Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

歴史地理に詳しくなりたい~『一冊でわかるロシア史』×『絶対に住めない世界のゴーストタウン』

職場の同僚に東ヨーロッパの国出身の人(日本語は問題なし)がいることもあり、ヨーロッパのロシア寄りの地域に地理的にも歴史的にも興味があります。
先日読んだ『マウス』も、歴史だけでなく、東ドイツポーランドなどの地理的な位置関係が勉強になりました。
ネットで「バカ日本地図」とか「うろ覚え日本地図」という企画が定期的に話題になり、テレビ番組で外国人に世界地図の中での日本の位置を答えさせて驚く、みたいな企画があります。あれは見ている側では確かに楽しいですが、自分が質問されたら、東欧やアフリカの国は勿論、西欧や東南アジアでさえ、位置どころか国の名前すら覚束ないかもしれません。
また、国際ニュース的には、ウクライナの話題は、ここ数年話題に上ることが多かったですが、12月にニュースになったアルメニアアゼルバイジャンの紛争の話は、その重大性と比べて、位置が全く分かりません。
そういうこともあり、積極的に歴史地理の勉強をしようと思い、少しずつでも勉強したいと思ったのでした。

『一冊でわかるロシア史』

この本は字が大きい。これは素晴らしいと思う。もう少し図表を増やしてもいい気がするが、圧倒的な量の少なさは、むしろ知りたければいくらでも調べられるネット時代に即している気がする。


しかし、一国の歴史だけを辿るのはなかなか辛いというのが改めての発見(笑)。
高校時代もセンター試験は倫理成型で受験したし、世界史というもの自体を勉強してきていないので、「東ローマ帝国」(ローマ帝国は知っているけど、東ローマ帝国とは?)とか基本的な国の名前がわからない。これは、他の国の歴史も併せて勉強しなくては!というように褌を締め直したのでした。

特に、何度も名前が登場するドイツ、またナポレオンの遠征で関係のあるフランス、そしてアルメニアの問題で対立がささやかれたトルコあたりとの関係を勉強したいです。

コーカサス地方とゴーストタウン

この本では、アルメニアアゼルバイジャンの歴史については触れられていませんでしたが、その北側にあるジョージアの紛争(2008年の南オセチア紛争)については数ページ割かれていました。
ソ連からロシアに変わる際に既に独立していたジョージア内の新ロシア的な南オセチアアブハジアジョージアと争ったのが南オセチア紛争。
南オセチアアブハジアは、停戦後に独立国家となるも、現在も「未承認国家」だと言います。

黒海カスピ海を繋ぐようにあるコーカサス山脈の南北に広がるコーカサス地方。カブトムシの名前についていたので知っている名前ですが、こういうのは間違って覚えている場合があると思い、本を見ると「コーサカス地方」と誤植があり、焦りましたが、コーカサスで正しいです。(別の読み方ではカフカス

f:id:rararapocari:20210110152721j:plain
p193図


なお、「アブハジア」という親しみの無い国名に見覚えがあり、振り返ると、以下の本にあったのでした。

絶対に住めない 世界のゴーストタウン

絶対に住めない 世界のゴーストタウン


紛争後に急激に衰退してしまい、市街地と周辺地域の大部分が無人のままだというアブハジアの町。山岳地方なので日本で言うと群馬や栃木の温泉街みたいな風景に見えますが、人がいないと知ると、色々と考えてしまいました。
Amazonの紹介にあるように「無理な都市計画、紛争による破壊、疫病の流行、鉱山の閉鎖、火山の噴火、大企業の撤退、一攫千金の夢の果て」、衰退した原因は、それぞれですが、どの写真も、そこに「(人が住んでいない)意味」を見出そうとしてしまいます。(羊頭狗肉なタイトルですが、アブハジアも含めて 住居規模に比べてごく少数が住んでいるところもあり。)
一方で、取り上げられた地域に親しみを持っていたり、歴史に関する知識があれば見方もまた変わってくるとも思ったのでした。


なお、この本の最初は東アジアの事例ということで、中国の無理な都市計画の事例が並び、やはり中国!と思っていたのですが、不動産バブルでゴーストタウン化したスペイン(セセーニャ・ヌエボ)の事例もあり、よく考えたら、日本のリゾートマンションも似ています。
しかし、そんなリゾートマンションもコロナ禍のテレワーク推進で再び注目が集まっている(テレビで見たのは越後湯沢)ようで、パリにそっくりなゴーストタウン天都城(中国)も人口が増えているという記事を見るにつけ、きっかけ次第なのかもしれないと思ったのでした。

まとめ

2021年も始まったばかりなので、今年はもっと(日本も含めて)歴史地理についての見識を深めようと思います。頑張ります。
ところで、ロシア史を概観してみても、バトルフィーバーJの中にバトルコサックという戦士がいる理由はわかりませんでした。謎は深まるばかりです。

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

いまさらですがソ連邦

いまさらですがソ連邦

迎撃!田島貴男「ディスコグラフィー・コンサート」(に向けた準備)

LOVE! LOVE! & LOVE!

LOVE! LOVE! & LOVE!

  • 発売日: 2016/02/03
  • メディア: MP3 ダウンロード

選手宣誓

2020年のまとめとして、配信ライブは数多く行われているが、臨場性に欠け、 ライブ会場までの移動がないことも含めワクワクしないという不満を書きました。しかし、その後、確かに通常のライブとは別物なのだけど、配信ライブは現地に行く必要がない分、「迎撃」態勢を整えることで、能動的にワクワクを作り出す必要があるのではないか、と思い至りました。
そんなとき、2021年は、オリジナル・ラブ田島貴男)が毎月「ディスコグラフィー・コンサート」なるものを行うという告知を出したのです。

田島貴男のHome Studio Concert ~ディスコグラフィー・コンサートがスタート!
2021年一月から半年間に渡って、Original Loveのアルバムを3枚ずつピックアップし、その中から選んだ曲のみでライブする月に一度のプログラム「ディスコグラフィー・コンサート」が始まります。
第一回目は、メジャーデビューアルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』、セカンドアルバム『結晶』、サードアルバム『EYES』をピックアップ。この中から曲を選んでライブしますので、皆さんお楽しみに!
http://originallove.com/news/2021/01/01/3276

■生配信予定日時:2021年1月23日(土) 21:00~22:00
アーカイブ閲覧可能時間:生配信終演後~2021年1月27日(水)23:59

そろそろブログ内でも個人的振り返り企画をやってもいいなあと思っており、絶好の機会なので、これは絶対に迎撃してワクワクを作り出さなくては!
…と、そういう気持ちになったわけです。


