Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

さらけ出すコミュニケーション~清田隆之『さよなら、俺たち』

さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

読まなくちゃとずっと思っていた清田隆之さんの著作を初めて読みました。
男性の書くフェミニズムの本ということで、女性が書くそれよりも、さらに気の引き締まる思いでページをめくりましたが、「目からウロコ」というよりは、「やっぱりそうだよね」と、これまで自分の考えてきたことをなぞるような本でした。
話題や考え方として新鮮味に欠けるように感じたのは、ここ数年のフェミニズム関係の話題が多く取り上げられ、しかも、性的同意年齢、彼女は頭が悪いから、田房永子の著作等、このブログで書いた内容とも重なるところが多かったからだと思います。
しかし、今回、そういった「フェミニズム」というところを超えて強く感じ、参考にしたいと思ったのは、清田隆之さんの文章の誠実さであり、コミュニケーションの取り方の部分です。

当事者研究的なアプローチ

これまでラジオやネットで清田隆之さんの言葉に触れて、いつもその「さらけ出す姿勢」に、信頼できる人だなあ、と感じていました。特に、フェミニズムに関する話題について、分析的でありながら、その加害性も含め「自分の問題」として語る姿勢に感銘を受けていました。
この本でも、基本的に「自分」と切り離した話題との向き合い方をせず、繰り返し「気づかない特権」について書かれているのが印象的です。
例えば、選択的夫婦別姓を取り上げた部分でも、自身が「これまで自分の姓が変わるという発想をしたことがほとんどなかった」ことを「男性特権」として捉えます。

特権と言うと物々しく感じるが、それは例えば「考えなくても済む」とか「やらなくても許される」とか「そういうふうになっている」とか、意識や判断が介在するもっと手前のところの、環境や習慣、常識やシステムといったものに溶け込むかたちで偏在しており、その存在に気づくことなく享受できてしまう恐ろしいものだ。p183

この項では、選択的夫婦別姓が実現しない理由として、「この問題に関心を寄せる人が増えない」ことを挙げ、その大部分を構成しているのは「考えなくても済む」という特権を持っている俺たち男かもしれない、と結んでいますが、まさにその通りと思います。


また、この本で特徴的なのは、かつての自分へのダメ出しが繰り返されることです。
例えば、学生時代に女友達から受けた「バイト先の先輩にいきなり背後から抱きつかれ、怖い思いをした」という相談に対して、「なんで、ひとり暮らしの男の部屋に行ったりしたんだよ」と言ってしまったことについてセカンドレイプだったと振り返る部分。(p63)
ここでさらに突っ込んで、「なぜ私はあんなことを言ってしまったのか」にまで考えを進めるところが清田さんの特徴です。

心の内側を顕微鏡で覗いてみると、そこにはほの暗い感情の数々が見え隠れしていた。
実は私は彼女に秘かな思いを寄せていた。(略)
改めて考えてみると、そこにあったのは嫉妬、自己アピール、謎の被害者意識、ミソジニー女性嫌悪)にミサンドリー(男性嫌悪)など…直視するのがつらいものばかりだ。でも当時の自分にそのような自覚はなかったし、むしろ”彼女のために”、”よかれと思って”言ってるくらいの意識だった。p64

ほかにも、女子小学生向けの本で「男ウケするモテ技」が取り上げられいるという話(一時期Twitterで話題になった)について、「なぜ男たちはそういった女性を好むのか」(→自分はどうなのか)といった視点から分析していく視点(p92)も非常に面白く読みました。

性欲の「因数分解

「自分をさらけ出す」語りが、性差別だけでなく、性欲にも及ぶところが、この本のスリリングなところです。

このようなアプローチは、森岡正博の「私はなぜミニスカートに欲情するのか」*1で経験済みだったので、インパクトとしては、それには及びませんでしたが、やはりこういうアプローチの文章は少ないので、とても興味深く読みました。

誰かに対して「セックスしてみたい」という思いがわき起こったとする。で、はたしてそれは性欲なのだろうか。「いや性欲でしょ」と即答されたら返す言葉もないが、個人的には違和感がある。その時の気持ちをより細かく見てみると、そこには

  • 身体に触れたい
  • 受け入れてもらいたい
  • 許されたい
  • さみしい気持ちをどうにかしたい
  • 射精したい
  • エロい気分になりたい
  • 相手を思い通りにしたい
  • 相手の思い通りにされたい
  • 今まで見たことのない顔を見てみたい
  • 相手と一体になりたい

…などなど、様々な感情や欲望が入り混じっているような気がしてならない。それらは性欲のひと言で片づけられるものなのだろうか。
どれも切実な気持ちではあると思う。「受け入れてもらいたい」という思いも「射精したい」という気持ちも、手触りのある欲求として想起できる。ただ、これらの中には「セックス」という手段を取らなくても満たせるようなものも結構あるのではないか、と感じている。p190

ここで、清田さんは、例として自身が30代になってから身についた「お茶をする」という習慣について挙げていますが、分析→行動→習慣が有機的に回っているところがすごいな、と感心してしまいます。
「コミュニケーション・オーガズム」という言葉も、言い得て妙だと思います。

そこ(お茶をすること)には刺激も興奮も安心感もあるし、それによってさみしさは埋まり、他者から認められたいという気持ちも満たされる。桃山商事ではこれを「コミュニケーション・オーガズム」と呼んでいるのだが、お茶しながらのおしゃべりでこんな気分になれるなんて、わりとすごいことではないだろうか。

なお、こういった「性欲」の「因数分解」については、自分も意識的に行なったことがあります。清田さんの分析の中には「相手を思い通りにしたい」「相手の思い通りにされたい」という言葉に押し込められていますが、自分の思う「性欲」の中に「暴力的な要素」が確かにあることに気がつき戸惑った覚えがあります。
また、清田さんと同様、自分も男子校出身者で、大学も女子の少ない理系学部であったことから、女性とのコミュニケーションが少なければ少ないほど(もちろん若ければ若いほど)、「因数分解」が雑になる(自分の気持ちを間違った方向に昇華してしまう)ことが実感としてあります。
これに加えて、男性向けのエロメディア(ビデオや漫画、ゲーム)は、(昔から)暴力成分が過多で、明らかな犯罪行為もエロとして消費されています。さらにネット時代では、以前よりも容易に大量にアクセスが可能であることが問題だと感じています。
これらのことから、女性とのコミュニケーションが少なく 「因数分解」が雑 で、大量のエロメディアに慣らされた男性の中から、性欲のために犯罪行為に走る人が出ると考えるのは自然だと考えています。また、こういった商品が大手を振って消費されていること自体にハラスメントを感じる人(男女問わず)がいるのは当然です。
自分は、この本の中で取り上げられるコンビニエロ本問題や『宇崎ちゃん』の献血ポスターの問題は地続きと考えていて、基本的には「もっと規制すべし」との考えです。(個別案件については色々と考える要素があると思います)

これからのコミュニケーション

本を読み進めると、清田さんの「自分をさらけ出す」語りは、文章よりもコミュニケーションの中でこそ大切にされていることが分かります。
清田さんが桃山商事というユニットで行っている恋愛相談の活動は、以前は相談者を「元気づける」ことに主眼がおかれていました(p48)が、数々の失敗を経て、今は、相談者の話を「読解」するように聞いていくというスタイルを取っている(p47)と言います。
そして、相手の話を聞くためには「自分をさらけ出す」ことが重要で、この本の中で頻出するキーワード「being」とも絡めて次のように語られています。

