Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

いじめ問題と「ブワーッといこうぜ!」

いじめ問題について、引用メインで少しだけ。

「逃げる」という選択肢を提案する人が増えていると感じる。いいことだ。武田鉄矢や石原や曽野綾子戸塚ヨットスクールの校長みたいな考え方の人間ばかりだったらやりきれない。

kmizusawaさんのいじめ問題に関する意見には、後編も含めて、ものすごく共感できる。
「逃げる」という選択肢の提案は、例えば宋文洲のコラムでもあった。

 日本には、声を出して叫びたくても、それを封じ込めてしまう「空気」があるのです。いくら声を上げても、戻ってくる答えは想像できてしまうものです。それは、

 「頑張ってみなさい」。

 もし自殺した少女が部活の人間関係がつらくて「辞めたい」と思っていた時に、「そう。つらいなら、辞めなさい」とか「学校を変えてみる」と逃げ道を与えていたら、状況はどうだったのでしょうか。

島本和彦の漫画でも、こういう名ゼリフがあった。

矛盾して聞こえるかもしれないけれど
「逃げる」ことが唯一「前に進む道」であることがあるわ
ただし、その道は なぜかバカな男達の目には見えないのよ!!
(『ゲキトウ』1巻)

勿論、そう簡単に逃げたり、逃げ続けたりすることはできないし、逃げることが全てを解決するわけではないが、選択肢の一つとしては常に考えておかねばならないことだろう。
また、いじめが「いじめられる人」の視点だけで語られるのはおかしく、「(直接的に)いじめる人」さらには「それを見ている人」の視点でもいろいろな対処策が必要であると思う。
そういう意味では、同じkmizusawaさんの以下の意見も重要だろう。

いじめられた側が言うだけではなく、目撃した人がこそっと「報告」してもいいと思う。直接介入できなくても誰かに知らせることはできる。なんでもかんでも「告げ口だ、汚い」になってしまう風土も問題。

自分自身を振り返っても、「見ている人」としていじめに加担したことどころか「いじめる人」だったことも、やはりあるとしか言えない。
そのとき自分がどうすればよかったのかを考えても、簡単に「こうすればいい」ということは言えないが、自分を含めた世の中の人が、当事者意識を持って、いじめについて少し考える機会が増えるだけでも、ちょっとは前進するような気がする。
そんな朝、たまたま見ていた「かいけつゾロリ」のエンディングテーマ「ブワーッといこうぜ!」のサビ前の歌詞に引かれた。

やってやれないこともある
でも やらなきゃやれないことばかり

夢を持って頑張っていこうというテーマの歌なのに、一旦「やってやれないこともある」と認めるところが素晴らしい。
しかし、「でも やらなきゃやれないことばかり」と、いじめ問題に関わらず、世の中トライしなければ解決しないことばかりだ。
などと感心しつつ、このあとの歌詞の展開に期待しながらサビにいくと

ブワーッといくぜ ドワーッといくぜ
グワーッとガンガンいくんだぜ

が二度繰り返されて、かなり気が抜けてしまった。
まあ、子供向け番組のエンディングテーマに人生訓を求める自分の姿勢が間違っているのだが、歌なのだから「とりあえず頑張る」という能天気な前向きメッセージでも、それはそれで意味があるだろう。
〜〜〜
一方で、いじめ問題について議論どころか研究も進んでいるはずの文部科学省のこれ。

いじめを原因とする自殺予告文書の公表及びお願いについて(文部科学省)

は、ちょっといただけない。文部科学省なりの「ブワーッといこうぜ」なのかと思ってしまった。ダウンロードしてどう使えというのか。
あまりに気が抜けてしまったのでイチイチ批判もしないが、「いじめている人」「見ている人」そしてその親、その誰もが、この文章を当事者感覚を持って読むことはできないと思う。また、みんなに助けてもらえると実感・安心できる「いじめられている人」も皆無だろう。つまり誰にも伝わっていないメッセージなのでメッセージとして成立しないと思う。ダウンロードして印刷された「お願い」は、誰も見ない教室背後の掲示板に貼られるだけで終わるに違いない。