Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

2023不満初め~原恵一監督『かがみの孤城』

最初、『かがみの孤城』をアニメ映画でやるというのを知ったとき、「本屋大賞を取っているし、辻村深月作品はよく映画化されるね」と思った程度で関心は薄かった。絵柄を見ても、全く惹かれない。
ところが、アトロクでアニメ評論家の藤津亮太さんが激賞しており、そのタイミングで原恵一監督作品であることを知った。


自分にとって原恵一監督は、クレヨンしんちゃん映画の名作を作った監督ではない。何といっても2019年に見た映画で圧倒的に不満が大きかった『バースデー・ワンダーランド』の監督だ。今回、むしろそのリベンジを果たす意味でも観に行くべきだろうという気になった。
映画.comの星を見ても、公開から2週間以上経っているのに「5点中4.1」で高い評価を維持している。藤津亮太さんの見立ては正しかったようで、お墨付きを得た気持ちになる。
しかも、あらすじを見ると、いじめや不登校を題材としているらしい。


そもそも、原作が本屋大賞を取っていて、中3娘も小学校時代に原作を読んでいるくらいの大ベストセラー。流行る絵柄でもないのに評判が高いのは、いじめや不登校に対する取り扱い*1が原作以上に巧いからなのだろう。

そう期待して、原作既読の中3娘を誘って映画を観に行った。
(以下、最初からネタバレ全開です)

良かったところ

ストーリーの流れ(伏線の張り方~その回収)は良いと思う。
最終盤に怒涛の種明かしがあり、そこに圧倒され、カタルシスを感じる作品になっている。
明かされる「謎」のうち、最も驚いたのは、城の中の「×」印が、童話「オオカミと七ひきの子ヤギ」だったことが分かった場面だ。
言葉でなく絵で分からせる見せ方が巧いし、前半で「オオカミさま」が、しつこく7人を「赤ずきんちゃん」と呼ぶなどのミスディレクションが上手く効いていた。


一番の大ネタは、7人の生きる時代がずれているという点だったが、個人的には、7人の通う中学校が同じであることが示されるシーンで、既にその可能性を疑っていた。日本で最も有名なアニメ映画作品の一つで時間のずれがポイントになるものがあるので、原作小説よりもアニメの方が気がつきやすいと言える。
ただし、アキと喜多島先生が同一人物であることまでは気がつかず、終盤の怒涛の種明かしは爽快感があり、楽しかった。(後述するがアキのシーンを除く)


ところが、こういったストーリーの面白さが担保されているのは、原作小説が本屋大賞を取っていることで既に分かっていることだ。この点をもって「この映画が面白かった」とは言い難い。原作は未読だが、中3娘の何となくの記憶では、おおむね原作通りのストーリーということなので、あまりアレンジはないのだろうと思う。
映画として、このストーリーをどう味付けするかがポイントのはずだが、その部分で大いに不満が残ってしまった。
以下に、この映画に感じた問題点を大きく3点書き出してみる。

  1. 現実世界の問題が何も解決しない
  2. 仮想世界で過ごした(そして記憶に残らない)1年間という時間が長過ぎる
  3. 「こころを救ったのは誰か」がハッキリしない

それぞれについて説明を加える。

現実世界の問題が何も解決しない

最初に書いた通り、この映画は、主人公こころの不登校の問題をどう解決するのか、という視点で見ていた。
だから、最初に不登校の問題が示され、そこで「かがみの孤城」に招かれる場面までで既に不安がマックスになる。
序盤からこころの不登校の原因がいじめにあることが示唆されるが、いじめは、いじめられる側が頑張って解決するものではないからだ。


城に入って、似た境遇の仲間が増えても状況は変わらない。将棋中継で画面上部に表示される「AIによる評価値」で言うと、序盤での敗戦確率は95%という感じだ。
これがいつ反転するのか。それを楽しみにしよう…。


それを願って見続けたところ、マサムネが「学校で集まろう」と呼びかける場面で、そうか、「まず通学し、そこで連帯することによる(現実世界での)状況改善」というのはもしかしたらあり得るのかもしれない、と思ってみると、そういう展開にはならない。


最終的には、こころの問題解決は、かがみの孤城での仲間がいることによる安心感に加え、向かいに住んでいる転校生の東条萌の言葉から、いじめっ子や学校生活に対する「俯瞰的な視点」を得ること(+学校側に働きかけ、いじめっ子と別クラスにしてもらう)で図られる。
それで、トラウマ的なトラブルがあった同じ学校に通えるのか疑問ではあるが、中学生くらいだったら物の味方を変えるだけで一気に状況が好転するということはあるのかもしれない。


同様にいじめの問題があったマサムネやウレシノは学校を変えるという選択を取っている。
総じて作中では、(フィクションであればあり得そうな)いじめた側といじめられた側の「対話による関係改善」はあり得ない、というスタンスを取る。
さらに言えば、担任教師は問題解決に機能しない(いじめた側の味方をする)という考え方で、学校側に多くを期待し過ぎないという点で現実的ではある。


しかし、いじめっ子は、いじめられた側に負わせた傷に気がつかないまま、被害者を増やしており、学校には問題が温存されたままだ。少なくとも大団円のラストとは言えないだろう。


そして最も大きな問題は、アキについては、家庭内の問題(性的虐待)が絡むことが示唆されることだ。かがみの孤城で過ごした日々が、アキの問題解決にプラスになっているだろうか。*2
しかも、他の6人には存在した現実世界でのメンターである「喜多島先生」が、彼女にはいない(同一人物だから)。


6人が彼女を救ったのは良いことには違いないが、そのことでアキは再び最悪な現実世界に戻ってしまう。観客側としては、将来のアキ=喜多島先生が示される(将来が約束されている)ことが救いになっているが、それは、かがみの孤城での経験とはリンクしない部分で、アキが頑張った(もしくは他の誰かの助けを得た)からだ。

仮想世界で過ごした(そして記憶に残らない)1年間という時間が長過ぎる

これも原作が元々持っている問題のはずだが、かかっている時間が長すぎるのは気になる。
一定期間を異世界で過ごし、成長して現実世界に戻るのは、ドラえもん(やクレヨンしんちゃん)映画の定番で意図としては分かる。
しかし、その期間がほぼ1年間であることにはどうしても違和感があるし、それが記憶に残らないと聞くとかなりの抵抗感がある。


(1)まず、現実世界での「問題」解決が遠ざかるのではないかと感じる。
実際問題として中学校にほぼ1年間通えていないことによる学業の遅れは取り戻すのが難しく、実際にアキは中学3年生を留年することになる。
心理的な抵抗も数か月なら少ないだろう。また、マサムネやウレシノのように転校するのであれば(1年間の不登校のあとでも)心機一転して復学できるかもしれない。
しかし、同じ学校に復帰するこころにとって、同級生と過ごさなかった1年間は途轍もなく大きくないだろうか。そのために(記憶を維持している)リオン君が配置されているのかもしれないが。


(2)一方、確かに、本作の「仕掛け」は、確かに作中人物たちが気がつくのが遅れれば遅れるほど、読者に与えるインパクトが大きくなる。
しかし、「彼らが同じ学校に通っていること」、また「過ごす年代がずれていること」に気がつかない期間として考えると1年間はどうしても長すぎる。普通に考えて、知らない同年代が、共通の話題を探り探り話していけば、1日かからずに気がつくポイントだろう。
(また、親たちが子ども達の日中の不在に1年間気がつかないのもどうかしていると思う)


(3)さらには、ここで過ごした期間の意味が大きいと考えるのであれば、その記憶をなくしてしまうことの影響も果てしなく大きい。1日の大半を「かがみの孤城」で過ごすのであれば、失われた時間は膨大だ。精神的な成長は、その経験を記憶していることとによって担保されているように思う。記憶していないのであれば、自らの成長を実感しにくい。


この3つの観点から考えて、「かがみの孤城」で過ごす時間は長くても数か月という設定がちょうど良かったように思う。(一般的な不登校という問題に対する自分の認識が甘い(そんなに短期間で解決する問題ではない)という可能性はある)

「こころを救ったのは誰か」がハッキリしない

ストーリーを飲み込みにくくしているもう一つの要素として、こころを誰が救ったのかハッキリとしないという点を指摘したい。
以下に示す通り、作中で、こころを支えた人物は何人かいるが、ここが整理されていないのではないかと考える。

  • 喜多島先生(リアル世界の一つの逃げ場所)
  • 6人の仲間(同じ悩みを抱えた仲間の存在による安心感)
  • 母親(学校への働きかけを支援)
  • 東条萌(現実世界での生き方を言葉として教えてくれた先達)
  • オオカミさま(???)


