Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

尾身語録に自らを省みたい~河合香織『分水嶺 ドキュメントコロナ対策専門家会議』


大好きな河合香織さんの本ではあるが、全体としては読みにくいと感じた。

ひとつ個人的なことを言えば、「心を亡くす」タイプの多忙で、集中して本が読めない日が続いているということもある。

しかし、この本が持ついくつかの特徴は、多くの人にとっても「読みにくい」ことに繋がるように思う。

  • コロナ対策の専門家に焦点を置きながら、時期が2000年1月~6月と限定的であること
  • この時期のコロナ騒動の顛末(ダイアモンドプリンセス号から一度目の緊急事態宣言解除まで)の流れは基本的に知っているため、物語の先を知りたいという駆動力が働かないこと
  • 複数の専門家の視点で描かれるため、読者としてポイントを絞りにくいこと
  • 実際には一番大きな役割を果たしている「政府」側の視点が抜けているため、全体的には、どのように日本のコロナ対策が進んだのか、という背骨がないこと

最後のポイントに補足すると、現在までのコロナ対策は、日本政府がうまくやっているようにはとても思えず、コロナ対策の裏側を描くような記事は、通常は「政府批判」をベースで書かれる(そういう記事を自分が読みがち)。したがって、それがない、というだけで自分にとっては読みにくい文章になってしまった。という意味では、これも自分の問題だったといえるかもしれない。


その中で、この本の一番の読みどころは尾身会長の人間力だろう。
広い意味でのコミュニケーション能力に長けた人で、一般市民に対するコミュニケーションはもちろん、対官僚、対政府いろんな場面で調整がいる中で、何とか最善の方向に引き込むことが出来る超人だ。

特に、激昂必至と思われるような場面でも、心穏やかに誠実に対応する様子(テレビでも見た)が本の中でも紹介されている。

一つ目は、参議院予算委員会(5/11)で立件民主党福山哲郎議員に詰め寄られる場面。

ここで福山議員は「私が言っていることについて答えてください」と詰問し、最後に「まったく答えていただけませんでした。残念です」と一方的に断定する。とても失礼な感じの質疑に見えたのだが、尾身会長は怒らず、感謝の言葉を口にする。

もう一つは、絶賛炎上中*1西村康稔経済再生担当大臣。

緊急事態宣言明けの専門家会議側の記者会見で、ほぼ同時刻に記者会見を開いていた西村大臣が「専門家会議は廃止する」と発言していたことを記者からの質問で知らされるシーン。

どう考えても失礼過ぎるこの一件に対しても理解を示すのだから、宗教的な境地に達しているのではないかとすら思ってしまう。


そもそも尾身会長は「怒り」という感情に慎重な立場を示す。

リーダーは感情のプロである必要がある。リーダーとは何かといった本には、決断力やコミュニケーション、大きな方向を示すことなどが書いてありますが、でももっとも重要で難しいのは、感情の、怒りのコントロールです。怒ったとしても、根拠のある怒りが必要だ。後で尾を引かないような怒り方をすることが重要です。p160

あとの尾身語録も素晴らしい。

この人の意志が明確で、政府との調整力が十分あったからこそ、それぞれ個人の研究の時間を削って奉仕している会議のメンバーも何とかバラバラにならずに「持った」ということがよくわかる。

サイエンスというのは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、前のものは間違っていたということになる。そういう積み重ねが科学であり、さらに公衆衛生はエビデンスが出揃う前に経験や直感、論理で動かざるをえない部分がある。p132

三歩先のことを言ってしまったら、誰もついてこられない。一歩でも難しい。だから我々は半歩先の方向性を示すことが責務だ。p200

自分たちのことは反省せずに、政府への批判ばかり言っていたら自画自賛だと思われる。我々も完璧ではない。反省すべきところは改めていくと伝えたかった。p201

エピローグには、 60歳を過ぎてから 、学生時代にやっていた剣道を再開し、朝や晩の素振りは欠かさないという話もあるが、ここから引き出す「後の先」の説明も良い。

自分がこうしたいと思っても、当然のことながら相手がある。それはウイルスであり、政府であり、自治体であり、市民だ。つまり自分の気持ちだけ大事にしていてはいけないということです。世の中のリアリティ、人の動き、それぞれの思いが一人ひとりにある。そういうことを知らずに、自説を唱えているだけではうまくいかない。p206

それに繋げるようにして以下のようにも語る。

現実の動きに即して、自分を日々新たにする必要がある。それは迎合とは違う。自らを殺す部分がないとだめなのです。そして、絶対的に正しいことなんてそんなにあるわけじゃない。神しかそれは知らないんだよ。人間は不完全な存在だ。誰だって自分が他の人より物事をよく理解している、正しいと思ってしまう。私にだってそういうところはある。だけど、100パーセント正しい人もいないのと同様に、100パーセント間違っている人もいない。p208

こういった言葉を受けて河合香織さんが補足する。

このウイルスは人の行動変容が鍵となる。そして政府と科学が対立していては、実際の対策に結びつかない。そういう局面で人を動かすのは、合理性に加え、呼びかける側の人格でもあるのかもしれない。

つまり尾身さんほどの人格者がこの位置にいなければ、日本のコロナ対策は大変なことになっていただろうということだ。


一方で、この本に書かれた2020年6月より後、コロナの影響はさらに混迷を深めるが、その際の政府のメッセージは「人の行動変容」に対して効果的に機能しているだろうか。「呼びかける側の人格」は問わないとしても、「合理性」も「整合性」もなく、それぞれの人の「思い」も考慮しない、単に自説を振り回すだけのピントはずれのものになっているように思ってしまう。

とはいえ、この本の読者としては、尾身さんの姿勢を見て政府を批判するのではなく、自らを省みる必要があるのだろう。尾身さんのように物事を捉えるのであれば、怒りよりもまず感謝を、ということなのかもしれない。

明日からまた緊急事態宣言に入り、緊急事態宣言下での東京五輪開催という、ある意味では最悪かつ想定通りの状況になってしまったが、今後も尾身会長率いる「新型コロナウイルス感染症対策分科会」の出すメッセージには、注意深く耳を傾けるようにしていきたい。

*1:「休業要請に応じない飲食店に対して、金融機関からの働きかけを要請する」と発言し、すぐに撤回。こちらなど→識者、独禁法抵触の恐れ指摘 自民若手は悲鳴 西村発言 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

時間泥棒が多すぎる(笑)~吉川トリコ『マリー・アントワネットの日記』

ベルサイユのばら』経由で一番気になった小説。
吉川トリコは「⼥による⼥のためのR-18⽂学賞」の第3回大賞受賞(「ねむりひめ」)を受賞したほか、昨年は女芸人×女子アナのシスターフッド小説『夢であえたら』も話題になった。

歴史的な興味も持って読み始めたが、いわゆるフランス革命(1789)後に、ラファイエット公やミラボーが跋扈する感じもよく分かった。残念なのはマリーアントワネットとは直接の接点がなかったのか、一番気になっていたロベスピエールがあまり登場しないこと。
また、予想とは違って、『ベルサイユのばら』からの飛躍が少なかった。首飾り事件の顛末やフェルゼン公との関係も含め、あの漫画がいかに史実に基づいていたのかを改めて知る。


さて、この小説の特徴である、口語体というよりSNS調の日記形式。実際には、町田康『ギケイキ』の破壊力には及ばないが親しみやすい。そして、読むまで思いつかなかったが、その最大の特性は、すっ飛ばしだ。
つまり、マリー・アントワネットは重大な事件が起きたときほど、1年とかの単位で日記を飛ばしてしまう。例えばこんな感じ。

1778年4月20日(月)
たいへんです!時間泥棒があらわれました!気づいたらあたしの1年が奪われていたのです!よって日記がまるっと1年飛んでいますが、落丁ではありませんのでご心配なく。時間泥棒があらわれたのです!!
この空白の1年間になにをしていたかっていうと…ほんとにいろいろなことがありすぎて記憶が曖昧模糊としていますが、ひとつ言えることがあるとすれば、あたしのおなかにはいま赤ちゃんがいます!「は?なにその超展開?」とあなたはおっしゃるでしょうが、ほんとうにありのまま起こったことを話しているんです!時間泥棒があらわれたんです!


