Yondaful Days!

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男女逆転小説で味わうべき恐怖〜ナオミ・オルダーマン『パワー』

パワー

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ちょうど一週間前に、『したたかな韓国』を書いたあと、韓国がGSOMIAを破棄するなど、日韓関係がさらに悪化する中、こんな事件があった。

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こういうニュースを見ると、本当に酷いことを言う人がいるのだな、と驚くのと同時に、この人たちはどういう人?と思ってしまう。*1
そして、自分は本が好きなので、こういうネット上に跋扈する暴言の発言者は、ネットばかりで「本を読まない人たち」だろう、と決めつけ、とりあえず自分との間に線を引く。
ところが、例えば、好きになれないネット民としてすぐに頭に浮かぶ、いわゆる「ネトウヨ」の人たちは、「論破」が好きなので、本で勉強して理論武装をするのも好きらしい。書店では嫌韓本や日本スゴイ本が大いに売れている。


すると、自分は、自己防衛的にこう思う。
彼らは「正しい」ことが好きで、自分の「正しい」を補強する本は読むけど、フィクションは読まないのでは?他人に感情移入できない人は小説を読めないでしょう…と。
ところが、彼らは百田尚樹の小説も読むようだ。自分が百田尚樹の小説を読みたくなったのは、そこに理由がある。自分が読む「小説」と、百田尚樹の書く「小説」には、何か根本的な違いがあるのでは?と思ったのだ。


さて、実際に著作を読んでみて、(まだ2冊しか読んでいない中で、断定的に書くのはダメだと思いつつ)現段階での気持ちは以下。

まず、百田尚樹の小説は面白かった!しかしそれはエンタメ度が高く、読者を抜群に楽しませてくれるが、読者自身は安全地帯にいたまま、脅かされないタイプの小説(これ自体は悪いことではなくスカッとする小説には必要ですが)なんだと思う。*2
自分はそういう小説も大好きだが、一番好きなのは、スカッとしない、読者が安全地帯から引きずり降ろされるような小説で、今回読んだ『パワー』もそのような小説だ。


話は飛ぶが、先日、あいちトリエンナーレに行ってきた。よう太と二人で、炎天下の中、3日間をかけて4会場を回ったので、われながら気合が入っている。
自分が現代芸術を好きなのは、「そんな見方があるのか!」という驚きや発見があるからだ。
勿論、楽しい「驚き」も多いが、ときには、自分には受け入れられないものや、過去の自分の誤りを省みてしまうような作品もある。でも、そういうきっかけが無ければ、気が付かないものだ。
そこには「意味」がなくてもいい。例えば、自分の名前が道路名称に見えることから、名のない通りに、自分の名前の標識を立てまくった「葛宇路」という作品は面白かった。
意味のないものでも、そこに芸術家という人間を介することで、世界をこのように見ている、楽しんでいる、考えている、怒っている人がいることを知る。月並みな言い方だが、それは多分、生きることを豊かにする。

『パワー』が教えてくれる「怖さ」

最初に引用した事件と、それをめぐる発言の話に戻るが、こういう発言をするタイプの人(おそらく男性だろう)は、あまり他人が何を感じ、考えながら生きているかに関心がないのだろうと思う。
そういう人にオススメなのが、この『パワー』だ。

ある日を境に、女たちが、手から強力な電流を発する力を得る。最年少かつ、最強の力を持つ14歳の少女ロクシーは母を殺された復讐を誓い、市長マーゴットは政界進出を狙い、里親に虐待されていたアリーは「声」に導かれ、修道院に潜伏する。そして、世界中で女性たちの反逆がはじまった―。オバマ前大統領のブックリストや、エマ・ワトソンフェミニストブッククラブの推薦図書となった男女逆転ディストピア・エンタテインメントがついに邦訳!


全世界の女性が一斉に「パワー」を持つことで男女の力関係が逆転する。
これまで弱い立場だった女性たちが各地で声を上げて反抗していく序盤は、ある種「よくある話」で読み物として男性でも読みやすい。
ところが女性が、立場的にも肉体的にも男性を圧倒する後半はなかなか憂鬱だ。渡辺由佳里さんの解説から引用する。

パワーのおかげで社会の男女の権限も変化する。政情が不安定なある国で残虐な女性が政権を握り、独裁者として男性の虐待を行うようになる。
電気刺激を与えられるパワーにより、女性は男性を虐待することもできるし、殺すこともできる。性交を拒否する男性に電気刺激を与えて勃起させることができるので、レイプもできるし、性奴隷にすることもできる。男の性奴隷の命は安いので、虐待して殺しても、利用する側には罪の意識はない。
男性は女性の保護者なしには外出も買い物も許されなくなる。単独で行動すると、食べることができなくなり、女性集団から襲われ、性的に凌辱されたり、殺されたりする。
「子孫を残すために男は必要だが、数が多い必要はない」と男性を間引きする案も女性から出るようになる。

