Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

僕のカラオケ論(2)〜僕の「世界音痴」

実は、自分には、カラオケに対する苦手意識がある。
今回は、その苦手意識について、ちょっと説明したい。
〜〜〜
前に感想を書いた『2週間で小説を書く!』を読んでいて、以下のような文脈でカラオケ現象という言葉が出てきた。

カラオケルームに行くと、誰かが歌っているときに他のみんなはおしゃべりしていたり自分の歌いたい歌を選ぶのに没頭していたりで、歌声に耳を澄ましている人はほとんどいない。これは「カラオケ現象」と呼ばれているが、小説の場合もそれと同じで、書きたい人はみんな書くことばかりに夢中になっていて、他人の小説を読む余裕がない、

すなわち、大勢集まっても自分のことだけに夢中になるという点が、カラオケの典型的な問題点として捉えられているのである。
わかる。わかるのだが、これは、自分が考えるカラオケの問題点=カラオケを苦手とする理由とは異なる。そして、以下の問題点こそが、カラオケの持つ、非常に「日本的な」性質だと思っているのだ。

それをひとことで言えば、カラオケの場で、しばしば生まれる、「場を盛り上げることを何より優先する同調圧力」であり、「空気」である。自分には、その「空気」がひどく不快だ。以下、僕が苦手とする人たちを具体的にイメージしながら、その「空気」について説明を試みる。*1
一部の人は、カラオケで盛り上がる定番曲がかかることが何より嬉しいようだ。(これは共感できる。)
さらに彼らは、皆が一緒に声を出して歌い騒ぐのが楽しいようだ。(自分もそういうときはある。)
しかし、その流れから、盛り上がりを強要する雰囲気が生まれると閉口する。
それは、例えば、自他を問わず、選曲タイトルが明らかになったときに「なぜ、場の雰囲気を読まない選曲をするのか?」というような無言のメッセージが流れるときに強く感じる。
「一緒に声を出して歌い騒ぐ歌」を知らない人を、奇異の目で見るときに感じる。
一曲一曲が終わるときに、それまでの静けさを破って割れんばかりの拍手が鳴り出すときに感じる。
そして、無理やりのタンバリンに感じる。

彼らは、カラオケ=盛り上がるもの⇒盛り上がらなくてはならないもの、と思っているらしい。自分にとっては、カラオケ=楽しむもの、である。前者は、気持ちがなくとも場だけを取り繕うことができる(故に取り繕わなくてはならない)が、後者は気持ちがついていかなければ意味が無い。

別の言い方をする。特に学生時代は、いわゆる「飲み会」が苦手だった。苦手な理由は、上述したカラオケの構図と全く同じである。飲み会=盛り上がるものと考える人が多数の場合、自分自身は、その飲み会をあまり楽しむことができないことが多い。自分は、場の「盛り上がり」に、素直に乗れないのだ。
「“盛り上がる喋り”こそ善」という論理は、テレビのバラエティ番組に顕著に見られるが、それはテレビの事情だろう。*2その論理が、そのまま非テレビ世界に持ち込まれ、「面白い返し」をする人、他人の失敗話などの「ネタ」を沢山持っている人が偉い、という空気が宴席を覆うことがままある。。
これが嫌なのは、「人間」よりも「ネタ」が優先されるからだ。さらに言えば、この雰囲気が、喋りが苦手な人がさらに喋れなくなるメカニズムを内蔵しているからだ。自分は、話が得意な人の笑い話と同様に、喋りが苦手な人の話を聞きたいと思っているので、その邪魔をしてくれるな、と思ってしまう。また、大概の人は自分から安易に話題を振りにくくなり、「面白い」人の独壇場になる。
会議でもそうだが、大勢の人間が集まる場で、一人一人の意見は求められていない。ましてやそれらの意見のすりつけが会議の中で行われることはない。全員が同じ意見に賛成して、「一致団結」してことに当たることが求められる雰囲気になる。ひとりひとりがそう考えているかどうかは別として、「そういう雰囲気」になる。これは日本の文化なのかもしれないと思ってしまう。

さて、カラオケに話を戻す。
ひとりカラオケを趣味とする人間が言うのもなんだが、自分は、他人が歌うのを聞くのも好きなのである。特に、普段寡黙な人が、持ち歌的な歌を、楽しみながら歌っているのを見るのが好きだ。そして、そういう歌のなかに、“もう一度聞きたいなあ”“いい曲だったからCDを借りてみよう”と思うものがあれば、その一曲だけで「カラオケに来てよかった」という感想を得るだろう。(そういう意味では、知らない歌を聴く方がスリルがあって面白い)
歌には誠実さが表れると思ってしまう。最低限の音程が取れていれば、歌の良し悪しは、技術的な巧拙とは無関係だ。歌い手の思い入れよりも、一般的な認知度を選曲時に優先させ、歌は聴かずに拍手だけはする「盛り上がり派」の言動は、その「誠実」を踏みにじる行為に思えるのである。
自分の中では、参加者一人一人が楽しむということに比べれば、場が盛り上がることは非常に優先度が低い事項である。飲み会も然り。
自分を失くして「盛り上がる曲」を歌うよりも、自分が好きな「楽しめる曲」を歌いたいし、歌ってほしいのだ。カラオケは、飲み会と違って、喋りの得意でない人でも、必ず自分の「出番」が回ってくるという意味で、弱い人も楽しめる娯楽である。(野球に似ている)
その「出番」を、ひとりひとりが自分のために使った方が「盛り上がる」かどうかは知らないが、全体としての満足度が高いと思う。
(と、何がしか矛盾を抱えた、理想論的なものを書いて終えるが、問題は、自分の嫌いな「盛り上がり派」が、自分の心の中にも存在することだなあ・・・。)
(つづく)

*1:先日参加したオリジナル・ラヴ限定カラオケなど、趣味が近い人が「縛り」を入れて歌う場合は、下記の意識は生じない。というか、あれはあれで選曲に伴う緊張感に欠けるかもしれない。(笑)

*2:テレビは、考える余地を与えない。沈黙をひどく嫌う。