ところで、ブログについて思うところを。
たびたび書いているのですが、Twitterは「この人、自分と同じこと思っている」を見つけることがメインの場所だと考えています。
例えば、映画『パラサイト』を観て、面白かった~!と思ったとします。帰りにTwitterで観た人の感想を見て、解説サイトを辿れば、映画を観た時にはわからなかった発見が見つかり、自分の解釈の間違いに気づくこともあるでしょう。そしてそれはとても楽しい。
しかし、そういう風に、Twitterばかりを続けていると、最初に自分が感じた「面白い」や「疑問に思う」はどんどん削られて、自分が残らなくなってしまうのです。自分の考えていることを短時間にまとめて文章化できる人は、Twitterをやっていても自分を見失わないのかもしれませんが、自分は失いまくります。


そこで、自分はこうして時々ブログに文章を書いているのですが、ブログに文章を書くときには、一般性よりも「自分がどう考えているか」を優先します。学問であれば、多数派がどのように考えているかを知ることは重要ですが、趣味の場合は、好きでやっていることなので、「自分」が優先です。
具体的には、本や音楽については、自分は出来るだけ「これは好き」「これは嫌い」を書くようにしています。同じ作家やミュージシャンのファンと意見が合わなくても、意見が合わないことが「人それぞれ」の面白さだからです。
過去の自分は、かなり頭のおかしい記事(新しいアルバムが発売される前に「曲名当て」を試みるなど)も書いており、それほど攻めたことを書くつもりは無いのですが、何かを書きすぎてしまったときの予防線のために、書いておきたいと思ったのでした。(逃げの姿勢)

構成

全体構成としては以下のようになります。

  • 対象アルバム:対象となるアルバムと発表年を整理します。
  • ●●年の音楽:オリコンランキングの状況等が充実している、Wikipediaの「●●年の音楽」を参照しながら当時の音楽状況を振り返ります。例えば『LOVE! LOVE! & LOVE!』発売の一年前、1990年の情報はこんな感じです。→1990年の音楽 - Wikipedia
  • アルバムレビュー:対象となった各アルバムについて完全に個人的視点からコメントします。思い入れのあるものと無いものに差があります。また、個人的評価はあくまで「時価」で変動があります。
  • 演奏してほしい3曲:対象アルバムの中から演奏してほしい曲ベスト3を絞り込みます。
  • セットリスト:実際に演奏された曲を整理します。
  • コメント:ライブのあとで感想を書きます。

補足

ディスコグラフィー・コンサート」に先駆けて行われた『田島貴男のHome Studio Concert ~元旦コンサート2021』は配信時には気づかず、遅れて聴きました。セットリストは以下。

  • 四季と歌
  • ビッグサンキュー
  • 99粒の涙(途中まで)
  • ZIGZAG
  • 月に静かの海
  • 神々のチェス
  • ムーンストーン
  • 海が見える丘
  • 遊びたがり
  • LOVE SONG
  • Bird

新年早々「神々のチェス」が聴けて僕は満足です。
なお、「ディスコグラフィーコンサート」は3枚毎と言うことで行けば『ELEVEN GRAFFITI』『L』『ビッグクランチ』が対象となる第3回が熱過ぎます。そして、自分の中では双子のアルバムである『街男 街女』『東京 飛行』が回を跨いでしまうのは残念ですが、『東京 飛行』『白熱』『エレクトリックセクシー』が結構カオスです。『白熱』から演奏しなかったら相当異色のセットリストになります。
まずは1/23(土)の初回が楽しみですね。

『ジェニーの記憶』と「性交同意年齢」と「性的同意」

ジェニーの記憶 (字幕版)

ジェニーの記憶 (字幕版)

  • 発売日: 2019/01/21
  • メディア: Prime Video

年末に、性交同意年齢の引き上げに関するtweetがいくつか回ってきて、その中で、多くの人が、この問題を考える上でオススメの一作として挙げており、しかもAmazonプライム見放題が年内いっぱいということで、滑り込みで鑑賞。
2020年最後に観た映画作品と言うことになる。

ドキュメンタリー監督ジェニファー・フォックスが劇映画のメガホンを取り、自身の体験をもとに性的虐待の問題に迫ったドラマ。ドキュメンタリー監督として活躍するジェニーのもとに、離れて暮らす母親から電話が掛かってくる。母親はジェニーの子ども時代の日記を読んで困惑している様子。心当たりのない彼女は、母親に送ってもらった日記を読み返すうちに自身の13歳の夏を回想しはじめる。サマースクールで乗馬を教えてくれたMrs.Gやランニングコーチのビルと過ごしたひと夏は、彼女にとって美しい記憶だったが……。(映画.comあらすじ)

こういったあらすじや、性交同意年齢に関する言説を見ていれば、どのような内容なのかは事前にわかっている。
わかっていても、見ていて驚きがあったし、とにかく「おぞましい」という言葉は、こういうものを見た時に使うのか、と感じた。それほどおぞましい。

映画の特徴

特徴的なのは、ミステリでは常套手段の「信頼できない語り手」が効果的に使われることだ。しかし、それは視聴者を騙そうとしているわけではない。むしろ語り手(主人公のジェニー)自身が意識下で、記憶を押さえ込み、捻じ曲げているのだ。

特に冒頭、回想シーンで、乗馬を教えてもらいに行くジェニーは、最初は高校生くらい?に見える。しかし、その後、ジェニーが当時の思い出話を聞き、写真を見返したあと改めて回想してみると、同じシーンでの当時13歳のジェニーは、まだ子どもに見える。

また、問題のコーチ(男性) だけでなく、「素敵な大人」という印象がピッタリな乗馬の先生(エリザベス・デビッキ、『TENET』の敵セイターの妻キャット役)が常に一緒にいたからサマースクール全体が「いい思い出」になっていたことは、映画を観る側の印象とも重なる。しかし、これもよくよく思い返せば、ジェニーがコーチと添い寝しているすぐ近くにも「先生」がいたことが分かる。(先生は、その「行為」について明確に知っていたのだ)

そして、その「行為」が実際には嫌で嫌でたまらなかったことを思い出したあと、ジェニーの回想シーンでは、トイレで吐くシーンが差し挟まる。見る側としては、(さすがにそんなことはないだろう)と思いつつも妊娠を疑う。
しかし、その後の話で初潮すらまだだったと言うことを知り、さらにぞっとする。

