Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

遅れてきた「僕らの渋谷系」

一年以上前に、「渋谷系はいつ終わったか」というエントリを立て、この中で、「ピークだった1995年から1996年にかけての一年間で『渋谷系は終わった』」と結論付けた。しかし、実は、この結論は、自分の感覚とは少しずれがある。(笑)
今回は、この「ずれ」について、自分なりに考えてみた。


少し時代を遡ると、渋谷系というとまず取り上げられるフリッパーズ・ギターは1991年に解散しており、前回書いたような渋谷系の人気ピーク時期である1995頃から4年も前のことになる。
ただし、Wikipediaの解説を見る限りでは、実際に「渋谷系」という言葉が普及し出したのは、1993年頃の話であるようだ。

メディアとして、「渋谷系」という言葉が登場したのは『ROCKIN’ON JAPAN』誌1993年12月号のラヴ・タンバリンズへのインタビューが最初と言われる。当時は「渋谷モノ」と記載されていた。1993年当時『ROCKIN'ON JAPAN』誌に在籍していたロック評論家の田中宗一郎(「Snoozer」創刊者 現在エフエム九州BANG ON!!」パーソナリティー)が、「宇田川町の外資系CDショップを中心とした半径数百メートルで流通する音楽」を揶揄する意図をこめて命名したとされる。

ここからは、1993年当時の「渋谷系ファン」は、限られた人たち、いわば音楽エリート(?)であったことが読み取れる。
ここで言いたいのは、自分も含め、一般的な音楽ファンが渋谷系に目を付けたのは、フリッパーズ解散からかなりタイムラグを持った1994年、1995年になってからであり、1995〜1996年に終わることになる渋谷系の歴史の中では「末期」にあたる、ということだ。
こういったことは、イノベーター理論で説明される現象を地で行っていることになる。すなわち、「流行」の過程において、その社会を構成するメンバーは、以下のように分類され、フリッパーズ現役時からの渋谷系ファンを「イノベーター」、1993年頃からのファンを「アーリー・アダプター(オピニオンリーダー)」とすれば、1994年、1995年になってから遅れて「アーリー・マジョリティ」「レイトマジョリティ」がどっと押し寄せたかたちだ。

  • イノベーター(Innovators:革新者)
    • 新しいものを進んで採用するグループ。彼らは、社会の価値が自分の価値観と相容れないものと考えている。全体の2.5%
  • アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者)
    • 社会と価値観を共有しているものの、流行には敏感で、自ら情報収集を行い判断するグループ。オピニオンリーダーとなって他のメンバーに大きな影響力を発揮することがある。全体の13.5%。
  • アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者)
    • ブリッジピープルとも呼ばれる。新しい様式の採用には比較的慎重なグループ。全体の34.0%。
  • レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者)
    • フォロワーズとも呼ばれる。新しい様式の採用には懐疑的で、周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。全体の34.0%。
  • ラガード(Laggards:遅滞者)
    • 最も保守的なグループ。世の中の動きに関心が薄く、流行が一般化するまで採用しない。全体の16.0%。中には、最後まで流行不採用を貫く者もいる。

なお、渋谷系ファンの急増については、自分のように「アーリーマジョリティ」「レイトマジョリティ」に分類される人は、ほとんどが実感していると思うが、渋谷系の音楽自体の魅力というよりは、当時の邦楽シーンの特殊性が大きく影響していると考えられる。

90年代のオリコン年間チャート上位20位のタイアップの有無を見ると、91年、93年、94年、95年は全楽曲がタイアップ付き。それ以外の年でもノン・タイアップの楽曲はせいぜい1、2曲程度だ。
速水健朗『タイアップの歌謡史』P193

カラオケボックス施設については、施設数は1996年の14,810軒をピーク・・・
(カラオケ白書2007:リンク先に見やすいグラフあり)

強引に言うなら、1995年頃というのは、街にテレビにタイアップ曲が溢れすぎる一方、ブームが続いたカラオケも一段落(カラオケ疲れ)し、単純に聴いて楽しむ音楽に移行したい人たちが多かった時期なのではないだろうか。「僕らの渋谷系」は、「渋谷系」外の音楽からの影響が非常に大きいのだ。
この雰囲気に乗じるように、雑誌などで多く取り上げられたのも、1995年以降だったのではないかと記憶している。前回のエントリで指摘のあったように、FMステーションで1996年10月に特集が組まれたような「渋谷系とは何だったのか」的な特集が、渋谷系が「終わって」から延々と繰り返されることになる。そういう意味では、今でも渋谷系は終わっていない。
なお、10年を過ぎてもいまだに渋谷系の話が出てくるのは、その最盛期が非常に短かったことと無関係ではない。
たとえば、おニャン子クラブの活動時期は1985年から1987年までのわずか二年半であることを考えると、モーニング娘。も5期メンバー*1が入る前に解散していれば伝説のグループになったであろう。
ブームになりかけたときに逃げ水のように、渋谷系ミュージシャンたちが、そのシーンから離れてしまったことで、「僕ら」の渋谷系熱はヒートアップしたのである。
そういう意味で、1997年1月にトラットリア・レーベル*2のmenu111として発売されたカジヒデキ『ミニスカート』は、「遅れてきた僕ら」にとってはオアシス的な存在であったし、自分にとっては、これこそ「渋谷系ど真ん中」といえるアルバムであった。
つまり、「僕らの渋谷系」は、渋谷系が終わる頃にようやく始まったのだ。

補足

上記のような文章を、1年ほど前に、ある程度かたちづくったあとで、自分の言いたいことがすべて書いてある『ミニスカート』のCDレビューを発見し、自分の文章と見比べるにつけ、何だか恥ずかしくなってアップするのを忘れてしまった。

初期渋谷系の巧緻な(しかし無自覚な)シミュレーションであるカジヒデキは、その愚鈍な愛ゆえに「渋谷系」が何かしらオシャレなものを示す記号として流通していた時代の空気をリアルタイムで吸いそこねた「遅れてきた」世代にとって、その「遅れ」によってきたる劣等感を癒すための恰好の装置として機能している。

勿論、抜粋部分だけでなく、全体の文章が洗練されており、やや衒学的なレトリックも(その意味がわからなくても)自分にとって心地よかった。書いた人を見ると、はてな本などで名前をみかけ、id:originalovebeerさん経由で名前を知っていた鈴木芳樹さん(id:yskszk)ということで、やはり文章で飯を食う人は違うなあ、と思わされたものだった。
その鈴木芳樹さんが亡くなったということを複数のブログで知り、驚き、この書きかけのエントリを思い出した。
直接お会いしたことはなかったけれども、ブログで引用すれば、同じはてなユーザーであることもあり、本人も見に来てくれると思っていましたが、エントリアップが遅れたために、その願いがかなわなくなったのは本当に残念です。ご冥福をお祈りします。

*1:藤本美貴ら。紺野が復活とか・・・

*2:カジヒデキが元ブリッジであるという以上に、小山田圭吾がやっていたトラットリアというお墨付きは、なんだかんだいって、当時の渋谷系ブームの中では「効いた」はずだ。渋谷系は、血統主義なのだ。