Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

オタク文化の駆動力

僕はプロレスファンではない。そのことをまず断った上で本題に入る。
学生の頃、両国だとか後楽園だとかに連れて行ってくれた友人のatnbが、ブログで、いろいろな場面でプロレスファンによく会うという話を書いていた。
その中の一節に、こういう部分があったのだが、「ちょっと違う」と異議申し立てをしたくなった。

プロレスファンで無い人は、プロレスをどう見ているのか。小川直也、元横綱の曙、和泉元彌長州小力。彼らのマスコミでの取り上げられ方を見ていると、あまりよく思われていないことは推測できる。プロレスファンと同じぐらいの数で、「八百長だ」という人はいるのかもしれない。技の受け、が明らかだから、そう思われるのだろう。プロレスファンの私は、もともと真剣勝負か八百長か、という二元的な見方には興味が無い。受けがあってもなくても、技が美しく正確であってほしい。それは、プロレスでもK-1でも総合格闘技でも同じことである。

「プロレスファンで無い人は、プロレスをどう見ているのか。」結論から言えば、プロレスファンで無い人は、プロレスに対して、良いも悪いもなく、八百長かどうかも含めて、ただ「関心が無い」というのが正しいのではないか、と僕は思う。
また、マスコミでの取り上げられ方を見ての推測は、あまり意味をなさないのではないか。マスコミでは、政治家もプロ野球選手も芸能人もIT企業も、たいがい「よく思われていない」。よく思われているのは、タマちゃんとど根性大根だけだ。(これはイチャモンだが。)
さらに、「あいのり」とか「ガチンコ」などのバラエティだけでなく、ドキュメントなどにもヤラセが横行している世の中で、普通の人のテレビ番組に対する興味は、「やらせ(八百長)」かどうかと無関係に、ただ、それを見て面白いかどうか、というシンプルなものになっていると思う。
プロレスも、そういった視聴者のニーズがわからなくなって右往左往している一面もあるのだろう。
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で、ここから少し話を広げる。
そもそも「ファンかどうか」という話すら意味をなさなくなってきているのではないか?というのが世代論好きな、僕の意見。
SFファンの平均年齢は毎年一歳ずつ上がる、といわれているが、若い世代ほど、「ファン」といえるほど、何かに打ち込むことが少なくなっていると感じる。確かに、サッカーなど一部のスポーツではファンが増えているかもしれないが、プロレスとサッカーは異なる。
僕の言いたいのは、過去の遺産に対する博識があってこそ楽しめるジャンルの趣味、端的にいえば勉強が必要な趣味は、発展が難しくなってきているのではないか、ということだ。
先人の積み上げたものがあまりに大量だから、というのもあるし、インターネットの存在によって、修行みたいにして知識を詰め込む意味が薄れている、というのもあるだろう。
どこまで本当かわからないが、音楽についても、ルーツミュージックを追っかけるのに熱心だったのは、10年前の渋谷系ブームくらいまでのようだ。
 
話題は変わるが、昨年末、とんねるずの番組で「微妙すぎて伝わらないモノマネ選手権」というのを見た。80年代〜90年代のプロ野球選手やプロレスラー(マイナーな人含む)のモノマネが大半で、番組出演者の間に広がる大爆笑には「わかる人しかわかんないだろうな〜。でも俺はわかる。」という優越感が含まれていた用に思う。しかし、僕を含め多くの視聴者は、元ネタがわからないので「優越感」を感じられない。にもかかわらず、勢いのあるバカなネタを大人が本気でやっているのがおかしいという、別の理由で笑っている。
これは、少し昔では無かった状況のように思う。例えば高校生の頃の自分なら、笑えない自分に「劣等感」を覚えて、必死で元ネタを調べていたかもしれない。勿論、番組でもそんなマニアックなネタをゴールデンで2時間ぶっ通しでやるということは無かった。今は、元ネタに対する知識云々よりも、ただ動物的に笑えるネタが優先されるということなのだろう。
音楽分野で顕著だが、メジャー/マイナーの壁がなくなってきたことにも関係していると思う。10年前にあれだけランキング番組、本、雑誌が流行したのは、皆が「世間」から取り残されないように意識していたからだろうが、今はそういう状況はない。渋谷系ブームも、あのBingに代表されるようなカラオケブームという「表」があったからこその「裏」の文化だったのだと思う。
僕は、音楽でもマンガでも「オタク」文化の駆動力は、「劣等感と表裏一体の優越感」にあると思うが、それは、明確なメインストリームがある土壌でしか成立しないと思う。つまり「何でもあり」の状況では、オタクは育たないし、プロレスファンも減っていく。
だから、オタクは叩かれなくてはならないし、プロレスも「八百長だ」と言われ続けなければ熱心なファンは生まれないのだ。*1

いまのオタクをめぐる狂騒状況は、明らかにその謎を麻痺させる方向に動いている。若い読者は、まんが・アニメ的リアリズムを所与のものとして出発し、「僕たちにとっては人間よりキャラのほうがリアルだ」とうそぶく。他方、萌えの市場規模がワイドショーで話題になり、メイド喫茶がファッションとして語られ、新人作家の年齢が急速に若返るなかで、「オタクはなぜキャラクターにリアリティを感じるのか」という本質的な問いは社会的にも意識されなくなり、「オタクは何万人いるのか」「彼らの市場規模は何百億円なのか」「若い世代はどんなキャラクターが好きなのか」といった表層的な情報ばかりが流通している。オタクの欲望がいかに異形で不気味なものなのか、みな忘れてしまったかのようだ。

SF研に所属していた大学時代の友人が、オタクであることに「後ろめたさ」を感じていない下の世代は自分にとって「新人類」だ、みたいなことを言っていたが、ここで、東浩紀が危惧していることと同じだろう。「後ろめたさ」(劣等感/優越感)にさいなまれて育った人には、劣等感を微塵も感じずにあくまで自分の快・不快原則を優先させるセンスにはついていけないのだ。
元に戻るが、atnbが、「プロレスファンで無い人の見方」と「プロレスファンである自分の見方」を比較して見せたのは、まさに「劣等感と表裏一体の優越感」なのだと僕は思う。(atnbには悪いが、決め付けています。)
しかし、それは「古きよき時代のファン」の考え方で、若い世代を中心に、日本全体が、だんだんそういうことに無頓着になってきているのだと思う。昔の方がよかった、と言うつもりはないが、なんだか寂しいときもある。そう考えると、「微妙すぎて〜」も、「古きよき時代」を懐かしむ番組意図だったのかもしれない。

*1:学生時代に、夢枕獏が、八百長問題も含めてプロレスを熱く語る文章を読み、感動した覚えがあるが、それこそ「バーリ・トゥード」(何でもあり)になってしまった今となっては「古きよき思い出」だ。