Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

太田雄貴「校長先生」発言は笑えない~小沢牧子・長谷川孝『「心のノート」を読み解く』

この本は、2002年に文科省が全国の小中学校に「心のノート」を配布したことに対して、その問題点を、小沢牧子さん(1937生まれ)、長谷川孝さん(1941生まれ)、北村小夜さん(1925生まれ)の3名が文章を寄せて、さらに小沢牧子さん、長谷川孝さんを含む4名の対談をまとめたブックレット(2003)。年齢層は高いが、だからこそ、「教育勅語」との比較が実感を持って語られており、読みごたえがある。
なお、この本を知ったのは、これまで何度も取り上げた『人をつなぐ対話の技術』という本で取り上げられていたからなのだが、実際に読んでみようと思った理由は、編著として名前を連ねている小沢牧子さんが小沢健二オザケン)の母親だからというミーハーな理由も大きい。

『対話の技術』にも書かれていたことだが、この本を読むと、改めて、日本社会が「個性尊重」重視の方向に向かっていることに「心のノート」に代表される「教育」が大きく関与しているということがよくわかる。若干、右寄り政策許すまじ、というイデオロギー的な部分は感じなくもないが、それを差し引いても教育行政の変化に対する問題は強く感じる。

「心のノート」は、通常の教科書作成の手続きを経ずに、2002年に突然現場に配られた特殊な存在であるということも初めて知ったが、それ以外に興味深かったポイントについて取り上げたい。

「社会科」への攻撃の歴史

小沢さんが強調するのは道徳の強調と社会科への攻撃はセットになって行われてきたという事実。
戦後の流れとして、それまでの「修身」「教育勅語」による忠君愛国教育に代わり、子どもたちのモラルを形成する教育を担ったのは社会科で、この中では「基本的人権の尊重」が大切とされた。
しかし、戦後10年を経たころ、社会科を問題視してきた政府は「道徳」の時間の特設を強行。
1987年の臨教審の答申は、社会科の解体・再編を行うもので、小学校社会科(1,2年)を理科と合わせて、道徳色を持った生活科に。また、高校の「現代社会」は必修科目から外す等。
そして2002年に「心のノート」、となる。
ただ、調べてみると続きがあり、2022年度以降の高校の履修科目から「現代社会」が廃止され「公共」が新設されるという。

www.mag2.com


記事を読むと、「公共」の学習内容では、現在の「現代社会」で扱っている「基本的人権の保障」や「平和主義」が削除されたという話も出てきており、あからさま。ただし、戦後の流れの一環として見ると、安倍政権があからさま過ぎたというのはあるにしても、戦後の自民党政治はずっと同じ方向を向いていたことがわかる。

心理主義とカウンセリング

小沢さんが、道徳の強調と社会科への攻撃と合わせて問題視するのは、学校への「心理主義」の導入である。

心理主義は「わたし=個」を強調し、個の内面に目を向けさせる役割を果たす。「社会科=わたしたち」から「個人科=わたし」への移行、仲間との関係から個の内面への転換は、この側面からも起こり、両者(社会科への攻撃+心理主義の導入)は合体して『心のノート』の出現へと至っているのである。

小沢さんらの、この「心理主義」への抵抗は強く、さらにはカウンセリングや心理学のみならず、学校へのカウンセラー導入についても慎重な立場をとっていたようだ。
ただ、以下を読むと納得できるところがあるし、実際、自分の周囲でも学校カウンセラーの存在によって事態がプラスの方向に向かった話はあまり聞かない。

不登校や「いじめ」「学級崩壊」などの形で起こってくる「問題」が、子どもの「心」に起因するものであると見て、その内面や親の接し方に収斂させられていくとすれば、それらの相談は、時代や社会のなかで生きていく子どもの悩みや苦闘を矮小化する結果をもたらすことになる。p53

また、カウンセリング自体に対する嫌悪感は『心のノート』に対する以下の文章からも伺える。

心理学者も関与しているし、カウンセリングのメカニズムと似ていますね。自分で語らせる。でも、その答えは自由じゃない、求められている答えがあるんです。それを推測して、自分の言葉で答えに到達するわけです。それが自分自身になるわけです。その方法がうまく使われていて、怖いと感じます。p76

こういった理由からカウンセリングに対してはとにかく批判的で、『心のノート』編集委員の座長でもあった河合隼雄に対しても良い思いを持っていないようだ。河合隼雄は、高校時代に著作を読んで感動した思い出があり、全く悪い印象を抱いたことがなかったので意外だが、確かに片棒を担いだことは確かなんだろう。
カウンセリングという行為自体についてまで疑問視するような書きぶりは気になるが、学校教育の現場に合わない、ということはわかった。学校カウンセラーに関する本は読んでみたい。

「修身」と同じところ違うところ

最高齢の北村小夜さんは、『心のノート』を見て、肇国(ちゅうこく)と忠義がないだけで「修身」と同じだ、と感じたという。教師用に配られた『心のノート活用のために』という手引書に書かれている内容を読むと納得感はある。

それは子どもの権利条約や多文化共生の視点を欠いた次の4つの視点で分類されている。
1.自分にかかわることで、自分をどう律するか
2.他人とのかかわりで、社会生活のルールがある
3.自然や崇高なものとのかかわりで、畏敬の念をもつことである
4.社会とのかかわりで、家族、学校、郷土、国を愛し、世界のなかの日本人という自覚をもつことである
これが学年に応じる形で繰り返されるわけであるが、到達するのが中学最後の「国を愛し、その発展を願う」である。
もう「修身」が全面復活したというべきであろう。p28

ただし「修身」との違いも感じている。
上述の第2の視点に対する小学校中学年用の一項目「あやまちを『たから』としよう」については、自身の使用した小学校1年の「修身」の教科書の「アヤマチヲカクスナ」にそっくりだとしながら、その違いを次のように書く。

修身があくまで説諭的であるのに対して『心のノート』は、なぜそうなったのかを自己点検させ、どうしたらよいか、解決策を考えさせることになっているが、決して自由に考えさせるわけではない。用意されている解決策の中から選ぶのである。これが手引書にいう「一人一人の子どもが道徳的価値を自ら求め、自覚していく」ための手法である。p30

この話は、小沢さんのいうカウンセリングの技法への批判と同じで、『心のノート』はより巧みな仕掛けになっているというのだ。
なお、第3の視点、第4の視点についても「特定の感動を強制する、畏敬の念」と整理されているが、まさに安倍さんの「美しい日本」のことだろう。このあたりに対しては、子どもたちは敏感だから騙されないだろうと感じたが、先日のフジロックの出来事(後述)を考えると、意図通りに教育されてしまった人もたくさんいるのかもしれない。

「心で自分を」コントロールか、「心を自分で」か

『心のノート』が目指す人物像は、長谷川孝さんの以下の解説でよくわかる。

心イコール道徳の考えは、りっぱな心を修めて、その心で自分をコントロールしましょう、という発想になる。「心で自分を」コントロールするわけだ。その心に外側から正しい基準、あるべき価値を注ぎ込むのが「心の教育」となる。道徳主義、倫理主義である。
(略)
個人の尊厳を基本とする憲法・教基法の精神・理念に即して考えれば、「自分が自分で自分の心をコントロールする」となる。「心を自分で」ということである。「自己」はコントロールする主体であって、コントロールされる客体ではないのだ。また、憲法・教基法は、情緒よりも論理、考えることを大事にする。これも『ノート』とは逆になる。もちろん、情緒や感性、感受性は大切にしなければならないが、価値判断の基本は自分で考える論理的な主体性だということなのだ。

ここでも示されているように、「心の教育」は「考えさせない」のがポイントで、小沢さんは『心のノート』には「考える」という言葉が実に少なく、「感じる」という言葉ばかり出てくると書いている。

長谷川さんは対談の中でも、さらに厳しい言葉を連ねている。

自分のことを自分でコントロールできるというのは、大事なことですよね、本当は。一方ではそう書いていながら、もう一方別のスタンダードがあって、本当に自分で自分をコントロールしている人は、あいつは自分勝手だ、自己主張が強い、「自己中」だと言って非難される。実は、こうしなさい、ああしなさい、と上から下りてくる、それに従うことが正しいわけです。つまり上の者に従って自分を律しているというのが、ここで書かれている「自分で自分をコントロールする」という意味です。子どもたちはますます上の者に従う、強い者に従う、多数意見に従う。その多数意見も、学校のお墨付きの賛成意見に従わなければいけない。p70

このあたりは、まさに以前も書いた今井絵理子(元SPEED)の「批判なき政治」につながる内容で、さもありなんと思うが、これを読んで即座に思い出したのは、東京五輪開会式での元フェンシング日本代表の太田雄貴の発言。

この発言は、五輪開会式でのバッハ会長のスピーチが長いことに対する揶揄であり、皮肉だと捉えるとユーモアのある発言ではあるが、自分は「笑えない皮肉」だと思いゾッとした。

校長先生の話だからと無批判に聞き入れてしまうのが、いわゆる「体育会系」の一番悪いところであり、他国から見て異質かもしれない日本の悪いところだろう。
さらに、森会長を批判しないまま、組織委員会の会長として後を継いだ橋本聖子山下泰裕JOC会長ら、元一流スポーツ選手に、その一番悪いところが出ている。個人的には、太田雄貴も(親しみやすいキャラクターではあるが)まさにその直系という印象だ。
だからあの発言は、たとえ皮肉だったとしても、全然笑えない。


2003年に危機感を持って書かれた内容が、2016年出版の『人をつなぐ対話の技術』にも引き継がれているということは、(2009年に改訂はあったようだが)こういった問題点を抱えた教育がすでに20年近く行われていることを意味する。フジロックMISIAが「君が代」を歌ったことを素直に賞賛する人も多かったようだが、みんな「校長先生に鍛えられた」んだろうなと思ってしまう。

とはいえ、自分自身も「基本的人権」についての教育を受けた覚えがないのは以前に書いた通りだ。
また、本が出版された2003年の頃は教育基本法改正論議が盛んに行われていた時期で、本の中にも教基法の理念だとか教基法に反しているという言葉がたくさん出てくる。実際、2006年に教育基本法は改「正」されてしまったわけだが、このあたりの流れも全く覚えていないので、こういった点ももう少し勉強していきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

