Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

新しいタイプのミスリーディング~『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』


備忘録として今年のコナンの感想を。

『ハロウィンの花嫁』総括

今回のコナンは鑑賞直後の満足度が高かった。
ただ、あれ?何に満足したんだっけ?とも思ってしまった。
それは何故かよくよく考えた結果、「それはやっぱり観る前の期待値が低かったからじゃないか」という身もふたもない結論に一度は至ってしまった。
いやいや、何かがそこにはあったはず!ということで、良かったところ、悪かったところをまず書き出してみた。


〇良かったところ

  • 実際の渋谷の地図やビルもたくさん登場させた後で明らかになる、渋谷の地形を利用した大胆な爆破計画(ブラタモリ要素)
  • 劇中に繰り返し出てくる爆発物の液体の種類(色、爆発の方法、危険度)が基本的に同種で、クライマックスまで一貫しているのでストーリーを把握しやすい。クライマックスの爆発の規模が大変なレベルになっているのも順を追っているので理解できる。
  • 首輪爆弾がついた安室さんを閉じ込める地下牢が仰々しくて期待を煽る。携帯ではなく何故か黒電話で対応するのも良い。(よく考えてみると、携帯電話の場合、爆弾の遠隔操作のトリガーに出来てしまう可能性があるためのような気がしてきた)
  • 同期4人で「プラーミャ」を追い詰めた回想シーン、また、やはりプラーミャを追ってヘリコプターに飛び乗るシーンの安室さんのアクションが楽しい。そして安室さん定番の、無茶な場所での格闘(今回はヘリコプター内)。
  • 敵を討つのではなく、復讐の連鎖を断ち切りたいという意図が分かりやすいラスト。
  • 「ナーダ・ウニチトージティ」を率いるエレニカを演じた白石麻衣の、違和感を感じさせない声優力*1


●ダメだったところ

  • 安室さんの首輪爆弾&地下牢がカッコよかったのに全く生かされず、特に何事もなく脱出してしまっているところ。(ヘリコプターで颯爽と登場)
  • 「単独犯行なのに、クライマックスが大掛かり過ぎる(一人でできるわけがない)」という毎度のコナン映画の問題点を完全に放置するどころか、異次元の領域にまで高めてしまった。
  • 爆発を止めようとするコナンのアイデアが観ている方もよくわからないのに、登場人物たち皆が理解し協力するラスト。(サッカーボールが大きくなるパターンにありがち)
  • プラーミャが安室に首輪爆弾をつけたのは、「目撃者」の生き残りがまだいると考えたためと言うことを中途半端に提示した結果、観ている側も「(安室以外の)最後の1人」がこのあと登場するのか?とか、誰かに変装しているのか?とか余計な詮索をしてしまう。(実際には、目撃者4人の生き残りは安室だけ)
  • 「花嫁が爆弾犯だった」それだけのために登場した村中さんが可哀想


サッカーボールの「いっけーーーー」の件だが、サッカーボールを大きくして2種類の爆薬を触れさせない、という意図は分かる。でも相手は液体だし、それが流れるのは渋谷の道路だからどう考えても「すり抜けてしまう」わけで、「それに対しても何か策を考えてるんだよね、コナン君」とずっと思ってしまった。(結局考えてない)
今回、どこまで膨らませれば良しとするかについても分からない(コナン君次第な)ので、いつ時点がゴールなのか分からないまま膨らむサッカーボールを眺め続けてしまった。


また、単独犯行の件について言えば、昨年の『緋色の弾丸』は、この課題をある程度クリアできていて感動*2したので、これと比べるとやはり酷過ぎる。今回の爆破計画に比べれば、単独犯行でダム爆破したりスタジアム爆破したりする方が全然現実的な気がしてくる。


それにしても元警視正の村中さんは、完全にダシにされている感じで可哀想すぎる。


と、並べていくと、やはり去年の『緋色の弾丸』の方が面白かったのでは?と思えてくる。しかし、もう少し考えてみると、映画ではダレてしまう原因になりがちな、事件の背景説明が、松田陣平(+安室含む3名)のキャラクターの魅力で楽しんで観ることが出来たこと。そして松田のキャラと対照的な高木のキャラが引き立つ後半の流れが良かった。つまり、話の展開に全く無駄が無かったというところが大きいと思う。

衝撃のミスリーディング

ところで、今回、本編と関係ないところで、衝撃を受けた場面があった。
目暮警部と同期だった元警視正・村中は、入院中に出会ったクリスティーヌと婚約。2人のハロウィーンの結婚式が、今回の映画の舞台になっている。
初登場時から顔に「犯人」と書いてあるようなクリスティーヌから、友人からの届け物を取ってきて欲しいと依頼される少年探偵団だが、案の定そこには爆弾が。
その後、「あれは、俺たちが取りに行くように仕向けられたんだ」とコナンが推理し、観ている人が全員クリスティーヌの名前を頭に思い浮かべたときに、突如、「村中さんが怪しいのでは?(変装して入れ替わっているのかもしれない)」という話が湧き、全くマークしてなかった村中さんが!!!そっちなのか???とかなり驚いた。
ミスリーディングになった台詞の発言者はおそらくコナンのはずだが、あまりに迷推理過ぎるので、改めて観るときは、本当にコナンなのか確認したい。
本当に、あれは何だったんだろうか。

来年は

灰原の映画ということで、これは楽しみです。
なお、今年少なかった要素としてカーアクションにも期待。

*1:過去のコナン映画を漁っていた中3娘に『11人目のストライカー』って面白いの?と聞かれたので、それは絶対に見た方がいい作品と激推ししました。あそこまでの「棒読み」は他にない。

*2:そもそも『緋色の弾丸』で止めなくてはいけないのは「爆弾」ではなくて「列車」。それが良かったのだと思う

中盤の「対話」シーンに驚き~潮谷験『時空犯』

私立探偵、姫崎智弘の元に、報酬一千万円という破格の依頼が舞い込んだ。依頼主は情報工学の権威、北神伊織博士。なんと依頼日である今日、2018年6月1日は、すでに千回近くも巻き戻されているという。原因を突き止めるため、姫崎を含めたメンバーは、巻き戻しを認識することができるという薬剤を口にする。再び6月1日が訪れた直後、博士が他殺死体で発見された……。

『スイッチ 悪意の実験』でメフィスト賞を受賞した潮谷験の怒涛の第二作!