主要登場人物は、あらすじに書かれているロクシー、マーゴット、アリーという3人の女性以外に、トゥンデというジャーナリストの男性がいる。このトゥンデから見た世界が、後半でどんどんおぞましくなっていくのが本当に怖い。例えばこの部分。

路上で女たちの集団ーーー笑ったり冗談を言ったり、空に向かってアークを飛ばしたりしているーーーのそばを歩いたとき、トゥンデは胸のうちでこうつぶやいていた。ぼくはここにいない、ぼくは何者でもない、だから目を留めないでくれ、ぼくを見ないでくれ、こっちを見てもなんにも見るものは無いから。
女たちはまずルーマニア語で、それから英語で声をかけてきた。彼は歩道の敷石を見つめて歩いた。背中に女たちが言葉を投げつけてくる。淫らで差別的な言葉。だが、彼はそのまま歩きつづけた。
日記にこう書いた。「今日初めて、路上でこわいと思った」
P331

女たちは、どうしようもない怒りや憎しみから男性に向けて暴力を振るうのではない。遊び半分で男をレイプし、殺してしまうことすらあるのだ。
これまで、(特に今年は多くの)フェミニズムの本を読み、男女を置き換えて考えてみる訓練をしたつもりになっていた自分にとっても、この後半のトゥンデから見た世界は、初めて知る「怖さ」があった。もちろん、女性全てにとっての世界ではないことは理解している。それでも、念入りに描き込まれる(複数女性で男性を凌辱する)レイプシーンなども辛く、性暴力被害についても新たな気持で考えてしまった。
再び渡辺由佳里さんの解説から引用する。

この小説は、「レイプされるのは、襲われて抵抗しない女性が悪い」とか「女性が独り歩きをしていたら、襲われても当然」、「嫌だと言いながら、本当は楽しんだのだろう」といった男性の言い分に対する、非常に直截的な返答だ。そういう男性に対して、「パワーが逆転したら、あなたはレイプされて殺されてもOKなのでしょうね?」と問い返している。
この小説で、パワーを持って暴走し始めた女性が行う行動は、非人道的で、残虐すぎるように思える。女性読者である私にとっても読むのがしんどい部分が多いが、男女を置き換えれば、これらは男性社会が女性に対して実際に行ってきたことなのだ。まったく誇張はない。
なぜ、男女を変えただけで、これほど残酷に感じるのだろうか?そこを読者は考えるべきなのだろう。

繰り返し書くが、こういった問題を考える際に、具体的な事件や報道よりも、小説という回り道の方が、その本質を伝えることがあると思う。
少なくとも自分は、この小説の後半に、かなりの「怖さ」を感じたし、多くの男性に、同じ「怖さ」を味わってほしい、考えてほしいと思った。

補足的に挙げたいこの小説の2つのポイント

さて、書きたい内容は書き終えたが、この小説の良さを補足的に2点。


まず1点目は、この小説が、(今から数千年後の世界で)ニール・アダム・アーモンという歴史学者が研究の成果を広く伝えるために「小説」という形式をとった、という体裁で書かれていること。
「まえがき」と「あとがき」部分で、ナオミ・オルダーマンとニールのやりとりがあるのだが、ナオミがニールに寄せた期待が面白い。

じつに楽しみです!おっしゃっていた「男性の支配する世界」の物語はきっと面白いだろうと期待しています。きっといまの世界いずっと穏やかで、思いやりがあって、(略)ずっとセクシーなせかいだろうな。

遥か未来の、女性が支配する世界は、穏やかではなく、思いやりに欠け、ナオミはそれにうんざりしているようだ。


2点目は、女性のパワーが、単に能力としてではなく、「スケイン」という器官(鎖骨にまたがるように発達した横紋筋の組織。糸を束ねてねじったような形状。)という外形上の特徴に表れる、ということ。
これは作品世界の「性」のあり方の一つのポイントになっており、スケインが発達していることは、女性の力の象徴となる。したがって、スケインに異常があることは恥じるべきことなのだ。
女性主人公の一人、マーゴットの娘ジョスリンの悩みはまさにそこにあり、パワーを持った女性の中でも虐げられる女性がいることがわかる。これも実際世界の裏返しになっており、そこに小説内のリアリティを感じる。


ということで、かなりしっかりと考えられた世界観に基づいて作られた物語になっている。
今年は珍しく、翻訳小説をいくつか読んでおり、『蜜蜂』もディストピア小説として面白かったが、この『パワー』は、それ以上に、自分が暮らす普段の世界と地続きで、色々と考えさせられた。
年末に向けて、あと一冊くらいは読みたいな。

蜜蜂

蜜蜂

*1:勿論、もとの暴力事件が一番ダメなのはわかっています

*2:申し訳ありません。2冊しか読んでいないので、これからもっと研究しますが、今のところのイメージで書いています。本当に申し訳ありません。