人類の起源に挑むバイオレンス・アクション~佐藤究『Ank』

最近、上野動物園のパンダに関するニュースがあった。

野動物園(東京都台東区)は19日、雌のジャイアントパンダ「シャンシャン」(4歳)が展示室のアクリル板を壊したと公式ツイッターで明らかにした。影響で一般公開が約40分間中断した。シャンシャンにけがはなかった。
〔写真特集〕上野動物園のパンダ

園によると、同日午後1時前、展示室の窓の格子に取り付けているアクリル板をシャンシャンが割ったと、警備員から飼育員に連絡があった。確認すると、高さ約1メートル、幅約50センチのアクリル板の端がB5判大に欠けていた。園は破片を回収。シャンシャンの口内に出血など異常はなかった。
壊した理由について、担当者は「いたずら中に力がかかってしまったのではないか」と話している。
シャンシャン、アクリル板壊す 上野のパンダ、公開一時中断:時事ドットコム

こんな動物ニュースに見られるちょっとした「綻び」が後に怒る大惨事のきっかけだと、当時の自分は思いもよらなかったのだった…。
佐藤究『Ank』は、こんな作り話を妄想してしまうような、妙に現実味のあるSFだった。

2026年、京都で大暴動が起きる。「京都暴動=キョート・ライオット」だ。人々は自分の目の前にいる人間を殺し合い、未曽有の大惨劇が繰り広げられた。事件の発端になったのは、「鏡=アンク」という名のたった1頭のチンパンジーだった。霊長類研究施設に勤める研究者・鈴木望は、世界に広がらんとする災厄にたった1人で立ち向かった……。

文庫ながら600頁超という厚さも気にならないほど、次を次をと先を急いであっという間に読み終えた、いわゆる徹夜本。

冒頭から、2026年10月26日に起きた京都暴動(ライオット)の惨状の一端が明かされる。
それと並行して、京都暴動数日前のインタビューの形で、人の進化と類人猿の知能について説明がある。

  • 猿(MONKEY)と類人猿(APE)は異なる生き物
  • 生命進化の系統樹の頂点である人類に最も近いのが類人猿
  • 他の霊長類を圧倒する知能を持った大型類人猿は4種。チンパンジーボノボ、ゴリラ、オランウータン。

しかも、ウイルスが原因でないことまで最初から明らかにされており、読者は、京都暴動がどのように起きたのか、だけでなく、そしてその原因として、進化の過程に何かがあるという、サイエンスへの好奇心が膨らんでいくように誘導される。
最初から、自分は『星を継ぐもの』級を期待していた。*1

さらには主要登場人物である霊長類研究者・鈴木望サイエンスライター・ケイティの過去のエピソードも印象的で最初の200頁くらいは本当にあっという間だ。
特にケイティのエピソードが面白い。20歳の頃ドラッグに依存し、依存者のケアセンターにいる時に、70代のカウンセラー見習いと電話で話をすることになる。カウンセラーのルイは教養もあり会話は楽しく、人生の深い部分の相談にも答えてもらい満足して電話を終えたケイティは衝撃の事実を知ることになる。
ルイはカウンセリング用のAIだったのだ。
このAIを作ったダニエル・キュイこそ、物語の冒頭でお披露目*2され、鈴木望がセンター長を務める京都府亀山の研究施設KMWP(Kyoto Moonwatchers Project)の出資者。
京都大学の霊長類研究について、また、科学者今西錦司の名前は、作中でも言及があるが、自分もチンパンジー・アイちゃんの名前と記憶していたが、AIを用いた言語研究も含めて、このあたりの現実世界とのリンクが、小説のリアリティを高める。*3

さて、問題は残り300頁以上を残して、京都暴動が発生してしまうことだ。
しかも原因が警戒音(アラームコール)にあることも判明してしまった。
間延びするのではないか?

しかし、繰り返される阿鼻叫喚の「暴動」の状況は、西村寿行『滅びの笛』のような、アクション・バイオレンスものとして、映画を見るように読み進めていける。
また、後半に登場するパルクールの少年・シャガの活躍のおかげで、ラストのチンパンジー・アンクとの鴨川を背景にした追いかけっこは絵的にも素晴らしく、まったく飽きさせない。

そして終盤に近づけば近づくほど、ダメ押しのように次々と重ねられる自己鏡像認識やSiSat反復などDNAに関する解説。副題につけられたmirroring apeの意味。
すべての原因の推定については鈴木望がケイティにあてた録音の中に収められているのだが、最後になっても「暴走と制御」という重要な要素が現れる。
『QJKJQ』もそうだったが、過剰な暴力とその制御をどのように表現するか、というあたりに佐藤究の作品のメインテーマがあるのではないか。

恐れていた間延びは全くなく、600頁超をまったく飽きさせず読ませる。
解説で今野敏が「センス・オブ・ワンダー」という言葉でこの作品を称えているが、まさに第一級のSFと言ってもいいように思う。
チンパンジーの話は興味を惹かれる部分も多かったので、最後に参考文献として挙げられているものはいくつか読んでみたい。
そして『テスカトリポカ』も。

*1:人類の起源と最新知識との組み合わせという意味では山田正紀『ここから先は何もない』が近いか

*2:終わってみたら新施設のお披露目からカタストロフというのは、名探偵コナンの映画のいつものパターン。読みやすさの一つの理由かも…

*3:ところで、Wikipediaや霊長類研究所のHPを見ると、1976年生まれのアイちゃんは存命だとか。⇒チンパンジー・アイの紹介 | 京都大学霊長類研究所 - チンパンジーアイ

ぼくのかんがえたさいきょうの「竜そば」ラスト~細田守監督『竜とそばかすの姫』

今回ほど予習せずに見に行ったのも久しぶり。難しい話だったら困るからと、映画館の席に座ってから公式HPであらすじを確認したくらいだ。
というのも、「賛否両論」という評価をいくつか聞いていたので、見る前に「否」の部分を入れてしまいたくはないという意図があったのだ。
また、細田守監督の映画で観たことのあるのは『サマーウォーズ』『時をかける少女』『おおかみこどもの雨と雪』だけで細田作品にそこまで思い入れがないということもある。

ところが見始めると、冒頭のベルの歌に引き込まれ、リップシンクのアニメーションに感動する。絵も華やかで楽しい。
その後の現実のシーンでは、すずの自宅周辺そして仁淀川に架かる潜り橋などの美しい風景に目を奪われる。
ちゃんと面白い映画では?

ミュージシャンの中村佳穂が主人公を演じるのは知っていた。すずという陰キャの女子高生と、そのアバターで歌姫のベル。日常パート(すず)は少し不慣れな感じは受けながらも自然に作品に入りこめた。
そして歌の表現力に対しては底知れぬ印象を受けた。何より、歌えないすずが「竜」のために歌を作ろうとメロディを口ずさむシーンは、素晴らしすぎて鳥肌の立つ思いがした。(Amazonプライムミュージックで聴けるサウンドトラックでは「心のそばに(鈴)」というタイトルで収録されている。)

ところで、声優陣に、いわゆるプロの声優がほとんどいないことは驚き。
染谷将太が演じる男子高校生・カミシンは、かなりアニメ的なキャラクターなのに、細田作品では常連ということもあってか上手。
そして、すずをサポートするヒロちゃん。彼女こそ、いかにもアニメ的なキャラクターなのに、演じているのはYOASOBIのボーカル幾田りら。
今回のメインテーマを作曲している常田大希(millennium parade、King Gnu)、そして勿論、中村佳穂と合わせて、今回の映画は、これまであまり聴いてこなかった新しいミュージシャンの楽曲にチャレンジするいいきっかけをもらったように思う。



さあ、賛否の「賛」はこれくらいにして、以下は「否」に。

対話なしで成長する主人公

繰り返しの引用になるが、山口裕之さんは著書の中で、学生たちの中に「対話」を拒否する態度が蔓延していることを問題視し、その原因として「個性尊重」によって、注意が外部に向かわず内面だけに集中してしまっていることを挙げる。

問題は、現在、社会全体が「心」を重視する方向に進んでいるということである。大学入試や就職活動で「自己分析」が活用され、テレビをつけたら「もともと特別なオンリーワン」という歌詞が流れる。テレビアニメでは、あまりぱっとしない主人公が「強い思い」だけで勝利を収めるような話が放送されている。私が子どものころには、「根性」で練習を重ねて強くなる、という話が多かったように思うが、昨今のアニメでは、「思い」さえ強ければ、練習は不要のようである。そういう風潮もあってか、国会で異論に耳を傾けず、「強い思い」で強行採決を繰り返す首相を、「ブレない」とかいって称賛する人たちがいる。「思い」は強ければよいというわけではなく、「何を思うか」を反省することのほうが大切であろうに。
(山口裕之『人をつなぐ対話の技術』p173)

これを読んだとき、テレビアニメに関する指摘は言い過ぎだと思った。それは偏見だろうと。
しかし、『竜とそばかすの姫』を見てしまうと、図星…というか、仰る通りです、と土下座して謝りたくなってしまった。
まさに、主人公すずは、「U」の世界に入った途端に50億のユーザーから発見され、フォロワー数も激増する。普段は表に出せない内面を外に出す、他者との接触はなく、ただそれだけで。


さらに突っ込んで批判をするとすれば、すずには「対話」がない。(話すのは仲良しのヒロちゃんのみだが、彼女からも厳しく叱られたりはしない)
すずは父親とのコミュニケーションをほとんど断っているし、思いを寄せるしのぶくんにも自分の心は明かさない。*1クラスメイトのルカちゃんとも初めて話をしたくらいだ。
それどころか、仮想空間である「U」でもベル(すず)は「竜」以外とは話をしない。

そして肝心の「竜」は、正体不明者で、相手は心を閉ざしているので、事実上は、ベルからの一方通行の語りかけで「対話」にはなっていない。

これは、通常の物語の作法も外しているのではないだろうか。
普通は、誰かとの約束を無視して行動して失敗したり、直接喧嘩することで、相手がいかに自分を大切に思っているかに気が付く。ほんの1週間や1か月の出来事であっても、他者との接触(つまり「対話」)が成長につながる。

特にがっかりしたのは(すずを気にかけながら半ば放置の)父親だ。
新幹線で東京に向かう際にメールで「お母さんに育てられて、君は人を思いやれる優しい人間になった」みたいなことを書く。
いやいやいや、すずが6歳の時に母親は亡くなって、その後父娘2人での生活が10年あるのに、なぜ「お母さんに育てられ」になるのか?ちょっとよく理解ができないし、ほとんど話をしないのに「お前の気持ちはお父さんがよくわかっている」みたいな思い込みは、後半に出てくる、あの「父親」とどこが違うのだろうか。
しかも、ここに役所広司を使いますか?

