Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

シンエヴァあれこれと「労働」

映画を観てから1週間。
前回書いた「感想」に足すべきものが増えたので改めて書いてみた。
何となく自分の気持ちとも折り合いをつけられた気がする。

プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」(2021/3/22)

www.nhk-ondemand.jp

シンエヴァの制作現場に密着したNHKプロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」を観た。
どんな仕事をやっていても締め切りギリギリでの掌返しなど似たシチュエーションはあるだろうが、ちょうどNHKで再放送されている『SHIROBAKO』を観ており、アニメーション制作の現場の話に親近感を持っていたので、より怖い話ではあった。
一方で「制作の裏側」的な要素もあり、特に「絵コンテを書かない」代わりに、序盤でモーションキャプチャーを使って「アングルを探る」制作過程が興味深く、これだけでも2回目を観る楽しみが増えた。
また、やはりこれもアングルの話だが、パリでの8号機を撮影するカメラの「寄り」「引き」にダメ出しをするシーンも印象的だった。

しかし、それ以上に、スタッフ、そして現場とは別の場所にいる人たちによる庵野評が面白い。庵野秀明を「大人になりそこねた人」と評する鈴木敏夫のヤクザっぽい佇まいが良いし、今回の映画を語る上で欠かせない安野モヨコ庵野評も温かい。

安野モヨコ『監督不行届』(2005)

監督不行届 (FEEL COMICS)

監督不行届 (FEEL COMICS)

ところで、エヴァンゲリオンを、「庵野秀明が成長する映画」として観る場合、安野モヨコが最重要人物であるというのは理解できる。
実際、今回、映画の中でも『オチビサン』が出てきて、ここで綾波が読む本としてわざわざ奥さんの本を選ぶか!と驚いたので、本棚から『監督不行届』を引っ張り出して読み直した。*1
ところが、当時読んだときも同じ印象だったけれど、今読んでも、イマイチよくわからない。
これを「特殊な趣味」の持ち主の生態本(例えば『となりの801ちゃん』)として読むと、なんだかヌルく、「これは絶対に理解できない」みたいなものがない。庵野秀明は変な人だという前提があるからかもしれないが想定の範囲内過ぎて面白みがない。
ただ、巻末の庵野秀明による解説がとても興味深い。

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。(略)嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。

2005年2月刊行のこの漫画のあと、2006年5月に株式会社カラーを設立し、9月にスタジオカラーを立ち上げ、2007年から新劇場版が始まる。
この時間の流れを考えても、ここで「エヴァで出来なかった」ことをやり遂げたい、というのは、新劇場版のひとつのモチベーションになっていたんじゃないかと思う。

『おおきなカブ(株)』(2016)

annomoyoco.com

むしろ、今回のシン・エヴァンゲリオンと合わせて観ると感慨深いのは『おおきなかぶ(株)』の方だろう。
こちらは、スタジオカラー設立からの歴史を辿り、新劇場版の序破Qだけでなく、『風立ちぬ』や『シン・ゴジラ』への言及もあり、エヴァンゲリオンの諸々が、やはり庵野秀明の内面の問題とリンクしているんだろうな、ということを感じさせる内容になっている。
ただ、自分が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観て感動した理由の一部には、やはり「庵野秀明が吹っ切れた」というカタルシスがあるが、そこはメインではない。そもそも庵野監督のことが心配で映画を観に行っている人は少数だろう。

RAM RIDER 週刊文春記事(2021年3月)

bunshun.jp

テレビ番組『プロフェッショナル』は、映画を取り上げたのではなく「庵野秀明」を取り上げたので、当然、シン・エヴァンゲリオンへの光の当て方も庵野秀明に重きを置いたものになっている。
しかし、番組の中では、まさにそのエヴァのドラマの中心にいる庵野秀明自身が書いたシナリオも、スタッフの理解が及ばないことが理由で没になっていることも描かれる。
当然ともいえるが、出来るだけ多くの観客に届くような作り方がされている、ということでいえば、この作品が受ける理由は、個人的な内面が社会的な状況とリンクしているからなのだと思う。
したがって、いくつかの記事を読んだ中では、 RAM RIDERさんの書いた文春の記事の冒頭部分にとても共感できた。(昔はむしろこちらの方を結び付けて語られることが多かったように思う)

世紀末を前にどこか浮ついていたあの時代(略)、エヴァの中で描かれる地球規模の「クライシス」に自らの破壊願望を重ねた人は多かったのではないか。「破壊」は言葉として強すぎるとしても、世界に対する淡いリセット願望のようなものが少なくとも僕自身の中にはあった。

阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件などを経ても、なお壮大な死や世界の崩壊をテーマにした作品が目立ったのは、それらの事件の衝撃波は浴びつつも、そこで起きた個人個人の死を映し出す術がまだマスメディアに限られ、解像度も低い世の中だったということかもしれない。

しかしインターネットが発展、普及して世界は様変わりした。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではブログが、2011年3月11日の東日本大震災では個人が撮影した動画が、それぞれ日常の崩れ去る様子を伝えた。それを目の当たりにし、世界の崩壊がロマン溢れる一過性のものではなく、どこまでも現実と地続きで、個人的で、容易には終わらない地味な長い戦いとなることを我々は知ってしまった。

特に新劇場版の3作目にあたる「Q」の直前に起きた3.11が庵野監督自身や作品の内容になんの影響も与えていないはずがない。(略)

新劇場版の制作において、庵野監督は「現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい」と声明を出した。一体どのような気持ちで「エヴァ」の最後と向き合ったのだろうか。

今回の映画を観るまで、エヴァンゲリオンの「終わらせ方」は、シンジ君が人類補完計画を拒否する生き方を選ぶ、また、それなのだろう。とすれば、自分や同世代の観客の心には響かないのではないか、と思った。
自分も「大人になり切れない人」の自覚はあるが、一応、一社会人として機能しているし、改めて14歳のシンジ君が大人になる話を観て、(今までも何度も観てるのに)それは感動するのかな、と思っていた。
第一、ATフィールド云々ではなく、もっと根本的な部分で心の余裕を失っている人が多い中で、シンジ君や庵野秀明の内面の問題が解決しても、所詮は他人事なのではないか、と思ったのだった。


だからこそ、ある意味で「同じ終わらせ方」にもかかわらず、自分が感動した理由を「社会的な状況とのリンク」にあると考えた。勿論、多くの人に受け入れられているのも同じ理由だろう。

したがって、何かと庵野秀明本人の話と合わせて作品が語られる傾向を見渡したとき、RAM RIDERさんのような視点こそが自分にとってはしっくり来たのだった。


だから、前回、感想として書いた文章の中には、やや書き過ぎている部分(自分でも、「それは誤解では?」と思うのだが)があり、傍から見れば強引なこじつけだが、書かずにはいられなかった部分だ。