思っていたより、まろやかな面白さだった。もともと最新作『エンドロール』の書評を見て気になった潮谷験だが、メフィスト賞作家ということで、もっともっと尖ったものを期待してしまった。
もちろん「ループものミステリ」という特殊ジャンルである時点で十分異色で、さらにあらすじでは伏せられている、「突拍子もない出来事」もあることはある。それでも、特に混乱せずに全くつっかかるところなく読める。そういうリーダビリティの良さは、語り口の巧さ故なのかもしれないが、「普通のエンタメ」作品っぽくて少し残念だった。

以下ネタバレ

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とりとめないけど惹きつけられる~石井遊佳『百年泥』


すごいものを読んだ。とにかく「とりとめがない」という一語に尽きる。さすが芥川賞
冒頭は既に豪雨の場面だが、主人公が日本語教師としてインドのチェンナイに来た経緯をさかのぼるところまでは普通の小説だ。日本語教室に来るインドの技術者たちが、シヴァとかガネーシャとか神様の名前というのも変ではあるが非現実的ではない。(以下、あらすじ前半)

インドの花形産業であるIT企業の若手技術者は、生意気盛り。主人公の「私」は、別れた夫にすがりついて仕事を紹介してもらったのはいいが、この生意気な若者たち相手の日本語教師だった。日本では想像もできない下層の生活から這い上がってきた美形の青年デーヴァラージの授業妨害と戦いながら、日本語を教えはじめて三か月半。豪雨による洪水が南インドの大都市チェンナイを襲った。

ところが、「百年泥」が現れてからは、「一体何を読まされているのか」と意識が朦朧としてくる。4月という(個人的感覚では)1年で最も眠い時期に読んだからかもしれない。(以下、あらすじ後半)

百年に一度の大洪水がもたらしたものは、川底から溢れた百年分の泥だった。アダイヤール川にかかる橋は泥の模様を見物に来た大勢の人であふれていた。泥と人をかき分け、「私」は川向こうの会社に向かった。途中、泥から様々なものが掻き出されていく。サントリー山崎のボトル、ガラスケースと人魚のミイラ、大阪万博記念コイン……。疾走するユーモアと暴走する知性が暴き出す人生の悲しみと歓び――。新潮新人賞芥川賞と二冠に輝いた本作は、多数の選考委員から絶賛された希有な問題作である。


百年泥」が現れてから、物語は一気に非現実的な内容にシフトチェンジするのに、さらにこの上に「飛翔通勤」の設定が畳みかける。

たいてい毎朝9時ごろ、すでに30度をはるかに超える酷暑の中を私は会社玄関に到着する。その時ちょうど前方で脱翼した人をみると副社長で、「おはようございます」あいさつすると大柄な彼は私にむかって愛想よく片手を上げた。そのまま趣味のよいブルーのワイシャツの襟元をととのえつつ両翼を重ねて駐車場わきに無造作に放り出す、すると翼が地上に到達する直前に係員が受け止め、ほぼ一動作で駐車場隅の翼干場にふんわり置いた。

翼の話は、このあと、「百年泥」という魔法空間とはまったく別個に時々登場する。最初にこれを読んだときは、少し先の未来を描いたSFなのか、と思った。しかし、読了した上で振り返ると、物語は近未来ではなくあくまで現代の話で、これは単に「異文化」を表しているのだろうということがわかる。
ただ、何かの比喩というわけでなく、「異文化」を喩えるものとしては突飛過ぎる。これがいわゆる「マジックリアリズム」なのか。


さて、物語は、百年泥の中から出てきた諸々の物品、もしくは日本語授業の会話の端からつながった思い出話が次々と繰り出される形で進む。
その寄り道ぶりが激しいだけでなく、ときに、主人公でない人物が1人称で思い出話を語ったりもする。そして割合的には、本筋5%、寄り道95%なので、少し油断すると、誰がいつの話をしているのかだけでなく、自分が何を読んでいるのかを見失う状況が頻発した。


というようなドラッギーな読書体験が終盤まで続き、どう終わらせるんだろう?と思っていると、最終盤に突如、まとめの文章が入り、何となく納得。

かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。話されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。あったかもしれない人生、実際は生きられることがなかった人生、あるいはあとから追伸を書き込むための付箋紙、それがこの百年泥の界隈なのだ、(略)
こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか?しかしながら、百年泥からそれぞれ自分の記憶を掘り当てたと信じきってる人びとはそれどころじゃない、めいめい百年泥のわきにべったり座り込み、一人一人がここを先途と五巡目男にむかってかきくどくのだった。

つまり百年泥は、本当は無かった「if」の人生でありながら、自分の記憶と他人の記憶が混在している坩堝であり、そこには全部入っている。
著者は、チェンナイ市在住の日本語教師であるということなので、その「全部入っている」感覚は、おそらく著者自身がアダイヤール川から受け取る印象そのものなのだと思う。
物語全体からも、それは強く感じ、描かれるエピソードの中には、チェンナイに住むインドの人々の暮らしや考え方が伝わってくる部分も多い。「れない」結婚が基本的に許されない社会であることがわかる話も非常に興味深く、インドの人たちの日常について触れられる満足度もある。


ただ、繰り返すが、とにかくとりとめがない小説だ。チェンナイに無関係の人が書いていたら謎過ぎたが、見返しの著者紹介で「チェンナイ在住」という情報を知り、私小説要素が混ざっている小説なのだと少しだけ謎が解けた。単行本で読んだが、文庫版解説はは著者大学院時代の恩師、東大名誉教授の末木文美士氏だという。著者の人となりが気になるので、こちらの解説は読んでみよう。(なお、表紙は単行本の方が好き。)

あと、よく言うところの「マジックリアリズム」というのがこれなら、他のマジックリアリズム小説も読んでみたい。

あとはインドに関する興味がまた増したので、関連本も読み進めたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

反転すべきはそこじゃない~『月曜日のたわわ』の件

『月曜日のたわわ』という漫画の日経新聞の広告が問題になり、批判側、擁護側で意見が錯綜しています。


自分は、書店で単行本4巻(+青版)の「大きな広告」と面陳の本を見て『月曜日のたわわ』という漫画の存在を知りました。
そのときの感覚は、「このタイトルで、こんな大きな広告出していいのか?」でした。(ここは「不快」というより「気まずい」に近いでしょうか。男性側の性的視線を公の場で強調するのはやめてくれ、という感じです。)
だから日経新聞の広告に関して批判が出ているというニュースを知って、世間の反応として至極当然と感じました。


ただし、最初に結論を書けば、「この広告は規制すべきだ」とは考えません。
少なくとも、この「絵」だけで規制されたらたまりません。
個人的な感覚では、この「絵」に「タイトル」(特に「たわわ」という表現)が加わることが問題だろうと思います。自分が本屋で広告を見て「いやだな」と感じた理由がまさにそこにあるからです。
自分の気持ちとしては、「公の場に出してほしくない」広告であることは間違いないのですが、「規制すべきか」というと線引きが難しく、「表現の自由」の観点では、この話題は判断を保留中です。
したがって、以下は「表現の自由」の観点ではなく、主に「倫理」の観点(フェミニズム的観点)から、「月曜日のたわわ」問題について考えます。

自分が、twitterフェミニズム論争に辟易する理由

この種の話題は、これまでも「宇崎ちゃんポスター」や「温泉むすめ」等々、繰り返されてきましたが、個人的な感覚で言えば、Twitter上でフェミニズム関係の話題がトレンドに上がっているとき、「議論」を読んでも全く頭が整理されないのは、「表現の自由」からの主張と「フェミニズム」的な主張が混在しているからだと思います。そして、お互いの主張が全く議論の体を成さず、どちらかと言えば、アンチフェミ側の(相手の気持ちを全く考えない)「はい、論破」的まとめが人気があることが、うんざりしてしまう大きな原因です。


その種の「たわわ」擁護派の意見には、「イラストを見て不快に感じること」すら許さない極端なものもありますが、特にうんざりするのが、(フェミニスト側の人も陥ってしまう)ミラーリングを使った思考実験です。*1

  • 『月曜日のたわわ』の広告、どこに問題があるかわからないから、男性側に置き換えて考えてみよう
  • 今回、胸を強調していることが問題視されているが、(反転して考えて)男性の股間を強調した広告があったとしても自分は気にしない
  • いや、「女性の胸」に対応するものとして「男性の股間」を持ち出すのはフェアじゃない。やはり「男性の胸」で考えるべき
  • やっぱりどこに問題があるのかわからん
  • そもそも、イラストの少女の「大きな胸」を批判することは、バストが大きい女性を嫌な気持ちにさせるのでは?