この文体もさることながら、自分が一番気に入っているのは、注釈。注釈がつくとき、下段に専用枠がついていると見やすいが、欄があると逆に注釈がないことが気になったりと気が散る原因になる。一方で、硬い文章に多い「章末につく注釈」は、ページがあちこちに飛ぶので読むのが億劫になってしまう。
この本の形式は、注釈があったときのみ左右開きの左側に集中してつける、という方法で、ストレスなく読めるのが良い。そして、若者言葉を知ることができたりして楽しい(19世紀の人間から若者言葉を知る、という奇妙な状態も良い)。


でもって、結局2冊目(Bleu)では、バスティーユ陥落以降、どんどん状況が厳しくなっていくものの、彼女はずっと「マリー・アントワネット」でいることを貫く。偉大な母親への抵抗やファッションの話題が多かった序盤と比べて、子を産み、ルイ16世とともに苦難を乗り越えた彼女の成長も、変わらぬ軽い文体の後ろに読むことができる。
革命裁判所の場面を綴った日記(1793年10月14日)では、裁判所で感じた世間からの視線に対して、次のように書かれている。

とにかく彼らはあたしを毒婦に仕立て上げたいようでした。前々からうすうすと感じていましたが、彼らは女が意志を持って行動することが気に入らないようなのです。政治に口出しなどせず女らしく従順におとなしくしていればいいものを調子に乗ってしゃしゃりでてきたあげく、「女の武器」を使って男を操り主導権を握ろうとするなどもってのほか。女は男より劣っているのだからすべからく家庭に引きこもり家族の世話に専念するべきなのだ。女は決して男に対価など求めてはならないし、養ってもらえるだけありがたいと思わなければならない。口紅の一本すら自分から欲しがってはならないし、奥様仲間との豪華フレンチランチなど言語道断。国民に規範を示す立場にある王妃ともなればなおさらである。「家」からはみだした女はなべて男を堕落させる悪しき存在なのだ。メッサリーナの再来に鉄槌を!
ふむふむ、なるほどですね、了解でーす。そっちがその気ならこっちはこっちで好きにやらせてもらいますけどよかったですかね?だれにケンカ売ったかわかっとらんようだから教えて差しあげますけど、あんたらはたったいまこの世のすべての女たちを敵に回したんだからな!見とれよ!

この裁判は、『ベルサイユのばら』でも描かれる、エベールがルイ・シャルルへの性的虐待(母子相姦)をでっち上げて告発するシーンでも有名だが、それも含めて、200年以上経っているのに、今の大衆やマスコミの視線とそれほど変わらないなあ、と感じてしまう。
今回、多くは書かなかったが、対照的な性格のルイ16世との組み合わせも興味深く、ファッション界に与えた影響も含めて、(もちろんフィクション多めということはわかっているが)やはり歴史に名を残す偉大な人物だと、改めてマリー・アントワネットを見直した。
次はフランス革命関係も読みたいが、マリーアントワネットも含めて16人も子どもがいたマリア・テレジアについて、もう少し知りたい。お、藤本ひとみ先生の本が!


あとは、引き続き吉川トリコの本も。

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「食えない羊羹」としてのスマホ~高橋久美子『旅を栖(すみか)とす』


5/12のアトロク(ラジオ番組アフター6ジャンクション)のサウンドスケープ特集がよかった。

これまで、少し足を伸ばせば簡単に行けたあの街ですら、今は、はるか遠い星のよう。だったら、いつかの旅行で訪れたあの街、この街、いずれは行きたいあの国の「音風景 = サウンドスケープ」に、今こそ、耳を傾けようじゃありませんか! というわけで無類の旅好きで(前作エッセイ集『旅をすみかとす』)、旅先では、記念撮影ならぬ「記念録音」を録りまくってきたというチャットモンチーの元ドラマーで、現在は作詞家・作家として活躍中の高橋久美子さんをお迎えし、秘蔵の“旅音源”を聴かせて頂きながら、記録、そして記憶としての音の魅力についてお話を伺いました。

https://www.tbsradio.jp/587804


高橋久美子は、チャットモンチー脱退後、やはりアトロクでその活動を知り、絵本に携わったりなど、音楽の活動にとどまらない色々なことをしている人だな、と思っていた。今回、サウンドスケープ特集を含む2度の旅ネタ回が内容もさることながら、その豪快な人柄も伝わってくる、いわば神回で、この人の書いた文章を読みたいと思って読んだのが、この『旅を栖(すみか)とす』。


この本は、国内外の旅先でのあれこれについて語られた、いわゆる旅行記だ。こういう本を読むのは久しぶりだったが、一般的に旅行記の面白さはこんなところにあるのではないだろうか。
1)単純に旅のトラブルなど体験自体が面白い
2)知らない文化を知ることができる
3)自分も行ってみたいなと思いをはせることができる

エンタメ寄りであれば1)の比率が大きく、教養寄りであれば2)の解説の比率が大きい。『旅を栖とす』の場合は、2)の各国の事情については、補足的に触れられているが、メインとはならない。したがって、1)寄りであると言えるが、そこには高橋久美子ならではの感性が一貫していて、それが文章を魅力的にしているように思う。(つまり旅行記が自分に合うかどうかは作者の感性が読者の琴線に触れるものであるかどうかにかかっているのだと思う)

それでは、その高橋久美子の「感性」とは具体的に何かと言われれば、人との出会いを大切にする気持ちと想像力、そして何より「ライブ感」であると思う。

プロローグが名文なので一部抜粋する。

街も人も日々変化する生ものだから、旅は一期一会のライブだと感じる。この非常事態が収束したとしても、あの日と同じ旅にはならない。きっとまた予想もしない新しい出会いが待ち受けている。だから面白く、切ない。
家の中で過ごすことの多かったこの一年はとびきり孤独だった。孤独が嫌いではないが、いつもとは少し様子が違っていた。でも、玄関を開け外に出る度に私は一人ではないと思い知らされる。生きているのは人間だけではない。桜の葉は、衣替えもしないのに百枚百通りの衣装をまとって日に照らされ、コンクリートの隙間から名もない植物が顔を出している。踏み出した足が、右、左と地面を蹴って私を知らない世界へと運び出す。なんだ、いつだって私は旅をしているじゃないか。忙しい日々では気づけなかった様々なことに心を傾けている自分がいた。そうしてまた新しい気持ちが動き出した。


一期一会の「ライブ感」を大切にするなかで、象徴的なのは携帯電話の扱いだ。
タイで日本人のバックパッカーに声を掛けられ「Facebookとか教えてよ。連絡取りあおうよ」と言われたときの心の声が面白い。

私は、めんどくせえなあと思っていた。なんでタイでたった今出会った日本人と一緒に旅行しないといけないのか。一人で来たなら、一人旅を全うしやがれ。それに私達は携帯のSIMカードなんかも入れ替えてないし、海外では携帯電話はご法度だと思っているタイプの旅人で、スマホを持ってはいるが、ここではただの食えない羊羹だ。

p32

そうか。スマートフォン以降は、海外旅行も以前と大きく変わって、例えばバスの移動や場所の確認など、旅先でのトラブルが大幅に減るという話を聞いたことがあったので、むしろ自分はスマートフォンを持った海外旅行に興味を持っていた。したがって今後訪れるかもしれない海外で「食えない羊羹」にしてしまえるかどうかは何とも言えないが、まさに仰る通りと思う。

