Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

上半期ベストの「読みやすいSF」~アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』


上半期読んだ小説では「ベスト」と言える、万人にオススメできる本でした!

地味な序盤

今年は、アトロク由来の本を何冊読んでるんだ?と感じるほどに、TBSラジオ「アフター6ジャンクション(通称アトロク)」で紹介されて読む本が多く、この本もその一冊。
しかし、ラジオで聞いた複数の人からの絶賛評とは異なり、序盤は「先が気になって気になって仕方ない!」というようには熱中しなかった。


さて、この本を紹介する際に「作中のことを一切話せないほどネタバレ厳禁」というものがあるが、それは確かにその通りで、解説にもこうある。

できれば本書は、内容についてなんの事前情報もなしに読んでいただくのがいちばんいい。というのは、冒頭で目覚めた主人公(本書の語り手でもある)は、自分が誰で、どこに、なぜいるのかがわからず、そこからさまざまな科学的手段やふとしたきっかけを通して状況を解明していく…その過程の面白さが、というに上巻前半の読みどころであるからだ。(解説:山岸真

ただ、本の表紙には宇宙船が書いてあるし、作者が映画『オデッセイ』の原作(『火星の人』)を手掛けた人ということも知っている。目覚めた主人公グレースがいる場所が、絶海の孤島だったり、雪山の山荘だったりするわけもなく、何かの任務を持って宇宙船に乗っているということは分かっていた。
映画化するにあたっても、ここまでの情報は抑えようがないし、宇宙船内で生きている人がたった一人である、ということまでは出すだろう。


自分が何のために船内にいるのか、を思い出しながら船内で活動を始めていく。
そう書いてみると、上巻前半の流れは地味な展開で、そこが「先が気になって気になってたまらない!」という一気読みタイプの本でないと感じた理由だ。

ところが、この本の凄いところは、地味な展開も「とても面白く読ませる」ところで、ほとんど淀みなく物語は進んでいく。
もちろん、「プロジェクト」に携わることになり、それを進める過程と、宇宙船で目覚めてからの活動の二つの時間軸の話が並行して描かれる構成が巧いことが飽きさせない理由の一つだ。
しかし、「飽きさせない」理由の最も大きなものは、「アストロファージ」に由来する地球の危機と、燃料としての「アストロファージ」というSFのメインのアイデア部分にある。そして、それがギリギリ「わかる」範囲で展開するのが心地よいのだと思う。

中盤以降

ところが上巻後半以降は怒涛の展開で、ここから自分もエンジンがかかってきた。

これは…これは異星の宇宙船だ。異星人がつくった船だ。宇宙船をつくれるほどの知性を持つ異星人が。
人類は孤独ではない。ぼくはたったいま、われらが隣人と遭遇したのだ。
「うっそだろう!」
p159


やっぱりこの物語の最大の魅力はここにある。
グレースが、たった一人で宇宙船に乗って淡々とミッションをこなしていくとしたら、盛り上がらないなあ、と思っていたところで知的異星人種族と出会うという展開。
そして、このあと、上巻の最後には、その異星人=エリディアンのロッキーと科学的な議論を行うことが出来るまでになるのだから面白い。
ロッキーの言葉は解読できない最初の時点では「♪♬」というように音符で表現されるが、解読されたあとも特徴的なしゃべり方(特に「質問」)となっていて親しみがわく。
序盤の、ロッキーの睡眠に関するやりとりから抜粋。(ロッキーの言葉は赤字)

「必要ない」
きみは観察する、質問?」と彼がまたたずねる。
「ノー」
観察する
「きみは、君が寝るのをぼくに観察して欲しいのか?」
エス。欲しい、欲しい、欲しい
暗黙の了解で、ひとつの言葉を三回くりかえすのは最高の強調ということになっている。
「なぜ?」
きみが観察するほうが、ぼくはよく寝る
p275

エリディアンはお互いに寝姿を観察し合うという、文化の違いが分かるシーンだが、ロッキーの積極的な物言いが、なんとなく「可愛らしさ」を醸し出す。
このあたりの印象は翻訳にも左右されるだろう。
訳者によっては、「観察して欲しいッピ」*1として、それがしっくりくるかもしれないので、映画でエリディアンの言葉が「音的に」「翻訳として」どう表現されるのかはとても気になる。
また、これは映画化される中で一番のポイントになるが、ラストまでを通じて感じるロッキーの魅力が、その外見を目の当たりにしても同様に感じることが出来るだろうか、という点は気になる。
グレースの第一印象は「バカでかいクモ」(p227)で、顔はなく、五角形の甲羅みたいなところから五本の脚が放射状に出ている。
漫画家の御茶漬海苔が描く異界のキャラクターに蜘蛛のかたちをしたものが多いことから、実際にこの描写を忠実に再現しようとすれば怖くなってしまう気がする。自分は何となく、グラディウスの敵ボスのビッグコア(名前は今調べた)を黒っぽくしたものを思い浮かべていた。

dic.pixiv.net


上巻の最後は、ロッキーがグレースの船を訪れることになるという、さらなる胸熱展開で終わるが、もう一つの時間軸では、核融合爆弾で南極の氷を溶かしてしまうという、強力な「環境破壊」がプロジェクトチーム主導で行われ、地球にこれから起きるであろう寒冷化が非常に厳しいものであることを身をもって知ることになる。
このあたりの「地球の絶望的な未来」を前提としている世界観が、小説を要所要所で引き締めている。

ストーリーの流れ

さて、下巻も含めて全体のストーリーの展開について改めて考えみたとき、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、「ルビンの壺」っぽいのではないか、とふと考えた。

dic.pixiv.net


つまり、入口が広く、途中は一本道で狭く、出口が広い。


記憶喪失から始まる入口は広く、無限の可能性がある。
状況がわかると、物語は、ひたすらただ一つのミッションをこなすものとわかり、展開の幅は狭くなる。ここはある種「作業ゲー」っぽいところで、冒頭に書いた通り地味な展開だ。
これはロッキーとの出会いという大きなイベントがあっても大きくは変わらない。同じアストロファージに悩まされる恒星系の惑星に住む者として、故郷のために協力してミッションをクリアする、というある種一本道の話だ。
しかし、前述のとおり、「一難去ってまた一難」という流れと合わせて、二軸のストーリー展開が巧く機能して、飽きさせない展開となっている。
そして、物語の終わりは、当初のミッションの通りの一本道かと思いきや、ラスト20頁くらい(体感)で途轍もなく大きな広がりが生じる。この物語の意外な「転回」には本当に驚いた。


そもそも最終盤の別れのシーンはこんなに感動的じゃないか!

きみはぼくに会いたくなる、質問?ぼくはきみに会いたくなる。きみは友だち

「ああ、そりゃあ会いたくなるさ(略)きみはぼくの友だちだ。ふん、ぼくの親友だよ。でももうすぐ永遠にさよならだ」
永遠ではない。ぼくらは惑星を救う。そしてぼくらはアストロファージ・テクノロジーを持つ。互いに訪問する
微苦笑を浮かべる。「それをぜんぶ50地球年以内にできると思うかい?」
たぶんだめ。どうしてそんなに短い、質問?
「ぼくはあと50年くらいしか生きられない。人間はあまり長くは生きられないんだよ。忘れたのか?」
おお」しばし沈黙する。「では、ぼくらはいっしょにいる時間を楽しむ。そして惑星を救うために帰る。そしてぼくらはヒーロー!
p238

あとは「お互いが故郷の星に無事に帰る」以外の展開が残されているとは思わなかった。
いや、望まない展開としては、トラブルが起きて宇宙で命を落とすというのがあるかもしれない。
しかし、物語は、そのどちらでもない「第三の道」でラストを迎える。
実際にトラブルは発生し、グレースはそれを解決した!
が…。

頭を抱える。
ぼくは故郷に帰れる。ほんとうに帰れる。帰って、残る人生をヒーローとしてすごすことができる。銅像、パレード、その他もろもろ。そしてエネルギー問題がすべて解決した新世界秩序のもとで暮らすことができる。アストロファージのおかげで、安くて、供給豊富で、再生可能なエネルギーがあまねくいきわたる。ストラットの居所を突き止めて、くそ食らえといってやることもできる。
だが、ロッキーは死んでしまう。そしてもっと重要なことだが、ロッキーの仲間たちも死んでしまう。何十億もの人々が。
(略)
というわけで選択肢はつぎのようになる。オプション1:故郷に帰ってヒーローになり、全人類を救う。オプション2:エリドへいって異星人種属を救い、その後まもなく餓死する。
p277