といった流れのやり取りです。
「相手の立場に立って」思考を深めようとしているようで、ほとんど何も考えていない展開の仕方です。むしろ問題を矮小化してしまっています。
にもかかわらず、フェミニズム関係の話題では同種のアプローチで「ツイフェミを論破」して悦に入る流れは比較的多く見られ、そこが本当に不快です。

男女を反転させて考えるべきは「男性優位社会」

結論を言うと、何度も「フェミニズム側から蒸し返される」『月曜日のたわわ』的な問題は、「絵」そのものよりも、日本の男性優位社会とセットで問題視されているという認識が必要だと考えます。これは切り分けて語ることが出来ないし、ここからスタートしないと意味がありません。
(逆に、女性で「この絵に問題ない」と主張する方は、性差別の問題は感覚としてわかった上で切り分けて話をしていると考えます。これを性差別に無自覚な男性が「同志を得た」とするのは恥ずかしいです。)


そういう風に「男尊女卑」だとか「男性中心主義」「男性優位社会」と言うと、「俺は奥さんに頭が上がらない」とか「職場の女性上司に虐められている」とか「高校時代に女子からオタクとからかわれてトラウマになった」と、それを否定しようとする人もいます。
生まれたときから「そういう社会」なので、男性として持つ「特権」に無自覚になってしまうのもよくわかります。
しかし、特に今回は、同時期に、映画業界等の性加害の話題が継続して話題になっているのにもかかわらず、胸を張って否定できるのは何故だろうと不思議に思ってしまいます。


いや、それは特殊な業界の話題だろう、という人は、やはり最近話題になった「芸人のエレベータの話」をどう捉えるのでしょうか。(ほぼ同主旨の話題もリンクします)
diamond.jp
diamond.jp


ここで自分が繰り返す「特権」は、監督やプロデューサーが持つ具体的な権利ではなく、「不自由を感じなくて済む」「不便を感じなくて済む」「恐怖を感じなくて済む」特権です。
ここまで考えれば、『月曜日のたわわ』の広告を、男女の立場を入れ替えて考えようとするとき、広告の絵柄だけひっくり返す無意味さがわかるのではないでしょうか。
つまり、思考実験で反転させなくてはならないのは、広告ではなく、男性優位社会の方だと思うわけです。
例えば、ナオミ・オルダーマンの小説『パワー』はまさにその観点での男女逆転をテーマにしていて、「力」を得た女性たちが男性を蹂躙しながら世界を支配するさまが描かれます。『パワー』の描く女性優位社会では「月曜日のたわわ」の広告は全く問題にならないだろうことは容易に想像できます。また、このような社会を仮定して初めて「たま袋ゆたか」等の男性キャラクターのミラーリングが、男性にとって「不安なもの」「不快なもの」として意味を持ってきます。



ただ、男性皆がナオミ・オルダーマン『パワー』を読まなくてはならないのか、と言えば当然そんな必要はありません。
上に挙げたエレベータの話題を読めば、日常的な出来事でも男女の感覚には大きな差があり、男性側がその特権に無自覚であることに誰でも気がつくと思います。いわゆる「他人の靴をはく」感覚で、色々な人の立場に立って日々のニュースに接し、積極的に本を読むようにすれば良いのかと思います。

性暴力について考える

最後に、性暴力について扱われた記事を紹介します。
とても辛い内容ですが、男性は特に読むべき内容だと思います。

www.nhk.or.jp


被害者女性(そよかさん)が語った言葉を冒頭と終盤の文章からそのまま引用します。

裁判官・裁判員の方に知ってほしい・考えてほしいことは、本当の意味での「性暴力とは何か」ということです。社会が持っている誤った認識も、自身の中にある偏見も自覚してほしいのです。

私はこの場では被害者として立っていますが、「被害者」ではなく、意思を持った一人の人間です。「かわいそうな人」ではなく、みなさんと同じように普通に生きてきた、そしてこれからもみなさんと同じように生きていかなければならない一人の人間です。決して稀有な存在ではありません。

「性暴力は何に対する罪なのか」、考えてみてください。私は、性暴力とはひとりの人間から尊厳を奪う、意思を持った一人の人間を、ただの女あるいは男として、暴力の対象として、支配欲のはけ口として記号に押し込め、人格を深く傷つける、そういった罪だと考えています。

私は、加害者だけでなく、この世の中の仕組み自体が歪んだ認知の元に作られていることに、絶望しています。現在の日本の司法や仕組みの中では、どうにもできないことがあまりに多すぎるからです。これは男性中心主義の社会構造の問題でもあります。この社会へのどうにもすることのできない絶望と怒りは、話そうと思えば、何十時間でも話せます。それくらいに私の絶望は深いのです。日常的に性暴力が存在していても、二次加害をする人間がいても何もできない、被害自体、差別構造が存在していること自体否定される、これが私に見えている世界なのです。

ここ数年、フェミニズム関連の本を読むことが増え、性被害の問題についても少しは勉強してきたと思っていましたが、「被害者」の方の人生をここまで具体的に考えることはありませんでした。また、これまで問題の所在をひとりひとり(特に男性側)の差別意識に置いて考えていましたが、法制度などの社会のデザインの問題についてはあまり積極的に触れて来なかったように思います。
『月曜日のたわわ』の背後にある問題は、ここで書かれる「男性中心主義の社会構造の問題」と地続きだと考えています。そよかさんが受けた二次加害の問題は、twitterとも関連が深く、別問題と考えることは難しいです。


今回、今の自分が考えていることを一度整理しておく意味で、文章にまとめてみましたが、時間が経って読み返せば意見も変わっているかもしれません。
いや、むしろ、意識をアップデートしていくことは望むところなので、もっと本を読んだり考えていきたいと思います。
特に、自分が判断を保留にしている表現規制の問題を考える上でも、そよかさんが問題視した法制度などの社会のデザインについてもう少し勉強して考えていきたいと思いました。

