Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

スガシカオの方程式(3)〜経験と感性と〜

以前引用したスガシカオ羽海野チカ対談の中で、以下のようなやり取りがある。

スガ「でも書いていることが自分にとって嘘だと、先が書けなくなる。思いつかないというか進まないというか。そこが想像と嘘の違いなんでしょうね。想像ならいくらでも書けるけど、嘘だと書けないんです。」
羽海野「私も同じです。お客さんって本気しか通じないので、想像で描く場面はファンレターでも全然触れられない。逆に『本気で思っていて恥ずかしいけど、これは山田さんがやっているんだから』って思いながら描くと『あそこがよかった』って言われる。だから本気しか通じないんだなって。」

用語が錯綜していてわかりにくいが、
 スガ・・・「嘘」 ・・・通じない/「想像」・・・通じる
 羽海野・・「想像」・・・通じない/「本気」・・・通じる
ということで、羽海野の「想像」はスガシカオの言う「嘘」と同義で話が進んでいる。
面白いのは、どちらも「経験していないと嘘になる」という言い方をしていないこと。
つまり、自分の感性というフィルターを通して本気で考えたもののであれば、それは聴き手、読み手に伝わる、ということが共通している。
ここまで書いて、YUKIもシングル「メランコリニスタ」のインタビューで同じようなことを言っていたのを思い出した。

■じゃあ詞の書き方も変わってきました?

YUKI:そうですね。ただ、フィクションでもノンフィクションでも、自分が感じてないことを書くということが一番よくないと思うんです。本当にいいメロディーに寄り添う日本語で、自分がちゃんとメロディーから感じていること。そこに忠実でありたいんです。自分自分っていう主張や、自我のために書くっていうことがなくなったから、こういう詞になっているんじゃないかなと思います。

ただ、実際には、こういった考え方は達観ともいえ、辿りつくのは、なかなか難しいようだ。
スガシカオの場合、一度、社会人生活を経ているという「経験」からくる余裕が、かなりのアドバンテージになっていると思う。
例えば、岡村靖幸は、デビューが早かったこともあり、高校時代までの「経験」と「感性」の貯金で、かなり長い間、曲を書いていた。第一期の復活時のロッキンオンジャパンで「休んでいた間、悔しい思いをしたことがない。」と言っていたのは、高校時代の感情の浮き沈みに比して、スランプ時に、人間関係から得た刺激が非常に小さかったことを指しているのだと思う。それは、当然、引きこもり気味になりやすい岡村ちゃんの性格によるところが大きいのだが、岡村ちゃんは、自分が「一般人としての経験」が少ないことに理由を求めた部分があったようだ。第二期?復活時に雑誌連載*1で、人生初の合コンに参加したりしていたのは、そういう経験の穴埋めをしたかったからなのだろう。つまり、岡村靖幸は「経験」を求めるタイプだったのだ。(結果として、なかなか感性を磨く方向に舵を取らなかった)
かなり邪推だが、最近は「街男」(普通の街に生活する人々)に作品テーマを求める田島貴男もデビューが早かった分、同様のコンプレックスがあったのかもしれないと思う。
しかし、スガシカオ、羽海野、YUKIの3人の達観から考えれば、実は、ものを創る人に必要なのは「経験」ではなく、社会や人間の動きを敏感に感じ取り、それを自分の方法で表現する「感性」なのだとわかる。

また脱線するが、安倍なつみの「素敵だな」事件の裏には岡村ちゃん的なコンプレックスがあったと思う。
つまり“一般人的な生活をしていない、ましてや通常の高校生活すらない自分たちには、通常の歌世界(通常の恋愛の感覚)は創ることができない”と思っていたのではないか
そのコンプレックスを解決するために、安易に他人の言葉を借りるのではなく、なっちは、もっと自分の言葉を、自分の表現を掘り下げる、つまり感性を磨く方向に行けばよかった。

とはいえ、やはり、デビューが早い人に比べれば、30歳近くまでサラリーマンをしていたスガシカオの「経験値」は大きな武器である。岡村靖幸の5倍も10倍も「悔しい思い」をしてきたことだろう。恨み節満載のファーストアルバムを聴けばよくわかる。
(まだ続く・・・予定)

*1:奇しくも、今回のシカオ特集と同じ『SWITCH』