このあたりの、世界が行き止まりにハマっている感じは、エヴァの始まった20世紀末よりも今の方が、より「世紀末」的で、逃げ道が無いように見える。

また、(本の内容については)別の機会に書きたいが、斎藤幸平『人新世の資本論』に書かれているように、今、世界が進んでいる方向には絶望しかなく、それとは別の選択肢の方に希望を見出してしまう自分の感覚と、シンエヴァが見出そうとしている希望(村の生活に代表されるもの)はリンクしているように見えた。
人間の叡智、協力、工夫は神を超えることができる、という「希望」を前面に出す終わり方は、自然災害やコロナ禍で不自由な生活を強いられている多くの観客にとっても「希望」(逆に、希望に向かっていないことが明確であれば「絶望」)として伝わったように思う。


なお、何度か書いているが、特にエヴァンゲリオンのような作品については、他人の感想や考察を読むのは避ける。自分の記憶容量は非常に小さく、鑑賞後の感想自体もそれほどの強度を持たない。したがって、良い解説記事や感想、批評を読めば読むほど記憶が上書きされてしまい、「自分の感想」はどこにも残らなくなる。
その意味では「誤解」であっても「自分の感想」は貴重なので、とりあえず書いておきたい。


話を戻すと、社会的な状況、および、個人的な内面(不安)と重ね合わせて、この作品を観た場合、これまでのエヴァで描かれなかった追加要素で一番印象に残ったのは「ゲンドウの一人語り」よりも「村の生活」だ。
しかし、正直に言えば『Q』(『破』?)で、加地さんがシンジに農業を薦めるシーンには辟易した。「都市」の生活と対照的な「農業」を出してくるのは安直だし、とても都会的な発想で恥ずかしいと思った。
だから、今回良いと思ったのは「農業」や自給自足的な生活、というよりは、労働の成果として喜んでくれる人の顔が見えることの大切さの部分だ。
レイ(そっくりさん)の「ありがとう」から始まる様々な挨拶の解釈についても、改めて日常の中で、日常の人とのつながりや労働の中で、大切だけれど疎かにしてしまう部分でもある。
エヴァの過去作では、「労働」について書かれた部分はあまりなかったように思う。ただ、日々向き合う必要があるものだから、エヴァンゲリオンにこそ必要だった要素なのではと改めて思う。
考えてみると、安野モヨコは労働女子マンガを代表作にもつ作家だ。
庵野秀明が『監督不行届』で、エヴァになく安野モヨコにあるものとして「読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガ」というとき、「外側に出て行動する」のに欠かせない要素として今回の映画に「労働」を入れたのには納得がいく。


「ありがとう」等のお礼や挨拶は、決して「労働の対価」ではなく、別に、それでご飯が食べられるわけではない。
しかし、職場や家庭、コンビニのレジで「ありがとう」を言うことは、バトンタッチするように広げていける善意なんじゃないか、と、そこに自分は希望を感じた。
現在の社会状況には、相変わらず不安を感じている部分はあるけれど、少しずつ良くしていける、自分に出来る部分もあるんじゃないか、と、先日映画を観た『きみはいい子』を思い返しながら、今は『シン・エヴァンゲリオン』のことをそんな風に考えている。

きみはいい子

きみはいい子

  • 発売日: 2016/01/13
  • メディア: Prime Video

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:「そっくりさん」が自分の名前について、読んだ本から「モヨコ」を希望するという展開を考えている人がいたが、それは流石に怖い笑

感想『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』


考察を色々と読みだしたら止まらなくなってきたのでシンプルに感想を。
→続きはこちら。
pocari.hatenablog.com


メカ

冒頭のパリから良かった。

メカ造形を見た場合、エヴァンゲリオン自体は、カヲル君の乗る6号機以外は特にそそられない(2号機も好きだが、複数バージョンのどれがどれか認識できない)んだけど、今回は、マリの乗る8号機の冒頭のバージョンが素晴らしかった。
腕の作りが特殊ということ以上に、マリの運転方法がカッコいい。
いつもの両腕レバーではなくて自動車タイプなので、今回マリは車庫入れするようにエヴァを運転する。最後もシトもどきにエッフェル塔をねじり込むんだけど、そのときにもねじり込む動作とハンドル操作が一致していて、エヴァには乗ったことがないけど自動車は運転したことのある自分のような人間にも、「体感できるエヴァ」になっていた。
一方で、Qの予告編で登場していた8+2号機はカラフルで面白いデザインだと思っていたのでかなり期待していたけど、結局出番がなく残念。

シンジ

さて、冒頭シーンが終わると、やっと主人公のシンジ君が出てくる。
今回、直前にQを見て、改めて、見る人に苛々を抱かせるシンジ君のキャラクターを不憫に感じた。

ニアサードインパクトを起こした張本人でありながら、14年ぶりに復活して、カヲル君への友情と唐突な使命感からフォースインパクトを起こしかけるバカシンジ。
何かと「逃げるな」とばかり言う大人たちもずるいのだが、今回、「映画の尺」的にも、シンジ君のいじける時間があまりにも長過ぎるので、やはりここでもイライラが募る。
だからこそ、(その体験の凄まじさを知らない人から見れば)あまりに常識はずれで身勝手な態度に業を煮やして起こるトウジ義父に共感。
なお、そんなときにも冷静なケンスケは凄い。今回の影の主役。

村の風景

で、シンジ君がいじける間も、底をついて立ち上がってからも「村」の話が続く中盤が、本当に良かった。
最初のパリの街並みも良いけど、何といっても村の「風景」が最高。

何で自分があちこちを走るのが好きなのか最近分かってきて、それは「風景集め」が趣味だから。
でも、自然風景ではなくて、やっぱり人がセットでないと「萌え」はなく、エヴァの醍醐味である電柱・鉄塔描写は、まさに自分の好きな風景の代表。
しかも、今回の鉄塔は特別バージョンで、村の山側にある鉄塔が赤く光りながら空中で横回転している!(この理屈はケンスケが説明していたけどよくわからなかった…笑)
勿論、真に意味があるのは、ここで示されるような生活なのだが、この風景が観られただけでも、今回の映画は満足して帰ることができた。

群れ鉄塔

群れ鉄塔

  • 作者:一幡公平
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


父子と成長

そして後半。
おー!予想されたこととはいえ、親子喧嘩の展開になるのか!
まさにウルトラマン同士が戦うような、都市の中でのフィジカルなぶつかり合いから、いつの間にか「撮影用セット」を抜けて、心理的な戦い=父子の会話への移行していく様子も、素晴らしい。
結局、これがエヴァだよね。第四の壁を越えてくるよね。
と観ながらニヤニヤが止まらない。
シンジとゲンドウが話しているのは、彼ら自身のことじゃない、観ているお前らに言ってるんだからな!というお節介な感じが素晴らしい。
リアル綾波のやり過ぎている「気持ち悪さ」も嬉しい。
マリ登場突然の絵コンテ風映像も含めて、普通のアニメ表現ではやらない部分に踏み込むのがエヴァっぽい。


で、今回はゲンドウの自分語りが長かったのが良かった。
電車で対面に座るゲンドウ…
半袖のゲンドウ…
知識とピアノが好きだったゲンドウ…
サービスショット的に入れられているのも含まれるのか、親子が似ているのも本当によくわかるし、ゲンドウの深いところを理解した上でのシンジ君が最後に残るので、その成長の程度が腑に落ちる。

