Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

曽野綾子『貧困の光景』

貧困の光景

貧困の光景

「光景」というのは、価値判断が含まれていない客観的な言葉である。冒頭の文章を読むと、それが、作者のスタンスをそのまま示していることがよくわかる。

・・・私の見た個々の貧困の姿を改めてまとめておくことは意味があるようにも思えるようになった。なぜなら、日本人の(或いはアメリカ人の)考える貧困を救う方法はあまりにも観念的で、貧しさの本質に迫りにくい。(略)
私は道徳的に貧困を描くことだけは避けることにしよう。それは却って無礼なことのような気がするからである。

海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)という組織を主宰し、その活動内容について描きながらも、「世界を救うために、是非みなさんの手を貸してください」という方向に話が微塵も行かない、というのは、なかなかできたものではない。そういう意味では、タイトルどおり「光景」を描くことに徹した本であるといえる。
しかし、一方で、この本の読みどころは、作者の主観が隠すところなく現れている部分だろう。世界の貧困の状況を目の前にしてしか判らないような思いが、何度も出てくる。それは、むしろ「差別的」なものであり、貧困国の無知・無理解への嘆き、政治状況への絶望感といった、「救済」とは逆ベクトルのものであり、通常、それを目にしてもなるべく触れないように扱われる部分のものである。
例えば、現金や物の提供について、通常は以下のような説明をされる(されない)場合が多い。*1

現金や物を提供する支援では根本的な問題解決にはならないという経験から、チャイルド・スポンサーシップでは、長期計画に基づいたプロジェクトを実施しています。

このHPでは、「それ」が書かれていないのだが、「現金や物を提供する支援では根本的な問題解決にはならない」のは何故か?
先日読んだ『世界から貧しさをなくす30の方法』においても、自立を妨げるとか、地元の産業に悪影響を与える、などの説明があり、それはそれで理解できる。
しかし、『貧困の光景』を読むと、状況はもっと深刻であることがわかる。
本書内で何度も繰り返し話が出てくるが(それはつまりどこの国も同じ状況にあるということだが)現金や物の提供という方法は、途中で「消えてしまう」のが問題なのである。勿論「窃盗」の危険も多いが、そういうかたちであれば、まだ救われる。想定していた相手に渡ったとしても消えてしまうのである。

村の診療所には、脳炎で苦しむ子供がよく担ぎ込まれてきます。抗生物質さえ投与すればかなり助かるのだけど、費用がかかる。医師は、親に対して「カネを工面してこい」と言う。親は村に帰って、何とかお金をかき集め、三日後にやってくる。もうその時には遅いんです。子供は、一生、廃人として暮らします。私たちの組織で、費用を工面できない親のために基金を作ってはどうかと提案したのです。そうしたら、現地の日本人のシスターが「ムダです」と言う。「そんなことをしたら、まず医師が私たちの方から抗生物質代を取る。貧しい親の方からも工面してきたカネを取る。そして私腹を肥やして自分はベンツに乗る」と言うんです。

北朝鮮などの状況(援助物資のピンハネ)を見れば想像もつくことではあるが、絶望的なのは、こういった行為も一般的に許容されていることである。

この権力者が平気で金を盗む社会的構造は、それを許し、時には当然と考える民意と表裏一体をなしている。つまり為政者になるということは、前にも述べた通り、国家予算を私物化して当然と民衆が考えているのだ。(P175)

さらに、今回初めて知ったのは、支援する相手に行き渡っても「消える」場合があるということである。例えば、栄養失調の赤ちゃんたちに粉ミルクを支給する場合。

シスターたちは、二週間に一度親たちに赤ちゃんを連れてこさせては体重を測定する。順当に体重が増えていればそれでいい。しかしさしたる理由(風邪をひいたとか、下痢をしたとか)もなく体重が増えない場合には、援助機関は驚くことにミルクの支給を打ち切るのである。それは、こうした親たちが嘘をついて、もらった上等の粉ミルクを、一さじ幾らで村の市場で売り払っており、その金で上の子供たちに食べさせようと考えるからである。(P25)

この種の描写も繰り返し出てくるが、つまり、動けない赤ん坊よりも、働き手の子どもを食べさせる方が「燃費がいい」という考え方なのだ。親に食べ物を与えても、途中で消えてしまうという点では、「給食」のようなかたちをとらなければ、最後まで行き渡らない。
「募金活動では、最後の最後まで企画者とドナーの代表者が現地へ行って確認することが当然の義務であるはず(P174)」という、まさにその言葉を実践するために、作者は、世界の貧困国を訪れているわけだが、「最後の最後」という言葉の真意は、この本を読むまでは想像もつかなかっただろう。

アラブの諺には「明日のメンドリより、今日のヒヨコ」というのがある。明日の食料がない、というのではなく、今日から既に食べるものがないのだから、(略)痩せたヒヨコでも今日食べなければならないのである。
道徳が意味を持つのは、明日の食料、将来の生活の目安が立つ場合だけだ。汚職国家、汚職組織は、やがては国際的に見捨てられ、社会の孤立を招き、ひいては更なる貧困を呼び寄せるのだから、損をするのは、つまりあなたたちなのだと言われても、今日生きることが困難な時に、どうしてそんな理論を考えられるだろう、ということだ。(P202)

非常に暗い気持ちになる本だった。
それでは自分に何ができるか、という切り口は、本書内には皆無だったが、「貧困の光景」に対して、ある程度中立的なスタンスで向かう基礎ができた良書だった。

*1:ワールド・ビジョン・ジャパンの活動について、特に是非をいうものではありません。