Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

香山リカ『テレビの罠―コイズミ現象を読みとく』

2005年の衆院選での、「想定外」の自民党圧勝に対する困惑について、なぜ、このような現象が生まれ
たのかを、多くのテキストを引用しながら論じた本。

小泉劇場」とは何だったのか。誰が「小泉劇場」を望んだのか。そこにプロデューサーや演出家は存在したのか。もし存在したとすれば、それは誰だったのか。この「劇場」で踊った人や集まった観客たちは、どうなっていくのか。これから考えてみたい。
P18

テレビの罠とは何か?

まず、4章までで、簡単に「テレビ(マスコミ)悪玉論」と、悪いのはマスコミだけではない、という「マスコミ−大衆共犯論」を、田原総一郎森達也の文章を引用しながらおさらいする。

もし小泉さんがポピュリストなら、自民党は負けていましたよ。あの総選挙は小泉さんが世論に迎合したのではない。強いて言えば世論が小泉さんに迎合したのであり、もっといえばマスコミが完全に世論に迎合したんです。
P90(田原総一郎の文章の引用)

ここで、田原総一郎が説明する「小泉劇場ポピュリズム」については、香山リカは否定的である。
具体的には、大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』を引いて、政治のショービジネス化という、新型のポピュリズムにあたるとしており、いわゆる「B層」の問題を例に出している。*1
これら、小泉劇場に関する議論を一覧した上で、精神科医としての立場から、ラカンフロイトの名を挙げて、「自他未分化幻想」を「犯人」のひとつとして挙げる(4章)

つまり、この自他未分化の幻想を生む素地となっているのは、人格的な成熟度の低さというよりは、もはやその幻想でしか打ち消せないほどの強い不安ではないか、と私は考えたのだ。人は「自分の心にも不安が巣食っている」という現実を否認したいがために「コイズミに投票すれば私もコイズミ」というあまりにも原始的な幻想にすがったのである。そこには「小泉首相なら私に何かしてくれるのではないか」という程度の客観性さえ、存在していない。
P131

かくして、ニートやフリーターたちまでが、格差拡大路線の自民党を支持することになる。ケインズの「美人コンテスト」、ラカンの「想像界の機能」が引かれているが、不安な現代社会の中で、誰もが勝ち馬に乗りたがっているのだ。
この本の結論としては、「大衆」側の“社会の欲情”に、「マスコミ」が“善意”で応える共犯関係の中で、結局、「権力」を強化する方向に働くことを促進する装置としての役割を「テレビ」がいつの間にか担っている、といった感じだろうか。

テレビは、スポンサーのためにでも、権力者のためにでもなく、視聴者のためにある。この真理は昔も今も変わらない。しかし、「視聴者」は変わったのだ。「権力対庶民」、「知識人対庶民」の対立の構図がなくなって社会がフラットな世界になった今、「視聴者」は、時によってはコイズミ劇場に快哉を叫び「権力」と一体化していたり、時によっては(略)「権力」を攻撃する側に回ったり、自在に変幻する存在となったのだ。
ここにこそ、「テレビの罠」はある。
P198

なお、最後に、不安を打ち消す「超越的で断定的な声」として小泉劇場以降に「視聴者」が求めるものということで、テレビを席巻する占いブーム(いわゆるスピリチュアル系の番組)についても述べられている。この繋がりも感覚的には納得できるだけでなく、近作へのイントロダクションになっているところが素晴らしい。

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不満点(1)ポストモダン論についての消化不良

上記内容については、多くのテキストが引用されており、小泉劇場の総括として上手にまとめてあり、お得感があるだけでなく、香山リカの結論もかなり納得できるものとなっている。
ただし、それまで出てこなかった現代思想の用語が飛び交う6章、7章は煙に巻かれたようで嫌な感じだ。これは、6章で若手論客として鈴木謙介(1976年生まれ)や北田暁大(1971年生まれ)の日本の現状についての楽観論を否定してみせた手前、思想的に踏み込んだ議論をせざるを得なかったという事情があったのかもしれない。
しかし、ポストモダンネオリベラリズム、さらにはデリダやシジェクなどについて、半ば知っていることが前提となっている文章が、ここに入るのは、やや唐突である。もう少しレベルを下げた説明が欲しかった。
・・・というのは甘えだろうか。

不満点(2)弱気で、論理的でない文章の構築

また、相変わらずの「香山節」というか、弱気なリベラル発言にイライラするところも多かった。
いつも思うのだが、この人の意見には共感できるところがかなり多い。にもかかわらず、奥歯に物の挟まった物言いには、逆に自分を、反・香山という姿勢にさせてしまう。
たとえば、以下のような言い方。

佐藤氏の仮説に従えば、今回の選挙で「負け組」に転じた民主党が、自らへの「優しさ」「いたわり」を求めてファシズム体制の成立への片棒を進んで担いでいるように見えなくもない。万が一そうだとすれば、状況はより深刻だ。
P136

かなり最悪の文章である。
「仮説に従えば」⇒「見えなくもない」⇒「万が一そうだとすれば」という流れで導かれる「状況は寄り深刻だ」という説明を、どう納得しろというのか。「煽るテレビ」と「煽られる大衆」を題材にした本の中の文章としては、あまりに不用意な論理だ。ただ不安を増加させるように煽っているだけだ。
ヒトラーに愛された作曲家」ワーグナーを好む小泉元首相を「ファシズム」という視点で読み解く第5章は始終この調子である。「〜だとしたら〜なのかもしれない」が連発される歯切れの悪さには、小泉嫌いであっても、彼を擁護したくなるというものだ。(香山リカが狙っているのが、あくまで“B層”だ、というのであれば、それはそれでもいいのだが。)
ということで、大事な部分については、もう少し慎重で緻密な論理を組み立ててあればいいのに、といつも思ってしまうが、そういうところを突っ込みつつ読む、というのが、香山リカの読み方なのかもしれない。

不満点(3)解決策が提示されない

不安を煽って解決策がほとんど提示されないのは、いつものことだが、特にこの本は顕著。
あと一章くらい追加して、もう少し「明るい未来」を描いてもいいのでは?

まとめ

社会的な現象を、テレビ的な視点から、わかりやすく読み取る、という香山リカの視点は、相変わらず冴えている。しかし、それが「視点」だけに終わるのは勿体ない。時間をかければ、あともう少し、いい内容になるのじゃないか、と思うこと半分。でもこれくらいの軽さがちょうどよいのかと思うこと半分。というのが感想。

*1:B層問題の元となったマル秘文書はコチラ。http://tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf自民党が戦略的に、「低IQ」である「B層」をターゲットに絞ったプロモーションを進めていた、という内容。自分は「A層」「B層」のどちらにみなされているのか、疑心暗鬼になってしまう怖い文書。