成長と村

成長という意味では、物語の中での14年の時間経過はとても意味がある。
コミックスを最終14巻だけ読み直したが、描きだそうとしていた結論は同じでも、時間経過や成長が描かれないため、旧劇場版やコミックスは「あまりに理屈っぽい終わり方」という印象がどうしても残る。
それに対して今回は、トウジやケンスケらが作った、ある意味では、「人類補完計画」ではない「別の正解」がはっきりと描かれるし、彼らが14年かけて人間的成長だけでなく、コミュニティの成長を通じて、それを実証してみせている。

最後にミサトが間に合ってゲンドウは負けを認めるが、ここも、神(自然)が与えた2つの選択肢しかないと思っていたゲンドウに対して、シンジやミサトが、神を超える第三の選択肢を示す形になる。


このあたりの、世界が行き止まりにハマっている感じは、エヴァの始まった20世紀末よりも今の方が、より「世紀末」的で、逃げ道が無いように見える。

また、(本の内容については)別の機会に書きたいが、斎藤幸平『人新世の資本論』に書かれているように、今、世界が進んでいる方向には絶望しかなく、それとは別の選択肢の方に希望を見出してしまう自分の感覚と、シンエヴァが見出そうとしている希望(村の生活に代表されるもの)はリンクしているように見えた。
人間の叡智、協力、工夫は神を超えることができる、という「希望」を前面に出す終わり方は、自然災害やコロナ禍で不自由な生活を強いられている多くの観客にとっても「希望」(逆に、希望に向かっていないことが明確であれば「絶望」)として伝わったように思う。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)


親切設計とbeautiful world

マリがゲンドウやユイ達と同世代であることは、Qの時点でも示されていたようだが、今回の映画だけを観ても理解できるし、カヲル君がどういう存在だったのか、ということも然り。全体的に、考察抜きでもモヤモヤがなく見終えることが出来るという親切設計なのも良かった。

また、宇多田ヒカルの新作は、今回、まだあまり聴いていない状態だったけど、やはりエヴァには宇多田ヒカルだよな、と思っていたらエンディングでは2曲目に「Beautiful world」。
この歌は、エヴァンゲリオンに合い過ぎているので、エヴァシリーズの「締め」にかかる曲としてはこれ以上のものはなかった。
これも含めて、自分にとっては大満足・大団円の映画でした。


『Q』のときは、これで次が終わりということは全く信じられなかったけれど、こうもしっかり終わることが出来るのは凄いと感心しきりです。
途中にも書きましたが、実は『人新世の資本論』はまだ途中。それ以外にも、気候変動など地球システムを対象とした問題を、資本主義に乗らない方法で考えていくような本はありそうなので、こちらにも食指を伸ばして、自分なりに「新世紀」を考えていきたいと思います。



次は、『シン・ウルトラマン』か!本当に今年の夏に公開できるのか分かりませんが、気長に待ちます。楽しみです。

映画『シン・ウルトラマン』特報【2021年初夏公開】

それでも野外排せつを続ける理由~佐藤大介『13億人のトイレ -下から見た経済大国インド』


つい先日もテレビで「クアッド」と呼ばれる4か国のニュースがあった。

日本とアメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる初めての首脳会合が、オンライン形式で行われました。「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、さまざまな国々と協力するほか、ワクチンなどの分野で作業部会を立ち上げ、年内に対面で首脳会合を開催することで一致しました。

「クアッド」と呼ばれる4か国の枠組みによる初めての首脳会合は、菅総理大臣、アメリカのバイデン大統領、オーストラリアのモリソン首相、インドのモディ首相が出席し、日本時間の12日午後10時半ごろから、オンライン形式で、1時間半余り行われました。

中国に次ぐ人口を抱え、中国への対応を考える中でも欠かせない存在となったインド。
経済大国として注目される国であり、かつ、「0を発明した国」だからということで理数系が強い、ITが強い、というプラスの印象もある。
しかし、実際のところどんな国なのか、ということはあまり知識がなかった。
そんなインドの実情を「トイレ」という視点で切ったのがこの本。


モディ首相が就任して間もない2014年10月の演説で「スワッチ・バーラト」を重要政策として打ち出す。その内容は

  • 2019年のガンジー生誕日までに
  • 約1億2千万基のトイレを新たに設置し
  • 屋外での排せつをゼロにする

というもので「史上最大のトイレ作戦」と報じられた。

そして、まさにその2019年のガンジー生誕150年の記念行事で、「スワッチ・バーラト」の成功を祝う祝典が開かれたのだが、実際にこの政策は成功したのか、そしてその成否の原因は何か、というのがこの本の主題になる。

第一章「「史上最大のトイレ作戦」-看板製作の実像と虚像」

この章のタイトルが示す通り、この看板政策は上手く行ってはいない。

ユニセフとWHOの調査(2015)では、インドにおいて野外で用を足している人の数は約5億6425万人で、インドの人口の4割以上。さらには、全世界の「トイレなし人口」のうち、6割がインドに集中しているという。

日本から見て、「もうすぐ先進国なんでしょ」と思っていた国で、人口の4割の人がトイレなしで暮らしているとは思いもよらなかったので、度肝を抜かれた。

ただ、読み進めると、驚くことに、トイレを設置しても野外で排せつする人が多い、ということもわかってくる。この章で言う「虚像」とはつまり

  • 維持費の面から足踏みするケースが多数ある(日本であれば「下水道の整備率」を目標に掲げるところを「トイレの設置数」としているところに注意)
  • 政府はトイレの設置数のみを追い求めるが、そもそも補助金のみを得て設置しないケースが多数ある
  • 設置しても生活慣習や宗教的理由から使用しない(野外排せつを続ける)ケースが多数ある(その理由は後述)
  • トイレを設置したい思いが強いのは女性だが、その意見が男性家族に受け入れられないケースが多い

と言ったところ。
最初にも書いた通り、日本でトイレといえば下水道(そうでないところも勿論ある。後述)を思い浮かべるが、それがない中でのトイレの設置が意味するところは確かに分かりにくい。

モディの政策評価に対する国民の反応として、ゲイツ財団のインド事務所に勤務していたハミドさんの意見が、この本の後半の話題も含んでおりわかりやすい。

スワッチ・バーラトは、それ自体はいい考えだと思います。だけれども、それを『成功した』と強調するのは、あまりに事実と離れています。独立した機関の調査結果でも、インドは地方を中心に野外排せつを続けています。それに、トイレや下水管の清掃にあたる人たちの環境改善がなされておらず、今でも事故が多発しています。トイレをいくつつくったかという、ごまかせる数字が大切なのではなく、いかに生活にトイレを根付かせているかが重要なはずなのです。p56

ハミルは「平等」という観点からモディ首相のやり方を疑問視するが、それはカシミール州の生まれということも関係があるようだ。カシミール州はインドで唯一イスラム教徒が多数派の州で、パキスタンとの国境未画定地域を抱えるなど、治安上不安定なエリアにあり、モディ政権は、カシミール州の自治権はく奪も含めイスラム教徒に差別的な政策をとっている。
人口の多い国ということで、中国と似た側面があるようだ。なお、後述するが、トイレの普及はヒンズー教の教えと強い関わりがあり、イスラム教コミュニティではトイレの普及率が高いとのこと。