普通に考えたら、学校からの「逃げ場所」としてのフリースクールが大きな役目を果たし、喜多島先生が彼女の心の支えになっていたことが強調されるべきだろう。そうでないと、最後の「喜多島先生の正体は…」という仕掛けが上手く機能しない。
それなのに、劇中では、こころが喜多島先生に心を開いて接するような描写が少なく、フリースクールが担う役割を「かがみの孤城」が担ってしまっている。劇中から感じる喜多島先生の立ち位置は、こころにとって単なる「正体不明者」だ。


一方、7人での生活は、無人島生活のように、お互いがいないと生きられないのではなく、途中までは不登校のことも話さないほど、うわべだけの付き合いだ。
後半は、鍵を探す、マサムネやアキを救う等、様々な目的で協力する場面があるが、個々の「問題」の解決にはつながっているように見えない。少なくとも、こころに限って言えば、6人の仲間との活動において、東条萌の言葉以上に 直接的に大きな力になっているものは得られていないように思う 。


ところが、こころに勇気を与えたように見える東条萌も、再登校時の再会の場面に見られるよう、クール過ぎて、こころのためを思って行動しているようには見えない。
こころに響いたと思われる「真田さん(いじめっ子)たちは、恋愛とか目の前のことばかりに目を取られて、将来のことを考えていない*3」「しょせん学校生活だけの話でありもっと大事なことがある」等の言葉(意訳)も、彼女の持論であって、こころを思った言葉ではない。


母親の見せ方もよくわからない。最初は、「学校に行くの?行かないの?…行かないのね(はあ、困らせないでよ)」という感じで、むしろ「子への理解がない親」のように描かれる。
いじめについて知ってからは、こころのために動き、学校に対しても攻撃的だが、冒頭の描写があるので、見ている側としても心の底からは信頼できない感じがある。


そもそも「かがみの孤城」は「オオカミさま」が作り出した世界と言えるが、不登校の子どもたちを救おうとして作ったものではなく、あくまで、弟のリオンを思って生まれた世界のようだ。
ここは原作からカットした部分である気がするが、この辺が整合しない(オオカミさまが7人を集めた理由が明確にならない)ので、むしろ「(7人のほぼ1年間を奪って)何がしたいんだよ、オオカミさまは?」という怒りが湧いてくる。
むしろ、喜多島先生が物語の軸となるなら、(オオカミさまではなく)アキが自らの救いが欲しくて呼び起こした世界とした方が全体的な整合が図られて飲み込みやすい話になっていた。(同じ立場の中学生に助けを求めて救ってもらう/その後、恩返しの意味で不登校の生徒を助ける職についた)

劇伴そのほか

3点挙げた以外にも不満がある。


今回は劇伴がうるさいと感じた。そう感じてしまったのは、直前に見た映画が、劇伴のない『ケイコ 目を澄ませて』、および、アニメ映画では、劇伴の使い方が神がかっており、無音も効果的に使用される『THE FIRST SLAM DUNK』だったことが大きいのだと思う。
特に、鍵を見つけて以降、クライマックスを盛り上げるために流れる音楽は、伏線回収の最後のヒントとして6人の状況が連続的に映像で示される場面ということもあり、感動を誘う音楽よりも「もっと考えさせてほしい」と思ってしまった。


また、こころと東条萌がハーゲンダッツを食べるシーンでアイスの蓋を外してひっくり返さず(アイスに接した面をそのまま)机に置く場面があるが、「あれはない」と思った。
パンフレットなどを見ても、城のつくり等、映像にもこだわった作品であることはわかるが、絵については『バースデー・ワンダーランド』に感じた派手さやドキドキは無かったし、むしろハーゲンダッツのくだりを含めて、丁寧さに欠けているように感じた。

まとめ

ということで、ストーリーは良いが、原作でそもそも抱えていた矛盾や弱点を、悪い形で顕在化し、大きくしてしまったのが今回のアニメ映画版なのではないか、という気がしてならない。
原作から切り取った部分もかなりあるようだし、そのことを確認するためにも原作を読んで答え合わせをしたいところだ。なお、辻村深月作品は次から次へと映画化されることもあり、興味のある作品も多いので、先回りしてチェックしていくようにしたい。

なお、クールな中3娘の感想は「普通」とのことでした。


*1:そもそも細田守監督『竜とそばかすの姫』が、虐待問題へのアプローチという観点で評価を落としていたこともあり、エンタメであっても社会問題の描き方が重視されるという点で映画ファンへの信頼は大きい

*2:あの胸糞悪い場面をわざわざ顔を塗りつぶしてまで映像にするのであれば、彼女については、作中でのファンタジー的な解決を用意してあげても良かったように思う。例えばかがみの世界に引き込んで「7人」の代わりにオオカミに食べさせるのでも良い。

*3:個人的には、恋愛のことに一生懸命になることが悪いこととは思わない。彼女の台詞もやや一面的で説得力がないように感じる

2022年下半期の振り返り(自転車関連、ドラマ、映画、音楽)

2022年上半期はまとめをしたので下半期もまとめをしようと思います。
下半期は大きな傾向がいくつかあります。

  • 自転車関連マイブーム(本)
  • 引き続きフェミニズム関連(本)
  • ドラマを多めに見た
  • 映画をたくさん見た

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自転車関連ベスト

そもそもきっかけは、7月に行われたビブリオバトルのテーマに合っていたという理由から読み直した近藤史恵『エデン』でした。
その後、ツール・ド・フランスをはじめとした実レース、そして『弱虫ペダル』を読んだことで、マイブームは一気に加速。
そんな中でベストに選ぶのは高千穂遙ヒルクライマー』です。自転車の「競技」としての側面ではなく、とにかく地元地名がたくさん登場するというその一点において自分において大きな存在。

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特に、実際に自分のマラソンの練習コースとして今年大活躍した「尾根幹」を初めて認識したのはこの本だったし、乗る対象としての自転車を意識したのもこの本です。
自転車は、その価格を含めていくつもの課題があり、購入には至っていませんが、もし買ったらその原因となったのは明確にこの本ですね。

フェミニズム関連

これをフェミニズム関連の本というのか分かりませんが、井上荒野『生皮』がベストです。

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2022年末は、宝塚に関する文春砲が話題となるなど、改めて、様々な業界内から声が上がる事案が継続していますが、そういった問題と完全にリンクした小説として、井上荒野『生皮』は、「考えさせられる」だけの小説とは違う、エネルギーを持った内容と思いました。
個人的には、その後、映画『あのこと』にも続く関心の流れを作ったことにも改めて気がつきました。
次点は平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』です。こちらも重い作品ですが、ウクライナで今起きていることと重ねて見過ごせない視点を得られるノンフィクションでした。

ドラマ

下半期は、7月からは『初恋の悪魔』、10月からは『silent』『城塚翡翠』『エルピス』を見ました。当然、年間を通して楽しんだ『鎌倉殿の13人』が1位で、『エルピス』も言いたいことはたくさんありますが、『silent』は世間の盛り上がりも含めて、色々と得るものが多いドラマでした。
ドラマを批判的に見る流れで、能動的な読書も出来たように思います。

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ちなみに、このドラマの主人公である紬(川口春奈)が途中で別れてしまう湊斗君(鈴鹿央士)が苦手でした。性格としては「いいひと」なんですが、この喋り方の友達がいたら確実に嫌いになるだろう、でもいいやつなんだけどなあ…という、誰も気にしないジレンマを抱えながら見ていました。
鈴鹿央士を初めて認識した故に、最初の方は「カッコいい鈴木福」に見えていたので、鈴木福君が川口春奈と付き合っていることに対する嫉妬心があったのかもしれません。鈴木福君にも謝りたい。