過去日記

pocari.hatenablog.com

*1:フェミニスト側が、ミラーリングをしようと試みて失敗した典型例として、温泉むすことして生まれた「玉袋ゆたか」というキャラクターがあります→玉袋ゆたかとは (タマブクロユタカとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

死とどう向き合うか~井上靖『補陀落渡海記』×金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』

井上靖補陀落渡海記』

4月頭に家族で和歌山旅行に行った。時間の関係から、訪れることが叶わなかったが、旅先の候補として挙がっていた補陀落寺。その予習として読んだのが井上靖の短編「補陀落渡海記」。
裏表紙には以下のようにあらすじがあるが、一言で言えば「自らの死とどう向き合うか」についての話。

熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。周囲から追い詰められ、逃れられない。時を俟つ老いた住職金光坊の、死に向う恐怖と葛藤を記す

短編だが、一番のポイントは、絶妙な「状況設定」にある。(どこまで史実に基づいているのか)
あらすじには「観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う”慣わし”」とあるが、「渡海」に行くのは、悟りを開くのと同様、高位の僧が自由意志で挑戦すべきものだった。しかし、たまたま金光坊の前の住職が3代続けて61歳の11月に渡海を果たしたことから、「当然、金光坊さんもチャレンジするよね。あと5年後ですね。」「2年後ですね」「来年ですね」という周囲からのプレッシャーに負け、肚を決める。
小説は、基本的に金光坊の独白で進み、彼が見た渡海前の先代たちの状況がまず語られる。あの人は最期まで立派な僧侶だった、あの人は最期まで気難しかった…等々、彼らの様子を思い出し、その心境を推し量ったうえで次のように思う。

金光坊としては、自分の知っている渡海上人たちの誰とも別の顔をして渡海したかった。どのような顔であるか、勿論、自分では見当が付かなかったが、もっと別の、一人の信心深い僧侶としての、補陀落渡海者としての持つべき顔がある筈であった。どうせ渡海するなら、自分だけはせめてそうした顔を持ちたいと思った。

ところが、そのような「理想」は、渡海の時期が近づくにつれ崩れていく。
それどころか、何年も思考を重ねた死との向き合い方が、舟の小さな屋形の中に閉じ込められ海に流す段階、まさに土壇場になって「生への渇望」へと反転して、ジタバタする。

これこそ、年齢によって大きく印象が変わる小説だろう。もっと若い時に読んでいれば、金光坊の心変わりを「みっともない」と感じていたかもしれないし、「特殊な状況設定」を可哀想と思ったかもしれない。
しかし、年を重ねれば重ねるほど、実際には誰もが、金光坊にとっての「61歳の11月」に向かって進んでいることが実感としてわかってくる。日時が特定されていない分、先延ばしにしてしまっているが、「自らの死」(もしくは生)をどう捉えるかに、少しでも多く時間を割いた方が良いかもしれないと感じた。

金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』

【死にたいキャバ嬢×推したい腐女子】焼肉擬人化漫画をこよなく愛する腐女子の由嘉里。人生二度目の合コン帰り、酔い潰れていた夜の新宿歌舞伎町で、美しいキャバ嬢・ライと出会う。「私はこの世界から消えなきゃいけない」と語るライ。彼女と一緒に暮らすことになり、由嘉里の世界の新たな扉が開く――。推しへの愛と三次元の恋。世間の常識を軽やかに飛び越え、幸せを求める気持ちが向かう先は……。金原ひとみが描く恋愛の新境地。


補陀落渡海紀』との比較で言うと、主人公の由嘉里は、金光坊とは異なり、独白の世界から抜け、他者との対話の中で「愛する他者の不在(死)」とどう向き合うかについて思考を重ね、結果として「自らの生」を感じる。

他者とのわかり合えなさ

この物語が特殊なのは、由嘉里の”出会った世界”が、「他者とのわかり合えなさ」で満ちていること。
特に娘が小さいときに夫、娘と一緒に暮らすことを断念した小説家・ユキの言葉が印象的だ。消えたライを心配する由嘉里に対して、ユキは「死ねばいいのに」という言葉を発する。

「私はライさんに生きてて欲しい。幸せになって欲しい。生きて幸せになって欲しい、生きてて良かったって思って欲しいんです」(略)
「元夫が、知り合った頃同じようなことを言ってた(略)
何言ってんのこの人バカなんじゃないの?私のこと何にも分かってない、って思いながら、あなたと一緒にいれて幸せだよって答えた。言いながら寒々しくて忌々しくて鳥肌が立ちそうだった。この人とは永遠に見ている世界を共有できないだろうって思った。こういう人が絶滅すればいいのにって思った。本気で疎ましかった。死ねばいいのにって思った」(p104)

これを聞いて「酷過ぎる」と思った由嘉里は、一方で、半絶縁状態の母親のことを思い出し、自分のことを大切に思っている相手に対して「死ねばいいのに」と感じることがあることに気がつく。

さらにその後、別の場面でのユキの言葉はダメ押しだ。
自分はライと出会ったことで変わったのだから、自分もライを(生きようと思わせるように)変えたいという由嘉里の熱意を、ユキは否定する。

「それは自分を殺すことと一緒だよ。ライに対して自分の真実を押しつけようとする時、由嘉里だって苦しかったでしょ。それはそうすることで相手の大切な部分を殺してしまうからだよ。私たちは同じ世界を生きてないんだから。こっちのルールを押し付けたら向こうの世界は壊れる、向こうのルールを押し付けられてもこっちの世界は壊れる。離れた存在と近くで生きてると、必ずどちらかが壊れる」
「そんなこと言ったら、人は誰とも交わらずに自分一人の世界に閉じこもって生きていくことしかできないってことになりませんか?自分は人によって変えられるし、人は自分によって変えられていくものだと私は思います」
「人が人によって変えられるのは45度まで。90度、180度捻れたら、人は折れる。それはそれで死ぬよ」p192


そんな経緯を経て、由嘉里の気持ちは整理され、以下の引用部分は、ある意味では、この小説のメッセージの核の部分と言える。*1
ただ、場面としては母親からの愛情のこもった言葉を聞きながらのタイミング。目の前に自分に向かって喋っている人間がいるのに、ここにいない人に思いが向いてしまっているのがこの小説らしい。

好きなだけでは、足りないのだ。幸せを願うだけでは、足りないのだ。誰しも人と人との間には理解できなさがでんと横たわっていて、相手と関係継続を望むのであれば、その理解できなさとどう接していくか、どう処していくかを互いに考え続けなければならない。私はきちんとライに寄り添うことが、いや、寄り添わずとも優しくすることが、いや、優しくせずとも傷つけないでいることができていただろうか。きっと私ができる唯一のことはライを傷つけずにいることだけだったのだ。そのことを理解できずライを救いたいなんておこがましいことを考えていた自分の愚かさが憎くて、無力さが悲しくて、ライの気持ちを思うと苦しくて、とめどなく涙が流れ、私は野太い声を上げて肩を震わせた。(p206)