第二章「トイレなき日常生活-農村部と経済格差」

この章では、特に農村部において、貧困の問題が、トイレを設置しない大きな理由になっていることが示される。
読み進めると「トイレなき日常生活」は、日本人の自分にはやはり想像を絶する厳しさがある。
取材を受けた30歳の女性は、トイレに行くのは日が昇る前の1日1回と答えているが、とても考えられない。
そして何より、野外での排せつは、安全面に問題がある。実際、ヘビに襲われて亡くなる人も多いようだが、女性の場合はレイプ被害も多く、インドの家父長的な考え方とも強く関連しているという。
この章でも、モディ首相の「国内にある60万あまりの村落すべてに電力供給を実現させた」というtweetが話題に上っているが、あくまで「すべての村」の「一部の建物」に「送電線がつながった」という状態を指し、言葉のマジックであることが示される。
都市の利便性のみに視点が行き、置いてけぼりにされる人が出てくるという格差の拡大の問題は、どの国にも多かれ少なかれあるが、中でもインドの格差は大きいように感じられた。

第三章「人口爆発とトイレ-成長する都市の光と影」

3章では、聖なる川であるガンジス川(ガンガー)の深刻な水質汚染について触れられる。
2015年の統計結果によれば、インドの人口10万人以上の都市での下水処理能力は発生量の23%だが、5万人以上10万人以下の都市では5%で、9割以上の下水がそのまま河川に流されているという。
さらにこの章では、「盗水」(水道管を掘り出して穴を開け漏れた水を勝手に持って行く)や「盗電」(電柱や住宅の配電盤から不正に電線を伸ばし自分の家で使う)行為が多いことから、インフラの維持管理のための財源が不足していることも示される。
また、急速な都市化と人口増の中で、地下水の減少や地下水の汚染も進行していることを考えると、今後も貧困層の生活が犠牲になり、国自体が不安定化することが示唆されており、かなり恐ろしい。

第四章「トイレとカースト--  清掃を担う人たち」

この章が、最も興味深かった。
最初に、下水管清掃の過酷な現場が取り上げられるが、下水道やトイレの清掃に関わる労働者の多くは、カースト制度の最下層で不可触民とされた「ダリット」と呼ばれる人たちだという。*1
ある地域の出身者の就業先が一つの業種に絞られるという話は衝撃的だ。

ウィルソンの出身地である南部カルナタカ州の地区では、住民の大半がトイレ清掃や排せつ物の処理労働に従事していた。故郷の若者たちは、清掃労働者になる以外に仕事を得ることはほとんどできず、自身も高校卒業後、職業紹介所から示されたのは清掃業だった。p134

下水管の仕事も過酷だったが、特にきついのは乾式トイレの清掃労働だというのは本を読むとよくわかる。その内容はもはや書きたくないほどだが、(下水道などはないため)トイレの下にそのまま放置された排せつ物を、素手やほうきを使ってかき集めてゴミ捨て場に持って行く仕事で、ほとんどが女性。インド全体で16万人の女性たちが、いまだにこうした作業に従事しているという。(マニュアル・スカベンジャーと呼ばれる)


ヒンズー教の教えによれば、そもそもトイレが家の敷地内(人間が住むところの近く)にあるのはいけないことで経典にも書かれているという。そして、ヒンズー教の高名な僧に意見を聞くと、次のような言葉で「水洗」自体を否定する。

トイレで排せつ物を観ずに流せば目の前から消えるけれど、それは水を汚し、そして土を汚すことになります。水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の厚さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。しかし、水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです。p166

そしてその「不浄」と「浄」の概念が強く浸透しているために、ダリットへの差別はなくならない。

トイレや排せつ物は「不浄なもの」であり、それを扱うダリットたちもまた「不浄な存在」であるから、「浄」の世界に立ち入るべきだはない、という考えだ。これが、トイレの普及や清掃労働者の環境改善に大きな壁として立ちはだかっているのは間違いない。p154

この章では、「スラブ国際トイレ博物館」の館長にしてNGOの代表を務めるパタクさんの取り組む簡易水洗トイレの普及と清掃労働者の環境改善について多く取り上げられる。
ここでの作者の佐藤大介さんの関心が興味深い。パタクさんは、清掃労働者の環境改善には熱心だが、清掃労働に携わるのがダリットに固定化されていることには関心を示さないのだ。
ガンジーカースト制度はそのままにして差別の撤廃を訴えたというので、インドにおいては、カーストをなくすという考え方はあり得ないのかもしれない。

第五章「トイレというビジネス――地べたからのイノベーション

第5章では、インドの学生が開発する清掃ロボットのほか、日本企業の例も紹介されている。

日本の「浄化槽」の仕組みも注目されているというのも興味深かった。この本を読むと、インドにおいて下水道整備を進めるのはあまり現実的ではなさそうなので、下水道によらない浄化槽のような方法はまさにベストマッチなのだろう。

インドとコロナ

終章では、インドでのコロナの状況が描かれる。ロックダウンによって影響を受けるのは、多くの出稼ぎ労働者で、中でもダリットの人たちは、身分証明書を持っていないことを理由に、国からの支援の外に置かれてしまっている話なども、この本を読んでくると、さもありなんという感じはする。
各国の諸問題に上乗せされる形で加わったコロナ(COVID-19)の問題では、それぞれの国で影響を受ける職種に偏りがある。インドにおいては、さらに、カーストの問題は切り離せないようだ。
また、別視点で見れば、排せつ物処理の問題は、地震などによる断水時には、日本においても個々人の問題として降りかかってくる。自分自身が処理する必要がある場面が出てくるかもしれない。そういう意味では、インドの問題、カーストの問題ではなく、もう少し、下水道の仕組みや災害時の排せつ物処理の方法について勉強しておくべきだと思った。

*1:カースト制度では、バラモンクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4つのカーストがあるが、その外側にいる人たちがダリット

迎撃!田島貴男DCvol.3『ELEVEN GRAFFITI』『L』『ビッグクランチ』編

記事のタイトルは「田島貴男DC」としていますが、「田島貴男のHome Studio Concert ~ディスコグラフィー・コンサート」が正式名称。
買い忘れている人は早くチケットを買いましょう

■チケットページURL: https://originallove.moala.live/products/hsc-4-st
■チケット価格:1,500円
■生配信予定日時:2021年3月20日(土) 21:00~22:00
http://originallove.com/live/2021/02/20/3328


ついにこの時が来た!!