そのほか読書

自転車関連とフェミニズム関連を除くと、小説をほとんど読んでいないことに驚きます。小説では『星の子』『こちらあみ子』『むらさきのスカートの女』の今村夏子3作を読んでどれも大当たりでした。
ブログの感想という意味では、たまたま同時期にトランス・ジャパン・アルプス・レースのドキュメントをテレビで観たから書けた『死に山』の感想がお気に入りです。文章は拙いですが、このテレビ番組を見ていなければこの感想にはならない。こちらもビブリオバトルで紹介してもらった本でした。

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映画

映画は映画館で今年20本近く(下半期だけで12本)見たのですが、これは自分史最多です。
下半期は良作が多く、その中でも『RRR』『THE FIRST SLAM DUNK』『LOVE LIFE』の3作が接戦でした。全く方向性の違う3作なので順位付けは困りますが、1位を決めるなら『RRR』です。見たことのないアクション。見たことのないダンス。見たことのないくらい美形のキャラクター。
4位は、『わたしは最悪。』です。舞台となったノルウェーオスロも行ってみたい。

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音楽

そして音楽です。
今年下半期はオリジナル・ラブの3年ぶり20枚目のアルバム『MUSIC, DANCE & LOVE』が出たのだからこれがベストに違いないはずなのですが、伏兵がいました。


3776『3776を聴かない理由があるとすれば』の特徴を、アルバム再現コンサートの記事から引用すれば以下の通り。

  • 2015年リリース、富士登山をテーマにしたコンセプトアルバム
  • 富士山の標高にちなんで、全体が3776秒で構成されている。
  • 1秒につき1m登ると想定し、アルバムを通して聴くと疑似富士登山ができる
  • アルバム再生と同時にカウントアップが始まる
  • カウントアップされる秒数=標高が曲に関連している

こういった明らかに変過ぎる特徴を持っっているという情報から、元々「これはたぶん好きなやつ」と目を付けてはいましたが、ここまで自分に合うとは…。
聴き過ぎて既に自然になってしまいましたが、例えば12曲目「生徒の本業」は3・7・7・6拍子という異常な変拍子、全編に渡ってナレーションも多く、変な曲が多いです。
それでもコンセプトアルバムとして、聴き始めたら頂上まで登らないと気が済まないくらい統一感のあるアルバムで、Amazonレビューではピチカート・ファイヴの名を挙げる人もいるのも分かります。
最近、アルバム単位でCDを購入する意味を見失いつつあるので、こういうCDの存在はとても元気が出ます。本当に買ってよかった!

なお、それ以外に下半期に購入したのは以下でした。

Electric Love

Electric Love

Amazon
(エン)

(エン)

  • アーティスト:RYUTist
  • PENGUIN DISC
Amazon
R4 -THE 20TH ANNIV. SOUNDS-

R4 -THE 20TH ANNIV. SOUNDS-

Amazon



来年は、もっとバカミスとか何の足しにもならない小説を読みたいです。音楽は、3776のようにCD1枚ひととおり聴いて好きになるアルバムにもっと出会いたいですね。映画はこちらに期待しています。


www.youtube.com

岸井ゆきのとガラーン感~三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』

生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコは、再開発が進む下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。ジムの会長宛てに休会を願う手紙を綴るも、出すことができない。そんなある日、ケイコはジムが閉鎖されることを知る。


今年最後の映画は、映画『LOVELIFE』→ドラマ『silent』からの流れで必然的にこの映画に。

見た感想として、確実に言えることは「ストーリーが面白い作品ではない」ということ。戦後すぐにできた古いボクシングジムと周辺の町を舞台にとにかく淡々と時間が流れる。

岸井ゆきの

岸井ゆきのは、そもそも『愛がなんだ』を未見で、映画でもテレビでも見たのは『前田建設ファンタジー営業部』くらい。それでも、新作に常に出ているくらいの頻出度合いに驚いていたら、このような難しい役に挑戦するということで、観る前からどのような演技をするのか気になってはいた。


そして実際に見て驚く。化粧で大きく違うのだとは思うが、殴られ顔はもちろん、ガサガサっぽい肌、何より姿勢や体型が、見え方にこうも影響するのかと驚いた。数々の主演をこなす映画俳優としての「見た目のオーラ」を感じない。

ケイコはあまり喋らない。同居している弟と手話で会話するシーンもあるが、言葉は少ないし、ろうの友人と3人で行ったランチでも聞き役だ。ただひたすらにボクシングに打ち込む。そう、この映画での岸井ゆきのの顔は「ボクサーの顔」としてとても説得力がある。

細かい部分での表情変化もすべて、スクリーンに映し出されることを志向しない、ザ・自然体に感じられて、見たことのないレベル。これだけのために観に行っても良い映画だと思う。


ただ、ボクシング技術についてはもう少し。『百円の恋』の安藤サクラのフォームが異常に上手く感動した*1ので、同じレベルを期待してしまったが、そこには達していなかったように思う。
作中で、ノートに綴られたメモとして読まれる「フックのときに脇が空く」*2なんかはまさにその通りの指摘で、「べた脚のファイター」というファイトスタイルのキャラクターとすれば、その役を上手く演じているという見方も出来る。

もちろん冒頭に入るミット打ちでのコンビネーションは見ていて爽快だし、そこだけでも背後にある猛練習を感じる。3か月厳しいトレーニングを積んだというが役者魂がすごい。

ガラーンとした空気

この映画の独特の空気感は何といったらいいのだろうか。


ひとことで言うと、ガラーンとしている。
川のシーンでもボクシングジムでも、また自宅の場面でも、そこにいる人間よりも人間と人間の間の「空間」を強く感じる。
このガラーン感は、舞台となっている下町、というか荒川付近への一方的な印象*3とも相まって、同じ日本でも自分の知らない場所として画面を見た。


パンフレットから技術面での裏付けを拾うと、16mmのフィルム撮影であるということ、また、劇伴がなく、その分、環境音を重視した音の設計を行っていることが影響しているようだ。
環境音についての言及が興味深かったので引用する。

環境音については、聴者の観客が、普段は当たり前に感じている”音が聞こえる”ということを改めて意識し、またケイコにはこの音が聞こえていないということを意識するような音の設計を考えました。

前提として、聴者の僕には、音のない世界を「想像し直し続ける」ことはできるかもしれないけれど「わかる」なんてことは決してあり得ないと思っています。なので、たとえば、主観ショットで音を消すなどの、いわば観客が追体験するような表現もあり得たかもしれませんが、それではなんだか「わかった気になる」だけのような気がし、選択しませんでした。聴者の僕にできることは、自分や周囲の多くが聴者であることを何度も自覚すること、そうではない人がいることを意識し続けること、そんな点から一つずつ進める必要があるだろうと考え続けていました。


主観ショットで音を消す、というのはまずは考える手法なのだろう。『コーダあいのうた』のコンサートシーンがそれに近い。
ここで監督が「聴者の僕にできること」は「わかる」こと、「理解する」ことではなく、「何度も」自覚すること、意識し「続ける」こと、としていることに強く共感した。

ろう表現

パンフレットで手話監修の越智大輔さん*4は「ここまで聴覚障害者のことや手話のことに真摯に取り組み、考えてくれた監督・スタッフはいなかった」と書く。
ケイコは耳が聞こえないが、そういったタイプの映画として特殊であることは、越智さんの解説の中にも次のように書かれている。

作品中でのケイコはちょっと反骨心が強くてエネルギッシュだけどどこにでもいる女性である。反骨心ゆえハンデに屈せずチャレンジする彼女の姿が描かれているが、たまたまハンデが聞こえないということだった、そういうふうに感じられる三宅監督の自然な描写は素晴らしい。

実際には、ゴングやセコンドの声が聞こえないことは大きなハンデなはずで、実際3戦目(負けた試合)では、試合中にその問題が現れている。それでも監督の書きたいことはそこにないので、映画を観た観客もそこに足を止めない。

一方、越智大輔さんのパンフレット解説を読み、様々な資格取得にかつて存在した「欠格条項」が今はほとんどなくなったことを知った。(ボクシングを含むプロスポーツにおいては、まだ「聴力の保有」の条件が必要とされるものがある)