旅先での音に、においに、そして周りの人の声に、全身でその場所を体験するには、スマホは「ご法度」なのだ。*1
このスマホ「ご法度」の考え方は、同行者も理解しており、3歳離れた妹と2人での旅行*2でも、結婚相手との2人旅行でも、それぞれ色々な外国人との交流が生まれ、カンボジアの青年たちに結婚について議論したりしてしまう。おそらく閉じたものになりがちな「2人旅+スマホ」での旅行とは、まったく違う旅の景色がそこにはある。


そして、「この人は信じられる!」と思わせるのは、各地で出会った人たちが今はどうしているのかな、と振り返る場面や、旅をすることで自分とは違う時間を生きている人たちがいることを改めて考える場面だ。

でも、私はこの人達のことを何も知らない。互いに羨ましいと思い合い、ほんのひと時、言葉を交わすだけだ。それでもいろんな人が、知らない場所で生きているのを見たときホッとする。勇気づけられる。一人だからこそ、一人じゃないんだなと感じられる。毎回、私はそれを確かめに一人旅をしているんだと思う。

自分の全く知らない世界に暮らしている人がいるのだ。食べるものも、裸になる場所も、太陽の巡りさえも違う土地で。旅に出たあと、自分の当たり前が全ての人の当たり前ではないことを考える。そして、イメージ通りの国なんてないよってことも。お土産に買って帰った焼きチーズは日本で食べると臭く感じて、あれは北欧だったから美味しかったんだなと思ったのだった。
p129

海外で差別的な扱いを受けたシーンでもそれは同様で、この旅行記には、「嫌な思い出」も描かれているが、それも現地の人たちの暮らしを想像することとセットでの「物言い」であり、ただのイチャモンにはしない。

海外旅行に出ると、しみじみ私はアジア人なんだなあと思う。それは私が私であるアイデンティティの一つであるけれど、私の全てを決定づけるものではない。当たり前が当たり前でない世界と出会ったとき、楽しい驚きもあれば、時には深く傷つけられる驚きもあって、自分自身がほかの民族を傷つけていることがあるのではないかという自戒にもなった。
p200


家の改築を手伝ってくれたベトナム人技能実習生の結婚式のために、初の海外旅行を果たした母親の感性を褒め称える場面でも、高橋久美子の優しいまなざしが伝わってくる。

まだまだ可能性は広がっていること、どこへだって行けるということ、新しい友達はできるということ、この旅は母の青春元年であると思った。扉は開かれた。でもそれはある日降って湧いたものではなくて、毎日大工さん達のお三どんをするなかで母の中に積み重なったものである。新しい世界のまばゆさを一番瑞々しい感性ですくい取ったのは母だった。
p205

気仙沼で多くの小学生が亡くなった小学校の跡地を訪れたときの文章も胸に響く。「亡くなったこと」ではなく「生きていたこと」に思いを馳せるのだ。

生きていたことを覚えていたいと思った。この学校で友達と走ったり笑ったり忘れ物したり、給食をおかわりしたり、同じ時代を生きていた子ども達がいたんだ。そのことを、私も訪れた人々もずっと忘れない。
p247

チャットモンチーは、ボーカル・ギターの橋本絵莉子の色が強すぎて、それぞれの曲の作詞が誰であるかを意識して聴くことがなかったが、これまでカラオケで一番多く歌ったチャットモンチーの曲「風吹けば恋」も、家族のことを歌った名曲「親知らず」も高橋久美子の作詞だったことに今回初めて気が付いた。*3
「親知らず」の歌詞で登場する家族写真の「妹を抱いた母親と真面目過ぎる父親」。そのうちの「妹」も「母親」も登場する、この『旅を栖とす』は、チャットモンチーを改めて聴き直すいい機会となったし、それも含めて表現者としての高橋久美子を立体的に捉えることが出来た。


www.youtube.com


次は少し前に出たばかりの小説『ぐるり』を読んでみたい。表紙と挿絵が奈良美智というのがまたすごい。

*1:そういえば、チャットモンチーの代表曲「シャングリラ」でも「携帯電話を川に落としたよ笹舟のよに流れてったよ」という歌詞があったが、調べてみると高橋久美子作詞だった。

*2:親子に間違えられるエピソードも面白い

*3:そして今回聴き直して濃密な歌詞に聴き惚れた「Last Love Letter」がベースの福岡晃子によるものであることも知った。このグループは3人とも作詞がすごいじゃないか。

肖像画って面白い~佐藤賢一『フランス革命の肖像』


ベルサイユのばら』と『大奥』を読んで本当に良かったのは、歴史に興味が沸いたこと。
これまで、フランス革命に対する自分の認識は「非難爆発(1789)フランス革命」という年号語呂合わせのみで、何も興味関心を持っていなかった。江戸幕府については、それよりは関心はあったものの、あくまで多少。歴史好きの人からすると、不思議でしょうがないことなのだろうが、これまで歴史上の人物に、あまり「推し」や「ヒーロー」を作って来なかったことが大きい。(この辺はプロスポーツに対する姿勢に近く、プロ野球やサッカーも関心はあるが「推し」がいない)


さて、『ベルサイユのばら』で一気に関心の高まったフランス革命については、難しくなさそうな雰囲気に満ちた、この本を読んでみたが大正解だった。
というのも、タイトルこそ出ないものの、『ベルサイユのばら』と完全に地続きの内容だからだ。(いや、もちろんそれは逆で『ベルサイユのばら』自体がかなり歴史に忠実に作ってあるからこういうことが起きるのだろう。)


『ベルばら』読後は、マリー・アントワネットルイ16世は当然として、フェルゼンが実在の人物であることに驚いたが、この本を読むと、そのほかも漫画に名前が出てくるキャラクターは、ほとんどが実在の人物であることが分かる。
それだけでなく、おそらく池田理代子先生も、肖像画を見てキャラクターを造形したのだろう。肖像画を見ても見知った顔が多い。例えば重要キャラで言うとミラボーロベスピエール、ルソー、オルレアン公などがそうだし、ルイ16世も(一般的なイメージ通りということなのかもしれないが)肖像画にそっくりだ。


また、外見をあれこれ言いながら歴史を語る、ということで、そこはかとない「下世話」な感じが最高に楽しい。

  • その肖像を眺めれば、さすが成功した実業家だけに下ぶくれの福相ではあるのだが、どこか軽薄そう(ネッケル)p19
  • いくらか神経質そうな印象があるとはいえ、まずは美男の顔つきでもある。爽やかな風さえあるが、他面どこか胡散臭い。(ラ・ファイエット)p43
  • このエベールだが、肖像を眺めると、意外なくらいに普通である。(略)が、もうひとつ言葉を足すなら、老けている。(エベール)p110
  • ぎょろりとした目に鉤なりの鼻、尖り気味の口元が嘴を連想させるところなども、どこか鳥に、それも駝鳥に酷似している。(マラー)p113
  • 社交界でも幅を利かせ、数多の愛人も抱えた。まさしく我が世の春であり、さぞやニヤけているだろうと思いきや、バラスの肖像画の印象は意外に暗い。(バラス)p142

人物の「顔」をベースとして辿るだけで、苦手な歴史も一気に見通しが明るくなる。振り返って考えれば、歴史漫画の面白さもそこにあるのかもしれない。

ロベスピエール

さて、『ベルばら』を読んだあと、フランス革命のその後についてあれこれを読んで驚いたのは、ロベスピエールの恐怖政治だ。(これも常識的なことなのかもしれないが)
作品内では、あれほど利発な好青年風に描かれていたのに、まさかこの人が多くの政敵をギロチンにかけて粛清し独裁的な政治を敷いていたとは!と思ってしまっていた。ところが、ロベスピエール肖像画は(この本の表紙右上にある)、童顔で可愛らしく、外見は、まさに『ベルばら』通りの人であったようだ。