対象アルバム

  • ELEVEN GRAFFITI(1997年7月2日)
  • L(1998年9月18日)
  • ビッグクランチ(2000年8月2日)

1997年~2000年の音楽

(工事中)

ELEVEN GRAFFITI(1997年7月2日)

(工事中)

L(1998年9月18日)

(工事中)

ビッグクランチ(2000年8月2日)

ビッグクランチ

ビッグクランチ

今回、一通りアルバムを聴いてきて、基本的には、アルバムの良さを再評価する良い機会になっていたが、やっぱり『ビッグクランチ』への苦手意識は払拭できなかった。
実際、今回の3枚のうち、元々大好きだった『L』もニュートラルな位置にあった『ELEVEN GRAFFITI』もどちらも聴き直して評価を上げたあとで聴いたアルバムなのに、やっぱり『ビッグクランチ』は自分にとって鬼門なのか…。
単体で聴くと大好きな曲はいくつもある。名曲「ショウマン」、大作「地球独楽」は勿論のこと、AB面の一曲目を担うダブルヘッダー「女を捜せ」「ダブルバーガー」も良い。
ただ、アルバム1枚となると、なかなか聴き通すのがしんどい。


これはやはり歌詞なのでは?と思って何かを掴みかけたとき、手元にあった新潮文庫の小冊子(ナツイチみたいなやつ)「高校生に読んでほしい50冊2020」の中の言葉が、自分の思っていたことをまさに言い当てた。
この小冊子では「中高生のためのワタシの一行大賞」として、中高生から対象図書の好きな一冊から心に残った一行と、それにちなんだエピソードを募集している。
第7回の大賞は角田光代『さがしもの』の一行を取り上げた中学生の女の子の文章で、「明日から留学」というときに鍵が見つからずに必死で探すエピソードが書かれている。

「さがしもの」と「なくしもの」は微妙に違う。あの鍵は数時間前まで手の中にあったはずの「なくしもの」。これから私は自分にない「さがしもの」を見つけに海外へ旅立つ。

まさに『ビッグクランチ』は、ここで言う「なくしもの」についてのアルバムで、田島貴男がそれまでの作品で「We are bound for LOVE(夢を見る人)」と歌っていたような前向きな「さがしもの」感が少ない。

  • 新世界のPARTY NIGHTで女を捜せ(女を捜せ)
  • おれの恋の気まぐれなアモール 何処へ行ってしまったの(愛の薬)
  • 裸探しサファリ(セックスサファリ問題OK)
  • 愛の渇きに彷徨い続けて何処へ辿り着くのだろう(ショウマン)
  • 8メートルリムジンで今日の相手捜せ(ダブルバーガー)
  • なにも見つからない(MP)

結局、「探している」と言いながら、同時に「失ってしまった」と何度も歌うので、より一層「取り戻す」感じ=後ろ向きな「なくしもの」 感が強まってしまっている。(そもそもMP=ミッシングパーソン)
「愛で殺したい美しい人」と歌う「殺し」も「愛の薬」も繰り返し「愛」という言葉を使うが、愛が満ち足りた歌詞ではなく、明らかに「愛」を取り戻そうと苦しんでいる歌だ。


音楽的なトライは前向きで面白いけど、どの曲からも感じ取ってしまう後ろ向きな言葉のボディーブローがどんどんダメージとして溜まってくる。
このやるせない悶々とした気持ちの積み重なりは「地球独楽」でラッピングされて、最後に「突破感」のある「R&R」が付いているので、最後まで聴けば少しスッキリするけど、やっぱり通して聴くのが重いのは、この一貫した歌詞が原因だとわかった。
なお、アルバムの中で順位を付けたら「ショウマン」「地球独楽」の次に好きな「液状チョコレート」には「なくしもの」要素はなく、逆に、苦手な「殺し」「愛の薬」「MP」は「なくしもの」要素に満ちているので、勿論、個人の好みの問題だろうと思う。


田島貴男本人も、当時のラジオ番組「BURST」のビッグクランチ特集の全文書き起こしを読むと、後ろ向きな様子は露ほども見せずノリノリ過ぎて笑ってしまうほどだ。田島解説では「液状チョコレート」は「AVっぽい歌詞」だそうです。面白い。*1

なお、16年前の自分が語る『ビッグクランチ』が駄目な理由はコチラ。
今とたいして変わらない。今では「R&R」は好きです。
pocari.hatenablog.com


演奏してほしい3曲

  • ティラノサウルス
  • ビタースウィート
  • アンブレラズ
  • ディア・ベイビー
  • 水の音楽
  • ドラキュラ
  • 大車輪
  • インソムニア
  • 神々のチェス~白い嵐
  • ダブルバーガー
  • ショウマン

(駄目だ、『L』愛が溢れてしまっている…。多分演奏すると思うけど「ディア・ベイビー」はちゃんとやってほしい。)

セットリスト

  1. GOOD MORNING GOOD MORNING
  2. 宝島
  3. ビタースウィート
  4. アイリス
  5. ショウマン
  6. 水の音楽
  7. MP
  8. 地球独楽
  9. 羽毛とピストル
  10. 大車輪
  11. サーディンの缶詰
  12. R&R


今回は、唯一「MP」が天邪鬼の気概を見せていました(笑)が、終わってみると穏当すぎるセットリストでした。
とはいえ、「水の音楽」「地球独楽」がまとめて聴けたのは本当に良かったです。
そして、弾き語りで聴いてみて、観客を入れても盛り上がりを期待できると確信できたのは「大車輪」。
「ショウマン」や「アイリス」はやはり名曲でした。
MCで驚いたのは「ビタースウィート」が19か20歳の時に作った曲だという情報です。これも『ELEVEN GRAFFITI』というアルバムの核となる曲なのにすごい。


なお、『ビッククランチ』こそがオリジナル・ラヴ田島貴男)の最高傑作と信じて疑わないというkeyillusionさんからコメントを頂き、それ以降、コンサートまで改めて聴き直したところ、「MP」は、空虚な気持ちにはなりますが、嫌いな曲ではないことがわかりました。となると最後まで残る「殺し」「愛の薬」の2曲に対する苦手意識が全体の中で勝っていて、アルバム全体に対する辛い評価に繋がっていると言えそうです。(実は、このあと「苦手」がどこから来ているのかが判明しました!→迎撃!田島貴男DCvol.4『ムーンストーン』『踊る太陽』『街男 街女』編 - Yondaful Days!
とはいえ、Twitterのタイムラインを見ていると、「殺し」「愛の薬」を好きな人もいて、やっぱり人それぞれで面白いなあ、と思いました。
一方で、対人での好き嫌いも、同様に、癖や言い回し、身振り手振りのほんのちょっとしたことで「大嫌い」が生まれることもあり、しかもその「呪い」は時間で解決できない気もしてしまいました。


ディスコグラフィーコンサートは、過去のアルバム聴き直しの中で、もう一度、苦手な曲やアルバムを好きになるいい機会だと思っています。別に無理に好きになる必要はないのですが、フラットな気持ちに戻ってそれぞれの曲と「再会」してみたいです。

*1:改めてみると、このORIGINAL LOVE presents 《BURST!》書き起こし、大量にあるし力作過ぎます!ちょうど『XL』『ビッグクランチ』『ムーンストーン』くらいの時期で、自分も初回から途中まではいつも聴いていたはずなのですが最終回の記憶がないので途中で脱落してしまったのだろうか…

推しは命にかかわるか~宇佐美りん『推し、燃ゆ』

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

そんな冒頭から始まる第164回芥川賞受賞作。


まず、このジャケがいい。
勿論、印象的なタイトル込みだけど、思わず手に取りたくなるピンクの表紙。
ピンクの表紙と言うと、自分にとっては綿矢りさ勝手にふるえてろ』。今回芥川賞を受賞したこともあり、そして若い女性作家と言うことも共通しているので自然と綿矢りさを思い浮かべながら読み始めた。