こう考えると、社会問題について映画が出来ることは限られていて、観客側も映画やドラマに(知りたいこと)すべてを求めるのは求め過ぎだろう。

『silent』や『LOVE LIFE』などを見るにつけ、映画やドラマが得意なのは、障害でも性格でも、多様な特性を持った人たちが同じ世界に生きているという事実を伝えること。
彼ら(時に僕ら)が何に困って助けを求めているか、については、映画側がすべてを描く必要はなく、そこは観客側が「何度も」自覚し、意識し「続ける」ために、人に話を聞いたり本を読んだりして勉強することが必要なのだと思う。


自分はあまり意識しなかったが、若い人たちで流行っているという「タイパ」(タイムパフォーマンス:時間対効果)という言葉は、効率的に「わかる」ことを目的としていると思うが、障害のありなしに限らず「他者」を「わかる」ことはあり得ない。ゴールがない中で、「タイパ」の悪い学びを続けなくてはならないと感じる。


なお、映画の原案になった小笠原恵子『負けないで』は読んでみたい。映画は本の第8章に着想を得たというが、本では半生が描かれているという。原案の本を読むことで、さらに監督の描きたかったことへの理解が進むように思う。もちろん三宅唱監督作は代表作『きみの鳥はうたえる』を見てみたい。

参考

『ケイコ 目を澄ませて』と手話監修の越智大輔さんについては、以下でも取り上げています。
pocari.hatenablog.com


『100円の恋』については、こちらで取り上げています。感想を読み直すと、中学生のときにボクシング経験があるということで、それが効いているのでしょう。それにしても肉体改造エピソードがすごい映画。
pocari.hatenablog.com

*1:『百円の恋』のボクシング指導は、本作でもコーチの「松本」役で出演する松浦慎一郎。なお、パンフレットでは「エディタウン賞」とあるのは当然「エディ・タウンゼント賞」の誤り。検索しても「エディ賞」という略し方はするが、「エディタウン賞」とは略さない。

*2:特に右のアッパー、フックがアレ?という感じだったので、もしかして左利きかと思ったら右利きだった。利き腕があまりうまくないことを考えると、球技も含めてスポーツの経験があまりない人かもしれない。

*3:大学時代の友人が綾瀬に住んでいて何度か行ったときの印象。友人の家は周りに家はたくさんあるけど、ガラーンとした場所にあった。東京の西側に住んでいると、観光地以外で東側に行くことはほぼないのでその時の印象に引きずられてしまう。

*4:前回も引用したが、越智大輔さんの『silent』『ケイコ』との関わりについてはこちらの東洋経済の記事に詳しい→「silent」で話題の"手話"ドラマや映画での描き方 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

「音のない世界」とか言われても困る~好井裕明『「感動ポルノ」と向き合う』


今回読んだ好井裕明さんのブックレットは、タイトルに書かれている『「感動ポルノ」と向き合う』という主旨が独特で、そこに自分はとても共感しました。
例えば『24時間テレビ』のような番組や映画などの作品を「感動ポルノ」と断罪するのは簡単ですが、それだけで終わっていいのでしょうか?
単純にレッテルを貼って終わりにせず、そこからもう少し考えてみようというのがこの本の基本スタンスです。


以下では、前半で、今後、映画やドラマ鑑賞をする際の「手引き」として使えるよう、ブックレットの内容を整理します。
後半は、この手引きも参考にしながら、最近見た、ろう者が登場する映画、ドラマとして『コーダ あいのうた』『silent』『LOVE LIFE』『ケイコ』で感じた自分の感動を検証します。

1章「感動ポルノ」から考える

この本の1章では、まず最初に、「感動ポルノ」を「感動をかきたてるためだけに過剰に障害者を利用し、その姿がさらされた作品」と定義した上で、『24時間テレビ』を見ない人たちもテレビで毎日のように流されている「感動ポルノ」的な映像がある、と指摘します。


それは、「コマーシャルの中で身体を披露しのびのびと活躍するパラアスリートの映像」です。


CMだけでなく実際にスポーツをする姿やドキュメンタリー映像に映し出されるパラアスリートの姿は、感動を与えてくれます。また、障害者を扱った良質なドキュメンタリー番組も考えた場合、何を「感動ポルノ」とすべきかが揺らいできます。

「感動ポルノ」とは何かを考えるとき、私たちは、そこで得られる感動の中身や正体、そこで提示されている障害者表象やイメージが持つ問題性を丁寧に見抜いていく必要があります。
「感動ポルノ」とされる映像作品と向き合うなかにこそ、「感動ポルノ」を超え、私たちに柔軟で豊かな障害者理解を促すさまざまなきっかけが満ちているのではないでしょうか。

このあとの章では、具体的な作品を挙げながらいくつかの分析が入ります。

2章 障害者はどのように描かれてきたか

  • 1960年代以前~驚きやからかい、嘲笑の対象として:『フリークス』(1932年)
  • 1960年代以降~同情、憐れみの対象として:原一男監督『さようならCP』(1972年)
  • 1980年代以降~感動・賞賛の対象として
    • (1)障害を克服しスポーツに頑張る明朗快活な姿
    • (2)障害者アート:佐藤真監督『まひるのほし』(1998年)
    • (3)無垢で心優しい障害者:『たったひとつのたからもの』(2004年/テレビ)

特に(1)についての注意点として2つを挙げています。
中途障害でパラスポーツに転身したアスリートは、障害を負った自分を受容してから、新たな自分に生まれ変わり挑戦するという過程を通ります。「障害の受容」について思い起こすことなく、「障害を克服する姿」だけを見て感動する・感動させるというのは、心の動きとして粗雑ではないかという点が一つ。
そしてもう一つは能力主義的価値観にとらわれていないか、という点です。(能力主義については後述)
また(1)(2)(3)を通して作品の良い点悪い点を考えながら、「感動ポルノ」から離れたところで得られる感動について「確実に言えること」が以下のように書かれています。

それは、私たちの常識的な障害者理解に揺らぎや亀裂を入れないような表象やイメージからは、本物の感動、つまり心が根底から揺さぶられる体験は生まれないということです。どのように障害者表象やイメージを用いようとも、それらが障害をめぐる「思い込み」「決めつけ」という常識の一片あるいは数片だけを取り出して、それを用いれば理解できてしまうような、そんな浅薄な描き方では、決して私たちの障害者理解を奥深く豊かにすることのない粗末で粗雑な文化創造だということです。

ここでは多様な障害者表象やイメージを創造する挑戦が見える好例として、『DOOR TO DOOR-僕は脳性まひのトップセールスマン」(2009年)という二宮和也主演のテレビドラマが紹介されています。
一方で、ニュースやワイドショーでの10~20分程度の特集では、「多様な障害者表象への挑戦」ができるはずもなく、決まりきった表象やイメージに乗っかって「効率的な感動」を産むドキュメンタリーが作られてしまう。そして視聴者はそこに慣らされてしまう、という指摘もされています。

3章 感動してしまうことで落ちてしまう穴

3章では、「感動ポルノ」、つまり障害を克服し頑張る姿や無垢で慈愛に満ち優れた姿という障害者イメージに素朴に感動してしまうとき、知らずに落ちてしまう「3つの穴」について説明されています。

  • (1)障害を無効化し、無意味化しようとする穴
    • 「障害の克服」にのみ焦点があてるドラマは、以下の事実が抜け落ちてしまう。すなわち、当事者は障害を否定し消し去りたいものとして理解しているのではなく、自分の身体、自分の存在の一部として障害を肯定し承認し受容しているという事実。
    • 私たち(健常者中心社会にとって支配的な見方)の「障害を無効化することで当事者は障害を克服していくのだ」という思い込みは、当事者にとって確実に生きづらさを強いる権力行使となる。
    • 多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ順序づけるとすれば、当事者にとって大きなお世話である。
  • (2)障害を個人化しようとする穴
    • 「一人で努力する姿、障害を克服する姿」に感動する中で「個人が障害を負えば、それと対峙し克服するのも当の個人だ」という考え方が生き続けてしまう
    • ノーマライゼーションは、個人としての人間を正常にすることではなく、社会を正常化すること。生活全般にわたって障害者が感じ体験する生きづらさの原因は、社会や私たちが生きている生活世界のありようこそが問題なのであって、障害者個人の障がいが原因ではない。そういった「障害の社会性」の見方が抜け落ち、障害を個人化する方向に考えてしまう。
  • (3)障害者を過剰に評価し遠ざけ、結果として距離をとろうとする穴
    • 障害者が障害を克服することで、人間的に深く人格的にも高い存在となるのだと思い込めば、実際の多様な障害者の姿との差は大きくなり、障害者理解の妨げとなる。
    • (相手を自分よりも下に向けて貶める「差別」ではなく)自分よりも高みに上げて、自分の世界から遠ざける営みも、相手から確実に距離をとり、自分と交信し交流できる機会を遮断してしまう。