(『セールスマンの死』でくり返し出てくる「what I am」という言葉について)
ここで言う「what I am」とは、直訳すれば「私であるところのもの」となるが、意味するものは非常に広く、その時の感情や思考、置かれている状況やそれまで生きてきた歴史など、その人に関わるものすべてを含む「ここにいる自分(being)」を指す言葉だ。(略)
誰かの話を聞く時は可能な限り相手の「what I am」に想像を馳せ、またこちらも「what I am」として対峙する必要があると考えている。その中には矛盾する要素が平気で共存していたりするし、拠って立つ基準も刻々と変化していったりする。(略)
話を聞く際は生身の自分をそこに置き、目の前にいる相手から発せられる言葉や非言語のメッセージになるべく繊細に反応し、そこで感じたことを素直に言語化していくしかないというのが今のところの私の考えだ。p234

また、清田さんは、平田オリザの言葉を引用し、同質性を背景とした「言わずもがな」の「ハイコンテクスト」なコミュニケーションではなく「ローコンテクスト」なコミュニケーションの重要性を説きます。

今や同じ日本人であっても価値観やライフコースは多様なわけで、同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らない。ゆえに、これからは説明を省略する入コンテクストなやり取りではなく、一つひとつ言葉を尽くして合意を形成していくローコンテクストなコミュニケーションが必要になってくるだろうと平田さんは述べている。多文化が共生する欧米では、こういったコミュニケーションスタイルが基本だ。p135
(略)
ローコンテクストなコミュニケーションとはエンプティ*2を言葉で埋めていく作業であり、言動の意図や責任の所在が明らかになるため、ギスギスしてしまう危険性も孕んでいる。しかし、ばらばらな個人がばらばらなまま存在できる多様な社会を作っていくためにも、私たちは摩擦や野暮さに耐えながらローコンテクストなコミュニケーションにシフトしていくべきだと私は考えている。


実際、今の自分のいる職場では、外国人の同僚(日本語は堪能)が複数おり、自分のときには無かった育児休暇などの制度の充実も図られてきて、働き方が多様化してきています。
ときに自分をさらけ出しながら相手の言葉を引き出しつつ、「摩擦や野暮さに耐えながら」でも、ローコンテクストなコミュニケーションを図っていくことが重要なんだろうな、と強く実感しながら読みました。(10年前に読んでもピンと来なかったかもしれない部分だろうと思います)

また、プライベートな会話の中でも、自分はとにかく「自分の話」をすることに苦手意識があり、趣味の話で盛り上がるのが好きなのは、「自分の話」をしなくて済むからという側面は確実にあります。
今回、清田さんの本を読んで、コミュニケーションが上手く行った快感には、「適度に自己開示できた」という要素が欠かせないということを、自己の経験からも改めて感じました。


この本のタイトルの「さよなら」は、本来「さようであるならば」ということで、「前に述べられた言葉を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」言葉*3だと言います。

自分と向き合い、他者と向き合うためにも、まずは「私」という個人になる必要があるだろう。もう集合名詞に埋没したままではいられない。ばらばらな個人としてみんなと一緒に生きていくためにも、私は「俺たち」にさよならしてみたいと思う。p16

相変わらず、会話への苦手意識はあるわけですが、自分の言動で誰かを傷つけないためにも、集合名詞に逃げず、常に「私」に目を向け「他者」との対話を進めていくような日々の努力を続けていきたいと思います。
もちろん、清田隆之さんの文章を読むことで「頑張っている同志がいる」と自分を奮い立たせることができるでしょう。読んでいない著作が何冊もあるので、時間をおいて、それらも読んでいきたいです。

おしゃべりや読書によって言葉を仕入れ、感情を言語化していく。それを続けていくことでしか想像力や共感力は育っていかない。ハラスメントをしてしまう「気づかない男たち」に必要なのは、そういう極めて地味で地道なプロセスを延々くり返しでいくことではないだろうか。p61

気になるコンテンツ

本の中で紹介されたコンテンツのうち、未摂取で気になるものを挙げます。
ほとんどが、これまでも「読む本リスト」に挙がっていた本なので、最後の一押しになるんじゃないかと思います。
なお、本書における大根仁監督作品への言及や、ぺこぱのネタへの言及は、内容の直接的説明が多く、未摂取者にはなかなか厳しい内容でした。

愛という名の支配 (新潮文庫)

愛という名の支配 (新潮文庫)

男がつらいよ

男がつらいよ

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

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M-1グランプリ2019

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  • メディア: Prime Video
恋の渦

恋の渦

  • 発売日: 2014/06/04
  • メディア: Prime Video
神のちから (愛蔵版コミックス)

神のちから (愛蔵版コミックス)

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→自分にとっても非常に大きな一冊だったこともあり、かなり熱のこもった文章です。清田さんの本でも書かれている通り、これほど「怒り」に満ちた小説も珍しいのではないでしょうか。

pocari.hatenablog.com
森岡正博さんもまた、自己と切り離した分析をしない「さらけ出す」文章を書く人です。フェミニズムの定義的説明(命題内容)の裏に隠されている「フェミニズムの残り半分の主張」についての引用には心を打たれます。

pocari.hatenablog.com
→女性が語るフェミニズムは、時に、自分にとっては「辛過ぎる」ものがあります。田房永子さんの著作以外では、やはりこれが強烈でした。こう3冊並べてみると、2年前(2019年)の4~5月は集中的に、フェミニズム関係の本を読んでいるようで、何があったんだろうか?と思ってしまう。

*1:森岡正博『感じない男』

*2:原研哉『日本のデザイン』からの引用。日本のデザインで大切にされてきた「余白」の部分。

*3:竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』からの引用

逃げ道が無い「運命」と幸せ~『掏摸』×『メランコリック』

中村文則『掏摸』

掏摸 (河出文庫)

掏摸 (河出文庫)

東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎、かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」――運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは……。その男、悪を超えた悪――絶対悪VS天才スリ師の戦いが、いま、始まる!!


ひとつ前に読んだ小説(タイトルは伏せる)が悪かったわけではないが、「こういう小説が読みたかった」という作品だった。
ほとんどが主人公のモノローグで進む小説ということもあるのかもしれないが、その人生を、悩みを共有できた。いわゆる「驚きの結末」や「意外な展開」「ラスト1行で云々」というタイプの小説では味わえないタイプの没入感。しかも主人公は、これまでの自分の人生とは馴染みのない「スリ」なのだから面白くないわけがない。


スリなので基本的に単独行動なのだが、渋々付き合った集団犯罪をきっかけとして「木崎」というヤクザの呪縛に囚われていく、というのが小説の簡単なストーリーだ。
スリの技術的描写は、半ばスポーツのようにさえ感じられ、主人公の技術の高さも良く伝わってくるが、それでも失敗がある。木崎からの指示でスった携帯電話の着信音が鳴るシーンは、読んでいる方も息が止まるかと感じた。
知らない間に他人の財布を手にしていることもあるというほど、才能には恵まれている主人公だが、弱みもある。天涯孤独の身だったら「逃げ切る」ことも可能だろうが、自分を頼りにしてくる子どもとその母親のことを木崎に知られている。この辺の「逃げ道がない」感じは、小説を一気読みさせる要素にもなっている。 

 
さて、このような弱い者に「共感」する力は、通常、主人公もしくはその周辺の登場人物に偏在するはずだが、この小説においては、(出番は少ないながら)圧倒的な存在感を誇る”ダークヒーロー”木崎が最も大切にする要素となっている。

他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似てると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わってるのは神だ。
(略)
お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。たまらないぞ、その時の瞬間は! 世界の全てを味わえ。お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗から来る感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える。この世界を、異なる視線で眺めることができる。俺は人間を無惨に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、何て可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!