これ以降は全部泣きながら読んでた。
そして最終章。エリドの星で知る、太陽の明るさの回復=太陽系でのアストロファージの排除=プロジェクトの成功の知らせは、地球の危機からの脱出の物語の締め方としても最高だと思う。

地球はどれくらいひどい状況までいったのだろう?生きのびるために、みんな協力し合ったのだろうか?それとも戦争や飢饉で何百万人もの犠牲者が出たのだろうか?
かれらはビートルズの回収に成功して情報を読み、対策を講じた。その対策には金星に向かう探査機も含まれていたはず。ということは、地球にはまちがいなく進歩したインフラが残っていたということだ。
ぼくは、かれらが協力し合ったと信じている。子どもっぽい楽観主義にすぎないかもしれないが、人類はその気になればすごいことができる。なんといっても<ヘイル・メアリー>をつくったのだから。あれはけっしてたやすいことではなかった。

ヘイル・メアリーが出発する前に、グレースが「独房」*2で、ストラットから知らされる「これからの地球」の話、つまり気温低下による戦争と飢饉、疫病の流行の予測は、多かれ少なかれ当たったに違いない。そんな絶望的状況の中でも「人類はその気になればすごいことができる」という「不確定」な希望を残すラストは、グレースが地球外にいる、この状況でないと不可能であると思う。
そう考えると、ラストシーンから遡って、さまざまな設定を詰めていったのかとも思うが、すべてが巧くハマり過ぎていて本当に上手い小説だ。


さて、ストーリーを改めて俯瞰すれば、過去と現在の二軸の自分が向き合う中にストーリーが生じているし、別の見方をすれば、グレースとロッキーの二人(?)の物語でもある、ということで、ルビンの壺のたとえは、言い得て妙かもしれない。
そして、「ルビンの壺」の構図で、ライアン・ゴズリング演じるグレースと向き合うのはどのような形の生物なのか(グラディウスビッグコアなのか)を考えると、映画は本当に楽しみ。


ということで、ラストの意外過ぎる「展開」というか「転回」が素晴らしく、そして涙が止まらない、忘れられない作品となりました。
しばらく上下巻のSF小説を読むことはない気もしますが、アンディ・ウィアーの、この読後感はよかった(ハードSFを読んだあとの「ぐったり感」は無かった)ので、この人の小説なら読んでみたい気がします。

とすると、『火星の人』『アルテミス』に食指が動きますが、実は、映画『オデッセイ』は未見。「火星でジャガイモを育てる映画」ということだけ知っていますが、そう言われると、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の序盤と同様、あまり面白そうな内容に感じない(笑)ので、余計に観てみたいです。
ということで、優先順位は(1)映画『オデッセイ』(2)『アルテミス』かな。

オデッセイ(字幕版)

オデッセイ(字幕版)

  • マット・デイモン
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参考(過去日記)

今年は珍しくSF小説をたくさん読んでます!(ほとんどがアトロク関連)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com


なお、シン・ウルトラマンとの比較で考えると、この小説の終わらせ方は、地球が危機を免れるのを、光の国で知るという感じでしょうか。
pocari.hatenablog.com

*1:2022年4月ころに爆発的に流行った漫画『タコピーの原罪』のタコピーという宇宙人の喋り方。自分はあの漫画のラストは好きではないです。

*2:この物語のラスト近くで明かされる「グレースは自らの意思で宇宙船に乗ったのではなく昏睡状態にして無理やり連れてこられた」ということ。しかも「記憶障害」もその過程で「つくられたもの」であるということは、かなり衝撃的な事実で、これにも驚かされた。

まじめか!~潮谷験『エンドロール』

『時空犯』でリアルサウンド認定2021年度国内ミステリーベスト10第1位に輝いた著者の、待望の長編!

202X年。新型コロナウイルスのせいで不利益を被った若者たちの間で自殺が急増する。自殺者の中には死ぬ前に自伝を国会図書館に納本するという手間をかけている者がいた。その数200人。共通するのは陰橋冬という自殺をした哲学者の最後の著書と自伝を模倣するということ。
早世したベストセラー作家・雨宮桜倉を姉に持つ雨宮葉は、姉が生前陰橋と交流があり、社会状況の変化から遺作が自殺をする若者を肯定しているという受け止められ方をしてしまったという思いから、自殺を阻止しようとするが……。


ひとことで感想を書くとすれば「まじめか!」。


メフィスト賞作家への過剰な期待のベースには「奇をてらい過ぎる」「結果として社会を斜めに見る(ふまじめ)」がある。そもそも王道ミステリ自体が、現実には起きそうもない状況設定の物語が多く、現実的な社会問題を題材にする作品とは大きく異なる。
ところが、最後まで読んでみると『エンドロール』のメッセージは、「自殺を止めたい」という真っ当な気持ちからくるものだった。
事件を終えたあとで、主人公が書いた形をとる「序章」に上手くまとめてある。

それはとてつもなく難しい試みだった。見ず知らずの人間に対して投げかける「死ぬな」「生きろ」という言葉がどれほど脆く、頼りないものかを思い知らされたのだ。結果的に、彼ら全員を救うことはかなわなかった。
それでも、手に入ったものがある。死の形は一つだけではなく、自殺を望む人間も様々な思惑を抱え、時には人を偽りながら死んでいくものだと、心の底から理解できた。生と死は、善悪の二元論では整理できない複雑さに彩られていると、学ぶことになった。
自殺が嫌いだ。それは、今でも変わらない。けれども物事を単純に言い切るだけではなく、そこに至る過程で零れ落ちる様々な感情を拾い上げたいと願うようにもなった。これは、そのために残した記録であり、物語なのだ。

一章ごとにあらすじを辿ってみる。


第一章は、主人公の高校生小説家・雨宮葉が、人気Youtuberの遠成響の番組に出演し、自殺志願者がここ数年で増えているという状況とそれに影響を与えた「生命自律」という考え方について説明する。また、遠成響からのYoutube番組への出演依頼は、数日後に行われる、ネット番組で「生命自律主義」信奉者と(自殺志願者)と反対派との討論会に備えたものであることが明らかにされる。


第二章「挑発とサッカーボール」では、ネット番組のスタジオでの初顔合わせが行われ、(雨宮葉、遠成響以外の)自殺否定派3人目の仲間として箱沢嵐(サッカー名門高校の主将)が登場。さらに、自殺肯定派の長谷部組人が登場して3人に宣戦布告する。


第三章「自殺討論会」では、ついに討論番組、ということは前半のクライマックス。ここで、敵側3人が、小説家を目指して挫折した人、Youtuberを目指して挫折した人、人気サッカー選手を目指して挫折した人という自殺否定派それぞれが成功したジャンルでの「負け組」であることがわかる。
しかし、意外にも、(最も戦力にならないと思われた)サッカー小僧・箱沢の言葉の前に信奉者3人が劣勢に陥り、挙句の果てに服毒自殺を図ろうとする。


第四章「二通りの事実」では、3人対3人のリベンジマッチを別番組で撮ることになったが、撮影の途中で信奉者側のリーダー長谷部が自殺に見える形で死ぬことになる。ここからは警察も入った捜査が行われる。
一方、自殺肯定派のメンバーの尾戸の口から、そもそも討論会は無様に自殺失敗することで信奉者たちの暴走を止めることを意図したものであったことが語られる。であれば、なぜ長谷部が「自殺」したのか。


第五章「遺言と挑発」、第六章「強者の後悔」は、長谷部が自殺だったか他殺だったのか、という話から、何故自殺したのか、という話に移るのだが、ここが理屈っぽ過ぎて、自分にはつまらなかった部分だ。
メフィスト賞作家であれば、ここで外星人が出てくるタイミングなのに…(ましてや『時空犯』の潮谷験なのに)と思ってしまったのだった。


ここから、エピローグまで、登場人物、特に「からかい」役だった響の正体が明かされ、さらに真面目度が増していく展開になる。これは『時空犯』とは全く異なる小説を書ける、潮谷験の幅の広さを知ることが出来た一方で、自分の予想や好みとは外れたものとなった。


ただ、ラストは良かった。
このテーマで書くならこの終わらせ方しかないだろう。
ラスト前までの話は、メインの事件である長谷部組人の死の謎解きが、証拠が少ない中で推論を積み重ねるやや退屈な展開で、冒頭に掲げた「自殺を止めたい」という作品テーマには見合わない内容と感じた。
それに対して、ラストは、「自殺を止めたい」という一般論ではなく、「目の前にいるたった一人の自殺を止めたい」という内容で、小説として救いがあった。


2022年の5月時点では、日本も世界に遅ればせながら「コロナ明け」が模索される状況になった。しかし、物語の設定である「若者の自殺の増加」として「コロナ禍」が説得力を持つ程度には、2020年~2021年の2年間は、特に若い人にとって辛い時代だったように思う。
ストーリー自体が「まじめか!」方向に寄ったのも、現実社会の問題を踏まえてのものだし、それを反映させたものを書きたいという、潮谷験という作家の誠実性ゆえなのかと思った。
次は、ついに未読のメフィスト賞作品を読もう!