これら3つを総括して以下のようにまとめています。

いわばこうした安易で安直な感動が、実際に自分たちと同じように生きることができるはずの障害者をいかに生きづらくさせ、彼らに微細かつ執拗な権力を日常的に行使してしまっているのかを考え直す必要があるのです。p44

4章 パラスポーツの「パラ」が持つ意味を考える

  • かつての「障害者スポーツ」は2021年3月以降「パラスポーツ」という名称に統一された。「パラ」は「もう一つ」という意味。
  • パラスポーツは健常者スポーツの亜流ではなく、「もう一つのオリジナル」に変化していることが世の中に広まり、「あたりまえ」に息づいている障害者イメージが確実に変容しつつある。

というように、東京五輪を契機としたパラスポーツの盛り上がりを肯定的に捉えつつ、以下の危惧を表しています。

私は障害者差別の本質は能力主義だと考えています。そう考えていけば、「できない」とされる人々が「できる」姿を見て、驚き、その存在を再認識し評価し直すとすれば、やはりその考え方や感じ方には「できることこそ素晴らしい」という能力主義的な見方が依然として息づいていると言えるのではないでしょうか。私は、そこに危うさを感じるのです。p52

5章 これからの障害者表象とは-「感動ポルノ」を超えていくために

5章では、これからの障害者表象に必要なものを「人間」として障害者を理解する志向、および「他者」として障害者と向き合う志向とし、具体的な作品を取り上げながら、4つの方向性を示しています。

  • (1)向こう側にある世界で生きる「もう一人の他者」を見つめる
    • 想田和弘監督『精神』(2008年)
    • 映画に出演する精神病患者が、作品を見ている私がいま生きている世界と同じところにいる「もう一人の他者」なのだという実感を与えてくれる作品として。
  • (2)同じ苦悩や喜びを持つ「人間」として描く
    • 『指先でつむぐ愛』(2006年/ドラマ)
    • 盲ろうの東大教授である福島智さんと彼の妻を描く作品。障害が原因で生じたのではない2人の葛藤を見て、「人間」として人を愛することの深さや柔軟さに率直に感動できた作品として。
  • (3)人間としての欲望や努力を確認する
    • 山田和也監督『障害者イズム』(2003年)
    • 自立を実現しようというする障害者の取り組みを描くドキュメンタリー。障害を媒介として、他者を巻き込んでいく自立をいかにして実現できるのだろうか。そんな人間としての欲望が息づいた作品として。
  • (4)障害ある他者を隣人として見つめる
    • 寺田靖範監督『もっこす元気な愛』(2005年)
    • 脳性まひのため両腕と言語に障害のある男性主人公が自動車免許を取ろうと奮闘する物語が中心のドキュメンタリー。啓発のためにする説明が一切なく、隣にでも住んでいそうな若者として描かれる作品として。

なお、これら4つの方向性を示した上で、以下のように悪例も示されています。

  • 「わかりやすさ」に乗っかった(人生の多様性や奥深さと出会う機会を希薄にする)残念な作品の例:『超速パラヒーロー ガンディーン』(2021年NHK

6章 「差別を考える文化」の創造へ

  • 私たちは誰でも「差別する可能性」がある
  • 差別とは、私たちが他者を理解しよう、他者と繋がろうとする過程で、なかば必然的に生じてしまう現象で、「摩擦熱」のようなもの。「摩擦熱」を減少させるためには、私たち自身が「差別する可能性」を認め、それとともにどのように生きていけるのかを前向きに考えることが必須。
  • 「感動ポルノ」が象徴する障害者へのまなざしは、「差別する可能性」を持つ私たちがほぼ無意識でしてしまっている日常的差別の一つ。「感動ポルノ」的まなざしを生み出しているものは何かを丁寧に読み解き、作品が持つ問題性を解体することで、新たな障害者表象を志向する営みが「差別を考える文化」。

6章は、「差別を考える文化」の一事例として『最強のふたり』(2011年)の読み解きがされていますが、未見かつすぐに見たいので読み飛ばしました。ラストシーンの詳しい解説があったので、映画を観てから読み直そうと思います。


全体として、このブックレットは実際の映画やドラマ作品について触れているところが多く、今後の作品鑑賞のヒントとなる部分がたくさんあり、このタイミングで読むことが出来て良かったです。
好井さんの本は、新書がたくさん出ているので、こちらも読んでみようと思います。


今年見た「ろう者」が登場する映画、ドラマでの「感動」の検証

今年は、耳の聞こえない「ろう者」が登場するドラマ、映画をたくさん見ました。
好井さんの本をきっかけにして、それらの作品を自分がどのように受け取り、そこに感動ポルノの側面はあったのかを検証していきたいと思います。


『コーダ あいのうた』で描かれる主人公の両親(ろう者)は、Codaである主人公のルビー(聴者)から見て、半ば自分勝手な厄介な存在として、上述した「(4)障害ある他者を隣人として見つめる」という方法で描かれていると感じました。特に印象的だったのは、父親が、言わなくてもいい下ネタを爆発させるシーンですが、兄(ろう者)が要所で主人公を助けようとする場面なども含め、5章で書かれた4つの方向性のいずれにも当てはまる話でした。
自分が特に感動したのはクライマックスです。
クライマックスの盛り上がりは非常にわかりやすく、音楽の道を夢見る主人公が歌を歌うシーンが3度用意されていますが、耳の聞こえない両親に歌をどのように伝えるかがそれぞれ異なります。(なお、歌はとても上手いので感動は2倍です)

  • 1回目(コンサート)は、途中で音が聴こえなくなる演出で、両親側の感じ方に寄り添った表現となる
  • 2回目(自宅)は、「俺のために歌ってほしい」とお願いした父親がルビーの喉に手を当てることで歌を「聞く」
  • 3回目(音楽大学入学試験)は、ルビーは、客席に座った両親に向かって手話で歌詞を伝えながら歌を歌う

3段階で「伝える」を見せる方法がクレバーだと思いましたが、荻上チキsessionでの松岡和美先生の解説によれば、ろう文化から見た音楽や歌の受け取りの観点では、作品自体に対して賛否両論があるようです。「歌」が聴者の文化であることを考えると、クライマックスの見せ方は「聴者向けの感動」と指摘される部分が少なからずあるのだろうと思いました。