なるほど、ロベスピエールは普通の人生を許されなかった。政治の腐敗を嫌悪し、ストイックな政治姿勢で知られた「清廉の人」は、肉体的にも汚れを知らない童貞だったとの説がある。
肖像画に感じられる一種の可愛らしさ、裏腹に恐怖政治に発揮された攻撃性、それら相反する人格を同時に説明するワードこそ、童貞という成人男性としては珍しい状態だったのかもしれない。(略)死ぬまで、あるいは殺されるまで、純真な中学生のようでいなければならないならば、それ自体が常軌を逸した苦行なのだ。p126

これを読むと、ロべスピエールの恐怖政治が「清廉」「ストイック」「純真な中学生」そして「童貞」というキーワードで肖像画とつながってきて、単純に歴史参考書でロベスピエール=恐怖政治と覚えていたのと比べると深い理解ができた気がする。

デムーラン

デムーランも面白い。
本の中では若々しい肖像画と合わせて「自意識過剰なインテリ・ニート」(p52)という厳しいコメントがつけられているが、バスティーユ襲撃の際にパレ・ロワイヤルで群衆を扇動したことで知られるフランス革命の重要人物だ。
そして何より、彼こそ「黒い騎士」としても暗躍したベルナール・シャトレのモデルとなった人物だという。
さらに面白いのは、デムーランの結婚相手も歴史に名を残した女性(リュシル)であるということ。本の中には二人が赤ん坊を挟んで仲良さそうにしている肖像画も収められている。『ベルばら』でいうと、シャトレの妻はオスカルに最も愛された女性であるロザリーなので、肖像画の夫婦を見ると、そのことが思い出される。
検索すると、ミュージカルファンの方のブログに、この肖像画と合わせて、リュシルがどのような人物であったかが整理されている。『1789 -バスティーユの恋人たち-』というミュージカル作品にも登場するということで有名な人のようだ。

musicalstyle.net


ここにも書かれているように、結局この夫婦も、バスチーユのときは戦友だったロベスピエールにギロチン送りにされている。しかし、ベルナール・シャトレは、池田理代子がナポレオンを描いた漫画『栄光のナポレオン-エロイカ』にも登場するということで、別の人生を送っているのかもしれず、こちらも確認したい。


マリー・アントワネット

写真ではなく、肖像画ならではの面白さがあると気づかされたのはルイ16世の項とマリー・アントワネットの項だ。
ルイ16世が一般的に持たれている「愚鈍なイメージ」は、実は後期の肖像画のイメージが大きいという。特に、変装して一家でパリ脱出を企て、東部国境の都市で捕捉されてしまった「ヴァレンツェ事件」は王の権威を失墜させ、ヴァレンツェ以降に描かれた肖像画ほど、悪意が籠められ、どんどん「愚鈍なイメージ」が強くなっていく。
一方で、マリーアントワネットの肖像画には、悪意が感じられるものが少ないという。

晩年の姿と伝えられる肖像画があるが、これなどをみると若い頃の華やかさが嘘のように消えている。同時に軽薄な風もなくなり、かわりに人間としての深みを感じさせる。(略)おかしな言い方になるが、マリー・アントワネットは革命という「不幸」にこそ、人格を磨かれたのかもしれない。p79


思えば『ベルサイユのばら』の中でも、肖像画は、マリー・アントワネットが母マリア・テレジアに送って怒られたり、オスカルがロザリーに贈って喜ばれたりと色々な場面で「思い」を込めて使われている。そして、フランス革命直前に完成したオスカルの肖像画も、誇張が本人の本質を捉えるような作品になっている。
この本に出てくる『マラーの死』も、肖像画であり、かつ事件の決定的瞬間を撮ったスキャンダル写真のような特徴があるし、当時の肖像画には、当然のごとく写真よりも描き手の思いが反映されているのだろう。
そういう意味では、これらの肖像画は、『ベルサイユのばら』のような歴史漫画が絶対に真似できない「同時代を生きる描き手の思い」が込められているから強いのであり、そうか、美術作品の楽しみ方のひとつはそこにあるのだな、と今さらながら思い知らされた。


今回は美術にも興味を持てたので大満足。佐藤賢一さんには、『小説フランス革命』(文庫で全18巻)という大著があるが、美術的な観点でも興味を持ったこの流れで行くと、次に読むのはこちらかな。(漫画や小説にも興味ある作品が多数あるけど)

「日本の恥」としての入管~織田朝日『となりの難民』

「難民」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
外国で住む場所がなくなった人? それとも、どこか遠い国にあるキャンプの人たち?
じつは、日本にも難民がいるんだよ。子どもだって難民になってしまうことがある。
そう、世界の難民の半分は、子どもたちなんだって。
【 全国学図書館協議会 選定図書 】

名古屋出入国在留管理局(名古屋市)に収容されていたスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が死亡した問題をめぐって、国会でももめている入管法「改正」について、基本的知識を得るべく、まずは中高生向けのこの本を読んでみた。
この本は、支援者の立場から入管施設に収容されているたちの話を聞くことの多い織田朝日さんが、実際に見聞きした多数の具体例をもとに入管施設の問題点を整理したものとなっている。
Amazonのレビューでは、法制度的な面からの解説が少ないので、「感情論」という批判を書いている人もいるが、入管施設に関心を持ってもらおうという作者の主旨からすれば問題ないと言える。
そういった「感情論」も込みで施設収容者の方の話を繰り返し読む限り、入管施設の一番の問題点は「無期限収容」にあると感じた。

半年で出られるのか、1年なのか、3年なのかだれにもわからない。せめて、それさえわかっていれば1年がんばろうと目標になり、気持ちを強くもつこともできます。
この無期限収容が、なにも展望がもてず、収容者が精神的にまいってしまう最大の原因といえるでしょう。無期限収容に関しては、人種差別撤廃や自由権といった観点から、国際人権機関から注意を受けており、国際社会においては非難の対象です。p112


この本自体は2019年11月の出版だが、つい最近(2021年4月)も複数の国連専門家から共同書簡という形で批判を受けており、この中でも「収容期間の上限の欠如」についての問題が指摘されている。

まさに前代未聞の事態だ。法務省出入国在留管理庁(以下「入管」)が今国会に提出した入管法「改正」案に対し、「国際法違反」であるとして、国連の特別報告者3人と、国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会が共同書簡を日本政府に送付したのである。さらに、この共同書簡は、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)のウェブサイトでも公開されたのだ。

「日本の恥」となった入管―国連専門家らが連名で批判、入管法「改正」案は国際人権基準を満たさず(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース

この記事を見ると、そもそも「出入国管理における収容は「最後の手段」としてのみ行われるべき」とされ、収容という行為自体の問題が指摘されている。

これらの批判に対する入管庁のHPのQ&Aを見ると、例えば「強制退去の必要性」の項目には以下のように書かれており、「ごく一部ですが」と注意書きをつけながらも、基本的に「犯罪者」として収容者を取り扱うという考え方をベースとして施設が運営されていることがわかる。

日本に在留する外国人の中には,ごく一部ですが,他人名義の旅券を用いるなどして不法に日本に入国した人,就労許可がないのに就労(不法就労)している人,許可された在留期間を超えて日本に滞在している人(※),日本の刑法等で定める様々な犯罪を行い,相当期間の実刑判決を受ける人たちがいます。