この映画では、半ば強制に近い状況であっても、自ら同意して行為に臨んだと思い込んだ結果、記憶が上塗りされて「良い思い出」に結晶化してしまう実例が示される。
精神的なアドバイスを行う立場のコーチと、アドバイスを受ける側の選手と言う関係もあり、結果として表に出にくいままに被害者ばかりが増えていくという構造がそこにはある。
そして、ジェニーの当時の年齢が13歳であったということも重ねて考えると、日本で議論になっているような、「性交同意年齢13歳」の引き上げは、どこからどう見ても必要と思われる。

性交同意年齢と性的同意

性交同意年齢の問題と関連付けた映画のレビューは、以下の監督インタビューの記事(2020年12月)がわかりやすい。
front-row.jp


また、外国の状況について伝える記事としてNHK NEWS WEBの記事(2020年6月)がわかりやすい。ここでは、2020年6月に性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げた韓国、2018年にそれまでなかった性交同意年齢を15歳に定めたフランスの事例があり、「世界最低」の日本が、これを引き上げようとするのは必然的な流れだと感じる。
www3.nhk.or.jp


どう考えても「性交同意年齢引き上げ」を否定しようがないのに何故議論になるのか、と調べると、以下の小川たまかさんの記事(2018年3月)で、何がポイントなのかをやっと理解する。

「刑法の強制性交等罪(旧・強姦罪)については、保護法益が性的自由となっており(※)、この観点から、若者同士の性的自由を全面的に制限していいのか?という議論が必ず出てきます。

性交だけではなくて、わいせつ行為も同様に考えるので、(たとえば性的同意年齢が16歳に引き上げられた場合)14歳と15歳のカップルがキスしたことについて、二人とも被害者と加害者の立場を併せ持つというのは、いかにも不自然かと思います」(上谷弁護士)
日本の性的同意年齢は13歳 「淫行条例があるからいい」ではない理由(小川たまか) - 個人 - Yahoo!ニュース


つまり、「性交同意年齢引き上げ」の議論をする際に、『ジェニーの記憶』に見られるような性犯罪のみを念頭に置いてしまうと、見過ごしてしまう部分も多いという指摘だ。言われてみれば確かにそうかもしれない。
なお、この指摘も「保護法益が性的自由となっており」という部分が専門的でわかりにくいが、もうひとつ、さらに分かりにくいのが「性交同意年齢」と「性的同意」は完全に別の概念だという指摘で、以下のTogetterで議論されている。

togetter.com


ポイントを以下に列記する。

  • 重い犯罪について、本来、そんな重い犯罪として処罰することつもりがないものまで、条文上はカバーしてしまう内容になることそのものが副作用なんです。「15歳同士のカップルの性交も法律上は重罪」になった場合に、ただでさえ遅れている性教育のさらなる保守化を招かないかも懸念してます。
  • また、性交同意年齢の引き上げは、加害者と被害者の性別の組み合わせを問いませんので。例えば、15歳高校生男性による20歳女性との性交がかなり難しいことになる、という面もあります。15歳男性が告白しての場合でも、男性が被害者で女性は強制性交等罪(5年以上の有期懲役)です。
  • 性交同意年齢は、個別の被害者の方の具体的な精神能力を定義するような概念ではなくて。「同意があっても相手が◯歳未満と知って行為すれば、重罪を成立させてよし」という、処罰する国視点での線引きの話で、それ以上の意味はない
  • 「性的同意とは、すべての性的な行為に対して、お互いがその行為を積極的にしたいと望んでいるかを確認するということ」この意味での性的同意は、より良い関係性の構築のために大切だが、このレベルの「相互の同意確認」がない性的行為を全て刑法犯にはできない


小川たまかさんの記事でも「性的同意年齢」という表記になっているが、(慣用的には併用しているものの)法律用語としては「性交同意年齢」が正解ということになるようだ。実際の法改正や法律を設計する上では、よく言われる「性的同意」とは区別して考えなければならない、ということが何となくわかってきた。

そうすると、たとえば以下の清田隆之さんの記事は、基本的に「性的同意」について書かれたもので、やや法律的にテクニカルな「性交同意年齢」については、十分にその問題点を指摘できていない可能性がある。
qjweb.jp


ただし、そこまで理解しても「世界最低」の日本の「13歳」について絶対に見直しの議論が必要だろうという気持ちは変わらない。上のTogetterでも書かれている通り、「単純に引き上げればOK」という話では全くないが、「このまま」はまずいだろう。
また、小川たまかさんが色々なところで指摘されている通り、性交同意年齢「13歳」と比べると、義務教育において性教育が十分行われているとは言えない(むしろ「行き過ぎた性教育」は叩かれる)状況は改善する必要がある。
さらに、「性的同意」については、むしろ大人が勉強すべき概念だ。今回のような議論の中で、「性的同意」や「自己決定権」など、これまであまり触れてこなかった概念が重要な位置を占めることが、法概念に詳しい人とそうでない人のコミュニケーションが失敗している原因になっていると思う。
小川たまかさんの本は一度読んだのだが改めて読み直したい。また、清田隆之さんの本もそろそろ読まなくては。

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

  • 作者:小川たまか
  • 発売日: 2018/07/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

傑作!でも終わり方がしっくり来ない~柚木麻子『BUTTER』

結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる容疑者・梶井真奈子。世間を騒がせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿と、女性としての自信に満ち溢れた言動だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、親友の伶子からのアドバイスでカジマナとの面会を取り付ける。だが、取材を重ねるうち、欲望と快楽に忠実な彼女の言動に、翻弄されるようになっていく―。読み進むほどに濃厚な、圧倒的長編小説。

途轍もなく面白い。
にもかかわらず、終わり方がしっくり来ない作品だ。


もともと、『BUTTER』を読んだきっかけは、ビブリオバトルで北関東連続不審死事件を題材にした小説『どうしてあんな女に私が』を紹介したときに、同じ事件を題材にしているこの本について質問を受けたことだった。
実は、それまでこの本を知らなかった。メジャー作家にもかかわらず、柚木麻子に全く馴染みがなかったことで、直木賞本屋大賞の候補にもなっていたにもかかわらずスルーしていた。


