Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

敬意が生まれない「省略社会」

ヤマトさんの「イタダキます」というエントリを読んで、最近思っていたことを書いてみる。

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先日、読んだ本に安部司『食品の裏側』という本がある。

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物

帯の表には「食品添加物の元トップセールスマンが明かす食品製造の舞台裏」とあり、大きな文字で「知れば怖くて食べられない!」とある。普段何となく食品添加物への不安を感じている多くの人の気持ちを捉え、本の購買欲を高める、という意味では「良いコピー」かもしれない。しかし、本書を読むと作者のメインの主張はそこにはないことがわかる。
帯の裏側には「安さ、便利さの代わりに、私たちは何を失っているのか。」とあるが、こちらが作者のいわんとするところに近い。
それでは、食品添加物(や便利な生活)の恩恵を受けることで何を失っているのか。身体的な「健康が失われている」という回答が、この本の主張でないことは述べたばかりだ。そもそも、食品添加物は、厳しい検査を通った上で安全な範囲で使われている。(ことになっている)
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ここで少し話が飛ぶが、この本から受けたメッセージに近い内容の話を先日目にした。

ここでは、最近の「金銭教育」ばやりの「危ない点」について、以下のように書かれている。

 預貯金や株式、年金や保険の知識は大切だ。親たちは、安全で有利な金融商品はどこの金融機関で扱っているのか、かかる税金はいくらなのか、将来年金を受け取りそびれないためにはどのような手続きが必要なのか、万一の際に家族を守ってくれる保険はどのような種類なのか‥‥ということを知りたがる。自分たちの大切なお金を少しでも有利に使うためには必要なことだ。

 だが、その前提条件を忘れてはいないだろうか?自分たちが働いて収入を得ているということである。資産を運用したり取り崩したりして収入としている人もいるにはいるが、それはほんの一握りであり、たいていは労働の対価として収入を得ている。これは、とても大切なことだ。

 「働かなくてはお金は手に入らない」――これが大前提なのだ。

つまり、金銭教育に欠けている視点というのは、「そのお金はどのようにして獲得したものなのか」という視点なのである。
もう少し具体的に書かれている部分を、後半部から引用する。

 仕事をして報酬を得るということを理解しやすいのは、親が働く姿を目にする子たちだ。花屋や床屋やパン屋など、いわゆるお店やさんの子は、お客さんから直接お代をもらう姿を見ることができるため、労働と報酬の関係を知っていることが多い。(略)

 反対に、お金を銀行からもらってくると答える子は、親が会社員で給料が銀行振り込みのケースが多く、割合としても多い。(略)

 子どもたちは、自分の目に見えないお金の動きを想像することができない。お年玉を銀行や郵便局に預けるとき、お札に名前を書こうとする子がいた。引き出すときに、自分のお札が分からなくなっては大変というわけだ。そんな子に、お金の役割や金融・経済の仕組みを説明しても机上の学問に終わってしまうだろう。

つまり効率的な現代社会は、「過程」の部分を省略してしまうため、かえって物事の本質的な理解を妨げるといえる。

安部司が指摘する、現代の「食」の問題点も、これと全く同じ構造を持っている。
すなわち、問題は、子どもたちが(大人も)、「その食べ物が、どのようにして食卓まで辿りついたか」という「過程」の部分を省略してきたことなのだ。
「安さ、便利さの代わりに、私たちは何を失っているのか。」という質問に対し、この本で主張されているのは「つくる人」「食べる人」の結びつき(互いに対する敬意)であり、食文化なのである。
「食べる人」のことを考えない「つくる人」は、ただ売るために効率のいい方法で食品をつくろうとする。「つくる人」のことを考えない「食べる人」は、罪悪感を覚えずに食べ物を残す。
「過程」の部分が見える時代には、「つくる人」と「食べる人」の結びつきは強かった。しかし、ファストフード全盛の現代では、とにかく無駄は排除される。自動販売機と同じ感覚で食品を手にすることができるから、「調理されなければ食品にならない」ということすら、理解していない子どももいるようだ。*1
食品添加物は、ある意味では、わずらわしい「結びつき」を断ち切り、生産者の労苦を軽減し、(何も知らない)消費者の満足度を上げる「魔法のクスリ」であった。しかし、「便利」の追求が行き過ぎると、あちこちに歪がでてくる、その典型的な事例が、食品添加物の問題なのだ。
以前見た「子どもたちの食」に関するNHKスペシャルでは、給食の大量の食べ残しにスポットが当てられていた。中には、配膳された半分以上を残してしまう子どももいた。彼らは、嫌いなものには全く口をつけず、家に帰っても家族とは別の夕食が用意されたり、などちょっと信じられないような光景が繰り広げられた。
食べ残しは全国的にも問題となっているが、一方で「食べ残しゼロ」の学校もある、ということで、その取り組みについても番組で取り上げられていた。その取り組みとは「学校菜園」であった。自分たちが育てた野菜は、誰もが残さず食べるのだ。
そういった経験で、「過程」を目にした子どもたちは、自分を取り巻く社会の仕組みに対して感謝の気持ちを覚えるだろう。そして、その「過程」を教えるためには、無理に屠場を見せる必要はない。例えば、料理をする親を見て、ときどきそれを手伝うなど、「過程」の一部にコミットすることで、想像力が養われる。
「いただきます」という言葉は、そういった「過程」への敬意があればこそ、出てくる言葉なのだと思う。その意味するところは、「生物の命をいただく」という気持ちでも、「つくってくれた人への感謝」の気持ちでも、どちらでもいい。しかし、そういう気持ちが湧かないとすれば、それは親の責任であるのだろう。
便利を追いすぎて、なくすべきでないものまで省略しないよう、現代社会に生活する大人は、十分注意しなくてはいけない。
(このエントリは、「という気持ちを持って、今日は、家族のために、料理にチャレンジした」というエピソードで美しく終わるはずだったのですが、いまだに実現していません。「ケンタロウおかず」の本はあるので準備万端なのですが・・・)

参考(過去記事)

*1:有名な話だが、魚の切り身がそのまま泳いでいると考える子どももいるとのこと。ソースはよくわからなかったので都市伝説の類かも。