木崎の「同情の涙を流しながら苦痛を与える」という感覚は、人間を超えたところにあるように感じられ、単なる悪役として素通りできない魅力を持っている。
物語のラストは、主人公が、木崎という神の支配から、それはつまり「定められた運命」から逃れる、いや逃れるとまでは言わないが、一矢報いることができるか、というところで終わる。それは、あくまでも「絶望」の中にある微かな「望」に過ぎないが。

主人公が大きな犯罪に巻き込まれ、 結果的に犯罪に加担してしまうような作品は、このようにバッドエンドしかあり得ないと思っていた。しかし次に挙げる『メランコリック』は少し変わった終わり方をする映画だった。

『メランコリック』

メランコリック

メランコリック

  • 発売日: 2020/04/02
  • メディア: Prime Video

名門大学を卒業後、うだつの上がらぬ生活を送っていた主人公・和彦。ある夜たまたま訪れた銭湯で高校の同級生・百合と出会ったのをきっかけに、その銭湯で働くこととなる。そして和彦は、その銭湯が閉店後の深夜、風呂場を「人を殺す場所」として貸し出していることを知る。そして同僚の松本は殺し屋であることが明らかになり…。

ほぼ同時期にAmazonプライムで観た『メランコリック』は、思えば『掏摸』と共通点の多い作品と言えるかもしれない。
2019年に上映されたこの作品は、インディーズ映画であったことから、『カメラを止めるな』との対比で語られることも多いが全く異なる作風の映画と言えるだろう。


観る前の情報は「バイト先の銭湯で夜に殺人」*1という話のみで、コメディなのかと勘違いしていたが、観てみると人間ドラマに引き込まれた。
薄っぺらいと感じなかったのは、 最後まで好きになれなかった主人公・和彦の人生のことを、自然に考えてしまうような作劇になっていたからなのかもしれない。
例えば、結局理由がよくわからない「東大を卒業したのに就職せずにバイト生活」という設定も、単に「うだつの上がらない20代男子」という以上に「何故?」という疑問がずっと気になり、フックとしてよく機能している。
そして高校の同窓会の「あの感じ」。目立たなかったやつがブレイクして人気者になっている傍らで、お喋りもせず、ひたすら飲食のみに目を向けるあの感じは、高校時代から今に至るまでの和彦がどんな人生を歩んできたのかを推測させる。
こういった演出と演技力が上手くかみ合って和彦は、(あまり好きになれないけれど)二十数年の人生を歩んできた「そこにいる奴」みたいに感じられる。それが『メランコリック』の一番良かったところだ。


他のキャストといえば、ヒロインの副島さんは、いわゆる美形というタイプではないが、明るく表情が豊かで、観ているだけで笑顔がこぼれる。この映画を観た男性は皆コロリと行ってしまっていることだろう。和彦を好きになるところ以外は完璧だと思う(笑)


そして和彦の銭湯でのバイトの同僚である、金髪の松本。軽薄に見えて、殺しのために酒は飲まない、女は作らない、基本的に一人で行動する、等、プロ意識が徹底しており、それでいて、和彦のことも心配してくれている「いいやつ」。観終えると、一番芯がしっかりしていたキャラクターで、大好きになった。
和彦と松本の二人は、映画製作の中心的な役割も果たしており、公式HPで、配役ではなく、映画製作チームOneGooseとして載っている写真を見ると、全く表情が違って見えて(和彦はかなりハンサム)、役者は凄いと感心した。

https://www.uplink.co.jp/melancholic/www.uplink.co.jp


さて、銭湯「松の湯」のオーナー東(この人の雰囲気がものすごく良いのだが)には、借金があり、ヤクザの田中に頭が上がらず、殺人依頼や死体処理を職人的にこなす毎日。(この田中は、初登場時に「中盤で死ぬ役」と直感的に思っていたが、なかなか死なない(笑))


憎いからではなく、どうしても断れない相手から依頼を受けて、仕方なく知らない人を殺す、この「断れない」関係が、『掏摸』における木崎と主人公の関係と重なってくる。
しかし、「殺しの流儀」に無知な和彦が「田中を殺そう」と無邪気に言い出すところが『掏摸』とは全く異なるところ。明日が結構日というときに、まさに一夜漬けで松本が和彦に銃の構え方や部屋への侵入方法を教える流れはミュージックビデオのようでとてもスタイリッシュで一番非現実的でくすっと笑ってしまうコメディ的なシーンだ。


ここからラストまでの流れは、最初は意外に感じたが見事だと思う。
田中は、カリスマ的な親玉には見えないし、何らかの敵対勢力があったことが明らかなのだから、田中を殺しても平穏が訪れないは明白だ。だからこその不安な余韻を残す「見せかけ」のハッピーエンド。自分は、主人公たちが殺人を犯している以上「バッドエンドじゃないとしっくりこない」と思い込んでいたが、これを見せられると、この作品が問いかける、エンドがハッピーじゃなくてもいいじゃないか、という、半ば刹那的な感覚も魅力的に思えてくる。


「運命」に悲観し、「逃げ道がない」と感じたとしても、その運命に逆らおうと足掻くことが、「幸せな瞬間」に繋がるのかもしれない。『メランコリック』後半は、和彦が自ら考えて行動する場面が格段に増えている。そのことが、この作品を爽やかな雰囲気にしているのだと思った。

なお、これっきりだと思っていた『掏摸』には、「兄妹編」?である『王国』という作品があるのだという。
木崎も登場するということで、これはすぐに読んでみたい。

王国 (河出文庫 な)

王国 (河出文庫 な)

*1:なお、ホラー小説『うなぎ鬼』は、漫画版のみを読んだが、やはり「うなぎ」×「死体処理」ということで、こういう意外な組み合わせは「もしかしたら本当にあるかも」と、逆に想像力を喚起させるのかもしれない。

どの作品にもつい桜小路君を探してしまう~池田理代子『ベルサイユのばら』(1)(2)

フランス革命について勉強するために…という名目で読み始めた『ベルサイユのばら』。
何故、これまでこの漫画を読んでいなかったのか…と頭を抱えてしまうほど面白い。

マンガとして

ベルサイユのばら』の連載(マーガレット)は1972~1973年ということで、『ガラスの仮面』の連載開始(1976年)よりも4年前、『キャンディ・キャンディ』(1975~1979)と比べても3年前の作品ということになる。
当然のこととはいえ、『ベルばら』も巻が進むにつれ、絵柄が洗練されてきており、マリー・アントワネットの表情は、北島マヤ姫川亜弓とそっくりになっていく。このことから、『ベルサイユのばら』中盤以降で、業界全体として、標準的な「少女漫画的絵柄」のスタイルが確立していったのでは、と推測する。