さて、問題を難しくしているのは、希死念慮の消えないライの「反出生主義」のような考え方だ。
由嘉里や周囲の人間は、ライに生きて欲しいと思っているが、ライは世界から消えたいと何度も口にする。
どんな相手に対しても「わかりあえない部分」があるとして、それが、「生きたい/死にたい」という、本来、議論の余地もないほど基本的な部分での意見のすれ違いだった場合は途方に暮れてしまう。


後半、由嘉里とアサヒが、ライの元彼である鵠沼藤治のもとを訪ねると、本人は精神病院に入院しているとのことで、両親が応対する。この両親の息子への思いは、まさに由嘉里のライに対する思いと同じものだ。

私たちもずっとそれです。どうして、って。毎日毎日、ずっと思ってます。皆そうなんですよ、大切な人が生きようとしてくれない人は、皆そうしてすり減っていきます。彼は死んでしまったほうが楽なんじゃないかって自問自答しながら、それでも大切な人に月並みな幸せを手に入れて欲しくて、どうしたら生きようとしてくれるのか、どうしたら少しでも楽になるのか、医学書を読んだり、哲学書を読んだり、メンタルヘルス関連の本、スピリチュアル的な本にすがったり、試行錯誤しては打ち破れています。(略)でも彼は何をしても前向きになってはくれない。p167

視線を合わせた藤治の母親は目が窪んでいて、私は強いシンパシーを感じる。そして唐突に、ライへの疑問が膨らんでいくのを感じた。ユキも藤治も、絶望して苦しんで七転八倒して傍目にも分かるほど手助けが必要な状態であるのに、ライはなぜあんなにも飄々と、ただ「自分がいないのが自然な状態だと思っている人」なのだろう。(略)どうしたらいいんだろう。何の執着もない人になにかに執着して欲しい、してくれと願う自分が正しいのか愚かなのか分からない。p171

繰り返すが、小説の中では、結局「わかり合えない」ことが強調される。
「それでもわかり合える努力を」という試みはむしろお互いを壊すことになりかねない。
だからこそ「わかり合えない」ことを前提として前を向く必要があるというのが小説のメッセージなのだろう。

他者の不在(死)とどう向き合うか

もう一つのテーマは、他者の不在(死)とどう向き合うか。最終盤で、由嘉里が、ライの元恋人である鵠沼と電話で話す場面がある。


鵠沼の「死」の捉え方は独特で、「ライが消えた」事実に全く動じない。由嘉里は鵠沼の母親には共感したが、鵠沼本人の考えには全く賛同できない。(だからこそ、ともに理解の範疇外にいる、ライと鵠沼は仲の良い恋人だったのだろうと考える。)

僕は死について考え続けた挙句、この世界では誰も死なないという認識にたどり着きました。だから、誰かが死んだと聞いても本当にその人が死んだとは思わない。僕の世界には死はなくて、むしろ、吸収に似たものと捉えています。死とは、何かに吸収されていくこと。煙になったり土になったりして、何かに溶け込んでいく。記憶として残った誰かの中に吸収されていく。死は存在せず、吸収だけがある。僕はそう考えています。p220


由嘉里は共感できなかった鵠沼の話だが、一読者としては興味深く読んだ。ずっと会っていない友人の死を突然メールやSNSで知らされても、それに対しては「誰かが死んだと聞いても本当にその人が死んだとは思わない」という感想しか抱けない。それは少なくとも自分にとっては、彼の「死」ではなく「記憶として残った誰かの中に吸収されていく」ことと同じだ。


そんな中で、バー「寂寥」のマスター・オシンの言葉は「ライが消えた事実」よりも「ライと再会する希望」にシフトする考え方だ。受け入れやすい内容だし、歌舞伎町に生きていく者の知恵を感じる。
このような考え方は、実際に相手が死んでしまっていたら採れない考え方にも思えるが、鵠沼理論と合わせて「死は存在しない。再会できるかもしれない」と思い込むのも一つの考え方な気がする。実際、そこにあまり差はない。

私たちの街では、いつも人が入れ替わっていくのよ。どんなに頻繁に通ってる常連だってある日突然来なくなったりする。(略)ライは死んじゃうかもしれない。でも生きてて、5年後に現れるかもしれない。再会した彼らは幸せそうだったり、不幸そうだったりまちまちよ。でも彼らとまた出会うって、再会するっていう希望は私たちに残されてる。私たちがそれを持ち続けることは、誰にも、神様にも、いなくたっていく彼らにも止められないし、左右できないこと。片思いを何年もしちゃうような慎ましい私たちに残された、ささやかで強い力よp181

推し活(オタク)の扱われ方

この小説のもう一つの特徴は、由嘉里のオタク独特の早口で情報分析的な語りが、実際のそれをトレース出来ていること。
焼肉擬人化漫画「ミート・イズ・マイン」が架空のものと思えないほど真に迫っている。
それは、作者の金原ひとみが、こういったオタク気質を好意的なものとして捉えて書こうとしたことを思わせるし、物語の中でずっと由嘉里をサポートしてくれたホスト・アサヒの言葉からもわかる。

…自由って不安だし、憂鬱です。無条件に愛してくれた父親は死んで、母親とは半絶縁状態、あんな風に謝られても一緒にいたいとは思わないし、ずっと一緒にいたかったライさんは消えて、恋人もいない。職場では存在感も存在意義も希薄な代替可能がすぎるアラサー行員。腐友はいるけど、私を強く求めてる人は一人もいない。重力がなくなったみたいなまま、私は生活の場を定めなきゃいけない。(略)もちろん恋愛してたり仕事にやりがいを感じてる人は絶対めっちゃ幸せだなんて幻想持ってないですよ。でもしみじみ思うんです。私の心は糸の切れた凧みたいだなって。指針も指標もないなって」
「恋愛みたいな強烈なあれじゃないけど、オシンとユキと俺はずっとゆかりんのことを頭の片隅に置いてるよ。それに、ゆかりんにはミート・イズ・マインがある。強い情熱が、そこにはあるだろ?求められる、だけじゃなくて、求める、だってゆかりんを地上に繋ぎ止める強い力だよp216


調べてみると、ミート・イズ・マインは『ヘタリア』がインスパイア元、というインタビュー記事が出てきたが、これを読むと、金原ひとみの由嘉里への優しい視線を感じて、とても嬉しくなる。「わかりあえなさ」や「他者の不在(別れ)」を題材にしていても小説が暗くならないのは、由嘉里の成長と、それを見る金原ひとみの「書いている私も嬉しかった」という気持ち故かなと思った。

タイトルにもあるように、彼女はいろんな人と出会って、見る世界がどんどん広がっていく。おかげで自分に必要なものを自分で認められる強さを得ていくんですよね。見た目的なところは変わってなくても、きっと一緒にいるみんなには、彼女がどんどん自信を持っていって、自分がどういう人なのかということに自覚的になっていく姿が見えていただろうと思いますし、書いている私も嬉しかったです。
金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』刊行記念インタビュー「真逆の二人がぶつかった先に生まれる、新たな愛の形」 | 集英社 文芸ステーション


