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『松田聖子と中森明菜』で学ぶ80年代アイドル歌謡史

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

(前エントリから続く)
「なつかしや」での感動体験から3日後に、この本に出会ったという意味は非常に大きい。
出てくる楽曲のイメージだけでなく、その時代の雰囲気が、自分の心に残ったままだった故、何もなしに読み始めるのとでは、2倍は理解度が違う。文体も自分のツボに入り、久しぶりの至福の読書体験だった。
以下、いくつかのキーワードに分けて、本書の内容を振り返る。

アイドル革命

松田聖子中森明菜』というタイトルとは異なり、本書の内容のほとんどは松田聖子に割かれており、中森明菜の出番は少ない。むしろ、山口百恵についての言及が多く、ポスト山口百恵としての「松田聖子中森明菜」の時代について、松田聖子を軸として描かれた本といえる。
もっといえば、松田聖子の起こしたアイドル革命を中心に80年代の歌謡史を眺めた本といえる。

70年代末になると、アイドルという制度はいきつくところまでいってしまった。山口百恵が進めた自らの実人生とアイドル像を限りなく一致させる方向と、その対極であるピンク・レディーが進めた徹底した虚構化である。そして、二つとも破綻してしまった。
そのアイドルの荒野に、時代遅れの白いフリルの着いたドレスで武装した少女が挑もうとしていた。忘れていたものが蘇ったのだ。
松田聖子はアイドルの原点に戻った。
P95

なによりも、松田聖子以外には誰も、「1980年代のアイドル像」をイメージできなかったのだ。彼女だけが確信していた。信じる者は強い。迷える大人たちは、18歳の少女の言いなりになった。
(略)マルクスエンゲルスの思想をレーニンが戦略化してロシア革命を成功させ、ソビエト体制を作ったように、松田聖子は、アイドル革命に向かって邁進し、それを成功させ、体制を築くのである。
P93

つまり、松田聖子のデビューした1980年という年は、山口百恵が引退したことで、「アイドル」については一区切りしており、その次が待たれながらも、誰がそれを担うのかが全く未知の時代だったのだ。
そんな中、松田聖子が起こしたアイドル革命は、82年組(花の82年組)と呼ばれる中森明菜松本伊代小泉今日子堀ちえみ早見優、シブがき隊などによって盤石なものになる。
本書には、その過程が、一章=一年の構成で、ベストテンのランキングの動きやレコード大賞紅白歌合戦の状況とともにつづられている。1978年に始まったベストテンというテレビ番組は順位の根拠が明確という意味で、当時の歌番組の中では革命的だったようだが、その変動は読んでいるだけでも面白く、当時の熱気が伝わってくる。
また、レコード大賞の動きを辿ると、演歌の衰退とアイドルの興隆という80年代の構図がはっきり見えて興味深いのだが、その象徴ともいえるのが中森明菜レコード大賞受賞だった。

1985年にのレコード大賞中森明菜の「ミ・アモーレ」に決まった。もはやヒット曲としての演歌の延命は絶望的だと、日本作曲家協会が認識した年だった。大賞が演歌ではないのは、81年の「ルビーの指輪」以来、アイドルとしては1978年のピンク・レディー以来だった。
(略)松田聖子を徹底的に排除しようとしたレコード大賞に、松田聖子自身は、勝利することができなかった。*1
P299-300

こういった流れは、松田聖子中森明菜個人の力によるものではないにしろ、二人に焦点を当てながら見ていくだけでも、80年代の歌謡史の流れが伝わってくるのが本書の一番の見どころだ。
余談だが、1984年の紅白の演出には度肝を抜かれる。

松田聖子郷ひろみと、中森明菜近藤真彦の)四人を呼び、ペアでダンスを躍らせ、それぞれの関係について語らせ、続けて歌わせたのだ。
P277

しかし、年が明けてすぐに、松田聖子破局を迎え、4月に神田正輝との婚約発表に至るのだから、テレビ界の思惑を超越した、この人の「スターっぷり」は凄いことになっているのである。

松本隆という天才

本書の裏テーマは、歌謡曲における「作り手」の重要性についてである。松田聖子の場合も、さまざまなミュージシャンから詞や曲を提供されているものの、一番のキーパーソンは、松本隆ということになる。

ジャンルの違う分野での才能と、異なる個性を持つ二人が結びつくことで傑作を持続的に創造していった点において、「松本隆松田聖子」に匹敵するものは、ある時期を境に一緒に仕事をしなくなることも含めて、「黒澤明三船敏郎」しかいないであろう。
P305