しのぶくんも結局はそれと変わらない。クライマックスになって突然「ベルの正体は、すずでしょ」と言う。こちらも「話さなくてもお前のことは一番僕がわかってる」みたいな感じで、これこそが「キモい」のでは?
とはいえ、すずは、しのぶくんのことを好きなのだから、普通に考えれば、新幹線(高速バス?)に乗っていくのは、すず一人ではなくて、偶然でもかまわないから、しのぶくんが一緒に行くべきだったとも言える。(父親でも可)

無条件に肯定される主人公

単に才能のある主人公の話には抵抗がある。
でも、ちゃんと面白いものもある。例えば、先日、平手友梨奈主演の平手友梨奈のための映画『HIBIKI』を見たが、あれも才能が爆発している高校生小説家が主人公の映画だ。しかし、主人公の響には才能はあるが全く常識がない。そこが面白さの一つ目のポイント。
そして何より重要なのは、常識はないが主張(メッセージ)はあるということ。
彼女は、大勢の「わかっていない読者」に認められるよりも、「その本に救われた」というような読者が一人でもいることが大切と思うタイプ。「大人の対応」など許さず、気に入らない相手には暴力で対応し、多くの人から非難を受ける。
ただ、暴力を含めたコミュニケーションの中で、登場人物は成長するし、彼女の「まっすぐさ」が作品としてカタルシスを産む。

先ほどの「対話」の話とも共通するが、すず(ベル)は(主張はないが)誰からも非難されない。「竜」の正体である「恵(けい)」から拒絶されるシーンのみではないか。
それどころか相容れない相手からの暴力もない。
「自警団」のリーダー・ジャスティスは結局ベルに直接攻撃しない。そして、クライマックスでの、恵の父との対決のシーン。最初に顔を傷つけられるものの、その後はすずが一睨みすると、恵の父親は子犬のように尻尾を巻いて逃げ帰っていく。
さすがにここには言葉が必要だろうと思った。響は口数は少なく、すぐに暴力に訴えるが、ラストのクライマックスシーン(踏切のシーン)では語っている。

名前も知らない子を救うために自らの命を犠牲にした母親。
すずは、その子どもだから、直接知らない子どものために自ら高知の田舎から東京まで向かう…。
わからないでもないが、行動自体は勝算のない無鉄砲なものに映るし、恵(竜)の父親にはその辺は全く伝わらず、面倒くさい女子高生にしか見えないはず。
なのに、(実の父親やしのぶくんだけでなく)彼にさえ以心伝心で何かが伝わってしまうのは、テレパシー能力なのでは?


そして、自分が一番「無条件に肯定される主人公」は嫌だなと思ったのは、恵(竜)が心を開くきっかけになった「歌」のシーン。
ここで、アバターが解かれてベルの正体が明らかになる。まさにシンデレラの魔法が解ける状態になっても、聴衆は彼女を受け入れる。それどころか涙を流し、心の明かりが輝き始める。
自分は「歌は世界を救う」みたいなTVの特番は好きではないし、五輪の開会式にはとりあえず「イマジン」歌っとけ、みたいなものは大嫌いだ。(このあたりは響だったら暴力が発動してしまう場面だ)
ここはそうではないでしょう。正体が美女とはかけ離れた容姿であることに皆が怒って「金返せ!」みたいに非難囂々になっても、「竜」だけにはその思いが届いている、ということにしないと、ベル(すず)は何もリスクを冒していないことになり、感動も薄れてしまう。

共感できないネット観①協力と分断

そもそも、舞台となっている仮想空間世界が『サマーウォーズ』のときとあまり変わっていないのは何故なのだろう。
多数の人がアバターを作って現実世界と同様に暮らしている世界というのは「セカンドライフ」的で、「サマーウォーズ」の2009年の時には、もてはやされたのかもしれないが、今もこういうのは流行っているのだろうか。
web2.0なんていう言葉が2000年代中盤に流行し、ネット社会に希望を抱いていた『サマーウォーズ』の時代とは様変わりし、今の自分には、ネット空間は、フェイクニュースや誹謗中傷で社会の「分断」を促す悪い面ばかりが目についてしまう。
したがって、今の時代に2009年と変わらない牧歌的なネット観が出てしまっているのは自分にとっては気持ちが悪い。
サマーウォーズ』のときは、ネット空間の直接会ったこともない老若男女が協力して問題を解決する、という「新しい希望」がまだあった。(2004年の『電車男』等も同じ構造)
今なら「協力」ではなく「分断」をどう描くかがポイントだと思うのだが、ベルが「U」の50億ユーザーの大部分から支持を受けるという設定だけで非現実的で「分断」とは程遠い。そもそもベルが日本語の歌を歌うことを考えると、日本人のみが利用する仮想空間とした上で、歌ジャンル限定の仮想空間とする等、範囲を狭めた設定にしないと、現代のタコツボ的ネット社会と符合しない。
『竜とそばかすの姫』の「U」で描かれるネット空間は、全国民が知っているヒット曲を紅白歌合戦で見ていた昭和的世界観だと思うし、コーラスグループの仲良し5人組が仮想空間でも一緒にいるのを見ると、なんて不自由な社会という印象しか抱けない。

共感できないネット観②匿名と実名

先ほどの話もそうだが、自分にとってネットはTwitterを中心としたSNSであることから、Twitterを前提として「U」の空間を考える。
その観点から見た場合、実名にこだわりすぎる「U」の状況がよくわからない。

ベルが人気者になり、皆が「あれは誰?」と気にする。一時的にはあり得るだろう。
竜が皆から嫌われて、「あれは誰?」と話題になる。さらに、その正体を暴こうとして、有名芸術家やプロ野球選手に疑いの目が向けられる等、報道が過熱していく。あり得るだろうか?

そもそも、「竜」がここまで不人気になる理由が理解しにくい。格闘スポーツ?の世界で一悶着起こしたようだが、それであればアカウントがBANされてそこで終わりだろう。実際に死者が出たり、実生活に支障をきたす人が多数出るのならわかるが、一般ユーザーに害が及ばないルール破りには、多くの人が関心を持つことすらないだろう。
それに対して実名を暴こうとする理由がわからない。

また、自警団のリーダーであるジャスティンが、ビーム砲を当てて正体を暴く武器「アンヴェイル」を使って脅す。あり得るだろうか?
TwitterInstagramがそうであるように「U」の世界でも実名と紐づいている人はたくさんいるようだ。アンヴェイルが効果を持つのは特定の人だけだろう。
ましてや、ジャスティンのアバターも非人間的(手塚治虫石ノ森章太郎の悪役キャラクター風)で、姿はオリジナルと紐づいていないようだ。そんな彼がアンヴェイルという武器を持っていること自体が説得力に欠けるし、スポンサーが多数つく状況も不明だ。
また、自警団は、悪と認定したターゲットを集団で叩くという今のネットの問題点を視覚的に表現しているのだろう。しかし、それを白い制服の集団として描いているのは明らかにイメージとずれている。さっきまで猫を可愛がっていた「普通の人たち」が次から次へとターゲットを変えながら「悪」を叩くのが今の現代ネット社会の怖いところであって、そこには白い制服の自警団はいない。
物語の中での描かれ方も、ジャスティンは、雑な典型的「悪役」として描かれており、主要キャラなのに、実名暴きに偏執的な情熱を燃やす狂った人にしか見えない。

共感できないネット観③アバター問題

物語の重要な鍵となる「U」の特徴は、各個人のアバターを「U」側が自動的に決定することだと言える。劇中では、当人の願望や深層心理、潜在能力を読み取ってAIが自動判定するというような説明があった。
そもそもこのようなサービスはアウトではないか。思想や心理をもとに外見を決めるような怖いことは、宗教ともかかわってくるし、特に世界に開かれたアプリであれば受け入れられるはずがない。
宗教など難しいことを考えなくても、自動判定のアバターが納得行かない人もいるだろうし、不快な外見をチェンジすることがもし可能だとしても、不快な外見の根拠が自分の中にあると言われたら良い気持ちはしない。
いやいや、「皆がなりたい外見になって満足する」、そういうサービスだという設定なのかもしれない。だとしたら、自警団の人たちの同じ制服、同じ仮面の外見は何なのだろうか。
また、多々あるアバターの中でひときわ目立つ外見の竜とそばかすの姫(ベル)。他のアバターとの差は明らかで、今のスマホゲームなどの感覚で言えば、「課金」しないとあの違いは出ない。
そもそも一般ユーザーなら到底持つことを許されないだろう「竜の城」。そして城を守る守護AI。あれも「課金」ではないのか?父親のクレジットカードを使って月に何十万も課金して、父親が憤慨しているのでは?とさえ思ってしまう。

踏み台にされる「ネット」と「虐待」

細かいことを抜きにすれば、物語は、主人公のすずが、ネット社会での経験を通じて、自分の内面を外に出せるようになって、周囲との関係が改善した、という話であり、「いい話」という見方も出来なくはない。
ただし、作品のテーマとなっているように見える「ネット」と「虐待」は、すずの「成長」の踏み台として利用されているようにしか見えないのは問題だ。つまり、この映画の経験を通して、すずは「ネット」と「虐待」を卒業して、新しい自分に生まれ変わったと見えてしまう。

そもそも今回のクライマックスでは『サマーウォーズ』的展開を避けたように見える。恵(竜)の居場所を突き止めるのにネットの集合知は利用せず、その場にいる人だけで解決し、さらには現場に直接駆け付けることを最重要視する。