なお、『ガラスの仮面』で有名な「白目」だが、『ベルばら』序盤では、図星だったり恐怖を感じたときの目の表現は「十字星(目がしいたけ)」や「白目を塗らない」、もしくは「画面全体のひび割れ」となっている。
1巻最終話の、ロザリーが初めて舞踏会に行く話で、母親が死んだことを知らされたジャンヌなど、複数回にわたって「白目」のシーンが登場する。また、2巻で、フェルゼンから結婚の話が進んでいるという話を受けたマリー・アントワネットも白目だ。(「目がしいたけ」との併用:下図)
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しかし、マリー・アントワネットのフェルゼンへの想いを聴いたときのオスカルの様子など、ここぞという時には「十字星」だ。pixivでは、「目がしいたけ」と言うらしいこの表現は、自分にとってはうる星やつらの水乃小路兄妹の印象が強く、今も、あまり「驚き」の表現としては使われていないように思う。
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史実として

冒頭で1755年に別々の国で生まれた「宿命的な3人」の説明がある。
その3人はオスカル、マリー・アントワネット、そしてフェルゼン。


知らなかったのは、マリー・アントワネットオーストリア出身ということ。母親にあたる女帝マリア・テレジアの名は聞いたことがあったので、世界史履修者には当然のことなのかもしれないが、当時のオーストリアがフランスとならぶ強国であることが理解できた。また、作品内でも国民の彼女に向けた蔑称として頻繁に「オーストリア女」という言葉が出てくるが、確かに、王妃が外国から来た人であれば、そう呼ぶ人が多く出るのもわかる。
なお、フェルゼンはスウェーデンの貴族。ベルばらといえば、オスカルとアンドレなのに、ここで3人の名前の中にアンドレの名が挙がらないんだ!と最初は意外に思った。


ところで、マリー・アントワネットの夫、ルイ16世は、いちいち気になるキャラクターだ。特に、マリー・アントワネットルイ16世と会ったときの第一印象が凄すぎて、驚く。
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趣味が錠前づくりってどういうことだよ?というところも含めてこのあとが気になる。

フィクションとして

そもそも、どこまでがフィクションなのか分からないが、オスカルが架空の人物であることはわかる。
一方、実在の人物でありながら、自分にとって、あまりにも「パンがなければケーキを食べれば」の人という「悪」の印象が強いマリー・アントワネットのことを、彼女に仕えるオスカルがどう見ているか、ということが読む前から気になっていた。
ところが、この作品では、マリー・アントワネットの駄目さは存分に見せつつ、彼女の気高さ、純粋さ(「無知」の裏返し)と言った、魅力の部分を上手く引き立てることで、憎めない感じに仕立てている。
1巻中盤までは、前国王ルイ15世の愛妾であるデュ・バリー夫人との対立を示すことで、マリー・アントワネットの気高さを示す。ルイ15世天然痘で亡くなり、18歳で王妃となってからの浪費ぶりは、そちらの道にそそのかしたポリニャック伯夫人を悪者に描き、フェルゼンと心を通わしてからポリニャック伯夫人と距離を置くことで、王妃は「目覚めた」という印象を持たせる。


そしてフェルゼン。この作品において、決して許されぬ恋でありながら相思相愛であるマリー・アントワネットと関係がありつつ、オスカルの想い人でもあるという、モテ過ぎる男フェルゼン。
オスカルとの関係は、序盤に、国の将来を考える同志としての側面が多く登場するからこそ、オスカルのフェルゼンへ の想いが抑えきれないシーンはどれも印象的。

「愛してもいないのに結婚するのか フェルゼン!!」
「では…… 愛していれば…… 愛してさえいれば結婚できるのか……?」

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のシーン(2巻:ここもオスカルの目がしいたけ)以降、フェルゼンを想って何度もオスカルが涙を見せる。

  • フェルゼンがアメリカ遠征軍(独立戦争)に志願することを伝えられるシーン
  • ベルサイユ条約締結(独立戦争終了)後もフェルゼンの安否がわからず酒場で荒れるシーン
  • フェルゼンが無事帰国を果た、オスカルの前に姿を現すシーン
  • フェルゼンのマリー・アントワネットへの強い想いに「入れる隙間もないのか」と、その身を憂うシーン
  • 一計を案じ、「伯爵夫人」に扮したオスカルが舞踏会でフェルゼンと踊ったあと、「これで、あきらめられる」と、突っ伏すシーン

読む前は、ここまで頻繁に「乙女」なオスカルが顔を出すとは思っていなかったので、とても意外で、かつ、一途なオスカルを応援したくなる。

しかし、このオスカルを想い慕う人が二人もいる。アンドレとロザリーだ。
ロザリーは、歴史上の事実である「首飾り事件」の首謀者であるジャンヌの妹に当たり、実はポリニャック伯夫人の娘という非常に上手い立ち位置。オスカルもロザリーのことを「自分が男だったら間違いなくお前を妻にする」とは言うが、フェルゼンと比べると思いは落ちる。(なお、大嫌いなポリニャック伯夫人の娘となることを決意し、オスカルのもとを去るロザリーに対して、自分の肖像画を贈るオスカルって…と、変な感じもする。)


そしてアンドレ。2巻までのアンドレは予想以上に目立たず、初登場シーンは「名無し」だ。フェルゼンの安否がわからずに荒れて眠ったオスカルを介抱してからの帰り道で、秘密でキスしたりしているが、このままだと、桜小路君的な位置づけに終わってしまうので心配だ。


2巻最後に「黒い騎士」の話になってから、表舞台に出るようになったので、3巻以降はアンドレの活躍に期待して読み進めたい。(3巻以降を読み進めると、アンドレの髪型は「黒い騎士」に似せてから確定している。メインキャラクターにもかかわらず、中盤まで髪型が確定していないキャラクターは珍しいのではないか?)

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

「電波停止発言」と番組制作~永井愛『ザ・空気』

ザ・空気

ザ・空気

  • 作者:永井 愛
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: 単行本

人気報道番組の放送数時間前、ある特集の内容について局の上層部から突然の内容変更を命じられ、現場は大混乱に陥る。 編集長の今森やキャスターの来宮は抵抗するが、局内の“空気"は徐々に変わっていき……。 公演当時、観客の背筋を凍らせ、「社会派ホラー」と評された問題作、待望の書籍化! 第25回読売演劇大賞最優秀演出家賞、同優秀作品賞・優秀女優賞受賞作。

3月に発売になった『ザ・空気 ver.3 そして彼は去った』が気になったので、第一弾を読んでみた。
いわゆる戯曲で、話はテンポよく進み読みやすい。
ただ、演劇で見るのと比べてかなり印象が異なるのだとは思うが、予想以上に「ホラー」や「デフォルメ」はなく、つまり「それは知ってる」という感想に近くなってしまう。
舞台の上演は2017年1月~2月ということで、つい4年前のことなのだが、この4年の間に似た状況が繰り返しあった故なのか、ここで扱われている内容は、テレビ番組制作の「舞台裏」とか「真相」(何~!こんなことが起きていたなんて!)として驚ける内容には全く感じられない。むしろ、毎日のようにtwitterを通して目にするような話だ。
例えば映画『新聞記者』は、「もしかしたらそうかもしれない」という括弧つきの「真実」を扱うことで映画作品として成立していた。しかし、『ザ・空気』は、「これはむしろ再現VTRでは…」と思ってしまうほど誇張がない。