黒澤明三船敏郎というセレクションには意表を突かれるが、実際、そのヒット曲群と、松任谷由美をチームに引き入れた功績*2を見るにつけ、松本隆あっての松田聖子だったという評価には納得だ。
また、こういった作り手についても、当時の競い合いがあったという話も面白い。
例えば、山口百恵南沙織のアンチテーゼとして登場し、その山口百恵のアンチテーゼとして松田聖子が、さらにそのアンチテーゼとして中森明菜が登場した(裏の裏は表、ということで、中森明菜山口百恵を継承した)のと同様の構図が、楽曲提供者側にもあった。つまり、ピンクレディや沢田研二で猛威を振るった阿久悠*3に対抗するかたちで、山口百恵阿木耀子・宇崎竜童チームが奮起し、松本隆松田聖子が君臨する中で、中森明菜売野雅勇芹澤廣明チームが、宇崎竜童チームと同様の「ツッパリ」路線で対抗する、という構図だ。(ただし、中森明菜には、松本隆のような長期にわたって固定のサポートはいなかったというのも事実だ)
70年代は阿久悠の時代、80年代は松本隆の時代(P273)と言われているというが、両者の果たした役割についても簡単に解説されている。

あくまで歌謡曲の枠組みの中でありながら、感情を垂れ流すのではなく、歌を完成された物語にしようと戦ったのが、70年代の阿久悠だった。
(略)
松田聖子を得た松本隆とその周辺の人々は、阿久悠の改革をさらに次のステージへと進めようとしていた。それが、物語を解体させ、イメージのみを提示し、歌詞から意味性を排除することだった。瞬間のきらめきを、三分から四分にわたって持続的に積み重ねる。それによって、じめじめして湿っていた日本の歌をドライなものにする。
(P154-155)

ここら辺の話については、作り手の側に軸を置いた本を読むと、また面白いかもしれない。松本隆対談集 『KAZEMACHI CAFE』などだ。松田聖子と縁は薄いが、筒美京平を軸にしても、まったく異なる世界が見えてくるのだろう。

作り手/歌い手

また、作り手と歌い手が異なる、ということのメリットについても、多くの考察がなされていて、長い間シンガーソングライターを好んで聴いていた自分にとっては面白かった。

流行歌の条件のひとつに、作り手(作詞者・作曲者など)と歌い手とが異なること、というのがあげられる。もちろん、シンガーソングライターによるヒット曲も数多くあるが、そこには限界もある。同心円的にしか歌が広がらないのである。
山口百恵は菩薩である』の著者である平岡正明によれば、作り手と歌い手とが異なる場合は「作り手と歌い手の角逐の中に大衆という巨大な第三者を吸引するのであって、大衆の欲望と誤解の総体を乱反射させて、歌手や作曲家を超えて勝手に一人歩きする」。
P37

ここでいう「流行歌」には「大衆」という舞台装置が大前提となっているが、それが希薄な現在は、やはり流行歌というものは出てきにくいのかもしれない。

「この歌手にこういうものを歌わせたい」という思いを、作詞家や作曲家が抱くかどうかは、歌手次第である。
謡曲の歌手に対して、シンガーソングライターと比較して、自ら作詞作曲せず、「歌うだけ」ではないかと批判する声があるが、それは的外れだ。歌謡曲の歌手は、曲の創作において重要な役割を果たしている。彼女・彼なくして、曲は生まれない。最初にその歌手の存在があり、その人が歌うという前提で新曲が生まれるのだ。(略)
松田聖子という稀有なシンガーを媒介にして、日本音楽会の最先端にして頂点にある才能が大衆と結びつこうとしていた。
前衛と大衆が結びついたとき、革命は起きる。
P224

そういう意味では、カバー曲というのは、あくまで歌い手の解釈にとどまり、ここでいう「歌謡曲」ほどには、作り手と歌い手が異なることによるダイナミズムが働かないといえる。このことからすると、作品制作に詰まった(もしくは飽きた)シンガーソングライターが、カバー曲アルバムを出しても、自曲を歌うのと同様、広がりは「同心円的」なものにとどまり、ミュージシャンにとっても「ひと休み」にしかならないのかもしれない。逆にいうと、シンガーソングライターである椎名林檎が、デビュー10周年を前にして、東京事変のサードアルバム『娯楽』で、全曲を他人に任せた(作詞は椎名林檎)のは、そういったダイナミズムを狙ってやっているのだろうが、正解であったように思える。
なお、このブログでよく扱うオリジナル・ラヴは、2006年にカバーアルバム『キングスロード』を出しているが、田島貴男本人がアレンジして歌うだけでなく、訳詞まで手掛けているという意味では、同心円状にすら広がっておらず、他のアルバム同様、自らの音楽志向をさらに掘り下げる作品になっていると思う。