もっと『メギドの火』っぽいと良かったな~樋口真嗣監督『シン・ウルトラマン』

自分はウルトラマン世代というには少し年代が下で、リアルタイムの放送は「ウルトラマン80」で、再放送(マン、新マン、セブン、タロウ、エース、レオ)をちょこちょこ見ていたが、怪獣大百科はよく読んでいた。
その後、関連著作を読んだことをきっかけに5~6年前に有名エピソードをいくつか見た程度で、ものすごい思い入れがあるというわけではないが、話題作なのでネタバレが怖く、公開から1週間というタイミングで劇場に急いで観に行った。
急いだとはいえ1週間の間で、既にいくつかの情報を耳にしていた。

また、そもそも「重大なネタバレ」があるような映画ではないらしい。『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』『シン・仮面ライダー』との接点があったりはせず、また、ラストも穏当なものなのだろうと想像していた。

感想と「シン」の意味

実際に見た感想は「普通に面白かった」。
「普通に」の意味は、ウルトラマンの既定路線から、デザインもストーリーも大きく外れることなく、という意味。
パンフレットにある樋口真嗣監督のインタビューが全てだと思う。

-『シン・ゴジラ』に続いての”シン”を冠した作品として、繋がっているなにかはあるのでしょうか?

これは『シン・ゴジラ』もそうだったんですが、過去に作られた、僕らが観て育った素晴らしいものを、どうすれば今の人たちに同じような感覚で伝えられるのかを考えましたね。例えばオリジナルの「ウルトラマン」が良かったと僕らが言っても、あの作品は物語自体が未来の話だけれど、今観ると過去のものに見えてしまう。その題材を、オリジナルを知らない新しいお客さんに見せる時に、今の物語、映像としてアップデートして提供することで、僕らが少年時代に熱狂した感じを共有してもらうことができるのではないかと。(略)


ウルトラマンの最大の発明は、宇宙人と人間が一つになることだと思うんです。それによって人間ではないウルトラマンを通して、人間というものが見えてくる。人間とはどういう生き物で、今までどういう風に生きてきたのか。そして人間にはどういう未来が待っているのか。それを観る人に問いかける、『シン・ゴジラ』以上に人間の話だと思いました。『シン・ゴジラ』の場合は、ゴジラの上陸によって起こる状況を積み上げていくことで成立する話でしたが、今回はウルトラマンであり、神永という人間でもある主人公の感情や意識が、物語を動かしていく。そこに大きな違いがあると思います。

まさにその通りで、ウルトラマン=地球人ではないものの存在の判断に、地球人の運命は委ねられる。
ウルトラマンの設定がもともと持っている面白さが存分に発揮された映画だったと思う。
ただ、それならば、人間に対してもっと強い「警告」を与えるような物語であってほしかったという気持ちもある。(後述)

セクハラ騒動

鑑賞時にノイズとして働いたのは「セクハラ」騒動。
どうも作品内での長澤まさみの扱いを、「時代に合わない」「感性がアップデートされていない」というトーンで怒っている人が多いらしく、漫画で言うと「スカートめくり」や「しずかちゃんの入浴シーン」的な内容かと想像していた。
ということで、まずそのことが気になってしまい、映画を見て、どこがセクハラなのか目を皿のようにして見た。

  • おしりを叩いて気合を入れる場面でおしりがアップになる場面が何度も出る。自分は全く効果的とは思わないが、あれが「時代に合わない」表現とは思わなかった。
  • 巨大化シーンも警戒したが、ほとんど問題を感じない。
  • そして「におい」のシーン。物語上の流れとしては自然で、女性蔑視的な扱いがあるとは感じない。浅見分析官(長澤まさみ)が嫌がる様子を面白がるシーンであることは確かだが、そこにあまりセクシャルな内容を感じなかった。(浅見分析官が男性であっても同様に面白がれるシーンと思った)

ということで、騒動になるシーンがどれなのか少しわからなかった。自分の感性がまだ古い可能性がある。

ウルトラマンの造形

当然だけど、とてもウルトラマンっぽかった。
原作との比較で語れるほどウルトラマンを知らないけれど、首から頭にかけての非人間的な感じがたまらない。
ただ、一部場面ではCGならではの「ちゃち」な感じは拭えなかった。この感じは何だっけと思っていたらパンフレットでVFXスーパーバイザーの佐藤敦紀さんが「昔のCMキャラクター・ペプシマンみたいにならないように」*1という表現を使っていて「それだ!」と。

特に、ゼットン戦の最後(異空間に吸い込まれていく?場面)の表現はカッコよく感じず解せない。


ところで「禍威獣」「外星人」ではなく「兵器」として登場するゼットンは、今作の一番のサプライズだろう。しかもそれがゾーフィーが用意した地球への「死刑宣告」という設定が面白いし、何よりデザインが素晴らしい。


なお、禍威獣、外星人のデザインでは、やはりザラブの、正面は普通なのに、背面から見ると極端に凹んだ、びんぼっちゃまのようなデザインが面白い。触りたい。

キャストに関してメモ

『真犯人フラグ』の西島秀俊田中哲司が禍特対の部下・上司として登場。
『鎌倉殿の13人』三浦義村役の山本耕史メフィラス星人として登場。
『ドンブラザーズ』桃井陣役の和田聰宏が神永の公安時代の同僚として登場。
『大怪獣のあとしまつ』の外務大臣・国防大臣が、首相、防災大臣として登場。(嶋田久作岩松了

斎藤工は、自分にとって「Indeed」のCMの人で、観る前は適役なのかよくわからなかったが、とても良かった。何を考えているのかよくわからない雰囲気が最初(ウルトラマンとの融合前)から醸し出されていて、全く違和感が無かった。
メフィストとのブランコ、居酒屋対話シーンも楽しかった。

唐突に『メギドの火』

ザラブ、メフィラス、そしてウルトラマンと3種の外星人が登場する本作品は、樋口真嗣が語る通り、「外」からの視点で地球人類を眺めるところが物語の最大の魅力であるように思う。
一方で、(「ウルトラマン」原典にはあるのだと思うが)突き放したようなエピソードはやや抑えめであることが残念だ。
この種のカタストロフ的作品にあたる時に、自分が思い出すのは、小学校高学年の時に読んだつのだじろう『メギドの火』(全3巻)。この話にも対立する宇宙人が登場する。


かなり前から、なりすまして地球人として暮らし、地球征服をたくらむメギデロス。それに対して、宇宙の平和を守る「宇宙連合」は、それをサポートする地球人・コンタクトマンを全世界に配置し、メギデロスの企みを阻止しようとする。
地球人がその愚かさから最悪の状況に至るラストシーンは、ショッキングであると同時に、1999年を控えた小学生にとっては非常にしっくりくる内容でもあった。
『メギドの火』では、宇宙連合がラスト近くに、コンタクトマンである主人公に対して「愚かな地球人」の切り捨てを提案するが、『シン・ウルトラマン』では、ゾーフィーも「愚かな地球」を滅ぼすためにゼットンを用意する。
皆が見上げる青空に浮かぶゼットン。自分が『シン・ウルトラマン』で一番興奮したのはこのシーンで、とても『メギドの火』的だった。


ところが、ラストでウルトラマンゼットンに勝利することで、この「警告」感は薄れてしまう。「叡智を結集すればすべては解決する」というのも、いつものパターンで、現実にはそうは巧く行かないだろうと、気持ちが冷めてしまう。
同様に「叡智を結集すれば解決する」流れの『シン・ゴジラ』のラストは、「解決していない」ことが明確に描かれるのが特徴的だった。『メギドの火』ほどのバッドエンドではないが、「何も解決していない」ことが「もの」として残るという意味で、観客に強い「警告」を与えるものだったし、震災遺構の問題を抱える中で見る『シン・ゴジラ』は、強く現代日本とのつながりを意識させるものだった。