「U」は全世界で50億ユーザーが利用していることを考えると、すずが「50億から一人を探し出すなんて無理」と言っていたように、「直接会う」のはハードルが高く、設定と展開が矛盾している。
「直接会う」ことがどうしても必要で、その高いハードルを乗り越えるためにネットの集合知を使うという展開なら理解できる。

ましてや今回は世界が舞台。「カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき、メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている」という谷川俊太郎『朝のリレー』の若者たちが直接つながることが出来るネット空間の良さはどこに行ってしまったのか。
この作品では、ネット世界の住人たちは、ベル(すず)が人気者になるというそれだけのために使われていて、物語の問題解決には参加できない。50億のユーザーに意思はなく、背景に過ぎない。


「虐待」の件については多くは書かない。
女子高生が現地に行くことでは何も解決しない。
ましてや、継続的な関わり合いの可能性が描かれず、それが女子高生の成長の踏み台にされてしまう状況は、不快に思う人の方が多いのではないか。

「ネット」と「虐待」を踏み台にしないラスト改変

そもそも「U」の設定にダメ出しをしているのだから、簡単に納得できる物語には代えられないのだが、ラストだけ変えていいとすれば、例えば自分ならこうする。

  • しのぶくんとともに高知から東京都大田区まで駆け付けたすず。でもどうしても家は見つからない。カミシンの見立てはどうも間違いだったらしい。
  • そんなとき、恵が虐待を受けるシーンをネットで偶然ネットで見ていたベルのファン(ブラジル)が、この家は日本ではなく、ニューヨークにある、と場所を特定する。(夕焼け小焼けの音楽はラジオだった…)
  • 素顔をさらしたベルの勇気に感動した多数のファンに語り掛けると、その中にニューヨークに在住で弁護士として活動している日本人女性がいることがわかる。
  • 実は、すずの母親が助けたのは彼女だった。(ちょっと年齢が合わない気もするが)
  • そして彼女は、「U」の世界でもベル(すず)のことを窮地で救っていた人物であることがわかり、すずのわだかまりも解け、日本とニューヨークでの協力作業で、二人の子どもは今後の居場所を確保できることになり、継続的なサポートを約束する。
  • すべてが終わったあと、すずは、人の命を救うことのできる職業を目指して頑張ることになる。(それが父親の職業だったり…)


ちょっと書き残した点を一点。
最初にすずがバスに乗って通学する場面で、運転手席の背後に、「この路線は9月から廃線」みたいなことが書いてあった。そうなると、すずは学校に通えなくなってしまうわけで、この重大事態が作品内で解決されないのはモヤモヤが募る。実際にロケハンした場所がそういう状態なのであれば、通学に使用している学生はどうするのかということを、やはり画面の隅の掲示板にでも示してほしかった。
過疎が進む土地ですよ、ということを示したいだけのサインなら、作中の登場人物どころか実際の土地への思いやりに欠ける設定であるように感じ、作品への不快感がさらに強まってしまう。
このあたりは小説版を読むと解消するのかもしれない。


今回は宇多丸評も耳に入れることなくここまで書いてきたが、基本的には「褒め」に重点を置いた映画評を行うアトロクの映画評。この作品をストーリーの面でどう褒めるのか、自分には想像がつかない。

参考

今回を含めて3度のエントリのベースとなった山口裕之『人をつなぐ対話の技術』は、自分にとって大きな意味を持った本でした。
多くの人に読んでもらいたい本です。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:驚いたことに、これはラストまで!

「論破」と「人権」~DaiGo氏の差別発言について

メンタリストDaiGoが自身のYouTubeチャンネルでホームレスや生活保護受給者を差別する発言をして問題となりました。
先日の小山田圭吾の騒動で勉強になったのは、関連団体の抗議文を読むことが自分にとって頭の整理になるということでした。その分野の専門家が問題を指摘するので、素人意見と比べて重みが違うのは当然のことです。
今回、問題となっているメンタリストDaiGoの発言に対しては「生活保護問題対策全国会議」「一般社団法人つくろい東京ファンド」「新型コロナ災害緊急アクション」「一般社団法人反貧困ネットワーク」という生活困窮者支援団体4団体が連名で緊急声明を発表しています。

tsukuroi.tokyo

「論破」とカードゲーム

発言内容については、声明文の中で触れられているので割愛しますが、その問題点に進む前にまず気になったのは、DaiGoの弟で謎解き関連でも有名な松丸くん(松丸亮吾*1)のツイート。
Twitterでの謝罪とDaiGoへの働きかけは良かったですが、「今度会ったら絶対に論破するまで怒り続けます。今回ばかりは兄がおかしい。ごめんね。」という部分。
Twitter文体で、かつ、あくまでフォロワー向けの言葉なので「ごめんね」は良いとしても「論破」という言葉が気になりました。
このあと松丸くんは実際に、「感情・倫理観で話しても絶対伝わらない相手だと思ったから、ひたすらに否定の余地がない事実ベースでどこが間違ってるか、いかに勉強不足で無知な発言をしたかを兄に超長文で送りつけて話したわけだけど」と明かした上で、「今日の謝罪動画の喋り出しが『勉強不足でした』だったからちょっとは効いたんだろうか……」としています。*2


松丸くんは善意でやっているので彼を責めるわけではないですが、DaiGoが一度目の謝罪をするまでのこの流れは、とても気持ちが悪いと思いました。
昨日書いた「対話」との関連で言えば、松丸くんの「論破」にも、DaiGoの「反省」にも、二人の間にあるべき「対話」が感じられないと思ったのです。
特にDaigoの謝罪は、

  • どこかに正解があり、それに対して「無知」だったから俺は間違えた、奥田知志さんから「知識」を得ることによって俺はもっと強くなる!

と言っているようにさえ聞こえました。そこから考えると、松丸くんの「論破」もやっぱり、ポケモンのカード(という喩えが適切かわかりませんが)でいえば、このポケモンとこのポケモンがないと上手くやっていけないので、僕の持っているこのカードをあげるよ、という「知識」カードのやり取りのようにも感じてしまいます。
したがって、ここで使われる「論破」は、相手に勝てる「ロジック」と「知識」をどのくらい持っているかというカードゲームに近いのかという感想を持ちました。そこには「対話」も「思考」も重視されず、どちらが「正解」に近いか、だけを競い合っているようにも見えてしまいます。実際、彼らは二人とも頭が良いので世界がそのように見えているのかもしれません。
なお、この件について松丸くんは何も悪いことをしているわけではないので全く責める気はないし、実際おそらくもっと色々なことを考えているのだろうと思います。

緊急声明と「人権」

さて緊急声明に戻りますが、声明では発言の問題点として(明確に分けられているわけではありませんが)以下を挙げています。

  • 人の命に優劣をつけ、価値のない命は抹殺してもかまわない、という「優生思想」そのものであること
  • 差別を煽動する明確な意図があること
  • 生活保護に対する市民の忌避感をより一層強め、命をつなぐ制度から人々を遠ざけ、生活困窮者を間接的に死に追いやる効果を持つこと

さらには、一度目の謝罪に対してもDaiGoの文章を引用し以下のように非難しています。

なお、批判を受けて、DaiGo氏は8月13日夜、今回の発言を「謝罪」する動画を配信しました。長年ホームレス支援をしているNPO抱樸の奥田知志氏と連絡をとり、近々、現地に赴いて支援者や当事者から話を聞いて学びたいとしつつも、しばしば笑顔を見せながら、「ホームレスの人とか生活保護を受けている人は働きたくても働けない人がいて、今は働けないけど、これから頑張って働くために、一生懸命、社会復帰を目指して生活保護受けながら頑張っている人、支援する人がいる。僕が猫を保護しているのとまったく同じ感覚で、助けたいと思っている人、そこから抜け出したいと思っている人に対して、さすがにあの言い方はちょっとよくなかった。差別的であるし、ちょっとこれは反省だなということで、今日はそれを謝罪させていただきます。大変申し訳ございませんでした」と謝罪の言葉を述べたのです。
ここで示された考え方は、他者を評価する基準を「頑張っている」(と自分から見える)かどうかに変えただけであり、他者の生きる権利について自分が判定できると考える傲岸さは変わりません。しかも、貧困や生活困難を社会全体で支え、生存権を保障するために、権利としての生活保護制度があることについて、根本的な理解を欠いていることに変わりがありません。少なくとも現時点においては、DaiGo氏が、自らの発言の問題点を真に自覚していると評価することはできず、その反省と謝罪は単なるポーズの域を出ていないと言わざるを得ません。

その後の「私たちの提案」の中でも「すべての人の命は等しく尊重されるべきであるという近代社会の前提を棄損する発言を私たちは絶対に許してはなりません。」としています。
声明の中でも特に重視されている「人権」については、自分はこれまであまり興味がありませんでした。「人権=必要なもの」ということを頭で理解しているだけで、実際、今でもわかっていません。

それでも、最近、フランス革命(というか『ベルサイユのばら』)をきっかけに「人権」そのものに興味を持ってから、近代の歴史も少しずつ勉強をして理解を深めているところです。先日の『人をつなぐ対話の技術』では、民主主義の思想と歴史について多くページを割かれており、基本的人権についても非常に勉強になりましたが、やはり同時期に読んだ平野啓一郎さんの意見(『悲しみとともにどう生きるか』)が非常に参考になりました。

日本は人権というものに対する教育に失敗していると思います。(略)
僕自身が小学校で受けた人権教育を思い返してみても、結局のところ、人権というのがよくわからないままだった気がします。小学校の教育の中で多かったのは一種の感情教育で、人がそういう時にはどんな「気持ち」になっているかを考えてみましょうとか、「自分が嫌なことは相手にもしてはいけません」という心情教育に偏っていました。他社に対する共感の大事さを説くばかりで、人権という、権利の問題としてきちんと教育されてこなかった気がします。p184-185

自分を振り返っても、今回のDaiGoの問題発言に感じた不快感も、まずは「かわいそう」がベースにあったことは間違いありません。しかし、平野さんは、かわいそうかどうかということは「主観的」であるとして、その脆弱性を説きます。