当庁の役割の一つは,このような日本のルールに違反し,日本への在留を認めることが好ましくない外国人を,法令に基づいた手続により強制的に国外に退去させることです。

(※)これらの行為は,不法入国,不法残留,資格外活動などの入管法上の退去を強制する理由となるだけでなく,犯罪として処罰の対象にもなります。

入管法改正案Q&A | 出入国在留管理庁

ただ、ウィシュマさんの事例もそうだが、「ちょっとしたつまづき」からオーバーステイになってしまう人も多く、特に、コロナ禍での失職や就職難は、それに拍車をかけることは間違いない。
なお、「難民」は、「国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」(p82)であり、ウィシュマさんのように、かつてDVを受けていた相手がスリランカに待っており、脅迫を受けているというケースは難民認定に当たりそうだ。
しかし日本の難民認定は、この本の副題にもある通り1%以下。もう少し突っ込んだ数字を見ると0.5%以下ということで基本的には認定されない。
そういった人向けに「在留特別許可(在特)」という制度もあるようだが、近年、許可が絞られていて、これを受けるのも難しいようだ。(在特は判断基準が曖昧で、法務大臣から「恩恵」的に授けられるものと位置づけられている。しかも、近年、数が絞られている理由が五輪のためと噂されている)

「人」の問題

ただ、本でいくつもの事例を読むにつけ、最大の問題は「人」の問題であるように思える。

「俺は人間じゃないのか?虫なのか?俺の子どもたちも虫なのか!?俺はなにも悪いことなどしていない!」(p38:クルド人のトーマさん)

こういった事例以外も、入管の職員からの暴言、暴力、医療放置など、職員が人権意識のある人だったら起きない問題が多数あり、このような施設が、2018年12月の入管法改正で「庁」にグレードアップしたこと自体に疑問を感じる。
本の中では「懲罰房」と呼ばれる部屋(正式名称は保護室)についても触れられている。「職員になんらかの抗議や反抗の意を示した場合、あるいは自殺未遂をした場合、罰として閉じ込められる部屋」とのことで、ここに入れるとなると、多数の職員から押さえつけられ、以下の動画でも実際の様子を確認できる。
www.youtube.com


こうなると、入管施設職員がどのような人たちなのか気になるが、まともな感覚を持った人もいるようだ。(ただし辞めている)

元職員の男性は待ち合わせ場所にジャンパー姿で現れた。入管収容施設で働いていたが、被収容者に対する処遇や医療提供体制を「おかしい」と感じていたという。少し前まで働いていたが、身元を特定される恐れがあるため、詳細な勤務期間は明らかにできない。外国人の人権問題を長年扱っている支援者に自ら連絡し、少しでも現場の改善につながればと記者の取材に応じた。

元職員が収容施設で働き始めて最初に驚いたのは、先輩職員たちが収容されている外国人のことを「ガラ」と呼んでいたことだった。「ガラが、ガラが、と言っているので何のことかと思ったら、被収容者のことだったんです。同僚に意味を尋ねると、『身柄のガラのことだろう』と言われました」と語った。

mainichi.jp

記事(有料記事で最後まで読めないが)にも書かれている通り、人間を「モノ」扱いする入管施設の空気がよくわかる。ラジオ番組「荻上チキのSession」でも、入管施設における悪い意味での「体育会系」ノリについて指摘されていたが、入管施設に勤める人ほど、難民申請者の出身国の状況について勉強し、その状況について身を寄せて考えられるような人であってほしい。
ただ、ウィシュマさんの件についても既に報告書内容の改ざんが明らかになっているし、あまりに対応が不誠実で、現時点では全く信用がおけない官庁という印象だ。このような状況下で、入管庁に権限が集中していることは明らかにおかしいと思う。

まとめ

今回詳しく触れなかったが、強行採決が噂される入管法「改正」案は、国連含め広く指摘されるような人権的な問題に特に手をつけず、ひたすら「強制退去」をやりやすくする内容。
先日の記者会見で、菅首相が、東京五輪に来日するマスコミ関係者をどのようにするかという江川紹子さんの質問に対して「強制退去」という言葉を使っていたが、どうしても政府全体から人権軽視の空気を感じてしまう。

菅首相:まず私から申し上げます。前回の質問の際に、えぇ、マスコミの方が…たしか3万人ぐらい来られるというような話だったと思います。

いまそうした方の…入国者と言うんですかね。そうしたものを精査しまして、この間出た数字よりも遥かに少なくなると思いますし、そうした行動も制限をする。そしてそれに反することについては、強制的に退去を命じる。そうしたことを含めていま検討しております。

【緊急事態宣言】東京オリンピック「やるなら医療への負荷」考えてと尾身氏がクギ。菅首相は会見冒頭で触れず | Business Insider Japan

東京五輪には難民選手団の参加も予定されており、開催されるかどうかは別として、今から東京五輪というこの時期に、国連から非難されている法改正を強行採決でやるというのは最悪のタイミングで、馬鹿なのかな、とさえ思う。
コロナ対策、入管法改正案、東京五輪(の強行開催)。このすべてに共通するのは、日本が駄目な国であることが世界に丸わかりになってしまう、ということ。自民党の政治家やその支持者など、保守的な人ほど、「日本の恥」に敏感なはずで、今の政府の政策はそれを増幅する方向に向かっているように思えてならない。
逆にいえば、菅首相が方向転換をして、少しでも、隠蔽のない、科学的・論理的な説明をするような姿勢を見せれば、支持率も回復する。菅首相が壊れたレコードのように繰り返す「国民の命と健康を守っていく」ことを達成するためには、国民が政府を信頼することがまず第一ではないかと思う。

『大奥』と似てるとこ・似てないとこ~池田理代子『ベルサイユのばら』(3)~(5)

※(1)(2)巻の感想はこちらです→どの作品にもつい桜小路君を探してしまう~池田理代子『ベルサイユのばら』(1)(2) - Yondaful Days!


今年のGWは前半に池田理代子ベルサイユのばら』、後半によしながふみ『大奥』全19巻を読んだ。
『大奥』を読む前は、この文章(ベルばら後半の感想文)は、髪型変更によるアンドレの覚醒の話を書きたいと思っていたが、今は頭の中が『大奥』でいっぱいになってしまっている。そこで、大きく方向性を変更して2つの作品の比較について書いていこうと思う。


さて、特に意図したところはなかったが、連続して読んだ二つの作品は史実を元にしているということ以外に類似点も多い。
女性でありながら男性を率いるオスカル や、国王ルイ16世が目立たず、何かと王妃(マリー・アントワネット)が前面に立つフランス王政の状況が、女性将軍が支配する『大奥』の世界観と似ている、という見た目の類似点はある。
勿論、この設定の中で描かれる女性キャラクター(オスカル)が「この社会において否定的で受動的な意味を持たされがちな女のセクシュアリティからも、野暮な男臭さからも、解放されている」(4巻:松本侑子による解説)という、フェミニズム的なテーマが込められているというところも共通するだろう。


しかし、それだけではない。
以下に、名シーンの台詞を引用しながら両作品に共通する点を書き出し、最後に『ベルサイユのばら』に特有で、作品の大きな魅力について整理した。

共通点1:異物排除からの融合

(オ)さあ こい!フランス衛兵隊のあらくれ兵士ども
(ア)オスカル!!
(オ)なんだアンドレ!! あっ!!
がら~ん
3巻p138(オスカルとアンドレの会話)

「黒い騎士」を取り逃がしたオスカルは自ら近衛隊除隊を願い出て、貴族出身者の少ない衛兵隊長となる。しかし、初登庁の日、そこには誰一人も部隊の人間がいなかった。
こんなシーンも『大奥』では多い。例えば、田沼意次に招かれて大奥に来たオランダ人との混血児である青沼も、当初は大奥の人間から受け入れられず、初講義の日は誰も来なかった。
そういったゼロの状態から協力関係を築いていくのが、ともに漫画として面白いところで、ワクワクしながら読んだ。特に、衛兵隊では、後述するがオスカルとアランの関係が大好きで最後まで読ませる。

