Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

2019年一番面白かった小説~砥上裕將『線は、僕を描く』

そろそろ2019年も終わりが近づいてきましたが、今年一番面白かった小説に出会えました。
直前に見た映画『家族を想うとき』から真逆に触れる内容のため、やや過大評価な気もしますが、自分は、結局こういう前向き青春小説が大好きなことを自覚しました。

線は、僕を描く

線は、僕を描く

  • 作者:砥上 裕將
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


きっかけ

まず、本を知ったきっかけから。
この本は7月に出た本ですが、何と言っても「あの」メフィスト賞受賞作ということで、気になりました。
メフィスト賞と言えば、森博嗣西尾維新、最近では早坂吝や柾木政宗など、正統派ミステリとは一線を画す、「変なミステリ」が多い賞で、過去にも多くの作品を好んで読んでいます。
それなのに、どうもミステリではなく、青春小説らしいということにまず驚きました。
そして、さらに、題材としているのが「水墨画」で、著者自身が水墨画家というところに二重の驚きがありました。
で、結局、読みたいと思い続けて後回し後回しにした結果、この年末に読むことになったわけです。

あらすじと名言

あらすじはこんな感じです。

両親を交通事故で失い、喪失感の中にあった大学生の青山霜介は、アルバイト先の展覧会場で水墨画の巨匠・篠田湖山と出会う。なぜか湖山に気に入られ、その場で内弟子にされてしまう霜介。それに反発した湖山の孫・千瑛は、翌年の「湖山賞」をかけて霜介と勝負すると宣言する。
水墨画とは、筆先から生みだされる「線」の芸術。
描くのは「命」。
はじめての水墨画に戸惑いながらも魅了されていく霜介は、線を描くことで次第に恢復していく。


もう、これはずるいとしか言えないけれど、水墨画の小説を読むのが初めてなので、表現の使い古し感が薄く、読書体験自体が新鮮に感じました。
喩えるならば、初めて『美味しんぼ』を読んだときの感動に近いですが、『美味しんぼ』のような蘊蓄型に偏らず、水墨画の知識を入れていく流れが、とても自然で素晴らしいものとなっています。
最初は、アルバイト先として水墨画に初めて触れることになる主人公の青山君ですが、彼は生きようとする意識が希薄で、篠田湖山の突然の「内弟子宣言」を受けても、水墨画について能動的に調べたりしないのです。通常であれば、漫画でもドラマでも、それをきっかけに主人公が水墨画について調べ、その流れで読者も水墨画の基礎知識を仕入れていくことになるはず。
しかし、青山君は、知識ゼロで湖山先生のもとを訪れ、謎かけのような湖山先生の教えを受けながら少しずつ水墨画についての知識を得ていきます。
読者としては、それ以外に、青山君の同級生である古前君や川岸さんに千瑛が教えるシーンや、西濱さんと青山君の会話の中からも、水墨画について理解を深めていきます。


最初の講義での湖山先生の言葉は強く印象に残ります。

「でも、これが僕にできるとは思えません」
「できることが目的じゃないよ。やってみることが目的なんだ」
p51

「水墨の本質はこの楽しさだよ。挑戦と失敗を繰り返して楽しさを生んでいくのが、絵を描くことだ。」
p53


以降、湖山先生や登場人物の名言。まず、二回目の講義での湖山先生の言葉。

いいかい。水墨を描くということは、独りであるということとは無縁の場所にいるということなんだ。水墨を描くということは、自然との繋がりを見つめ、学び、その中に分かちがたく結びついている自分を感じていくことだ。その繋がりが与えてくれるものを感じることだ。その繋がりといっしょになって絵を描くことだ。
p67


西濱さんも。

「何も知らないってことがどれくらい大きな力になるのか、君はまだ気づいていないんだよ」
「何も知らないことが力になるのですか?」
「何もかもがありのまま映るでしょ?」
p81

千瑛も。

水墨画はほかの絵画とは少し違うところがあります(略)
線の性質が絵の良否を決めることが多いということです。水墨画はほとんどの場合、瞬間的に表現される絵画です。その表現を支えているのは線です。そして線を支えているのは、絵師の身体です。水墨画にはほかの絵画よりも少しだけ多くアスリート的な要素が必要です。(略)
それからもう一つ、その線の性質というのは生まれ持ったものがあります。たくさんの線を眺めていると、それがどんな気質のどんな性格の持ち主が描いたのか、というところまで推察することができるようになります。(略)人の声に似ています。
p128

再び湖山先生。

「才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない(略)
絵にとっていちばんたいせつなのは生き生きと描くことだよ。そのとき、その瞬間をありのままに受け入れて楽しむこと。水墨画では少なくともそうだ。筆っていう心を掬いとる不思議な道具で描くからね。
p141

芸術の本質的何か

という風に名言を振り返りながら読み直して、やはりこの小説の面白さは文章にあることを再確認しました。
読後しばらくたって思い返したとき、色々なご都合主義的展開やキャラクターの立ち方も含めて、とても「漫画」的で、流れるようなストーリーの巧みさに、この小説の本質があると、自分の中で位置付けていました。
しかし、読み返してみると、むしろ、流れるようなストーリーの中に、主人公の精神的な恢復と、何より「芸術の本質的何か」が、織り込まれているところが、この小説の凄いところです。


水墨画の単なる「分かりやすい解説」を入れていくなら誰でも出来るのかもしれません。
しかし、芸術家が、作品に何を込めているのか、何が作品の価値を決め、評価されるのか、という部分は、やはり、その芸術に長い時間をかけて向き合った者にしか分からないのでしょう。例えば、最初から芸術家然としておらず、「頼りになるお兄さん」キャラだった西濱さんが、初めて筆を握ったとき、その作品から青山君が受けた衝撃を、説得力を持った言葉で表現することは、誰もが出来ることではありません。
それは、翠山先生や湖山先生のような巨匠が描くときの描写も同じで、相当の筆力がなければ、その人物像と合わせて作品の特徴を細やかに表現していくことはできないでしょう。


そして、最初に「ミステリではない」と書きましたが、湖山先生が青山君にかける言葉の中に数々の「謎」が含まれていて、青山君の恢復過程とともに、その謎が解き明かされていくのは、実は、とてもミステリ的と言えるのかもしれません。
水墨画ではないですが、芸術を扱った小説は多く、今年映画化もされ、続編小説も出た恩田陸蜜蜂と遠雷』などは未読なので、これらの作品が「芸術の本質的何か」をどう描いているのかも気になりました。
なお、既に2巻まで出ているコミック版も気になります。というのは、実際の水墨画のビジュアルが出てこないことが、小説の強みだと感じたからです。
漫画では、その手法が取れず、それだけでなく、どうも、一部(すべて?)の水墨画を、著者の砥上裕將さん自身が描いているということで、是非そちらも見てみたいです。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

祝祭と予感

祝祭と予感

線は、僕を描く(1) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(1) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(2) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(2) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(3) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(3) (講談社コミックス)