作者もあとがきで語る通り、そして作中で何度も書かれている通り、この話のきっかけは高市早苗総務大臣(当時)の「電波停止発言」(2016年2月)がもとになっているという。
確かに、その後、政権の顔色を窺うような番組作りの事例が目立つようになった。特に、最近も話のあった「クローズアップ現代+」の終了に関するニュースなど、NHKの番組制作に絡めた「忖度」のニュースが目立つ。

調べてみると、「電波停止発言」の直後に、国谷裕子さんの「クローズアップ現代」降板騒動はあったし、それ以外のニュース番組における顔ぶれ変化も同時期のようだ。(たとえば以下のLITERAの記事は、国谷キャスターの降板を扱っているが、結びの文章は以下の通り)

NHKの籾井会長は「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と、公共放送のトップにあるまじき発言を行ったことがあるが、いままさにNHK全体が、そして民放も、その言葉通りになりつつある。事実、高市早苗総務相の「電波停止」発言に対して抗議声明を出したジャーナリストたちのひとりであるTBSの金平茂紀氏がTBS執行役員から退任すると発表されたが、これもまた粛正人事だという声もあがっている。

 国谷キャスターにつづいて、膳場キャスターと岸井氏が25日に、古舘キャスターは31日をもってそれぞれの番組を去る。国谷キャスターは多くを語らなかったが、膳場・古舘キャスターにはぜひ最後に、メディアの危機的状況について言及してほしいものだ。

https://lite-ra.com/2016/03/post-2078_2.htmllite-ra.com


さて、『ザ・空気』に話を戻す(以下ネタバレあります)が、この本のラストは、番組制作でのトラブルから衝動的に9階から飛び降り、てしまった番組「編集長」が、奇跡的に助かり、番組スタッフと2年ぶりに再会するシーンで終わる。
その2年の間に、憲法が変わり、自衛隊国防軍になり、緊急事態法も共謀罪も成立している。これからは組織に属さず、一個人のジャーナリストとして調査報道をやっていくという決意を示した主人公に、かつて、番組制作をともにした同志はこう言う。

調査報道なんかして、特定秘密保護法に触れちゃったらどうするの?(略)
さようなら。あなたといるだけで危険なの。もう二度と連絡しないで。私の前に現れないで。


もしかしたら、そういう「空気」は止まらないのかもしれないが、慣れっこになってはいけない。
その意味では恐怖を感じるとともに、第二弾、第三弾がどのような内容になっているのかは、とても興味がある。また、国谷さんなど、実際のテレビ番組制作に携わる人の本も読んでみたい。

ザ・空気 ver.2  誰も書いてはならぬ

ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ

  • 作者:永井 愛
  • 発売日: 2019/12/03
  • メディア: 単行本
ザ・空気 ver.3 そして彼は去った…

ザ・空気 ver.3 そして彼は去った…

  • 作者:永井 愛
  • 発売日: 2021/03/04
  • メディア: 単行本
キャスターという仕事 (岩波新書)

キャスターという仕事 (岩波新書)

迎撃!田島貴男DCvol.4『ムーンストーン』『踊る太陽』『街男 街女』編

記事のタイトルは「田島貴男DC」としていますが、「田島貴男のHome Studio Concert ~ディスコグラフィー・コンサート」が正式名称。
買い忘れている人は早くチケットを買いましょう。

それにしても『街男 街女』と『東京 飛行』は2枚で1セットだから絶対に分けないかと思いきや3枚ずつというルールに淡々と従って『街男 街女』で切りましたね。

2021年一月から半年間に渡って、Original Loveのアルバムを3枚ずつピックアップし、その中から選んだ曲のみでライブする月に一度のプログラム「ディスコグラフィー・コンサート」。

第四回は『ムーンストーン』『踊る太陽』『街男 街女』からピックアップ。
 
チケットページURL:https://originallove.moala.live/products/hsc-5-st

■チケット価格:1,500円

■生配信予定日時:2021年4月10日(土) 21:00~22:00

http://originallove.com/news/2021/03/20/3338

対象アルバム

2001年~2004年の音楽

2001年の音楽

シングル


アルバム

2002年の音楽
シングル


アルバム

2003年の音楽
シングル


アルバム

  • 1位 CHEMISTRY:『Second to None』
  • 2位 浜崎あゆみ:『RAINBOW』
  • 3位 B'z:『The Ballads 〜Love & B'z〜』

2004年の音楽
シングル

※シングルCDのミリオンセラーは、1989年以来15年ぶりに皆無

アルバム

  • 1位 宇多田ヒカル:『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』
  • 2位 Mr.Children:『シフクノオト』
  • 3位 クイーン:『クイーン・ジュエルズ 〜ヴェリー・ベスト・オブ・クイーン〜』

個人的に大きなイベントがいくつかあったこともあり、色々な音楽を積極的に摂取していたのはこの頃までかもしれない。(何回か書いたことがあるが、モーニング娘。を一番聴いていたのも2000年~2002年の頃。)
それと合わせるように、この頃が最もオリジナルラブから心が離れた期間で、『RAINBOW RACE』から連続して行っていたライヴも、『ムーンストーン』で一回休みとなる。
この頃のことを思い返すと、『ムーンストーン』というアルバムでオリジナル・ラブの音楽に魅力が無くなったというより、別のミュージシャンの音楽に気持ちが移ってしまったということが大きい。


前回、鬼門と書いた『ビッグクランチ』と『ムーンストーン』は、一般的な評価が非常に高いのに、長らく自分にとって響かない音楽で、前回は何故『ビッグクランチ』が心に響かないか、という側面で自己の嗜好を探ったがそもそもアプローチが誤っていた。
オリジナル・ラブの外に原因はあり、それは特にスガシカオによるところが大きい。

  • 『Sweet』(1999年9月8日)
  • 『4Flusher』(2000年10月25日)
  • 『SMILE』(2003年5月7日)
  • 『TIME』(2004年11月17日)

Sweet4FlusherSMILETIME(初回)(DVD付)


スガシカオを聴き始めたのは1998年だったが、この頃のスガシカオは破竹の勢いで活躍を続け、曲は勿論、歌詞の素晴らしさに心を惹かれていた時代。一方、同時期のオリジナルラブは、歌詞に最も「迷い」(ポジティブな言葉を使えば「挑戦」)が見えた時期で、正直言って理解しづらいところがあった。
同時期にアイテムに傾けることのできる情熱量の総量は変わらない、という「トキメキ総量一定の法則」*1にしたがって、相対的にオリジナル・ラブの地位は下がっていく。
ましてや、2004年は岡村靖幸『Me-imi』、2005年1月に100s『OZ』などの個人的名盤が生まれる時期。特に、以前にも増して歌詞に重きを置いて音楽を聴くようになった時期にもかかわらず、自分がオリジナル・ラブに求めていた歌詞と、リリース作品とのギャップがかなり大きかった。
ビッグクランチ』については、当時の苦手意識が今回も払拭できなかったというのは、何だか複雑だが、何事も第一印象が大切ということなのだろうか。

