表紙イラストから受ける印象の通り、とても爽やか、でも力強い物語。あらすじとしては、Amazon等にある短めのものよりも少し長めの以下の方がストーリーの要点を抑えている。
故障のため安楽死させられる競走馬・トゥデイと、廃棄直前のロボット騎手・コリー。一頭と一体を救おうとする、少女たちの物語―。小児麻痺で車椅子に乗る17歳のウネと、ロボット研究者の夢に挫折した15歳のヨンジェ。深い諦念を抱えつつ懸命に生きる姉妹は、たった千個の単語しか知らないロボットのコリーによる、素直で率直な意見に心を動かされていく。ヨンジェの才能を利用するため彼女をロボットコンテストへの出場に誘うクラスメイトのジス、競走馬のトゥデイ、残酷な運命に心を痛める獣医ポッキ。ぶつかり合いながらも、それぞれが自分の望みと向かい合うとき、トゥデイとコリーの運命は大きく転回していく…!韓国科学文学賞大賞受賞作品。
メッセージが道徳的過ぎる、善いひとしか出てこないといった文句のつけ方はあるかもしれないが、自分にとっては大好きな、大切な一冊となった。
冒頭にラストシーンを持ってくる、いわゆる倒叙式の語り口で、展開も予想できるにもかかわらず、先を読み進めたくなるのは、そこに「思想」があるから。ヨンジェ、ウネの二人の姉妹、二人の母親のボギョン、そして何よりロボットのコリーがどう考えて物事が進むのか?そこに惹きつけられる物語だった。
物語の大きな設定は、競馬における騎手のヒューマノイド化。騎手がヒューマノイドに置き換わることにより重量が軽くなり、人命の問題もなくなることで高速化が進む。一方で、高速化が進むことで馬への負担が大きくなり競走馬としての寿命も短くなる。トゥデイのように走れなくなった馬に残された道は安楽死ということになる。
かつて騎手を務めたロボットのコリーは、そんなトゥデイを助けてあげたいという。
どのような方法でコリーを「助ける」のか?と言うのが物語の大きなポイントになっている。
少し先の近未来を描く物語とは言え、取り上げられる問題はとても現代的。特に、最低賃金引上げ(+ヒューマノイドの導入)によってヨンジェがバイト先をクビになる最初のシーンは、最近の韓国の状況とマッチしているし、裕福なジスの家庭との比較の中で描かれる格差の問題も同様。考え方こそ広まれど遅々として進まないバリアフリーの問題。
そして、貧富や障害の問題に対して、常に「負い目」という視点が入ることで、単なるポーズではなく読者に問いかける物語になっていると感じた。
ボギョンとウネの考え方
母親ボギョンは、娘のウネが小児麻痺と診断されても泣かなかった。その支えとなっていたもののひとつは生体適合性に優れた義足だった。
しかし、結局、義足は高額で保険が利かないことがわかり、ボギョンは泣く。
病気でも、患者でも、家族間の傷つけ合いでも、他人の視線でもない。お金さえあればできることが叶わず、さめざめと泣いた。(略)人生であれほど惨めでやるせない思いをしたことは後にも先にもない。(略)その日、ボギョンが声を殺して泣いていた深夜、ウネが長いあいだドアの前を行ったり来たりした末に、静かに車椅子で自室に戻っていたことを、ボギョンは知らなかった。
その日からボギョンとウネのあいだには、晴らすことのできない負い目が積もっていった。誰のせいにもできないのだから、けっきょくはお互いが抱えるしかなかった。p165
また、ウネが社会に対して感じる「負い目」も読者の身近にあると思わせるものだ。
学校は車椅子で家から30分ほどの場所にあった。(略)肉体的にはかなりつらかったが、それでもバスよりましだった。ウネも乗れる低床バスだったが、”お荷物”になっている感が拭えなかった。登校時は音楽を聴くこともできなかった。通りすがりの人たちに頻繁に声をかけられるからだ。そこ気をつけて。前になにかあるよ。後ろから車が来る…。ごくたまに、下り坂を進むウネの車椅子を、黙って”助けてくれる”人もいた。”助けてくれる”と表現したくはないが、彼らの立場からすればそうなのだ。(略)
笑わなければならない。人々がウネに望むのは、どんな困難な状況にも笑顔で立ち向かう前向きなエネルギーだった。ウネもまた、なにを望まれているのかわかっている。けれど、そうやすやすと、彼らの人生の慰めや希望になりたくはなかった。自分の人生は自分だけで完結してよ、ときどき、マイクに向かってそう叫びたくなるほどだった。p170
足の故障でレースを離れている競走馬のトゥデイを見ながら、ウネは次のように語る。