例えば

  • 「あいつがいじめられていて、ちょっとかわいそうだけど、しゃべり方が生意気だし、あいつにも責任がある」といういじめ放置
  • 相対的貧困」の番組に登場した女の子の部屋の棚に漫画がずらりと並んでいるだけで「世の中にはもっと大変でかわいそうな人がいる」と番組自体に否定的な意見
  • 生活保護とかいいながらパチンコしているじゃないか」「同情に値しない」という生活保護バッシング

これらは「自己責任だから、そういう人たちを救う必要はない」と主観的な心情で問題を捉え、「人権」に理解がないところに問題があります。
なお、こういった論調には当然、今の政府の影響もあり、自民党の世耕さんの「生活保護受給者には「フルスペックの人権」を認めることはできない」と言った発言(酷い!)が取り上げられています。
だからこそ「人権」についての教育・理解が必要になります。

人権というのは、一人ひとりの人間が生まれながらにその生命を尊重されて、それは誰からも侵されないという権利で、ヨーロッパの思想史の流れの中で考えられたものです。(略)
人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクションといえばフィクションですけど、それをたくましい努力で守り抜こうとする思想は、偉大です。(略)
学校でいじめが起きている時に、かわいそうなことをしているからやめましょうと諭すことも大事ですが、まず、いじめるということは相手の教育を受ける権利を侵害していることだから、やってはいけないことだ、と教えなくてはならない。人を殺すというのは、その人が生まれながらにして持っている、誰からも生命を侵害されることがないという権利を奪うことだからやってはいけないことだと教えなくてはならない。
心情的な教育というのをやりながら、一方で、すべての人は、社会の役に立とうが立つまいが、そんなことは関係なくて、生まれてきたからには、自分の命は誰からも侵害されない権利がある、という原則を子どもたちに教えることが非常に重要です。p191-192

DaiGoは、先ほどの緊急声明にさらに答える形で「謝罪を撤回した上で改めて謝罪」*3しているわけですが、その中の言葉も

  • もし自分の母親が、生活保護を受けていたら、同じ発言を僕が聞いてどう感じるのか…
  • 自分の家族とか、大事な人がそうだったら、大事な人の生きる価値を否定されたみたいな状況になったら…

という形になっています。これは結局、「かわいそう」の幅を広げていくやり方で主観的。4団体の声明にあった「他者の生きる権利について自分が判定できると考える傲岸さは変わりません。」というところに結局戻ってきていることになり、指摘されている問題点を理解できていないように見えます。

かくいう自分も、どんな問題にも、できるだけ多くの他者の気持ちになって考えて「かわいそう」の幅を広げることが重要と思っていました。そうするとすぐに「頑張っている人はかわいそうだけど、頑張っていない人はかわいそうではない」という考えに行ってしまいます。
今回のホームレスの件で言えば、「隣のホームレスから食べ物を奪って暮らすような人」をイメージして、それでも「生きているべき」という風に考えなくてはならないのでしょう。
基本的人権は条件付きではないし、ましてや「フルスペックじゃない基本的人権」などありえないのです。

僕たちは一人の人間としてこの世に生まれてきて、その命というのは絶対に尊重されなくてはいけない。それを奪うことはいかなる場合も許されない。徹底して、すべての人の命の価値は保障されなくてはいけない。役に立つから生きていていいとか、役に立たないから死ななきゃいけないなんていう理屈は間違っていて、それよりもはるか以前に、人間の生は肯定されるべきものです。自分の命は誰からも侵害されないという権利があることを、まず認識する。その上で、実際に生きていく上で、どういうふうに自分という人間を把握し、生きていくかということになります。
p195

基本的人権については知識として頭に入れることは最低限として「その上で、実際に生きていく上で、どういうふうに自分という人間を把握し、生きていくか」ということが重要です。DaiGoの名前は出していませんが、今回のタイミングで批評家の杉田俊介さんが以下のように書いていました。

反省には手間も時間もかかる。これまでの自分と向き合い、誤りを認め、自分を少しずつ変えていかねばならないから。それは苦しいことだ。つらいことだ。変化なき謝罪はありえない。これまでの自分のあり方を温存したまま、対外的な反省のポーズだけ見せて、何も変われないこと。それは怖いことだ。
https://twitter.com/sssugita/status/1426468730825961473


まさに今回のDaiGoの謝罪は反面教師とし、どんな問題も同じ社会に住んでいる「準当事者」*4としての自分を意識してわが身を振り返る契機としていきたいです。
平野啓一郎さんは、上に引用した人権についての記述のあとでアマルティア・センアイデンティティと暴力』を挙げ、その内容を自らの主張する「分人」の考えに繋げています。このあたりの本も読んで勉強していきたい。また、杉田さんの本は未読なのでこの辺も。

(参考)過去日記

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:娘と一緒に東大五月祭に行って一緒に写真を撮ってもらったこともあります。いい人ですよね。

*2:DaiGo謝罪受け弟の松丸亮吾「ちょっとは効いたのか」超長文送りつけ(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

*3:メンタリスト・DaiGo、謝罪を撤回し改めて謝罪「もし自分の母親が生活保護を受けていたら…」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

*4:文章の中で平野さんは「当事者」と「非当事者」という分け方は適切ではなく、同じ社会で起きた問題であれば、当事者の周辺にいなかったとしても「準当事者」だとしています

個性を尊重しているようでいて他人の意見を切り捨てる「人それぞれ」論

今回は最近読んだ3冊を振り返りながら、対話について学んだことを整理したい。

富永京子『みんなの「わがまま」入門』

納得いかない政治が続くことから、最近でこそ、ネット署名の活動に参加したりすることはあるが、これまで一度もデモに参加したことがない。そこに、自分自身が持っている社会運動への「悪いイメージ」があるのは間違いない。


この本は、基本的に「わがまま」という言葉を使いながら、社会運動に対する拒否感を減らし、ひとりひとりが「わがまま」を言っていくことでよりよい社会にしていこう、という内容。
著者の富永さん自身が、社会運動について研究をつづけながら、自身は社会運動には積極的に携わらないという方で、だからこそ、「社会運動が、なんとなくイヤ」という感覚を十分理解しつつ、その背景を適切にひも解いている。
また、この本が中高一貫校向けに行った講演をもとにしているということもあり、非常に語り口は易しく理解しやすい。


章構成は1時間目~5時間目。

1時間目では、「日本が30人の教室だったとしたら」というたとえを出し、一見同じに見えるけれど、統計データから見ると社会は多様で、皆がイメージする「ふつう」は相当無理して維持されている、ということが示される。つまり、実際にはネットやグローバル化の状況の中で個人化が進んでいるにもかかわらず、70~90年代に形成された「みんなが同じような条件で、同じように生活している」という「ふつう幻想」が残っていることが、苦しくても「わがまま」を言い出せない雰囲気を作っていると分析される。

また、2時間目では、日本での社会運動に対するよくあるバッシングを取り上げて、それに逐一返答していく形で社会運動に対するハードルを下げる。

  • 批判するからには、別の案があるんだよね
  • 社会のためとか、意識高いよね(笑)
  • 社会運動って迷惑じゃないですか?
  • 価値観の押しつけでしょ
  • 頑張ってないやつのやっかみでしょ
  • やっても社会変わんないじゃん

このあたりの言葉は「バッシング」として以上に、自分自身にブレーキをかける言葉としても機能している。こういった言葉にどう向き合うかが示されていることで、社会運動への一方的な「悪いイメージ」は少しずつ減っていく。


3時間目前半では、いざわがままを言おうとして場合、どこまでが「セーフな」わがままで、どこからが「アウトな」わがままか、ということに悩んでしまうという問題を取り上げる。
これに対しては「セーフ」「アウト」は事前に「わがまま」を言う人が判断するのではなく、「わがまま」を言った後にみんなが話し合って決める(多数決ではない)ものとしている。(この辺りは、後述する「みんなの学校」の木村さんの意見と共通する)


このあたりまででちょうど半分で、自分の問題意識に合った内容だったが、後半は失速する。具体的には、「わがままを言えない今の若者」に対して丁寧に説明し過ぎて、ほとんど先に進まなくなってしまう。


このことによって、本の内容とは別に、今の若い人たちは「わがまま」を言うことにここまで後ろ向きなのかという印象を強く受けることになった。
例えば、後半の4時間目では、わがままを言う練習としてZINEの作成を薦めている。

「好きなものを好きって言う」「自分が関心のあることを言葉にする」っていうのは、「わがまま」を言うための土台づくりにちゃんとなると思います。みなさん、日常会話のなかではきっと人に合わせがちになってしまうから、好きなものを好きなだけ、好きな形で語るのも意見を言うトレーニングになるのではないでしょうか。p197

「わがまま」を言うのに抵抗感があるのはわかるが、「好きなもの」について言葉にすることにも、そこまで背中を押されないとダメなのだろうか。自分が目にする大学生や20代の人たちは、(好きな本について語る)ビブリオバトルに集まるようなタイプなので、自分の「若者」観とは大きく違ったが、もしかしたら彼らは少数派タイプなのかもしれない。

なお、ここで何故ブログなどのネット媒体ではなくZINEなのかといえば、ミニコミ誌では、ほどよく「鍵がかかる」というメリットとがあるからだという。
つまり、仲間うちでのSNSは得意だけれど、非特定の人たちを対象に自らの意見をいうことにはとても慎重なのが今の若者ということらしい。この章では、「自分をカテゴライズしない」というアドバイスも出てくるが、このあたりは、自身のキャラ設定への悩みを聞くことが多い「最近の若者」っぽさを感じる。
富永さんは大学で教えてくるので、本の中でも大学生の話がよく出てくるが、その感覚は実情を反映しているのだろう。


最後の5時間目の、自分と無関係の他人のことでも「わがまま」を言ってもいい、と諭すくだりなどもとても分かりやすかったのだが、とにかく全てに対して「大丈夫だよ、自分の意見を言ってもいいんだよ」という、若者を思う富永さんの優しい気持ちばかりが伝わってきて、何とも言えない気持ちになった。