したがって、どうしても2作品を比較してしまうのだが、しっくり来ない一因は、『どうしてあんな女に私が』がエンタメに徹して切れ味鋭い終わり方が特徴だったのに対して、『BUTTER』が、尺が長めで、もう少し「文学」寄りで、切れ味が悪いからかもしれない。
それ以上に、「あれ?」と思ってしまった原因は、最後に主人公・里佳がカジマナとの直接対決を経ないままで物語の幕を閉じてしまったことにある。これの良し悪しについては、後述するが、「読み切ったー!(ガッツポーズ)」という読後感では無かったのは間違いない。

pocari.hatenablog.com


素晴らし過ぎるタイトル、素晴らし過ぎるカバーイラスト

小説のタイトルは、多義的である方が良い。
読後にタイトルの意味を思い返したときに、「こういう解釈もできるのでは?」と色々と思いを馳せられる方が楽しい。
カバーも同様で、タイトルの文字と合わせて未読の際は想像を掻き立てられ、読後も、解釈の幅を持たせられるようなものが、読みたい気持ちを引き起こす。
『BUTTER』を読んでいて、先日読んだ『むこう岸』(生活保護をテーマにした児童文学)を何度も思い出したが、前者がいわば無駄が多く、色々な方向から楽しめるのに対して、後者は(児童文学ゆえに)メッセージが出来るだけ正しく届くように工夫を凝らされている分、誤読のしようがない。それは、タイトルと表紙にも表れていて、『むこう岸』のタイトルと表紙は、自分には、「あそび」の少ない、苦しくなるようなものと感じた。

pocari.hatenablog.com


話を戻すが、『BUTTER』において、バターは、食材としてのバターでありながら、カジマナという一人の登場人物、そしてカジマナの生き方を象徴するアイテムになっている。
そして、作中でも何度も引用される絵本『ちびくろさんぼ』では、木の周りを回った虎が液体化してバターになり、最後にホットケーキになって登場人物の胃に収まる。
ちびくろさんぼ』は視覚的に食欲を刺激する絵本であり、『BUTTER』の表紙も、女性の髪がバターになっているだけでなく、その滴りがやはり視覚的に食欲をそそる。まさにこの小説にピッタリのイラストだと言えるし、読後に作品を振り返るときにも雑音にならない。

似ている3作品

この本を読むと、いくつかの本・映画を思い出す。
まずは、何といっても漫画『美味しんぼ』だ。
本当に美味しいものを知らなければ人生は楽しめない。
カジマナのそういう考え方だけでなく、「お前はわかっていない」というダメ出しこそが海原雄山*1的なのだ。

「私は亡き父親から女は誰に対しても寛容であれ、と学んできました。それでも、どうしても、許せないものが二つだけある。フェミニストとマーガリンです。」(略)
「バター醤油ご飯を作りなさい」
「バターはエシレというブランドの有塩タイプを使いなさい」
(p37-38)

上から目線の畳みかけるような命令口調が、むしろ快感に繋がる。
なお、バター醤油ご飯のバターは「冷蔵庫から出したて、冷たいまま」が正解だという。このあたりのディテールが本当に細かいし、やはり海原雄山的だと思う。


これ以外にも、ウエストのクリスマスケーキや、恵比寿のジョエル・ロブションを指定して食べてみろ、とカジマナ様からの命令が下るが、何といっても真骨頂はこれだろう。

新宿の靖国通りにTっていうラーメン屋さんがあるんだけど。そこの塩バターラーメンを食べて、どんな味だったか正確に教えてもらえないかしら?(略)
はっきりいって、普通に食べたんじゃ、たいして美味しくもないのよ。個々のラーメンを飛躍的に美味しく食べるには、ある状況が必要なの(略)
セックスした直後に食べること。夜明けの三時から四時の間。
(p164)

こういう無茶な要求をして、また、里佳がこれに従っちゃうからすごい。
このように、里佳はカジマナから事件のことについて話してもらおうと必死になるあまり、彼氏の話や自らの悩みについても語るようになる。


もちろんカジマナは殺人容疑で東京拘置所から出ることはないので出来ることは言葉を語ることだけだ。
里佳の拘置所訪問は、取材目的と言いつつも、頭の中のモヤモヤをカジマナであれば晴らしてくれるのではないか?「答え」を持っているのではないか?と、カジマナの言葉を欲する部分がある。
この状況に似ているのは『羊たちの沈黙』だろう。
里佳にとって、カジマナは、レクター教授のような存在なのだ。
行方不明になった里佳の親友・伶子の居場所を、カジマナに聞くシーンは最もレクター教授的な大きな見せ場になっている。


そして最後の一つ。
カジマナは、『夢をかなえるゾウ』におけるガネーシャ(関西弁を話す象の形をした神様)によく似ている。
最後にも述べるが、『BUTTER』は、短くまとめれば、主人公・里佳が、カジマナの指令に翻弄されながら自らの生き方を模索する自己啓発的な物語と言える。
つまり、人生に必要なものは、実は身近にあって、「気づき」によって自分をどんどん更新していけるという基本的な思考が軸にある。
言い換えれば、お使いRPGのように、淡々とタスクをこなしていくことで、「前に進んでいる」感じ。 
この本におけるカジマナというのは、倒すべき相手(海原雄山)であり、「答え」を知っているメンター(レクター教授、ガネーシャ)でもある。


女性の役割

首都圏連続不審死事件が多くの人の、とりわけ多くの女性の興味を引いた理由は、それが(女性に不利の多い)日本の性別役割分担の問題を意識させるから、というのがこの小説での分析ということになる。(以下に引用するp550)

特に、中堅記者として働きながら、結婚についてもぼんやり考えている主人公の町田里佳にとって、それは、自身の生き方と密接に関係するテーマとなる。
小説内では、カジマナを説得する中で、親友・伶子との会話の途中の独白で、そして、新居として購入する物件を紹介してくれた山村さん(弟が事件の犠牲者)への言葉の端々に、このテーマが現れる。

日本女性は、我慢強さや努力やストイックさと同時に女らしさと柔らかさ、男性へのケアも当たり前のように要求される。その両立がどうしても出来なくて、誰もが苦しみながら努力を強いられる。でもあなたを見ているとはっきり、わかるんです。そんなもの、両立できなくて当たり前だって。両立したところで、私たちは何も救われないんだって、いつまで経っても自由になれっこないんだって。p151(里佳のカジマナへの言葉)

でも、きっと…。何キロ痩せても、たぶん合格点は出ないのだろう、と里佳は、とうに気付いている、どんなに美しくなっても、仕事で地位を手に入れても、仮にこれから結婚をし子供を産み育てても、この社会は女性にそうたやすく、合格点を与えたりはしない。こうしている今も基準は上がり続け、評価はどんどん先鋭化する。この不毛なジャッジメントから自由になるためには、どんなに怖くて不安でも、誰かから笑われるのではないかと何度も後ろを振り返ってしまっても、自分で自分を認めるしかないのだ。p540(里佳の独白)