もちろん、だから『シン・ウルトラマン』はダメだという意味ではなく、『メギドの火』が大好きな自分としては、この終わらせ方は好みに合わなかった。

そのほか

今回、ストーリー等を改めて復習する際には、ピクシブ百科事典が大いに役に立った。分量も多過ぎず、イラストもあるだけでなく、ネタのフォローが豊富で、「はてな」が最も面白かった時代を思い出した。

特に、メフィラスが居酒屋で飲み食いするシーンで「ラッキョウ」を食べていることについての指摘や、にせウルトラマンとの格闘シーンでの原典の迷場面の再現などなど、細かいネタ情報が豊富で読んでいて楽しい。

もちろん、メフィラスやゼットンなどの著名怪獣のシリーズ登場回についても詳しく、Amazonプライムでも近作であれば無料で見ることが出来るので見てみたい。「ジード」は少し見ていたので、とっつきやすいかな。


関連作品は、メフィラスが主人公のこちらや、小林泰三*2の『ウルトラマンF』が読みたい。


過去日記

pocari.hatenablog.com
6年前に読んだこの本は、ティガ、メビウス、マックス、ギンガSなど、平成ウルトラマンのエピソードも多く紹介されており、ウルトラマンに強く惹かれるきっかけとなりました。改めて読み直したい評論です。

pocari.hatenablog.com
シン・ゴジラの感想は、自分の文章にしてはとても読みやすい!こういう軽い文章を書けるようになりたい。これも上の本と同時期の文章か…。

*1:ペプシ・マンのようにつるんとし過ぎないように、ウェットスーツを着せたような感じになるよう加工している

*2:2020年にがんのため58歳の若さで亡くなってしまいました…

痛い!でもまた観たい~白石和彌監督『死刑にいたる病』

これは宮﨑優の映画

W主演の阿部サダヲ、岡田健史の演技は勿論、印象に残る。
それでも、やはり、加納灯里役の宮﨑優さんの映画だったでしょう。この映画は。
それなのに、パンフレットを買ったら、期待していた彼女の情報がほとんどなくて残念。
パンフレットに掲載されているキャストのインタビューは

それ以外の7名が2ページにわたってプロフィール+数行のコメントのみで、宮﨑優は、そのうちの1人。
座談会は、白石監督×阿部サダヲ×岡田健史で、これはこれで良かったけど、個人的には、宮﨑優×岡田健史の対談を見たかった。

映画が始まってからしばらくの間、W主演の二人に注目して映画を見ていると、途中で出てくるのが宮﨑優。登場した最初の印象は、「美人!」「可愛い!」という印象ではなく、まさに「異性の同級生」というそれだけの役。
その後の登場シーンも、彼女の仲間と筧井雅也とのやり取りにイライラするも、わざわざここまでしてあげるのは好意があるからなんだろうな、と、雅也の視点から見て、彼女の存在が大きくなっていく。
髪をかき上げる仕草がスローになり、爪に目が行ってしまう場面は、(もちろん、「爪」はこの作品で特別な意味を持つとはいえ)少し性的なニュアンスが含まれる。雅也にとっての心象風景の描写なのか、彼女がわざとそう見せているのか…。
そして、土砂降りの雨の中を家の前で待っていた灯里が、手の甲の傷を舐めるシーン*1で、ドキッ!としてその後のラブシーンで一気に持っていかれ、衝撃のラストシーンに至ると、灯里の存在の大きさは初登場時の10倍、100倍のレベルだ。

魅力的なヒロインは色んなパターンがあると思うが、「可愛い」「いやらしい」「悪女的」「小悪魔的」、そんな言葉では括れないくらい、映画の中の灯里の存在は魅力的だった。灯里の全登場シーンを確認するだけのために映画全編を見返したい。


見返したいか、と問われれば…

でも、やっぱりこの映画は、見返すには厳しい。
そもそも、冒頭から目を背けてしまった映画だ。(なお、冒頭のシーンは、奇しくも最近読んだ漫画『チ。』の冒頭シーンとよく似ているが、本当にああいうのやめてほしい)
そして何より、最後の犠牲者である根津かおるが「真犯人」から必死に逃げ出そうとするシーンは、怖過ぎるし、辛過ぎる。
雅也が榛村大和に翻弄され、信頼した挙句に父と誤解してから、その正体を暴くまでの流れももう一度見てみたいが、あまりに「痛い」シーンが多い映画だった。

そのほかの役者

中山美穂は最初から「宙に浮いた感じの頼りなさ」がよく出ていて魅力的だった。
しかし、岩田剛典がなぜあの役をやる必要があったのかは本当に疑問。自分には長い髪がどこかコスプレっぽく映ってしまい、集中できなかった。

パンフレットでの白石監督の言葉

パンフレットには、当然白石監督のインタビューがあり、ホラー部分についての留意点についても記載があった。こういう時代だからわざわざ聞いているという部分もあるのだろうが、とても安心できる言葉で、これを読めただけでもパンフレットは買う価値があった。

回想パートでは、若き日の大和がコントロールした子供たちが傷つけられるシーンを撮る必要がありました。カッターや血などはCG処理です。子役の皆さんには負担のないように、撮影現場では細心の注意を払いました。本当に子供って、大人が思っている以上に心のダメージを受けたりしますからね。

~「作品としての攻め」を目指すからこそ、撮影現場ではデリケートな配慮、仕事環境としての健全さが不可欠になると。
はい。また今後、たとえ現場では同意や了解のもと撮影していても、もう世界がその描写を受け入れないようなものはダメですね。こちらの意識も常にアップデートしていく必要があると思っています。

タイトルの違和感

そもそも、この映画は、見に行く予定がない作品だった。
池袋で開催されている桂正和展に行くことが決まっていて、その前に、行ったことのないグランドサンシャインで映画が観たい→ちょうどいい時間にやっている映画は?という流れで探した映画だが、タイトルがいただけない。


キルケゴール死に至る病』がまずある。死に至る病は「絶望」のことだ。
それを踏まえて、我孫子武丸『殺戮にいたる病』がある。これも、連続殺人犯がなぜ殺戮を繰り返すのか、という心の流れを書いたものだろう。(未読…なのか…?記憶にないが…)
それらがあっての『死刑にいたる病』。
いやいや、死刑は殺人犯が決めるのではなく、周りが決めるから、「病」に喩えるのは無理筋だろう。かっこよくつけたようでいて外しているタイトルに見えるし、映画を見ても、このタイトルがしっくりこなかった。

これから読むもの、見るもの

ということで、櫛木理宇の原作がどうなっているのかは読んでみたいと思う。パンフレットには、櫛木理宇のインタビューや犯罪心理学者との対談もあったが、ネタバレ回避のため未読。パンフレットの残りをよむためにも。そして、読んだかどうか忘れてしまった我孫子武丸の作品も。あ、『恋に至る病』と言う作品も!


白石監督×阿部サダヲは『彼女がその名を知らない鳥たち』をやっぱり観ないとですね。原作も読んでいるし。


岡田健史は堤幸彦監督『望み』とドラマ『MIU404』(あ!一時期プライム見放題に入っていたのに…)


宮﨑優はTVドラマ『女子グルメバーガー部』か。

*1:撮影中に本当に手の甲に怪我をして、それによって増えたシーンだというが驚き。このシーンがあるかないかで大きく印象が変わると思う。

いつか私が。いつか誰かが。~佐々涼子『エンド・オブ・ライフ』

ベストセラー『エンジェルフライト』『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』の著者、佐々涼子が、こだわり続けてきた「理想の死の迎え方」に真っ正面から向き合った。

京都の診療所を訪れてから7年間、寄り添うように見てきた終末医療の現場を静かな筆致で綴る。 私たちに、自身や家族の終末期のあり方を考えさせてくれる感動ノンフィクション。

(あらすじ)

200名の患者を看取ってきた看護師の友人が病を得た。 「看取りのプロフェッショナル」である友人の、自身の最期への向き合い方は意外なものだった。 残された日々を共に過ごすことで見えてきた「理想の死の迎え方」とは。 在宅医療の取材に取り組むきっかけとなった著者の難病の母と、 彼女を自宅で献身的に介護する父の話を交え、 7年間にわたって見つめてきた在宅での終末医療の現場を描く。