共通点2:学ぶことの重要性

身分を問わず…!?
なんて自由な若々しい熱気にみちた空気だ
ロザリーや黒い騎士のことさえなかったら
わたしも仲間にはいって議論にくわわりたくなってしまいそうだ
政治や経済や文学、演劇、音楽…
3巻p24(オスカルの言葉)

オスカルがオルレアン公のサロンを訪れたときの言葉だが、これは、そのまま学びの場として機能していた大奥に通じる。
そして何より重要なことは、このあとオスカルがサロンの若者からかけられる言葉にある。

古典もいいがよかったらジャン・ジャック・ルソーを読んでみたまえ
『人間不平等論』を知らないかい?
世界が貴族のためだけにあるんじゃないってことがよくわかるよきっと

新しいことを知ることで、これまでの縛られた考え方から自由になること。こうした学びが、フランス革命期の市民を動かし、幕末そして家斉の時代の蘭学者や医師たちを赤面疱瘡の撲滅にまい進させた。
学ぶことが、社会の前進に繋がっている。この描写は、それだけで胸を熱くさせる展開だ。社会人になってみれば「ブルシットジョブ」などと呼ばれる、あってもなくても変わらない雑務に多くの時間を割き、大学や義務教育課程でも、何のためなのか?と疑問を持ちながら勉強を続けることの多い現代日本から考えると羨ましい。

共通点3:政略結婚

ジャルジュ家にはあとつぎが必要だ
ぜひはやく強くかしこい男の子を産んでわたしを安心させてほしい
3巻p266(ジャルジュ将軍の言葉)

このようにオスカルの父ジャルジュ将軍が唐突に告げ、オスカルにも結婚話が持ち上がる。
しかも相手はかつて自分の部下だったジェローデル少佐。
このときのオスカルは弱っていて、一度はジェローデルに身を任せ唇を奪われることになるが、アンドレの存在を知りジェローデルは潔く身を引く。オスカルは、フェルゼンの時に見せたような気の迷い(女装してフェルゼンの気を引く)は断ち切り、軍神マルスの子として生きることを誓う。

そもそも序盤のフェルゼンの結婚や、ロザリー、ディアンヌ(アランの妹)の結婚など、当時の貴族社会では政略結婚が日常。
『大奥』の世界は、将軍家の話がメインなので、基本的に政略結婚か、将軍と大奥との関係しかないのだが、その上での恋愛が描かれる点が『ベルサイユのばら』とは異なる。例えば、家光と有功(お万の方)はその最たるもの。
ベルサイユのばら』では、基本的に「かなわぬ恋」がメインで、既に結婚した相手への愛慕の情が描かれることは少ない。その中では、ルイ16世が、フェルゼンとの関係を知った上で王妃への愛を語るシーンが最も『大奥』っぽい関係性だ。

でも…愛しているのだよ
いつもほったらかしにしておいたけど
わ…わたしが…もう少しスマートで美しくて…そしたら…
そしたら愛しているということばを
ひとことでもあなたにいえただろうに…
いえただろうに…!
3巻p206(ルイ16世の言葉)

ルイ16世のこの言葉は、フェルゼンとの不倫を告発する匿名の手紙を読んでショックを受けたあとに出てくるもので、少し辛い。ルイ16世がもう少し我が強いタイプだったら、国王処刑という結末は避けられたのかもしれない。

共通点4:幼い命を奪う病

オスカル、こんどぼくにピストルと銃をください(略)
でもその銃を肩にになえるほど大きくなるまで
生きてはいられないだろうけど…
4巻p18(ルイ・ジョゼフの言葉)

マリー・アントワネットルイ16世の間に生まれた王子ジョゼフ。
待望の第一子だったが病弱で、脊椎カリエスにかかり7歳で亡くなってしまう。このあたりは、大奥で言うと、綱吉の子や家治の子の話が重なる。
なお、ジョゼフの病床を移す際に、「貴族のガキ」と悪態をつくベルナール・シャトレ(黒い騎士)に、オスカルは「だが、子を思う親の心に貴族も平民もない」と反論する。そこの絶対原則を犯すキャラクター(徳川治済、家慶)が出てきてしまうのが、『大奥』という作品の怖いところではある。

共通点5:この人のためなら

ともに死ぬためにもどってまいりました…
あなたの忠実な騎士に
どうぞお手を…
5巻p45(フェルゼンの言葉)

スウェーデンの貴族でありながら、最後までマリー・アントワネットのために行動したフェルゼン。オスカルと違って実在の人物にもかかわらず、2度の脱走計画に直接手を貸し、さらには独房にいるマリー・アントワネットにもジャルジュ将軍(オスカル父)を通じて脱出を持ちかけるそのマンガみたいな行動選択に驚嘆。

ただ、物語としてやはり胸を熱く打たれるのは、相手に振り向いてもらえないことが分かっている恋。中でも衛兵隊のアランは、恋敵にあたるアンドレとの友情も含めて『ベルサイユのばら』で1,2を争う推しキャラだ。

お…まえも…か…
アラン…!
むくわれぬ愛にこれからじっと…
長いときのいとなみをたえるの…か…
4巻p122(強引にオスカルにキスするアランを引き剝がしたアンドレの言葉)

『大奥』のキャラクターにもこのタイプは多いが、後半では、家茂のために、自分の主義信条を度外視して働いた勝海舟や、田沼意次のことを最期まで思っていた平賀源内がこれに通じる。

相違点:『大奥』にはなくて『ベルばら』にあるもの

三部会がひらかれる
壮大なドラマがはじまる…
175年ぶりにフランスのすべての身分の代表があつまる
三部会がついにひらかれる…!!
4巻p30(オスカルの言葉)

18世紀のフランスと幕末の日本、新しい時代の幕開けを描きながら、 国王の処刑で終わる『ベルサイユのばら』に対して『大奥』では「王政復古」で終わるわけだからその方向性は180度異なる。
端的に言うと、『ベルサイユのばら』でメインで描かれる「市民革命」は『大奥』どころか、日本と縁がないものだ。
ベルサイユのばら』での政治的な枠組みの変化を書き出す。

  • 新税と借金に関する申し入れを却下した高等法院の判事を、国王と王妃が一度追放(1788年8月)するも、民衆の力に圧されて判事を元に戻す(1788年9月)3巻p260
  • 再度開かれた御前会議で、高等法院は、国王側の新税と借金の要望に対して三部会の開催を要求(1788年11月)
  • 国王が三部会の招集を布告(1789年1月)4巻p30
  • 三身分(平民)と第一・二身分(聖職者、貴族)との対立が深まる中、第三身分は一部の貴族・僧侶議員の合流に力を得て国民議会の成立を宣言(1789年6月)4巻p86
  • 会議場からの締め出しを食らった第三身分の議員たちは、球戯場に集まり、憲法制定まで国民議会を開催しないことを誓う(球戯場の誓い/ジュドポームの誓い/テニスコートの誓い:1789年6月)4巻p100
  • その後、スイス人連隊、ドイツ人騎兵連隊、フランス衛兵隊からなる2万の兵がパリに集結、市民は義勇軍を編成するなど対立は深まり、ついに衝突。国王軍から離反したフランス衛兵の一部(オスカル達)が民衆側についたこともあり、バスティーユが陥落(1789年7月14日)5巻p23
  • 国民議会が人権宣言*1を採択(1789年8月26日)5巻p38
  • (その後、ルイ16世マリー・アントワネットが処刑されるのは1793年)