家庭的ってそもそもなんなんでしょうか。家庭的な味とか家庭的な女性とか。(略)
これだけ家族の形が多様化している現代で、そんなのもう、なんの実体もないものです。そんな形のないイメージに振り回され、男も女もプレッシャーで苦しめられている。実はこの事件の本質はそこにあるような気がします。p550(里佳の山村さんへの言葉)

このような状況に対して、(結局別れてしまう)恋人の誠は鈍感だ。
小説内でこのような物言いをしてしまう男性キャラクターは多く、もはやテンプレだが、実際、男性の方がそう考える人が多いのだろうし、自分も勉強しない子どもを怒るときは同じような論調になってしまう。

「そんな風に批判されないように、里佳がせいいっぱい努力すればいいじゃないか…。」(略)
里佳は悲しくなった。彼は面倒だから、こう言っているわけではない。おそらく本当に努力さえすれば、物事は解決すると思っている。この世界で起きる悲劇はすべて個人の責任であり、誰しも人に甘えてはいけないと思い込んでいる。
「あなたや世間を喜ばせるような努力の仕方を、四六時中、出来る自信はないの。もう若くなくなってきてるし、もう他人に消費されたくない、働き方とか人との付き合い方を、自分を軸にして、考えていきたいの」p427

ただし、このテーマは、作品全体としては、やや尻すぼみで、投げっぱなしの印象。
これも読後の印象がスッキリしない理由のひとつではある。

里佳VSカジマナの対決の勝敗

『BUTTER』の物語は、里佳が新居のお披露目パーティーで、七面鳥をふるまうシーンで終わる。
先ほど引用した山村への言葉の中にも「家庭的ってそもそもなんなんでしょうか」とあるが、里佳は、カジマナとの対話を通して、理想の生き方、理想の家庭のあり方を模索したと言える。
そして、辿り着いたのが、作り付けの立派なオーブンのある部屋であり、大勢にふるまう七面鳥料理、そしてそのレシピだった。


この落としどころが『BUTTER』という作品の一番わかりにくいところだ。
里佳VSカジマナという対決で見た場合、ラストに至るまでの勝ち負けはこんな感じだ。

  • 伶子の居場所を聞くために、里佳は自身の父親との関係(自分のせいで父親が死んだという思い込み)について告白せざるを得なくなる(p378、カジマナ勝)
  • カジマナが料理教室サロン・ド・ミユコに通ったのは、友達を作るためだったという言葉を引き出し、インタビュー記事の連載開始。(p436、里佳やや勝)
  • いつか七面鳥料理の集まりに来てほしいという言葉で、カジマナを嗚咽させる。(p502、里佳勝)
  • 獄中結婚をしたライバル誌編集者のスクープ記事により、里佳のインタビュー記事が嘘だというのと合わせてプライバシー暴露による精神攻撃を受ける(p513、カジマナの圧倒的勝利~虚実入り混じるこの展開は震えた…)


このあと、二人は顔を合わせていないし、里佳の受けた傷は深く、彼女の破滅を願う敵(里佳にとっての敵)は、カジマナだけでなく、ゴシップ大好きな「その他大勢」すらいる状況となってしまった。
しかし、この大敗のあとで、里佳は、カジマナが逮捕直前に、七面鳥料理の招待状をサロン・ド・ミユコの面々に出していた事実を突き止める。したがって、カジマナが望んで作れなかった七面鳥料理を作り、カジマナが呼べなかった大勢の客を招待してパーティーを開くことで里佳がカジマナに対してマウントを取る構図にはなっている。

そもそも生き方勝ち負けを求めてしまう考え方に疑問を呈するのが、このラストの流れなのだろうが、もう少し掘り下げる。

カジマナの弱点

カジマナの弱点は、「いつか」がないことだ。局面局面では、相手をコントロールし、死に至らしめるほどの言葉を持っているが、虚偽が多いので長続きしない。里佳が指摘した通り「今目で見たもの、今すぐ確実に手に入るものしか信じることができない」(p501)ので、いつか来る日を楽しみにして努力や準備をすることが出来ない。
そう考えると、七面鳥料理は、パーティー当日のためだけのもので、里佳の「マウント的勝利」の決定打ではない。そもそも「料理」は、「いつか」「誰かに」ではなく、今ここにいる人、そして自分のためにつくるものなので、カジマナと相性が良い。


だから、二人の圧倒的な差は、ダメージが大きく敗色濃厚な里佳が「いつか」のために新居を買ったことに現れている。
作中に書かれている通り、里佳が新居購入に踏み切ったのは、「いざというときの駆け込み寺」を求めたからだ。料理自体は「今ここ」のためのもの*2だが、そこに行けばみんなと料理を食べられるという期待感は、やはり「いつか」のためのものだ。

ふいに、ここと同じくらい、広いマンションを手に入れたいと思った。いや、一部屋の大きさよりも、一人になれる部屋がいくつもあるといい。複数のプライバシーを尊重できるように。(略)
ひょっとすると、自分にできる唯一の仕事は…。
近しい人たちのいざという時の逃げ場を作ることなのではないだろうか。p442

私、結婚ってまだよくわからないけれど、浮気とか不倫っていう意味じゃなくて、逃げ場があった方が辛くならないように思うんですよね。行き詰った夜に、ふらりと散歩して珈琲を一杯飲めるような場所。そこに、旦那さんがふっと迎えに来てくれたら、十分なんじゃないでしょうか。p496

珍しい形のオープンエンド

という風に、里佳とカジマナの対決に注目すると、物語の結末は、それなりに上手く「落ちている」=クローズしているような気がする。
しかし、やはりこの終わり方は、2つの理由でしっくり来ない。おそらく、クローズエンドに見せつつ、読者にテーマを放り投げるオープンエンドの作品なのだと思う。

しっくり来ない一つ目の理由は作中でも言及されている。

里佳が中心に居ると、みんな役割から自由になれるんだよ。性別とか地位が関係なくなるの。磁場が歪むっていうのかな。昔からそういうところあったけど、最近は特に…。p440(伶子の言葉)

いいですよね、大手マスコミの記者さんは。結局のところ、あなたたちはどんなに世間から糾弾されても、出来心でひと一人の人生をめちゃくちゃにしても、セーフティネットがある。そんな職業、この世界にどれだけあると思います?ふと思い立って30年近くのローンを堂々と組める独身女性が、今日本にどれだけいると思います?p549(山村さんの言葉)