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)


「皺寄せ」と「推し」

出だしから、想像通り、独特の比喩表現があったりして、それだけで文章を読むのが楽しくなる。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。
p9

ただ、この「皺寄せ」の感覚は、当人にとっては「上手いこと言った」どころの話ではない大問題で、この文章の直後に「診断」の話も出てきたりして、結局ラストまで、主人公あかりの悩みの核として物語に関わってくる。

保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた。薬を飲んだら気分が悪くなり何度も予約をばっくれるうちに、病院に足を運ぶのさえ億劫になった。肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分を感じてもいた。推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。
p9


さて、この本のメインテーマは、タイトルからすれば「推し」なはず。
推しについてはいくつも語られる場面があるが、序盤に「趣味人」ではない人に向けてなのか、簡単なレクチャーがある。

アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。
あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。
p17

このあたりも、納得しながら、もしくはリアルやネットでの知り合いを多数思い浮かべながら読んだ。つい最近、テニスの王子様ファンの異常過ぎる愛情の話を読んだので、(自分の想像の及ばない範囲で)本当に色々な人がいるなあと思っていたところ。
kerama-go.hatenablog.com



なお、あかりは、「解釈する」ことを目的として、ファンブログを書き続けているが、自分の場合は少し違って、「自分が何を好きか」ということに何より興味があるから、分析的に文章を書いたとしても、中心は推しにはなく常に自分。
あかりとは、推しとのスタンスが大きく違うからこそ、この小説は興味深かった。(そもそも年齢差の問題が大きいが。)

「背骨」としての推し

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。
p37

このあたりから雲行きが怪しくなってくる。
自分にとっての「推し」は、ここで語られる「普通」の方だ。つまり背骨は自分自身で、「推し」は「栄養」という扱いになる。どんなに強い「推し」も、それが無ければ生きていけない、「推しは命にかかわる」(p6)というのは、意味は分かるが、実際には自分の命とは別物。酷い話だが、パンがなければケーキを食べればいい、という考え方に近い。


しかし、彼女にとってはそれがすべて。
女子高生が主人公の小説を読むのだから、ほかにも楽しいことが色々あるでしょ、と思っていたのに、本当にあかりは、「推し」しかないようなのだ。
例えば、村田沙耶香の小説なら、むしろ、あかり視点の世界が正しくて、同居する母や姉の常識的な考え方自体がおかしいのでは?という価値感の逆転の提示がある。
綿矢りさの場合は、主人公の感性は独特であっても、日常生活や周囲との関係にここまで悩むだろうか。


ということで、中盤以降は、表紙のイメージからは予想しなかった展開が続く。

  • 高校は留年が決まり中退
  • 中退から半年ぼーっとしてたら、父親に「ずっと養っているわけにはいかないんだよね」と言われ、結局、亡くなった祖母の家で一人暮らしをすることに。
  • バイト先にも迷惑かけっぱなしで「一生懸命やってるのは知ってるけど、あのね、うちもね、お店なの」と言われてクビに。
  • 挙句の果てに、「推し」のグループは解散。「推し」は芸能界を引退。

あかりは、自分が(病院で診断も出ているのに)「普通にできない」ことを、家族にすらわかってもらえない、誰にもわかってもらえない。
この感じは、推しが抱いていた、誰にもわかってもらえない、という悩み・苦しみと同じなのでは?と考え、推しが人を殴ってしまった気持ちがあかりに乗り移っていくような、怒涛の流れに繋がっていく。

はっきり言ってラストは暗く、情けない。それでも力強さと光が見えるところに救われる。「推し」は人になり、作品を通して関わる対象ではなくなってしまったけれども、自分で生きていこうと思えたのだから。

這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

推しは命にかかわるか

あかりと同様、実在、非実在にかかわらず、人は「推し」の悩みを共有したり、その考えを探ろうとすることによって、人間全般や自分自身の理解を深めていくものだと思う。
本作では、あかりの推しは引退してしまうけれど、実は、活動を中断したり、引退してしまった推しへの想いの方が、自分を支える糧になるのではないかと思う。その意味で、ある一時期だけでも、推しがいた人生は無意味じゃない。


あかりが推しに出会ったのは舞台「ピーターパン」。ピーターパンが劇中で何度も言う「大人になんかなりたくないよ」という言葉に心を動かされる。

言葉のかわりに涙があふれた。重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする。同じものを抱える誰かの人影が、彼の小さな体を介して立ちのぼる。あたしは彼と繋がり、彼の向こうにいる、少なくない数の人間と繋がっていた。
p13

作品のメッセージだけでなく、推しの向こうにいる多くの人間から力をもらって、あかりはラストで「生きよう」と思うことが出来たのだと思う。自分が一人じゃない、そのことに気づくことが出来る。それがあるだけでも「推しは命にかかわる」と言えるのかもしれない。


補足(おっさん構文)

父親に「厳しいことを言うようだけど、ずっと養っているわけにはいかないんだよね、おれらも」と言われながら、あかりはあることを思い出して半笑いになってしまう。このシーンは怖い(笑)ので引用しておく。(怖過ぎます)

父はいわゆるおっさん構文の使い手だった。以前、拡散された女性声優さんの投稿への返信に見覚えのある緑のソファの写真が添付されていて、偶然だなってひらいたらどう考えても父の単身赴任先の部屋だったということがある。
〈かなみんと同じソファを買いました(^_^) 残業&ひとりさびしく晩酌(;^_^A) 明日も頑張るぞ!〉
p90

参考(過去日記)

芥川賞読んだの久しぶりだった!もっと読んでいきたいです。
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綿矢りさもそろそろ読むぞ。
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新聞記者の仕事とは ~三浦英之『南三陸日記』

南三陸日記 (集英社文庫)

南三陸日記 (集英社文庫)

住んで、泣いて、記録した。東日本大震災直後に受けた内示の転勤先は宮城県南三陸町。瓦礫に埋もれた被災地でともに過ごしながら、人々の心の揺れを取材し続け、朝日新聞に連載された「南三陸日記」は大反響を呼んだ。文庫化に際し、8年ぶりの「再訪」や、当時は記せなかった物語を大幅追加。開高健ノンフィクション賞など、数々の賞を受賞した気鋭のライターが描く珠玉の震災ルポルタージュ


新聞連載をまとめたもので、およそ2ページの記事に見開きの写真がつく、という構成の繰り返しなので、非常に読みやすい。
ひとつひとつの文章が少ない分、以前読んだ(同じ三浦英之さん執筆の)『白い土地』に比べると、淡泊な感じはするが、その分、扱われている人の多さがこの本の魅力だ。


少し以前に、三浦英之さんのあるつぶやきに対して、“新聞記者の仕事って「作品」を書くこと?フラットに事実を伝えることなんじゃないの?”と批判するtweetが、それなりの数リツイートされていた。