中森明菜の不幸と80年代の終わり

はじめに述べたように、本書では、中森明菜については、それほど多くの言及はされないが、「孤独」「不幸」というイメージは一貫しており、それを大きく二つの切り口から語られている。

この時期(1985年前後)の松田聖子作品のほとんどを作詞した松本隆は、マンネリに陥らないように、一曲ごとに異なる女性像を描いた。ひとりにまかせたがゆえに、松田聖子作品は多様性を得た。中森明菜はその逆に、ほとんどの作詞家が彼女のためにせいぜい数曲しか書かなかった。彼らは一曲入魂の姿勢で「中森明菜らしい女性」を描いた。それが結果的に、歌の舞台や人物設定は異なっても、不幸と孤独を繰り返すことになった。
P295

蒲池法子が「松田聖子」とのあいだに常に距離を持てたのは、本名とはまったく違う芸名を持っていたからだった。彼女は本名と芸名を使いわけ、松田聖子を演じきっていた。そして、蒲池法子が演じている芸能人・松田聖子が、さらにアイドル松田聖子を演じていた。そういう二重・三重の構造にあったために、松田聖子は数限りないスキャンダルを受けても耐えられた。(略)しかし、本名を芸名とした中森明菜には逃げる場がなかった。それが、後に大きな不幸を招くのである。
P184

(1988年の段階で)中森明菜は虚構と実人生のバランスがとれなくなった。不幸や孤独はあくまで歌の中での話のはずだったのに、繰り返しているうちに、実人生にもそれが侵入し、彼女は混乱した。P312

固定したプロデューサーが存在しなかったこと、本名を芸名としていたこと(故に、虚構と実人生のバランスがうまくとれなかったこと)、これらが中森明菜をかたちづくる重要な要素だったという指摘は、本当かどうかは別として納得性が高い。実際のところ、1989年の、近藤真彦の自宅マンションでの自殺未遂事件というのは、中森明菜というアイドルの象徴であるように思えるし、事件の一因として、彼女が(アイドルという)虚構との付き合い方に長けていなかった部分が大きいと感じられるからだ
1990年代も、松田聖子中森明菜は活動を続け、活躍するものの、この本が扱うのは1989年までである。(実際には、松田聖子結婚の年である1985年までが詳細に書かれ、1986年〜1989年は、かなり駆け足で触れられるだけであるのだが)その、1989年12月31日、紅白歌合戦の裏番組として、中森明菜近藤真彦の記者会見が開かれているのは、1980年代の歌謡史を考えるうえでは、89年の8cmシングルCDの登場と同様、キーポイントになるのであろう。1990年以降は既に失われてしまった何かが1980年代には存在していたのだ。本書のラストは、以下のようになっている。

山口百恵引退で始まり、松田聖子が駆け抜け中森明菜が健気に生きた1980年代は、中森明菜の、あまりにも寂しげな笑顔とともに終わった。
それは、レコードとレコード針とスピーカーを通して、空気を振動させて伝わる歌の時代の終わりでもあった。

中島みゆきではないが、「時代」の終わりだったのだろう。「まわりまわって」「生まれ変わった」音楽は、90年代、ゼロ年代に、どのように繋がっているのだろうか。アイドルという視点を変えないかたちの続編を、是非とも読んでみたいものだ。
(書き切れていないこともあるので、あと一回くらい続くかも)

*1:1981年には、松田聖子田原俊彦に金賞(大賞候補)をあげたくないという理由だけで「二年目の新人」のためのゴールデン・アイドル賞が創設されている

*2:「ぶりっこ」批判など同性からの不人気を打ち破ったのは「ユーミン松田聖子を認めた」というお墨付きを与えた「赤いスイートピー」だったという。

*3:さらに遡れば、ナベプロへの対抗意識から、テレビの力でスターを作りだそうという『スター誕生!』が1971年に生まれ、その中心人物のひとりが、阿久悠だった。