Yondaful Days!

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異形の設定には異形の展開を期待してしまった~黒澤いづみ『人間に向いてない』

人間に向いてない (講談社文庫)

人間に向いてない (講談社文庫)

とある若者の間で流行する奇病、異形性変異症候群にかかり、一夜にしておぞましい芋虫に変貌した息子優一。それは母美晴の、悩める日々の始まりでもあった。夫の無理解。失われる正気。理解不能な子に向ける、その眼差しの中の盲点。一体この病の正体は。嫌悪感の中に感動を描いてみせた稀代のメフィスト賞受賞作。
(裏表紙あらすじ)

巻末解説ブックガイド

巻末の東えりかさんによる解説はブックガイドとしても良かった。
2020年5月に文庫版が発売されたこの本について、東さんは、

『人間に向いてない』の文庫が発売されるタイミングで、このパンデミックが起こったことに、因縁めいたことを感じてしまう本書に描かれる「異形性変異症候群」という奇病が荒唐無稽なものだとは到底思えなくなってしまったのだ。

というように、新型コロナウイルスとの関連から文章を始めて、読後感が似ている作品として、北條民雄いのちの初夜』を挙げている。つまり、後遺症として容姿の変化が著しいハンセン病という病気に苦しみつつ執筆した北條民雄と、異形性変異症候群で虫のような姿となってしまった優一が重なるというのだ。
併せて、関連作品として、これらの作品も挙げている。お笑いコンビ「アリtoキリギリス」としてデビューした石井正則さんの写真集は、ちょうど気になっていた作品。13は全国にある13カ所の国立ハンセン病療養所を指すが、都内にある多磨全生園と国立ハンセン病資料館は行ってみたい。

いのちの初夜

いのちの初夜

13(サーティーン): ハンセン病療養所からの言葉

13(サーティーン): ハンセン病療養所からの言葉

ハンセン病療養所に生きた女たち

ハンセン病療養所に生きた女たち



一方で、引きこもりや家庭内暴力についても、一冊の本を挙げている。

ハンセン病にしてもエイズにしても、病によって家族関係が壊されることは珍しいことではないのだ。
ましてや姿かたちが変わってしまえば、人は簡単に差別する。動物や虫、魚や植物になってしまった我が子を、人間であったと信じられるだろうか。引きこもりなどで厄介者、お荷物になっていたとしたらなおさらだ。捨ててしまいたいと思う気持ちも理解できる。
現実でも引きこもりや家庭内暴力で悩んでいる人が多いことはたくさんの報道でも明らかだ。
『「子供を殺してください」という親たち』の著者の押川剛は「精神障害者移送サービス」という仕事に就いている。(略)
ここ数年は高齢の親が中高年の引きこもりを面倒みなくてはならない「8050問題」が取りざたされている。親はどこまで子の問題をみなくてはならないのか。『人間に向いてない』の大きなテーマの一つは、実はとても現実的な問題を提起している。

確かに、言われてみれば、この小説は、病気について、というよりも、直接的に「ひきこもり」の子を持つ親の話であると捉えた方がわかりやすい。 
しかし、この小説が、実際の病気や、現代日本が抱える問題をなぞっていると捉えられてしまうことは、この小説の大きな問題点のように思える。 

美晴の心理描写の巧みさ

この小説は、基本的に、虫になってしまった優一の母・美晴の視点で綴られるが、その感情の揺れ動きの描き方が上手く、圧倒的な読みやすさが魅力だ。
最初に事件(優一が虫になる)が起きたあとは、変異者の家族会への参加と、夫・勲夫との会話がメインの「何も起こらない日常」が描かれていく、という点は、角田光代『坂の途中の家』とも似ているように思う。
しかし、現実にはあり得ない設定が物語にスパイスを効かせる。それは、政府が「異形性変異症候群」を致死性の病とし、診断が下された段階で、患者は人間としては死亡したことにされる、という設定だ。(例えば、誤って死なせてしまっても、また、保健所に処分をお願いしても罪には問われない)
この設定があることによって、そして、勲夫が息子・優一を「お荷物」と考えていることによって、物語は、常に「殺人」と隣り合わせの世界を進むことになる。
そんな中で、美晴の、常に自省を繰り返す思考は、それだけで読んでいて癒しになる。例えば、家族会を通じて知り合った津森(同じように変異者の娘を持つが、事故で娘を亡くして、美晴とは別れることになる)への嫉妬を細かく分析するシーンや、息子・優一への思いが、自分のエゴだと気が付くシーンだ。