「わたしもトゥデイを助けてあげられる人間だったらよかったのに。お互い、なんだってこんなに苦労しなきゃならないんだろうね」
「でも、だからって脚を治したいわけじゃないのよ。そりゃあ治るに越したことはないけど、治らないからって不幸なわけじゃないわ。それでも生きていけるんだし」
「ただ、不便なだけ。このタイヤじゃ、上れない階段や行けない場所が多すぎるもの。テクノロジーが発達して、ロボットだって馬に乗れる時代なのに、どうしてわたしはまだこんなものに乗ってるのかなって。そう思わない?」
「あなたもわたしも、自分でちゃんと生きていけるのにね。かならずしも助けが必要なわけじゃないのに、そうでなきゃならない、助けがなきゃ生きていけない…勝手にそんなふうに思われることにはもううんざり。お母さんは、いい大学に入って、立派に生きていけるんだってことを知らしめてやれって言うけど、どうしてわざわざそんなふうに自分の存在を証明しなきゃならないんだか。あのね、わたし、旅をしながら暮らしたいの。カメラを手に、行ったことのない場所がないくらいたくさん」
p207-208
ウネは「不便」に困っているが、誰かに助けてほしいわけではない。むしろ「助け」から自由になりたい。周りの目を気にせずに生きたい。
コリーの理論
コリーはタイトル通り千語の言葉からスタートしたロボットだからとても純粋。最近はやりの漫画で言えば『タコピーの原罪』のタコピー、『シンエヴァンゲリオン』の綾波レイのように物事を考える。
物語の核とも言える、コリーの「幸せ」に対する考え方は、ボギョンとの対話の中で確立されていく。
「時間はそれぞれに流れ方が異なるのだという理論は、ヨンジェに聴きました。そう感じるのではなく、実際にそうなのだと。ぼくがトゥデイと一緒に走るときに感じた、時間が縮むかのような現象は実際のものなのだと。命を持つものはみんな、それぞれの時間の中に生きているようです」
「…そうね、違うわね」
「とすると、人間は一緒にいても、みんなが同じ時間を生きているわけではないんですね」
「…」
「同じ時代を生きているだけで、互いに交わらないそれぞれの時間を送っている。合ってますか?」(略)
「あなたの時間はどんなふうに流れていますか?」(略)
「わたしの時間は止まってるの」(略)
「なぜですか?」
コリーが訊いた。
「流れさせる方法を忘れてしまったから」(略)
悲しみを経験した人たちの時間はどんなふうに流れるのだろうか。本当はみんな、止まっているんじゃないだろうか。地球上にはもうひとつ、そんなふうに時間の淀んでいる世界があるのではないか。その時間を流れさせるためには、いったいなにをすればいいのか。
「それなら、ゆっくりゆっくり動くことですね」
コリーがボギョンのほうへ、もう少し体を向けた。
「止まった状態から速く走るためには、瞬間的に大きなエネルギーが必要ですから。あなたが言った、恋しさに勝つ方法と同じじゃないでしょうか。幸せだけが恋しさに勝てる、ってやつです。一日の幸せをゆっくりゆっくり積み重ねていけば、いつかは現在の時間が、止まった時間をゆっくりゆっくり流れさせるはずです」p275-278
コリーの言う「幸せ」な状態が何を指すのかは、ヨンジェとの受け答えの中で説明される。
「幸せを感じています。トゥデイが走るときのように、あなたも」
「コリーに幸せがどんなものかわかるの?」
ヨンジェはからかうように言ったが、内心では、コリーがいったいなにを基準に幸せを語っているのか心から知りたかった。トゥデイをもう一度コースに立たせようと言い出したのも、コリーだった。
「幸せとは、生きていると感じる瞬間のことです。生きているということは呼吸をしているということで、呼吸は振動として感じられます。その振動が大きいときこそが、幸せな瞬間です」
コリーの言葉が理解できず、ヨンジェはあいまいにうなずいただけで、ティスプレイに視線を戻しながら言った。
「でも、コリーには感じられないでしょ?」
幸せというものはけっきょく、自分が感じられなければこの世でいちばん無駄な単語ではないか。
「ぼくも感じます」(略)
「ぼく自身は呼吸できないけど、間接的に感じます。そばにいるヨンジェが幸せなら、ぼくも幸せです。ぼくを幸せにしたかったら、ヨンジェが幸せになればいい。どうですか?」p293-294
もともと、コリーが助けたいのはトゥデイだったが、人と話す中で、ボギョンの気持ちも楽にするし、ヨンジェに対してもプラスの影響を与える。