ムーンストーン』(2002年3月20日

ムーンストーン

ムーンストーン

  • アーティスト:ORIGINAL LOVE
  • 発売日: 2002/03/20
  • メディア: CD

実は、『ビッグクランチ』の聴き直しの末の低評価は、自分にとってショックだったのです。今だったら、あれだけ嫌いだった友だちも許せるだろうと思って、久しぶりに会ってみたら「やっぱり無理」なんていう感想は書きたくなかった。
だから、『ムーンストーン』はビクビクしながら聴き直したのですが、これは良いです。感覚的には、自分にとって『ELEVEN GRAFFITI』に似ているかもしれない。圧倒的に好きだったり嫌いだったりする曲が少ないため、全体を通してフラットに聴ける。しかも、全体のコンセプトは一貫しているから、通して聴きやすい。
好きな曲は「GLASS」「悪い種」「冗談」ですが、両A面シングルの「夜行性」「アダルトオンリー」*2も良いですね。


ただ、ひとつ気になるのは歌唱。ベストのキーよりも少し高めの曲が多いのでしょうか。この頃は歌い方にも変化がみられるので、自分の中でのストライクな歌唱法は『L』までで、『ビッグクランチ』『ムーンストーン』と変わっていく中で、いつの間にかストライクゾーンから外れていったのかもしれません。


街男 街女(2004年10月27日)

街男 街女

街男 街女

  • アーティスト:ORIGINAL LOVE
  • 発売日: 2004/10/27
  • メディア: CD

順番は逆になるが『踊る太陽』よりもこちらを先に。
『街男 街女』は、オリジナル・ラブの数あるアルバムの中でも非常に親しみのあるアルバムだ。
というのは、2004年はこのブログを始めた年だから。
勢い余り過ぎて、アルバム詳細が発表される前に収録曲予想について書くなど最も「やり過ぎていた」時代なので、仙台に住んでいたことも含めて、当時のことをとても懐かしく思い出す。


いま改めて聴くと、やはり「築地オーライ」が強烈。今回の3枚の中では特に『街男 街女』は、「ちょっと聴く」のには向かず、このバスに乗ってしばらく小旅行というイメージのアルバムだ。個人的には、バスに乗るために一歩踏み出すのが億劫に感じてしまう。
ただ、乗ると楽しめるアルバムで、特に『街男 街女』のラスト2曲のスペクタクルはオリジナル・ラブ史上でも1,2を争う盛り上がり。
さらに収録シングル曲である「沈黙の薔薇」が名曲過ぎるし、このアルバムの中だと比較的多く演奏される「ひとりぼっちのアイツ」も聴きやすく、幕の内弁当的ですらある。
にもかかわらず、アルバムを聴くのに「重たい腰を上げる」(個人差あります)感覚になってしまうのは、結局、「銀ジャケットの街男」「死の誘惑のブルース」「赤い街の入り口」「或る逃避行」の独特な世界観が、どうしても「重たい感じ」を生んでしまうからなんだと思う。
でも、これらの曲は、いざ聴き始めると結構良いし面白い。


ひとつ、何でかな?とおもってしまうのは、やっぱり「YEN」で、「ものの価値を貯める手段」とか「国に払い過ぎないように知恵もしぼる」とかは、オリジナル・ラブ史上でも最上級にカッコ悪い歌詞だと思う。
勿論、そのカッコ悪さも含めて、「歌詞」に対するトライが見えるけれど、田島貴男が歌う歌じゃないよなあ、と当時の自分は思ったし、その部分は今もあまり変わらない。

踊る太陽(2003年6月18日)

踊る太陽

踊る太陽

1996年からオリジナル・ラブのアルバムを出るたびに聴いてきたが、この『踊る太陽』は、聴く回数の少なさでは1、2を争うかもしれない。

その理由は何かと考えると、ひとつには、「まとまりの無さ」が挙げられると思う。
まず、このアルバムには「恋の彗星」「Tender Love」「美貌の罠」の3つのシングル曲があるが、オリジナル・ラブのアルバムでのシングル収録曲数として最大だろう。それだけでもアルバムの印象をやや散漫にするが、それぞれが、自分の中では「良い曲だが表彰台には上らない曲」だ。それは歌詞に理由がある。
アルバムの特徴は、松本隆松井五郎町田康作詞曲とカバー曲(「ほしいのは君」:訳詞は友部正人)の計4曲(10曲中)が田島貴男本人によらない詞であるということは間違いないと思う。
さらに、田島詞では、岡本太郎色の強い「ブギー4回戦ボーイ」と、新境地「のすたるぢや」と、これまでと少し色が違う曲があり、残った「ふられた気持ち」「相棒」もまた、前作までとは「変えたい」という気持ちを強く感じる歌詞となっている。
結果として、シングル3曲は、冒険をしない、というか、何となく「皆様の考えるオリジナル・ラブ」的なイメージ、「こんな曲だったら売れるでしょ」的なイメージを受け取ってしまって、当時の自分はあまり面白くなかった。


『踊る太陽』からシフトした歌詞世界に対する反発には、個人的な思いも強く影響している。
自分にとって田島貴男は「石と空、それだけの景色」(Your Song)や「見渡すかぎりの海に浮かぶボート」(神々のチェス)のように、風景や、人間がメインに出てこない詞を歌ってサマになる唯一の日本人男性歌手という思いが、特に当時は非常に強かった。
『踊る太陽』は、ツアーでも「網走番外地」をカバーしたように、人間臭い場所に「神」が下りてきてしまったアルバムで、自分にとっては、その挑戦は必要ないのでは?と思ったのだった。(結局、「ふられた気持ち」 に代表される「人間臭い」歌詞世界の路線は、そのまま『街男 街女』に引き継がれ発展していった。)

今改めて聴くと、3曲のシングルは勿論、どの曲も「挑戦」を強く感じ、ファイティングポーズを取り続ける田島貴男の姿を強く感じる。特に(これが「挑戦」なのかどうかは置いておくとして)「Tender Love」のPVを久しぶりに見たら、この二人は付き合っているのか?とすら思わせる仲良し二人組の悪ふざけ映像っぷりが凄い。「呪いのビデオ」とは反対に、見たら幸せになれる「祝いのビデオ」ですね。


www.youtube.com

演奏してほしい3曲

  • 夜行性
  • GLASS
  • 冗談
  • ふられた気持ち
  • 銀ジャケットの街男
  • 或る逃避行
  • 鍵、イリュージョン

お、『街男 街女』への想いが強いか。

セットリスト

工事中

*1:そんなものがあるかどうかは知りません。

*2:それにしても、両A面シングルが1,2曲目に並ぶ曲順は、今聴いて違和感があるわけではないですが、やっぱりよく意味がわからず、一周回って凄いのかもしれないと思っています。