尾木 直樹 、 木村 泰子『「みんなの学校」から「みんなの社会」へ』

2015年に公開されたドキュメンタリー映画『みんなの学校』は、大阪のある公立小学校の日常を描いたもので、その特徴のひとつに、大人も子どもも皆で正解のない問いを続ける「全校道徳」がある。
主に道徳教育について、この小学校の校長だった木村泰子と尾木ママこと尾木直樹の対談をまとめたブックレットがこの本。

富永京子『みんなの「わがまま」入門』でもあったが、ここでも「ふつう」が取り上げられる。

学校や社会では、大人にとっての「あたりまえ」や「普通」を子どもたちに押しつけるケースが多々あります。僕は「あいさつ運動」や「食べ残しゼロ運動」といった言葉に違和感を覚えています。

尾木ママの言葉は、「あいさつは良いもの」「食べ残しはダメなもの」という道徳の押しつけが子どもを苦しめることに対する意見だが、木村さんは、あいさつ運動は、先生と子どもの結びつきを断ち切るという弊害についても指摘する。つまり、子どもは見せかけだけに走り、そのことで、先生は子どもの悩みなどの状況が見えにくくなる。


後半は、2018-2019年に行われた小中学校での「道徳の教科化」*1の動きに話題が移るが、一貫しているのは「対話」こそが重要だという指摘だ。

子どもたちが納得する方法は「対話」以外ありません。議論になるとどうしても勝ち負けが出てしまいます。頭ごなしに「そんなことしてはダメ」ではなく、「私はこう思うけど、みんなどう思う?」「なるほど、そう思うんだ。なんでそう思うの?」という具合に、子どもと対話を重ねていくことが大切です。
(略)
子どもたちは、困っている子がいたら、大人が邪魔さえしなければ、「お前、なに困ってんねん。俺、助けたろか」と、子ども同士の自然な関わり合いをします。大人が「この子、障害があんねん。この子のこと面倒見たりや」と、訳のわからない正解を言って指示をするから、子どもは納得して行動しないのです。
そして、子どもが困っている友達に関わっている場面に遭遇した先生がすべきことは、「先生、あんたの行動みて学べたわ」と自分が学ぶことです。それを「障害のある子にも親切にして偉いね」なんて言うから、褒められたい子どもがどんどん増える一方で、「なんでいつもこいつの世話せなあかんねん」と、教室がとんでもない空気になってしまいます。

道徳の教科化の一番の問題は、本来多様である価値観に対して、一方的に正しいとされる価値を教えることが目的化してしまっていることにある。
道徳について「正解」を教える弊害が、有名な「星野君の二塁打」や「れいぎ正しいあいさつ」(以下の問題:正解は2!)を例に示される。

つぎの うち、れいぎ正しい あいさつは どのあいさつでしょうか。
1 「おはようございます。」といいながら おじぎを する。
2 「おはようございます。」といった あとで おじぎを する。
3 おじぎの あと「おはようございます。」という。

「礼儀正しい挨拶」の正解について、子どもたちが疑問に思って説明しても「正解は2と教科書に書いてあるから」という説明に先生に終始してしまうことがさらに問題を悪化させてしまうのだ。
おかしなことがあれば、変えていくことが重要で、このあたりは「みんなのわがまま」で書かれていた内容と重なる部分があるが、以下の引用で「文句ではなく意見を」と強調しているのは、「対話」の過程こそが重要という意味だと理解した。

様々な問題を扱う際、文句ではなく意見として、対話をしていかなければならないと思うんです。先ほども説明しましたが、文句はその人の主体性もなければ未来にもつながりません。落書きと一緒です。しかし、意見はどんなに耳の痛い意見でも、主体性があります。意見と意見は時に対立しますが、そこに主体性があって良いものを一緒につくろうという目的があれば、必ず接点が見つかります。文句は問題提起のモチベーションにはなりますが、そのままでは世の中を何一つ変えません。

ひとりひとりの大人が、文句ではなく意見を持って周りと対話を続けることで地域社会が変わっていく。そのことが実践として示された『みんなの学校』を全国に少しでも広げていきたい、ということがコンパクトにわかるブックレットだった。

山口裕之『人をつなぐ対話の技術』

2冊の本では「対話」の重要性に改めて気づかされたが、まさに「対話」がタイトルに入ったこの本では、もう一つ大きなキーワードを知った。「人それぞれ」論だ。

具体的には、この本の第3章が、ここまでの2冊の話に直接つながる内容を含んでいる。

  • 第3章 「正しさは人それぞれ」、なんてことはない
    • 1 「正しさはひとそれぞれ」が横行している
    • 2 「個性尊重」が人と人とを分断する
    • 3 『心のノート』が連帯を阻む

10年くらい前から、授業中に発言を求めると大勢の学生が「正しさは人それぞれ」と言うし、レポートを書かせると「正しさは人それぞれ」と書く。そういうことが増えてきたという。

学生たちが「個性を尊重する良い言葉」として好んで使う「人それぞれ」は、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。
そのように言う山口裕之さんの意見は、金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」に喩えた「人それぞれ」論への批判を読むとよくわかる。

金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」は良い詩だと思うし、多様性を尊重することは重要である。しかし、それは、多様なものがそれぞれ両立可能な場合に限ってである。「私は安保法案賛成、あなたは反対、みんなちがって、みんないい」では採決できないし、「私はコソ泥、あなたはテロリスト」でいいはずがない。障害のある友だちがいた場合など、「尊重する」ことは、「みんなちがって、みんないい」と言ってほったらかしにすることではなく、親切を押し売りすることでもなく、きちんと対話して、相手が求めたときに手を貸してやることである。(p158)

障害のある友だちへの対処の話は、「みんなの学校」の木村泰子さんの話とも通じ、「人それぞれ」を指針に行動すれば、対話を避け「ほったらかしにすること」になるという指摘もよくわかる。
これを進めると、「わがまま」を言いにくい空気も、「人それぞれ」論がとセットの「対話を拒否する」空気にあるのではないかということに思い当たる。
国会議員の今井絵理子(元SPEED)が掲げて話題になった「批判なき政治」も根っこは同じで、「正しさは人それぞれ」なので、私の意見にはケチをつけずに尊重してほしい、というスローガン。繰り返すが「人それぞれ」は「対話を拒否する言葉」なのだ。

少し考えてみれば明らかなように、「人それぞれ」は、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。どんな意見についてであれ、「もう聞きたくない」と思ったときには、「まあ、考えは人それぞれだからね」で終了させることができる。多くの学生がこうした言葉を常用しているということは、対話を拒否する態度が蔓延しているということである。
p155


山口さんは、学生たちが「人それぞれ」という言葉を「個性を尊重するよい言葉」だと思っているその理由として「教育」を挙げている。少し駆け足で概要を書く。
1990年代のいわゆる「ゆとり教育」のタイミングで、学校教育は「学力重視」から「個性尊重」に大きく舵を切る。さらに、「自己分析」が就職活動に大々的に導入されるのは、1990年代半ば。金子みすゞの詩が教科書に掲載されるのも同じ時期。さらに2002年に「世界に一つだけの花」が大ヒットして「個性尊重」は確固とした価値観として普及する。

自分は、「個性」や「その人らしさ」なるものが、その人の心の中に入っている、という見方そのものが間違いである、という山口さんの意見に賛同する。「もともと特別なオンリーワン」の個性があるのではなく、さまざまな人との関係性の中で(対話を重ねる中で)成長していく、そこにこそ「個性」が生まれる。

にもかかわらず、現在の子どもたちは、小学校入学以来、ひたすら自分を見つめ続け(『心のノート』などを通して)自己分析をずっとさせられている。
その一方で異なる意見と出会ったときに対処方法について学ぶ機会がない。
だから、無知や傲慢から自分勝手なことを言っている人に出くわしたときには、「正しさは人それぞれ」とつぶやいて、関わらないようにするしかできないし、反対に、自分の考えに対して「それは間違っている」と指摘してくれる相手には戸惑うしかないようだ。学生のレポートに対して山口さんが丁寧にコメントを加えると、「真剣な思い」で書いたレポートを批判されたということで「心が傷つく」らしい。
このあたりのエピソードは、最初に挙げた『みんなの「わがまま」入門』でも書かれていた「自分をカテゴライズしない」という若者向けのアドバイスとも重なる。子どもたち(高2、中2)を見ても、感覚的には、自分が小中学生のときと比べて何倍も「自己分析」をしているように見える。
だから、本の中で「現在の子どもたち」「学生」を対象に広まっている考えとして「人それぞれ」論を取り上げているのは合点がいく。


ただし、自分には、それが若い人のみに普及しているとは思えない。
直接、「個性尊重」の教育を受けていない自分や山口さんと同様の40~50代も、その影響を大きく受けているように思う。『世界に一つだけの花』は様々な世代にヒットした曲だし、金子みすゞの詩も同様だ。また、日々ネットで見ている「対話を拒否する」コミュニケーションは、世代関係なく行われているといえるだろう。

そもそも「個性尊重」の前の学校教育はどうだったかと言えば、詰め込み教育が行われる一方で「無邪気に」いじめや差別が行われていただけであって、「対話」についての教育は受けた覚えがない。
そう考えると、むしろ「個性尊重」「人それぞれ」論をありがたがって受け入れたのは、自分たちの世代(団塊ジュニア)も同じような気がしてくる。
そして「個性尊重」を唱えながら対話を拒否する姿勢を実践しているのは、『人をつなぐ対話の技術』でも何度もとりあげられる、第一次政権時も含めた安倍政権の政治家たちがその典型的であ、さらに上の世代だ。


山口さんは、政治家を次のように捉えている。

われわれは、議員を「妥当な結論を見つけ出すための対話を行う代表」として選出するのであって、全権を委任して好き勝手やらせるために選ぶのではない。p139

まさにその通りで、安倍政権に続く菅政権でも対話を避ける姿勢は鮮明で、このコロナ禍の緊急時に国会も閉じている。(野党の臨時国会召集要求に応じない)
対話を避ける姿勢と官僚の無謬主義が融合して、文書改ざんが起きてしまったのが森友文書改ざん事件だともいえる。