全く違ったタイプの2冊だったが、他人の、そして自分の死を考えるきっかけになる本となった。
結局、考え続ける必要があるということなのだろう。
上のインタビュー記事にも同様のことが書いてあり、この部分にも納得だ。
ここで挙げられているイ・ランさんのエッセイ集も読んでみたい。

──調整し続けるって、思考し続ける「体力」がないとできないですよね。でもSNSに象徴されるように、現実の社会では速くて強い言葉が求められがちという。

そうなんですよね。でも、簡単な結論を出すことは避けたいと思っていて。だってツイートの140字とか、TikTokの何秒、何分にすべてをまとめるなんていうことは絶対無理で、ぐだぐだと答えが出ないことを考え続けることこそが生命力だとも思うし、生きるための知恵みたいなものにつながっていくと思うんですよね。
このあいだイ・ランさんの『話し足りなかった日』という最新エッセイ集を読んだのですが、彼女はものすごいぐだぐだ悩むんですよね。日常のこととか人間関係とか、お金がないことについてめちゃくちゃぐだぐだと書いていて。そこがもうとにかく「人間」過ぎてやばいなと(笑)。あんな濃度の高い人間のモノローグに触れたのはすごく久しぶりだなと思ったし、結局は彼女みたいに考え続けないと本当の意味で生きていくことさえもできないんだという、諦めにも似た覚悟みたいなものを持って小説を書いていきたいなと思いました。
金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』刊行記念インタビュー「真逆の二人がぶつかった先に生まれる、新たな愛の形」 | 集英社 文芸ステーション

*1:なお、由嘉里がオタク気質で饒舌であることが、小説内でのメッセージも饒舌になっているが、自分にとってはそれはプラスと感じた

忙しい現代人に刺さるロボットSF~チョン・ソンラン『千個の青』

表紙イラストから受ける印象の通り、とても爽やか、でも力強い物語。あらすじとしては、Amazon等にある短めのものよりも少し長めの以下の方がストーリーの要点を抑えている。

故障のため安楽死させられる競走馬・トゥデイと、廃棄直前のロボット騎手・コリー。一頭と一体を救おうとする、少女たちの物語―。小児麻痺で車椅子に乗る17歳のウネと、ロボット研究者の夢に挫折した15歳のヨンジェ。深い諦念を抱えつつ懸命に生きる姉妹は、たった千個の単語しか知らないロボットのコリーによる、素直で率直な意見に心を動かされていく。ヨンジェの才能を利用するため彼女をロボットコンテストへの出場に誘うクラスメイトのジス、競走馬のトゥデイ、残酷な運命に心を痛める獣医ポッキ。ぶつかり合いながらも、それぞれが自分の望みと向かい合うとき、トゥデイとコリーの運命は大きく転回していく…!韓国科学文学賞大賞受賞作品。

メッセージが道徳的過ぎる、善いひとしか出てこないといった文句のつけ方はあるかもしれないが、自分にとっては大好きな、大切な一冊となった。


冒頭にラストシーンを持ってくる、いわゆる倒叙式の語り口で、展開も予想できるにもかかわらず、先を読み進めたくなるのは、そこに「思想」があるから。ヨンジェ、ウネの二人の姉妹、二人の母親のボギョン、そして何よりロボットのコリーがどう考えて物事が進むのか?そこに惹きつけられる物語だった。


物語の大きな設定は、競馬における騎手のヒューマノイド化。騎手がヒューマノイドに置き換わることにより重量が軽くなり、人命の問題もなくなることで高速化が進む。一方で、高速化が進むことで馬への負担が大きくなり競走馬としての寿命も短くなる。トゥデイのように走れなくなった馬に残された道は安楽死ということになる。
かつて騎手を務めたロボットのコリーは、そんなトゥデイを助けてあげたいという。
どのような方法でコリーを「助ける」のか?と言うのが物語の大きなポイントになっている。


少し先の近未来を描く物語とは言え、取り上げられる問題はとても現代的。特に、最低賃金引上げ(+ヒューマノイドの導入)によってヨンジェがバイト先をクビになる最初のシーンは、最近の韓国の状況とマッチしているし、裕福なジスの家庭との比較の中で描かれる格差の問題も同様。考え方こそ広まれど遅々として進まないバリアフリーの問題。
そして、貧富や障害の問題に対して、常に「負い目」という視点が入ることで、単なるポーズではなく読者に問いかける物語になっていると感じた。

ボギョンとウネの考え方

母親ボギョンは、娘のウネが小児麻痺と診断されても泣かなかった。その支えとなっていたもののひとつは生体適合性に優れた義足だった。
しかし、結局、義足は高額で保険が利かないことがわかり、ボギョンは泣く。

病気でも、患者でも、家族間の傷つけ合いでも、他人の視線でもない。お金さえあればできることが叶わず、さめざめと泣いた。(略)人生であれほど惨めでやるせない思いをしたことは後にも先にもない。(略)その日、ボギョンが声を殺して泣いていた深夜、ウネが長いあいだドアの前を行ったり来たりした末に、静かに車椅子で自室に戻っていたことを、ボギョンは知らなかった。
その日からボギョンとウネのあいだには、晴らすことのできない負い目が積もっていった。誰のせいにもできないのだから、けっきょくはお互いが抱えるしかなかった。p165

また、ウネが社会に対して感じる「負い目」も読者の身近にあると思わせるものだ。

学校は車椅子で家から30分ほどの場所にあった。(略)肉体的にはかなりつらかったが、それでもバスよりましだった。ウネも乗れる低床バスだったが、”お荷物”になっている感が拭えなかった。登校時は音楽を聴くこともできなかった。通りすがりの人たちに頻繁に声をかけられるからだ。そこ気をつけて。前になにかあるよ。後ろから車が来る…。ごくたまに、下り坂を進むウネの車椅子を、黙って”助けてくれる”人もいた。”助けてくれる”と表現したくはないが、彼らの立場からすればそうなのだ。(略)
笑わなければならない。人々がウネに望むのは、どんな困難な状況にも笑顔で立ち向かう前向きなエネルギーだった。ウネもまた、なにを望まれているのかわかっている。けれど、そうやすやすと、彼らの人生の慰めや希望になりたくはなかった。自分の人生は自分だけで完結してよ、ときどき、マイクに向かってそう叫びたくなるほどだった。p170


足の故障でレースを離れている競走馬のトゥデイを見ながら、ウネは次のように語る。

「わたしもトゥデイを助けてあげられる人間だったらよかったのに。お互い、なんだってこんなに苦労しなきゃならないんだろうね」
「でも、だからって脚を治したいわけじゃないのよ。そりゃあ治るに越したことはないけど、治らないからって不幸なわけじゃないわ。それでも生きていけるんだし」
「ただ、不便なだけ。このタイヤじゃ、上れない階段や行けない場所が多すぎるもの。テクノロジーが発達して、ロボットだって馬に乗れる時代なのに、どうしてわたしはまだこんなものに乗ってるのかなって。そう思わない?」
「あなたもわたしも、自分でちゃんと生きていけるのにね。かならずしも助けが必要なわけじゃないのに、そうでなきゃならない、助けがなきゃ生きていけない…勝手にそんなふうに思われることにはもううんざり。お母さんは、いい大学に入って、立派に生きていけるんだってことを知らしめてやれって言うけど、どうしてわざわざそんなふうに自分の存在を証明しなきゃならないんだか。あのね、わたし、旅をしながら暮らしたいの。カメラを手に、行ったことのない場所がないくらいたくさん」
p207-208

