Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ニーバーの祈りと岡村靖幸

スルーしようと思っていたコチラのニュース。(ファンとしてもなるべく一般の人の目に触れさせたくなかった)

これらに対する、「ファンとしての至極真っ当な反応」をkerokeroriさんがされていたので、これを少しだけフォロー(というかただの繰り返し?)すべくエントリを。

裁判対策かどうかは別として、今回の謝罪文とその後のライブ音源アップには、やっぱり自分も呆れている。

岡村靖幸は、今回が「3度目」の逮捕で、しかも、ニュース23で「覚せい剤との決別」を固く誓ったあとの逮捕とあって、半ば(再犯を)予想していたファンも、多くが諦めの境地に至ったのだと思う。「もうこの人は帰ってこないな」と。

そう思い込んでいる自分としては、MySpaceで見る「岡村ガンバれ!」「いつまでも待ってるぜ」的なコメントは、それ自体を否定する気はないが、やはりかなりの違和感を覚える。ドロドロした部分を除いた上澄みだけのコメントは、やはり「甘やかし」に見えてしまうからだ。
ただ、それ以上に違和感を覚えるのは「臆面もなく」*1それに応える岡村靖幸。本当に反省すべきは、ファンのニーズに応えられなかったことではないはず。真摯に向き合う必要があるのは、ファン云々よりも、誓いを守れなかった自身の心の弱さに対してだろう。(勿論、彼の復活をサポートして来た周囲の人たちに対しても)

自分の過去日記から、岡村靖幸2度目の逮捕時の文章を引用する。

僕自身、楽曲の背後にある岡村の成長や困惑に、自分自身を重ね合わせ、励まされたり、過去の自分を振り返ってみたりするわけだが、その一方で、岡村に対してもエールを送る気持ちが常にあった。「信頼」がある故に、岡村自身の「成長」を我がごとのように願った。そして、多くの人が同じことを思っていたからこその、数回に渡るファンによる自主イベント「岡村ナイト」の成功であったのだと思う。今回の復活は、長い空白期間を経てのものだったからというだけでなく、そのようなイベントや、複数のミュージシャンによるトリビュートアルバムに後押しされるかたちでの復活であっただけに、一ファンとしては、「人間」岡村靖幸の復活を心から祝ったのだった。
(中略)
勿論、ファンとしては、岡村靖幸の「弱さ」まで含めて好きなので、今回の事件を持ってファンをやめる、というようなことはない。しかし、ファンから同情されるような人間として彼が復活するのは絶対に見たくない。やはり、これまで通り、「スーパースター」としての復活を気長に待ち続ける、というほかはない。それに必要なのは、作品の質以上に、岡村靖幸の人間としての復活だと思う。

そして、今回、2005年と状況が同じであっても、同じ熱意で岡村靖幸を待てるはずもなく、半ば諦めている、というのが本当のところだ。
「謝罪文」と「ライブ音源提供」は、そういうファンの絶望をさらに深くするものだとしか言いようがない。

吾妻ひでお失踪日記』でも引用されているニーバーの祈り(平安の祈り)*2の言葉は、岡村靖幸にこそ届けたい言葉。

神様
私にお与えください
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを
変えられるものは 変えてゆく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを

今の自分は、「落ち着き」と「勇気」と「賢さ」を持てなかった岡村靖幸を、家庭教師ならぬ反面教師として、自分の糧にしていくことしかできない。
中村一義は「 ただ僕らは絶望の望を信じる。」と歌ったけれど、今回はとてもそんな気分にはなれない。「望」が小さくて見えないくらい「絶」だ。

*1:今回の状況に、非常に適した表現だと思う

*2:Wikipedia記事はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A