ネットではマスコミ批判の発言が盛り上がることは多いし、自分自身もそう思うこともある。しかし、著作を読むと、「それは違うだろう」と言いたくなる。


そもそもフラットな事実というのは何だろうか?
最近では「ファクト」という言葉も多く使われるが、フラットな事実がただ積み上げられている本を読む自信が自分にはない。
例えば東日本大震災のことを振り返りたいと思ったとき、フラットな事実(ファクト)を常に追い求める人は災害報告書を読むのだろうか。
東日本大震災を忘れてはいけない」と簡単に言うが、時間が経てば多くのことは忘れてしまう。災害に限っても、同じ地震でも熊本地震があるし、多くの豪雨災害もあった。
海外での紛争や地球環境にも目を向ける必要がある。
それ以上に、皆それぞれの生活がある。


記者の仕事は、色々な出来事がある中で、多くの人が知っておくべきテーマについて読者の興味を引く文章を書くことだろう。
その意味では、どの記事も記者の「作品」であり、作品であることと、事実を伝えることは矛盾しない。
少なくとも自分は、この『南三陸日記』と『白い土地』を読んで、三浦英之さんの「記者」としての魂を感じたし、2冊を読むことで、宮城・福島の被災地域をこれまでより身近に感じた。
これらの本を読まなければ、例えば「汚染水」の問題を考えたとき、「復興五輪」という言葉の意味を考えたとき、色々な場面で、うすぼんやりと「被災地」という言葉で括ってわかったつもりになってしまっただろう。
そこには自分と同じように暮らす人たちがいる。そんな当たり前のことが、少し距離が離れただけでも、どんどん当たり前でなくなり、彩度を失っていく。
だからこそ、本で映画でドラマで、時には直接会うことで、色々な場所に住む、多種多様な人々の生き方を知っていく、それが、これからの世の中ではどんどん必要になっていくだろう。
新聞記者の仕事は、その手助けをすることではないか。
そんなことを考えた。


さて内容についても少し触れるが、取材対象になる人たちは、家族を津波被害で亡くした人が多い。
しかも2011年当時の記事なので生々しい写真もある。


そんな中で印象に残っているのは、「申し訳ありません」「家も家族も無事なんです」と答えた渡辺さん(p32)。この方は取材の翌日に登米市に引っ越してしまうのだが、断水が続く南三陸町では生活が厳しいということ以上に「町を歩いていると、周囲に『あんたはいいちゃね。家も車も無事で』と言われている気がして」辛いことが理由だと書かれていて、そんな苦しみもあるのだと改めて知る。(同様のエピソードは『白い土地』にも出てきたが)


取材対象として何度も登場する家族や店もある。
2011年3月に行われた追悼式で、宮城県代表としてスピーチを行った奥田江利子さん(津波で結婚したばかりの長男を亡くした)も何度も出ている。
奥田さんが、追悼文の文案を考える中で、当初最後の文として入れていたが、何度も書き直していく中で削った一文が心に刺さる。

戻れるなら、一年前に戻りたい…

この言葉の代わりに入れた「悲しみを抱いて生きていく」。それしかないとわかりながらも、震災から1年しか経っていない時期に色々なものを捨てなければスピーチでは話せない力強い言葉を奥田さんは選んだ。


そうした中、とても印象的な(文庫版の)表紙写真の、いかにも「新1年生」然とした女の子がどこに登場するのか、実はびくびくしていた。
「娘は4月に1年生になるはずだったんですけど…」
遺影を持った若い両親の口からそんな言葉が語られるのかも、と思っていたからだ。

しかし、彼女が誰なのかは、最後の最後にわかる仕掛けになっている。
そういう「作品」めいた「仕掛け」も含めて、『南三陸日記』は、自分にとって、とても心に残る本となった。


繰り返しになるが、「忘れてはいけない」「知っておかなければならない」テーマは、自分の生活に近い場所(例えばコンビニ)にもあるし、少し距離を拡げればそれこそ無数にある。
そういったところへアプローチするのを手助けしてくれるのが新聞記者や広くジャーナリストの役割だと思う。自分が興味・関心を持ち続けられるのは、多くの方の努力の結果生まれた数々の映像や文章の「作品」があるからだと思う。
三浦英之さんは1974年生まれで年齢も同じ。
三浦さんのように、などと大それたことは言わないが、社会に貢献できるような仕事を残していきたい、と自分を奮い立たせる読書となった。


次はこちらでしょうか。


過去日記

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竜児とマヤとキャンディ~いがらし ゆみこ・水木 杏子『キャンディ・キャンディ』

キャンディ・キャンディ』が届くまで

ご存知の方も多いと思うが、『キャンディ・キャンディ』は、日本どころか世界で愛された傑作アニメとして知られ、いがらしゆみこ先生の代表作でありながら、現在、絶版で入手困難な作品となっている。かつては何度も再放送されたアニメも、あることが理由で今後再放送やメディア化されることはない。(詳しくは下の記事もしくはWikipdeiaを。)
自分はそのことを著作権に関する本を読んで知り、すぐさま調布市の図書館に予約をしたのだった。(調布市水木しげるの故郷ということもあり、漫画の蔵書が比較的充実している)

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思えば、それが6年も前のこと。そこから待ちに待ってやっと自分のところに熱望したキャンディ・キャンディが届いたのだった。

高嶺竜児とキャンディ

先ほども書いた通り、子ども時代にはキャンディ・キャンディの再放送をよくやっていた。本放送の時期も生まれてはいたが、2歳~4歳(1976〜1979)の頃のことになるので、ストーリーを意識したのは小学生になってからの再放送だろう。
当時、小学生男子だった自分は、少女向けアニメということで避けていたが、何故か2歳下の弟が熱中して見ていたので気になってはいたのだった。
なお、Wikipediaによれば原作漫画とアニメの関係は以下の通り。最終話のタイミングを一致させるなど、なかなか熱い取り組みがなされた作品だったことが分かる。

原作開始の1年半後にテレビアニメ版が放映開始、原作と同時進行しながら1976年10月1日から1979年2月2日まで放送。放送時間帯は、毎週金曜日19時から19時30分(全115話)。最終話は、原作の最終回が掲載された「なかよし」の発売日の前日に放送された。これは物語のラストで語られる「ある秘密」を出来るだけ同時に明かすようにするための意図的な試みであった。
キャンディ♡キャンディ - Wikipedia

さて、このあたりの「ある秘密」についてもしっかり知らなかったため、ストーリーに興味を惹かれたということの他に、今回、自分が『キャンディ・キャンディ』の物語を読む際に確認をしたかったことが2点あったので、最初にそれについて記しておきたい。


聖闘士星矢』で有名な車田正美が描いた『リングにかけろ』というボクシング漫画の名作がある。
車田漫画の王道と言えば、見開きで必殺技の名前を叫んで敵を倒す展開。
主人公の高嶺竜児の必殺技はフック系で、ブーメランフック→ブーメランスクエア→ブーメランテリオスとストーリーが進むにつれて強力な技に進化していく。
このうち、ブーメランテリオスという必殺技は、倒される相手が皆「テリオスとは…まさか…あの…(ガハッ!)」と一言発して意識を失う超強力な技だが、結局、物語が完結されるまで、テリオスとは何だったのかが明かされないのだった。