ウネは「不便」に困っているが、誰かに助けてほしいわけではない。むしろ「助け」から自由になりたい。周りの目を気にせずに生きたい。

コリーの理論

コリーはタイトル通り千語の言葉からスタートしたロボットだからとても純粋。最近はやりの漫画で言えば『タコピーの原罪』のタコピー、『シンエヴァンゲリオン』の綾波レイのように物事を考える。
物語の核とも言える、コリーの「幸せ」に対する考え方は、ボギョンとの対話の中で確立されていく。

「時間はそれぞれに流れ方が異なるのだという理論は、ヨンジェに聴きました。そう感じるのではなく、実際にそうなのだと。ぼくがトゥデイと一緒に走るときに感じた、時間が縮むかのような現象は実際のものなのだと。命を持つものはみんな、それぞれの時間の中に生きているようです」
「…そうね、違うわね」
「とすると、人間は一緒にいても、みんなが同じ時間を生きているわけではないんですね」
「…」
「同じ時代を生きているだけで、互いに交わらないそれぞれの時間を送っている。合ってますか?」(略)
「あなたの時間はどんなふうに流れていますか?」(略)
「わたしの時間は止まってるの」(略)
「なぜですか?」
コリーが訊いた。
「流れさせる方法を忘れてしまったから」(略)
悲しみを経験した人たちの時間はどんなふうに流れるのだろうか。本当はみんな、止まっているんじゃないだろうか。地球上にはもうひとつ、そんなふうに時間の淀んでいる世界があるのではないか。その時間を流れさせるためには、いったいなにをすればいいのか。
「それなら、ゆっくりゆっくり動くことですね」
コリーがボギョンのほうへ、もう少し体を向けた。
「止まった状態から速く走るためには、瞬間的に大きなエネルギーが必要ですから。あなたが言った、恋しさに勝つ方法と同じじゃないでしょうか。幸せだけが恋しさに勝てる、ってやつです。一日の幸せをゆっくりゆっくり積み重ねていけば、いつかは現在の時間が、止まった時間をゆっくりゆっくり流れさせるはずです」p275-278

コリーの言う「幸せ」な状態が何を指すのかは、ヨンジェとの受け答えの中で説明される。

「幸せを感じています。トゥデイが走るときのように、あなたも」
「コリーに幸せがどんなものかわかるの?」
ヨンジェはからかうように言ったが、内心では、コリーがいったいなにを基準に幸せを語っているのか心から知りたかった。トゥデイをもう一度コースに立たせようと言い出したのも、コリーだった。
「幸せとは、生きていると感じる瞬間のことです。生きているということは呼吸をしているということで、呼吸は振動として感じられます。その振動が大きいときこそが、幸せな瞬間です」
コリーの言葉が理解できず、ヨンジェはあいまいにうなずいただけで、ティスプレイに視線を戻しながら言った。
「でも、コリーには感じられないでしょ?」
幸せというものはけっきょく、自分が感じられなければこの世でいちばん無駄な単語ではないか。
「ぼくも感じます」(略)
「ぼく自身は呼吸できないけど、間接的に感じます。そばにいるヨンジェが幸せなら、ぼくも幸せです。ぼくを幸せにしたかったら、ヨンジェが幸せになればいい。どうですか?」p293-294

もともと、コリーが助けたいのはトゥデイだったが、人と話す中で、ボギョンの気持ちも楽にするし、ヨンジェに対してもプラスの影響を与える。
コリーは一日の幸せをゆっくりゆっくり積み重ねていけば、悲しみに打ち勝てるという。一方で、コリーは、「幸せとは、生きていると感じる瞬間」だという。
つまり、反対に言えば、多くの人が「生きている」「呼吸をしている」と感じることがないくらい「急いで暮らしている」ことを意味する。それは韓国でも日本でも同じだろうと思ったが、ウネとヨンジェは17歳と15歳。日本人だったらもっと素朴に生きている年代であることを考えると、韓国の方がもっと時間的猶予がなく、「早い」世の中なのかもしれない。

ヨンジェの考え方

コリーと「幸せ」について話したあとの会話で「そばにいる人の不幸」は感じないというコリーに対してヨンジェは羨ましいと言い、「家族の不幸と向き合うことは、わたしが目を背けてた自分の不幸と向き合うことでもある」からと会話を切り上げてしまう。


このあと、ヨンジェとジスが喧嘩から仲直りする流れがある。

理解されるのを諦めることは、理解するのを諦めることと同じだ。ヨンジェは相手の行動にいちいち理由を付けなかった。人の行動を、そういうものか、と受け流した。相手が自分を好きでそうしているのか嫌いでそうしているのかといったことを考えるには、あまりに多くの思いやりを要するからだ。他人の理解を諦めれば、あらゆることが楽になった。関係に期待しないため、傷つくこともない。少なくともジスに会うまで、ヨンジェの世界は平穏このうえなかった。風ひとつ吹かない静けさ。それは寂寞でもあった。p318

そんなかつての自分を捨て、(コリーのアドバイスから)「言葉にしなければ相手の本音もわからない」と知ったヨンジェはジスと仲直りを果たし、大学入試のかかったロボット開発の大会当日にウネに訊く。

「姉さんは自由になりたいんだよね?」
「わたしはいまも自由よ」
p326

ここは、ひとことだけの会話のやり取りだが、ヨンジェが感じていた「家族の不幸」の一部が、「言葉のやりとり」によって事実ではなく「決めつけ」に過ぎなかったことを知り、ラストのスピーチに繋がる重要場面。


そしてやはり最後のスピーチ。短いけれど、これまでのまとめになっていて感涙。
ロボットコンテストでヨンジェとジスが提案したのは「ソフトホイール・チェア」という障害物も乗り越えるタイプの車椅子。プレゼン全体はジスが行ったあとで審査委員から質問が行き、ここで初めてヨンジェが答える。

いったん外出しようと思ったら、ほかの人たちよりもたくさんの準備が必要な人がいます。でも、準備すればかならず外出できるというわけでもありません。意志や実力が足りないわけでもないのに、諦めるしかない場合も多々あります。難しいんです。助けなしには進めない道がたくさんあるからです。手術を受ければいいじゃないかと簡単に言う人もいますが、その手術にかかる費用は、ある人にとっては不可能にも等しい金額です。それに、その人は、わたしたちのような完全な脚が欲しいわけでもない。脚は目に見える形でしかありません。本当に欲しいのは自由です。行こうと思えばどこへでも行ける自由。そのためにはたくさんのお金ではなく、とてもよく作られた、上れないところも越えられないところもないタイヤさえあればいいんです。文明が階段をなくすことができないなら、階段を上れるタイヤを作ればいい。テクノロジーとは、弱者を助けるのではなく、いまも強い人をさらに強くするために発達すべきだと思っています」