『silent』は、最初の方の回で春尾先生(風間俊介)の「あなたたち聴者は…」という怒り発言があることからも分かるように、明確に脱「感動ポルノ」を志向した作品だと思いました。
好井さんの本の内容に照らし合わせれば、通常は焦点があたりやすい「障害の克服」よりも「障害の受容」の方に重きを置いたドラマだったということが出来るのかと思います。当初は恋愛がメインでしたが、終わってみれば、想の気持ちの推移(中途失聴での障害の受容)を中心に据えた物語でした。
自分が一番好きな回は、第6話(タイトル「音のない世界は悲しい世界じゃない」)でした。孤独になっていた想に奈々(夏帆)が手を差し伸べ、「音がなくなることは悲しいかもしれないけど、音のない世界は悲しい世界じゃない」という前半は、想に救いの光が見えたというそれだけで涙でした。
その後、月日が経ち、想が昔の恋人(紬)とよりを戻しそうと知ると、奈々は想に当たり始めます。取り乱す奈々の気持ちを考えると辛くなりましたが、ここで挟まる奈々の空想(耳の聞こえる想と奈々でのデートシーン)のあと、ラストシーンで実際に(聞こえない)携帯電話を耳に当てる奈々を見て自分はまた涙してしまいました。
しかし、中途失聴者の想であればまだしも、生まれつき耳の聞こえない奈々がここまで「聞こえる」ことに憧れを持つ描写はリアリティに欠けるとの指摘を散見しました。『ラ・ラ・ランド』が好きな自分としては、どうしてもグッと来てしまうシーンでしたが、「ろう者は聞こえたいと思っているはず」という「聴者」の偏見に乗っかって「盛った」シーンという見方も出来ます。正直に言ってドラマ全話の中で最も感動したシーンですが、直後に批判的に考え直すことができたのは良かったです。
今回、ろう当事者のキャスティングもあり、手話の指導や演出も含め、多数の当事者が製作に携わっていたはずですが、それでも賛否両論が出てくるのは、ひとつの障害者像に当てはめた「感動」演出自体が問題だということなのでしょう。
一方、春尾先生が手話サークルを作って奈々に怒られるシーンとか、奈々が想に紹介しようと、ろうの友達を連れて来て、想が怒って帰ろうとするシーン等、微妙な心の動きで場の空気が変わる場面がいくつかありました。このあたりは当事者の方の「あるある」の体験なのだと思いますが、説明が少ない分、強いリアリティがあり、「あれ?今どうして?」と、観ている側がそれぞれの気持ちを考えさせられる良い場面だと思いました。(これも細かくは実際とのズレがないか検証が必要ですが)


『LOVE LIFE』と『ケイコ 目を澄ませて』では、メインキャラクターに耳の聞こえない人がいますが、どちらも「耳が聴こえないこと」が物語の直接の主題にはなっていないという意味で、自分にとって「特殊」でした。
このような作品では、いわゆる「障害に由来する感動」という「感動ポルノ」の要素が無くなります。ただし、両作品は大きく方向性が違って、『LOVE LIFE』は、登場人物に多数の困難が生じ、心を動かされるシーンが多いのですが、耳が聴こえないことはその困難の1要素という位置づけです。『ケイコ』は、全編にわたって波風があまり立たない作品で、主人公の女性ボクサーは、厳しい練習をしつつも淡々と日々を過ごすので、耳が聴こえないことは、あまり「困難」には繋がらず、彼女の、いわゆる「個性」の一つとなっています。


しかし、『ケイコ』での目覚ましに扇風機を使うシーンや、『LOVE LIFE』での、(手話は基本的に向き合って行うが)横に肩を寄せるように座りながら鏡越しに手話で話すシーンなど何気ない場面は、これまで考えたことのなかった発見を伴うものです。
「障害者」が登場するドラマの目的が、「理解」であるとするなら、日常的な描写のリアリティを追求するのが重要で、装飾された「感動」はむしろ邪魔なのかもしれないと感じました。


以下の記事では、『silent』にも企画段階で携わり、『ケイコ』の手話監修も務めた社団法人・東京都聴覚障害者連盟の越智大輔さんが『ケイコ』の製作陣の熱意を特に評価しています。映画を見ていても気が付かなかったところにも触れている記事でとても勉強になりました。

toyokeizai.net


最後に

以前に引き続き同じ部分を引用しますが、今回、ドラマ『silent』をきっかけに色々と勉強する中で、一番驚いたのは、荻上チキsession特集での松岡和美さん(手話研究と言語発達をご専門とする慶應義塾大学経済学部教授)の発言です。

日本手話の世界っていうのは、音のある世界じゃなくて、聞こえないことが普通で当たり前で「聞こえませんがそれが何か?」という…結構明るい、目で見る文化が自分たちにはあり、そして日本語と全く違う手話言語があり、そこに演劇があり、ポエムがあり、冗談も言えて、ろうの役者さんが手話を使った演劇をされるいうのもあり、コメディアンの人もいますね。結構みんな楽しくやっているわけで「『音のない世界』とか言われても(返事に困る)」ということらしいです。私も今はあたかもよく分かっているみたいに話していますけど、そういうことが段々わかってきた頃には聴者として非常に驚いたというか。そうなんですか?!って。例えば「音のない世界」という表現に違和感があると「ろう者」の人は言っていて、「『音のない世界』って言われたらあたかも(音が)ないとダメみたいじゃないか」と言われて、驚いたことがあります。「音があるべき世界の中で(音が)ない」という考え方のコミュニティと、「ないのが当たり前、それがどうした」みたいなコミュニティがちゃんとあって、そこ(後者)には目で見る言語があり、目で見る文化があり、ろうの赤ちゃんが生まれたら、また1人(仲間が)増えたと心から喜ぶ人たちの世界が、同じ国の中にあることへの新鮮な驚きはやっぱりありましたね。
基礎から学ぶ「手話」 ~「ろう」であるということは人類の進化のバラエティの1つ | トピックス | TBSラジオ FM90.5 + AM954~何かが始まる音がする~

『コーダ あいのうた』でも、ルビー(娘)が母親に「私がろう者だったらよかったと思う?」と聞く場面が出て来て、母親は「生まれてくるときに、ろうの子でありますように、と祈った」と答えます。
漫画『僕らには僕らの言葉がある』でも、主人公の真白(ろう者)の母親(ろう者)が子どもを生み、生まれつき耳が聴こえないと知らされたとき「ほっとした」という話が出てきます。
もちろん、これらの映画、漫画のエピソードは、「生まれた子が聴者だったら(自分との)コミュニケーションが大変だから」という否定的な意味での理解も可能ですが、「仲間が増えて嬉しいから」と肯定的に捉える見方がある、ということを松岡和美さんの話で初めて知りました。
「音のない世界とか言われても困る」という受け取り方をする人もいるのだ、ということを知ると、『silent』の6話「音のない世界は悲しい世界じゃない」に感じた感動は、「音のある世界が満ち足りた世界」という自分の思い込みが前提での感動だったのかもしれないと気づかされました。
感動するのは自由ですが、ドラマでの奈々の涙を見て「音が聞こえない人は(すべて)可哀想」と思ってしまったとすれば、それはドラマの悪影響と言えるでしょう。
ブックレット3章に、陥りやすい「穴」として書かれていた「多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ順序づけるとすれば、当事者にとって大きなお世話である」にまさに当てはまります。


ということで、このあたりも前回の繰り返しになりますが、より多様な生き方、考え方を学ぶ意味で、改めて、ろう文化や日本手話について勉強してみたいと思いました。
『silent』は、(中途失聴者の)想が話の中心だったから仕方がない部分はありますが、映画(あるに違いない)では、もう少し、松岡和美さんの紹介するような、ろう文化の世界にポジティブに触れる場面や「多様なろう者」について積極的にとりあげた作品が志向されることを期待します。その意味では、想と紬の話よりも春尾先生と奈々の話をもう少し中心においてほしいというのが自分の希望です。想だけではない「音のない世界」の捉え方を知りたいです。

「感動ポルノ」を考える映画リスト

ブックレットには、巻末に映画リストがありました。見ていない作品がほとんどだったので、こちらにも手を伸ばしたいです。
聴覚に関連する作品としてはアニメ『映画 聲の形』(これだけ見ている…)とドキュメンタリー『もうろうを生きる』がありました。
なお、ジョゼは2020年公開のアニメ版もありますが、そちらはかなり批判的に取り上げられていました。

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「THE FIRST」なアニメ体験~『THE FIRST SLAM DUNK』

井上雄彦の絵がそのまま動いているアニメ」

そうなんだろうな、と思って、わかって見に行って、まさにそうとしか形容のできない映画が出て来て、わかっていたのに衝撃を受ける。
実際に見るとしょっぱなから心を奪われ、手書きキャラクター5名が向こうから歩いて来て勢ぞろいし、色がついていくオープニング映像を目の当たりにし既に涙していた。
そんな映画。


