Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

僕がビブリオバトルを好きな理由~熊谷晋一郎『小児科の先生が車椅子だったら』

熊谷晋一朗さんは、東京大学先端科学技術研究センター准教授で小児科医、新生児仮死の後遺症から脳性麻痺になった方で、1977年生まれということで同世代の方だ。
この本は、定期刊行物〈ち・お〉のNo123号ということになり、前半部の熊谷さんによる文章は以下のように3章からなる。

  • 第Ⅰ章私の体を見てください─「ふつう」とちがうところはどこでしょう?
    • 障害って、どこにあるんだろう?
    • みんなは、見えにくい障害もってる?
    • 体のなかにあるのか、外にあるのか
  • 第Ⅱ章こどものころのはなし─祈りながら母は幼い私を組み伏せた
    • 私が家出をできたのは
    • 医学が敗北を宣言したとき
    • 「効果がない」というエビデンス
    • 「社会モデル」という考え方
    • 語れない人たちの「コ・プロダクション」
  • 第Ⅲ章障害と競争と依存の関係─アスリート・パラリンピアンと依存症当事者研究より
    • 依存症は依存できない病
    • 「自立・自律」の優等生
    • 私たちは競争に巻きこまれすぎている
    • 重度障害者とアスリートに通じること
    • 競争からの脱却


中でも、小学生への講演をまとめた第1章で学生時代のエピソードとして語られる「医学モデル」と「社会モデル」の話が簡潔でわかりやすい。

あるとき、「お前は障害はどこにあると思う?」と先輩に問われました。私は思わず、「脚ですかね?頭ですかね?」と答えました。自分の体の内側、皮膚の内側を指してそう答えたのです。
ところが、先輩は即座に「ちがう」といいました。
そして、「障害は皮膚の内側にあるんじゃない。エレベーターがついていないあの建物のなかにある」。つまり、皮膚の外側に障害はあるんだ。「直すべきは社会の側なんだ。おれたちは治らなくてかまわない」。そういってくれたのです。 p84

この言葉は、努力すれば必ず「治る」と言われ続けて、辛いリハビリに疲れ果てた熊谷さんにとっては、一種の救いともなった言葉だった。


研究者となった熊谷さんは、これを、サービスを使う側の立場のユーザーが、かなり最初の段階からサービスのデザインに携わる「コ・プロダクション」という考え方に広げ、知的障害を持つ方とのコミュニケーションの問題について「コ・プロダクション」を進める。

うまく語れないということが語る側の責任のように思われがちです。
たとえば、「重度の知的の障害があるから語れない」という言い方に、どうしてもなりがち。けれども、よくよく考えてみるとコミュニケーションは語る側と受けとる側がいる。そもそも、受けとる側もうまく受けとれないという部分があると思うんです。
そういう意味で善意であっても、語れない本人の問題にしすぎてしまうようなことを、なんとか乗り越えなくてはいけないと思うのです。p90

この問題に対して、熊谷さんは、一人の語り手に対して100人の聞き手がいれば、一人一人が1%ずつを拾えるかもしれないという考えから「数で勝負するコミュニケーション支援」ということを考える。
障害者の介助を、親にしか頼れない、もしくは職人のような方にしか頼れないと、どうしても行き詰ってしまうという経験上の課題から、依存先をできるだけ多く増やしたいということが「数で勝負する」ことの当初の意図としてあった。 
しかし、実践してみると、それ以上に発見がある。

「数で勝負」をやってみていちばん手応えを感じたのは、ご本人が表現しようとしていることが、よりたくさん拾われるということ。それはもちろんなんです。けれど、もっと大事だったなと思うのは、そのワークをする、そういうとりくみをするなかで、みんなが知的障害をもっているご本人に注意を向け続ける空間が発生したことでした。
私はそれがなにより重要だったなと思いました。
なぜかというと、相手と意思疎通がなかなかとれないと、なんとなく人は気まずくなってしまいませんか。それで、ご本人ぬきでまわりの人と話をしたりしてしまいやすい。
でも、ワークのなかで「さあ100人で、みんなで読み解くぞ」と始めると状況は変わります。

この考え方を知って、ビブリオバトルの楽しさがまさにこれなのではないかと感じた。
つまり、ビブリオバトルは、本を知ること以上に、「コミュニケーションが成立する」「コミュニケーション成立のために聞き手が努力する」というところに快感ポイントがあるのではないかということだ。熊谷晋一朗さんが「一人の語り手に対して100人の聞き手がいれば、一人一人が1%ずつを拾えるかもしれない」と考えた通り、語り手がむしろ「下手」な方が、聞き手が全員で「言いたかったことを探り出す」空気が生まれる。「みんなが、ご本人に注意を向け続ける空間が発生」するのだ。
実際、聞き手が皆で「思いを引き出した」本ほどあとで思い返すと印象に残っており、ビブリオバトルが、話が上手い人が勝つゲームではない理由もそこにある。
また、そうやって、「コミュニケーションを成立させる」ための仕組みがルールの中に含まれているところがポイントなのだろう。
特に、学校などでビブリオバトルが扱われる場合、「発表」の練習という位置づけとなることが多いのかもしれないが、聞き手が主体的に参加できる「コミュニケーション」の練習としての位置づけられるべきだと改めて感じた。


そのほか、3章で触れられている依存症の本質(身近な人に依存できないこと、過去を振り返らないこと)についての説明や、競争(ゲーム)が変わると障害者の範囲も変わり、近年、コミュニケーションが重視されるようになって、発達障害という考えが広まってきたという分析も面白かった。
「障害」について考えてみるつもりで読み始めたが、読んでみると、もっと広く普遍的な「コミュニケーション」についての発見がある本だった。
熊谷さんの考え方については、引き続き、もう少しまとまった文章を読んでみたいので、次はこれかな。

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

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