この小説が最後に持ってきている新居購入&七面鳥料理パーティーというのは、里佳の性格と財力を持ってこそ成り立つ特殊過ぎる解決策で、現実感が薄い。
読者としても、こういう人がいたらいいなあ、こういう場所があったらなあ、とは思うが、参考にするのは難しい。これは『夢をかなえるゾウ』のつもりで『BUTTER』を読んできた自分としては納得がいかない(笑)
…というのは冗談だが、里佳の精神力の強さとコミュニケーション能力、財力を見せつけられると、読者が身近に感じていた里佳との距離は遠くなってしまう印象だ。


もう一つも個人的な理由だが、里佳が次の一歩として企画している「カジマナによって日常を狂わされた女性たちのインタビュー記事」に賛同できない。
そもそも、カジマナ事件に関連付けた記事を書くことは、引用した山村さん(弟が事件の被害者)の言葉にあるように「ひと一人の人生をめちゃくちゃに」しかねないリスクが確実にある。里佳本人も傷を負っている。
この物語の流れから考えれば、カジマナ事件から出来るだけ離れて、人と集まる場の特集記事や、男女の役割を離れた人間関係に関する記事であれば説得力がある。
つまりは、小説としてとりあえずのエンディングは用意するけど、多分しっくり来ないだろうから、あとは読者自身で考えて、という特殊なかたちのオープンエンドだと解釈した。
この作品のように、女性差別をテーマに含む作品(例えば↓の松田青子『持続可能な魂の利用』)は、作中での解決を求めず、ファンタジーに吹っ切るか、オープンエンドにすることが多いと思う。好みとしては、男性社会と政府をディスって終わってもらった方が落ち着く。
そうしないのは、読者は置いてけぼりにしても里佳という主人公を救いたかったからなのかもしれない。

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木嶋香苗現象

考えてみれば、同じ首都圏連続不審死事件を扱った花房観音『どうしてあんな女に私が』も、編集者が事件の取材をするスタイルで事件に対するアプローチは似ている。取り上げたテーマは、それぞれ「嫉妬」「家庭」と異なるが、どちらも、木嶋香苗という圧倒的キャラクターとそれにまつわる「木嶋香苗現象」をどう読み解くかという要素が、作中の重要な位置を占めている。
特に、本文中に本人(カジマナ)が登場する頻度の多い『BUTTER』では、読後に心に一番残っているのはカジマナの台詞だったりする。(「バター醤油ご飯を作りなさい」)
一方で、これはフィクションではなく、既に実刑が下っている犯罪事件で、実際に命を落とした被害者がいることは忘れてはいけない。
このままでは、首都圏連続不審死事件について、間違った認識をしてしまうこともあるかもしれない。
やはり、乗りかかった船なので、改めて木嶋香苗本人に関する本を読んでみようかと思う。

お、もう一冊、柚月違いでこちらも首都圏連続不審死事件にインスパイアされているのか。こちらも読みたい。


*1:美味しんぼ』の主人公・山岡士郎の父親で美食家・陶芸家。個人的な名言は「ポン酢のポンとはなんのことだ!」

*2:詳しく書かないが、この小説では「レシピ」も重要な意味を持っている、料理自体は「今ここ」のためのものだが、レシピは「いつか」「誰か」のためのものだ

2020年について

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春には家族で久しぶりの海外旅行。高校1年の長男は学校行事で海外研修に行って、東京五輪があって、盛りだくさんの1年だったね。
…とはならなかった2020年。
あまりに普通の年と違ってしまっていて、来年以降もこれが標準としたくない1年間だったので、忘れないようにメモをしておくことにします。

読書

今年は、ビブリオバトルは全てオンライン参戦。
改めて調べるとビブリオバトルの初参加は2012/3/24の西荻窪ビブリオバトル at KISSCAFE vol.9)。それ以降、少なくとも2~3か月に1度は、誰かしらビブリオバトルの人たちと「会食」をしていたのに、それが1年間無かったのは本当に驚きだ。

読書は、ここ数年の傾向だがフェミニズムに関する本を多く読んだ気がする。前田健太郎『女性のいない民主主義』をビブリオバトルで発表したときは、喋りながら怒りが溢れてくるというかつてない体験をした(笑)
小説、漫画、それ以外からそれぞれ1冊挙げるとしたら以下。

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映画

映画は、昨年は沢山見て、今年も!と思ったけれど『名探偵コナン』という定番の公開延期も含めて劇場公開の話題作自体が少なかった年だろう。
それでも、年初め含めて2度見た『パラサイト』、緊急事態宣言がそろそろ来るというタイミングで見た『37セカンズ』、そして子どもたち二人と観た『アルプススタンドのはしの方』の3本が印象に残っている。
特に『パラサイト』 と『37セカンズ』は、「風景」が印象に残る映画だった。最近、自分が、マラソンでいろんな場所を走るのは、「風景」を集めに行っているんだ、ということに気がついたけど、それについてはまた書きたい。
ところで、『アルプススタンドのはしの方』の感想を読んで思ったが、今年は、何度も「エンパシー」のことを書いているなあ。

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音楽(ライブ)

結局、1年間参加せず、です。
もともと、田島貴男の4/5弾き語りツアーは、さる方のご厚意でチケットをとってもらい、楽しみにしていたものの、コロナが猛威を振るう中、早々と参加を辞退し、その後、結局ライブ自体が中止になり、オンライン形式で振替公演に。
夏以降は、リアルライブも各所で開かれるものの、どうしても行く気になれず。かといって、配信ライブを見るかと言えば見ない。
結局、ライブに行く楽しみは、知り合いがいてもいなくても、以下のようなライブそのものと関係ない部分で成立しているところが大きいのだと思う。自分にとっては。

  • 「今からライブを見に行くんだ」という期待感いっぱいで早足になる駅から会場までの道のり
  • 同じような気持ちで観に来ているファンが近くにいてざわついている開演までの雰囲気
  • アンコール待ちのファンの一体感
  • 終演後の振り返りながらの帰り道

勿論、知り合いがいればそのあとで飲みに行ったりする楽しみもあるだろうし、人によっては、ライブ中にミュージシャンと視線が合うことが重要と考える人もいるだろう。そういうものなしに、パソコンでクリックして音楽が聞こえる音楽は、自分にとっては「違う」ものだ。ましてや一時停止や巻き戻しができるものは、とても便利だけど、どんどんライブとは離れてしまう。
ないものねだりなのはわかっているけど、来年も、この状況が続けばしばらくライブから離れてしまうかもしれない。