あらすじ

この本は2013年、2014年と2018年、2019年とやや離れた年の出来事が綴られているが、時系列順に並べれば以下のようになる。

  • 2013~2014年:作者の佐々さんが渡辺西賀茂診療所の取材を始める。この診療所は、在宅医療用の診療所であるだけでなく、「在宅の患者たちの、最後の希望を叶える」ボランティア活動を行っているところが特徴的。ところがこの取材は頓挫してしまう。
  • 2018~2019年:渡辺西賀茂診療所の取材のあとも指摘に交流のあった訪問看護師の森山にがんが見つかる。森山から依頼もあったことで、取材内容を本にまとめる仕事を再開。最後には森山を幸せな形で看取り、森山とのやり取りを中心にこの本を著すこととなった。

(以下の文章では、佐々さん以外は、本文の記載のまま「敬称なし」の書き方としている)


沢山の死を看取った訪問看護師が、自らの死に直面する。
この時点では「死(残り時間のわかる死)」を他者の死、自分の死の両面から扱っており、これは、先日読んだ井上靖補陀落渡海記』と同じ設定と言える。
補陀落渡海記』と異なるのは、死に直面した者の心境の変化が、別人によって(記録者自身の考え方の揺れと合わせて)記録される点だ。
その点で、『エンド・オブ・ライフ』ではさらに多くの視点から「死」と向き合うことになる。

また、この本は「死」というよりも「医療」に関する本であることが『補陀落渡海記』とは全く異なる。
佐々さんの視点は、取材を重ねることで医療の現場に近くなっているが、在宅医療に対する不安、負担を感じ、一歩引いた立場にいる。
その不安感や家族・医療従事者の負担は、自らの母親の在宅療養を支える父親の姿を眺めた実感から出たもので、医療に関する個人的経験が取材の動機にもなっている。

さらに、類似テーマの著作が続いてもなお、死をテーマとする執筆活動に惹かれてしまう自分にうしろめたさを感じ、2018年時点の佐々さんは本を書くことができず、ライターとして開店休業中だった。
そんな佐々さんに、死を目の前にした森山から、将来、看護師になる学生たちに向けた、患者の視点からの在宅医療の教科書を作りたい、と共同執筆の依頼があり、この本の出版に繋がっている。


このように、『エンド・オブ・ライフ』は、他人、家族、自らの「死」に向き合いながら、他人、家族、自らに対する「医療」について考えるだけでなく、それをテーマにしたものを世に著すことそのものについても書かれた重層的なドキュメンタリーになっている。

個々のエピソード

構成は以下の通り。(括弧内は、追記。/のあとは主な取材対象の看護師、医師)

  • 2013年(p11~)
    • たった一日だけの患者(潮干狩り)
  • 2018年 現在(p48~)
    • 元ノンフィクションライター(京都への訪問/森山)
  • 2013年 その2(p63~)
    • 桜の園の愛しい我が家(篠崎さん夫妻/蓮池、渡辺)
  • 2018年(p85~)
    • 患者になった在宅看護師(大甕の海/森山)
  • 2013年 その3(p101~)
    • 生きる意味って何ですか?(中山さんの話)
  • 2013年 その4(p111~)
    • 献身(介護される母、介護する父)
    • 在宅を支える人(奥さんと息子に逃げられた山田さん、父親をタオルで叩く管理職世代の息子、こだわりの強い山口さん、/ヘルパー長・豊島、看護師の奥村)
  • 2013年 その5(p151~)
    • 家に帰ろう(母の入院経験)
  • 2019年(p169~)
    • 奇跡を信じる力(森山夫妻)
  • 2013年 その6(p183~)
    • 夢の国の魔法(ディズニーランドに行った森下さん)
  • 2019年(p199~)
    • 再び夢の国へ(森山一家とディズニーシーへ)
  • 2013年 その7(p219~)
    • グッドクローザー(医師・早川との対話)
    • 卒業式(グループホームでの看取り、おせち・どじょう/看護師・吉田)
  • 2014年(p245~)
    • 魂のいるところ(母親の死)
  • 2019年(p257~)
    • 命の閉じ方のレッスン(森山の死)
    • 幸福の還流(/篠崎さんの妻、診療所のヘルパー・田中)
    • カーテンコール

この本を読んで誰もが「えっ!?」と思う予期せぬ展開がある。
死を目前にした森山が、スピリチュアルな言動をしだす「奇跡を信じる力」の章(p170~)だ。

ここまでの章の組み立てはよく考えられている。
冒頭から前段の森山との対話(「患者になった在宅看護師」)までは、これまで何人もの患者を看取ってきた人だからできるのだろう、ある種の達観を森山が見せる。
また、理想的な看取りとも言える、仲の良い篠崎夫妻のエピソードが挟まれる。
ここまでが出来過ぎのため、「理想はそうだけど、現実にはそううまくいかない」と思う読者の気持ちに応えるようにして、p102~p167には、在宅医療に対する否定的なエピソードが挟まる。ここが巧い。


まず、作中で最も悲劇的な話である中山さんの事例、そして、母親の在宅療養の話。
中山さんの事例は、「生きていても痛みで何もできない。こんな僕に生きている意味ってありますか?」(p104)という言葉が胸に突き刺さる。「痛み」については、他の部分でも何度か取り上げられているが、改めて大きな問題だと感じた。

  • 日本の緩和ケアはまだ遅れているのが現状だ(p69)
  • 以前は病を治すことが何より大事で、苦痛を取り除くことにはあまり関心がもたれていなかった(p225)
  • 近代ホスピス創始者といわれるシシリー・ソンダースの分類によると、痛みには大きくわけて4つの種類がある。身体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み、そしてスピリチュアル・ペインである。(略)精神的な痛みは、生きていく上での人生の一部についての心の痛みだが、スピリチュアル・ペインは自分の人生全体の意味がわからないという苦しみである。(p71)

中山さんの事例からは、身体の痛みが、死の恐怖(精神的な痛み)や生きる意味の追求(スピリチュアル・ペイン)に作用することがよくわかる。ただ、緩和ケアの蓮池医師によれば、身体の症状がほぼない中で人生の意味を突き詰めて苦しむ人もいるという。スピリチュアル・ペインについては後述する。


「献身」というタイトルの章は、妻(佐々さんの母親)の介護に、文字通り「身を捧げている」父親の姿を「自分には到底まねのできないもの」として描いており、むしろ、在宅療養の難しい部分が伝わってくる。
次の「在宅を支える人々」ではヘルパー長、看護師、家族の話を、やはり苦労の面から描く。長期におよぶ老人介護で、息子がわめきながら介護相手の父親を叩く、虐待にも見えてしまう事例が印象的だ。
そして、発熱から母親が入院し、病院でひどい扱いを受けて家に戻る「家に帰ろう」という章では、処遇の酷さから看護師の職場環境の余裕の無さも伺え、在宅医療で良かった、というより、看護師よりも完璧に対処ができる父親の「献身」のレベルの高さが伝わってくる。


ここまでで、在宅医療にかかわる患者、医療従事者の「理想」と「困難」のそれぞれの面が書かれており、ある程度まとまった内容になっている。

森山の転向

そして、このあとに来るのが問題の「奇跡を信じる力」の章だ。
ここでは、代替医療ホリスティック医療と呼ばれるものに急激に惹かれていく森山に、家族も同僚もついていけなくなる様子が描かれる。

西洋医学での治療が手詰まりの中、身体の自然治癒力での寛解に望みをつないでいる彼には、もはや現代医療の看護で得た経験が邪魔にすらなっているようだ。
私は内心、彼の今までの看取りの経験が彼自身をも救うのではないかと期待していた。ところが、症状が進むにつれ本人は仕事から遠ざかり、在宅医療や在宅看護から距離を置く患者となった。p175

ここで佐々さんは、ある言葉を結び付けて森山を解釈しようとする。

「スピリチュアル・ペイン」は存在すると実感した。森山の言葉は、魂の痛みを表現していた。医療では緩和できない根源的な苦しみだ。それを今、彼は擬人化した「がん」の言葉として語らせている。魂の痛みには魂の癒しが必要なのだ。p181

緩和ケア専門医の蓮池は、患者たちの「魂の痛み」を緩和するために、「話ができる時に、自分の今までの経験や考えをすべてぶつけるつもりで向き合う時間を」(p73)持つという。とはいえ、佐々さんには、森山の「スピリチュアル・ペイン」に対処するには荷が重く、難しい。