このような後半の怒涛の流れを見ると、そして、ベルナール等、平民側に配置されたキャラクターの躍動を見ると、フランス革命が「市民革命」であることを強く感じる。
ベルサイユのばら』は、国民全体を巻き込んだ大きな流れの中で、貴族であるオスカルが国王を裏切り平民の側に立つという展開の妙、そしてオスカルとアンドレの恋愛と死。クライマックスにすべてが重なるから良い。オスカルの死後は読むのをやめてしまった、という人がいるのもわかる。


さて、1789年の三部会では代表を選挙で決定しているが、175年前の三部会でどのように代表を選んでいるのかはよくわからなかったがフランスの選挙の歴史はそれよりも古いものなのだろう。日本で初の選挙は1890年(明治23年)の衆議院議員選挙で、1789年の将軍は家斉。
市民革命どころか選挙ですら100年以上の差があるのだから、「お上意識」の強さはやはり日本の国民性ということだろうか。
2021年の今であっても、それは変わらないように思える。度重なる不明瞭なコロナ対策の中で五輪開催が強行されても、僕らは唯々諾々と従ってしまうのだろうか、と考える。
バスティーユ監獄にあたるものとして、スリランカ人女性が亡くなった名古屋出入国在留管理局あたりを襲撃するか…とか。*2

ベルサイユのばら』という物語が愛されるのは、「市民革命」という動きそのものが、日本人には成し得ないもので、潜在的に憧れを抱いているからなのではないかとさえ思う。
今後は、こうした諸外国の「市民」の運動や、日本人の「お上意識」や江戸時代の「市民」(農民や町人たち)の政治的行動についても関心を持って読書を進めたい。


なお、池田理代子作品は引き続き読んでいきたい。(歴史の勉強のために…)

オルフェウスの窓(1)

オルフェウスの窓(1)

聖徳太子(1)

聖徳太子(1)


また、フランス革命については、『ベルサイユのばら』ではオスカルと一度すれ違うナポレオンも気になるが、何度も登場して頭脳明晰な善人に見えるロベスピエールが、この後、恐怖政治を敷くことになるというのがイメージしにくいので、補完しておきたい。お、『第3のギデオン』という漫画もあるのか。

*1:この人権宣言の主体として女性は想定されていなかったという。

*2:入管法改正の話題や、入管施設の実態については、知れば知るほど怒りが湧いてきます。元々から問題があったのに、五輪開催を前にさらに恥の上塗りをするようで、国際的な観点からも恥ずかしさでいっぱいです。

さらけ出すコミュニケーション~清田隆之『さよなら、俺たち』

さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

読まなくちゃとずっと思っていた清田隆之さんの著作を初めて読みました。
男性の書くフェミニズムの本ということで、女性が書くそれよりも、さらに気の引き締まる思いでページをめくりましたが、「目からウロコ」というよりは、「やっぱりそうだよね」と、これまで自分の考えてきたことをなぞるような本でした。
話題や考え方として新鮮味に欠けるように感じたのは、ここ数年のフェミニズム関係の話題が多く取り上げられ、しかも、性的同意年齢、彼女は頭が悪いから、田房永子の著作等、このブログで書いた内容とも重なるところが多かったからだと思います。
しかし、今回、そういった「フェミニズム」というところを超えて強く感じ、参考にしたいと思ったのは、清田隆之さんの文章の誠実さであり、コミュニケーションの取り方の部分です。

当事者研究的なアプローチ

これまでラジオやネットで清田隆之さんの言葉に触れて、いつもその「さらけ出す姿勢」に、信頼できる人だなあ、と感じていました。特に、フェミニズムに関する話題について、分析的でありながら、その加害性も含め「自分の問題」として語る姿勢に感銘を受けていました。
この本でも、基本的に「自分」と切り離した話題との向き合い方をせず、繰り返し「気づかない特権」について書かれているのが印象的です。
例えば、選択的夫婦別姓を取り上げた部分でも、自身が「これまで自分の姓が変わるという発想をしたことがほとんどなかった」ことを「男性特権」として捉えます。

特権と言うと物々しく感じるが、それは例えば「考えなくても済む」とか「やらなくても許される」とか「そういうふうになっている」とか、意識や判断が介在するもっと手前のところの、環境や習慣、常識やシステムといったものに溶け込むかたちで偏在しており、その存在に気づくことなく享受できてしまう恐ろしいものだ。p183

この項では、選択的夫婦別姓が実現しない理由として、「この問題に関心を寄せる人が増えない」ことを挙げ、その大部分を構成しているのは「考えなくても済む」という特権を持っている俺たち男かもしれない、と結んでいますが、まさにその通りと思います。


また、この本で特徴的なのは、かつての自分へのダメ出しが繰り返されることです。
例えば、学生時代に女友達から受けた「バイト先の先輩にいきなり背後から抱きつかれ、怖い思いをした」という相談に対して、「なんで、ひとり暮らしの男の部屋に行ったりしたんだよ」と言ってしまったことについてセカンドレイプだったと振り返る部分。(p63)
ここでさらに突っ込んで、「なぜ私はあんなことを言ってしまったのか」にまで考えを進めるところが清田さんの特徴です。

心の内側を顕微鏡で覗いてみると、そこにはほの暗い感情の数々が見え隠れしていた。
実は私は彼女に秘かな思いを寄せていた。(略)
改めて考えてみると、そこにあったのは嫉妬、自己アピール、謎の被害者意識、ミソジニー女性嫌悪)にミサンドリー(男性嫌悪)など…直視するのがつらいものばかりだ。でも当時の自分にそのような自覚はなかったし、むしろ”彼女のために”、”よかれと思って”言ってるくらいの意識だった。p64

ほかにも、女子小学生向けの本で「男ウケするモテ技」が取り上げられいるという話(一時期Twitterで話題になった)について、「なぜ男たちはそういった女性を好むのか」(→自分はどうなのか)といった視点から分析していく視点(p92)も非常に面白く読みました。

性欲の「因数分解

「自分をさらけ出す」語りが、性差別だけでなく、性欲にも及ぶところが、この本のスリリングなところです。

このようなアプローチは、森岡正博の「私はなぜミニスカートに欲情するのか」*1で経験済みだったので、インパクトとしては、それには及びませんでしたが、やはりこういうアプローチの文章は少ないので、とても興味深く読みました。

誰かに対して「セックスしてみたい」という思いがわき起こったとする。で、はたしてそれは性欲なのだろうか。「いや性欲でしょ」と即答されたら返す言葉もないが、個人的には違和感がある。その時の気持ちをより細かく見てみると、そこには

  • 身体に触れたい
  • 受け入れてもらいたい
  • 許されたい
  • さみしい気持ちをどうにかしたい
  • 射精したい
  • エロい気分になりたい
  • 相手を思い通りにしたい
  • 相手の思い通りにされたい
  • 今まで見たことのない顔を見てみたい
  • 相手と一体になりたい

…などなど、様々な感情や欲望が入り混じっているような気がしてならない。それらは性欲のひと言で片づけられるものなのだろうか。
どれも切実な気持ちではあると思う。「受け入れてもらいたい」という思いも「射精したい」という気持ちも、手触りのある欲求として想起できる。ただ、これらの中には「セックス」という手段を取らなくても満たせるようなものも結構あるのではないか、と感じている。p190

ここで、清田さんは、例として自身が30代になってから身についた「お茶をする」という習慣について挙げていますが、分析→行動→習慣が有機的に回っているところがすごいな、と感心してしまいます。
「コミュニケーション・オーガズム」という言葉も、言い得て妙だと思います。

