Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

岡村靖幸の復活に必要なもの

岡村ちゃんと「芸術と実生活」」と題されたソレルさんのところの新しいエントリに以下のような言葉があった。

 薬を使っていたのなら、作られた作品も所詮偽りだった、という言葉をネット上で見つけて胸がつまった。だから、覚醒剤使用の履歴があるとしたら作品も偽りになるのか? そのことをずっと考えている。少なくとも尾崎豊太宰治にはそれは当てはまらない。あるいは、岡村ちゃんには当てはまるのだろうか?

先日のエントリで、僕は「偽り」という表現を使っているので、この部分は自分を指しての内容だと捉えて、本日出張の新幹線内で、長い時間をかけて自分なりに考えてみた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆「作品」と「解釈」
自分自身の経験に照らして考えてみると、音楽に限らず、芸術作品に対してファンとして主体的に楽しむとき、作品そのものを直に扱って楽しむ、ということは行っていない。実際には、その作品に対する自分なりの意味づけを行ってから解釈することしか出来ない。*1
したがって、僕にとって、多くの芸術作品は、「作品」と「解釈」の二つで成立するものである。その芸術家(ミュージシャン)が法を犯したからといって、作品そのものの内容が変質するわけではない。変わらざるを得ないのは、作品の周辺部にある「解釈」の部分である。
 
少し音楽に的を絞って考えてみる。
「解釈」の部分は、実際にはリスナー側の勝手な行為なので、ミュージシャン側とは無関係だが、実際には、そういった「解釈」の部分も含めて意図したかたちで曲がつくられるのが普通だと思う。
ここでは大雑把に3つに分けて考えてみた。例に挙げているミュージシャンは、あくまで単純な割り切りで挙げているものであり、僕自身、その類型に押し込めて考えるつもりはない。

一つ目は、古典や関連作品など、作品以外の音楽知識を問うものである。フリッパーズギターコーネリアスの初期、ピチカートファイブがこれにあたる。岡村靖幸の曲には、そういう要素はほとんどない。*2
二つ目は、音楽と言うよりもリスナー側の経験(思い出)や夢に訴えかけるものである。リスナー側の個人的な思い出を結晶化する作用がある。名曲といわれる作品には必ず含まれている要素であるように思う。今回の3分類では、かなりの作品がこれに該当するが、典型的なのは、サザンやチューブ*3の「夏」を題材にした作品である。当然岡村靖幸の曲にも、そういう要素は強くある。でも、それだけじゃない。
三つ目は、社会に対する反発などのメッセージや、自己嫌悪などの混乱した思いなど、ミュージシャン側の感情の発露が作品として表れている場合である。この種の作品には、リスナー側のミュージシャンに対する信頼は欠かせない。岡村靖幸の曲は、良くも悪くも彼の人間性に支えられている部分が強く、僕の好きなミュージシャンには、このタイプが多い。サンボマスターや、ミスチル中村一義がこれにあたる。
 
◆「岡村靖幸」をどのように聴いてきたか/今回の復活劇をどのように受け止めたか
三つ目のタイプの作品は、リスナーを選ぶ。メッセージが心に響けば、非常に強い共感が生まれる。岡村ファンにはモテなさそうな男性陣が多い、と江口寿司が書いていたが、それだけ、特定の層の心に響く力を持っていたのである。
ところで、僕自身、楽曲の背後にある岡村の成長や困惑に、自分自身を重ね合わせ、励まされたり、過去の自分を振り返ってみたりするわけだが、その一方で、岡村に対してもエールを送る気持ちが常にあった。「信頼」がある故に、岡村自身の「成長」を我がごとのように願った。そして、多くの人が同じことを思っていたからこその、数回に渡るファンによる自主イベント「岡村ナイト」の成功であったのだと思う。今回の復活は、長い空白期間を経てのものだったからというだけでなく、そのようなイベントや、複数のミュージシャンによるトリビュートアルバムに後押しされるかたちでの復活であっただけに、一ファンとしては、「人間」岡村靖幸の復活を心から祝ったのだった。
 
◆何が偽りだったのか?
ところで、僕が、優れた芸術作品の後ろに「清い」実生活や人間性を求めるか、といえば、必ずしもそうではない。例えば、小山田圭吾は、彼自身が行った、学生時代の同級生に対するひどいイジメについて、雑誌のインタビューで楽しげに答えており、これについて非難されているのをネット上で散見する。この事実については、僕自身、かなりの不快感を覚えるが、僕にとっては、それが一連の作品の質を落とす方向には作用しない。上の分け方でいえば、小山田圭吾自身、三つ目のタイプでの解釈(人間性の部分や社会へのメッセージ)を拒否するタイプだし、僕もそういう解釈をしていないからだ。*4
しかし、岡村靖幸の場合、僕自身は、これまで述べてきたように、岡村靖幸自身の成長を含めて、その作品群を解釈してきた。最新アルバム『Me-imi』は、アルバムとしては過去のアルバムと比較して完成度が低いと思うが、岡村靖幸の人間的成長を含めて評価していたし、だからこそ次の作品が楽しみで仕方なかった。これは「僕の」解釈だが、岡村ファンの多くが同じ思いを抱いていたに違いないと思う。今回の事件は、そのファンの思いを裏切るものだ。作品自体が偽りになるのではなく、作品に対する評価・解釈が幻想だったと判明したのだ。ファンとしては、覚醒剤を使っての復活なんて望んではいない。そんな岡村の「成長」には自分自身を投影できない。
尾崎、太宰の作品には疎いので単純に比較できないが、今回の事件も、時が過ぎてから遡れば、2002〜2005年の一連の作品群について「覚醒剤で混乱していた時期の作品」という評価に落ち着くのかもしれないし、岡村ちゃんに万が一のことが起これば、それはそれで伝説化するのかもしれない。しかし、今現在に限って言えば、一連の作品群に対する「解釈」には修正が必要で、その気持ちは、やはり「裏切られた」という言葉でしか表せないと思う。
勿論、ファンとしては、岡村靖幸の「弱さ」まで含めて好きなので、今回の事件を持ってファンをやめる、というようなことはない。しかし、ファンから同情されるような人間として彼が復活するのは絶対に見たくない。やはり、これまで通り、「スーパースター」としての復活を気長に待ち続ける、というほかはない。それに必要なのは、作品の質以上に、岡村靖幸の人間としての復活だと思う。

*1:ここら辺については、『動物化するポストモダンで示されている、ツリーモデル/データベースモデルという解釈からのアプローチも可能なのだろうが、今回は特に意識していない。

*2:オレンジレンジは、元ネタ探しからミュージシャン側の人間性まで、解釈自体を拒否するミュージシャンなんだと思う。解釈抜きに動物的に聴いて楽しむのが、オレンジレンジの楽しみ方なのだろう。

*3:二つを並列に扱うのはどちらのファンにも失礼かもしれないが、今回は割り切って考えてください。

*4:ただし、小山田圭吾という人間に対する信頼は低くなった。