森山の「スピリチュアル・ペイン」の訴えは、もうひとつ何度も出てくる「エリザベス・キューブラー・ロスの受容の五段階(死に対する態度:否認→怒り→取引→抑鬱→受容)」でいえば、死を「受容」するまでの過程で「魂の痛み」を癒すために必要な流れだったということだろう。


全体を読み返してみると、森山は、ここで殊更に突飛な発言をしているわけではないようにも思える。このあとの発言を見ても、死の直前まで「がんの言い分」の話をしているし、大きく変わっているわけではない。
これは読者の慣れもあると思う。
このあとの文章を読んでいくことで、死の直前まで語り続ける森山の言葉を「変なもの」とせずに寄り添い、「がんの言い分」に関する言葉も許容できるようになる。
死を受け入れるにあたっては、西洋合理主義から少し距離を置いた考え方に寄り道することも必要である(どちらか一方の考えに囚われ過ぎない)ということが、この本のメッセージであると感じた。

予後の告知(余命宣告)と選択する過酷さ

繰り返すが、これ以降は、森山の言葉を受け入れる土壌を、読者に育てるためのエピソードがセレクトされていると感じる。(とはいえ、大半は佐々さんと森山との対話なのだが)

特に、「予後の告知」と「医療の選択」についての話が印象的だ。
予後の告知について、医師・早川は、受け入れられる人と受け入れられない人(そして家族)、どちらの考えも尊重することが必要と説く。さらに、医師の役割について次のように語る。

家族にも、ヘルパーにも、看護師にもできないことがあります。それは最期の数週間のプロデュースです。その人にとって、もっとも大切な残り時間をちゃんと考えてくれる医師と会うのと会わないのでは、全然違う。本人の意思に反する延命措置をしないことも大事ですし、臨終間際に意識をどの程度保つようにするかも、最終的には医師の判断が影響します。p234

これに対して、死を目前にした森山は少し別の角度から予後予測の問題点を指摘する。
「予後の告知」は家族にとっては大切かもしれないが、本人からすると、「生きるエネルギーが削がれる」というのだ。

死ぬ人と決めつけられて、そういう目で見られる。ああ、この人はあと少しなんやなと。そんな接し方をされると生きるエネルギーが削がれてしまう。p209

予後を気にして生きていたら、それだけの人生になってしまう。僕は僕自身であって、『がん患者』という名前の人間ではない。病気は僕の一部分でしかないのに、がんの治療にばかり目を向けていたら、がんのことばかりを気にする人生を送ることになってしまう。p61

ここでいう「生きるエネルギー」「人生を送る」というのは、「治る」「少しでも長く生きる」ことではなく、文字通り「生きる」ことなのだろう。「治す」ことに囚われ過ぎている日本の医療の中で、より良く「生きる」ことを見据えた医療を目指す早川(渡辺西賀茂診療所)の考え方は、森山の考え方と同じ方向を向いていると思う。


もう一つ、「医療の選択肢」が多いことの残酷さについても繰り返し話題に出る。これは森山が以前、大学病院で子どもの生体肝移植に携わっていたことが大きく関係するが、がん医療にも同じことが言える。

助かるための選択肢は増えたが、それゆえに、選択することが過酷さを増している。私たちはあきらめが悪くなっている。どこまで西洋医学にすがったらいいのか、私たち人間にはわからない。昔なら神や天命に委ねた領域だ。p204

あきらめが悪くなったのは「奇跡が起きるかもしれない」という期待と、正反対の「後悔するかもしれない」という不安が増えたことによる。後悔について、森山は次のように語る。(代替医療に入れ込む前のタイミングでの言葉だが…)

人工的に何かができると思うことがとても多くなって、実は医療行為と寿命との因果関係はほとんどないかもしれないのに、勝手に『もし、あの時』と考えて後悔する。(略)
後悔するのではないかという恐れに翻弄される日々ではなく、今ある命というものの輝きを大切にするお手伝いができたらいい。そうしたら、たった3日でも、1週間でも、人生の中では、大きな、大きな時間だろうし。p96

「後悔」の問題は、それを判断するのが患者本人だけではないということが問題をさらに難しくさせている。家族の「治ってほしい」と望む気持ちは当人の意志を飛び越えてしまうときがあり、「胃ろう」の選択も、基本的には家族が行う場合が多いだろう。

ある程度、自分で意思表示ができる環境であるなら、本人がきちんと意思表示をしないとね。自分の意思を尊重してもらいたいのなら、日ごろから本人の意思が尊重される関係性を築いていないといけない。p93

この問題は難しいけれど、このあとに書く内容と同様、家族とのコミュニケーションの問題、つまり、元気なうちにやり取りをしておかなくてはならない件であることがわかる。

生きてきたようにしか死ぬことができない

これも繰り返されているが、病気になったから人が変わって家族に優しくなる、ということはあまりないようだ。
普通列車に乗って生きてきた人は、死期が迫ると、特別列車に乗り換えるイメージを持っていたが違うらしい。今現在と、死を目前にした自分は完全に地続きであり、今考えなければ、余命宣告を受けても考えないことになり、少し焦る。

  • 人は病気になってから変わるというのはなかなかありません。たいていは生きてきたように死ぬんですよ。篠崎さんはきっと元気な頃から家族を大事にされていたんでしょうなあ(p77:渡辺)
  • 生きたようにしか、最期は迎えられないからね。自分が生きてきた中でどうしたらいいのか。世の中のしがらみの中で生きてきた人は、その時になって考えろって言われても、どうしていいかわかんないんじゃないかな。でもそれは、その人のせいというわけじゃなく、そういう風に生きてきたことを、周囲も自分も許してきた中での結果だから。(p92:森山)

ただし、森山は、この発言の直後に反対のことも言う。

僕は、子どもたちに何が残せるのかな…。人は生きてきたようにしか死ぬことができない。でもひょっとしたら病気がターニングポイントになるかもしれませんよね。このターニングポイントの中で、自分も周りも変化して、今まで生きてきた感覚とまったく違う輝きがそこに生まれるかもしれないと思うんです。p97

森山はそこに希望を見出そうとした。
病気をきっかけにして、そこから死ぬまでの間に「残す」ことができるものがあると考えた。
だからこそ、その「受け手」であることを意識して書かれた本の後半の文章は、どれも感動的で読んでいて胸が詰まる。

終末期の取材。それはただ、遊び暮らす人とともに遊んだ日々だった。そして、人はいつか死ぬ、必ず死ぬのだということを、彼とともに学んだ時期でもあった。たぶん、それでいいのだ。好きに生きていい。そういう見本でいてくれた。
(略)その人がその人らしく家にいる。そのために看護があり、医療がある。もし、医療の出る幕がなければ、それが一番いいのだ。p265

亡くなりゆく人は、遺される人の人生に影響を与える。彼らは、我々の人生が有限であることを教え、どう生きるべきなのかを考えさせてくれる。死は、遺された者へ幸福に生きるためのヒントを与える。亡くなりゆく人がこの世に置いていくのは悲嘆だけではない。幸福もまた置いていくのだ。p303

本編の最後の言葉は「いつか私が。いつか誰かが。」だが、誰もが「人類が営々と続けてきた命の円環の中」(p273)に生きている。
だから、誰にとっても特別でありながら、特別でなく、社会全体から見れば「日常」に過ぎない。
…という風に、何となく「死」の理解が深まったのかと思いつつ、あとがきでは「死については本当にわからない」と書く。

もしかしたら、「生きている」「死んでいる」などは、ただの概念で、人によって、場合によって、それは異なっているのかもしれない。ただひとつ確かなことは、一瞬一瞬、私たちはここに存在しているということだけだ。もし、それを言いかえるなら、一瞬一瞬、小さく死んでいるということになるのだろう。
気を抜いている場合ではない。貪欲にしたいことをしなければ。迷いながらでも、自分の足の向く方へと一歩を踏み出さねば。大切な人を大切に扱い、他人の大きな声で自分の内なる声がかき消されそうな時は、立ち止まって耳を澄まさなければ。そうやって最後の瞬間まで、誠実に生きていこうとすること。それが終末期を過ごす人たちが教えてくれた理想の「生き方」だ。少なくとも私は彼らから、「生」について学んだ。p314