それは絵が綺麗ということだけではない。
映像がCGということでヌルヌルして不自然なのかと思ったら、不自然なのは(最もデフォルメの効いた)安西先生くらいで、それ以外のキャラクターは、実物としてそこに存在しているようで全く不自然さがない。
だからこその山王戦のバスケットボールの試合をまるまる見せるこの構成が最高だ。
パンフレットでも演出の宮原直樹さんが「アニメ映画という括りを越え、スポーツ映画のスタンダードになる可能性を持った映像だと思います」とアピールする通り、この映像体験は圧倒的に新しく、直前まで見ていたサッカーW杯の試合*1と比べても完全に「スポーツ」の映像で、これまでにない「THE FIRST」なアニメ体験だった。


それに加えて、宮城リョータとその母が亡きソータへの思いを胸に秘めながら眺める沖縄と湘南の海の空気が、エピソードとともに上手く挟まる。沖縄の海辺のバスケットコートは、現地に行く機会があれば聖地巡礼として訪れたい場所だ。(実際にある場所?)
山王戦のその後の話も含めて、宮城リョータの成長の物語としてとても上手く再構成された映画だった。


実は、自分はスラムダンクはジャンプで全部読んでいたが、それだけで、単行本を読み返したりするほどの思い入れを持っていなかった。それもあって、山王戦も、(あれ?これは結局勝ちそうで最後に負けるやつだっけ?それとも勝ってそのあとすぐ負けるやつだっけ?)とうろ覚えが功を奏して手に汗握って試合の行方を楽しむことができた。
併せて『バカボンド』は途中までで『リアル』は未読ということもあり、井上雄彦漫画はしっかり読んでおきたいなと感じた。


なお、メイキング本の『re:SOURCE』は映画への井上雄彦のこだわりがよくわかる本だった。
3DCGが上がったあと直接筆を入れての絵全体の修正、線の太さを変えるなどの微修正、言葉による細かな指示など、全編の細部に渡って制作に携わっていることが明確な内容。これに加えて音楽の選定や声優の演技にも口を出していたというのだから、普通では考えられないくらいの重みをもった「原作・脚本・監督」だろう。
本の中には、モーションキャプチャーなどの現場作業時に監督自身がスリーポイントシュートを決めている写真もあり「この日は何本も連続でネットを揺らしていた。三井のモデルはもしかして…」とキャプションがついているが、55歳という年齢を感じさせない体型もカッコいい。
「最初に依頼が来てから13年。映画化に関わろうと決めてから8年。実際に映画制作作業が始まってから4年。」そうしてつぎ込んだ時間が、こんな傑作に昇華されたのは本当に良かった。



それにしても、映画を観て「バスケがしたいです」という気持ちも湧いてきたし、実際に試合を見てみたくなった。これまでも興味があったが、来年こそはBリーグの試合を見に行ってみたいと思う。


なお、今年はこれで映画は見納めだろう。(もう見る時間がない)たくさん見ました。皆面白い映画でした。

*1:前日夜はクロアチアVSモロッコの3位決定戦を見て、当日夜にアルゼンチンVSフランスの決勝戦を控えていた

ドラマ『silent』最終回とこれから


いろいろと結びつけて書きたい作品や本もあるけれど、まずはシンプルに感想を。

最終回の感想

最終回は、求めるハードルが低かったこともあり満足しました。(ハードルが低くなったのは前回までで、前半で提示した全部を解決する気はないんだな、ということがわかったからです)

前回(第10話)が、想のウジウジしたところがMAXになって終わりましたが、ラストでは想が、紬の声に固執せず、自分の声を出すことへの恐怖感を脱し、つまりは今の自分自身を受け入れ一歩先に進むことが出来た、という流れとして見ました。

長い年月が過ぎているにもかかわらず、紬に理不尽な態度を取った第9話の想に苛々した部分もありましたが、青春時代を音楽とともに過ごした想にとって、中途失聴の自分を受け入れるのは本当に辛かったのだろうと思い直しました。

誰と誰がくっついて誰と誰が別れたというのではなく、紬、想、湊斗、奈々、春尾先生というメインメンバー、そして想の母も含めて皆が前向きに進んでいけるようなラストで良かったです。あまりLoveにこだわらず、それぞれのStoryを大切にした終わり方というか。(穿った見方をすると、映画化スタンバイOKな終わり方とも言えます)

ちなみに好きなキャラクターは、奈々と春尾先生と光(板垣李光人)です。紬と光の姉弟は美しすぎます。

「かわいそう」という台詞と炎上騒動について

(ここから少しマイナスのことを)

ただ、最終話になって、「耳が聴こえないのは”かわいそう”ではない」、という台詞が2人の口から語られ、今それを言う?という違和感があったのは事実です。
ここまでドラマを見ている視聴者には既に伝わっていることを、わざわざ言葉にするのは野暮過ぎるし、ドラマに多くの人が期待したことと比べて、ややレベルの低いメッセージだと思いました。(ドラマ前半では、聾者と聴者のコミュニティをどう繋げるかみたいな難しいテーマが提示されていたように思います)


また、想が高校2年生のときに体育館で読み上げた作文が最後まで取り上げられ、作文のタイトルにもあった「言葉」というものが作品のテーマだったということが重ねて示され、改めて最終回直前に放送され炎上した『ボクらの時代』における、脚本家の生方美久さんの発言が気になってきました。

生方:『silent』とかまさにそうですけど、日本語じゃないとつながらないものがあるじゃないですか。同じ言葉だけど、違う意味で使う、シーンによって違う意味とか、人によって違う意味でとらえられる言葉とか。あれって日本語じゃないと意味がないものを私はすごく使っていて。もし海外で翻訳されたら、海外の人には伝わらないんだっていう悲しさがちょっとあるくらい。

生方さんは、「私は、日本のドラマとして、日本語の良さとか、日本語の面白さ、ある意味残酷さみたいなものを書きたい」と、脚本家としての思いを語りました。
『silent』生方美久×村瀬健P×風間太樹監督「見てよかったと言われる最終回に」 - フジテレビュー!!


番組HPの書き起こしでは、説明書きでお茶を濁していますが、このあとの発言は「私は日本のドラマとして、日本語の良さ、日本語の面白さ、ある意味、残酷さを書きたいから、ぶっちゃけ海外って興味ない」「海外で配信されても、すごいんだ、おめでとうって思うだけですごいうれしいってない。日本人に見てほしい。日本語が分かる人に見てほしい」。


自分は、元々、TVerで、村瀬プロデューサーが『silent』のことを得意気に語っているのティーザー動画が出て来て不快に思ったこともあり、村瀬Pと生方さん発言への不快感は「切り取り」が原因かもしれないと、確認するように、TVerで後追いでこの番組を見てみました。

実際に見てみると、村瀬プロデューサーは、業界人風な空気はまといつつも、若い二人(監督:風間太樹と脚本:生方美久)を立てながら上手く番組を進めていて、むしろ好印象に変わりました。

風間監督も生方さんも仲良さそうに話しており、3人の関係性から、ドラマ制作の雰囲気が伝わってきて、想像していたよりずっと良い番組でした。


ただ、問題の箇所の発言は、やはり炎上も仕方ないという内容と思いました。

わざわざ、「日本人に見てほしい」「日本語がわかる人に見てほしい」とダメ押しする意味がちょっとよくわからないし、「言葉」がテーマのドラマで、しかも「手話」をモチーフにした作品にそぐわない内容だと何故気がつかないのか。


多くの人が感じた通り「ガッカリ」する発言だと思いました。

また、最終回まで見ると、多くの人が指摘する出生前診断のくだり*1も、全く入れる必要のないエピソードでした。想が遺伝について検索するような場面もあったように思うので、もしかしたら映画でしっかり題材として扱うつもりなのかもしれませんが、何も回収されないとザワザワしてしまいます。