田島貴男 「弾き語りツアー2021」東京国際フォーラム (配信)の感想

弾き語りツアーは時間を遅らせて家で視聴。最高でした!
フレキシブルな形で見ることが出来るのは嬉しいけど、本当は会場に行きたかったなあ。

セットリスト

1.I WISH
2.ラヴァーマン
3.春のラブバラッド
(MC:久しぶりのホールでゼロから頑張る/このあとは成り行きで)
4.ヴィーナス
(MC:右足のキックと左のタンバリンの説明。タンバリンを忘れて山野楽器に行ったけど無かった話。結局、丸ノ内線お茶の水に行って購入。黒板五郎の帽子を被って)
5.心
(MC:配信ライブはカメラの位置も気になる。ダラダラですみません。奥田民生状態…)
6.ショウマン
(MC:弾き語りの修行としてのディスコグラフィーコンサート。大阪でもやっていない曲…)
7.黒猫
(10分休憩:扇風機の絵)
8.Your Song
(MC:ディスコグラフィーコンサートで自分が忘れていた曲を発見する。『ビッグクランチ』でSFを作っているような気分で作った曲として…)
9.地球独楽
(MC:当時の「歌詞」について語る。今だからこそフィットする曲。昔はシングルというのがありまして…短冊みたいなシングル。そのB面曲。)
10.ティアドロップ
(MC:「キンキラギター」を手に『骨tone BLUES』。アトリエでほぼ一人で作った曲なので、テンションが上がらないのが大変。結果として熱い曲が録れている)
11.築地オーライ
(MC:コロナになって観客の沈黙に耐性がついた。独り言は気にしないで。)
12.接吻
(MC:ラジオ新番組の裏番組が山下達郎。夜は「カバーズ」出演。CD化したい演奏)
13.ミッドナイトシャッフル
(MC:大変な年だがニヤニヤしながら30周年を迎えたい)
14.フィエス
15.R&R(アンコール)

シンプルな感想(Twitter的感想)

一曲目に「I WISH」ですか。力の入らない良い演奏、良い選曲!
春の曲といえば「ラヴァーマン」、そしてタイトルに春のつく「春のラブバラッド」。季節に合わせた、そしてギター弾き語りとして直球の選曲に涙。


3曲のあとは成り行きということで、その一曲目に選んだのは「暑くなってきたので夏っぽい曲」ということで「ヴィーナス」。カッコいい!!
「心」!ディスコグラフィー・コンサートを経てまたグレードアップした感じがします。この曲はブリッジが元々好きなのですが、そのあとの少しピッチを上げての「目覚める命」から最後までの流れは、これは、これはシングル切ってもいいくらいですよ!
「ショウマン」も、ついこの前聴いたばかりだけど、本当に名曲過ぎる名曲。「弾き語り映え」も抜群。ここまでの流れは、ライブ盤を希望したい「オリジナル・ラブ最強打線」です。


やったー!大好きな「黒猫」。しかも超絶技巧!!これはライブ盤決定ですね。「ファッションアピール」の時の「黒猫」どんな感じだったっけ。
「Your Song」もディスコグラフィーコンサートという名の修行の成果でしょうか。聴き惚れてしまいます。この辺は演奏のたびにギターを変えていますね。
ここでも「地球独楽」やるんだ!本人も言っているけど、これを弾き語りで演奏するというのは凄いです。弾き語りに落とし込むときの音の選択が適切ということなのか、音が少ないように聴こえない、不思議な体験です。ディスコグラフィーコンサートの時とは「広がり」が違う。宇宙を感じます。


「ティアドロップ」は、やっぱりメジャー感のある佳曲で、自分にとってはディスコグラフィーコンサートで再発見できた曲。「築地オーライ」は『骨tone BLUES』からとのMCからだったけど、やっぱりCDで聴くよりいいなあ。そして「接吻」はスキャットが好き。
次が最後の曲というような雰囲気を醸して様々な告知をしてからの「ミッドナイトシャッフル」。やっぱりカッコいいじゃないですか!そして盛り上がりも十分。この次がラストなのか?


最後は「フィエスタ」ですね。終わってみれば、カメラの切り替えもちょっと動かし過ぎのところもありましたが、ライブ映像としてもとても良かったように思います。
アンコールは「R&R」で全力疾走。
途中何度か書きましたが、(演奏は完璧なものではないとしても)ライブ盤として残してほしい選曲でした。今後のディスコグラフィーコンサートも楽しみですね。『bless You!』まで行ったら2周目3周目を期待します!

ビッグクランチ

ビッグクランチ

シンエヴァあれこれと「労働」

映画を観てから1週間。
前回書いた「感想」に足すべきものが増えたので改めて書いてみた。
何となく自分の気持ちとも折り合いをつけられた気がする。

プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」(2021/3/22)

www.nhk-ondemand.jp

シンエヴァの制作現場に密着したNHKプロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」を観た。
どんな仕事をやっていても締め切りギリギリでの掌返しなど似たシチュエーションはあるだろうが、ちょうどNHKで再放送されている『SHIROBAKO』を観ており、アニメーション制作の現場の話に親近感を持っていたので、より怖い話ではあった。
一方で「制作の裏側」的な要素もあり、特に「絵コンテを書かない」代わりに、序盤でモーションキャプチャーを使って「アングルを探る」制作過程が興味深く、これだけでも2回目を観る楽しみが増えた。
また、やはりこれもアングルの話だが、パリでの8号機を撮影するカメラの「寄り」「引き」にダメ出しをするシーンも印象的だった。

しかし、それ以上に、スタッフ、そして現場とは別の場所にいる人たちによる庵野評が面白い。庵野秀明を「大人になりそこねた人」と評する鈴木敏夫のヤクザっぽい佇まいが良いし、今回の映画を語る上で欠かせない安野モヨコ庵野評も温かい。

安野モヨコ『監督不行届』(2005)

監督不行届 (FEEL COMICS)

監督不行届 (FEEL COMICS)

ところで、エヴァンゲリオンを、「庵野秀明が成長する映画」として観る場合、安野モヨコが最重要人物であるというのは理解できる。
実際、今回、映画の中でも『オチビサン』が出てきて、ここで綾波が読む本としてわざわざ奥さんの本を選ぶか!と驚いたので、本棚から『監督不行届』を引っ張り出して読み直した。*1
ところが、当時読んだときも同じ印象だったけれど、今読んでも、イマイチよくわからない。
これを「特殊な趣味」の持ち主の生態本(例えば『となりの801ちゃん』)として読むと、なんだかヌルく、「これは絶対に理解できない」みたいなものがない。庵野秀明は変な人だという前提があるからかもしれないが想定の範囲内過ぎて面白みがない。
ただ、巻末の庵野秀明による解説がとても興味深い。

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。(略)嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。

2005年2月刊行のこの漫画のあと、2006年5月に株式会社カラーを設立し、9月にスタジオカラーを立ち上げ、2007年から新劇場版が始まる。
この時間の流れを考えても、ここで「エヴァで出来なかった」ことをやり遂げたい、というのは、新劇場版のひとつのモチベーションになっていたんじゃないかと思う。

『おおきなカブ(株)』(2016)

annomoyoco.com

むしろ、今回のシン・エヴァンゲリオンと合わせて観ると感慨深いのは『おおきなかぶ(株)』の方だろう。
こちらは、スタジオカラー設立からの歴史を辿り、新劇場版の序破Qだけでなく、『風立ちぬ』や『シン・ゴジラ』への言及もあり、エヴァンゲリオンの諸々が、やはり庵野秀明の内面の問題とリンクしているんだろうな、ということを感じさせる内容になっている。
ただ、自分が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観て感動した理由の一部には、やはり「庵野秀明が吹っ切れた」というカタルシスがあるが、そこはメインではない。そもそも庵野監督のことが心配で映画を観に行っている人は少数だろう。

