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最高のホラー小説、来た~澤村伊智『ぼぎわんが、来る』

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

今回、順序的に、中島哲也監督の映画『来る』を今年の正月に観に行ったあと、原作小説として、この本を読んだ。
映画を観ていたので、筋はある程度知っていながらも、終盤になればなるほど、映画と離れていくストーリーに手に汗握り、全体を通した普遍的なテーマに頷き、驚いた。
原作が先か、小説が先か、ということはよく考えるが、この作品についてはどうだろうか。自分としては、小説と映画で終盤が全く違う中で、よりダイナミックな演出で物語を楽しめる映画のあとに、より精緻に物語を味わえる小説を読んだのは正解だったと思う。キャストも松たか子の琴子役がプロレス(やり過ぎ)的な感じはするが、それ以外はイメージ通りだ。

映画の凄さ

小説を読んで、映画『来る』はとても面白い映画だったのではないか、と改めて思い直した。実際、小説に合わせて映画も3部構成になっているが、秀樹(妻夫木)視点の第一部、香奈(黒木華)視点の第二部までは、視点転換によるどんでん返しもあり、小説の面白さを映画でもうまく再現出来ていた。
つまり、最初に主人公だった「イクメンパパ」秀樹の表と裏がよく分かる心理サスペンスになっていた。*1
しかし、映画の見せ場は第三部。ここで一気にキングオブモンスターズみたいなイメージの映画になるため、第二部までのよく出来た心理ドラマは吹き飛んでしまっていた。
映画を観て数日後のメモを見るとこう書いてあった。

2019年の最初に観た映画。
妻夫木聡のクズ役が話題になる映画だが、青木崇高*2のダメ感も凄い。ただ、この2人のダメ感を引き立てる黒木華が女優として優れているのかも。
この人も、この人も、死んじゃうのか…と主要登場人物の退場に驚いていると、後半は、ホラー映画というよりは災害映画になり、日本最強の霊媒師・松たか子の役回りが重要になる。男を蹴飛ばすシーンなど終始カッコいい彼女だが、お祓いのシーンでの発声が圧倒的だったら、この映画は断固支持だった。

とはいえ、後半の、日本はもう終わりかもしれない、という感じはとても良かった。
少なくとも小説は続編もあるので、映画の原作『ぼぎわんが、来る』から読んでいきたい。なお、キャバ嬢霊媒師・真琴が小松菜奈であることには全く気が付かなかったし、今もピンと来ない。
何よりピンと来なかったのは「オムライスの国」かな…笑

「オムライスの国」…!!!(笑)
そうでした。
何だよこれ!というオムライスの映像もとても印象的だった。
(今でも、思い出しながら、何だよそれ!と突っ込みを入れています)

岡田准一×黒木華×小松菜奈!映画「来る」ロングトレーラー


原作小説の凄さ

さて、原作小説の素晴らしさについては、千街晶之さんの解説が上手くまとまっていて、ほぼ何も付け加えることがないので、ここから引用する。

物語の骨格自体は、目新しさを売りにしているわけではなく、むしろ古典的でさえある。例えば、怪異から呼びかけられても答えてはいけない…という設定は、この種の会談ではお約束と言っていいが、それをこんなにもモダンな印象のホラーに仕上げてみせた匙加減は絶賛に値する。
怖さの演出効果において秀逸なのが、「ぼぎわん」という、見ただけでは意味が全く分からない不気味なネーミングだ。(略)著者は得たいの知れない単語で恐怖や不安を醸成するのが得意であり、これは独自の強みと言える。
本書の特色は、構成の妙味にもある。すでに触れたように本書は三つの章で視点人物が異なるのだが、どの人物も(そして他の登場人物たちも)他の章では全く異なる印象で描かれており、主観と客観の落差が読者に大きな衝撃を与えるのだ。
(略)そして、この主観と客観の際を利用したどんでん返しによって、古来の伝承と、現代的かつ普遍的な問題とが結びつき、ひいては「ぼぎわん」の正体が解ける仕組みとなっているのだから、つくづく巧いと感嘆するしかない。本書に限った話ではなく、著者の小説では、恐ろしいのは怪異そのものに限らない。怪異を生み、あるいは招き入れる人間の心もまたおぞましさに満ちている。そうした怨念や自己正当化や劣等感など…言ってみればひとの心に生まれる隙間の描き方でも、著者は部類の切れ味を見せるのである。