そこで、キャンディ・キャンディが出てくる。キャンディが好きになる相手は何人か登場するが、本命はテリュース(物語内ではテリィと呼ばれる)。「テリオスとは、まさか、あの…キャンディ・キャンディのテリュースなのではないか?」という風に誰かに吹き込まれたのか、何か関係があるのかと信じていたのだった。(さっき確認したら、両作品とも好きな弟が冗談で主張していたらしい)

もう一つは、車田正美先生がキャラクターの造形(特に髪型)をキャンディ・キャンディから学んだのではないか、という話を、これもどこからか吹き込まれて信じていたからだ。(この情報は弟由来ではない)
そもそも『リングにかけろ』の世界大会に登場するフランスJrチームは、ナポレオン・バロアが率いる5人兄弟(同じ顔)で、「ベルサイユのバラ』のオスカルと同じ髪型をしているので、これは信ぴょう性が高いと考えていた。

全く関係のない『リングにかけろ』とのつながりを考えると自分にとって『キャンディ・キャンディ』は、倒さなければならない敵だったのだ…。

「アッと驚く展開」でぴったり終わる物語

直前に、(記憶力はいい加減だが)すぐにネタバレをしてしまう奥さんから「たしか最後はとても後味が悪い終わり方だった」と聞かされ、びくびくしながら読む。実際、数人しかいない主要メンバーの何人かが命を落としてしまう展開に、『鬼滅の刃』を思い出して不安になる。
しかし、ラストは、少しずるいと思いながらも「アッと驚く展開」で丸く収まる。(奥さんの記憶違いだったようだ)
はっきり言って6巻があっという間に過ぎてしまう漫画で、そのスピード感と物語の深みは、それこそ『鬼滅の刃』以上のものがある。

好みのタイプとミスリーディング

アンソニー、アーチー、ステアという、兄弟のような3人から好かれ、さらに本命のテリュースだけでなく、嫌なニールからも好かれるというハーレム状態のキャンディだが、キャンディの好みは一貫しているところは信頼のおけるところだ。


最初に登場するのは「丘の上の王子様」。
孤児院「ポニーの家」でキャンディとずっと一緒に暮らしていたアニーが養女として引き取られ、その後、手紙もよこさなくなってしまうことを悲しみ、涙を流す幼いキャンディを「丘の上の王子様」は慰めてくれたのだった。

次は、ニールとイライザにいじめられて泣いていたキャンディを、6年前の「丘の上の王子様」と同じように慰めてくれたアンソニー。(自分は、一番最後まで、「丘の上の王子様とアンソニーは顔が同じで明らかに同一人物なのに、どうして分けるのだろうか…?」と思っていたが、作中では「6年経っているのに同じ姿はおかしい」ということでその可能性は否定されている)

そして、1巻の最後でアンソニーが落馬事故で亡くなり、代わりにアンソニーにそっくりなテリュースが登場する。性格が悪いにもかかわらず、キャンディはすぐにテリュースのことを惹かれていく。つまり丘の上の王子様→アンソニー→テリュースと顔の似ている人を次々と好きになる。


この流れを見ると、一番最後の展開は、上手いミスリーディング(髪の色の設定など)によって成立していることが分かる。その意味で、キャンディ・キャンディはミステリ的でもある。


以下、中公文庫2巻表紙はアンソニー、5巻表紙はテリュース。


さまようキャンディ

ところで、物語全編を通して、キャンディは活動場所を頻繁に移す。このあたりは朝ドラっぽいとも言える。

  • ポニーの家という孤児院(アメリミシガン湖近く)
  • ラガン家(ニールとイライザの家:レイクウッド)
  • メキシコ送りになりかける
  • アードレー家の養女に(レイクウッド)
  • アンソニーの死をきっかけにポニーの家に
  • 留学で聖ポール学院に(ロンドン)
  • イライザが仕掛けたテリーとの密会事件をきっかけに密航して渡米。ポニーの丘に。
  • メリー・ジェーン看護学校に。(ポニーの家から4時間程度)
  • 一次大戦がはじまり聖ヨアンナ病院に派遣。(シカゴ)
  • シカゴのアパート住まいは変わらないながらも、ニールの逆恨みから聖ヨアンナ病院を解雇されハッピー診療所で勤めることに。
  • 同居していたアルバートさんが行方不明になったことをきっかけにポニーの家に戻ろうと決意したところにニールとの婚約話が。
  • ポニーの丘に戻る。

こう書きだしてみると、序盤と終盤でニールの嫌がらせにより二度も居場所を失いかけるキャンディは可哀相。
特に、序盤の「メキシコ送り」の件はひどい。レイクウッド(ミシガン湖近く)からメキシコなんてどれだけ距離があるのか…。

キャンディと北島マヤ

Wikipediaを読むと、ストーリーは『アルプスの少女ハイジ』に着想を得ているようで、確かにそれも納得だが、自分としては、どうしても大好きな『ガラスの仮面』と比較してしまう。
なお、『キャンディ・キャンディ』の連載は、「なかよし」1975年4月号から1979年3月号、『ガラスの仮面』は「花とゆめ」1975年発売の1976年1号で連載開始ということなので、開始はほぼ同時期ということになる。
キャンディ・キャンディ』は終わり方も含めて、恋愛漫画というより、キャンディが自分の望む生き方を求めていく「自分探し」の漫画なのだが、まさにその恋愛要素が類似点だ。


両作品で対応するキャラクターは以下の通り。

  • アルバートさん:速水真澄
  • イリアム大おじさま:紫のバラの人
  • ジョルジュ:聖さん
  • ステア:桜小路君
  • スザナ(テリィの共演相手):紫織さん

こう見ると、マヤは気が多くて少しフラフラするので、桜小路君のような男が犠牲になっていることがよくわかる。
キャンディは「好き」がはっきりしているので、アーチーもステアも、キャンディへの愛情は変わらないが、気持ちを切り替えて他のパートナーを見つけている。(ステアにはパティ、アーチーにはアニー)
マヤがキャンディくらい桜小路くんのことを相手にしなければ、桜小路くんももっと幸せになっていたはずなのに…。


一方、ヒロインがもう少しで最愛の人と結ばれるというときに決定的な問題を生み出してしまうスザナは、紫織さんは完全に同じ役回り。
また、照明が落ちてきて怪我をするのは姫川亜弓と同じ状況であることを考えると、美内すずえ先生がキャンディ・キャンディを好きでわざと似せてきているということもあり得る。

ガラスの仮面 1

ガラスの仮面 1


最後に

ということで、キャンディ・キャンディは、悲劇、別れ、驚きの展開と、物語を盛り上げるいくつものポイントが短い話に盛り込まれているだけでなく、第一次世界大戦時のアメリカ、イギリス、フランス(ステアはフランス軍の志願兵となる)を舞台にした、やや骨太の要素もあり、得るところの多い作品だった。
それだけに、こんなに面白い作品が、手軽に読めないのはとても残念だが、著作権裁判についても勉強しておきたい。


なお、ブーメランテリオスの秘密はわかりませんでした。
また、ステアが何となく、ドイツJr.のヘルガに似ているかなと思ったけど眼鏡が共通するだけでした。