そこ(お茶をすること)には刺激も興奮も安心感もあるし、それによってさみしさは埋まり、他者から認められたいという気持ちも満たされる。桃山商事ではこれを「コミュニケーション・オーガズム」と呼んでいるのだが、お茶しながらのおしゃべりでこんな気分になれるなんて、わりとすごいことではないだろうか。

なお、こういった「性欲」の「因数分解」については、自分も意識的に行なったことがあります。清田さんの分析の中には「相手を思い通りにしたい」「相手の思い通りにされたい」という言葉に押し込められていますが、自分の思う「性欲」の中に「暴力的な要素」が確かにあることに気がつき戸惑った覚えがあります。
また、清田さんと同様、自分も男子校出身者で、大学も女子の少ない理系学部であったことから、女性とのコミュニケーションが少なければ少ないほど(もちろん若ければ若いほど)、「因数分解」が雑になる(自分の気持ちを間違った方向に昇華してしまう)ことが実感としてあります。
これに加えて、男性向けのエロメディア(ビデオや漫画、ゲーム)は、(昔から)暴力成分が過多で、明らかな犯罪行為もエロとして消費されています。さらにネット時代では、以前よりも容易に大量にアクセスが可能であることが問題だと感じています。
これらのことから、女性とのコミュニケーションが少なく 「因数分解」が雑 で、大量のエロメディアに慣らされた男性の中から、性欲のために犯罪行為に走る人が出ると考えるのは自然だと考えています。また、こういった商品が大手を振って消費されていること自体にハラスメントを感じる人(男女問わず)がいるのは当然です。
自分は、この本の中で取り上げられるコンビニエロ本問題や『宇崎ちゃん』の献血ポスターの問題は地続きと考えていて、基本的には「もっと規制すべし」との考えです。(個別案件については色々と考える要素があると思います)

これからのコミュニケーション

本を読み進めると、清田さんの「自分をさらけ出す」語りは、文章よりもコミュニケーションの中でこそ大切にされていることが分かります。
清田さんが桃山商事というユニットで行っている恋愛相談の活動は、以前は相談者を「元気づける」ことに主眼がおかれていました(p48)が、数々の失敗を経て、今は、相談者の話を「読解」するように聞いていくというスタイルを取っている(p47)と言います。
そして、相手の話を聞くためには「自分をさらけ出す」ことが重要で、この本の中で頻出するキーワード「being」とも絡めて次のように語られています。

(『セールスマンの死』でくり返し出てくる「what I am」という言葉について)
ここで言う「what I am」とは、直訳すれば「私であるところのもの」となるが、意味するものは非常に広く、その時の感情や思考、置かれている状況やそれまで生きてきた歴史など、その人に関わるものすべてを含む「ここにいる自分(being)」を指す言葉だ。(略)
誰かの話を聞く時は可能な限り相手の「what I am」に想像を馳せ、またこちらも「what I am」として対峙する必要があると考えている。その中には矛盾する要素が平気で共存していたりするし、拠って立つ基準も刻々と変化していったりする。(略)
話を聞く際は生身の自分をそこに置き、目の前にいる相手から発せられる言葉や非言語のメッセージになるべく繊細に反応し、そこで感じたことを素直に言語化していくしかないというのが今のところの私の考えだ。p234

また、清田さんは、平田オリザの言葉を引用し、同質性を背景とした「言わずもがな」の「ハイコンテクスト」なコミュニケーションではなく「ローコンテクスト」なコミュニケーションの重要性を説きます。

今や同じ日本人であっても価値観やライフコースは多様なわけで、同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らない。ゆえに、これからは説明を省略する入コンテクストなやり取りではなく、一つひとつ言葉を尽くして合意を形成していくローコンテクストなコミュニケーションが必要になってくるだろうと平田さんは述べている。多文化が共生する欧米では、こういったコミュニケーションスタイルが基本だ。p135
(略)
ローコンテクストなコミュニケーションとはエンプティ*2を言葉で埋めていく作業であり、言動の意図や責任の所在が明らかになるため、ギスギスしてしまう危険性も孕んでいる。しかし、ばらばらな個人がばらばらなまま存在できる多様な社会を作っていくためにも、私たちは摩擦や野暮さに耐えながらローコンテクストなコミュニケーションにシフトしていくべきだと私は考えている。


実際、今の自分のいる職場では、外国人の同僚(日本語は堪能)が複数おり、自分のときには無かった育児休暇などの制度の充実も図られてきて、働き方が多様化してきています。
ときに自分をさらけ出しながら相手の言葉を引き出しつつ、「摩擦や野暮さに耐えながら」でも、ローコンテクストなコミュニケーションを図っていくことが重要なんだろうな、と強く実感しながら読みました。(10年前に読んでもピンと来なかったかもしれない部分だろうと思います)

また、プライベートな会話の中でも、自分はとにかく「自分の話」をすることに苦手意識があり、趣味の話で盛り上がるのが好きなのは、「自分の話」をしなくて済むからという側面は確実にあります。
今回、清田さんの本を読んで、コミュニケーションが上手く行った快感には、「適度に自己開示できた」という要素が欠かせないということを、自己の経験からも改めて感じました。


この本のタイトルの「さよなら」は、本来「さようであるならば」ということで、「前に述べられた言葉を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」言葉*3だと言います。

自分と向き合い、他者と向き合うためにも、まずは「私」という個人になる必要があるだろう。もう集合名詞に埋没したままではいられない。ばらばらな個人としてみんなと一緒に生きていくためにも、私は「俺たち」にさよならしてみたいと思う。p16

相変わらず、会話への苦手意識はあるわけですが、自分の言動で誰かを傷つけないためにも、集合名詞に逃げず、常に「私」に目を向け「他者」との対話を進めていくような日々の努力を続けていきたいと思います。
もちろん、清田隆之さんの文章を読むことで「頑張っている同志がいる」と自分を奮い立たせることができるでしょう。読んでいない著作が何冊もあるので、時間をおいて、それらも読んでいきたいです。

おしゃべりや読書によって言葉を仕入れ、感情を言語化していく。それを続けていくことでしか想像力や共感力は育っていかない。ハラスメントをしてしまう「気づかない男たち」に必要なのは、そういう極めて地味で地道なプロセスを延々くり返しでいくことではないだろうか。p61

気になるコンテンツ

本の中で紹介されたコンテンツのうち、未摂取で気になるものを挙げます。
ほとんどが、これまでも「読む本リスト」に挙がっていた本なので、最後の一押しになるんじゃないかと思います。
なお、本書における大根仁監督作品への言及や、ぺこぱのネタへの言及は、内容の直接的説明が多く、未摂取者にはなかなか厳しい内容でした。

愛という名の支配 (新潮文庫)

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男がつらいよ

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リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

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M-1グランプリ2019

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恋の渦

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神のちから (愛蔵版コミックス)

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参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→自分にとっても非常に大きな一冊だったこともあり、かなり熱のこもった文章です。清田さんの本でも書かれている通り、これほど「怒り」に満ちた小説も珍しいのではないでしょうか。

pocari.hatenablog.com
森岡正博さんもまた、自己と切り離した分析をしない「さらけ出す」文章を書く人です。フェミニズムの定義的説明(命題内容)の裏に隠されている「フェミニズムの残り半分の主張」についての引用には心を打たれます。

pocari.hatenablog.com
→女性が語るフェミニズムは、時に、自分にとっては「辛過ぎる」ものがあります。田房永子さんの著作以外では、やはりこれが強烈でした。こう3冊並べてみると、2年前(2019年)の4~5月は集中的に、フェミニズム関係の本を読んでいるようで、何があったんだろうか?と思ってしまう。

*1:森岡正博『感じない男』

*2:原研哉『日本のデザイン』からの引用。日本のデザインで大切にされてきた「余白」の部分。

*3:竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』からの引用