ここに書いてあることはまさにその通りだと思う。
そもそも、自分が渡辺西賀茂診療所のサポートを受け「最後の希望を叶え」てもらうことになったとしても「最後の希望」自体をどうするか決められない。
貪欲にしたいことをして、誠実に生きる中で、それも見えてくるのだろう。


とはいえ、事件や事故で死ぬこともあるかもしれないし、病気による突然死もある。
ウクライナで起きている戦争(ロシアによる軍事侵攻)では、そんな死が頻繁に間近に散らばっている。
そんな運命を想定する場合はなおさら、自由に考え行動できるうちに精一杯「誠実に生きる」ことが必要になってくる。
と書くと、少し堅苦しいが、好きなものを追求しつつ、周囲の人(特に、自分になにかがあった場合、支えてくれる人)とのコミュニケーションを取りながら、自分の考え方を研いで、生きていきたい。


なお、作中に出てきた渡辺西賀茂診療所の出している本があるようなので、こちらも読んでみたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

「知らない人」と話すこと~津久見圭『障がい者よ、街へ出よう』

図書館の地域図書のコーナーで出会った本。
作者の津久見圭さんは、1970年の大阪万博のパビリオンディレクターとして、携帯電話を初めて世界に紹介した人で1939年生まれ。目の難病「網膜色素変性症」のため、視野狭窄が進行し、2000年頃(つまり61歳頃)に光を失ったものの、この本の発売当時は、ラジオ番組のプロデューサーとして活躍されていたという。
最寄り駅が京王線柴崎駅調布市)だったということで、調布市の図書館の地域図書の特集コーナーの棚に置かれていた。


この本は、タイトルの通り、通勤し、働くという日常生活のルーチンの中から、障がい者とその家族に向けたメッセージを伝えようとする内容になっている。

障がい者というのは、自分で「迷路」を作り、その中に入り込んでしまっている人が多いように思う。健常者であれとは言わないが、障がいを持っているということを少し心から離して、もう少し、自然な気持ちの中で、自分を型の中へ入れることなど決してせず、多少のバリアは承知の上で、前を向いて歩くことである。

私が本書の主旨として声を大にして言いたいことは、障がい者を家庭の中で「保護する」という方向には走らず、多少のリスクはあっても、どんどん表へ出してほしいということである。我が国も、いや、我が国の若者たちも「捨てたものではない」と言いたいほど、意識が向上している。

これらのアドバイスは、彼自身が前向きに生き、目の見えるときと同様に仕事を続けている実体験から出たもので、とても説得力がある。この本の中には、さまざまな人(時に、抱きつきスリ、介抱ドロなどの犯罪者や、不親切な人たちもいる)との出会いが描かれているが、作者自身が「知らない人」と積極的にコミュニケーションを取り続けているところに感心する。
一番驚いたエピソードは、駅でぶつかってしまった人があまりに落ち込んでいる様子なので話を聞いて励ましてあげる話。自分が何かの事故で目が見えなくなってしまったとして、こういう「引きこもらない」生き方ができるかな、というのと合わせて、改めて目の見える見えないにかかわらず、街で困っている人を見かけたら積極的に声をかけるようにしなくてはという気持ちになった。


なお、ホーム転落に関連した内容は興味深かった。
津久見さん自身、JR赤羽駅京王線新宿駅京王線つつじヶ丘駅でホームから転落した経験があり、そのことが綴られている。これを読むと、不注意ももちろんあるが、工事中の点字ブロックの誤った誘導、電車の入線時刻や車両数の変更、人からのリアクションを受けてのイレギュラーな動作(よける等)など、日々生じうるさまざまな原因で転落事故が起きていることがよくわかった。
このことと、自殺するはずのない知人(視覚障害者)が、駅で飛び込み自殺をしたと聞いたことから次のように語る。

先程の話のように、視覚障がい者が誤ってホームから転落した事故を「自殺」とされてしまう例がかなりある。そんなに自殺する人が多いわけがない。視覚障がい者は絶対に鉄道自殺はしない。中央線の八王子~新宿間は、ある時期「自殺の名所」と言われた。とんでもないことである。一番、視覚障がい者が乗る確率が高い路線なのである。これらは、自殺ではなく、ただただ「転落事故」が多いだけなのである。
すべての鉄道会社に申し上げたい。視覚障がい者がホームに転落をして事故死することを、事務手続き上「自殺扱い」をすることは、断じてやめていただきたい。事故と自殺の差が、鉄道会社にとって大きく影響することは理解するが、自殺扱いをして早々に書類作成を済ませてしまうことは、問題である。

そんな風に考えたことは無かったが、全体件数が多くないことからすれば十分にあり得ることだとも思えてくる。この本が出てから10年の間に京王線もホームドア設置駅が増えており喜ばしいことだ。ただ、点字ブロックなどの身近なものと合わせて、それらが設置された目的などはしっかり理解しておきたい。


繰り返しになるが、人と話すことの重要性を改めて感じる一冊だった。
目が見えない人にとっては、相手の声を聴くまで近くにいる人が「知っている人」かどうかの判別もつきにくく、自然と「知らない人」と話す機会を多く持つことになる。
もちろん、視覚障害でなくても、何かの障害を持てば、「知らない人」に迷惑(というと語弊があるのかもしれないが)をかけたり、「知らない人」のサポートをお願いする機会も増えるだろう。
そう考えると、不審者扱いされないように(笑)注意しながら、知らない人とでも自然にコミュニケーションを取れるよう練習していきたい。そう思った。

安全保障への理解が深まった~グレンコ・アンドリー『NATOの教訓』

陰謀論より現実の敵、中国とロシアを直視せよ! 
NATO北大西洋条約機構)には、世界で他に例のない実績がある。加盟国の本土が70年間、武力攻撃を受けたことがないという点だ。世界史において、複数の国が加盟する同盟の全構成国が70年も平和でいられた、というのは奇跡に近い。
本書は冷戦から現代まで「世界最強の軍事同盟」をめぐる実例を紹介し、日本が学ぶべき国防の努力について考察する。現在、アメリカが率いる自由・民主主義陣営と、中国・ロシアが率いる独裁主義陣営の「新冷戦」が鮮明になりつつある。著者の祖国ウクライナは2014年、掛け替えのない領土クリミアをプーチンによって奪われてしまった。ロシアと同様、中国の習近平もいま尖閣諸島という日本の領土を狙っている。
独裁主義国家による侵略を防ぐには、軍事力の強化と併せて堅固な同盟関係を構築しなければならない。日本を愛するウクライナ人の国際政治学者が記す覚醒のメッセージ。

グレコ・アンドリー氏は、テレビでの橋下徹とのやり取りがニュースになるまで認識がなく、著作のことも知らなかった。*1

www.fnn.jp

そんなきっかけで手に取った本だが、日々テレビで見ているウクライナ情勢と対比しながら、日本をどう考えれば良いかという視点で、とても勉強になった。

目次構成と本書の主張

概要にある通り、この本でのグレコ・アンドリー氏の結論は「独裁主義国家による侵略を防ぐには、軍事力の強化と併せて堅固な同盟関係を構築しなければならない」ということになる。中国、ロシア+北朝鮮と合わせてわざわざ「国内の反日勢力」を挙げて敵扱いし、愛国を自認し、軍事力強化を推奨するその立場は、極右的にも映る。
実際、プロフィールにある「アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門優秀賞(2016年)」というのも気持ち悪いし、動画を検索すると虎ノ門ニュースが一番に上がってくることから、個人的には相当警戒したが、本書の主張は真っ当だと感じながら読んだ。
特に目次構成が良い。

  • 第1章 世界最大の平和維持装置
    • NATOは最も成功した地域平和の実現例である
    • 実例で見る北大西洋条約の特徴
    • バグダーディー殺害はどの条約に基づくか?
    • タラ戦争~「弱者の恫喝」で核大国に勝った
    • 吉田ドクトリン~本当に平和と繁栄の礎だったか
    • 朝鮮戦争のチャンスを活かしたトルコ
    • アデナウアーの英断

第1章では、NATOの役割を解説し、必死に国防の努力をしている国をいくつか紹介している。
第2章では、国際政治においては何かを実行する時、条件が揃わないと何もできないことを解説し、NATOがどのようにソ連を潰したのかを紹介している。また、現在の中国とロシアをはじめとする独裁主義陣営はいかに手強い相手なのか、ということも解説する。
第3章では、東ヨーロッパを中心に、最新のヨーロッパ情勢を簡潔に紹介しながら、独裁主義と自由主義の対立について分析している。
そして、第4章では、ウクライナと日本の地政学的な位置づけを確認しながら、将来あるべき自由・民主主義陣営の同盟のあり方について展望を描く。