音楽

一方で、今年は近年には珍しくいろんな音楽を聴けた気がする。
理由のひとつは、Ryutist『ファルセット』が、楽曲を提供している多くのミュージシャンの音楽への橋渡しをしてくれたこと。
そして、もう一つ。AmazonミュージックのUnlimitedを、3か月無料に惹かれてお試しで入ったことが大きい。
藤井隆がプロデュースした『SLENDERIE ideal』や蓮沼執太フルフィル『フルフォニー|FULLPHONY』、chelmico『MAZE』、宮本浩次『ROMANCE』などの今年のアルバムは、どれもCDを買わずに聴いているし、BlackPinkやtoe、またいわゆる「流行っている洋楽」など、サブスクリプションサービスなしに聴くことはなかっただろう。
今は、今日で活動休止となる嵐のBESTのプレイリストを聴きながら書いている。
(なお、先日、子どもに携帯音楽プレーヤーを買ったが、こちらの進化は10年前くらいで止まっていることに驚く。)

いや、しかし、何度聞いてもRyutist『ファルセット』は飽きないんですよ。
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ラソン(大会)

当然のことながら通常開催の大会はほとんどが中止で参加できず。実際にはオンライン形式で開催された大会も多数あり、こちらも興味があったが、音楽のライブに書いたのと同じ理由で不参加。
なお、2015年から毎年参加していた湘南国際マラソンは、忙しい2月開催ということで発表当時から参加を見送っていたが、11月にフル→25㎞にする等、その方法を見直し、結局12月に入り中止を発表。
不参加を決めていたが、毎年の大会が中止になるのは残念。グッズ類はどこまで用意していたのかわからないが、可能であればTシャツを買う等の形で応援したい。

日々のマラソン

今年は、大会がなく、タイムをあまり気にしなかったということもあるが、コース開発が楽しかった。
特に、多摩湖自転車道という素晴らしいコースを知ることが出来たのは良かった。それ以外では、谷保天満宮駒沢公園武蔵関公園を含むコースが準レギュラー化した。
さらに、東京近郊でここ数年発達したレンタサイクル網が発達したことで、帰路に利用する鉄道を気にしないルートを開発することも可能となった。全部自転車だったが、羽村兄弟の像を見てから玉川上水国分寺まで8月に下ったのは良い思い出。今年買ったランニング用リュックが役立った。

来年

2020年は久しぶりに海外旅行を、と思っていたけれど国内旅行にすら行けず。
2021年は何とか旅行に行きたいなあ。
嵐の「We Can Make It!」を聴いて元気出してます。

女性キャラクターが戦う理由~王谷晶『ババヤガの夜』

ババヤガの夜

ババヤガの夜

  • 作者:王谷晶
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 単行本


ちょうど、Yahooの記事で、『鬼滅の刃』に登場する女性キャラクターについて取り上げた記事があった。鬼殺隊の中心メンバー「柱」を担う甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶという二人の女性が、それぞれ何故鬼殺隊に入り「柱」となったのかという動機の部分に焦点を当てた、植朗子さんの記事だ。
記事はこのように結ばれる。

甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶは、「鬼のいない平和な世の中」のために、その身をささげた、戦いの女神である。胡蝶しのぶは、小柄な女性という体格を克服するために、苦痛とともに自分の肉体を変化させていくことを選択した。甘露寺蜜璃は、女性という抑圧から脱却し、人々のために戦い続ける道を選択した。この2人の女神によって、鬼殺隊は、本来なら互角に戦うことすら困難な強大な敵・鬼を撃破していく。彼女たちの願った平和な世は、彼女たちの強靭な意思によって実現へと向かっていくのだった。
甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶ 『鬼滅の刃』で2人の「女神(ミューズ)」が必要だった意味 (1/4) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


かように、女性が戦うのには、「理由」が必要だ。
男は常に好んで戦いたがり、 「戦う理由」などいらないのに対して…。 


そこで、この『ババヤガの夜』の主人公・新道依子の特異性が際立つ。
新道は、「理由なく暴力をふるう女性」なのだ。

お嬢さん、十八かそこらで、なんでそんなに悲しく笑う――。暴力を唯一の趣味とする新道依子は、腕を買われ暴力団会長の一人娘を護衛することに。拳の咆哮轟くシスターハードボイルド! 


寺田克也によるカッコよすぎる表紙の二人は、とにかく強い新道依子と、新道が守る尚子。
生まれも育ちも全く異なる二人の関係性が、物語の一番のポイントで、最初はあくまでガードマンと主人。しかも、新道は、主人に対してすらぶっきらぼうで、どちらからも寄り添おうとはしない。
かといって、何かの出来事をきっかけに打ち解けるようになったというのでもなく、しかし、二人は段々と心を許していく。


もともと王谷晶さんは、『完璧じゃない、あたしたち』のときから気になっていたが、結局、この本が初読。アトロクのシスターフッド特集で王谷さん自身が出演されていたのが、最後の一押しとなって読んでみた。  

アトロクのシスターフッド特集のキャッチフレーズは「仲良しじゃなくたって、わたしたたちは戦える。 今こそ、女性同士の連帯を扱った『シスターフッド』な作品を見たり読んだりしよう!特集 by 王谷晶」。
この「仲良しじゃなくたって、わたしたちは戦える」というキーワードこそがシスターフッドの概念のキモだと受け取ったが、まさに『ババヤガの夜』は、「恋愛」でもなく「仲良し」でもない二人の関係性が面白い作品だった。


この面白さは、自分の感覚的にはBLを読んだときの気持ちと似ている。

『ババヤガの夜』を読み始めると、一時期好きだった花村萬月の暴力もの、もしくは夢枕獏のバイオレンス作品を読んでいるような気分になってくる。それでも、暴力描写に特化した、この種の作品で女性が主人公なのは初めてなので、どこに連れていかれるか分からずにワクワクする。
暴力団会長の一人娘 の尚子が登場すると、結局は「勇者がお姫様を救う物語」なのか、と思いきや、物語中盤に大きな仕掛けがあり、以降の展開には、そう来たか!と唸ってしまう。それと同時に、自分は、「何でもあり」のはずの小説にも、ステレオタイプの「型」を嵌めて見ていたのだろうな、ということに気がつかされる。

自分にとっては、「男+女=恋愛」という典型的な物語の流れから少し外れることによって、より「恋愛」や「嫉妬」を純化した形で感じられるのがBL作品で、それと同様に「枠を外される」快感が、この『ババヤガの夜』にもあった。