ここでヨンジェは、ウネのことを「いまも強い人」と言う。「助けが必要な人」とは捉えない。
「助け」が欲しいのではなく「自由」が欲しいのだ。ウネは「いまも自由」と言っていたが、さらなる自由が欲しいのだ。
読者は、同じような立場にいる人たちの多くがウネのように考えているだろうと理解し、想像する。物語にとどまらず、実人生に影響するという点では、この本は一種の自己啓発本とさえいえる。


そして物語の最後には、シンプルだけれど、読者に向けて書かれた、力強いメッセージがある。ここまで行くと、説教くさくて嫌だという人もいるだろうが、自分は好みなので気にならない。とてもいいと思う。

わたしたちはみんな、ゆっくり走る練習が必要だ


ところで、『わたしたちが光の速さで進めないなら』のキム・チョヨプも可愛らしい感じだったが、作者のチョン·ソンランは女優並みの美貌を誇る。だからとは言わないが、キム・チョヨプもチョン・ソンランも、柔らかい優しい未来を描くSF作家ということで、今後も気にしていきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
まさかの3連続SF!

研究報告風SFの衝撃~柴田勝家『アメリカン・ブッダ』

もしも荒廃した近未来アメリカに、 仏陀を信仰するインディアンが現れたら――未曾有の災害と暴動により大混乱に陥り、国民の多くが現実世界を見放したアメリカ大陸で、仏教を信じ続けたインディアンの青年が救済を語る書下ろし表題作のほか、VR世界で一生を過ごす少数民族を描く星雲賞受賞作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」、『ヒト夜の永い夢』前日譚にして南方熊楠の英国留学物語の「一八九七年:龍動幕の内」など、民俗学とSFを鮮やかに交えた6篇を収録する、柴田勝家初の短篇集。解説:池澤春菜

SFは嫌いではないのに常に敷居の高さを感じてしまうので、2冊SFが続くのは珍しい。
とはいえ、前回取り上げた『わたしたちが光の速さで進めないなら』  とは全く違ったタイプのSF。
自分はSFを類型化できるほど読んでいないので、細かく語ることは難しいが、2冊とも設定が詳細なハードSFというものではなく、むしろワンアイデアものなのだが、大きく異なるのは、ストーリーの語られ方。


アメリカン・ブッダ』では、冒頭の星雲賞受賞作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」が典型的だ。冒頭部分を引用する。

中国南部、雲南省ベトナムラオスにまたがるところに、VRのヘッドセットをつけて暮らす、少数民族スー族の自治区がある。
彼らは生まれた直後に、ヘッドセットをつけられ、仮想のVR世界の中で人生を送る。首長族として知られるカヤン族が、幼少期から真鍮製の首輪をつけ、それを次第に増やすのと同様に、彼らもまた、長ずる程に独自の装飾が施されたヘッドセットへとつけ替えていく。

タイトルから面白いし、この切り口の面白さと「出落ち感」がたまらない。
ただ、この、エンターテインメントというよりは研究報告的な語り口でも、読者の興味を持続させる強さを持っている。
この作品について言えば、冒頭ですべては語られていて、ラストに大きな展開があるわけではない。手品で言えば、最初からトランプは宙に浮いているし、寝そべった人は胴体が真っ二つになって登場している。
『わたしたちが光の速さで進めないなら』が、世の中に不思議な出来事が起き、対社会の中でのわだかまり(多くは差別にかかわること)を抱えた登場人物が、不思議な出来事と向き合い、最終的に読者に「秘密」が明かされる、というような「通常の物語」の手順を踏むのとは対照的だ。


アメリカンブッダ』の中でもう一つ挙げるなら「検疫官」だろうか。こちらも冒頭部分から引いてみる。

ジョン・ヌスレは自分の職業に誇りを持っていた。空港で働く検疫官だった。
感染症を国内に持ち込ませないという崇高な使命を持った仕事である。ただし動植物や食べ物に対する検疫ではない。それは人から人へ伝染し、流行すれば甚大な被害を及ぼすもの。比喩的には病原体とも言えるだろうが、感染した時には体よりも思想に害をなすだろう。
つまり物語である。

…という世界。アイデア出しの段階では「面白いかも」と思っても、色々と無理があり過ぎる設定なので通常はストーリーにならないと思う。
でもちゃんと短編として成立している。
物語禁止令の出された国では、スポーツ競技はトラック競技のみが盛んになる。娯楽は数遊びが中心になり、主人公は数独に熱中する。確かにそうかもしれないと思わせる迫力がある。(ちょっと笑ってしまうが)


表題作「アメリカン・ブッダ」は、「未曾有の災害と暴動により大混乱に陥り、国民の多くが現実世界を見放したアメリカ大陸で、仏教を信じ続けたインディアンの青年が救済を語る」と書くと、これも「出落ち」感が強い。
しかし、映画『インセプション』を思わせる仮想世界「Mアメリカ」の設定が面白く、むしろ仮想世界ものとして楽しく読むことができた。伊藤潤二『長い夢』にも通じるが、仮想世界で時間の進み方が現実よりも遅くなる、という話は自分の好みなのだろう。


そして、最も面白く読んだ「鏡石異譚」も時間を扱うタイムトラベルもの。
これは、前言を撤回するようだが、ラストに向けて謎が明らかになっていくタイプの物語で、「記憶子」という仕掛けも巧く、一番SFらしさを感じた。(やはりこうしてみると「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」が異常すぎるのかもしれない)


英国留学中の南方熊楠が登場する「1897年:龍動幕の内」は長編『ヒト夜の永い夢』の前日譚ということだ。この人の書く長編がどんなものなのかとても気になるので、ぜひ『ヒト夜の永い夢』も読んでみたい。(Amazonレビュー見たら宮沢賢治も登場するのか!これは読みたい!)


ところで解説の池澤春奈のはしゃぎっぷりが面白い。肩書が「声優」になっているが、この文庫本が出た直後の2020年9月には日本SF作家クラブの会長に就任している。組織の一番偉い人が誰よりもはしゃいでいる感じは『映画大好きポンポさん』のポンポさんを想起させる。解説ではカッツェこと柴田勝家さんの、親しみやすい印象的なエピソードが語られているが、専攻が民俗学ということを知り、作品に強く反映されているという実感から感心した。なお、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」の電子書籍版のボーナストラックは「星の光の向こう側『アイドルマスターシンデレラガールズ ビューイングレボリューション』体験記」だという。ちょっと衝撃的だ。これは読まなくては。



『わたしたちが光の速さで進めないなら』『アメリカン・ブッダ』をまとめると、SFは、むしろ短編集ならもっと読めるのではないか?そんな希望を持った2冊でした。