ドラマから何を受け取るか~これから読む本

とはいえ、自分はドラマや映画に対して多くを求めすぎるのはどうか*2とも思います。

自分や家族が傷つけられるような内容でなければ、それをきっかけにして自らが能動的に動けば得られるものも沢山あるからです。


特に今回はtwitterで、色々な立場の人がtwitterで『silent』について呟くのを目にして、色々考えることが出来てとても良かったです。

映画作品では、今さら『コーダ あいのうた』を観ました。

また、漫画『僕らには僕らの言葉がある』を通じて、ろう文化にもっと興味関心が湧きました。

同じ野球漫画として『遥かなる甲子園』を20年ぶりくらいに読み直そうと思っています。


中でも、ラジオ荻上チキsessionの特集「言語学者と考える「手話」とコミュニケーション~松岡和美×荻上チキ×南部広美」がとても良い内容でした。「日本手話」と「日本語対応手話」の違いは今回はじめてしっかりと理解できました。

www.tbsradio.jp


リンク先から全文が読めますが、特にこのあたりはとても興味深い内容でした。

私も今はあたかもよく分かっているみたいに話していますけど、そういうことが段々わかってきた頃には聴者として非常に驚いたというか。そうなんですか?!って。例えば「音のない世界」という表現に違和感があると「ろう者」の人は言っていて、「『音のない世界』って言われたらあたかも(音が)ないとダメみたいじゃないか」と言われて、驚いたことがあります。「音があるべき世界の中で(音が)ない」という考え方のコミュニティと、「ないのが当たり前、それがどうした」みたいなコミュニティがちゃんとあって、そこ(後者)には目で見る言語があり、目で見る文化があり、ろうの赤ちゃんが生まれたら、また1人(仲間が)増えたと心から喜ぶ人たちの世界が、同じ国の中にあることへの新鮮な驚きはやっぱりありましたね。

このあと、『コーダ あいのうた』への賛否両論についても語られていますが、松岡和美さんの本は読んでみたくなりました。
それ以外もドラマに関連して読みたい本を羅列。


ということで、元はと言えば映画『LOVE LIFE』から導かれるようにして『silent』を観ましたが、やはり自分の興味関心を広げて新たな世界を見つけるのは楽しいです。来年も色々な作品に出会えることを願います。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:その結果生まれた子ども(想にとっての甥)の名前が「優生」ということについては、無神経というほかありませんが

*2:とか書いておいて、映画の感想ではいつも「あれが足りない」「あれは不要だ」とぼやくのですが…

湘南は晴れているか(2022湘南国際マラソンレビュー)(その1)

湘南国際マラソンこれまでのあらすじ

湘南国際マラソンは2015年以降、毎年参加している思い入れのある大会。
その足跡を簡単に辿ると、初参加かつ自身初のサブ4達成の2015年大会以来、順調にタイムを伸ばして2018年に待望のサブ3.5を達成。
しかし、かすみがうら(4月)、湘南、さいたまの3レースともサブ4を達成できないという悔いの残る2019年シーズンの後、2年間、大会自体が行われず。
再リセットの2022年は改めてサブ4を目指すというのが3年ぶりの湘南国際マラソンの目標タイムだった。

  • 2015:3時間57分台(念願のサブ4達成)
  • 2016:3時間42分台
  • 2017:3時間39分台
  • 2018:3時間29分台
  • 2019:4時間15分台(直後のさいたまマラソンも4時間15分で両方サブ4達成できず)
  • 2020:申し込まず→中止
  • 2021:申し込まず→中止(幻のマイボトル・マイカップ大会)

2022年のラン

2021-2022のランニングのマイブームは、ひたすら「地図を埋める」3年間。
書き出すと長くなるので流すが、ひたすら以下の2冊の走った道路に色を付ける作業*1に熱中していた。
今年一番遠くまで走ったのは、おそらく羽村。一時期、毎週のように高尾*2に行ったりもしていた。
毎週末土日合わせて35~40キロ(片方が20キロ強、片方が20キロ弱くらいの組合せが多い)走るのが完全に定着した。


そして湘南へ

今回、初めてマイボトル・マイカップの大会*3に参加するということで、それ用のギアをいくつか揃えたのだが、色々と試して発見があった。

最初は、特にiPhoneの充電池入れ替え前に、充電器を持ちながら走る上で重宝していたリュックがあったので、マイボトルは、少し縦長のものを用意して、リュックの持ち手部分のポケットに入れて走ってみた。

リュックはアシックスのだけれど今は廃番か?こんなやつ↓


ところが、専用のものではないためか、自分の持っているリュックでは400㎜の水を入れた場合、バッグの揺れが大きく、首が擦れることが判明。マフラータオルを首にかけて避けることも出来たがしっくり来ないので、別の方法を採ることに。

そこで購入したのがパンツ。


今年は自転車(持ってないけど)のマイブームがあったので、何でも背中のポケットに入れられそうなサイクルジャージは欲しいなあ(自転車持ってないけど)、と思っていたところ、腰回りに360度ポケットを配置するこのデザインは大納得。ただ、購入したのは黒だが、それ以外の色のパンツは「腹巻」感が強いのでどうか。


その後、湘南国際マラソン事務局からTシャツと合わせてマイボトル、マイカップを送られてきた。
マイボトルは事前に買ったものより蓋が無い分使いやすく、パンツの後ろ側ポケットにマイバトルを入れる定番スタイルはこれ以外考えられないものとなった。*4
なお、それ以外に、通常走っているときに360度ポケットに入れていたものはファミマで買う羊羹2個(大体1個しか食べない)とパスモのカード。マイカップも特に問題なく入れられる。
www.shonan-kokusai.jp



そして、今回の強化で最も大きいのは尾根幹*5コースの開発。


もともとは、ロードバイクが欲しい一心で、サイクリストたちが集まる尾根幹線を、「自転車見ながら走れるのは楽しいのでは?」というストーカー視点で走り始めたもの。しかし走ると、メリットがたくさんあるコースだった。

  • 基本的に一本道なので走りに集中ができ、それほど信号待ちが多くない。
  • 元々、自転車の人もそれ目的なのだが、高低差が大きく足が鍛えられるコース。
  • ランナーは勿論、歩行者も多くない。
  • ゴールまでのコースがさらに集中できる。
  • ゴールの橋本駅から自宅まで京王線で一本で帰れる。

ゴールの橋本駅に向かうまでのコースは、以前は「境川にぶつかってから住宅街を通る」形にしていたが、「尾根幹は途中で曲がって相模原駅橋本駅」に変えることで、ラスト2キロくらいを見通しがよく人の少ない線路沿いを集中して走れるようになった。しかも距離が少し増えて25キロ程度としたのがちょうどよい負荷で、このコースは本当に良かった。


特にレース直前のトレーニングでの伸びが驚き。(それにしても本当に律儀に毎週走っている!)

  • 10/22:キロ5分44秒(橋本駅直行コース)
  • 10/30:キロ5分38秒(相模原経由コース)
  • 11/6:キロ5分31秒
  • 11/12:キロ5分10秒
  • 11/20:キロ5分5秒
  • 11/27:キロ4分58秒

これはサブ4(サブ4は1キロ5分40秒ペースくらい)は間違いなく達成できる!
目指すは3時間40分だ!(そしてそれは達成可能だ!)
...と張り切ってしまった自分の気持ちは今でもよくわかります。


それでは実際には湘南(を走り終えた自分の心)は晴れていたのか?
(つづく)

つづきはなんと1年後↓↓↓↓コチラです。
pocari.hatenablog.com

*1:元々、喜国雅彦さんのマラソン本で知った「白地図つぶし」に端を発する。→走る楽しみが増える本〜喜国雅彦『キクニの旅ラン―走りたおすぜJAPAN!』 - Yondaful Days!

*2:高尾山チャレンジ+武蔵陵墓地+映画『LOVE LIFE』聖地巡礼聖地巡礼は良かった!

*3:給水ポイントで発生する大量のゴミを減らすため、給水ポイントに紙コップを置かず、ランナーはあらかじめ飲料を持ち運ぶほか、給水ポイントで自身が持ち寄った容器に飲み物を入れる

*4:これまで20キロ走るときは10キロ走ったところでコンビニにピットインすることが多かったが、脚を止める必要があるほか、その場で飲み終えるのでどうしても飲み過ぎてしまうデメリットがあった。マイボトルの場合はどちらも解消できる。

*5:尾根幹を初めて知ったのは、高千穂遙の自転車本を読んで。これまでほぼ並行して走る「よこやまの道」という遊歩道を愛用していた。自転車の人たちは、そこから津久井湖(城山ダム)や相模湖(相模ダム)に行くようですね。→https://www.sbaa-bicycle.com/sbaa_sp/course/one.html