一方で、「対話」が求められるのは政治家だけではない。

民主主義の本質は多数決でなく、すべての人が対等な立場で自分の意見を根拠づけて主張し、討議し、お互いに納得できる合意点を探るところにある

というのが、この本の民主主義の捉え方である。つまり、すべての人は、普段から自分の思考力を鍛えるべく努力が求められている。ネットとの付き合い方で言えば、自説を強化する耳障りのよい言論だけでなく、意見を異にする人の話にもできるだけ耳を傾け、子どもたちとも「対話」をする機会を増やしたいと思った。
この本の中では、さらに「対話の技術」について具体的な方法等も述べられているが、それについてはまた次の機会に触れることにしたい。


⇒参考:このような「対話」を拒否した「人それぞれ」論の典型がDaiGoの差別発言だと思います。
pocari.hatenablog.com

*1:「道徳の教科化」のそもそもの目的が「いじめをなくす」ことにあったというのは驚きだ。

佐藤究『QJKJQ』、藤本タツキ『ルックバック』と星野智幸

ついこの前の直木賞を佐藤究が取り、受賞作の『テスカトリポカ』と同様に気になっていた江戸川乱歩賞受賞作『QJKJQ』を読んでみた。
タイトルに何となく(大好きな)メフィスト賞作品っぽさを感じたのが惹かれた理由だが、あらすじを読んでさらに驚く。

女子高生の市野亜李亜は、猟奇殺人鬼の一家で生まれ育った。父は血を抜いて人を殺し、母は撲殺、兄は噛みついて失血させ、亜李亜はスタッグナイフで刺し殺す。それでも、猟奇殺人の秘密をお互いに共有しながら、郊外の家でひっそりと暮らしていた。ところがある日、兄が部屋で殺されているのを亜李亜は発見する。もちろん警察は呼べない。そして翌日には母がいなくなった。亜李亜は残った父親に疑いの目を向けるが……。

あれ?これはバカミスでは?

直木賞作家の書いたミステリで、江戸川乱歩賞取っている作品なのにエンタメに振り切った、ただ面白いだけの作品なのかもしれない…それはそれでとても好みに合っている。そう思って読み始める。

違和感

事件の展開を読んで、そうなのかな?と思った通りの大ネタが、かなり序盤に明らかになる。
読み返すとp128で「それ」が明らかになり、その後は、殺人事件の話ではなく、主人公・亜李亜の過去の話に話がシフトする。
鳩殺しのOL・鳩パンとの関係性も面白く、そこからクライマックスまでは、謎解きがどんどん進み一気に読ませる。亜李亜の住む町である東伏見周辺はランニングでよく訪れる場所なのでそれも良かった。


ただ国策としての殺人、さらにその資金集めのための猟奇(スナッフ)フィルムなど、明らかになっていくほどに陰謀論がどんどん陳腐になっていく。そして「ドン引き」の殺人遺伝子(キラージーン)…

『ルックバック』について

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+


藤本タツキ『ルックバック』は、ちょうど五輪開催の直前*1に読み、とても衝撃を受けた。
理由は、一気に読める中編(短編)の形なのに、主人公の半生が詰まっていることがひとつ。時間経過だけでなく、どのような思いで時間を過ごしてきたのかがわかるコマ運び。
そして、何より2019年7月に起きた京アニ放火事件を想起させる出来事をきっかけに出てくる「ありえたかもしれないIFの世界」。
この話の公開がちょうど事件から2年の日だったこともあり『ルックバック』に込められたとされる「Don't look back in anger」というメッセージも含めて、読者は、この2年間を振り返り、主人公・藤野の半生を振り返る。


だからこそ、その後、内容変更に至るまでの流れは自分にとって、ほとんど意識しない部分だっただけに驚き、どのような傑作に対してもそれに傷つく人がいることに少し思いを向ける必要があると感じた。(具体の内容は、斎藤環さんの文章が非常にわかりやすいが、これを批判した文章もまたわかりやすい)
note.com
somethingorange.biz


そして、ダメ押しで『QJKJQ』読中(8/6)に起きた小田急線車内無差別刺傷事件。
こちらの事件は、起きたばかりなので何とも言えないが、精神疾患の話と結びつくことはなさそうだ。むしろ、女性差別という他の差別の問題とのつながりが深そうで、その意味では、日本社会の悪い部分が事件として起きてしまったと考えることもできる。

殺人遺伝子(キラージーン)

そんな中で、殺人者を、「ふつう」の外に外にと弾き出し、殺人遺伝子に原因を求める後半の展開は、非現実的というより「あまりに不謹慎」に思えて、ドン引きしたのだった。
その後、話は「殺人遺伝子などなかった」という穏当な結論に落ち着くものの、そこから3人死ぬ展開がよくわからない。確かに物語としては、3人が死なないと話が収まらないのだが、作品のメッセージが「ふつうの人が殺人を起こす」だとしたら、最後に異常な形での殺人が起きるのは気持ちが悪い。
個人的には、バカミスなら沢山死んでもOKだが、そうでなければ、物語上不要な死人はできるだけ減らしたいので、やはりこの部分は受け入れがたかった。

大きな物語」に対抗するための個人の言葉

その後、主に犯罪被害者の悲しみについて書かれた入江杏編著『悲しみとともにどう生きるか』の中で、小説家の星野智幸の文章を読み、少し考えを改めた。『QJKJQ』を「けしからん」という目で見ている自分が間違っているのかもしれないと。

星野さんは、ステレオタイプの物語を否定し、時に暴力的に作用する「大きな物語」や「マジョリティの声」に対抗するには個人の言葉を探し続けることが重要と説く。

今の社会では、こういうことを言ったら馬鹿にされるかもとか、やばい人だと思われるかもしれない、という不安や怯えが日常化しています。空気を読んで、問題が起きないように語った受け売りの言葉を、自分の意見だと自動的に思い込むようにさえなっている。誰もが口にして大丈夫な認証済みの意見を、自分も口にすることで、社会のマジョリティの一員という安心感がもたらされるわけです。

だから逆に、誰かが己に正直な発言をすると、その人にイラつき、軽蔑して、攻撃したくなってしまう。その軽蔑と攻撃は、本当は正直な発言をできない抑圧された自分に対して向けられているはずなのに。

これを読んで自分のことを言われている気がし、『QJKJQ』に感じた不快感は、所詮、いわゆる「不謹慎厨」の意見なのかも、と思ってしまった。
実際、『QJKJQ』の異常な陰謀論(ホラ話)へのこだわりや、暴力を言葉で語ろうとするスタンスは、この小説独特の空気ということは理解するし自分にも魅力的に映る。これは、このあとの『Ank』や『テスカトリポカ』にも受け継がれていることを考えれば、佐藤究の独自の世界観なのだろうし、嫌だったところは保留して、魅力的なところに目を向けて次作を読む方が良さそうだ。(これは『悲しみとともにどう生きるか』でも平野啓一郎が説く「分人主義」の話ともつながる)


星野さんは、小説という表現形態なら「白か黒か、敵か味方かでは表せない矛盾を言葉で表すことができる」とし、世間のものの見方から離れた「個人の言葉」こそが重要と説く。

また、金原ひとみさんも小説の意義についてインタビューで次のように語る。

もちろん現実的には、より差別の少ない社会を目指すべきだと思っています。ただ同時に社会全体が正しい方向に進む中で、どこがこぼれ落ちるのか。文学でしか救済できない領域は、どこにできていくのだろうと最近よく考えます。

小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。

realsound.jp

自分が『QJKJQ』に感じた「ドン引き」や「嫌悪感」を別に否定しようとは思わないが、それなりに「文学作品」を好んで読みながらも、物語に「矛盾がないこと」を求めるタイプだったかもしれない、と少し反省した。


次は、佐藤究は『テスカトリポカ』は厚そうなので、『Ank:』かな。星野智幸は『俺俺』と『呪文』しか読んだことがないので最新作かな。

*1:この文章は五輪閉会式を見ながら書いている

小山田圭吾のいじめ問題についての個人的反省とポジ出し

昨日は、東京オリンピックの開会式があった。

その直前は怒涛の一週間だったことは、あとになって忘れてしまうかもしれないので、簡単にメモをしておく。

  • 7月14日:東京オリンピックパラリンピック開会式の楽曲制作メンバー発表。小山田圭吾が入っていることがわかる。
  • 直後に、ネットでロッキン・オン・ジャパン(1994年1月号)、クイック・ジャパン(第3号=1995年8月発行)のいじめ告白記事が問題視される。
  • 7月16日:小山田圭吾が謝罪文を発表。組織委も続投の意向。
  • 7月19日:小山田圭吾が辞任を申し出。組織委も了承。楽曲の不使用も発表。

この後、絵本作家・のぶみの文化プログラムへの参加辞退、そして東京五輪開会式のショーディレクターを務める小林賢太郎の解任までが俗に「辞任ドミノ」と呼ばれることになる。今回は、このうち小山田圭吾について自分の気持ちを文章にまとめておくことにした。

小山田圭吾と僕

近年は頻繁には聴かなくなったが、コーネリアス小山田圭吾)は、自分にとっては大きな存在で、ファーストアルバムとの出会いがなかったら、「音楽が好きな自分」はいなかっただろう。
特に、最近は、ひょんなことから「STAR FRUITS SURF RIDER」を思い出すことがあり、頭の中ではちょくちょく音を鳴らしていた。ちょうど8月に発売されるMETAFIVEの新譜は聴いてみたいな、と思っていたところだった。

STAR FRUITS SURF RIDER/STAR FRUITS GREEN

STAR FRUITS SURF RIDER/STAR FRUITS GREEN

Amazon


その中で耳にした開会式の音楽担当の話。そのとき抱いた感想は

  • これだけケチがついて、誰が引き受けても文句を言われそうな仕事を
  • 「国民的な」「スポーツイベント」を最も嫌いそうな小山田圭吾
  • よく引き受けたな。(かつての印象とは異なり、さすがに大人になったんだな)

というもの。


小山田圭吾に対しては、真面目な人を茶化すタイプという印象で、特に、小沢健二のソロでの活動について「尾崎豊みたい」と言ってみたり、『今夜はブギーバック』を物真似のようにカバーしてみたりとか、小学生的悪意が枯れない人というイメージを持っていた。小山田圭吾自身が、あまり「自分語り」をするタイプではないこともあり、その頃の印象が今もずっと続いている。