コリーは一日の幸せをゆっくりゆっくり積み重ねていけば、悲しみに打ち勝てるという。一方で、コリーは、「幸せとは、生きていると感じる瞬間」だという。
つまり、反対に言えば、多くの人が「生きている」「呼吸をしている」と感じることがないくらい「急いで暮らしている」ことを意味する。それは韓国でも日本でも同じだろうと思ったが、ウネとヨンジェは17歳と15歳。日本人だったらもっと素朴に生きている年代であることを考えると、韓国の方がもっと時間的猶予がなく、「早い」世の中なのかもしれない。
ヨンジェの考え方
コリーと「幸せ」について話したあとの会話で「そばにいる人の不幸」は感じないというコリーに対してヨンジェは羨ましいと言い、「家族の不幸と向き合うことは、わたしが目を背けてた自分の不幸と向き合うことでもある」からと会話を切り上げてしまう。
このあと、ヨンジェとジスが喧嘩から仲直りする流れがある。
理解されるのを諦めることは、理解するのを諦めることと同じだ。ヨンジェは相手の行動にいちいち理由を付けなかった。人の行動を、そういうものか、と受け流した。相手が自分を好きでそうしているのか嫌いでそうしているのかといったことを考えるには、あまりに多くの思いやりを要するからだ。他人の理解を諦めれば、あらゆることが楽になった。関係に期待しないため、傷つくこともない。少なくともジスに会うまで、ヨンジェの世界は平穏このうえなかった。風ひとつ吹かない静けさ。それは寂寞でもあった。p318
そんなかつての自分を捨て、(コリーのアドバイスから)「言葉にしなければ相手の本音もわからない」と知ったヨンジェはジスと仲直りを果たし、大学入試のかかったロボット開発の大会当日にウネに訊く。
「姉さんは自由になりたいんだよね?」
「わたしはいまも自由よ」
p326
ここは、ひとことだけの会話のやり取りだが、ヨンジェが感じていた「家族の不幸」の一部が、「言葉のやりとり」によって事実ではなく「決めつけ」に過ぎなかったことを知り、ラストのスピーチに繋がる重要場面。
そしてやはり最後のスピーチ。短いけれど、これまでのまとめになっていて感涙。
ロボットコンテストでヨンジェとジスが提案したのは「ソフトホイール・チェア」という障害物も乗り越えるタイプの車椅子。プレゼン全体はジスが行ったあとで審査委員から質問が行き、ここで初めてヨンジェが答える。
いったん外出しようと思ったら、ほかの人たちよりもたくさんの準備が必要な人がいます。でも、準備すればかならず外出できるというわけでもありません。意志や実力が足りないわけでもないのに、諦めるしかない場合も多々あります。難しいんです。助けなしには進めない道がたくさんあるからです。手術を受ければいいじゃないかと簡単に言う人もいますが、その手術にかかる費用は、ある人にとっては不可能にも等しい金額です。それに、その人は、わたしたちのような完全な脚が欲しいわけでもない。脚は目に見える形でしかありません。本当に欲しいのは自由です。行こうと思えばどこへでも行ける自由。そのためにはたくさんのお金ではなく、とてもよく作られた、上れないところも越えられないところもないタイヤさえあればいいんです。文明が階段をなくすことができないなら、階段を上れるタイヤを作ればいい。テクノロジーとは、弱者を助けるのではなく、いまも強い人をさらに強くするために発達すべきだと思っています」
ここでヨンジェは、ウネのことを「いまも強い人」と言う。「助けが必要な人」とは捉えない。
「助け」が欲しいのではなく「自由」が欲しいのだ。ウネは「いまも自由」と言っていたが、さらなる自由が欲しいのだ。
読者は、同じような立場にいる人たちの多くがウネのように考えているだろうと理解し、想像する。物語にとどまらず、実人生に影響するという点では、この本は一種の自己啓発本とさえいえる。
そして物語の最後には、シンプルだけれど、読者に向けて書かれた、力強いメッセージがある。ここまで行くと、説教くさくて嫌だという人もいるだろうが、自分は好みなので気にならない。とてもいいと思う。
わたしたちはみんな、ゆっくり走る練習が必要だ
ところで、『わたしたちが光の速さで進めないなら』のキム・チョヨプも可愛らしい感じだったが、作者のチョン·ソンランは女優並みの美貌を誇る。だからとは言わないが、キム・チョヨプもチョン・ソンランも、柔らかい優しい未来を描くSF作家ということで、今後も気にしていきたい。