ネタバレをしてしまうと、結局、『ぼぎわんが、来る』でメインテーマとなる「現代的かつ普遍的な問題」というのは、DVなのだが、それに絡んだ関係者の心理、社会的な要因が、色々な側面から描写される。それによって、傷ついた人の心理、身内にDV加害者がいた家族の受け取り方など、読者は、様々な視点を得て、DVという問題を深く考えることになる。


印象に残ったシーンは、香奈視点の第二章で、部屋の中のお守り類が切り刻まれる事件が起きた日の描写。
急に早く帰って来ることになったパパと過ごすために、れみちゃん家族との食事の約束がなくなってしまった知紗が「パパきらい」と香奈に告白し、続けて「パパ…こわい。こわいにおいがする」というシーン。
実際に起きることではなく、「起きる予感」が最も怖い、という、恐怖の本質が、この言葉に表れているし、より本能的な「におい」に訴えることによって、読者のイメージを掻き立て、DVという作品全体のテーマを補強している。


この台詞のあと、知紗が泣き止んでから香奈が、秀樹の机の上にあった「イクメン名刺」を発見して、キレてお守りを切り刻む。ここは、秀樹視点の第一章で「ぼぎわん」の仕業だったとされていた事件の犯人が、実は香奈だったというどんでん返しになっている。小説も映画もこの部分は基本的には同じである。


しかし、知紗が頭を怪我した日のことについての小説での扱いは映画とはかなり異なり、物語で一番印象に残った。
すなわち、第1章では、救急車で病院に行った話が、「イクメンBlog」で秀樹の活躍を示すエピソードとして語られ、第2章では、全く頼りにならなかった秀樹の本当の様子が、香奈視点で描写される。全体的に、第2章は、妻の香奈が、秀樹にどれだけ苛々させられていたか、を示す裏話的な内容になっているので、この章で、大体の部分は取りこぼしなく「事実」が語られる。映画も同様である。
2章では、この事件について次のように香奈は書いている。

後で知紗から聞いた話によると、怪我の原因は「走っていてテーブルにぶつかった」という、ごくありふれたものだった。最悪のケース…秀樹が知紗を小突いたか、突き飛ばしたかして怪我をさせた…を想定してさえいたわたしにとっては、ひとつの救いであった。p193

しかし、3章では、秀樹の母親が、姉(秀樹の伯母)が亡くなった事故について「お、お母ちゃんは、事故や言うてたわ。どんな酷い人でも、父親が娘を殺すわけない言うて。走って転んで、つ、机に頭ぶつけただけやって」と琴子に言うのを知り、驚愕する。
2章で、すべて明らかになっていたと思われた知紗の事件にも裏があった可能性が高いことに読者が初めて気がつく仕組みになっているのだ。


このようにミステリ的な仕掛けを用いて、人間の怖さを描いてみせた『ぼぎわんが、来る』は、エンタメでありながら、前回読んだ『誰かが見ている』以上に、社会的なテーマを多角的な視点から掘り下げた意欲作だと言える。
極端に言えば、ひとことの教訓で示すことのできるテーマやメッセージを、いかに多角的視点から、手を変え品を変えて言葉にし、読者の心の奥底にまで入り込むことが出来るか、が、小説の良さを説明する最も大きなポイントであると気がついた。読者側からすれば、たくさんの視点を「持ち帰る」ことが読書の意味であると言える。
ありきたりの教訓や物語では「持ち帰る」ものは少ないのです。


ホラー小説としても、はじめて鈴木光司『リング』や貴志祐介『黒い家』を読んだときのことが思い起こされ、伝統のブランド・角川ホラー文庫の作品をもっと読みたくなりました。
次は、識者のオススメにより『キリカ』を読みますが、勿論、比嘉姉妹シリーズは続けて読んでいきたいです。

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ししりばの家

ししりばの家

などらきの首 (角川ホラー文庫)

などらきの首 (角川ホラー文庫)

*1:実際には、3部以外に、妻である香奈の位置づけも映画と小説では大きく異なる。映画では、香奈は不倫関係にあり、第2部ラストで死んでしまい、秀樹との比較の中で「どっちもどっち」という印象を残す。原作小説では、男性社会批判の要素が強いのを薄めた可能性があるのは少し残念。

*2:優香の旦那さんなんですね!