自分が積極的に音楽関連の情報を見始めるのは1996年からなので、例のいじめ記事(1994、1995)は直接誌面では読んでおらず、しばらく経ってから(1997-1998年頃か)ネットで知ったような気がする。
読んだときの印象は、「これは酷い」と思ったけれど、小山田圭吾は「そういう人」とカテゴライズされてしまっていたので、ショックは大きくなかったし、ファンを辞めるということもなかった。


むしろ、『FANTASMA』(1997)、『POINT』(2001)と、小山田圭吾は、その小学生的感性を研ぎ澄まし、音楽はどんどん抽象的なものに変化していき、『96/69』(1996)の頃に感じた「悪ふざけ」や「悪意」はほとんど感じられなくなっていく。
その後、活動の場を海外にも広げ成功を収め、近年ではMETAFIVEでの活動や、「デザインあ」等の活動を見るにつけ、人格的に問題のある人なら高橋幸宏と同じグループで長期にわたって活動を続けたり、NHKと長期にわたって活動したりはしないだろうという気持ちもあり、いじめの話はどんどん忘れていった。

作品とアーティストの人間性

2005年に書いたブログ記事でコーネリアスのいじめ問題について言及しているが、ここの気持ちは変わらない。*1

ところで、僕が、優れた芸術作品の後ろに「清い」実生活や人間性を求めるか、といえば、必ずしもそうではない。例えば、小山田圭吾は、彼自身が行った、学生時代の同級生に対するひどいイジメについて、雑誌のインタビューで楽しげに答えており、これについて非難されているのをネット上で散見する。この事実については、僕自身、かなりの不快感を覚えるが、僕にとっては、それが一連の作品の質を落とす方向には作用しない。上の分け方でいえば、小山田圭吾自身、三つ目のタイプでの解釈(人間性の部分や社会へのメッセージ)を拒否するタイプだし、僕もそういう解釈をしていないからだ。

あまり馴染みのないミュージシャンの例で言えば、自分は新海誠作品におけるRADWIMPSの楽曲は好きだが、野田洋次郎が(賛同できないような)変なこと言ったり、変な歌詞書いたりしてもそれは変わらない。

すぎやまこういちの政治的言動は大嫌いだが、かといってドラクエの楽曲を嫌いになるわけではない。

自分の「好き」は信用しているので、問題発言や過去の言動、不倫問題などでそれが影響を受けることはない。(Rケリーのような極端なケースで無ければ「好き」は揺らがないだろう)


むしろ、今回問題視された小山田圭吾の過去のいじめ発言については、自分の中では20年以上前にモヤモヤを解消した件で、繰り返すが、今現在は高橋幸宏と一緒に活動しているようなミュージシャンなのに、それを今「蒸し返す」のか、と反発を覚えた。

だから、これまた否定的に扱われることの多い謝罪文についても、(小山田圭吾自身も相当の反発を感じているだろうのに)「しっかり謝罪ができるじゃないか、勝手に想像していたよりも全然大人なんだ」と、世間の評価とは逆に好印象を覚えてしまったほどだった。


しかし、今回改めて、ネットに出回っている記事を読み直してみると、記憶を大きく上回って相当酷かった。自分の中では「障害者」という要素はあまり記憶していなかったが「障害者いじめ」ということも明確で、とてもとてもパラリンピックに関連する音楽を担当するのに適しているとは言えない。
そして、この辺から、いじめ被害の当事者の方の意見を読む機会が増える。また、知的障害を持つ人たちの親らでつくる一般社団法人「全国手をつなぐ育成会連合会」が声明を発表し、その中の「今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたい」という言葉を見るにつけ、辞任発表の直前になって自分の考えの誤りに遅ればせながら気が付いた。

反省すべきこと

結局、自分は「いじめ被害者」や「障害者」の立場にたって今回の問題を捉えるということが、最後の最後まで出来ていなかったのだろう。


いじめのあった時期から考えれば35年、雑誌記事からは25年という長い時間について、その頃に比べれば小山田圭吾も成長しただろうという、「いじめ加害者」の変化にしか目を向けていなかった。
確かに小山田圭吾は、今は、周囲の人間に暴力をふるうような人間ではないだろう。
しかし、いじめ被害者は、その長い間、辛い気持ちを持ち続け、増幅させてきたかもしれない。


それだけではない。先ほども挙げた「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明では重大な問題として3点を挙げている。「(1)障害の有無に関わらず、いじめや虐待は許されるものではない」「(3)なぜ小山田氏が楽曲提供担当となり、留任させることにしたのか」は誰もが指摘する部分で、(1)については、小山田圭吾も謝罪の中で触れている。しかし、声明では(2)について特に強調している。

(2)小山田氏の行為は極めて露悪的である
上記のとおり小山田氏の行為は決して許されませんが、学生という年代であったことを考慮すると、行き過ぎた言動に走ってしまうことはあるかもしれません。
しかし、そのことを成人して著名なミュージシャンとなった後に、わざわざ高名な音楽雑誌のインタビューで面白おかしく公表する必要性はなかったはずです。極めて露悪的と言わざるを得ません。しかも、インタビューでの発言では明らかに障害者を差別的に揶揄している部分も各所に見受けられ、少なくともインタビュー時点ではまったく反省していないばかりか、一種の武勇伝のように語っている様子が伺えます。

この「露悪的な行為」が問題なのは、小山田が行ったいじめの実際の被害者だけでなく、不特定多数のいじめ被害経験者や障害を持つ人、また障害を持つ人の親…と無限に被害が拡散してしまうことだ。

小山田圭吾の25年以上前のインタビュー記事は、当時記事を読んだ人のみならず、今回初めて記事を読んだ人も傷つけてしまう。そのことに、自分は色々な人のTweetを読むまで気が付かなかった。

だからこそ「今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたい」という重い言葉に繋がり、また、最後に改めて以下のように強調するに至ったのだろう。

小山田氏が露悪的であったことも含め心からの謝罪をしたのか、それとも楽曲提供に参画したい一心でその場しのぎで謝罪をしたのか、本会としては小山田氏の言動や東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の動向について、今後も注視してまいります。

今回の問題が、NHK教育の番組「デザインあ」や、8月のMETAFIVEの新譜に与える影響を考えると、世間的にもまだ余波は続くに違いない。また、ネットで拡散された記事内容の恣意的な切り取り方や、もともとの記事の誇張の問題など、今後も詰めるべき色々な話はあるが、結局は、上の引用にある通り、小山田圭吾自身が「オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった」人たちにどう向き合い言葉を発していくかが問われているのだろう。

共生社会

今回の件では、いくつかの著名人の意見も見聞きする機会があったが、ラッパーのダースレイダーさんが、どんなに過去のことであっても「蒸し返してOK」(細かい正確な言葉は失念)と言っていたのが印象的だった。「蒸し返す」は、慰安婦問題などで否定的に使用されることの多い言葉であることを意識しての発言だったように思うが、そうやって傷ついた人たちを説得できるような言葉を、傷つけた側は持たなくてはならない。そういう責任があるということだったと思う。(そこをしっかり出来ているのがドイツで、出来ていないのが日本、とのこと。)


また、TBSラジオの発信型ニュース番組「荻上チキ・Session」の荻上チキさんが流石だなと感心した。今回の件について長い時間をかけてコメントした翌日に、「共生社会 とインクルーシブ教育 とは?~小山田圭吾 氏の障害者いじめ加害問題をきっかけに考える」という特集を組んでいたのだ。


荻上チキさんは、よく「ポジ出し」という言葉を使う。

今回の件については、自分の好きな音楽を聴いて不快な気持ちになる人がいるということだけでなく、自分自身、そのことに気が付かず、ある意味では問題を「放置」してしまってきたこと等、自分を振り返ればネガティブな気持ちになることばかり。一方、twitterを眺めれば、徹底的に他者への「ダメ出し」を続けるTweetが溢れているという、鬱々とした時間を過ごした。

そんな中で「ダメ出し」ではなく社会をよりよくするために少しでも建設的な「ポジ出し」をしようというのがチキさんのポリシーで、自分も「ダメ出し」の方にばかり目を向けるのをやめて「ポジ出し」をしなくてはという気持ちになった。


今回の番組では、日本のインクルーシブ教育が未成熟(不完全)であること、教育課程にとどまらず、インクルーシブな社会を目指していくべきであること、等が中心に語られていたと思う。今回の件は、学校の中の問題にとどまらない、ということに気づかされた。
インクルーシブ教育については、「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」「全国自立生活センター協議会」の声明の中でも触れられている。それぞれの全文はHPで読めるが、後者の概要はhuffingtonpost.の記事が読みやすく、その中では、今回の件をきっかけに間違った方向に行ってしまう危機感についても触れられている。

今回の件が発端となり、「障害のある子どもがいじめの対象になってしまうかもしれないから分けたほうがいい」などの考えのもとに、障害のある・なしで子どもを分けて教育をする「分離教育」が加速することへの危機感も示した。

分離することで、「『障害者はいないほうがいい』『生産性がない』という優生思想を生み、排除を加速させてしまうのではないか」とし、「『分離』に加担することのないように、事件の根源を見直すべき」と訴えた。

「小山田氏のように障害のある人への差別や偏見を抱く人は未だに少なくない」といい、「小山田氏個人を非難するのではなく、障害のある人への差別が起きてしまう社会の構造を変えていくこと」を目指し、「なぜいじめが起きるのか、差別とは何か、障害とは何か、私たち一人ひとりが向き合い、内なる優生思想と闘い続けることが必要です」と求めた。
小山田圭吾さんという「個人を非難するのではなく…」。障害者団体が訴えた内容は? | ハフポスト

「内なる優生思想」という言葉は、誰もが差別意識を心の内に抱えているということを示している。自分もそこをスタートにして、「全国自立生活センター協議会」が目指すような「誰もが差別されず、共に生きられる社会(インクルーシブな社会)」とはどういうものなのかを考えていかねばという気持ちになった。


まずは何か読みやすそうな本から始めたい。


*1:内容については、本題が恥ずかしいのでリンクしない…