勿論、『鬼滅の刃』に戻れば、使命感を持って戦うというよりは、単に「異常に戦闘能力の高いクリーチャー」という側面もあった「竈門禰豆子」こそが、ある意味で女性キャラクターのステレオタイプの枠を外す重要な役回りを持っていたと語ることもできるし、鬼滅の女性キャラと言えば普通は禰豆子を扱うのに、そうしなかったのが冒頭の記事の面白いところだろう。

なお、アトロクの特集では、改めてセーラームーンの偉大さが取り上げられたり、ステレオタイプから外れる女性キャラクターの企画が通りやすくなった理由に村田沙耶香コンビニ人間』が挙げられるなど、新しい発見もあった。今まで読んだ作品も、女性キャラクターがどう扱われているか(ステレオタイプに縛られていないか)という視点で読み直すのも面白いかもしれない。


『ババヤガの夜』は単行本として出ているが、それほど長くなく中編。映画だったら90分作品というイメージであっという間に読み終わる。しかも、社会的な問いかけが強かったりするわけでもなく、痛快なエンターテインメントなので、是非、(暴力描写が大丈夫な人には)いろんな人にオススメしたい本だった。
王谷晶さんは引き続き、著作を追いかけようと思う。

完璧じゃない、あたしたち

完璧じゃない、あたしたち

  • 作者:晶, 王谷
  • 発売日: 2018/01/26
  • メディア: 単行本
どうせカラダが目当てでしょ

どうせカラダが目当てでしょ

炭治郎の「アジる力」~吾峠呼世晴『鬼滅の刃』全23巻

鬼滅の刃の23巻を読んだ。
最終巻も、最後になって無惨が自分の主義を変えるなど、一筋縄ではいかない意外な展開を見せ、全速力で駆け抜けた物語だった。
世間的には、最終巻発売日の新聞広告(大手5紙)が話題になったが、そこにも書かれた「想いは不滅」、その一言が貫かれた作品と言える。その点で考えれば、主要登場人物が全員死んで(厳密には1名生き残っているが)しまった世界においても、そして、鬼滅の刃を今読んでいるこの世界においても、彼らの想いは伝わり、残っていく、という上手い終わらせ方だと感じた。


さて、映画を観に行ったときも22巻までは読んでいたが、今回23巻を読むために、無限列車編のあと(9巻)以降を復習して、改めて感じたが、炭治郎の「アジる力」は途轍もない。
先にも書いたように23巻になって無惨でさえも、炭治郎の言葉に感化されて考え方を変えてしまうが、鬼殺隊の仲間だけでなく柱も鬼も、皆、炭治郎の言葉に影響を受けている。(もう一人、お館様も「腕力」がない分、その「言葉の力」は際立つ。「想いは不滅」も16巻の137話のお館様の台詞に出てくる)
十二鬼月で言えば、猗窩座に語り掛ける言葉は、作中屈指の名シーンと思う。

お前の言ってることは全部間違ってる
お前が今そこに居ることがその証明だよ
生まれた時は誰もが弱い赤子だ
誰かに助けてもらわなきゃ生きられない
お前もそうだよ、猗窩座 
記憶にはないのかもしれないけど
赤ん坊の時お前は誰かに守られ助けられ今生きてるんだ


強い者は弱い者を助け守る
そして弱い者は強くなり また
自分より弱い者を助け守る
これが自然の摂理だ

(17巻146話)


しかし、自分が一番感動した場面が登場するのは、戦いとしては比較的目立たない、刀鍛冶の里編。
ここでも炭治郎は、冷たい時透無一郎君や、投げやりな富岡義勇の心に次々と火をつけていくのだが、中でも、自分の実力不足を嘆いて木の上に逃げてしまった小鉄君(10歳)を説得するシーンが最高過ぎる。

諦めちゃだめだ
君には未来がある
十年後の自分のためにも今頑張らないと
今できないこともいつかできるようになるから

これに後ろを向いたまま「ならないよ 自分で自分が駄目な奴だってわかるもん」と拗ねる小鉄くん対して、なおこう説得を続ける。

自分にできなくても
必ず他の誰かが引き継いでくれる
次に繋ぐための努力をしなきゃならない
君にできなくても君の子供や孫なら
できるかもしれないだろう?


俺は鬼舞辻無惨を倒したいと思っているけれど
鬼になった妹を助けたいと思っているけれど
志半ばで死ぬかもしれない
でも必ず誰かがやり遂げてくれると信じてる
俺たちが…
繋いでもらった命で上限の鬼を倒したように
俺たちが繋いだ命が
いつか必ず鬼舞辻を倒してくれるはずだから


一緒に頑張ろう!!
(12巻103話)

前半部だけだったら、どの漫画のキャラも言うこと。
しかし「できるようになるよ」と説得して「できない」と答えた小鉄に対して、さらに言葉を用意しているところが炭治郎の凄いところ。
ジャンプの読者だって、「諦めたら試合終了」ということを色々な漫画で言葉を変えて何度言われても「できない」と思ってしまう場面はいくつもあるだろう。
鬼滅の刃』には、そういう読者にも届くような仕掛けが多いように思う。


なお、このあと、半天狗を相手に共に戦う玄弥に対しては「玄弥ーっ‼諦めるな‼」「絶対諦めるな!!」「柱になるんじゃないのか‼!不死川玄弥‼!」とシンプルに励ましているので、その柔軟性があるからこそ、その言葉が誰の心にも響くということも言える。
有名な、炭治郎の迷言「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」も自分自身を鼓舞する言葉として、炭治郎的にはアリなのだろう。炭治郎は、相手によって人を鼓舞する言葉を使い分けることが出来る。


思えば、自分が自分を鼓舞するキャラクターとして心の中にいたのは、幕ノ内一歩や谷口タカオ等、ひたすら真面目で熱心、黙々と努力を続けるタイプだった気がする。
彼らは、炭治郎ほど能弁ではなかった。まだ「自らの背中を見せる」タイプのキャラクターに人気があった時代なのかもしれない。
そう考えると、敵キャラクターですら説得してしまう炭治郎の言葉の力は、価値観が多様化し、大人でも「自由」の中で迷ってしまう現代にフィットしたキャラクターなんだろう
今回の新聞広告も、作品のメッセージ「想いは不滅」に、コロナ禍や様々な理由で辛い状況にある人たちに届くよう「夜は明ける」を加えているのだと思うが、作者の吾峠呼世晴さんの言語センス、そして「アジる力」(人を鼓舞する力)があってこその大ヒットなんだと思う。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com