この本のメインの主張は、日本の「吉田ドクトリン」の功罪について紹介した1章の部分にある。

吉田ドクトリンとは、安全保障をアメリカに依存することで、軽武装を維持しながら経済の復興、発展を最優先させることによって、国際的地位の回復を目指した戦後日本の外交の基本原則である。アメリカは朝鮮戦争勃発のため、日本に軍事費増加を要求したが、吉田茂首相は日本国憲法第9条を盾に、この要求を拒否した。p65

吉田ドクトリンは、高度経済成長を成し遂げる源泉にはなったが、「弱小国」でなくなった日本には、もはや足枷になっているというのが、この本の主張の核にある。
グレンコ・アンドリー氏は、「日本の安全保障政策の基本は、日米同盟を軸にした親米路線しかあり得ない」(p69)と考え、アメリカの世界戦略に従うべきとする。吉田ドクトリンを継続した日本は(アメリカの世界戦略に従っていないという意味で)「親米」ではない。だからこそ「親米」に向けた努力をすべきと説く。

もし、日本を守るため、日本の国益のためにアメリカを利用するのであれば、決して悪いことではない。しかし、吉田ドクトリンを信奉する人達は「努力をしたくないためにアメリカを利用する」「日本を弱い国のままに保つためにアメリカを利用する」ということを何十年も続けている。究極の本末転倒だ。p69

吉田ドクトリンの支持者は、「いざというときにアメリカは日本を守ってくれる」と言う。それを批判する反米左翼は「話し合えば分かり合える」と言う。さらにそれらを批判する反米保守は「アメリカは絶対に日本を守ってくれないから、対米自立しかない」と言う。しかし、全部間違いなのである。p75

この本で紹介されている多くの事例は、この結論に対して説得力を強化する。
特に、対ロシアで苦労しているモルドバアルメニアアゼルバイジャンナゴルノ・カラバフ紛争)、そしてウクライナの事例を見ると、ロシア(や中国)と接する国としての日本の地政学上の重要度と危険度が理解できる。
また、国際社会が侵略行為や紛争に対してうまく機能しなかったハンガリー動乱プラハの春チェコスロバキア)の事例を見ると、他国の救済が常にあるものとは考えられないことがわかる。例えばソ連ブダペスト侵攻は、スエズ危機と時期が重なったことが理由で、アメリカはハンガリーを見殺しにする結果となった。

ウクライナの現在の状況を見ても、さまざまな条件が重ならないと国際社会の支援を受けるのは難しいし、支援を受けてもロシアが相手ではすぐに戦争が終わらないことがよくわかる。

これらの状況を踏まえて、グレコ・アンドリー氏は、いざというときアメリカが日本を守ってくれるか・くれないかではなく、「アメリカが日本を守る気になるために、何をすればよいか」を語る議論こそ日本の安全保障に役立つとし、次のように述べる。

アメリカが日本を守る気になるには、まずは日本が国防のための努力を行い、少なくともアメリカが諸同盟国に要求する防衛費の対GDP比2%の予算を実現し、アメリカの地政学的な戦略に付き合う必要がある。反米左翼と反米保守は「対米従属」と言うであろうが、これは従属ではない。日本の国家安全保障を確立するために必要な外交政策であり、何よりも日本の国益に適うのだ。p77

防衛費のGDP比2%の議論は、素直には肯定し辛いところもあるが、ちょうどニュースでも取り上げられていることもあり、議論の状況は把握しておくようにしたい。

グレンコ・アンドリーVS虎ノ門ニュース

本書のトランプ評、バイデン評は納得できる内容で、どちらに対しても是々非々で評価しながら、日本の保守層に釘を刺す流れが興味深い。
トランプの主張した「不正選挙」のデマに関しては次のように述べる。

客観的な数字ではないが、筆者の観察では、いわゆる「ネット保守層」の約7、8割が何らかの形で「不正」の話を信じていた。日本の保守層はこれほどデマを信じやすいのか、と考えると恐ろしかった。
しかも、この7、8割の中で約3割は先述した陰謀説を含め、さまざまな陰謀論や妄想を信じ込んでいる。彼らにどのようなファクトを提示しても、現実と関係のない歪んだ解釈を加え、自分達の世界観に当てはめるのだ。これはもはや並行世界、パラレルワールドに生きているとしか言いようがない。p182

また、バイデン評についても次のように述べる。

日本の保守層の中には「バイデンは中国に甘い」という固定観念が浸透している。だが、それは間違いだ。「トランプほど厳しくない」というだけで、決して甘くはない。(略)
日本において、とくに安倍前首相の支持者の一部が「バイデンは親中だ」と言っているのはおかしい。少なくとも、安倍前首相や菅首相より、バイデンはよほど中国に厳しい。バイデンを「親中」だという基準に照らすなら、安倍は「超媚中」だということになるだろう。p308

どちらも虎ノ門ニュースの人たち*2に当てはまるのかと思うが、グレンコ・アンドリー氏が番組にたびたび出演しているところを見ると、敵(左翼)の敵は味方という理屈なのだろうか。

「自由、民主主義等の基本的な価値を共有」 する国による軍事同盟

出身国であるウクライナのクリミア侵攻(2014)のこともあってか、中国、ロシアに対する危機感が強く出ている本だが、今年2月のロシアによるウクライナ侵攻以前に読んでいれば、その危機感を共有できていなかったと思う。

北方領土や香港の問題を見ても、両国は、いわゆる「自由、民主主義等の基本的な価値を共有」できない国であり、対処の仕方をよく考える必要がある。その際、価値観を共有しない国を含む国連は何の役にも立たず、NATOのような枠組みが非常に有効であることがよくわかった。

第4章では、「環太平洋の軍事同盟がNATOと並ぶ協力な安全保障体制を構築する」図式を描いている。ここでいう「環太平洋の軍事同盟」はアメリカ復帰後のTPPをベースとして、民主主義でないベトナムシンガポールを除いた国を想定している。

以上のような構想が実現すれば、自由・民主主義国の巨大な軍事同盟の両端に、地理的に日本とウクライナが位置することになる。日本とウクライナはそれぞれ、自由世界の「フロンティア」である。つまり両国は、自由・民主主義の文明世界と、独裁主義の日文明世界の境目にあるということだ。独裁陣営に最も近い自由・民主主義の国の存在は、極めて重要である。「最前線」の防衛が堅固でないと、自由・民主主義陣営の全体に影響を及ぼすことになる。p322

この全体の図式を考えると、日本を守るために「アメリカの世界戦略」に乗ることが重要で、そのためには「軍事費増強」が必要と言う主張が説得力を持つ。
なお、この日本とウクライナが重要な役割を持つという図式の中で、2021年時点で、ゼレンスキーの率いるウクライナに絶望しているというのも興味深い。
「2014-2019年のポロシェンコ政権はかなり有能」だが、「ゼレンスキーは完全に無能」「無能なゼレンスキー大統領になにかを期待するのは無駄である」と手厳しく、コメディアンを大統領に選んだウクライナ国民を「ポピュリストの甘言に騙された」とする。*3


本の中では、自由・民主主義陣営と独裁主義陣営による新冷戦がこれから何十年も続くと繰り返し書かれている。ロシアによるウクライナの軍事侵攻ひとつとっても、すぐに終わる見込みがないわけだが、それ以外の周辺国へのロシアの動きも気になるし、中国の動きも注視する必要がある。
日本の国防を考える中では、ロシア、中国(+北朝鮮)についてもっと正確な知識を得ていく必要があると改めて感じた一冊だった。

*1:当然、在日ウクライナ人として、もう一人、ナザレンコ・アンドリーという人がいることも初めて知った。

*2:藤井厳喜百田尚樹などは番組内でも不正選挙を主張していたようですが…。百田尚樹については、色々と記事もあり、百田尚樹は「大統領選挙の不正うやむやで日本の左翼政党は「よっしゃー!」となる」と妄想|LITERA/リテラ陰謀論に弱すぎるネトウヨ・右派論壇の末路(石戸諭) - 個人 - Yahoo!ニュース 等

*3:なお、本書の中ではポピュリズムを「難しい問題に『簡単な解決策がある』と大衆に訴えて支持を獲得する政治手法のこと」と説明する。とても分かりやすい。