幸福を他人と比較するなんて間違っているとは承知している。持って生まれた境遇も何もかも違う。価値観も考え方も。それでも、現在の状況だけ見た場合に、津森は美晴よりもマシではないかと感じた。(略)
考えながら美晴はふと気づいた。(略)
美晴は津森のことが羨ましかったのだ。若さも希望も、夫と二人三脚で支え合って生きていくのだという決心も、彼女の持っているものすべてが眩しくきらきらと輝いているようで妬ましかったのだ。
(p220-222)

美晴の思う幸せな人生とは、人並みに大学を出て、人並みの会社に就職し、人並みに家庭を持ち、人並みの老後を送ること、である。(略)
勿論上を目指せるのなら、そうであっても構わない。ただし下ではいけない。底辺であってはいけない。…なぜいけないのか?苦労するからだ。辛い想いをするからだ。不自由な生活を送ってほしくないからだ。
人の親であればみな思うことだろう。普通の親なら、我が子の幸せを願うことだろう。
だから優一には美晴の思う『普通の子ども』であってほしかった。そうでなければいけなかった。正しい方向に導こうとしているのに、聞く耳を持たない息子に苛々した。
だが、言ってしまえばそれはすべて美晴のエゴなのだろう。
(p262-265)

このあたりの美晴の頭の中をめぐる思いの変化は、まさに噛んで含めるように、丁寧に描写されるため、読者は、「負」の感情への気づきの部分も含め、自然と美晴に共感していくようになる。
ストーリーよりも、この文体こそが、小説の一番の読みどころだと思う。

期待していたストーリー

しかし、心理描写に惹かれれば惹かれるほど、自分は、出来るだけストーリーとしては突飛なものを期待した。特にこの小説がメフィスト賞受賞作だったこともあり、大がかりな叙述トリックちゃぶ台返しを待ち望んだ。
というのは、自分はこの本をエンタメ作品として読んでいるのにもかかわらず、内容が具体的な病気や社会問題に似てきてしまうと、それっらの問題の「当事者」は、全くエンタメとしては読めないだろうと思えてきたからだ。
特に、終わらせ方は、ハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、当事者意識がある人が読めば、抵抗感を持つかもしれない。子を持つ親として、美晴の気持ちに共感すればするほど、その部分が気になっていった。
だから、中盤で突如始まるちゃぶ台返し展開(p226-)には、ほっとして、嬉しくなってしまった。すぐにぬか喜びに終わるのだが…。

構成とラスト

この小説には、ミステリっぽい構成上の工夫があり、プロローグ~1-4章~終章の中のほとんどは、内面も含む美晴視点の文章だが、いくつか異なる人物による文章が差しはさまる。

  • 1章末:山崎(「みずたまの会」主催)視点からの娘(変異体)の様子
  • 2章末:笹山視点からの娘(婚約破棄に遭う)と息子(変異体)の様子
  • 3章末:津森視点からの娘(変異体)の様子
  • 4章末:笹山の息子(変異体)視点による家族の様子
  • 終章:優一視点による家族(美晴を含む)の様子

4章末は、2章末で殺されてしまう笹山の息子、終章は、優一ということで、立て続けに、変異体、つまり、これまで一切コミュニケーションが取れず、モンスターとしてしか描かれなかった視点から物語が語り直される。
この構成は上手いと思う。思うが、彼らの語りは、やはりどこか卑屈に感じられ、読者としては、美晴に対してと同程度に共感するためには、もう少しページが割かれても良かった。


ラストについては、わざわざ優一にこう言わせているように、ハッピーエンドというわけではないことが強調されている。

献身の果てに、息子が元の姿に戻って、ハッピーエンド。大団円。今まで色んな苦しく辛いことがあったけれど、今となってはそんなことさえも良い思い出です。めでたし、めでたし。
……それでいいのか?
(p361)

確かに、美晴の視点からだけでは、優一が「元の姿に戻った」ことが、単なるハッピーエンドと受け止められていた可能性がある。また、このあとの優一の行動を理解するのは難しかっただろうし、その意味で、物語の展開に見合った構成となっており、構成の上手さは間違いない。
しかし、やはり現実に近い、しかし、あり得ない(突如、病気が治る+一番問題があった父親が…)展開にしてしまったことは残念で、せっかく社会的なテーマを掲げながら、最後にファンタジーに逃げてしまった作品のように感じられてしまった。この問題の当事者だと感じている人ほど、このラストには納得がいかないだろう。
そもそも、東えりかさんが最初に挙げたようなハンセン病を扱った小説には逆立ちしても勝てないのだから、設定だけでなく、終わらせ方ももっと突飛なエンタメ作品にした方が良かった。
しかし、非常に読ませる文章で、「他人事」として読めば、読後感も悪くはない。また、次の作品が大いに気になるメフィスト賞作家に出会えたのは本当に良かった。