RAM RIDER 週刊文春記事(2021年3月)

bunshun.jp

テレビ番組『プロフェッショナル』は、映画を取り上げたのではなく「庵野秀明」を取り上げたので、当然、シン・エヴァンゲリオンへの光の当て方も庵野秀明に重きを置いたものになっている。
しかし、番組の中では、まさにそのエヴァのドラマの中心にいる庵野秀明自身が書いたシナリオも、スタッフの理解が及ばないことが理由で没になっていることも描かれる。
当然ともいえるが、出来るだけ多くの観客に届くような作り方がされている、ということでいえば、この作品が受ける理由は、個人的な内面が社会的な状況とリンクしているからなのだと思う。
したがって、いくつかの記事を読んだ中では、 RAM RIDERさんの書いた文春の記事の冒頭部分にとても共感できた。(昔はむしろこちらの方を結び付けて語られることが多かったように思う)

世紀末を前にどこか浮ついていたあの時代(略)、エヴァの中で描かれる地球規模の「クライシス」に自らの破壊願望を重ねた人は多かったのではないか。「破壊」は言葉として強すぎるとしても、世界に対する淡いリセット願望のようなものが少なくとも僕自身の中にはあった。

阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件などを経ても、なお壮大な死や世界の崩壊をテーマにした作品が目立ったのは、それらの事件の衝撃波は浴びつつも、そこで起きた個人個人の死を映し出す術がまだマスメディアに限られ、解像度も低い世の中だったということかもしれない。

しかしインターネットが発展、普及して世界は様変わりした。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではブログが、2011年3月11日の東日本大震災では個人が撮影した動画が、それぞれ日常の崩れ去る様子を伝えた。それを目の当たりにし、世界の崩壊がロマン溢れる一過性のものではなく、どこまでも現実と地続きで、個人的で、容易には終わらない地味な長い戦いとなることを我々は知ってしまった。

特に新劇場版の3作目にあたる「Q」の直前に起きた3.11が庵野監督自身や作品の内容になんの影響も与えていないはずがない。(略)

新劇場版の制作において、庵野監督は「現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい」と声明を出した。一体どのような気持ちで「エヴァ」の最後と向き合ったのだろうか。

今回の映画を観るまで、エヴァンゲリオンの「終わらせ方」は、シンジ君が人類補完計画を拒否する生き方を選ぶ、また、それなのだろう。とすれば、自分や同世代の観客の心には響かないのではないか、と思った。
自分も「大人になり切れない人」の自覚はあるが、一応、一社会人として機能しているし、改めて14歳のシンジ君が大人になる話を観て、(今までも何度も観てるのに)それは感動するのかな、と思っていた。
第一、ATフィールド云々ではなく、もっと根本的な部分で心の余裕を失っている人が多い中で、シンジ君や庵野秀明の内面の問題が解決しても、所詮は他人事なのではないか、と思ったのだった。


だからこそ、ある意味で「同じ終わらせ方」にもかかわらず、自分が感動した理由を「社会的な状況とのリンク」にあると考えた。勿論、多くの人に受け入れられているのも同じ理由だろう。

したがって、何かと庵野秀明本人の話と合わせて作品が語られる傾向を見渡したとき、RAM RIDERさんのような視点こそが自分にとってはしっくり来たのだった。


だから、前回、感想として書いた文章の中には、やや書き過ぎている部分(自分でも、「それは誤解では?」と思うのだが)があり、傍から見れば強引なこじつけだが、書かずにはいられなかった部分だ。

このあたりの、世界が行き止まりにハマっている感じは、エヴァの始まった20世紀末よりも今の方が、より「世紀末」的で、逃げ道が無いように見える。

また、(本の内容については)別の機会に書きたいが、斎藤幸平『人新世の資本論』に書かれているように、今、世界が進んでいる方向には絶望しかなく、それとは別の選択肢の方に希望を見出してしまう自分の感覚と、シンエヴァが見出そうとしている希望(村の生活に代表されるもの)はリンクしているように見えた。
人間の叡智、協力、工夫は神を超えることができる、という「希望」を前面に出す終わり方は、自然災害やコロナ禍で不自由な生活を強いられている多くの観客にとっても「希望」(逆に、希望に向かっていないことが明確であれば「絶望」)として伝わったように思う。


なお、何度か書いているが、特にエヴァンゲリオンのような作品については、他人の感想や考察を読むのは避ける。自分の記憶容量は非常に小さく、鑑賞後の感想自体もそれほどの強度を持たない。したがって、良い解説記事や感想、批評を読めば読むほど記憶が上書きされてしまい、「自分の感想」はどこにも残らなくなる。
その意味では「誤解」であっても「自分の感想」は貴重なので、とりあえず書いておきたい。


話を戻すと、社会的な状況、および、個人的な内面(不安)と重ね合わせて、この作品を観た場合、これまでのエヴァで描かれなかった追加要素で一番印象に残ったのは「ゲンドウの一人語り」よりも「村の生活」だ。
しかし、正直に言えば『Q』(『破』?)で、加地さんがシンジに農業を薦めるシーンには辟易した。「都市」の生活と対照的な「農業」を出してくるのは安直だし、とても都会的な発想で恥ずかしいと思った。
だから、今回良いと思ったのは「農業」や自給自足的な生活、というよりは、労働の成果として喜んでくれる人の顔が見えることの大切さの部分だ。
レイ(そっくりさん)の「ありがとう」から始まる様々な挨拶の解釈についても、改めて日常の中で、日常の人とのつながりや労働の中で、大切だけれど疎かにしてしまう部分でもある。
エヴァの過去作では、「労働」について書かれた部分はあまりなかったように思う。ただ、日々向き合う必要があるものだから、エヴァンゲリオンにこそ必要だった要素なのではと改めて思う。
考えてみると、安野モヨコは労働女子マンガを代表作にもつ作家だ。
庵野秀明が『監督不行届』で、エヴァになく安野モヨコにあるものとして「読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガ」というとき、「外側に出て行動する」のに欠かせない要素として今回の映画に「労働」を入れたのには納得がいく。


「ありがとう」等のお礼や挨拶は、決して「労働の対価」ではなく、別に、それでご飯が食べられるわけではない。
しかし、職場や家庭、コンビニのレジで「ありがとう」を言うことは、バトンタッチするように広げていける善意なんじゃないか、と、そこに自分は希望を感じた。
現在の社会状況には、相変わらず不安を感じている部分はあるけれど、少しずつ良くしていける、自分に出来る部分もあるんじゃないか、と、先日映画を観た『きみはいい子』を思い返しながら、今は『シン・エヴァンゲリオン』のことをそんな風に考えている。

きみはいい子

きみはいい子

  • 発売日: 2016/01/13
  • メディア: Prime Video

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:「そっくりさん」が自分の名前について、読んだ本から「モヨコ」を希望するという展開を考えている人がいたが、それは流石に怖い笑