の浮気を気にして、携帯電話を盗み見る場面がある
  • 家族のあり方が作品のメインテーマとなっている

前回『坂の途中の家』の感想では、世の中の小説には、「毒にも薬にもならないエンタメ作品」と「読者に考えることを強いるような、苦い良薬作品」があり、大きく性質が異なる、というようなことを書いたが、前者の作品としては、メフィスト賞受賞作をイメージしていた。
しかし、メフィスト賞受賞作である『誰かが見ている』は、もうちょっと考えさせる作品になっている。そうすると、以下の3段階に分ける方がいいかもしれない。*1

  1. テーマ性が希薄で、エンタメに特化
  2. テーマを読者に投げかけるが、読者は安全地帯
  3. テーマを読者に投げかけ、かつ、読者自身に考えることを強いる

そうすると、普通の小説は「2」に入って、むしろ「1」や「3」が少ない。
例えば、桐野夏生は、作品ごとに明確なテーマがあり、1には当てはまらない。テーマが一般的かどうかによって、2と3の間ということが言える。
繰り返すが、メフィスト賞は、あくまで1のカテゴリーに入るものと思っていたが、この作品が受賞しているところを見ると、エンタメではなく、テーマ性で評価されているのかもしれない。
ところが、自分は、この作品を、エンタメ、社会的テーマのどちらの観点からも好きになれなかったのでした。(以下、かなりネタバレ)




何が自分にとって不満だったのか

まず、エンタメの観点から言えば、伏線回収後に、メインの登場人物である4人の女性すべてが前向きな形でラストを迎える終わり方が、あまりにご都合主義で、現実味がない。以前、書いた言葉を使えば、一気に登場人物たちの「実在感」が乏しくなり、共感できなくなる。特に、夫婦の不仲は誤解がもとに生じているということはあるだろうが、それゆえに長引くのであって、一気に誤解が解けるということは無いように思う。
結局「他人の考えていることは分からない」、というニュアンスで終わる(というより終わらない)『坂の途中の家』のオープンエンドと比較すると、『誰かが見ている』は「おじいさんとおばあさんは幸せに暮らしました」タイプの安易な終わり方と言え、あまり胸に残らない物語となった。


テーマの観点から言えば、家族や子育てについての物語であるのは好みのタイプの作品と言える。
ミステリとしても、千夏子が、不妊治療の末に授かった我が子をひとめ見て、なぜ「私の子供じゃない」と思ったのか、という部分と、幸せいっぱいに見える柚希も我が子に秘密を抱えているという部分は謎の核としてうまく機能している。終盤に、柚希が実は不妊治療を諦め、特別養子縁組で杏を養子に迎えた、ということが明かされ、彼女が、(子育てに悩み「娘なんて産むんじゃなかった」と口走った)夕香に対して、怒りを覚えるという流れもすんなり理解できる。*2
結局、この作品での作者の主張は、柚希の幾つかの独白に表れていると思う。

子供を育てるとは、どういうことなのか。
子供の幸せとは何なのか。
障害があっても、愛しぬくと誓えるか。
もし万が一、自分たちに子供ができたとしても、同じように愛情を注ぐことができるか。
お互いの意見を交わし、納得し、そして、……養親になることを決めた。
p243

夫と膝を突き合わせて話をしてきた中で、何度も確認しあったのは、もし、自分の思うように子供が育たなくても、「養親にならなければ良かった」と、投げ出したりしない覚悟があるかということだった。着せ替え人形をもらうわけではない。一人の、感情がある、立派な人間とつき合っていくのだ。実子だろうと、養子だろうと、それは何ひとつ変わらないと、夫との意見はまとまっていた。父親も母親も、そして子供も、別の人格でいろんな考えがある。そんな人同士で、仲良く暮らしていくのが、家族という形なんじゃないか、と。
だからこそ、夕香が言った言葉が許せなかった。
p246

柚希の考え方にはとても共感できる。
しかし、その後、夕香を許せなかった自身の考え方を反省し改めるところまで含めて、柚希との語る言葉は、とても説教くさく聞こえ、これもまた実在感に乏しい。しかも、終盤の展開は、柚希の考え方が伝播して多くの人が改心するような流れで進むので、登場人物が自ら考えた結果ではなく、店内に「蛍の光」が流れて、そろそろ店じまい、みたいな雰囲気を感じてしまう。


タイトルは、千夏子が「神様」として扱われていたブログでの「嘘」を「誰かが見ていた」というストレートな意味がまずある。それ以外に、結子が最後に結婚式で誓いの言葉を述べたあとで、「神様」に「見てなさいよ」と宣戦布告する台詞があるが、「誰かが見てくれている」というポジティブな意味でつけているのだろう。
これもものすごく巧いタイトルというわけでもない。話は面白くないわけではないが、やはり、この作品がメフィスト賞受賞作と言われると、不思議な本でした。
宮西真冬さんは、そもそも『首の鎖』『友達未遂』に興味を持って知った作家さんなので、そちらも読もうと思います。
あと、メフィスト賞受賞作といえば、話題のこの本も早く読みたいです。

首の鎖

首の鎖

友達未遂

友達未遂

線は、僕を描く

線は、僕を描く

過去日記

pocari.hatenablog.com
→こういう、何故このベストセラーを自分は好きになれないか式の文章は、個人的すぎて人に読ませるものでないのですが、自分の趣味を探る上ではとても重要で、本を選ぶ際の指針になっているような気がします。この続きの文章と合わせて、「実在感」の重要性について書いています。


以下、メフィスト賞受賞作関連の感想。

*1:2軸を考えて4つに分類することも考えたが、テーマ性が希薄で考えることを強いるような小説は無い気がする… →と思ったが、いわゆる「純文学」は、テーマに拠らないで、読者に考えさせるタイプの作品かもしれない

*2:実際には、トリックみたいな形で「特別養子縁組制度」が出てくる流れに最初は戸惑いましたが、柚希の性格が真っ当だったので、その面での不満はなくなりました。でも、もう少し柚希の「黒い面」が出ていたらとても面白い本になっていたように思います。